尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年8月29日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』卷第十八「無量寿如来会第五之二」を解説された。
経典:「光明あまねく無辺の功徳を照らして、煩悩の薪を焼くこと」
煩悩はどうやったら焼いてしまえるのか。無量無辺の功徳が有ってはじめて煩悩を焼き尽くすことができる。
経典:「これを火に方ぶ。善悪の動揺するところとならず、」
「方」の前に、欠字が一文字あるはずだから、出家衆は調べろ。
「善悪の動揺するところとならず」。心は如何なる衆生による善行・悪行によっても揺らぐことがない。即ち平等心を以て衆生を対応する。仏菩薩の目には、衆生に善悪がない。善と悪の因果は衆生が為し、衆生がその苦を受けているのだ。善因を植えれば善果を得るが、悪因を植えれば悪果を得るのだ。よって、善行をするという良い人を先に度する、或いは悪を為した悪党だから度さないようなことはない。菩薩は因縁に鑑み、縁があれば度するが縁がなければ度さないのだ。大善人であろうと、大悪人であろうと、菩薩の目には全てが衆生、全てが因果業力によるものだから、衆生自身が植えた因果業力によって彼らに対し不平等に助ける心を生じることにはならない。菩薩は様々な方便巧妙な法門を以て異なった業力の衆生を助けるが、結論としては衆生を輪廻苦海から離れさせるよう助けることだ。
衆生救済に1997年から着手して以来、現在寶吉祥道場が寺院建立するに至っては、私は一度も功徳主を設けたことがない上、企業主への募金を目的とする募金活動団体も作っていない。全て、縁・業に従う。私の福報と業力が充分あれば、きっと衆生のお金が自然に寄ってきて助けてくれるはずだ。仮に、私の福報が足りなく、業力が悪であれば、たとえ衆生からお金が集まったとしても、不適合な人と出会うと、また裁き切れないほどのトラベルが発生するだろう。私は毎日寺院の費用に気を使っているとはいえ、全てが私個人の業と福報によるものだから、力を尽くしてするといい。
心が揺るがなくてはじめて、衆生の真実且つ本来の問題を見いだすことができる。数年前に、ある弟子のアメリカにいる妹に脳腫瘍が出来た(詳しくは衆生済度事跡第229号を参照)。手術のしようがなく、治療のしようもないと医者は判断した。私はその弟子に「アメリカにいては、どう助けようか」と言ったところ、命の為に、妹夫婦はそこそこ良い仕事、良い給料を諦めてアメリカから台湾へ引越した。この二人は、帰依して仏道修行してから、ここ20年は脳腫瘍が消えたと言えるし、いわゆる正常な家庭生活を送っている。10年前に、その夫が2,000万元(台湾元、以下同じ)の現金を供養に持ってきた。私はそれを受け取らずに、彼に持って帰らせた。彼は合わせて5回も供養に来ていたが、何れも私は受け取らなかった。5回目にしてはじめて私は供養を受け取らない理由を言った。
そのお金は彼が自分の家を売って得たお金だと言っていたが、その父親が供養について反対し、そのお金で土地を買えよと勧めていたのを、私は見た。仮に、当時私が供養を受け取ったら、きっと弟子の父親に口業(くごう)を造らせることになって地獄に堕ちる因を作っていただろう。その後、この弟子の父親も帰依し、当時確かに反対のことを言ったと認めた。
もし私がさきほど言った二節を為し得ずに、善悪を見て揺らぐのなら、もうお終いだ。既に一人の衆生を地獄に堕ちさせていたはずだ。10年前は2,000万元で豪邸が買えたが、私は受け取らなかった。数日前、この父親が亡くなり、これら数名の弟子とその他の家族が皆求めに来た。本来ならば、施身法法会になって済度させるつもりだったが、亡者の子供らが済度を求める心が懇切だったし、家族そろって仏法に対して充分な信心を持っているから、昨日、私は施身法を執り行ってその父親を済度させたのだ。
子供だけが、両親に早く福報を積ませられ、仏法による救済を得させるのだ。この父親の福報は子供らに植え付けられたのだ。その父親が事切れた時に片手が握っていたのを私は見たが、こんなことがあったかと彼らに聞いたところ、確かにあったと答えた。明らかに亡者はまだ死にたくなかったのだ。事切れそうになった時に、空気が吸えなくて緊張し、とっさに手を強く握ってしまったのだ。亡者は帰依していながらも、供養・布施を惜しんでいた。元々、三悪道に堕ちるはずだった。また、福報を蓄積させるように、当時2,000万元を受け取るべきだったという人もいるだろう。しかし、リンポチェは心が行き届いていて、その父親が生涯に終わりを告げた際の事だけではなく、その考え方をも見た。仮に、当日私が受け取ったら、その父親は息子を叱り始め、仏を誹謗するという口業(くごう)・地獄に堕ちる業を植え付けていただろう。この2,000万元を受け取った私も、責任を負うようになる。
凡夫では、リンポチェを見抜くことができない。「どうしてリンポチェはこうするのか。」どうしてもではなく、リンポチェは因果を知り尽くしている。もしリンポチェに能力が少しも備わっていなければ、法座に座る資格がなかろう。前回説いた「天眼出現」だが、どうして天眼に対しては出現するという言い方をするのだろうか。釈迦牟尼仏は、肉眼の場合に対しては特別に「発生」という言葉を使われている。生まれては、必ず肉眼が有って見えるわけではないからだ。生まれつきの盲もいれば、生まれながらにして見えない動物もいる。よって、「肉眼発生」とは、業力成熟あっての目だという事を指す。
しかし、「天眼出現」は考えれば有するようになるものではなく、過去世・今生の修行によって得られたものだ。天眼が出現すれば、「もろもろの仏土を鑑みる」ことができる。天眼があるから、仏土の真偽を鑑定することができるのではない。肉眼に見えたのは、ご自身の考え方・経験或いは覚受だから、虚仮だ。だが、天眼に見えたのは、そなたが心で見たのであって、視神経を通じて見たのではない。たとえ目を閉じたとしても、そなたはなお多くの現象が見られる。それは、目を開けた時に、数々の物を見た上、そのイメージを阿頼耶識(あらやしき)と末那識(まなしき)に保存したから、こうした記憶力があるようになる。天眼で見たとは限らない。天眼にもレベル差がある。仏の天眼だと、宇宙全体三千大千世界の隅々まで、見えないところがない。小さな昆虫ほどの小さい物も見え、天眼がなくては衆生済度し難くなる。
天眼はどうやって現れるのか。最初は、そなたの神識(しんしき)が次第に清浄になり、過去と現在における清浄でない物が段々と清められるにつれて、心の光が出現するようになる。心の光が出現すると、見えるのだ。皆さんが見た通り、菩薩の相にはおでこのところに目一つがつくが、同じく金剛部もそうだ。本物の天眼は眉間から見るのであって、そなたらが想像するように目を開けるとぱっと見えるのではなく、テレビのスクリーンを付けたように映像がゆっくりと映るのだ。意識してもっと見たいと思うと、映像が消えてしまう。何故なら、そなたの心が動いたから、無くなるのだ。それは私の経験から述べたのだ。というのは、天眼で見る場合、定の中でなければならない。天眼で見たのでなければ、99.9%それがそなたの幻覚・かつての経験と感覚なのだと言えよう。もちろん肉眼の神経がかなり発達する者もいるが、それは天眼に近い能力だが、天眼とは言えない。こうした能力を持つ人は、前世から持ち込んだ場合もあれば、今生で修め得た場合もある。
済度の話から、そなたらは上師が衆生に采配してあげるのは、僅か一年・二年・三年先のことではなく、その生涯に渡ることと思い知る。因縁があれば、なるべくその人に煩悩を断ち切らせ、善の因縁を蓄積させるよう助ける。こうしてはじめて、この衆生を三悪道に堕ちさせないよう、救済する機会が得られる。
経典:「心静につねに安きことなほ大地のごとし。」
心がどうして静かになれるのか。「煩悩が少ない」とよく一般では言われているが、実は煩悩が少ないというのではなく、心が煩悩に左右されず、静かで動かされず、大地のように安住することだ。ほら、地震の時以外、大地はほとんど動いていないだろう。
経典:「煩惑を洗滌すること清浄なる水のごとし。心に所主なきことなほ火のごとし。」
煩悩を何で洗滌するのか。仏法・法水で一切の煩悩を洗滌するのだ。煩悩を断ち切るやら取り除くやらの代わりに、煩悩を洗滌すると言うのはどうしてだろうか。それは菩薩乗においては、煩悩は菩提に転じることができるからだ。つまり、煩悩が仏法で洗滌された後、煩悩の本質が縁起性空ということから、空性である以上、本来、煩悩も清浄な水のように清浄なものだとされる。
心はとある物事に住することにはならない。ここで火を使って形容するのは、炎が一か所に留まることなく、ひらひら揺れ動くからだ。ここでは、心が止まらずに揺れ動くことを指すのではなく、心が火が燃えているように止まらないという意味だ。器具で火をとある空間に留めるのなら別論だが。ご自宅の酥油(そゆ)灯を観察すれば分かるが、炎は動いていないように見えるが、よく見れば炎の尖端が微細ながらも動いている。心が絶えず動いているのを指すのではなく、心が一つの念頭に執着して解き放さないことが無いという意味だ。心がとある念頭に執着し、手放さないと、煩悩が起きるようになる。煩悩が起きると、一切清浄なる仏法が、受け入れられなくなる。受け入れられなくなると、新しい悪業・善業を造りやすくなり、更に業に従ってそれなりの生活をするようになってしまうのだ。とあるポイントに、心が執着しなければ、きっとそなたは物事の正体を見極められるだろう。
まさに『金剛経』に、「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」(まさに住する所なくして其の心を生ずべし)」とあるように、心が動いたというのはとある物事に執着するのではなく、心が動くのは受動的なものを指すということだ。まるで鏡のように、人が鏡を見る時に、鏡に人の姿は映るが、人が離れると、鏡自体は一度も動くことなく、また姿もそこに映っていないのだ。心もそうだ。それは単に周りにあった全てのイメージが映るだけであって、心は一度も動いていず、とある物質に留まったりもしない。心が縛られたと思われる事は、それはそなたが想像したもので、そなたの片意地で、そなたが自分自身を変えられないことなのだ。「応無所住而生其心」について、多くの人々はその意味が分からない。心が起きなくては、どう念仏しようか。心が専念しなくては、どう入定するのか。それなのに、仏法ではそうはしないようにと要求している。何故そうしてはいけないのか。それは、そなたの心が動く事は、単に受動的で、心が元々動いているわけではないからだ。
六祖慧能が猟人の家を出て広州へお経を聴聞しに行く途中に、出家衆二人が弁論しているところを聞いた。一人は「幡随風動」と言い、もう一人は「風吹幡動」と言った。だが、六祖は加わって、「仁者心動」と言ったところ、高座に上がって説法していただくようになった。六祖は自然に言い出したものだから、皆が六祖を真似して言うと、きっと人に追い払われるに違いない。
心が動くのはそなたが動いているからだ。そなたが一切の事物と人を追求して動くと、心も清浄ではなくなり、物事が見通せなくなる。
経典:「世間に著せざることなほ風のごとし。」
俗塵の様々な物事に執着せず、まるで風のように吹いては消えてしまうものだ。風はあるか。ある。我らが娑婆世界に生きていては、間違いなく八風に絶え間なく吹かれるという意味だ。風が吹いたら最後、過ぎてしまうから、そなたさえ執着しなければ、それは消えている。しかし、風に執着し、もっと吹いて欲しいと思うと、八風に吹かれて心が動いたのだ。八風とは、褒められたり、凄いと言われたりするのが好きで、批判されるのが嫌いなことだ。気に入らないことを少し言われると、心が動き、瞋恚を起したりすることこそ、八風に吹き動かされたことだ。
この一節は、我々の心は俗世間の様々な好きや嫌いな事に牽引されないという意味だ。修法する際に、「遠離愛憎住平等捨」を唱えるが、そなたが行者にしろ、行者でないにしろ、それを遠ざけるべきだ。遠離とは、愛や恨みがないのではなく、人生八苦に必ず出てくるものだが、行者としてはそれらと距離を保つのを知っている。例えば、あそこで火が勢いよく出たとして、その火を消せないが、自分が火傷しないように、遠ざかって立ち、その熱さを感じないようにすることができるだろう。だから、愛と恨みを遠ざけて、心を平等に住し、平等に捨てるべきだ。一般の人は、愛を捨てたくなく怨みを捨てたい、或いは、愛を捨てて怨みだけ残すが、何れも間違いだ。愛と恨みを平等に捨てることだ。
経典:「もろもろの有情を養ふことなほ地のごとし。」
ペットや六道衆生を養えというのではない。生身を具備する我らには、七情六欲も必ず備わるわけだ。養うこととは、潤して成長させる意味ではない。ここでの養いとは、我々はその存在を知ることであり、生身がある以上、睡眠をとったり、ご飯を食べたり、水を飲んだり、楽しそうな話を聞いたりする必要がありながら、これ等の何れも有情で、有情こそ一切輪廻の根本だとされる。これ等の有情をうまく利用することができれば、却って我々を輪廻の根本から解脱させるよう助けてくれる。例えば、阿弥陀仏のみもとへ行くことに執着する場合、これは良い「もろもろの有情を養ふこと」だ。もし、何事に対しても、はっきりさせたいことに執着し、そうしてくれないと骨まで恨むようなら、それは地獄へ「もろもろの有情を養ふこと」なのだ。
この一節は、我々がこれらの有情を養うに際して、まるで大地を耕すように、肥沃な地・優れた苗があってはじめて良い果ができるという事を言う。仮に、この大地が肥沃でなければ、どうやって肥沃させられるというのか。慈悲心だ。「もろもろの有情を養ふこと」というのは、七情六欲を慈悲に、更に菩提心に転じさせることだ。享楽や自己満足の為に、有情を養うのなら、「もろもろの有情を養ふこと」にならなくなる。有情を養って慈悲に転じさせることは、耕す必要のある土地では、養わないと耕すことができないようにだ。何で養うのか。有情でだ。有情即ち慈悲だ。
経典:「もろもろの世界を観ずること虚空のごとし。」
心の中で、世界を虚空のように観ずるのだ。世界は単に地球に留まるだけではなく、宇宙に行き渡り、六道におけるどの世界も虚空のようにだ。仮に、そなたには宇宙に行く機会があったら、そこには惑星や衛星が動いていず、流れ星も目の前を通らないし、見渡した虚空はちっとも動かず、一面の紺色が広がり、果ても範囲も見えず、何もかもない所なのだ。
この一節は、この世界が実在するものと思ってはならず、どの世界も虚空のようであり、虚空は動かないでいるが、もっぱら惑星や世界が動いているという意味なのだ。惑星は永遠に虚空にあるのか。いや、絶えず変化し続けているものだ。天文学でよく言われている話が多数あるが、例えば、地球は数億年前から存在しているが、将来存在しなくなることこそ、世界はまるで虚空のようだという意味なのだ。
経典:「衆生を荷載することなほ良乗のごとし。」
菩薩乗を修める者は、まるで一台の優れた車のように、衆生を率いたり、背負ったり、担いだりするのだ。菩薩乗がなければ、衆生は生死を解脱したり、三悪道を離れたりすることにはならない。昨日、私に済度された弟子のように、もし私が菩薩道を修めていなければ、彼は三悪道を離れられようか。それは絶対に無理だ。彼は慳貪だから、餓鬼道に堕ちるに違いない。菩薩乗を修めることは、性能の良い車のようにあらゆる衆生の圧力を担うのだ。だから、リンポチェをすることは実は大変苦しいことなのだ。この車は、凡夫の身でありながら、あんなにも多い衆生を載せていては、いつか車輪が歪んでしまうだろう。だが、菩薩だったら、車輪は決して壊れることはない。
今年の「阿弥陀仏無遮大済度法会」は南港エキシビションセンターで執り行われず、帰依弟子のみの参列で、九月に我が道場で挙行する予定だ。寺院建立を護持した信者は済度を申し込むことはできるが、その場合は生涯に渡って菜食を貫く必要がある。それを承諾できない者は、済度リスト記入の申し込みが不可となる。菜食を約束する者に限って、累世の親を済度させる因縁・福報がある。(菜食の)約束をせず、名前を記入してしまうと、いくら私がその名前を言っても、済度させることにはならない。こうすると衆生が恨みを起し得るから、どうにも良くないのだ。なお、済度リストには累世の親のみにしよう。その他の、例えば怨敵・落された水子・近所のペットの鳥・不意に殺したゴキブリなどは書かないようにしよう。リンポチェは年を取っているから、私と直接にご縁がない衆生を済度させると、私は大変苦労し、私の生身を早く損害させる恐れがある。リンポチェは自分自身を惜しむのではなく、衆生済度するには命さえ捨ててもいいぐらいだが、教派ではこれからも私が推進しなければならない事がまだたくさんあるから、やむを得ず、済度の範囲を狭めるようにしたのだ。どの人も、必死に(済度リストの)名前を書いていて私の能力を試しているようだ。私には能力がなく、もっぱら阿弥陀仏からのお助けを頼っている。それに、阿弥陀仏も畜生道の衆生を、直ちに阿弥陀仏のみもとへ連れて行くことができなく、必ず人道を経て、人道で修行してから、阿弥陀仏のみもとへ行けるようになるのだ。
先ほど言った話で、充分に明らかになっただろう。その子女が上師を恭敬し、進んで供養することから、私はその2,000万元を受け取らなかったとしても、そのお気持ちがある分、その父親にリンポチェへの帰依、そしてリンポチェに済度される福報を植え付けさせたのだ。
経典:「世法に染まらざることこれを蓮花に譬ふ。」
たとえ菩薩が俗世間に入った上、する事が一般人と同様であっても、その心は汚染されない。例えば、商売をする私だが、貪欲に染まれず、誠実に商売をしている。儲けられたら儲けるし、儲けられなかったら儲けられないとするのだ。何とかして法の抜け穴をかいくぐって商売することなどしない。これこそ、汚染されないことだ。蓮は泥より出て泥に染まらず。蓮は泥から生えるが、開花する時、ちっとも汚泥がついていない。我々がこの五濁悪世に居ながら、種は汚染されたが、仏法の修行を通じて、開花の際にはちっとも汚染されていない喩えだ。何故なら、仏法が我々を綺麗に洗ったからだ。
経典:「遠く法音を暢ぶることなほ雷震のごとし。一切の法を雨らすことこれを大雨に方ぶ。」
これは神通がないとできないことだ。持呪・仏法を宣説(せんぜつ)する際、どんなに遠くいる衆生も聞こえる。法音は、雷が落ちて震動するようだ。雷による振動は、雷が落ちた雷鳴ではなく、法音はまるで空で落ちた雷のように、そなたらの心を振動させるのだ。私が持呪をして、六字大明呪の「吽」を唱えると、皆は心が震動したふうに感じるように、まるで雷が落ちたようで、「吽」こそ雷鳴だ。宣説された仏法を含め、良い持呪の法音は、雷の震動のようだ。何故震動するのか。そなたの心・それら悪の思想を振動させ、さらに現われないように暫く停止させて、心が比較的清浄になり、呪文が入られるようになる為なのだ。「吽」という音を聞くと怖く感じる人もいるが、それは業障が重いからだ。業障がさほど重くもない者には、それを聞くと、心がちょっと跳ねちょっと震動する。こうなったら、役立つのだ。人の心を動かせないで持呪する場合、それは単なる歌唱だ。だが、歌を歌う場合も感情さえ含めないのなら、歌唱にもならず、ただのテープレコーダーに過ぎない。だから、これ以上そなたの持呪は梵音だから、人と異なっているなんて主張してはならない。
『普門品』にある「悲体戒雷震」は、まさにこれについて言っている。観世音菩薩がこんなにも慈悲なのに、何故、雷を落として我々を驚かせるのか。それは我々を怖がらせるのではなく、そなたの心を降伏させるには、必ずある音調を必要とし、そなたに震動したのを少し感じさせる為だ。そなたの心が少し震動したら、次の一秒に、知覚がないほど短くはあるが、非常に短い間に念頭を持たず、定が現れるのだ。念頭を持たないその一刹那に、清浄なる呪文と仏法がそなたの心に入るようになる。いわゆる薫陶というものは、じっくりと時間をかけていくものであり、数日にして出来そうにないことだ。仏法もまさにこの観念だ。リンポチェに加持されたら、すぐ偉い者になると思ってはならない。リンポチェはじっくりとそなたを震動させていくのだ。しかし、そなたの心がだらしなく、膨大な垢に包まれていたら、何年間震動させれば開けてくれるようになるのか知れない。心の垢が厚すぎる場合には、絶え間なく、何回も聞く必要がある。聞いても分からないという人もいるが、何故、分からないのか。それは心が垢に包まれたから、聞いても分からなくなるのだ。今生で分からないが、数世後に「なるほど、私は悟った…」という人もいるかもしれない。一切の法は方便法で、一切の法はお互いに呼応するものだ。
「一切の法を雨らすことこれを大雨に方ぶ」。一切の仏法は、ご想像のような僅か一節や二節・三節ぐらいのことだけではなく、それは雨が降るように、虚空からざあざあと大雨が降るものだ。我々が気づいたことなく、感応していないだけなのだ。大雨とは、俗世間では雨でしかその形を説明することが出来ないとし、実はそれは仏の加持力とエネルギーが雨が降ったように止まるところをしらず降ってくれる様子だと定義される。何故、どさっと水をかけられたようなのではないか。それはどさっとかけられると、そなたは間違いなく眩暈がするから、雨のようにずっと降る必要があるのだ。修法する際に、日が出たり、雨が降ったり、雷が落ちたりするのは、何れも仏菩薩の加持力がやってきたからだ。数年前に、私がハンガリーで火の供養を修めた時、日が出たり、雨が降ったり、雷が落ちたり、雹が落ちたりした(詳しくはハンガリー法会へアクセスを)が、同時にこれ等の現象が現われたのは、きっと仏菩薩を感動し、法雨を降らしてこれらの衆生を洗滌されたのだろう。その場に居た人は、ちょっと雨が降ったと思ったのだろうが、この洗滌は、現世とは限らず未来世になるかもしれないが、きっとそなたに役立つ。仏法はご想像のように、そなたをすぐ別人のように変えるのではなく、コツコツと時間をかけていく必要がある。何故なら、業力は人それぞれだからだ。
経典:「光賢聖を蔽ふことなほかの大仙のごとし。」
生死輪廻を断ち切る行者らを遮られるほど、仏菩薩の光は強烈なものだ。「大仙」とは、漢の時代に翻訳に使った用語だが、実は仏のことを指している。
これ等のまるで輪廻を断ち切らせるよう加持するほど強烈な光を出される聖賢・行者は、その光がまるで仏の光のように感じられるものの、実は彼は仏ではなく、ただこの種の光が出るに過ぎない。
経典:「よく調伏すること大竜象のごとし。勇猛にして畏れなきこと師子王のごとし。」
仏法をよく利用して、調伏し難い衆生らを調伏する。数種類もある象の中で、「大竜象」が最も吉祥で、最も大きい象だ。
菩薩道を修める行者は勇猛・無畏で、まるで獅子王のようだ。勇猛とは戦闘力が高いことではなく、無畏とは死を恐れないことではない。菩薩はもちろん無畏だ。その勇猛・無畏は菩薩道を修めるためには、自分自身が如何なる苦痛・不平な待遇・損失を受けようと、決して後退せず、縮こまって妥協することなどしない。1997年、私が菩薩道を行い始めるようになってから、多くの事に見舞われ、それらのどの事も如何なる凡夫を恐怖させ・後退させるものだったが、菩薩道を行う者なら、そうならない代わりに、獅子王のように勇猛に邁進し、後退しない。
経典:「衆生を覆護すること尼拘陀樹のごとし。」
菩薩の福報・功徳力と威徳力は、衆生を庇われ・守られるが、悪業を為したそなたに対しては、いくら庇ったり、守ったりしたくても出来ないことだ。そなたが仏道修行する弟子だったら、その福報・功徳は、そなたをこれだけ多くの悪縁から離れさせるよう、守り、庇うことができる。「尼拘陀樹」のようにだ。この名詞について、調べる必要がある。
経典:「他論に動ぜざること鉄囲山のごとし。慈無量を修することかの恒河のごとし。」
人に批判されても、びくともせず、「鉄囲山」みたいに動じない。慈を修める心は、まるでガンジス川のように限りないのだ。
経典:「もろもろの善法の王としてよく前導をなすこと大梵天のごとし。聚積するところなきことなほ飛鳥のごとし。」
善を修める法王は先導とされ、大梵天の如しだ。菩薩道を修める者は、仏法や衆生に関わらない物を集めたり、累積したりしない。鳥が空に飛びあがると分散して飛ぶようにだ。大雁は一列になって飛ぶのが見られるとはいえ、彼らが巣に向かって飛ぶ際には、必ず分散して飛ぶようにし、固まりながら飛ぶことなどしない。菩薩道を修める者は、自分が財物を集めたいやら、功徳を蓄積したいやらと考えず、まるで飛んでいる鳥のような感じだという意味だ。
経典:「他論を摧伏すること金翅王のごとし。遇ひがたく希有なること優曇花のごとし。」
「他論」とは、仏法でない論点を指す。どうやって他論を摧伏するのか。仏法でだ。ガルダには打ち砕けない物はない。龍ですら、ガルダを見かけると逃げていく。
菩薩は優曇華のように、得難く希有で出くわし難いものだ。
経典:「最勝の丈夫、その心正直にして懈怠あることなく、よく修行す。諸見のなかにおいて善巧決定し」
「正直」とは、この菩薩は自分自身の全ての身口意が菩薩戒を犯さないと思う限り、必ずそれを実直に実行し、何かしらの原因で衆生救済の心構えを変えることなく、直ちに実行すると定義されている。懈怠とは怠けのことだ。
娑婆世界で菩薩道を行うに際し、様々な異なった知見があるだろうが、これ等の知見は、自分自身の累世が齎したか、自分が学んできたか、或いは人から与えられたかの可能性がある。そなたは、知見の中で善のほうに向けて巧みに決めて実行することを知るべきだ。
経典:「柔和忍辱にして嫉妬の心なし。法を論じて厭ふことなく、法を求めて倦まず」
心を柔らかにし、更に一切を忍ぶべきだ。忍辱とは、他人に優しくされても優しくされなくても忍ぶことではない。そなたは如何なる衆生に嫉妬せず、特に共に修めた同門の兄弟子のことをだ。
仏法を論じる際に、嫌気を差して聞きたくないやら、多く言いたくないやらと感じない。仏法を求める際にも疲れ気味に感じないのだ。私はつい二日間前に法王に法を求めたようにだ。
経典:「つねに勤めて演説し、衆生を利益す。戒は琉璃のごとく内外明潔にして、よく諸法を聞きて勝宝となす。」
常に仏法を宣説し、広大なる衆生を利益する。彼が守った菩薩戒は瑠璃のように内外とも綺麗にし、彼は善巧の心で一切法を聴聞して勝宝と見なす。
経典:「その説くところの言、衆をして悦伏せしむ。智慧力をもつて、大法幢を建て、大法螺を吹き、大法鼓を撃ち、つねに勤修してもろもろの法の表を建てんことを楽ひ、」
彼の説く仏法は、衆生を悦ばせ、調伏させる。物質ではなく、智慧や力を使ってだ。智慧の力を通じれれば、自ずと大法幢を生み出し、即ち有名になるのだ。「大法螺を吹き、大法鼓を撃ち」。自然にその説法を聞きに来る人が集まるし、常に楽しく、勤勉に「修してもろもろの法の表を建てんこと」をすることになる。法王は、今のご年齢に至っても、引き続きテキストの整理に取り組まれている。
経典:「智慧光によりて心に迷惑なく、衆の過失を遠ざけてまた損害なし。淳浄の心をもつて、 もろもろの穢染を離れ、つねに恵施を行じて、ながく慳貪を捨つ。性を稟くること温和にしてつねに慚恥を懐き」
智慧の光を持つ心なら、如何なる事もそなたを惑わせることができない。というのは、我々が如何なる事柄や、あらゆる衆生を見る際に、智慧清浄なる光を以て見ると、それに惑われないようになるのだ。さっき言った2,000万元の話だが、仮に私には清浄なる心がなく、貪りの心があれば、その父親の事を見通すことができなく、何故か貪念を起し、この衆生を地獄に堕ちさせるようにしていたはずだった。菩薩道を行うのは非常に大変だし、優れた乗り物のように衆生を載せるのだ。大菩提心を起していない人の場合、菩薩道を修めたくても、まったく可能性がない。自分が菩薩道を修めていると思いきや、衆生に危害を加えている。もし、あの時、智慧の心でこの事柄を見抜かなければ、念頭を起して2,000万元を受け取って、弟子に大福報・大功徳を植え付けさせたと思ったところ、実は、後に衆生に危害を加え、親子を不仲にさせ、家庭内で革命を起すようになってしまうなんて、これ等の何れも、私が望んだことではない。
私は1997年に衆生済度を始めたが、決して衆生を傷つける心がなく、専ら衆生に傷つけられている。私が菩薩道を行い因果を恐れるのでなければ、私の能力では、正直に言えば、現在持っているそれらは、とても財物とは言えない。だが、私の心が行き届きすぎて、貪念を起さないから、こんな事柄をよく見抜くことが出来ている。即ち、菩薩道・菩薩乗を以て、衆生を保護すると共に私自身をも保護した。真に菩薩道を行わなければ、衆生は私のせいで傷つくこともあるだろう。私が菩薩道を行っているから私を誤解し、私を傷つけようとする衆生もいるが、私は恨みの心を起すのか。いや、これが私の業力だし、彼自身の業力だからだ。
自分自身が上師になるのを願わないと良い。これは苦しいことだ。そなたらは素直になって阿弥陀仏浄土への往生を発願すると良い。人に仏道修行を勧めることすら難しいのに、況や仏法を教えたり広めたりすることをや。一般人なら実践するには勇気がないのだ。彼の為なのに、彼の為になる過程で、その意に従わないことでもあれば、すぐそっぽを向いたりするなどの事がよくある。菩薩道を行う事は、何もかも助けたり、全て親切にしてあげなければならない、そなたが望みたいだけあげることではないことをよく体得して欲しい。そうだったら、大象財神のように、目的や原因を問わず、衆生が望むだけ与えているが、結局、間接的に多くの衆生に危害を加えている。マハーカーラがその結果を見通した上、とうとうその首を斬りとって大象財神をさせるようにしたのだ。大象財神に大福報が有りながら、衆生を救済するには智慧が必要とし、智慧なくては菩薩道を行うのは難しいのだ。特に末法時代では、諸仏菩薩のご加護がなければ、順調に今生を過ごすのもとても難しいことだ。
多くの弟子が来られないのはどうしてだろうか。私が拒否したのではなく、全体の共業だ。どうして第二波の感染症が流行り出したのか。去年、新型コロナウイルスが初めて台湾に現れた時に、我々はパルナシャバリの真言を修めたから、早くも収束した。現在の第二波も、パルナシャバリの真言で抑え付けたが、このままでお終いなのか。いや、まだある。これも、弟子としてのそなたらがすべきことをちゃんとしていないせいだからだ。寶吉祥道場には千人強の弟子がいるが、誰もが心を込めて仏法を聞いて実践するのであれば、第二波がやってこないと私は信じている。そなたらがそれを聞かず、専ら安逸な暮らしを求めている。どうせリンポチェが凄いから、何から何までリンポチェに依存すればいいと思ってはならない。自ら実践せず、人が努力した成果ばかり待っていては阿弥陀仏のみもとへ行けようか。『無量寿経』で説かれた何れも、そなたらは誰も為し得ていない。為し得なければ、どう行けようか。釈迦牟尼仏は、常々言っているが、菩薩道を行う心構え・思想がどうのこうのと絶えず我々の注意を喚起し続けている。これ以上ご自身の事を思わず、自身を思うと菩薩道と関係が無くなるし、在家の者なら阿羅漢を修められない上、出家の者も阿羅漢を修められないから、このままでは、如何しようというのか。
いったん共業(ぐうごう)に曝されると、止められる人は居ろうか。外国のクーデターの情勢を見れば、本当に悲惨に思える。そなたらは比較的安穏で仏法が存在する所に生まれているなら、急いで修行という事に気を配るのが当然ではないか。そなたはもっぱら安逸な暮らしに気を配っている。リンポチェがそなたらを見捨てるのではなく、たとえ前述した「衆生を覆護する」があっても、そなたに保護される条件を持たないといけないのだ。衆生が話を聞かなくてはどう保護するのか。この範囲内だったら安全だよとはっきりと言ってあげているのに、そこから出ることに意地を張っているなんて、如何するつもりだ。だから、自分自身で決定付けるべきだ。死んではじめて懺悔に来ようと思ってはならない。
リンポチェがもう年を取っているから、今後誰が皆を済度させるのかという人がいる。確かにそうだ。私は既に70代で、十数年、二十年先があっても、その後誰が済度するのか。私はリンポチェという果位まで修め、弟子・道場を持っている上、寺院を建立しようとしているが、毎日少なくとも1時間以上修めている。そなたらはどうだ。そなたらはもっと時間をかけて修行するべきだ。少なくとも毎日30分或いは1時間は必要だろう。一歩でも間違えれば、この先は間違いだらけになるから、慎重に行うべきだ。挽回するには、多くの時間や精力をかけないと、無理だ。決してご想像のような懺悔で済むわけではない。懺悔はそれなり効き目があるが、挽回する段となると、決してすぐ出来ることではなく、決まった経過や過程を経なければならないのだ。
本日この段落を説いたが、菩薩道を行うことは単に口先だけではなく、菩薩戒を受けたら菩薩だというのでもなく、実践を伴う必要があるのだと、会得してもらえればと思う。実践するには、話を聞く必要がある。阿弥陀仏が主題なのに、どうして釈迦牟尼仏は菩薩にすべきことを多く言うのか。釈迦牟尼仏は、地球の人類に今生で菩薩道を修めて欲しく、機会があって菩薩果位を証することができれば、きっと今生で阿弥陀仏のみもとへ行ける、そのように願っているからだ。一人の菩薩が現われたら、きっと多くの衆生を救うに違いない。なるべく皆に聞き入れてもらいたい。物語を聞くつもりで、法会が終わったら、また好き勝手なことをしてはならない。
« 昔の法会開示 – 法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »
2021 年 12 月 21 日 更新