尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年8月22日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』巻第十八「無量寿如来会第五之二」を解説された。
経典:「受用するところよりもみな摂取することなし」
この段落の経文は、多くの仏典では説かれていない。極楽世界の菩薩は、福報が出るように修め得られたから、良い物の数々が出てくるようになる。それを受用することはできるが、摂取することにはしない。つまり、自分の物だと独り占めしないことだ。例えば、修法する為の道具を必要として使ったが、いったん、この法を修め終えたら、この道具を置くべきというように、この道具が必ず自分の物だと執着しなくなる。凡夫の境地では、摂取しないことは出来ないが、自分自身でそれを訓練しなければならない。六波羅蜜の一つ目に、供養・布施を教えている。即ち、捨てるという心を訓練するものであって、供養・布施を進んで行わなければ、何も捨てられなくなる。そうすると、事切れる際に、全ての煩悩・苦痛がその往生への差し障りとなる。地球で菩薩道を修めて少し成就を得られたら、一般人では受用できそうにない物を受用するようになるが、摂取はしない。例えば、この食べ物が美味しいとして、彼は毎日食べなければならないのではなく、因縁があれば食べるが、因縁がなかったら、良い物を食べていないなんて思わない。
菩薩道を修めることにより全ての福報を受用するのは、ごく普通で当たり前なのだ。よって、マンタ供養をする時に何とかの宝と言及されているが、菩薩果位・福報まで修め得られれば、あらゆる宝を受用することができるとされる。我ら一般人が思うように、行者なら何もかも要らないというのではない。もちろん出家衆だったらダメだ。出家衆が菩薩果位をまだ証していないなら、一般の在家衆と同様な品物を摂取し享受することができない。チベット仏教では、菩薩果位、証果まで修められた比丘なら、福報によって現われた全ての物を受用することができるとされる。
法王から聞いた話だが、かつてある行者がジッテン・サムゴンに、108種の品物を差し上げ、どの品物も100点あった。例えば、鈴杵100セット・鼓100点だった。これ等の供養物の列は、直貢梯寺からずらりと山麓まで続いた。これこそ、ジッテン・サムゴンが既に福報が出るまで修め得られた証であって、全てを受用することができるが、彼にとってはこれらの品物が欲しいわけではない。供養を捧げる者も、ジッテン・サムゴンの修行果位を顕彰される。何年も前だが、私がチェ・ツァン法王に青金石のお鉢を捧げたのも、法王の受用になる。昔、私は24Kの黄金で、重さ約3キロのジッテン・サムゴンの仏像を作って、法王に供養したことがある。これも法王の受用である。
多くの人は行者に対して間違った見解を持っていて、行者は当たり前のように苦労すべきだと思われている。苦労はするけれど、物質上のいわゆる苦ではなく、行者として受けた苦はそなたらが文字や言語で表せそうにないものだ。彼が受けた苦は、俗世間における様々な七情六慾というのではなく、修行する過程の中で、自分自身が生生世世に修行した中で生じた多くの差し障りと向き合うし、きっと今生にも差支えがあるが、これ等の障碍はある人達からみれば一種の苦になるが、菩薩道を修める者からすれば、それは苦ではなく、業報(ごうほう)・果報(かほう)の表れだと考えられている。
世間の人は、苦行する人を聖人のように見なしているが、その実、業力の現前の一つに過ぎないから、今生彼はこうして苦行するしかないのだ。ミラレパが母親に孝行する為に、苯教(ボン教)の法を修めて多くの親戚を殺したことのようにだ。仮に、彼は苦行を修めなければ、その業力を動かすに足る福報を蓄積することにならなかった。ミラレパ尊者は生涯福を享受したことはなかった。大成就を得られた行者とはいえ、福を享受していず、ずっと洞窟の中で修めていた。2007年、私がラプキ雪山で閉関修行した時に、ミラレパ尊者がかつて修行された幾つかの洞窟を訪れたことがあるが、本当に苦労する場所だった。そなたらが想像したように、快適に修めたりする場所ではない。洞窟らの一つは、小さくて真っ暗だったから、微塵たりとも光なく、真っ直ぐ立つと頭がぶつかる所だった。彼は一生涯苦行を修めていたが、これが彼の業力であったが、如何なる行者もこうした苦を経験しなければならないのではない。累世の福報によって、受用も異なるが、世間の人々は苦行すれば修め得られるとみな迷信している。実は、必ずしもこうなるとは限らない。
苦行していると思われるように、わざと穴の開いた洋服を着る人もいる。しかし、菩薩道を修めるのに最も重要なのは、どんな心が必要なのかにあると、はっきり説かれている。よくご自身に聞いてみよう:『宝積経』に説かれた阿弥陀仏浄土の菩薩衆が持っている心を、そなたは具備しているのか。そなたには無いに決まっている。そなたは持っていないが、学んでいるのか。学ばなければ、何の菩薩道を修めているのか。修行していると言えるのか。
皆さんは、仏法というものは内面へと修める事として、そなたのスタイル・外見・出来ばえを修めるのではなく、心を修めるのだという事を重視すべきだ。そなたの心には、前述した「不濁心・無忿恨心…」などがあるのか。実に修めている者は何人いるのか。『地蔵経』には「凡夫は起心動念がみな業であり、罪である」とあるが、それは我らが思っているのは上述した心とちっとも関係が無く、完全に接点がないからだ。接点がない以上、菩薩道を修めていないことになる。『無量寿経』には阿弥陀仏のみもとへ行くのが簡単そうに語れているように思ってはならず、阿弥陀仏のみもとへ行くと一生補処(いっしょうふしょ)になり、登録してある菩薩なのだ。菩薩には菩薩としての条件があり、六波羅蜜のほか、こんな心を修めるべきだ。もし、そなたの心は凡夫と同様であれば、菩薩道をどう修めようというのか。この一生が終わっても、凡夫のままで、依然生死解脱・生死自在することができない。何故なら、そなたにこんな心がないからだ。
今は出来なくとも、その方向に向けて修習することだ。持呪・礼拝・誦経の何れも我々にこんな心を少しずつ蓄積するよう育成しているのだ。53の心所(しんじょ)で犯しそうな殆どの癖に、修め得られたこれ等の心で対応すると、釈迦牟尼仏はこの段落を極めて細かく説かれている。「私は非常に奥深く大きな法を修めたい。」という人もいるが、どんなに大きくて深い法であっても、前述した心らから離れられない。「忍心・忍調伏心あり、等引澄浄無散乱心」。そなたらにしてみれば、いちばんひどいのは「散乱心」だ。唱えながら、むやみに考えているやら、座布団を離れるや否や思い始め、乱れ始めている。菩薩道を修めるとは、昼夜24時間とも修め、ナーローの六法に夢瑜伽があるように、寝ている際に、夢の中でも修めるもので、これこそ菩薩道という。昼間の間に、よく養成しなければ、夜になると、おかしい夢を見たりすることになる。出家衆なのに、今でもこんな夢が出ているのは、正に心が乱れ、心が充分に清浄ではないからだ。
「大威徳心・善心・広大心・無比心」。これらは菩薩の心だ。口先で持呪し、菜食して仏に頂礼すれば修行だと思ってはならない。修行とは我々の心を修めることであって、我々にこんな心を修め得させるよう、諸仏菩薩と上師に祈り求めることだ。開悟や神通を修めるのではない。密宗には、神通を専門に修める法門がある。しかし、神通を修め得られたとしても、悟りを開く為ではなく、衆生を済度する為なのだ。そして、神通があっても、悟りを開き、自分自身の前世・未来世が見られることにはならない。以前言ったそれらの心について、皆は繰り返して読むべきであり、それらの心に対して、自分がどれぐらい成し遂げたことではなく、どれぐらい修習しているのかを検証することだ。修習していなければ、自らを戒め、リラックスしてはならない。気を緩めると、こんな心が存在しなくなるし、そなたは仏法と菩薩道と無関係になってしまい、人天福報しか修めなくなる。たとえ、そなたには感応や福報功徳を少し修め得られたとしても、菩薩として備わるべき心を持っていないのなら、まだ菩薩道を修めているとは言えない。
リンポチェなら悩みを解決してくれるべきだ、それがリンポチェだと思う人がいる。悩みを解決してあげず、答えを与えなければ、どう学ぼうというのか。こんな考え方があるのは間違いだ。釈迦牟尼仏がこんなに多種多様な心を説かれたが、どう実践するかについては教えているのか。教えていないが、実践すべきだと言っている。皆は自分が学生で、リンポチェが先生のつもりで、先生であるリンポチェは、私に分かるまで教えなければならないと思い込んでいる。学校に通ったことがあるそなたは、学生だった時に、先生はいつもそなたに分かるまで教えていたのか。いや。何故分かるようになったのか。それは、授業が終わって、そなたが自宅で復習したり、宿題を書いたり、資料を探したりしたからだ。何故、仏道修行する場合にすれば、そなたに全部分からせなければならないのか。この心が無ければ、仏法はそなたと無関係になり、とにかくそなたには分からない。いくら聞いても分からない。何故なら、そなたはそなたの心、その清浄でない心にひたすら執着しているからだ。清浄な心がなくては、慈悲心があるのか。菩薩の心はそなたのと完全に違う。
経典:「肉眼発生してよく簡択あり、天眼出現してもろもろの仏土を鑑み、」
仏は慈悲深く五種の目の使い道について言い出された。我々が母胎に入ると、肉眼が伴う。もちろん、畜生道の衆生の一部は、前世に悪業をしたことから、今生で目が見えず、肉眼を持たないのもいる。ここでの「発生」とは、業力が成熟して、肉眼を持ち見えるようになることを指す。業力が成熟しなければ、肉眼があったとしても見えない。肉眼で見えることにより、我々を「簡択」することができるようにさせる。これは、智慧ではなく、我々の意識や身に付けた人生経験によって、自分自身が好きや嫌いな事を選択するものだから、漏れがあり、よく選び間違えている。肉眼で見られるのは限られ、肉眼で見たのは全て自我の意識によった選択であって、決して智慧・仏法と無関係なのだ。
天眼は修めることによって現われたものであって、開けてもらうものではない。天眼が現われると、一切の仏土を鑑定する資格がある。仏が説かれたのが本当かどうかを鑑定するのではなく、天眼があってはじめて一切の仏土の殊勝さ、一切の智慧功徳が中に具備されているのが見える。肉眼ではそれが見えない。こんなにも『阿弥陀経』を多く唱えてきたのに、何故まだ浄土が見えないのか。それは、そなたには肉眼のみで、天眼がないからだ。天眼があってはじめて見えるのだ。天眼はどうやって現われるのか。密教では、それについて教えられていて、修め得られるものだ。仮に、密法を通じない場合でも、心が非常に清浄になるまで修めれば、なお天眼は現われるとされる。「天眼出現」はお化けや衆生・菩薩を見させる為ではなく、ここでの「天眼出現」は、諸仏土が見えることを指す。釈迦牟尼仏の仏土は娑婆世界であり、善道と悪道が共に集まる場所である。地球には、地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道・人道・天道がある。仏土とは、阿弥陀仏の浄土だと定義されているとは限らず、どの浄土もそれぞれ違うのだ。
経典:「法眼清浄にしてよく諸著を離れ」
「法眼清浄」とは、心では一切諸法に対し縁起性空だということをはっきり分かり、空性を了解したら法眼が開くようになる。法眼は仏を見る為ではなく、法眼があれば大法師だの凄いだのでもなく、法眼が現われた人に限って一切の執着から離れられるのだ。まさに大手印で修める離戯瑜伽で、法眼が開き、六道輪廻における生死という遊戯を離れられることのようにだ。生死という遊戯から離れられず、有情衆生の執着から離れられないそなたは、輪廻を繰り返す。仏典によれば、輪廻を離れるには、法眼が清浄になる必要があり、こうしてはじめて全て執着・輪廻のことから離れられるのだ。
愛情を貪る場合、『地蔵経』によれば、情欲の強い者は地獄に堕ちるとされるそうだ。最初の頃、私はこの経文がよく分からなかった。愛情を貪らない人はいないだろう。欲望のない人はいないだろう。だから何故地獄に堕ちるのか。顕と密と分けて説明できるが、顕の部分は説けるが、密の部分は触れないようにしよう。愛情を貪る者なら執着心があるに決まっているから、執着する人はどうやって生死から解脱できようか。愛するにしろ、恨むにしろ、要るにしろ、要らないにしろ、これがあれば執着であって、即ち上三道に生まれることはない。執着する人は瞋恚・復讐の心が生まれる。何れもそなたを三悪道へと堕ちさせるのだ。たとえそなたは今生で阿弥陀仏を称名し、礼拝し、菜食するとしても、強い執着心があることから、死に際に差支えがあるようになる。それは、そなたの執着心が自分自身を妨げているのだ。
海外にいる子供がまだ帰っていないことで、死んだはずだった人が死なないでいたのを私は見たことがある。結局、子供が帰ってきて声をかけた途端に、事切れてしまった。息を引き取ったら、阿弥陀仏のみもとへ行っているかと言えば、いや、彼は子供の近くにいるままだ。何故なら、彼はこの子供を守り、面倒を見続けたいと執着しているからだ。彼には執着があってこの子供にくっつき、子供が良い事をすれば気に入るが、悪い事をすれば気に入らない。こういう状態だったら、この亡霊はこの子供を戒めないのか。我らだったら子供を諭すが、亡霊からの話では子供には聞こえられないから、亡霊がつい子供を律するようになった。そろそろ充分に律し、この亡霊の悪業も足るようになったところ、つい地獄に堕ちるようになる。
仏法は恋愛を禁止していない。前にも愛について触れたが、仏法でいう愛は自身の修行に役立つのを喜んで受け入れることとし、この人の何かに魅了されるのではない。私は彼を愛している。愛して、彼を有したい・独り占めしたいことこそ、前述した摂受だ。摂受すれば、心が執着する。心が執着すれば、法眼が開けず清浄にならないなら、執着から絶対に離れられないから、輪廻するに違いない。どうやって法眼を清浄にできるのか。簡単に言えば、上師の教えた通りに素直に聞き、自己流を作らない・手管を弄さないのだ。それに、私は修め得るのが無理だ、どうせ私はこうなんだ、しょうがないよ、いくらやっても分からないと思ってはならない。廣欽老和尚は非識字なのに修め得られた。落髪される前から往生されるまで、彼は生涯阿弥陀仏を唱え続けていた。彼は法眼が清浄になり、全ての執着から離れるようになるまで唱えられた。
執着を破るのではなく、執着から離れるのだ。法身菩薩になるまで修め得られていない間は、そなたには執着がある。修行・衆生済度・修める何かしらの法に執着がある。法身菩薩を修め得られてはじめてこの執着を破れるのだ。ここでの「諸著を離れ」というのは、距離を置くことだ。例えば、親友にヤクザがいれば、きっとそなたも彼と距離を置き、少し離れるようにし、必要がなければなるべく会わないようにするだろう。ここでは、わざわざ厄介事を見つけてこないように、という概念だ。とある物事にひたすら執着してはならない。執着し続けると、法眼が開けず、全ての仏法はそなたに役立たなくなる。
法眼は実在する目ではなく、文字を以てその位置が体のどこにあるかを形容することもできない。天眼と肉眼は、どの部位にあるか分かるが、法眼の場合だとわからない。法眼はどこにあるのか。そなたの心において、仏法に対する心が清浄かどうかにある。仏法に対する心が清浄になれば、自ずと仏法の清浄さがどこにあるか見極められるようになり、これこそ法眼そのものだ。また、もう一通りの解説があるが、世間における様々の物事は実在する物ではなく、常に変化し続けると弁えると、そなたの心は執着から離れ、法眼が開くようになるのだ。これは一つの形容詞であって、そなたの心に法眼が一個あるようになるわけではない。
経典:「慧眼通達して彼岸に到り」
智慧の眼が開くようになる。「通達」というのは、世間・出世間における様々な一切の法をよく分り、通達(つうだつ・仏教語・深くその道に達する意味)してはじめて彼岸にたどり着くことを指す。つまり、肉眼・天眼・法眼が備わったとしても、智慧がなければ阿弥陀仏のみもとへは行かれないという意味だ。智慧はどうやって来るのか。いわゆる根本智と後得智だ。如何なる衆生にも根本の智慧があるが、生生世世の貪瞋痴慢疑によって業が智慧を遮ったから、我らは今生で絶えず修行することを通じて後得智を得、それが我々の根本智に繋がると通達になるのだ。その後、輪廻の苦海を出て、彼岸に辿り着けるのだ。何故なら、慧眼さえ開かなければ、一切の執着を離れたとしても、依然一部の物事に執着はしているからだ。
むかし、ある出家衆が往生するに際して、仏菩薩からの来迎引接が見えなくなる心配があると思って、目をつぶることができなかった。これこそ慧眼がないことだ。私に加持されて彼は目を閉じて眠るようになり、その数日後往生されるようになった。仮に、誰も彼の慧眼を開かず通達させなければ、彼は阿弥陀仏のみもとへ行かれないままだった。何故なら、彼は自分の目で見たいことに執着していたからだ。先日も開示したように、夢で見たのもいれば、事切れた時に見たのもいる、そして死ぬ前から見たのもいる。何れもそなたの因果・修行に関わるのだ。自分が凄いから、どうしても見るぞと自惚れている人が多くいる。まず、自分自身にこれ等の心をちゃんと為し得ているのかと問うといい。阿弥陀仏のことを疑いなく信じ、あらゆる功徳を回向し、五戒十善を遂行し、多くの福徳・因縁を蓄積し、浄土往生を発願すれば、間違いなく往生できるから、考えすぎることなどない。
経典:「仏眼成就して覚悟し開示して」
仏の智慧・福報・一切の成就を理解せず、開いていないのなら、どう悟りを開くか、どう開示するのだろうか。つまり、高座での説法が仏法に基づかず、もっぱら自己流のままで言っていれば、それは仏法ではないという意味だ。ここでは、「仏眼成就」というは、仏の眼は三千大千世界の様々な人や物事を見渡せるとされるが、我々の場合では、そうは行かない。『宝積経』には、子供が母胎に入って週ごとの変化について書かれているし、人が生まれてから体にどんな寄生虫が生息しているのかも言及された。2,500数年も前は、顕微鏡がない時代だったのに、もし仏眼がなければ、釈迦牟尼仏はどうやって見られたのか。天眼があっても見られず、仏眼が必要なのだ。仏眼を成就してはじめて本物の大悟徹底になる。仏の境地を悟りきってはじめて生死解脱の仏法を正式に開示することができるようになる。簡単に言えば、仏法を宣説する者が、仏典に基づかず自分自身も本格的な修行の経験を持たない上、開示を進めていれば、きっと問題になる。
経典:「無礙慧を生じ他のために広く説きて、三界のなかにおいて平等に勤修す。」
仏眼成就は必ず成仏するとは限らない。法身菩薩の仏眼成就によって、法身菩薩は止むことなく「無礙慧を生じ他のために広くお説き」になる。「生」とは自然に現われることであり、思考や経験の積み重ねによるのではなく、自然にその清浄なる本性より差し支えなく現われた智慧で、衆生の為に広く説法するとする。
欲界天・色界天・無色界天においては平等だ。平等というのは、三界のどの道にいようとも、平等に精進し、勤勉に衆生利益の事を修めるのを指す。釈迦牟尼仏はある世で孔雀だった、ある世で猿だった、ある世で鹿だった、ある世で地獄に生まれたにも拘らず、彼は菩薩道を修めている。我らは誰も地獄に堕ちるのを恐れるが、これこそ平等に勤修(ごんしゅ)していないことだ。
経典:「すでにみづから調伏し、またよく一切の有情を調伏し」
「調伏」は仏法を通じて空性を理解してから、自己の内面世界の全てを調伏し、自己を輪廻させそうな事を調伏することだ。何を以て調伏するのか。仏法だ。「調」というのは、そなたの望みや、ウェブサイトでの資料収集を頼りにするのではないし、或いはこの動きがあったから、きっと自分の気持ちがどうのこうのだろう…ということでもない。これらは何れも間違っている。仏法を以て我らの心を調伏しなければ、永遠に調伏し切れない。「仏法が分からなくては、どうやって仏法で調伏できようか」という人たちもいる。仏法が分かるかどうかがポイントではない。例えば、ウェブサイトで見つけた心理学の資料によれば、この方法だとそなたの考え方を変えられるよと教えられたとして、本当に出来たかと、自分自身に聞いてみよう。出来ていない。ただ単に自分に役に立ちそうな事を聞いたことがあるようだが、実際にし出したら役立ったのか。出来ないのだ。思想の業力は人それぞれだからだ。
仏法は平等な物で、一切の衆生への調伏は同様なのだ。如何なる衆生も根本の問題は一緒で、即ち貪瞋痴慢疑という五毒だ。それを調伏し退治するには、六波羅蜜が必要だ。六波羅蜜を以て調伏せず、世間の方法で抑え付け、変えようとするのであれば、不可能だ。精神科医は、結果的に精神疾患にかかるか、或いは自殺するか、又は仏道修行することになるという一説がある。彼等は、学んできた心理学の知識で患者の病気を治療するが、衆生の心を調伏することができないと分かったからだ。
この何節かについてだが、もしそなたが菩薩道を学び、仏法を理解し、仏法に精通し、仏法を通達すれば、自己を調伏できるだけではなく、一切有情を調伏することもできる。
経典:「よく勝奢摩他を獲得せしむ。一切の法において無所得を証し」
誰もが法において何かを得たいと願っているが、菩薩道を修める者なら、実際、得たのは因と果のみだと知っている。因果もなお空性であり、因果は変わり続けている。菩薩として自分がこの法を修めれば何かが得られると思うのなら、彼は立ち止まりこれ以上進歩しないのだ。持呪がよく出来て健康になれば、自分が修め得られた証拠だというお考えだと、もうこれで立ち止まってこれ以上進歩を遂げなくなるようだ。仏法は「無所得」だ。「有所得」と思われると有為法となるから、仏法ではない。私が常に言うように、仏法は我々に何かをくれるのではなく、多くの不要なのを消去できるよう助けているのだ。だが、人類は得るのに慣れている故、いざ得ないと言われると、恐れて、恐怖を覚えるようになる。何故なら、得られないからだ。「こんなに苦労して仏道修行しに来ているのに、「無所得」なんて、修めるのは何のためなんだ」と言うだろうだが、仏法においては、「有所得」になると、輪廻に堕ちるものなのだ。『金剛経』には、一切正法ですら捨てるものなのに、況や非法をやとある。これこそ「無所得」の意味なのだ。仮にそなたが高いレベルの菩薩果位まで修めたい場合、法に対する執着も執着になる。
我らが毎日持呪し仏に礼拝するのは、第一に因縁・福報を絶えず蓄積すること、第二に累世で作った悪業を調伏し押さえつけられるよう、我らの善の業を絶えず増やすこと、第三に絶えずこれ等のことをすれば、我々の智慧が次第に開いていってはじめて仏法の真実義を理解できるようになることだ。全ての法が「有所得」になって欲しいのであれば、そなたは(仏教以外の)外道だ。たとえリンポチェが修法したところどうなったを見たとしても、何れも受用で副産物に過ぎず、ある程度為し得て福報が起きたら、虚空にあるエネルギーや元素の排列を変えることができるようになる。仏典に、修法して証していればどうのこうのなると書いてあるが、そなたが何を得られるとは書かれていず、そなたがこうなるよとしか言っていない。どうしてこれらの事を言い出すのか。それは、行者・仏道修行する者に、このままやると、どうなるはずなのか、このステップをし終わったら、次のステップがどうなるかを知らせたいからだ。仏は我々に一歩一歩着実に実践していくべきだと言い、ポイントは「無所得」にあり、私は必ずどうなるまでやらないといけないではない。何れも自然に生じたものなのだ。
経典:「よく説法して言辞巧妙なり。勤修して一切の諸仏を供養し」
勤勉に修めて一切の諸仏を供養し、止めずに供養する。ご自身の体調が良くないから、供養するのではなく、毎日のように止めず進めていくのだ。朝晩のお勤めだけが仏への供養とは思ってはならず、最も大事なのは心での供養であって、何もかも仏に供養している。
経典:「有情の一切の煩悩を摧伏して、もろもろの如来の悦可するところとなり、しかうしてよく如是如是と思惟す。この思惟をなす時、よく集めよく見るに、一切の諸法みな所得なく」
上述したのを為し得れば、一切の諸仏が歓喜する。仏はそなたの供養がいくらあるのかではなく、上記した条件を成し遂げたかどうかに鑑みるのだ。
前述したのを自分が成し遂げたかどうかを考えると同時に、一切の正知正見に集中し、さらに「一切の諸法みな所得なく」なのだ。矛盾しているように思えるが、そなたに考えさせながら、一切の見解・「一切の諸法みな所得なく」と思わせるのだ。それはやはり矛盾ではないか。我々に実践できるかどうかと考えさせる傍ら、我々に一部の知見を以て一切の法を見る上、何の法も得ていないように教えている。そもそも何の法も得ていない。我々は、身口意と仏の説かれた事とは相応するか、それとも相違するかを思惟する。もし相違だったら、そなたは為し得ていない。この思惟は、仏がこれほど説かれたのに、そなたは為し得ているのか。実践し始めているのか。そなたは実践するべきだ。次のステップに、「この思惟はただ自分自身は仏弟子らしくしているのかと思惟することだ。自分はしているのか。」と考えるもので、自分がどんなに凄くできるのか。出来ばえはどうだと思惟するものではない。観念はそなたが自分がしているかどうかと考えることにある。
先週、皆に五分間静かにして、自分自身にどれほど妄念やでたらめな考え方があるかを見るよう教えたが、これこそ思惟そのものだ。我々はロボットではなく、プログラムを打ち込めさえすればいいわけではない。我らは有情衆で、こんなにも多くの方法を説いたのに、依然ご自身の考え方を使うのなら、思惟していないということだ。仏法は我らの問題を解決し得るのかを思惟するのではなく、そなたが受け入れなければ、そなたの問題など解決しようがない。自分自身でご自身の振る舞い・言葉・思想が仏の説かれたのと一致するかどうかを見なければ、仏法はそなたにとって役に立たないのだ。多くの人たちは、自分が正しく人が間違っていると証明できるように、仏法の中から答えを探っているが、こういうふうだったらそなたの間違いだ。仏法には正しい側と正しくない側の区別がなく、ただこうすれば生死解脱できず輪廻するとしか説いていない。こうすれば自分に多くの悪業を植えさせるが、反対にすればそうではなくなるということだ。
仏がこんなにも説かれてきたが、人類の問題について答えを与えて下さっているのか。与えていない。彼はひたすら「この心を起し、この心を育てれば、そなたは菩薩だ」と教えている。育てられなかったら、そなたは菩薩ではない。菩薩でない以上、大人しく話を聞こう。釈迦牟尼仏は導師と呼ばれるが、導師は先生ではなく、我々を修行・仏を学ぶという道へと導き、率いる立場だ。そなたが進んで歩かなければ、如何しようというのか。そなたがどうしてもその場に止まり、地面に寝転がって、梃子でも動かないなら、先生がいくら凄くても仕方がない。導師はつまり導く役割で、そなたは彼に導かれ、自分自身で足を動かすのだ。そなたは積極的に動かず、その場で足踏みし、まだ自分自身の考え方を持っていれば、思惟していないということだ。
思惟というのは、ご自身の見解で以て仏法が正しいか正しくないかを見るのではなく、仏法がそなたにとって役に立つか、人を叱るのに役に立つかどうかを判定するのでもない。ご自身の身口意は仏法に相応するか相違するかを思惟することだ。ご自宅へ帰ってからよく見直すと良い。もし相違があれば、取りも直さず正しくなく、修めていないことだ。
思惟するに際して、乱れた心ではなく、我らの心を集中して思惟することだ。思惟とは、自分自身の利害に関わる事の為に、仏法から答えを見つけてきて自分に解説させるのではない。だが、仏法には答えがなく、ただひたすらにやり方を教えてください、答えを与えるのではなく、最後までやり抜き、その果報こそ最も大事なことだと教えている。世間法があんなにも入り組んでいるのに、仏は一々答えを与えられるわけにはいかないだろう。我らのいわゆる「一つ答えが欲しい」というのは、実は先方にそなたの望んだのを言ってもらいたく、ご自身の考え方を満足させることこそいわゆる答えというものなのだ。もし出された答えが、そなたの望んだのでは無ければ、そなたは先方が敵で味方ではないと思うようになる。いいか。我らの思想を集中して自分自身を思惟して、さらに「一切の諸法みな所得なく」と弁えるのだ。
経典:「方便智をもつて滅法を修行し」
ここでの「滅法」とは、仏法を滅ぼすことではなく、我々を輪廻させるような全ての事を消滅するよう助けることだ。この一節は大事だ。そなたらは「滅法」をせず、加法をしている。人類の智慧で加法を修行するそなたらは、「滅法」しない。「滅法」は、ここでは、我らを輪廻させる事らを消滅する方法を指す。仏典で説かれた法は仏法とは限らず、一つの動作・現象を表したい場合にも「法」を使う。
例えば、我らの持呪はまさに方便法門だ。何故なら、呪文は諸仏菩薩の智慧だからだ。我らがこの方便法を使う時、深い禅定を通じる必要がなく、方便の方式を通じた上、助けられている。「方便智」とは方便の智慧であり、例を取り上げると、仏が教えて下さった六波羅蜜を修めることも「方便智」に当たるのだ。五戒十善、そして出家衆が守る戒律も、これ等は何れも「方便智」だ。「方便智」こそ、我らの輪廻を繰り返す行為を改められ、我らを輪廻させる方法・現象を消滅させられる。これ以外の方法はない。よって、毎日思惟し、就寝する前に「今日の自分は人としての生活をしたか。畜生としての生活をしたか。或いは仏弟子として生活したか」と少し顧みるといい。自分自身の身口意は仏弟子らしくしているのか。毎日思惟するべきだ。厄介事に見舞われてはじめて思惟すると、もう手遅れだ。
簡単な一節だが、出来得る人は何人いるのか。仏を学ばなければまだましだが、そなたらは学べば学ぶほど煩悩が多い。だから、皆は「方便智」を以て煩悩の法を修めているのだ。出家弟子の多くもそうだ。顕教を修めた頃には、『無量寿経』を唱えたことがあるか。(出家弟子は「顕教の『無量寿経』は、この一冊のと翻訳が違った部分が多くある。内容はたくさん省かれた。」と答えた。)何故、省かれたのか。理由として、いったんこれ等を言い出すと、皆が恐れ戦いてはどう修めようというのかがある。本来の経文はこうだ。そなたらの知見とは全然違うものだ。これは私の発明ではなく、仏が説かれたのだ。『宝積経』は仏が説かれたもので、仏法を聴聞するには、それはいったいどこから出たかを知るべきだ。現在の経文は『大蔵経』の中にある『宝積経』から出ているとはっきり知っている。たとえ、これをそなたらが聞いたことがあってもなくとも、最低ここ2000数年以来、一度も変えられたことがない。
「方便智をもつて滅法を修行し」は、おそらくそなたらにとっては仰天させられる一節になるだろう。聞いた事などないことだ。ここでの「滅法」は、そなたらに悩ませるのを消滅する方法なのだ。
経典:「よく理・非理の趣を取捨することを知りて」
「取捨」とは、自分自身と先方に悪を行わせる可能性があるような事をしないことだ。娑婆世界は非常に入り組み、多くの状況に於いて、我々は往々にしてどう取捨すれば良いか判断できない。人の機嫌を損ねるのを恐れ、私がこうしたらどうなるだろうと思う。自分が悪事を働いても気づかないし、善事を行う機会を与えても、損することを考えて、進んでしない。この一節は、かりにそなたが前もってどう修めるかを思惟しておかなければ、煩雑した娑婆世界の中においては決して取捨を決める裏付けがないということだ。何を取り上げるのか。仏法・衆生に利益をもたらす全ての事を取り上げ、自分に煩悩させ衆生に傷つける事柄を捨てるのだ。
「理・非理の趣」。道理は正しいか正しくないか。正しいか正しくないかは、決してそなたの感覚ではなく、そなたに何かメリットがあるというものでもない。仏法では、正しいか正しくないかについては、輪廻させないよう助けられるかどうかによって定義されている。例えば、リンポチェがよく非難されるが、私はいつも叱られ放題にし、そして自分に恨みを持たず、何も言わずに、ただひたすらに先方の為に法を修めている。これが私の業だ。何故、まだ業があるというのか。それは仕方がない。先日、私が言ったように、寿命が既に無くなっているはずだったそなたらの多くに寿命を延長させた。どうやったら出来るのか。私の福報を渡すのだ。済度を得られなかった亡者らもいるが、私が彼らを済度させたのも、私の福報が渡ったところで出来たのだ。福報を多く使えば、自分自身の業力を手前で止められず、業力が現前するようになる。業力は現前されながらも、自分自身が修行している分で、直ぐに埋め合わせられるようになる。世間の物事は入り組んでいるから、世間法では誰が正しい・誰が正しくないと判断し難い。誰もがそれなりの言い分があり、喧嘩している者は誰もが自分に間違いがないと思っている。ただ、唯一仏法でしか我々を智慧を通じ、「よく理・非理の趣を取捨することを知りて」になることができない。
経典:「理趣・非理趣のなかにおいてみな善巧を得たり。」
智慧を修め得た場合、理趣の中において、正しくないのであれ、正しいのであれ、良くない後遺症が残らないよう、いずれも私は善巧にこれ等のことに対応する。たとえ、相手が理解せず受け入れないとしても、そなたが先方に対する心が慈悲で善であれば、きっといつか気付かれるし、この理趣が正しいと感じられる。だが、世間法では、どうしても是と非を講じている。世間法での是と非は、結局自分自身を保護する方法でしかないのだ。仏法から見れば、一切の理趣の中では、非と非でないとでは全て因果業力だ。返すべきなら返すし、怒られるべきなら怒られる。相手が思い切って叱ると同時に、私も思い切って喜ぶ。相手は私の業を一部消去してくれているからだ。却って、相手が叱らなければ、私の業力が消去できないのだ。
多くの人は厄介事に見舞われたらリンポチェのところに駆け込めばいいと思っている。だが、リンポチェは凡夫の身で、まだ法身まで修めていない。リンポチェは必ず自身の命を尽くして衆生を救済するが、衆生には現在、正真正銘の行者が滅多にいないという認識が必要だ。本物の行者にも、それなりに累世で齎された、向き合って対処すべき業力がある。今生で解決しなければ、後世に回して解決するものだから、いっそのことこの一生で解決しようということだ。
経典:「世の語言において心に愛楽せず、出世の経典をもつて誠信に勤修す。善巧をもつて一切の諸法を尋求し」
「善巧」とは、ずるをして噓偽りに事を裁くことではない。
あるお客さんが我らとタイアップした薬局で寶圓膏を購入して、開けたら異物が入っていたとクレームを言ってきた。通常なら、開封・使用後の商品の場合、交換することができないが、私はそのお客さんの為に新品のものと交換した。その後、彼は直接に本社へ数十瓶を注文したが、私は彼が薬局で買ったものとして、取次店へ手数料を支払っている。実は、手数料を支払わなくても契約違反にもならないし、彼は直接に本社へ買いに来たから、薬局はこれを知らないので、抗議しない。彼は薬局で買ったのではないとしても、以前に薬局を通じて寶圓膏を買ったし、きっと薬局の人も薦めたことがあったから、この膏薬を知るようになったのだろう。よって、その分、我々は薬局に手数料を支払っている。私の事への対応は人と違う。同時に薬局の人をも喜ばせた。こうして商売する会社があるんだと思われれば、怨みを結ばないで済む。
ちょっとした金額のことで人の機嫌を損なう人もいる。しかも人の機嫌を損なっても、気づいていない。だから、仏法を学んだそなたは、事に対してどう対応すれば適切なのか分かるようになる。偶に私も自分自身の累世の業力に出くわすが、それを短時間で善巧の方法で解決できない場合には、忍ぶ心、つまり忍耐の心が必要だ。これはこの世で解決できない事かもしれないし、後世へ繰り越して可能なこともある。この世で解決できようができるまいがを問わず、自分側の心が善であれば、相手がそなたに何を押し付けようと、そなたは善巧の方法で対応し解決できる。だが、そなたの心は相手に何も怨みの心を起さない。こうすれば、二人の間の業力の終了を早めさせられる。仮に、相手からそなたへ何かをしたとして、そなたが恨みの心を起したら最後、業力が深まる一方だ。たとえ差し当たって解決できているとしても、新しい業力がまた生じ、後世また弄り合い、また処理することになる。今生で解決できることなら解決しよう。必ず、相手から「あなたには間違いがない」と言ってもらうとは限らないが。
上述した心らは即ち菩薩の心で、そなたを再び輪廻させない心だ。先方がそなたに害を加えたとしても、そなたは清浄・忍耐で、執着しない心でいる。相手に恨まれ仇討ちされるとしても、そなたに対抗する心がなければ、相手は復讐しようがない。かつて、釈迦牟尼仏はある物語を語られたことがある。ある人は仏に「ある人から終日罵りを受けている。私はすごく怒ってやっつけたいと思っている。どうしよう。」聞いた。仏曰く「プレゼントをしてくれる人がいるとして、そなたがプレゼントを受け取らないなら、どうなるか。」。この人は「彼はそれを渡さずに帰る」と答えた。だったら、人に怒られて、自分が癇癪を起さない限り、そなたは受け取らず、相手は矛を収めるわけなのだ。
入り組んだ今の世間に相まって、生生世世による自身の複雑な業力が加わると、やむをえない・致し方ない事に出くわすことになる。我々はどういった心持で向き合えばよいのか。善巧だ。上述した心らに基づくのだ。自分自身が菩薩道を修めていると思っているのなら、そなたはそれらの心を具備するべきだ。我らは事に着目し、人に着目するのではない。ある事が団体全体に影響を及ぼすようなら、対応に取り掛かる必要があるが、そうでなければ、好きにさせればいい。だが、放縦させ、何でも彼が正しいと認めるわけではない。現代人は執着心を解き放さず、怖い。この心を進んで修めるなら、善巧方便は多くの敵意を次第に解決して行かれる。
経典:「一切の法を求めて増長して了知す。法はもと実なくして不可得なりと知りて」
我々は一切の法を求めて我らの生死解脱の知識を増長させるつもりだが、相手の何かの事を了知するのではない。一切の法は元より実在するのではないとはっきり知ることだ。『金剛経』で書かれた「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」と同じ意味だ。
経典:「所行の処においてもまた取捨なく、老病を解脱してもろもろの功徳に住す。」
一切の所行には取捨がない。即ち、そなたの修行が到達したところ・階位に対しては、自分は必ず登地菩薩や二地菩薩などに到達したいと取捨するという必要がなく、自然に上がっていくものだ。そなたに心が具備すれば、上がるものだ。自分が登地菩薩や二地菩薩等々を取得したいのではない。そなたの法身慧命(ほっしんえみょう)は老・病から解脱し、そなたの命は功徳の中に留まる。つまり、長く行きたいなら長めになるし、まだ死にたくないなら死なないよう功徳が支えてくれるという意味なのだ。仮に「無所得」であれば、功徳は直ちに福報に変わってしまうことになるから、どう老・病を解脱しようというのか。釈迦牟尼仏は死の解脱を説かず、菩薩道を説かれている。菩薩道は衆生利益を専らするものだから、しょぼんと生彩のないままでは、どう衆生を助けようというのか。歩けなくなるほど老けていれば、どう高座に上がられるというのか。どう老・病を解脱するというのか。「もろもろの功徳に住す」だ。その心を衆生の功徳に留めると良い。
周知のように、私には二通りの脈がある。一つは功徳の脈で、そこに私の心が宿っており、世間の脈に宿っていない。ある程度まで修行すれば、老・病が緩和し減少する。私は法身まで修め得ておらず、まだ凡夫の身だから、老けてはいくが少しゆっくりめだし、体には大きな疾患がないが、多少不具合はある。老・病が有るのは、前述した分を為し得ていないからであって、これ以上持呪しても仕方がない。「もろもろの功徳に住す」とすれば、老と病による苦しみを解脱することができる。多くの人たちは70代から歩けなくなり、複数の持病を抱えている。だが、諸仏菩薩と法王からのご加護により、74歳の私は複数の持病を抱えていない。これこそ、「もろもろの功徳に住す」ことだ。
経典:「もとよりこのかた、神通に安住して深法を勤修し」
この一節は、まさに現在私が修めている事だ。「神通」とは、何かが見えるという定義ではなく、私の神識(しんしき)が仏菩薩・衆生と通っていることだ。私の心が動けば衆生利益するし、衆生が私の名号を唱えれば、彼らに役立つ。
数日前、ある大陸の弟子から電話がかかってきた。彼に暫く連絡を取っていない叔母から連絡がきたが、叔母の夫が乗った農業用軽トラが転倒し、溝に落ちて溺れて死んだそうだ。その溝は、水が深くなく、踵ぐらいの深さしかない。叔母は、夫の事を夢見て、こう告げられた。「甥は、台湾にいるリンポチェに帰依しているが、助けてもらうようそのリンポチェにお願いしたい」と言った。中国の東北地方という遠い場所からの話だ。これこそ、神通を修め得ているのだ。私は自身の神通(じんづう)を顕わにさせたいのではなく、それは私の功徳なのだ。自分が凄いとは言わないが、少なくとも亡者ならそなたらよりよく見分けられると言えよう。
以前、私の秘書の話だが、眠りにつくとある女性がベッドに座っているのを夢見るそうだ。私が見て、近所で女子の自殺があったのではないかと聞いた。確かにあったと彼は言った。私はその名前を聞き出し、のち私が済度すると言った。その亡者が済度されたきり、一回も彼女が出た夢を見ていない。私はこんな事を以て私の凄さを宣伝するのではなく、ただ仏典で説かれた通りに実践し、為し得ると、こうした事が自然にあるようになる。
施身法は奥深い法だ。自身の血肉が衆生に食べられるのを観想できる人は居ろうか。神通なしには、どう修められようか。唱えでもすれば、修めることになるではないか、と思ってはならない。全てが神通だ。
衆生に苦がある時、ご縁が有る限り、様々な方法を使って助けてもらえるよう、私に伝えてくることこそ神通だ。映画の撮影のように、変幻したり、雷が落ちたり、稲妻が走ったりするのではない。時々、一部の弟子らに、かつて何を食べたから今こうなったと言ったりするのも、神通だ。だが、私は一度も自身の神通を顕わにさせることで自分がよく修めたのをひけらかしたことがない。これはただの方便法に過ぎない。
経典:「甚深の法において退転なく」
「甚深の法」は即ち仏・菩薩に成る法だ。こんな「甚深の法」を修習し始めた頃は、非常に苦労するものだ。例えば、私がラプキ雪山で閉関修行をした時、夜、気温は氷点下20度まで下がり、周りに誰もいないが、蜘蛛や毛虫など多くの衆生が入って付き合ってくれたようにだ。大変だし、食べたのは白湯で茹でた味付けのない麺だった。そなたらは今どんな生活をしているのだろうか。それでも、まだ不満を抱えているようだ。
「甚深の法」は間違いなく困難の中で修め得られるものだ。快適そうにクーラーをつけて、次に仏典を置いて、15分間でも唱えれば、今日は修めているよというのではない。そなたらは現在、生活が良すぎで且つ快適すぎるのに、自分がそれに気づいていない。しかも、傲慢でたまらなく、自分が福報を修め得たと勘違いしている。私は、前世にそなたらに何か借りがあったせいで、今生見つけられたのかどうか分からない。借りがあってもいいが、そなたらは話を聞くべきだ。だが、誰もが気ままに過ごし、自分は少し勉強したことがあるということで、思想が人と違うと思っている。いいか。仏が説かれたのは思惟であって、思想ではない。ご自身の一切の身口意で、仏法に背くのがあるかどうかを考えるといい。相違があれば、違うのだ。
経典:「難解の法においてことごとくよく通達し、一乗の道を得て疑惑あることなし。」
仏法でいう「難解」とは、奥深く解すことができないという意味ではなく、衆生の智慧と業力では、簡単な仏法でも、彼らにしては解きにくいというものだ。何故なら、彼らは心では一切の善法に抵抗しているからだ。その心には、人から優しくされる方法を得るのしか望まず、自分自身の考え方を満足させる方法しか要求しないから、清浄なる善法・仏法をどう言い聞かせても聞き入れずに、自分には分からないと主張してばかりいるのだ。これは、まさに自身の心に問題があるというのだ。例えば、私が仏法を宣説(せんぜつ)する場合、私の発明やら私が言った方法やらとは言わず、私は仏典に裏付けられて言い出しているのみだ。
「難解の法においてことごとくよく通達し」。この仏法がどう難しいと思われようと、何れも通達するのだ。即ち、仏陀の真実義を知ることだ。真実義を知ってはじめて衆生の心を理解できるし、衆生が分かる言葉で解説することができる。
「一乗の道を得て疑惑あることなし」。仏法に於いて多くを得て多くを知りたいと多くの人々は思っているが、ここでは「一乗の道を得て疑惑あることなし」と説かれている。「一乗」とは何だろう。大乗・小乗は知られているし、チベット仏教では九乗について教えている。「一乗」とは成仏の道だ。如何なる仏法も我々を成仏の道へ、あらゆる仏法は我々を生死解脱の道へと導く。これ以外の物はない。我々は仏法に対して、決して疑惑があってはならない。そなたに分からないからと言って、仏法が間違っているとは言えない。そなたに分からないからと言って、この仏法の解説に問題があるとは言えない。そなたに分からないからと言って、この仏法に欠陥があるとは言えない。ただそなたが疑惑を持っているだけなのだ。
何故、そなたに疑惑があるのか。それは聞いたことがご自身で望んだことと違うから、疑惑が生じるのだ。多くの人が恋愛の問題で私に聞きにきているが、何故この男に振られたか、前世に関わった問題なのか、不倫で第三者がいるのか、と誰もがはっきりとした答えを求めている。だが、それについて私は一切触れずに、ただ簡単に「そなたの因縁だ」と言っている。先方は聞かないに決まっている。如何なる男女も聞き入れられない。何故聞き入れられないのだろうか。それは望んだ事と違うからだ。
離婚した人たちが、(私の前に)跪くと苦しみや不満を零すが、苦しみが一段落して私が「何故彼に嫁いだか。」と聞いたところ、好きだったからだと答えるようにだ。好きだったならそれでいい。好きだったからこそ、きっと彼には良い所があるだろうし、その良ささえ覚えていれば充分だ。何故、わざわざその悪さを覚えなければならないのか。如何なる人も良い所と悪い所があるから、人の良さを覚える限り、自分も気楽に過ごせるのではないか。
きっとご自身にも悪い所があるだろう。仏のみ円満だ。我ら凡夫が八地菩薩まで修めても円満ではない。よって、上師が仏と同様に円満になるのを要求するようなら、それは不可能だ。テキストには「上師を仏と見なすと仏からの加持を得、上師を菩薩と見なすと菩薩からの加持を得、上師を凡夫と見なすと凡夫からの加持を得る」とある。とはいえ、それは上師が高座に上がり説法する際、その心が清浄で、仏を代表し仏法を宣説するものだから、仏が説法中と思えば、もちろん仏からの加持が得られるという定義だ。菩薩が仏法を説き聞かせていると思えば、もちろん菩薩からの加持を得るし、リンポチェが凡夫だと思えば、凡夫からの加持なのだ。これがその定義であって、私が既に成仏になるまで修めたことではない。
既に成仏していれば、食事を作ってくれる人を頼んだり、睡眠をとったりする必要があろうか。要らないだろう。ほら、阿弥陀仏のみもとでは、思っただけで食べ物が運ばれてきたり、食べ終わると茶碗などが全部片づけられたりする。しかも、食事する際の茶碗は黄金でなければ宝石で作られたもので、私にはそういうのがあるか。ない。地球上、仏法を修める大行者の中で、このようにしているのが居られるか。いない。何故なら、彼はまだ娑婆世界にいるからだ。その違いは、彼は修めており、そなたは修めていないことに過ぎない。
上師を仏同様に至高の位置に据え付け、びくともしなく上に奉られていると思ってはならない。そんなだったら、そなたの勘違いだ。八地菩薩になるまで、その生活ぶりは凡夫と変わりなく、唯一違うのがその心だ。しかも、八地菩薩になるまで、彼が為したことはもっぱら衆生のためだが、よく衆生に誤解されるものだ。何故、誤解するのか。彼は今日の事によって後日どうなるかを説明せずに、直接実行に移すからだ。為した後、忘れるし、どんな人たちを助けたか覚えないのだ。
『無量寿経』で仏が説かれたこの一篇は非常に重要だ。「仏の教法において他の悟によらず」という一節が重要だ。どういう意味なのか。仏が教えられた方法は、別人によってそなたに悟りを開かせるのではなく、ご自身が仏法を聞いてから自分自身で修めるものであって、誰一人そなたに悟りを開かせるよう助けることにはならない。多くの人は「私に分からせるべきだ」というが、これも間違いだ。ここでははっきりと、仏が方法を伝授されてから、悟りを開かせるのではなく、ご自身で悟るものだと言っている。
五祖が六祖を連れて川を渡ろうとした時に言った二節「迷った時に師が度し、悟った時に己を度す」のようにだ。上師が生死という大きな川を渡るのを率いるが、そなたが悟って彼岸に辿り着いたら、自分が自分を度し、上師からの助けがもう必要がなくなっているという意味だ。
経典:「その智宏深なることこれを巨海に譬ふ。菩提の高広なることたとへば須弥のごとし。自身の威光日月に超えたり。」
如何なる人も仏法を身につけたら、その智慧は「宏深なることこれを巨海に譬ふ」のように、使い尽くすことがない。そなたの後得智と根本智が結合すると、その智慧を使い尽くす日がやってこなく、まるで深海のように、求める必要がないとされる。多くの人が智慧を求めにやってきているが、それを求めるのは何のためだと聞いたら、お仕事が少しでも順調に進むよう願っていると答えている。私は、それなら結構だ、もっと読書すれば充分だと答える。「菩提の高広なることたとへば須弥のごとし」。菩提心の高さと広さはまるで須弥山のようだということだ。須弥山の事は、未だに天文学では見つからない。しかし、私は何となく、それがある惑星系集団の中に、白く飛び上がった高くて大きい物があれば、須弥山と喩えられるだろうと感じている。全ての惑星がこの須弥山をめぐってまわり、菩提心がまさに須弥山と同じように高く広いものだからだ。
「自身の威光日月に超えたり」。即ち、自身の威光が表れることであり、「日月に超えたり」とはそなたが修め得られて威光が出る意味だ。威光は威風で恐怖を起させる様ではなく、私が持呪するに際して、体が光っているように見られるのと一緒で、それが威光だ。リンポチェが持呪すると、傍から見るとより光っているのが、威光だ。威光はどうやって来るのか。智慧と空性からだ。サプリメントなどを食べて得られたのではない。それは有り得ないことだ。
経典:「およそ思択するところ慧と相応し、なほ雪山のごとくその心潔白なり。」
この二節はお見事だ。思惟し、選択した全ては、智慧と相応する。即ち、菩薩が為された全ての事は菩薩自身の清浄なる智慧と相応するということだ。何故なら、智慧には要求することはなく、衆生の為だから、その為された一切の動きを、そなたは気に入らないかもしれないし、受け入れられないかもしれないが、全部が全部そなたの為だし、自分自身で自分の問題を気づかせる為なのだ。「なほ雪山のごとくその心潔白なり」は、その心が清浄で、雪山の雪のように綺麗で潔白で、汚染されていない様子だ。
経典:「光明あまねく無辺の功徳を照らして、煩悩の薪を焼くことこれを火に方ぶ。」
そなたが智慧を修め得られたら、「光明あまねく無辺の功徳を照らして、煩悩の薪を焼くことこれを火に方べる」。つまり、功徳を修め得られると、全ての煩悩が焼き尽くされる。煩悩は焚き火となって焼かれ、そなたの光明を普く照らすようにさせる。大乗の修め方は小乗のと異なり、小乗での修め方は煩悩を断ち切り、大乗での修め方は煩悩を菩提に転じさせる。金剛乗での修め方は煩悩を菩提とし、転じさせようなどともしない。『華厳経』には、一部の菩薩は大きい貪・大きい瞋を使って衆生済度するとあるように、これこそ煩悩を以て煩悩を退治することだから、早いのだ。
三乗修法。小乗は煩悩を断ち切る事とするから、小乗の出家衆は、女衆に近づくことも、数珠を身につけることも、持呪することも、食事を作ることもしない。大乗の行者は、煩悩を菩提に変えることとするが、この生身を持ち、業報の身があり、累世の業を完済していない限り、煩悩が絶えず出現することをはっきりと分かっているからだ。だが、前述したように、我々が煩悩と向き合う際に、逃げたり、取り除いたり、或いは捨てたりするのではなく、それを修習の原動力として、薪にするわけなのだ。
簡単に言えば、一部の弟子は癌を患わなければ、法会に来るのか。おそらくお金を稼ぐことを優先にしているだろう。これこそ、「煩悩の薪」そのものだ。また、弟子に心臓疾患を患っているが妻と離婚寸前になるまで喧嘩しても法会への参列を固く守りたいというのがいる。これが煩悩を薪にする大乗の修め方だ。
金剛乗の修め方は、煩悩を修行の道具として手に取るのだ。在家の私の場合、家庭内の事が全て私にとっては修行だ。子供や眷属などは私にとっては全て修行だ。今生で彼らに完済しようとすることこそ、修行だ。しかし、そなたらはそうではなく、手放さないばかりか、少しでも遠く離れると悲しく感じる。だから、金剛乗のほうが、よほど早いわけなのだ。何故なら、金剛乗では転じさせようなどもせずに、直接に使ってしまうからだ。つまり、煩悩は性空だと知っている。
煩悩はどうやってきたのか。縁起性空で、縁が起きては縁が滅びる。簡単に言えば、煩悩は固体ではなく、固定不変なものでもない。随時変わっていくものだ。煩悩の本質が性空である以上、この特徴をよく用いて修行すべきだ。よって、密宗では「病を道として使う」と言われている。例えば、私の場合、健康が不良だったが、却ってそれを道として使うようになったようにだ。また、2007年に閉関修行へ行ったからこそ、皮膚がんの問題が徹底的に解決したようにだ。他の人だったら、恐らく癌を除くように必死に修法するかもしれないが、私はこの病を追い払わず、そしてこの病と共存するわけでもなく、つまり一途に修めるのみだ。この病が私の事に影響を及ぼさないまで修めるのだ。
煩悩は性空だ、きっといつか変わると信じている。それに対し、そなたは変わらないよう望むから、ずっと煩悩でたまらないから、問題が次々と出ている。だが、人生は僅か数十年だけしかなく、何を追求しようも恒久ではなく、死が訪れる日になったら、何もかも無くなるのだ。
本日は、ここまでにしよう。今日の内容は少し深めで、きっと皆さんはちんぷんかんぷんだろうと思うが、そなたに分かろうが分かるまいが、これは清浄なる仏法だ。ご自身で為した身口意が仏法と相違があるかどうかを進んで思惟して、もしそれがあった場合には直ちに直し、自分に待つ理由など与えず、自分に直さない理由を与えず、そしてその場で足踏みする理由を何一つとして与えない。進歩とは何か。つまり、仏法と弥が上にも近づくことだ。退転とは何か。仏法と背いて進行することだ。仏法が近づくと、そなたはそっぽを向いて歩くことこそ、退転だ。
毎日、ご自身の身口意を慎重に思惟することだ。自分に間違いがないと説明する理由が何一つとしてない。自分自身に間違いがないと思うことこそ、とんだ間違いだ。仏のみ間違いがない。自分に間違いがなく、全て人に誤解されたせいだと説明する理由を付ける場合、即ち『大蔵経』と『無量寿経』で説かれた菩薩のあらゆる心を、そなたは一つも持たないという意味なのだ。そうなのに、そなたはまだ菩薩道を修めているのか。気を付けろ!そなたは地獄道を修めているのだ。出家衆は、より一層慎重に扱うべきだ。一刻たりとも気を緩めてはならない。今生に出家相を現した上、もう戻る道がなく、上師の道に従って歩むのみだ。きっといつか為し得る。どの日に至るかは、私は知らないが、百年・二百・三百年後になるかもしれない。私は本当に知らないが、いつか出来ると分かっている。
自分自身で挫けないように。自分には出来ず、リンポチェだけしか出来ないと思ってはならない。私は何世修めてきたか。そなたは何世修めたか。しかも、私が苦労した事をそなたらはまだ経験していない。こんな苦労をした事がなくては、修め得られる道理はないだろう。何故、私はそんなにも苦労したのか。私は苦労すればするほど煩悩が多くなり、仏典を拝読すればするほど、私をそんなに苦労させた諸仏菩薩から下さったチャンスに感謝する。何故なら、この煩悩はこうして尽きる、とはっきりと私は知っているからだ。だから、仏道修行は喜ばしい事で良い事だ。だが、自分は自身の身口意に対して心を留めるべきで、油断などしてはならない。
« 昔の法会開示 – 法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »
2021 年 12 月 21 日 更新