尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年08月09日

 
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェによる、ご升坐の上での『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十三「禅定波羅蜜多品第十之三」のご開示

リンポチェは法座に上られた後、百字明咒を持誦され、その後、出家衆に指示し、参列した大衆を率いて、帰依発心、四無量心、七支供養、伝法の祈請、『随念三宝経』および『八聖吉祥祈禱文』を読誦させた。
 
続いて、リンポチェは長い時間にわたり六字大明咒を持誦された。慈悲に満ちた法音は十方に響き渡り、大衆はあたかも西方浄土に身を置いているかのようであった。清らかな風がそよそよと吹き、殊勝で妙なる香りが辺り一面に満ち、虚空からはかすかに心地よい鳥のさえずりが聞こえてきた。ひとしきりの清涼なる感覚が、たちまち大衆の煩悩と垢染を洗い清め、皆の身心は軽安自在となり、リンポチェによる殊勝で清浄な仏法の教えを一心に拝聴することができた。
 
法会の冒頭、侍者が、ある弟子が申し込みをしていたにもかかわらず、法会に参加していないことを報告した。リンポチェは、「今日、申し込みをしていながら来なかった者は、今後もう来なくてよい。すべてのものを回収しなさい」と指示された。今週も引き続き、『宝積経』の開示を行う。
 
仏典曰く:「復次舍利子。云何禪定。」

なぜ釈迦牟尼仏はこのように問われたのか。それは、禅定は仏法の中にだけあるものではなく、外道にも禅定があるからである。そのため、ここでは、この禅定は外道の禅定とは異なるということを特に強調されている。私はまだ子供の頃、父について道教を学び、禅も学んだことがある。しかし、道教の禅と仏法の禅とは同じではない。また、仏法の禅もさらに細かく分けられる。例えば、以前、私が閉関していた時に、初めて何が「定」であり、何が「無念」であるのかをはっきりと理解したことがある。定は無念を意味するものではなく、無念もまた定を意味するものではない。だからこそ、絶えず閉関を重ね、上師から教えを受け、注意を促していただくことによって、初めて仏が説かれた修行の一つひとつの境地を、少しずつ体得していくことができるのである。

仏典曰く:「謂諸菩薩於彼禪定無所耽著。能於如來三摩地而得圓滿。」

一切の菩薩は禅定の中において、「無所耽著」である。これは単に執著しないということではなく、そこに留まることさえないということである。多くの人は、禅定とはまったく動かず、まったく念を起こさず、完全に自他のない境地に入ることだと思っているが、そうではない。「無所耽著」とは、禅定の境地もまた因縁法であるということである。もし禅定の感覚に耽り、執着して、定の境地に留まってしまえば、この一生、そして未来世においても、せいぜい四禅天までしか修めることができず、それ以上には進めない。なぜなら、いわゆる禅定というものをいつまでも気にかけ、定に入ることができて初めて、自分は修行している、自分は成就していると思うようになるからである。しかし、実際には、仏法における禅定とはそのようなものではない。今はまだ、あなた方に大手印を伝えておらず、禅定とはどのような感覚なのかも教えていない。そのため、今日は文字上の意味について、あなた方にも理解できる言葉を用いて、少し説明するだけである。つまり、禅定を修める者が、そこに一時間、二時間、三時間と座り、身体を動かさず、まぶたも動かさず、目も動かさないことを禅定というのではない。また、何ものにも執着せず、すべてを放下したかのような状態を修めることを禅定というのでもない。
 
仏が我々に教えられた禅定で、最も重要なのは、我々が生死を解脱するのを助けることである。第二に、禅定の力があって初めて、清浄な仏法を衆生に伝えることができるのである。もし禅定の力がなければ、どれほど多く経典を読誦し、どれほど多く仏を礼拝しても、それはただ人天の福報を積んでいるにすぎず、仏法の福報を得ることはできない。多くの人は、自分がずっと人天の福報を積んでいることに気づいていない。多くの出家者も含めてそうである。これは非常に微細なところである。そのため、菩薩はこのような禅定に耽著することなく、「能於如來三摩地而得圓滿。」ここでは、最初からその要点が非常にはっきりと説かれている。如来の「三摩地」とは、仏の定であり、外道の定ではない。では、外道の定と仏の定とは、どこが異なるのか。外道の定とは、ある一つの境地に定まり、そこから離れないことを求めるものである。一方、仏の定、すなわち仏法の定とは、一切の妄念を鎮めて動かないようにし、それらの念が清浄な本性を妨げることのないようにするものである。特に、持咒し、法を修める時には、如来の「三摩地」、すなわち如来の定が非常に必要となる。如来の定をもって修めてこそ、円満を得ることができるのである。もし我々が外道の禅定をもって修めるならば、円満を得ることはできない。

基本的に、現在、多くの出家者が修めているのは外道の禅定であり、仏法の禅定を学んでいない。禅宗の禅語をどれほど多く唱えることができようと、例えば「山を見ても山ではなく、水を見ても水ではない」などと言っていても、すべてでたらめを言っているにすぎない。この違いを文字だけではっきりと説明することは非常に難しい。そのため、仏は、仏法を学ぶ感覚とは、「人が水を飲めば、その冷暖は自ら知る」ようなものであると説かれた。一人ひとりが飲む水がどれほど冷たいのか、どれほど熱いのかは、本人にしか分からない。いくら説明しても、ほかの人には分からない。自分自身でその水を飲まない限り、分からないのである。この考え方も同じである。自分で修行しなければ分からない。あなた方が修行しないのであれば、私がどれほど多く説いても、やはり分からない。「人が水を飲めば、その冷暖は自ら知る」のである。たとえ私が自分の経験をあなた方に話したとしても、それがあなた方の経験になるわけではなく、あなた方自身の感覚になるわけでもない。だからこそ、我々はこれまで多くの修行をしてきたのである。それは、過去世から負っている業について、返すことのできる債は返し、まだ返すことのできないものについても、少なくともその業を止めて、自分の修行を妨げないようにするためである。そうして初めて、少しずつ仏法の定へと入っていくことができるのである。そうでなければ、たとえ仏門に帰依し、出家の姿となっていたとしても、学んでいるのは外道の定であり、しかも自分ではそのことに気づいていないのである。

だから、この一段では非常にはっきりと説かれている。如来の定、すなわち「如来三摩地」の定である。私は道教も学び、仏法も学んだことがあるので、その違いがどこにあるのかを知っている。あなた方は学んだことがないため、自分がこれまで聞いたこと、テレビで見たこと、本で読んだこと、あるいは法師が説いたことなどを、すべて取り入れて、それが「定」だと思い込んでしまいやすい。しかし、それらはすべて間違っている。では、「三摩地」とはどういう意味なのか。三摩地は、文字によって説明できるものではない。昔、三蔵法師が経典を翻訳した際、一つの名詞に多くの意味が含まれている場合には、それを中国語に訳さず、梵語の音をそのまま音訳したのである。したがって、「三摩地」とは、単純に「定」と説明できるようなものではない。この境地は、帰依し、修行し、閉関することを経なければ、そして上師との関係が良くなければ、得ることは不可能である。そのため、ごく自然に、世間の人が考える「定」をもって禅定だと思ってしまう。念を押さえつけて動かないようにすることが定だと思い、ある一つのものをずっと見つめ、ほかのことを何も考えなければ、それが定だと思ってしまう。しかし、これらはすべて外道の定なのである。

仏法の定とは、非常に自然なものである。大手印で説かれているのも、まさにこのことである。大手印については、今後、私は数人の弟子にしか伝えない。ほかの者には伝えない。これらの出家者も含めてである。出家して三十年以上になる弟子も、永遠に学ぶことはできない。私は彼には伝えない。なぜなら、彼は外道の定にいるからである。このことについて、今日はこれ以上説明しない。仏経の中では、非常に簡単な一言として説かれている。しかし、この簡単な一言であっても、実際に修行を重ね、禅定を修め、閉関したことがなければ、釈迦牟尼仏が何を説かれているのか、本当のところは分からず、文字上の意味から解釈することしかできないのである。

この一段の意味は、何が外道の禅定であり、何が仏法における三摩地の定であるのかを、きちんと区別し、はっきりと理解しなければならないということである。明確に理解して初めて、誤った道へ進まずに済むのである。『金剛経』にも非常にはっきりと説かれている。覚悟し始めたならば、正法さえも捨てなければならない。まして非法であれば、なおさらである。つまり、本当の「空」の境地に入った時、それは仏法を捨てるということではなく、もはや修める必要がなくなるということである。例えば、我々が菩薩道を修めていき、最後の段階に至れば、「無修瑜伽」となる。なぜなら、すべての境地をすでに修め終え、解決すべきものは解決し、破るべきものはすべて破っているからである。その先にあるのが、「無修瑜伽」なのである。その意味は、念を起こせば、そのまま事を行うことができ、念を動かせば、そのまま事を行うことができるということである。 

以前、直貢噶舉には、百二十歳の女性リンポチェ、(尊きレンツェ・カチュ・ワンモ・リンポチェ(老阿尼))がおられた。我々直貢噶舉では唯一の方であり、私は二度お目にかかったことがある。その方は自ら、「リンポチェが仏法に関することをしようと思えば、ただそう思うだけで、それを成し遂げることができる」と話されたことがある。つまり、衆生のために念を起こせば、それを成し遂げることができるということである。これは三摩地と関係している。「三摩地」という言葉の意味は、自分自身が仏法の定に入ることができるだけではなく、衆生を定の境地に入らせることもできるということである。例えば、私が持咒している時、あなた方は心がより清浄になり、より定まり、説かれていることを聞き入れられるように感じるだろう。しかし、あなた方が家でどれほど持咒しても、心はとても乱れている。では、この定はどこから来るのか。それはあなた方自身から生じたものではない。私の定をあなた方に与えているのである。私の定と私の力によってあなた方を押さえ、心を乱れさせないようにしているのである。乱れなければ、心は自然に定まる。では、「定」とはどういう意味なのか。雑念が起こらず、妄念が起こらなくなって、初めて清浄な仏法が心に入ることができるのである。だから、私が持咒している時、あなた方は心がより定まり、説かれていることを聞き入れられると感じるのである。なぜなのか。それは、私が定の中にいるからである。もし三摩地の定がなければ、衆生を定まらせることは不可能なのである。
 
出家して何十年にもなる弟子は、自分自身も定まることができず、衆生を定まらせることもできない。なぜなら、彼は仏法の定を修めておらず、外道の定を修めているからである。しかし、これは彼を責めることはできない。なぜなら、上からそのように伝えられてきたからである。もし我々が仏経に基づいて法を伝えなければ、非常に危険である。例えば、以前あなた方に話したことがある。私が今、仏経を説いているのは、自分自身がその境地まで修めているかどうかを確認するためでもある。その境地まで修めていることを確認できて、初めて私は敢えてその先を説き続ける。修めていなければ、私は敢えて説かない。仏経は非常に重要であり、あなた方にとって修行の基礎となるものである。そこには観念も方法も非常にはっきりと説かれている。あなた方はそこに、自分自身の修行の経験を加えていかなければならない。上師の教えを通して自らの修行の経験が生じた時、仏経に説かれていることと照らし合わせ、それが本当にその通りであるかどうかを確認するのである。その通りであれば、あなたの修行は正しい。その通りでなければ、あなたは間違っている。そこに一切の妥協はない。仏が説かれた言葉は真実語であり、修行について説かれた言葉である。あなた方は仏経の中に、「このようにしてもよいし、あのようにしてもよい」などと説かれているのを見たことがあるだろうか。あるか。ない。そうではなく、非常にはっきりと、「まさにこの通りである」と説かれているのである。もしあなた方が仏法を学ぶ時、「まさにこの通りである」ということに従わず、自分で新たな看板を掲げ、自分なりの方法を考え出して修行するのであれば、永遠に、永遠に、修めることはできないのである!

なぜリンポチェはこの一生で、ある程度の成就を得ることができたのか。それは、私が十分に愚かだからである。仏経に説かれていること、上師が説かれたことを、そのまま行うのである。Never ask why――決して「なぜ」と問わない。そして、「今は時間がない」「今の私には能力がない」「今はそのような余裕がないから、こういうやり方でもよいだろうか」などと、決して自分で理由をつけて解釈することもしない。問わないのである!たとえ自分にはできないことであっても、勝手に変えてはならない。時機が到来し、自分にできると思った時には、できる限り行うのである。変えてはならない!もし変えてもよいのであれば、仏経の中に、「この方法でもよい、あの方法でもよい」と説かれているはずである。しかし、そのようには説かれていない。非常にはっきりと、「この通りにしなければならない!」と説かれているのである。だから先週も説いた。仏が説かれた一切の方法に従って修行すれば、必ず成就を得ることができる。では、あなた方はそれを行っているのか。行っていない。依然として、自分の方法に従って修行している。では、自分のどのような方法で修行しているのか。それは、都合のよい部分だけを切り取って解釈することである。自分が正しいと思う部分、自分にできる部分だけを行い、それ以外のことはすべて顧みないのである。

仏典曰く:「又復不樂禪悅之味。」
 
我々が禅を修めている時には、法喜が生じ、軽安も生じる。人によっては、とても楽しく、心地よく感じることもある。しかし、仏はそれに執着してはならないと説かれている。なぜなら、それは一つの過程にすぎず、結論ではないからである。もし、いつまでも「禅悦」に執着していれば、永遠にその境地に留まり、それ以上に進むことはできない。では、我々はさらに上へ進んで何をするのか。我々は法身菩薩となり、仏となるために進んでいくのである。そのため、一切の執着する心をすべて捨てなければならない。「禅悦」は一つの過程にすぎない。それは、我々が食べ物を食べるのと同じである。口に入れた時には、とてもおいしいと感じる。しかし、どれほどおいしくても、最後には飲み込んで消化しなければならない。いつまでも口の中に含んでいるものではない。どれほど長く口に含んでいても、その味は必ず消えてしまう。もし飲み込まなければ、胃には消化するものがなく、栄養を得ることもできない。これと同じことである。修行の過程において、ある境地や、ある感覚を得たからといって、それにいつまでも執着し、手放さないのであれば、栄養を得ることはできないのである。

あなた方も子供だったことがあるだろうし、家に子供がいて、食べ物を口に含んだまま飲み込まない時には、「早く飲み込みなさい」と言うだろう。そうではないか。あなた方は、飲み込まなければ栄養にならないことを知っている。仏が説かれているのも、これと同じ意味である。私がこれほど多く説いても、あなた方はそれを口の中でいつまでも噛んでいるだけで、自分は味わった、自分には何か感覚があったと思っている。しかし、それを飲み込まない。それで役に立つのか。役には立たない。出家して三十年以上になる弟子も、まさにこのようなものである。今になっても、たくさんの名詞を持ち出して私に話をしてくる。自分が以前に学んだと思っている仏法を、いまだに捨てることができないのである。私は今日、『宝積経』を説いているのであって、ほかの名詞について説いているのではない。つまり、今日、修行の過程で現れるいかなる境地であっても、それに執着するならば、永遠に空性を理解することはできず、永遠に智慧を開くこともできず、永遠に成就を得ることもできないのである。

まさに『金剛経』に説かれている、「魔来れば魔を斬り、仏来れば仏を斬る」ということである。その意味は、どのような境地を見たとしても、直ちにそれを断ち切らなければならないということである。その境地は偽りのものであり、因縁によって生じたものにすぎない。なぜなら、法身まで修める以前に見える一切のものは、すべて自分の意識から現れたものだからである。法身まで修めて初めて、何が正しいのかを見ることができる。法身まで修めていなければ、それを見ることはできない。現代の人にも理解できる言葉で言えば、その空間の中に入る以前には、その空間の中に何があるのかを理解することはできない。見ることができないのである。

例えば、先ほど私が修法していた時、私は西方浄土を観想していた。もし今日、あなた方が西方極楽世界へ往生することを発願しているのであれば、先ほど私が持咒していた時に、何らかの感覚があったはずである。もし発願していなければ、何も感じなかっただろう。では、どのような感覚なのか。とても清涼に感じ、風が吹き抜けるように感じ、鳥のさえずりが聞こえ、とてもよい香りがする。これらはすべて西方極楽世界のものである。これは、あなた方が上手に念誦したからではない。リンポチェが観想によって現したものなのである。観想によって現れた後も、これは縁起によって生じたものであり、永遠にここに存在するものではない。では、「心淨佛土淨」とはどういう意味なのか。自分の心が清浄でありさえすれば、どこへ行っても清浄なのである。
 
我々のこの道場は、上の階も下の階もすべて肉を食べるところであり、本来であれば清浄とは言えない。しかし、リンポチェは清浄であるため、同じように観想によって現すことができるのである。では、なぜ仏寺へ行くと、ここよりも加持の力が強いのか。それは、仏寺の土地全体が清浄であり、これまでそこで、してはならないようなことが行われていないからである。しかし、私にもどうしようもない。あなた方に毎週仏寺へ行くように言えば、おそらく少なくとも八十パーセントの人はいなくなるだろう。今、法会を午前中に変更しただけでも、すでに三人が来なくなった。あなた方は仏法を学ぶ者ではない。あなた方はただお参りするだけである。このような恒心も毅力もないのである。

昔は、仏寺へ行くこと自体が非常に大変であった。特に直貢噶舉の仏寺は、必ず山深いところにあり、市街地に建てることはなかった。これは祖師が定められたことである。我々はほかの宗派とは異なり、仏寺はすべて山深いところに建てられている。私の日本の道場も同じで、市街地から離れ、小高い丘の上にあり、人々の集まる場所から離れている。このようなところこそ、修行の地なのである。当初、縁起が始まった頃、リンポチェには仏寺を一つ建立するほどの資金がなかったため、やむを得ずこの場所を選んだ。この土地は吉祥な場所ではあったので、ここを道場として長年使ってきた。しかし、ここが最もよい場所なのか。私は良いとも悪いとも敢えて言わないが、少なくとも最も清浄な場所ではない。しかし、清浄ではない場所であっても、修行者の心が清浄でありさえすれば、同じように観想によって現すことができ、法会に参加する者にも同じように感じさせることができるのである。先ほど、何か感じたか。(大衆が「はい」と答える。)感じた者は、全員手を挙げなさい。(会場で多くの者が手を挙げる。)男性のほうは、手を挙げた者が非常に少ない。これは、彼らが浄土へ行くことを発願していないということである。そのため、自然に何も感じなかったのである。第二に、上師を信じていないからである。

仏典曰く:「諸菩薩雖復於身適悅。而無取著。復於禪定常樂大悲。」
 
一切の仏、一切の菩薩は、身体に生じる禅悦の感覚を繰り返し絶えず味わうことができる。これは身体の感覚であって、心の感覚ではない。しかし、仏や菩薩は、この感覚を修行の成就や修行の果報として捉えることはない。これはただ一つの過程にすぎないということを、はっきりと分かっているからである。禅定の中において、「常楽大悲」である。では、禅定の中における根本とは何なのか。大悲心である。まさに私が禅定の中で持咒している時と同じである。私の心は大悲心であり、すべての衆生が浄土へ行くことができるよう願っている。あなた方が浄土へ行くか、行かないか。それが私に何か影響するのか。何の影響もない。私は自分の咒を唱えていればよいし、自分のためだけに唱えていればよい。それなのに、なぜあなた方のために唱えるのか。私が禅定の中で持咒する時、私の心は大悲心である。すべての咒語は衆生を助けるためのものであり、自分自身を助けるためのものではない。しかし、不思議なことに、衆生を助けようとする時、自然に自分自身をも助けることになるのである。
 
多くの人が『普門品』を読むと、その中には、観世音菩薩が我々の世間におけるさまざまな問題を助け、解決してくださることが多く説かれている。そのため、多くの人は、観世音菩薩を念じ、観世音菩薩を礼拝し、六字大明咒を唱えさえすれば、『観世音菩薩普門品』に説かれていることは、すべて解決できると思っている。確かに、すべて解決することはできる。しかし、そこには法門があるのである。ただ『普門品』を読誦し、観世音菩薩の聖号を唱え、大悲咒を唱えるだけで、『普門品』に説かれているすべてのことを解決できるということではないのである。

なぜこのように言うのか。例えば、チベット仏教では、観世音菩薩には四臂観音、千手観音、獅子吼観音、馬頭観音、紅観音などがあり、緑度母も観世音菩薩の化身である。それぞれの本尊には、特定の事柄を対治するための法門があるのである。以前、私が『普門品』を読誦した時、「これはあまりにも簡単ではないか。唱えるだけで、これほど多くのことを解決できるのか」と思ったことがある。しかし、あなた方は一つのことをはっきりと理解しなければならない。釈迦牟尼仏がそれぞれの菩薩の法門を伝えられた時、その中で具体的にどのように修めるのかまでは伝えられていないのである。『普門品』には、どのように修めるのかが説かれているだろうか。ただ我々に、観世音菩薩を恭敬し、常に念じるようにと教えているだけである。この一句だけであり、それ以外に、どのように修めるのかは教えられていない。ただ、観世音菩薩には何ができるのかをあなた方に教え、観世音菩薩を信じるように説いているのである。では、どのように修めるのかを教えているだろうか。教えていないのである。

例えば、『普門品』の中に、「悲体戒雷震」という偈がある。顕教を一生学んだとしても、この一句をどのように解釈すればよいのか分からないのである。リンポチェは、出家して三十年以上になる弟子に尋ねられた。「これはどのように解釈するのか。あなたは何十年も学んできて、経を説いたこともあり、弟子を取ったこともある。これは以前、私が説いたことがあるように思うが。」(出家弟子が答える。「解釈できません。」)「なぜ解釈できないのか。漢字の一字一字なら、どれも解釈できるだろう。」(出家弟子が答える。「そこまで修めていないからです。」)

実際、釈迦牟尼仏が説かれた仏経の中には、多くの密法が含まれている。ただ、釈迦牟尼仏の時代には、顕と密に分けられてはいなかった。顕密が徐々に分かれていったのは、釈迦牟尼仏が涅槃に入られてから五百世後のことである。六字大明咒の最後の一字は何か。「吽」である。では、どのように唱えるのか。(リンポチェが「吽」の唱え方を示される。)「吽!」雷が鳴るように聞こえるだろう。(大衆が一斉に「はい!」と答える。)「吽」を唱える時、何が必要なのか。慈悲の体が必要である。そして、ほかに何が必要なのか。戒である。この「吽」を唱えるのであれば、雷が鳴り響くようでなければならない。では、何を震い開くのか。あなた方の業を震い開くのである。そうして初めて、釈迦牟尼仏が説かれた仏経を理解することができる。あなた方が唱える「吽」と、私が唱える「吽」とは違う。では、皆で一緒に「吽」と唱えて、私に聞かせてみなさい。(大衆が一斉に唱える。)「吽!」犬が吠えているのと同じだ。(大衆笑)
 
密宗では、この「吽」という一字を修めるだけでも、十数種の法門がある。私も密法を学ぶ以前は、この一句が理解できず、文字上の意味だけでは解釈することができなかった。「悲体戒雷震」とは、いったいどういう意味なのか。特に唐の時代の中国語は非常に簡潔であり、現在のように、一つの事柄を説明するために多くの文字を用いることはなかった。さらに、当時の翻訳の過程においても、もし観世音菩薩の法門を修めて成就を得ていなければ、この一句をどのように用いるのか、まったく分からなかったのである。たとえ、どのように用いるのかを知っていたとしても、この「吽」という一字を発することはできない。密法の気脈明点を修めたことがなければ、「吽」という一字を修めることもできず、「吽」という音をどこから発するのかさえ分からないのである。だからこそ、なぜ六字大明咒がこれほど得難いものなのか。それは、六字大明咒には、観世音菩薩のすべての功徳、事業、慈悲、願力が総集されているからである。「吽」という一字だけでも、十分に修めるものがある。我々は、この「吽」だけを修めることによって、累世の業を清めることさえできる。しかし、この法は伝えない。なぜなら、あなた方は密法を修める者ではないからである。リンポチェに求めさえすれば伝えてもらえるなどと思ってはならない。なぜ私が伝えなければならないのか。密法を修めることは言うまでもない。先ほど私が説いたことさえ、あなた方はまだ何一つ実践できていないのである。

だからこそ、「禅定常楽大悲」なのである。なぜなら、「吽」という一字を唱える者に大悲心がなければ、本当の意味でこの「吽」を唱えることはできないからである。簡単に言えば、済度する能力があって初めて「吽」を唱えることができ、その「吽」によって衆生を助け、済度することができるのである。

仏典曰く:「以是緣故留諸惑染。又於禪定不退等持。以是緣故厭離欲界。」
 
菩薩は「禅定常楽大悲心」をもって修める。このため、「留諸惑染。又於禪定不退等持」なのである。つまり、一切の惑、一切の汚染をそこに留め、自分の修行の中へ持ち込まないということである。しかし、今のあなた方は、疑惑や汚染を抱えたまま修行している。では、何を「汚染」というのか。例えば、観世音菩薩に、自分のために何かをしてもらおうと求めることである。仏門に帰依した時、自分が過去に行ったことをすべて徹底して上師に懺悔していない。そして、事が起きた時には、その果はすでに成熟しているのである。多くの人には一つの誤った考えがある。帰依して、少し懺悔文を唱え、少し礼拝して懺悔すれば、すべてのことを変えることができると思っている。しかし、それほど簡単なことではない。以前、私が顕教を学んでいた頃、我々の仏寺で梁皇宝懺が行われたことがある。丸五日間にわたる法会であった。昼食の時以外、私は休まず、朝から昼までずっと礼拝を続けた。途中には、皆が立ち上がって休憩し、トイレへ行ったり、水を飲んだりする時間もあった。しかし、私は休まなかった。その間もずっと礼拝を続けた。ほかの人が礼拝していなくても、私は礼拝し続けたのである。

あなた方の中にも、梁皇宝懺を修めたことのある者が多くいるだろう。修めたことのある者は手を挙げなさい。(会場で何人かが手を挙げる。)あなた方がこの懺法を修めたことで得たのは、ここへ来て私に叱られ、私から教えを受ける因縁ができたということだけである。あなた方の問題は解決したのか。あなた方は、私がしたようなやり方で礼拝したのか。ほかの人が休んでいる時にも休まず、ずっと礼拝を続けたのか。誰かが「師父が休憩すると言われました」と知らせ、「チン」と音が鳴った途端、皆は蜘蛛の子を散らすように散っていき、誰よりも早く走っていく。そして師父が礼拝に来る時には、ゆっくりとやって来る。中には功徳主である者もいて、ゆっくりと入って来る。さらに、わざわざその者を迎えて、「師姐、こちらがあなたのお席です」「功徳主、こちらがあなたのお席です」と言う者までいる。そして、その席にはほかの人を座らせようともしない。これは仏法ではない。この一句の意味は、仏法に対する一切の疑惑、一切の汚染を、すべてそこに留めなければならないということである。「留める」とは、それらを仏法を修める過程の中へ持ち込んではならないという意味なのである。
 
「又於禅定不退等持。」禅定に入った時、その禅定から退くことはない。禅定の力そのものはずっと変わらないのである。強くなる時もあれば、弱くなる時もあるが、「不退等持」なのである。「以是縁故厭離欲界。」禅定を修める者は、たとえ今日、禅坐をしていなくても、「等持」から退くことはない。つまり、禅定の境地を保つことから退かないということである。リンポチェがいつも説いているのと同じである。たとえ今日、私が禅坐をしていなくても、私は依然として定の境地にいる。なぜなら、すでにそのように訓練してきたからである。何かが起きたからといって、心全体が乱れ、仏法を忘れ、衆生を忘れ、自分が守るべきことまで忘れてしまうことはない。また、さまざまな欲望に引きつけられることもなく、心は定まり、「等持」を保つのである。「以是縁故厭離欲界。」まさにこのために、一切の欲界から遠ざかり、厭離するようになるのである。欲界とは、我々が今生まれているこの天のことである。欲界天にいるということは、再び輪廻を繰り返す準備をしているということなのである。

仏典曰く:「復於禪定修神通業。以是緣故。了知一切有情心行。」

 
長期にわたって禅定を修めている者は、自然に通が開き、神通が現れるようになる。神通には実にさまざまなものがある。しかし、神通があるからといって、修行において大きな成就を得たことを意味するわけではない。衆生の業を変えることができるということでもなく、修法する力がほかの人より優れているということでもない。最も簡単な例を挙げよう。もうすぐ旧暦の七月になる。目犍連尊者は、釈迦牟尼仏の弟子の中で神通第一であった。その母親は餓鬼道に堕ちていた。目犍連尊者は神通によって母親の姿を見つけ、さらに神通を使って母親に食べ物を届けた。しかし、母親はそれを食べることができなかった。なぜなら、餓鬼道の衆生は食べ物を食べることができず、食べ物はすべて喉に至ると燃えてしまい、非常に苦しむからである。目犍連尊者は、あらゆる神通を用いて母親を助けようとしたが、それでも母親を済度することはできなかった。そのため、釈迦牟尼仏のもとへ戻り、助けを求めたのである。その時は、ちょうど結夏の期間であった。そこで釈迦牟尼仏は目犍連尊者に、結夏が終わった後、結夏を終えて出てきたすべての出家者に供養し、食べ物や飲み物を供養するようにと教えられた。そうすることによって、初めて母親は餓鬼道を離れることができたのである。仏経には、目犍連尊者がどれほどの期間、どれほどの量を供養したのかは説かれていない。しかし、私が思うに、絶対に一日だけであったはずはない。

現在は「斎僧」が流行しており、皆で集まって一緒に一食を食べればよいと思っている。しかし、そういうことではない。閉関していなければならないのである。昔、釈迦牟尼仏に従って閉関していた者たちは、阿羅漢、あるいは阿羅漢になろうとしている準阿羅漢であり、一般の凡夫僧ではなかった。だからこそ、彼らが閉関を終えて出てきた時に供養すれば、その功徳は非常に大きく、その功徳を母親に回向することによって、母親は餓鬼道を離れることができたのである。多くの人が私のところへ済度を求めに来る。私はいつも、亡者のお金を出して供養しなさいと彼らに言っている。私に供養するのではない。ほかの人に供養するのである。しかし、十人いれば十人とも、それをしない。それで、どうやって済度できるというのか。多くの人は、「跪いてあなたに済度をお願いすれば、あなたは修法して助けるべきだ。あなたには慈悲があり、菩薩道を修めているのだから、衆生を済度するべきだ」と思っている。私と目犍連尊者とでは、どちらが優れているのか。当然、目犍連尊者のほうが私より優れている。その目犍連尊者でさえ、千人以上の出家者に斎僧をしなければならなかったのである。今では、旧暦七月になると出家者を招いて食事を供養し、それで功徳があると思っている。一群の人がそこに座って、「これはおいしい」「これはおいしくない」「これはもう少し食べよう」などと話している。それのどこが斎僧なのか。斎僧の対象となるのは、必ず閉関を終えて出てきた出家者であり、出関したその日に、その最初の食事を供養するのである。

このことは、リンポチェも実際に行ったことがある。以前、法王が何人もの出家者を集めて閉関を行われたことがあった。(尊勝なる直貢チェ・ツァン法王の公式サイトにて、「国際大乗比丘尼合同結夏安居」閉幕式のお知らせが発表された。)何人だったかはもう忘れたが、確か数十人の出家者が閉関していた。その時、法王が私に、「あなたが供養しなさい」と言われた。私は、「はい」と答えた。閉関の初日から、最後に出関する日まで、すべての食事を、毎日私が供養したのである。たとえあなた方がこのようなことをしたいと思っても、その機会があるとは限らない。何十人もの出家者が実際に閉関しているという因縁も必要だからである。リンポチェには、このようなことを行うことのできる因縁と福報がある。そして、これほど多くのことを行ってきたのも、すべて衆生を助けるためなのである。つまり、上師というものは、弟子が仏法を学ぶための福報を得られるよう、絶えず因縁を作って与えるのである。たとえ弟子を追い出そうと、叱ろうと、叩こうと、それも同じである。昨日も、私の弟子が出家者に対して恭敬の心を持たなかったので、叩かれた。私がきちんと彼を教えていなかったのだから、当然、叩かなければならないのである。

この数句の意味は、第一に、禅定を修める時には、決して外道の禅定を用いてはならないということである。第二に、禅定を修める時には、禅定によって生じるこのような感覚や悦びを享受し、それに耽ってはならない。禅定とは、さらに修行を続けるためのものであるということを忘れてはならないのである。第三に、禅定を得れば、神通が開くようになる。しかし、神通を得たとしても、「以是縁故。了知一切有情心行。」なのである。つまり、禅定を得ることによって神通が開いたとしても、その神通は自分自身のために用いるものではない。一切の有情の心行を了知するためのものなのである。相手の心を了知するのは、その者を助けるためである。神通があるからといって、相手が何を考えているのかを知り、次はどのように相手に対処しようかと考えるためではない。例えば、法を求めに来て叱られる者がいる。それは、その者の心が正しくないからである。最近、多くの人が、父母を「離苦得楽」させてほしいと求めに来るが、私はもう彼らを叱る気にさえならない。仏法でいう「離苦得楽」とは、病気にならないことでも、病苦がなくなることでも、病気が早く治ることでも、早く死んで苦しみから離れることでもない。「離苦」とは、輪廻の苦から離れることである。そして「楽」とは、二度と輪廻することのない永遠の楽なのである。あなた方は、この一生ではそこまで修めることができない。だからこそ、なぜあなた方に浄土への往生を願うよう教えているのか。浄土へ行って初めて、永遠の楽を得ることができるからである。いわゆる「離苦得楽」とは、生死の苦、輪廻の苦から離れることである。我々は浄土へ行き、永遠に生死することのない楽、二度と輪廻することのない楽を得るのである。

先ほど、大勢の男性が手を挙げなかった。彼らはこの一生において、浄土に往生したいと絶対に発願していない。自分なら修行によって成し遂げられると思っているのである。だから、私が何をしても、彼らには何も感じられない。なぜなら、私は浄土の法を修めているのに、彼らは浄土へ行きたくないからである。これらの男性は皆、死ぬことをとても恐れている。ただ、口に出して言おうとしないだけである。浄土へ行くと言えば、多くのものがなくなり、もしかすると早く死んでしまうのではないかと思っている。安心しなさい。浄土へ行きたいと願ったからといって、早く死ぬことはない。なぜなら、すべての債を返し終えて初めて、浄土へ行くことができるからである。だから、仏菩薩はあなたをもう少し長く生かし、すべての債を返し終えてから、浄土へ行けるようにしてくださるのである。債を返し終えていなければ、浄土へ行くことはできないのである。

いわゆる「帯業往生」とは、悪業を携えて往生するという意味ではなく、善業を携えて往生するという意味である。多くの人がこれを誤って解釈し、あらゆる業をそのまま持って行けると思っている。先に悪いことを山ほどしておいて、それから阿弥陀仏に、「私は今ここに来ました。さあ、私を連れて行ってください」と言えばよいと思っている。そんなことができるだろうか。できない。そういう意味ではないのである。携えて行くことができるのは善業だけである。しかし、ほかの浄土では、善業でさえ携えて行くことはできない。この一生で造った善業も悪業も、この一生のうちにすべて了結し、すべての債を返し終えなければならず、持って行くことはできないのである。ただ阿弥陀仏の西方浄土だけは方便の門を開いてくださっているので、たとえ善業がまだ了結していなくても、それを携えて往生することができる。しかし、悪業については、この一生で絶対にすべて返し終えなければならない。悪業を携えて行くことは許されない。なぜなら、それでは西方浄土へ行くことができないからである。仏経には非常にはっきりと説かれている。西方浄土とは、諸々の大善人が往生するところなのである。あなたは善人なのか。そうではない。それなら、どうやって行くというのか。だから、先ほどの男性たちは皆、手を挙げようとしなかった。まだ悪を造っているからである。しかも、自分が悪を造っていることさえ分かっておらず、自分は悪を造っていないと思っているのである。

仏典曰く:「又於禪定通達實際。以是緣故得心智自在。復於禪定得等至智。以是緣故。普遍一切色無色界。」
 
この数句の意味は、たとえ禅定を得たとしても、それはただ途中にある一つの境地、一つの過程、一つの過渡にすぎないということである。禅定を得ることで最も重要なのは、神通が開き、衆生の心を了知した後、「又於禅定通達実際」となることである。つまり、禅定があることによって、「通達実際」するのである。今、過去、未来に何が起こるのかを、推測するのではなく、実際にはっきりと知るのである。多くの人はいつも推測している。「自分はこのように修めてよいのだろうか。成就できるのだろうか。このように礼拝すれば、仏菩薩には聞こえているのだろうか。」すべて推測なのである。なぜ推測するのか。禅定がないからである。もし今日、禅定があれば、神通は自然についてくる。そして、自分自身や衆生が修行の中で何を正しく行い、何を間違って行っているのかを、実際にはっきりと知ることができるのである。相手が間違っていることが分かれば、上師である以上、必ずそれを正し、必ずさまざまな方法を用いて警告するのである。
 
例えば昨日、私の弟子が出家者に対して恭敬の心を持たなかったので、私はその場ですぐに叩いた。翌日まで待ってから教訓するようなことはしない。本人は、「そんなに重大なことなのか。ただ自ら彼女を手伝っただけではないか」と思っている。第一に、私に尋ねてもいないのだから、勝手に行って手伝う権利などない。第二に、その出家者は女性である。なおさら、あなたが彼女に近づく理由などない。まったく恭敬の心がない!(リンポチェが過ちを犯した法務組の弟子を厳しく叱責される。)法務組に入ったから偉いとでも思っているのか。いつからあなたが仕切る立場になったのだ。でたらめなことをするな。その出家者の修行が良いか悪いかにかかわらず、少なくとも彼女は出家している。あなたは出家していない。それなのに、あなたが彼女に教えようとするのか!あなたが何を考えていたのか、私はよく分かっている。「リンポチェは状況を把握しておられる。彼女の動きが遅ければリンポチェが怒られる。リンポチェを怒らせないために、自分が行って彼女を手伝えば、自分には功徳がある。」そう思っていたのだろう。あなたに何の関係があるのか。勝手に自分は賢いと思い込み、何一つ学んでもいないのに、もう傲慢になっている。昨日のあなたの行為は、『地蔵経』で説かれている三宝を軽視する行為であり、死後は地獄に堕ちる。教えなかったのか。これまで言ったことがなかったのか。

「以是縁故得心智自在。」このような禅定に執着せず、禅定とは修行における一つの過程にすぎず、さらには一つの道具にすぎないと分かっているからこそ、「心智自在」となり、身と智慧の自在を得るのである。「自在」とは、何かをしようとわざわざ考えたり、意図的に心を動かしたり、何かを成し遂げようと考えたりする必要がなく、自然にそれを行うことができるという意味である。例えば昨日の彼の行動も、あなた方には何が問題なのか分からないだろう。ほかの人から見れば、彼は出家者を手伝いに来て、出家者が上師に叱られないようにしてあげたように見える。しかし、上師である私は、彼が間違っていることが分かる。このようなやり方で出家者に教えることは許されないからである。私が指示したのでない限り、そのようなことをしてはならない。だから私は彼を叩かずにはいられなかった。なぜなら、私は彼が地獄に堕ちるのを見たくないからである。もし私に禅定も神通もなく、ただ世俗的な上師にすぎなかったなら、昨日、彼がそのようにするのを見て、とても喜んだだろう。「この弟子はなかなか気が利く。この女性の出家者は動きが遅いと分かって手伝いに来て、リンポチェの時間まで少し節約してくれた」と思っただろう。しかし、私はそうではない。修行があるかどうかということさえ抜きにしても、私は八十歳まで生きてきて、あまりにも多くの人を見てきた。私の前でうまく立ち回ろうとしても、そう簡単にはいかない。私は中国大陸から香港へ行き、香港からこちらへ来て、こちらからまた中国大陸へ行き、日本にも行ってきた。私は普通の人間なのか。東西南北、ありとあらゆる人を見てきた。台湾語を話す人、国語を話す人、広東語を話す人、チベット語を話す人、さらには私には分からない言葉を話す人まで、あらゆる人に会ってきた。それなのに、あなた方が私を相手に小細工をしようというのか。身の程を知らない。ほんの少し表面的なことを知っただけで、自分は大したものだと思い、何でも自分で解決できると思っているのか。まだまだ早い。

「復於禅定得等至智。」「等至智」というのは、「智に至るまで待つ」という意味ではない。我々は五智を開発しなければならない。五智が開発されて初めて、五種の智慧、すなわち仏の智慧となるのである。この智慧は、我々が何かを転じて新たに作り出すものではない。この五種の智慧は、もともと我々に具わっているものなのである。我々が禅定を修め、その境地に至った時、禅定の力によって、もともと具わっているこの五種の智慧が自然に開発されるのである。「等至智」とは、すなわち最高の智慧に至ることなのである。

「以是縁故。普遍一切色無色界。」このような境地まで修めた者、すなわち菩薩は、「普遍一切色無色界」することができるのである。前では、欲界天を離れると説かれていた。ここでは、その者の能力によって、色界天と無色界天の衆生まで助けることができると説かれている。無色界天は通常、阿羅漢の四果を修めた者が至る天であり、一般の修行者が行くことのできるところではない。しかし、無色界天まで修めた者も非常に傲慢である。なぜなら、無色界天まで修めた者は、自分の禅定は非常に優れていると思い、それによって傲慢になるからである。そのため、彼らは普通の者の言うことには耳を傾けない。その菩薩の果位が非常に高く、説く法義も非常に深く、しかも自分がこれまで学んだことのないものであると認めた時に初めて、その菩薩の説くことに耳を傾けるのである。

我々は常に、五方仏は五智を表していると説いている。もしこの「等至智」、すなわち五智を得ておらず、五智が開発されていないのであれば、その能力が天界にまで及ぶことはあり得ず、ましてや最も高い無色界天にまで及ぶことなどあり得ない。したがって、三界の衆生を済度しようとするならば、必ずこのような能力を具えていなければならないのである。このような能力もないのに、台湾では「天語を話す」「天人の文字を書く」といったことが流行している。まったくのでたらめである。私も、そのような人に会ったことがある。その人が書いたものは、いわゆる鬼画符(下手くそな字)よりも少し見栄えがよい程度のものだった。「なぜこのようになるのか」と尋ねると、その人は、「自然にそうなるのです。突然、手が勝手に動き出すのです」と言った。幸い、私は幼い頃に道教を学んだことがあるので、よく覚えている。道教で禅定を修めている時、手が勝手に動いたり、何かが見えたりする者がいると、私の父は藤の鞭で叩いた。父は、「お前の心が動いている。鬼に憑かれている。そんなものはすべて偽物だ」と言っていた。だからこそ、仏法を学んでいれば、このようなことは起こらないのである。
 
仏法を学ぶことの難しさは、どこにあるのか。自己中心があまりにも強いことにある。例えば、これらの男性は自己中心が非常に強いので、修行するのは難しい。それでも、ここに座り続けて逃げ出さないだけで、私はもう彼らを大したものだと思っている。彼らはいつも、自分は男だからという、男としてのプライドを持っている。男だからといって、何をそんなに誇ることがあるのか。母親があなたを産んでくれなければ、何を誇るというのか!男性の出家者が前を歩き、女性の出家者が後ろを歩く。これは戒律であって、男性のほうが尊重されているということとは何の関係もない。くれぐれも、男には男の尊厳があるなどと思ってはならない。男の尊厳が欲しいのなら、妻には何もさせず、すべてのことを自分で引き受けなさい。毎月、妻が欲しいと言うものは何でも与える。それなら、確かに男の尊厳があるだろう。(大衆笑)妻には働かせない。妻が、「暇で退屈だから、何か仕事をしたい」と言うなら、店を一軒開いてあげればよい。赤字になっても構わない。それこそが、男の尊厳というものだ。
 
仏典曰く:「又於禪定至極寂靜。以是緣故。於聲聞緣覺三摩鉢底。而求增長。」
 
禅定を修めると、我々は寂静を得る。私もかつて、このような境地に入ったことがある。禅定に入っている時、あらゆる音が聞こえなくなり、あらゆる感覚もなくなり、ただ自分が呼吸していることだけを感じていた。非常に寂静で、念頭もすべてなくなっていた。初めてこのような境地に入ったのは、自宅にいた時だった。突然、耳元で女性の笑い声が聞こえ、それで私は定から覚めた。見ると、すでに二時間近くが経っていた。このような境地は非常に危険である。なぜなら、この境地に入ると非常に心地よく感じ、そのまま出てこなければ、生きた死人になってしまうからである。つまり、身体は生きているが、動くことができなくなるのである。もちろん、それを取り上げて、「見てみなさい。あの人はあそこに座ったまま、食べもせず、飲みもせず、それでも死なない。修行に成功したのだ」と文章を書くこともできるだろう。しかし、仏法から見れば、その人は生きた死人なのである。これを「極寂静」という。私は実際に、このような境地を経験したことがある。目には何も見えず、耳にも何も聞こえず、まったく音がない。誰かが何を話していても分からない。家の中で誰かがガチャガチャと大きな音を立てていても、まったく分からなかった。そのように、非常に寂静な状態へと入っていったのである。

もう一度、ある友人に連れられて、とある仏寺へ行ったことがある。そこには仏塔があり、その中には観世音菩薩が祀られていた。ちょうど大雨が降って帰ることができなかったので、私はそこに座って禅定に入った。すると、またあの境地に入り、何も聞こえなくなった。突然、友人の電話が鳴り、その音で私は定から覚めた。見ると、また三十分ほど経っていた。すると友人が、「老顏、あなたはそこに座ったままで、私たちは退屈で死にそうだったよ」と文句を言った。この二度の経験を経て、私は、禅定とはこのような境地を追い求めるものではないと分かったのである。なぜなら、極寂静の境地に入ると、何も行わなくなるからである。例えば、私が衆生を済度したいと思っていたとしても、心が完全に寂静になってしまえば、衆生を済度することができない。衆生を助けたいという慈悲心さえ起こらなくなるのである。したがって、年老いた僧侶が入定しているのを見たからといって、それが必ずしも良いことを意味するわけではない。我々のように菩薩道を修める者にとっては、このような状態は良いことではないのである。

我々には寂静が必要である。しかし、極寂静であってはならない。完全に寂静となり、まるで一本の枯れ木のように、ただそこに座っているだけになってしまってはならないのである。リンポチェがこれらのことを説明できるのは、実際にこのような境地を経験し、自ら修め、それがどのようなものなのかを知っているからである。私が密法を学び始めてから、このような極寂静の境地は、自分の修行にとっても、菩薩道を修めるうえでも何の助けにもならないことが分かった。だからといって、私はそれを放棄したのではない。ただ、もうその境地には入らないのである。多くの人は禅を学ぶ時、とても静かになりたい、心をとても平静にしたい、何もない状態になりたいと願っている。しかし、そのようになれば、木のようになってしまう。禅定を修めるために禅坐するのは、そのような状態になるためではない。このことについては、今後、大手印を修める時に、少しずつ説明していく。

このような「至極寂静」の禅定を修めるからこそ、「以是縁故。於声聞縁覚三摩鉢底。而求増長。」なのである。このような禅定は、声聞・縁覚が修める禅定である。声聞・縁覚には、衆生を済度しようとする心がない。なぜなら、極寂静の境地に入った後、さらにこの寂静を求め、その境地を引き続き増長させようとするからである。このような修行は、阿羅漢になるための修行であり、菩薩道を修めることとは関係がないのである。
 
仏典曰く:「復於禪定而無動亂。以是緣故住極究竟。」

禅定に入っている時、心は動かず、乱れることもない。このため、究極の境地に安住することができる。つまり、修法することができ、究竟に至ることができるのである。例えば、私が衆生を済度しようとしても、もし私に禅定がなければ、一つの境地の中でその衆生を超度することはできない。したがって、禅定がなければならないのである。しかし、禅定というものは、同時に非常に危険でもある。もしその違いをはっきりと見分けることができなければ、外道の禅になってしまうのである。

仏典曰く:「又於禪定常行對治。以是緣故。而不住彼相續習氣。」

「又於禅定常行対治。」禅定に入っている時、突然、ある念頭が現れることがある。また、過去の出来事が突然現れることもある。これは、あなた方が言うところの「潜在意識」であり、仏法で言えば、阿頼耶識の中にあるものである。禅定に入ると、阿頼耶識の中に蓄えられている多くの情報が現れてくる。禅定の中で、このように現れてきたもの、すなわち過去に自分が行ったことや、考えたことが現れた時、直ちにどのような方法を用いて対治すべきかが分かる。つまり、それ以上増長させないようにするのである。そのため、密法には、阿頼耶識を専門に修める法門がある。なぜなら、阿頼耶識には、我々が過去から現在に至るまで行ってきたこと、口にしてきた言葉が、すべて蓄えられているからである。それは、今でいうクラウドのようなものである。すべてがそこに保存されており、因縁と時機が熟すと、それを呼び出すかのように現れてくる。そして、ひとたび現れると、再び同じことを行うようになるのである。

我々の阿頼耶識は、普段は動いていない。ただ絶えず、さまざまなものを蓄積し続けているのである。我々が何かを行うことによって阿頼耶識が刺激されると、その中にあるものが働き始める。例えば、阿頼耶識の中に善の種子があり、自分が多くの善を行えば、その善の阿頼耶識はさらに増長し、我々が善を行う力もますます強くなる。反対に、阿頼耶識の中に悪の種子があり、自分が悪を行えば、阿頼耶識の中にある悪が現れ、悪を行う力がさらに増長するのである。つまり、我々が禅定に入っている時には、阿頼耶識の中に蓄えられているすべての情報を改めて整理し、もう一度見直すことができる。その中に良くないものがあることに気づいたなら、それを対治しなければならない。何をもって対治するのか。例えば、非常に貪欲であるなら、布施することを知らなければならない。いつも人を憎んでいるのであれば、慈悲を持つことを知らなければならない。そして、それが現れた時には、直ちに対治しなければならない。後で改めて念じようということではない。その場で、禅定の中において直ちに対治しなければならないのである。
 
 「以是縁故。而不住彼相続習気。」私のこの解釈は、仏の開示に基づいている。このように対治することによって、習気がそのまま相続し、続いて生じることがなくなるという意味である。分かっただろうか。しかし、これは非常に難しい。禅定によって阿頼耶識の中にあるものをCall(呼び出す)ことができるだけでも、大変なことなのである。だからこそ、なぜあなた方に、毎晩寝る前に『仏子行三十七頌』を用いて自分自身を省みるよう教えているのか。これこそが「対治」なのである。我々は無上瑜伽部まで修めても、なお金剛薩埵を修めて懺悔しなければならない。それなのに、あなた方は何様のつもりで、懺悔する必要がないと思っているのか。懺悔したからといって、「過」はそのまま過ぎ去って終わったということではない。我々は、一日でもまだ成仏していない限り、成仏するまでは、必ずどこかにきちんとできていないところがある。だからこそ、毎回修法する前には、必ず懺悔しなければならないのである。生生世世において、身・口・意によって犯してきた善悪の業が、自分の修行を障礙していることを懺悔するのである。例えば、今ここにいる出家して三十年以上になる弟子も、一つの習慣を身につけてしまっている。多くの善悪の業が彼の心の中にあり、それに今も執着し、しっかりと掴んで手放そうとしない。そして、それらを自分の蓄え、自分の元手だと思っている。しかし、その元手だと思っているものこそが、かえって彼を害しているのである。
 
ここでは、なぜ我々が六波羅蜜を修めるのかが、非常にはっきりと説かれている。六波羅蜜を修め、禅定の境地に至って初めて、自分にまだどのような欠点が残っているのかを見つけ出し、直ちにそれを対治する方法を見つけることができるのである。例えば、持咒している時、心がそれほど乱れておらず、長く持咒を続けていると、突然、自分が以前に何か間違ったことをしたのを思い出すことがあるだろう。あるか。(大衆が一斉に「あります」と答える。)普段は思い出さない。普段であれば、多くのことについて、自分が間違っていたなどとは思いもしない。しかし、持咒している時には、それが現れてくる。なぜなら、持咒によって我々の禅定が働き始めるからである。そして、自分の阿頼耶識の中に、まだどのような間違ったものが残っているのかが見えてくる。それが見えたなら、直ちにどのように対治すべきかが分かる。そうすることによって、その習気はそれ以上相続していかなくなるのである。あなたがこの一生で人を騙すのは、生生世世において人を騙してきたからである。誰を騙したかは関係ない。人を騙したことがあるなら、地獄に堕ちる準備をしているということである。

多くの人は、仏門に帰依すれば、それまでに自分が犯してきた過ちや悪いことはすべてなくなり、仏菩薩がそれらを消してくださって、自分は安心して修行できるようになると思っている。
しかし、そのようなことはない。私は、まず二年間菜食をしてから皈依した。そして皈依した後、密法を学び始めると、すぐに破産した。たちまち食事をするお金さえなくなった。何と可哀想なことだろう。しかし、これも私自身の業なのである。一般の人の考え方であれば、「仏法を学べば学ぶほど、ますます運が悪くなった」と思うだろう。しかし、運が悪くなったのではない。私はむしろ、とても嬉しかった。なぜなら、私は債を返していたからである。私は、修行によって成就できなくなるよりも、このように債を返すほうを選ぶ。地獄に堕ちるよりも、このように債を返すほうがよい。私は債を返しているのだから、心配することはない。したがって、禅定を修めるうえで重要なのは、自分には禅定がある、神通がある、ほかの人とは違う、ということではない。最も重要なのは、禅定というこの道具を用いて、自分がさらに修行を続けていくのを助けることなのである。

仏典曰く:「復於禪定得最勝慧。以是緣故。於諸世間而為第一。」

常に禅定を修めている者は、最も殊勝な智慧を得ることができる。いわゆる智慧とは、人が学んで身につけた学問でも、経験でもなく、物事を細かく分析して理解する能力でもない。慧は、すべての有情衆生が本来具えているものである。しかし、我々は生生世世にわたって輪廻を繰り返してきたため、この清浄な智慧が覆い隠されてしまっているのである。禅定を修めることによって、この本来具わっている智慧が開かれていく。智慧が開かれた後、「以是縁故。於諸世間而為第一。」となるのである。最も殊勝な智慧が開かれれば、あらゆる世間法においても、出世間法においても第一となる。物事を非常に容易に、そして徹底して見通すことができるようになり、それをどのように処理し、どのように解決すべきかが分かる。そして、後に問題を残すこともない。このように物事を処理し、解決するためには、智慧が必要なのである。
 
私の考えでは、すべてのことは衆生を第一に考えなければならない。もし禅定がなければ、それはできないのである。例えば最近、私は仏寺で仏塔を建立している。その工事で使用するクレーンの費用が二十数万かかることになっていたが、林姓の弟子が私のために値段を交渉し、最終的に何万元安くなったのか。林姓の弟子は来ているか。いくら安くなったのか。(林姓の弟子が答える。「リンポチェにご報告申し上げます。四万余りです。」)そこで私は林姓の弟子に、「その浮いたお金を基金会に戻すのではなく、工事をしている人たちに渡しなさい。彼らは残業までして、とても大変なのだから」と言った。彼らは何と答えたのか。(林姓の弟子が答える。「リンポチェにご報告申し上げます。作業員たちは、『これまで、このようなことは一度もありませんでした。すでに二十一万余りまで値下げしたにもかかわらず、リンポチェは二十三万を支払ってくださるとのことです。それは、リンポチェがこの工事を非常に重視しておられるということだと思います。ですから、皆リンポチェに感謝しており、工事では特に注意を払い、きちんと仕上げます』と言っていました。」)これが、智慧を用いて物事を解決するということなのである。
彼らはまだ私のために費用を節約しようとしていた。私が多くの信衆に説明しなければならないと思い、値段を交渉してくれたのである。しかし、問題は、作業員たちも大変だということである。彼らは我々からわずかな利益を得るために、大きな危険を冒して仕事をしている。だから、少し多めに渡してあげればよい。ほんの少しであり、それほど多い金額でもない。しかし、彼らはとても喜んだ。自分たちが大切にされ、重視されていると感じたからである。

仏経には、為政者が行うことを見て、自分が気に入らないのであれば、気に入らないと思うだけにして、悪意をもって批判してはならないと説かれている。なぜなのか。それはあなた自身の業だからである。あなたの業が良く、福報があるのであれば、このような政府が現れるだろうか。このような為政者が現れるだろうか。これは我々皆の共業なのである。その人に投票したかどうかにかかわらず、同じようにその影響を受けるのである。リンポチェは彼らを罵っただろうか。罵ってはいない。ただ、「あまりにも度を越している」と言っただけである。したがって、仏法の考え方とは、世間法であろうと出世間法であろうと、ほんのわずかな業力さえ残さないようにすることを我々に教えるものである。たとえそれが善いことであっても、良いことであっても、すべてにおいて注意しなければならないのである。

例えば、リンポチェは数千万元を衛生福利部に預けている。慈善団体から寄付をお願いする手紙が届くたびに、私はまず衛生福利部に、「この団体について、どのように見ていますか」と尋ねる。なぜなら、彼らのほうが私よりも、その団体について必ずよく分かっているからである。最近も、私は数百万元を市政府に寄付した。なぜなら、市政府が何を行っているのかを、私ははっきりと分かっているからである。市政府から表に出てほしいと言われても、私は出ない。表彰を受けに来てほしいと言われても、私は行かない。これは、彼らを見下しているからではない。私はそのように目立ちたくないからである。なぜなら、彼らが協力してくれなければ、私にもこの善事を行う機会はなかったからである。表に立つべきなのは彼らであって、私ではない。それなのに、なぜ私がわざわざ表に出る必要があるのか。お金を出したからといって、何がそんなに偉いのか。だから私は出て行かない。市政府は非常に誠意をもって招待してくれ、人までここへ遣わし、跪いてお願いしてきたが、それでも私は行かなかった。なぜなら、私の考え方はほかの人とは違うからである。彼らが話を持ってきてくれず、彼らが協力してくれなければ、私にはこの善事を行う機会そのものがなかった。私がお金を出したから善事を行えた、ということではないのである。簡単に言えば、あなたの寄付を受け取ってくれる人がいなければ、お金があったところで何の役に立つのか。福報も因縁もなければ、善いことをしたいと思っても、その機会さえないのである。私は実際に、そのような人に会ったことがある。善事をするように言っても、供養や寄付を受けてくれる相手さえ見つけることができず、どうすることもできなかったのである。

例えば、苗栗県政府にも私は数百万元を寄付している。私は、「県政府の救済対象には入っていないが、本当に助けを必要としている困窮者がいれば、私に代わって渡してください」と伝えている。彼らが調べると、助けを必要としている人は大勢いる。しかし、中には刑務所に入ったためにお金がない人や、家族が亡くなった後、財産分与がまだまとまっていないためにお金がない人もいる。私は、「そういう人には渡さない」と言っている。なぜ渡さないのか。自分が法を犯したことで次の世代に苦労させる。それは非常に重い業力である。それなのに、私がその業を解決する手助けまでしなければならないのか。また、人が亡くなり、財産分与がまとまらないためにお金がないというのであれば、何を争っているのか。そのような場合にも渡さない。しかし、棺を買うお金がない人、病気を治療するお金がない人、食べるお金がない人、学校に通うお金がない人には、私は援助する。そして、一件一件、何に使ったのかを明確に記録してもらう。善事を行うにも、智慧が必要なのである。何でもかんでも人に良くするお人好しになってはならない。仏経にも説かれている。お人好しをしていれば、それでよいということではなく、そのようなやり方でも地獄に堕ちるのである。お金をすべてどこかの機関に渡して、「あとは私の代わりに寄付しておいてください」と言い、その後どう使われたのかは一切関知しない。それでよいと思ってはならない。そのようなやり方ではいけないのである。
 

 「禅定得最勝慧。以是縁故。於諸世間而為第一。」つまり、このような智慧を具えていれば、世間においてどのようなことが起きても、自らよく思惟したうえで、必ず智慧と慈悲を用い、衆生を傷つけない方法によって、物事をきちんと処理することができるということである。例えば、先ほどのクレーンの件もそうである。私が値段を下げるよう交渉すれば、相手は私の仕事を受けたいのだから、当然、値下げに応じる。しかし、相手の心は気持ちよいだろうか。絶対に気持ちよくはない。中には、私が非常に厳しく値段を下げさせる場合もある。なぜなら、あなたが多く利益を得ているのであれば、私は値段を下げるからである。そのようにして、私は仏寺のために多くのお金を節約してきた。今に至るまで、リンポチェは仏寺から一銭たりとも自分のために支出させたことはない。例えば、私のために食事を作りに来てくれる人たちについても、調理にかかる費用や食材を買う費用は仏寺が負担しているが、彼らの交通費は仏寺から出していない。したがって、我々仏法を学ぶ者は、善を行う時に功徳を貪ってはならないことを知らなければならない。智慧を持ち、物事をよく見極めなければならず、軽々しく行ってはならない。自分は多くの善事を行ったなどと吹聴していれば、かえって逆効果になってしまうのである。また、人から供養を受けることにも智慧が必要であり、何でも軽々しく受け取ってよいわけではない。たとえ私の弟子からの供養であっても、私は必ず受け取るとは限らない。それは、その弟子が何か間違ったことをしたからとは限らない。時には、その者の状況を見て判断するのである。そのような状況にある者から供養を受け取るなど、どうして忍びないと思わずにいられるだろうか。それでも向上心のある者であれば、千元だけ受け取ってあげるのである。

先ほど、私は出家弟子に尋ねた。昨日、私はどれほどの供養をお返ししたのか。(出家弟子が答える。「控えめに見積もって三百万元、概算では三百三十万元ほどです。」)先ほどからこの話をしているが、なぜ誰も私を止めてくれなかったのか。(大衆笑)だから、智慧がなければ、世間法であろうと仏法であろうと、すべて間違いを犯してしまうのである。昨日、私が三百万元多く受け取ったところで、何の問題があるだろうか。彼らは皆、心から喜んで供養しているのである。しかし、リンポチェは見なければならない。その者の状況を見、その者の心を見なければならないのである。だからといって、私はすべての供養を受け取らないわけではない。向上心のある者であれば、千元だけ受け取ってあげる。そうすれば、その者も嬉しいし、私も嬉しい。なぜ私が嬉しいのか。それほど多くを背負わなくて済むからである。では、なぜその者が嬉しいのか。リンポチェが自分の供養を受け取ってくださったからである。
 

もし今日、六波羅蜜を順序に従って一歩一歩修めていないのに、私に「自分は菩薩道を修めています」と言うのであれば、一体何の菩薩道を修めているというのか。あなた方は修めていない。菩薩道を修めるところまで至っていないのであれば、おとなしく浄土への往生を求めなさい。もう、「リンポチェにお願いして、この法を伝えていただこう」などと考えてはならない。あなたに伝えて、何になるというのか。少し多く学べば、大師兄にでもなれると思っているのか。私のところは武術道場ではない。大師兄も、二師兄も、三師兄もいない。私は、あなたの修行の過程と修行の成果に基づいて、さらに多くの法を伝えるのである。そうでなければ、私は伝えない。今も私の手元には、多くの法本がある。しかし、どれも伝えていない。なぜなら、弟子たちの「男の尊厳」があまりにも強すぎて、法を伝え続けることができないからである。私にも「男の尊厳」がある。それなら、どうすればよいのか。皆で比べ合ったところで、あなた方が私に勝てるはずはない。それなら、いっそのこと伝えないことにしよう。

仏典曰く:「又於禪定。而先通解有情心意。」

まさに禅定があるからこそ、まず通解することができる。すなわち、有情の心が何を考えているのかを通達し、了知することができるのである。

仏典曰く:「以是緣故。諸有情中而為最上。」

有情とは、人間だけを指すのではない。動物も含まれており、その心を了知することができるのである。ずいぶん昔のことだが、私のある従業員が一匹の犬を飼っていた。ある日、その従業員が私に、その犬がどのように鳴いているのかを話した。私は、「あなたの犬に与えている食べ物は硬すぎる。もう食べることができないから、食べ物を変えてあげなさい」と言った。すると彼は、「確かに硬いものは食べませんが、柔らかいものなら食べます。もう年を取っていて、歯が悪いのです」と言った。もし私に禅定がなく、この犬の心を了知することができなければ、犬が数回鳴くのを聞いただけで、その犬を助けることはできなかったのである。だから、「犬の鳴き声をどう聞き分ければよいのか、学んでみよう」などと考えてはならない。犬は一匹一匹、鳴き方が異なる。それぞれに、それぞれの伝え方があるのである。それでは、本日の説法はここまでとする。
 
来週の日曜日は施身法を修める。施身法は必ず午後に修めなければならないので、来週だけは午後二時からに変更する。(大衆が一斉に「リンポチェ、ありがとうございます」と答える。)来週だけである。(大衆が一斉に「はい」と答える。)嫌でも「はい」と言わなければならない。それでは、護法を修めよう。

« 前へ - 法会開示へ戻る - 次へ »

2026 年 08 月 12 日 更新