尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年08月02日

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法座に上がり、祖師ジッテン・サムゴン著『一意』及び『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十三「禅定波羅蜜多品第十之三」について開示された。
 
リンポチェは法座に上がると、まず百字明咒を持誦し、その後、出家衆に指示して参会者を導き、帰依発心、四無量心、七支供養、伝法祈請、『随念三宝経』及び『八聖吉祥祈祷文』を念誦した。続いてリンポチェが長時間にわたり六字大明咒を持誦すると、御身と壇城から金色に輝くまばゆい光が放たれ、大地が震動し、芳しい妙香が漂い、消えることなく虚空の隅々まで満ちた。その場にいた大衆は皆、脈輪が震動するのを感じ、温かな流れが次々と全身に注ぎ込まれ、温かく穏やかな感覚に包まれた。まるで清浄で荘厳な浄土の蓮華の上に身を置いているかのようであり、耳元には悠揚で心地よい鳥のさえずりが聞こえ、そよ風が吹き抜け、身も心も澄み渡った。心中の煩悩も次第に静まり、心を集中させてリンポチェの殊勝にして清浄なる仏法の教えを受けることができたのである。
 
本日、『宝積経』を開示する前に、まず祖師ジッテン・サムゴンが著した『一意』について少し話しておく。ジッテン・サムゴン祖師はこう説いている。「仏教と外道との違いはどこにあるのか。それは帰依にある。」何に帰依するのか。外道も帰依するが、帰依する際の対象が、我々仏教徒が帰依する対象とは異なる。我々は何をもって区別するのか。「三宝に帰依しているかどうかによって区別し、さらに帰依は、帰依する対象によって区別する。三宝の中でも、仏宝については、密乗の仏や五方仏などによって区別するのではなく、我らの導師である薄伽梵釈迦牟尼仏に帰依しているかどうか、そして釈迦牟尼仏を教主として認めているかどうか、この二点によって区別するのである。」
 
だから、多くの人は密宗の修行は違うものだと言うが、実際には同じである。教主はいずれも釈迦牟尼仏であり、寶吉祥仏法センターと仏寺の大殿の中央にも釈迦牟尼仏が安置されている。今回の人類における仏法の歴史は、釈迦牟尼仏から始まった。釈迦牟尼仏が現れたからこそ、他の仏についても紹介することができるのである。釈迦牟尼仏がいなければ仏法もない。したがって、根本上師は釈迦牟尼仏である。「仏宝」に帰依することは釈迦牟尼仏に帰依することであり、釈迦牟尼仏は十方三世一切諸仏を代表している。釈迦牟尼仏に帰依することは、すべての仏に帰依することと同じであり、自分が特に五方仏の何かに帰依すると言うのではない。本尊を修持するときには、特にその本尊への帰依について説くのであるが、我々が最初に帰依するときは、すべて釈迦牟尼仏に帰依するのである。
 
「法宝とは、この教主の心の中に具わる法、および教主が説かれた法である。」つまり、釈迦牟尼仏が説かれた一切の仏経こそが、すべての法の根本である。顕教を修めるにしても、密法を修めるにしても、釈迦牟尼仏が開示された仏経から離れることはできない。もし一切の仏法が仏経から出たものでなければ、それは絶対に仏法ではない。たとえ今日、修行によって成就し、悟りを開いたとしても、それは釈迦牟尼仏が開示された仏経の根本的な理論から生じたものである。したがって、仏経を離れれば、法宝はないのである。
 
「僧宝とは、この法の実践者である。」多くの人は、僧に帰依するということは出家者に帰依することだと思っている。これは間違い、間違い、間違いである。もし出家者に帰依することが僧宝への帰依であるなら、釈迦牟尼仏は「比丘に帰依せよ」「比丘尼に帰依せよ」と説くはずである。しかし、仏はそのようには説かず、「僧宝」と言われた。「僧」とは何を意味するのか。曽て人であった者という意味である。「僧」という字は、左側に「人」があり、その隣に「曾」がある。つまり、すでに人ではないということである。多くの人は、出家者に帰依することが僧宝への帰依だと思っているが、これは大きな誤解である。だからこそ、ジッテン・サムゴンはここで非常に明確に説いている。「僧宝とは、この法の実践者である。」つまり、釈迦牟尼仏が説かれた仏法を実際に用い、生活の中で実践し、衆生を助けることも含まれるものである。実践者でなければ、僧宝ではない。例えば、灯明を供えたり、名前を書いたりするだけで済度できるというものではない。仏経にはそのようなことは説かれていない。仏経をすべて調べても、釈迦牟尼仏が、灯明を一つ灯したり、名前を書いたりすれば済度できると説かれたことはない。仏が説いていないことを我々が行うのであれば、それは間違いである。したがって、それはこの法の実践者ではないのである。

「もしある人がこの三宝に帰依しているなら、その者がどのような見や修行をしていようと、どのような特徴を備えていようと、どのような身なりをしていようと、その人は仏教徒である。」つまり、その人がかつて三宝に帰依したことがあるということである。三宝に帰依する上で最も重要なのは、その後の実践者としてのあり方であり、生活の中で実際に仏法を用いて衆生を助けているかどうかである。実際に仏法を用いているのであれば、その人は僧宝であり、どのような修行をしているかは関係がない。その人の修行がどの程度かは、あなたには関係のないことである。多くの人は、修行者を批判するのが好きで、人のことを「この人は駄目だ」と言う。しかし、少なくともその人が修行によって到達した境地の中には、あなたがまだ到達していないところがあるはずである。もしその人が駄目だと言うのであれば、あなたはその人よりも優れた修行をしなければならない。自分がその人より優れた修行をしていないのであれば、いかなる修行者を批判する資格もない。修行者を批判すれば、必ず因果に陥るのである。
 
もう一つ、この仏経の中にある話をする。釈迦牟尼仏と阿弥陀仏は、同じ時代に現れて衆生を済度した。阿弥陀仏が説かれた仏法は、衆生が比較的受け入れやすく、比較的簡単なものであった。いや、簡単ということではない。仏法に「簡単」という二文字はない。人が比較的理解しやすい仏法だったということである。一方、その世の釈迦牟尼仏は、比較的深遠な、空性に関する仏法を説くことを好まれた。釈迦牟尼仏は少しばかり、阿弥陀仏が説かれた仏法について、あまりにも簡単で、それほど深遠な仏法ではないと批判された。したがって、釈迦牟尼仏の果報は地球上で成仏することであり、阿弥陀仏の果報はご自身の浄土を持つことであった。
 
あなた方がどのようなことを語っても、どのようなことを行っても、どのようなことを考えても、すべてに因果がある。果がないということは絶対にあり得ない。もし果がないのであれば、我々は仏法を学ぶ必要などない。仏法を学ぶということは、これは善い因であると知ることであり、だからこそ必ず善い果があるのである。ジッテン・サムゴンは非常に明確に説いている。どのような特徴を備えていようと、どのような身なりをしていようと、例えば出家者と在家者では身なりが異なるが、三宝に帰依してさえいれば、その人は仏教徒である。「もしこの三宝に帰依していないなら、その者がどのような見や修行をしていようと、どのような特徴を備えていようと、どのような身なりをしていようと、その人は外道である。」ここはよく聞いておくように。中には、実は外道である出家者もいる。なぜなら、三宝に帰依するのであれば、我々は戒を守らなければならないからである。だから、まずこのことをはっきり理解しなければならない。

ジッテン・サムゴンは開示された「顕宗と密宗の違いには、因道用と果道用などの違いがあり、顕密の違いは灌頂にあると主張する」。灌頂がなければ密法はない。特に灌頂の中で最も重要なのは瓶灌であり、瓶灌は通常、授けられるものではない。私自身、今生で修行してきた中で、瓶灌を授かったのはわずか二回だけである。一つは法王が自ら授けてくださったもの、もう一つはヨンガ・リンポチェ(永噶仁波切)から授かったものである。ヨンガ・リンポチェから授かる前には試験もあり、まず仏法についていくつか質問され、それに答えることができて初めて授けてくださった。だから、多くの人が何度も求めに来るが、私が見て、あなたには密法を修める器がないと思えば、瓶灌すら授けない。
 
不共四加行を終えたからといって、すぐに密法を修め始められると思ってはならない。多くの人は、自分には密法を学ぶ資格があると思っている。先ほど話した「仏法の実践者」について、あなたはそれを実践できているのか。できていないのに、どうしてさらに別のことを学ぼうとするのか。六字大明咒を唱えるだけで、あなたには十分なのである。私は一生かけて唱えてきて、ようやく今では口を開けなくても、六字大明咒をはっきりと唱えられるようになった。そうではないか。(大衆が答える。「そうです」)あなた方は必ず口を開けている。口を開けずに唱えられるなら、鏡に向かって、口を開けずに唱えて私に見せてみなさい。なぜこのようにできるのか。それは一心不乱だからである。それだけではない。私の意識が唱えているのではなく、私の清浄な気が唱えているのである。あなた方は喉を使い、肺を使って唱えている。私は丹田を使って唱えている。ここにいる皆さんの中で、誰一人としてそこまで修めた者はいない。そこまで修めて初めて、念仏によって往生する資格があるのであり、自分で往生できるのであれば、私に求める必要もない。あなた方はそこまで唱えられているのか。まだ何の法を求めに来るのか。学ぶものが多ければ多いほど、自分はさらに優れていると思っている。しかし、最も基本であり、最も根本である六字大明咒すらきちんとできていないのである。
 
私はずっと以前に言ったことがある。どのような法も、慈悲を主とする。観音菩薩は慈悲の代表であり、観音菩薩において最も重要なのが六字大明咒である。六字大明咒すら唱えないで、何を修めるというのか。あなたには慈悲がないのである。慈悲のない人は、人を区別する。あれこれと分け、あれこれと批判し、上師まで批判する。六字大明咒を如法に、得法に修めて唱えられるようになれば、慈悲は自然に生じてくる。あなた方は皆、六字大明咒を軽く見ている。六字大明咒は誰もが唱えていると思い、動画配信を適当に開いても、人が唱えているのを聞くことができる。しかし、口を開けずに六字大明咒を唱え、しかもその音を明瞭に出せる者が何人いるのか。六字大明咒を唱えるにも、さまざまな方法があり、どのように唱えればどのような効果が生じるのか、そうしたことはすべて私からは伝えない。基本的な方法すらできていないのに、どうしてほかのことを伝えられるのか。

あなた方は六字大明咒がこんなに簡単なものだと思っているのか。今、弟子の中には、六字大明咒の唱え方を教える二冊の法本を持っている者がいる。私にはほかにも法本がある。なぜ伝えないのか。あなた方は上師を尊重せず、上師を批判する。そのような状態で、どうして伝法できるのか。ある人は「では、それを棺桶まで持っていくのですか」と尋ねるかもしれない。違う。私は別の場所へ持っていくのである。あなた方は、ただ何度も来て、何度も求め続ければ、いつかリンポチェが心を軟らかくして法を伝えてくれると思っている。しかし、自分自身に学ぶ条件があるのかどうかを自問してみなさい。七十歳を過ぎても、あれこれと求め続ける。しっかり六字大明咒を唱えれば、それで十分である。七十歳を過ぎて、何を衆生済度するというのか。衆生を済度する体力など、どこにあるのか。
 
例えば、陳姓の弟子が亡くなった。彼女は長い間、私に帰依していた。しかし、帰依したその日から、上師に対して一度も100%の尊重を示したことがなかった。そのため、過去世からの悪業を仏法によって転じることができなかった。なぜなら、上師が伝える法はすべて善法であるのに対し、彼女には悪念があったからである。例えば上師を批判することは悪念である。過去世からの悪念を転じることができず、そのため乳癌になった。初めの頃、家族は彼女に治療を受けるよう勧めたが、彼女は治療がとても苦しいと感じ、私のところへ来て話した。私は彼女を少し加持した。その後、家族からは治療を受けなくてもよい、自然に任せればよいと言われた。私はずっと彼女に「あなたは懺悔していない」と言っていた。後になって、彼女は自分がどこで間違っていたのかをすべて思い出した。彼女は長年帰依しており、とても素直な教師で、私が何をするよう言っても何でも従っていた。ただ、心に悪念があり、上師を批判していたのである。これは、私を批判したから私が彼女を罰したということではない。皆、誤解してはならない。上師がいかなる信者、いかなる弟子、いかなる衆生を罰することもない。すべては自分自身の因果である。あなたが悪念を起こし、それを私に言わないのであれば、その悪念はずっと続いていくことになる。

多くの人は、「私は懺悔しに来ました。私を許してください」と言う。しかし、私はあなたに腹を立てていないのに、なぜあなたを許す必要があるのか。ただ、あなたが懺悔しに来たので、私は諸仏菩薩を代表して証人となり、あなたを監督し、改めていくことを見守るのである。あなたには改める機会が与えられる。だから私は陳姓の弟子に改める機会を与えた。私は「よい、あなたの懺悔を受け入れる。あなたは改めなさい」と言った。彼女は懺悔すればするほど、さらに多くのことを思い出していった。そのため、癌を発症してから最後の日まで、一度も鎮痛剤の注射を打たず、モルヒネの薬も一錠も飲まなかった。しかも彼女は、地・風・水・火が分解していく過程を非常にはっきりと感じていた。私が以前に話したことを、彼女が覚えていたからである。亡くなる前には、自分で先に入浴し、着替えを済ませ、横になった。そして、そのまま亡くなった。私は彼女にポワ法を授けることも約束していた。道理から言えば、彼女は上師を批判していたのに、なぜ私は彼女にポワ法を授けると約束したのか。それは、彼女が亡くなる数か月前に、徹底的に懺悔したからである。彼女は貧しい教師で、金もなく、特別な供養もなかった。しかし、懺悔したからこそ、リンポチェは彼女にポワ法を授けることを約束したのである。亡くなったその日に、ポワ法を授けた。彼女の家族の中で信じていなかった人たちにも、すべてをはっきりと見届けさせたのである。

だから、あなた方は一日中、リンポチェが怒っていると誤解してはならない。リンポチェは怒っているのではない。なぜ、何度教えてもあなた方は言うことを聞かないのか。なぜ、これほど頑なで、これほど頑固で、改めようとしないのかということである。仏法を学ぶことは、自分の思いを満たしたり、ある苦しみを取り除いたりするためだと思ってはならない。それは仏法を学ぶことではない。だから今日は、特にこのことを話し、あなた方に自分がどこで間違っているのかを理解してもらいたいのである。
 
謝姓の弟子に、陳姓の弟子がどのような癌を患い、どれほど深刻な状態だったのか、そして通常であればどのようなことが起こるのかを話してもらう。(謝姓の医師である弟子が答える。「ご報告いたします、リンポチェ、そして兄弟子・大徳の皆様。彼女は乳癌を患っていました。昨年5月の時点で、X線写真にいくつか影が見られました。先月、彼女が診察に来た時には、かなり息苦しそうでした。X線写真を撮ってみると、私は驚きました。癌が肺全体にびまん性に転移しており、まるで一枚の布に砂を一面に撒いたような状態でした。そのため、肺ではまったく空気交換ができない状態でした。彼女が来た時の血中酸素濃度は約80%でした。肺の状態からすれば、本来は70%を下回り、50%程度になっていてもおかしくない状態でした。それでも彼女は80%ありました。とても疲れていて顔色も悪かったのですが、意識は非常にはっきりしていて、私と話をしていました。私は肺に水が溜まっているのではないかと心配して調べましたが、それほど多くの水は溜まっていませんでした。もし水が溜まっていれば、横になることもできないはずです。そのような状態であっても、少量の酸素を使うだけで95%程度まで上がり、ほぼ正常と同じ状態になりました。彼女のご主人から聞いた話では、酸素を外して自宅で入浴したり動いたりすると、血中酸素濃度が50~60%まで下がっていたそうです。通常、このような急性期の患者であれば、すでに昏睡状態になっていてもおかしくありません。しかし、彼女はそうではありませんでした。彼女には痛みの感覚がなく、ただ体力が非常に落ちていて、衰弱し、少し息苦しいという程度でした。しかし、100メートルを走った後のような激しい息苦しさではありませんでした。さらに不思議だったのは、リンポチェの加持です。彼女は病院に行く前日まで、毎日200回の大礼拝をすることができました。本当に信じ難いほどの状態でした。リンポチェが弟子や衆生に与えられる加持とお世話は、本当に隅々まで行き届いています。最後に私が彼女に尋ねた時には、もう話すこともできず、ほとんど力がありませんでした。それでも彼女は、自宅で食事をし、入浴もしたと言っていました。まさに先ほどリンポチェが皆さんにお話しされたように、入浴して着替え、それから静かに亡くなったのです。さらに彼女は、目や筋肉、頭が感覚的にずっと下へ沈んでいくように感じ、身体からずっと熱が出て汗が出て、力がなく、身体を持ち上げることができないような感覚があったと話していました。そして、彼女は「これは四大が分解しているのだ」と、皆にはっきりと話していました。だからこそ、本当に仏法がなく、上師もいなければ、我々衆生、弟子がどのような状態になってしまうのか分かりません。」)
 
あなた方には、死んでから初めて仏法の殊勝さを知るようなことになってほしくない。それではもう手遅れである。リンポチェは常々言っている。私も永遠に生きられるわけではない。私がいる間は、あなた方に法を修め、済度するのを助ける機会がある。しかし、私がいなくなれば、あなた方を済度してくれる人はいない。私がいる時に、あなた方が本気で決心してきちんと学び、きちんと修めようとしない。誰もが自分には関係のないことだと思っている。自分はまだ死んでいない、まだ死ぬ時ではないと思っている。我々の道場には、このような例がたくさんある。それをあなた方に見せているのに、聞き入れようとしない。このような心構えで仏法を学んでいては、永遠に学ぶことはできない。私が法を伝えようとしないと泣く人もいる。泣いてどうする。なぜ、自分が死ぬことになり、死ぬ時にまったく頼るものがなくなることを泣かないのか。毎日、六字大明咒を何千遍も唱えれば、それで往生できると思ってはならない。
 
昨日、ある医師の弟子が、ずっと上師相応法を求めにきていた。しかし、私はずっと彼に伝えていない。謝姓の弟子も同じである。なぜなら、私はすべての医師の弟子に特別に一つの法を伝えているからである――薬師仏の法である。他の弟子には伝えていない。なぜ医師に伝えるのか。彼らは病気を治療するからである。私は、彼らがこの法を修めて薬師仏の加持を得、病気を治療することについてさらに理解を深め、病苦にある患者を助けることができるようになってほしいのである。ところがどうだ。一人は一日3000遍唱え、もう一人も3000遍唱えている。それなのに、私が一つ、真言は何文字あるのかと尋ねても知らない。それで法を求めるのか。蔡姓の弟子は来ているか。(リンポチェが蔡姓の医師である弟子に尋ねる)あなたは今、一日に何遍唱えているのか。(蔡姓の弟子が答える。「ご報告いたします、リンポチェ。300遍です」)何だと。(蔡姓の弟子が答える。「弟子の間違いです」)あなたはお金を稼ぐことに忙しく、子どもの世話に忙しく、博士号を取るために忙しい。修行したくないのなら、法本は明日私に返しなさい。まったく医師道徳がない。
 
陳姓の弟子は来ているか。(担当の弟子が答える。「陳姓の弟子は来ていません」)なぜだ。(答える。「風邪です」)あの人はよく、風邪をひいている。リンポチェは担当の弟子に言う。あなたは今日、彼に薬師仏(の真言)を一日に何遍唱えているのか聞きなさい。他に薬師仏の法を授けられている医師は誰がいるのか。(孫姓の医師である弟子が立ち上がる)リンポチェが尋ねる。あなたは一日に何遍唱えているのか。(孫姓の弟子が答える。「ご報告いたします、リンポチェ。5000遍です」)黄医師は。(黄姓の弟子が答える。「ご報告いたします、リンポチェ。3000遍です」)リンポチェが黄姓の弟子に言う。あなたは忙しいのか。(黄姓の弟子が答える。「はい」)何だ。道理でこんなに愚かなのか。どう叱っても、こんなに愚かなままだ。

3000遍だ。これでは、私にどうして法を伝えろというのか。私は特別に、この数人のために灌頂まで授けた。私が彼らのためにやっているのではない。病苦にある衆生のためである。医師なら、医師としての道徳を持ち、医師としての力を身につけ、衆生を助けてほしいのである。彼らは皆、良い医師とは言えない。ただお金を稼ぐことと、家族の面倒を見ることしか考えていない。私は彼らに薬師仏の法を伝え、しっかり修めてもらいたい。そうすれば、薬師仏の加持によって、患者を診察する時に、少しでも良く診ることができるのではないか。3000遍だ。仏法を子どもの遊びのように扱ってはならない。3000遍唱えれば効果があると思ってはならない。道理から言えば、あなた方数人の医師は灌頂を受けたのだから、二か月間閉関しなければならない。それなのに、よくも上師相応法を求めに来られるものだ。「応」はどこにあるのか。あなた方は患者からお金を受け取っている。私は何度も言ったことがある。医師というのは、人が苦しんでいる時にお金を稼ぐ人である。人が苦しんでいなければ、あなた方にお金を払うだろうか。中国古代において、医師は九流の中の一つにすぎず、最後に位置づけられていた。現代では、医師は至高の存在であり、人の命を救う者とされている。福報がなければ、どのような医師であっても、あなたの命を救うことはできないのである。
 
あなた方は医師であり、すでに仏門に帰依している。仏門に帰依し、仏菩薩の加持を受ければ、何事も順風満帆に進むと思っているのか。それでは、医師になった意味がないではないか。蔡姓の弟子は、よくも恥ずかしくないものだ。一日に300遍である。あなたが帰依したその日から、何をするにも言うことを聞かないことが多かった。今日、あなたがこれほど苦しんでいるのも、言うことを聞かず、自分勝手にやってきたからである。あなた方医師は、よく注意しなさい。私はもう少し時間を与える。薬師仏の法を修めようとしないのであれば、全員、私の弟子であることをやめなさい。私は何度も言ったことがある。教師と医師は、済度するのが最も難しい。特に医師はさらに難しい。なぜなら、医師は自分を権威者だと思っているからである。「私は分かっている。あなたは分かっていない。あなたは私の言うことだけを聞けばよい」と考える。そのため、人の話を聞かないことに慣れてしまっているのである。
 
なぜあなた方に瓶灌を授けないのか。あなた方は本当に仏法を学ぶ器ではなく、皆ただの信者にすぎない。あなた方は福報がありすぎる。仏法を学ぶ過程でも、楽に、平穏無事に日々を過ごしている。私はあなた方にも話したことがある。私が不共四加行を修めていた時は、食事をする金も、電気代を払う金もなかった。どれほど暑い日でも、毎日大礼拝をし、一日も休まなかった。冷房をつけることもできなかった。冷房をつければ電気代を払えなくなり、食事をする金もなくなるからである。私はこのようにして修行してきた。あなた方はどうなのか。あなた方は福報がありすぎて、楽に日々を過ごしている。苦しみとは何なのかを知らない。これほど貴重な仏法をあなた方医師数人に授けても、あなた方はそれを粗末に扱い、一日300遍唱えて安心を得ようとしているのか。

灌頂には区別がある。身口意灌頂は一般的な灌頂である。しかし、宝瓶灌頂は一般的な灌頂ではなく、無上瑜伽部と瑜伽部にのみ存在する。 また、上師は弟子の根器に応じて、瓶灌を授けるかどうかを決める。私の場合、瓶灌は言うまでもなく、一般的な三種の灌頂でさえ、簡単には授けない。なぜなら、あなた方は本当に仏法を学ぶ器ではないからである。この数人の医師は全員、薬師仏の灌頂を受けている。では、彼らがどう修行しているかを見てみなさい。「拝めば加護がある」と思っている。もし「拝めば加護がある」というのであれば、私は真っ先に閉関する必要がない。しかし、私は今も閉関している。あなた方は何者なのか。3000遍唱えたところで、薬師仏があなたが誰なのか知っているのか。医師でありながら、患者の苦しみにまったく注意を払わない。それでよく恥ずかしくもなくお金を稼げるものだ。毎日、一か月にいくら収入があるかばかり計算しているのではないか。

だから、ジッテン・サムゴンはこう説いている。 「宝瓶灌頂によって顕密を区別する。心の中に宝瓶灌頂の意義を生じさせ、それを理解した者は、その後、道が楽であろうと苦であろうと、時間が長かろうと短かろうと、因を道として用いようと、果を道として用いようと、いずれでも差し支えなく、すべて大乗密宗の者である。宝瓶灌頂がなければ、苦楽によって区別しようと、時間の長短によって区別しようと、因あるいは果を道として用いることによって区別しようと、依然として顕宗である。したがって、顕密の違いは灌頂によって区別するのである。」つまり、多くの人は、顕教は修行する期間が比較的長く、密教は修行する期間が比較的短い、密教の修行はそれほど苦しくなく、顕教では苦行しなければならない、と言う。しかし、ジッテン・サムゴンはここで、そのような説をすべて覆している。長期間の修行も短期間の修行も、苦しい修行も楽な修行も、顕密の両方に存在し、いずれも行うことができるのである。前にも多くの例を挙げているが、今日は時間が足りないので、そこまでは話さない。つまり、具徳の上師から「宝瓶灌頂」を授けられていなければ、永遠に顕教の中で修行していることになる。上師が宝瓶灌頂を授けることの重要性はどこにあるのか。あなた方がそのような根器ではないので詳しくは話さないが、本当に重要なことである。瓶灌がなければ、あなた方は何も開くことができない。

瓶灌を受ける前に、まず三灌頂を受ける。三灌頂を受けた後は、自ら心を込めて本尊の真言を修めなければならない。毎日3000遍、4000遍、5000遍唱えればそれで十分だと思ってはならない。絶対に十分ではない。なぜなら、仏法と外道は違うからである。外道では、神や何らかのものが身体に憑依し、その人に作用させて人を助ける。 仏法では、本尊と同じような力を持つように修めて、それによって人を助けるのである。本尊と同じようになるということが、そう簡単に修められるものなのか。はっきり言えば、乩童(神霊の依代となる者)になることを学ぶだけでも、廟の中に49日間閉じこもり、外に出ることを許されない。あなた方は49日間閉じこもったことがあるのか。どうして、何かを唱えさえすれば、すべてが変わると思うのか。七、八百回大礼拝をしただけで、仏菩薩が「自分は精進している」と知ってくれると思っているのか。仏菩薩はそんなことでは分からない。なぜ仏菩薩が私を知っているのか。それは、私には食事をする金も電気代を払う金もなかったのに、それでも礼拝していたからである。私は、自分を良くするために礼拝していたのではない。自分には累世の悪業があまりにも重いことを知っていたからである。私は、来世ではもう輪廻しないようにと願って礼拝していた。あなた方は、礼拝すれば自分が少し良くなり、リンポチェも「これほど精進しているのだから、もう一度法を伝えてやろう」と思ってくれると考えているのか。私は絶対に伝えない。

あなた方は本当に福報がある。しかし、運が悪いとも言える。なぜなら、あなた方の上師は苦修によって修め上げた人だからである。私はラプキ雪山で三か月以上閉関し、天地を見ず、人にも会わず、話すこともしなかった。誰がこれをできるのか。 他の宗派は言わない。我々直貢噶舉においても、今までこれを成し遂げた者はいない。私は苦修によって修め上げた人間である。あなた方を簡単に見逃すと思うのか。私は今でもあなた方に対してかなり寛大にしている。私はこのような修行経験があるからこそ、あなた方に教えている。あなた方は学ばなければならない。自分がこの一生で修め上げられるなどと夢見てはならない。あなた方には、私ほどの苦しみがないからである。私は人生において多くの苦しみを経験してきたが、あなた方にはこのような苦しみを経験する因縁がない。苦しみを理解しなければ、苦しみから離れることはできない。少し何かが起きただけで、大騒ぎする。私はどれだけのことが起きたと思っているのか。だから私は覚悟を決めて修行したのである。このような苦しみを望まなかったのではない。人生とは苦であり、「楽」という二文字など存在しないことを知っていたからである。しかし、あなた方はますます楽になりたいと思っている。それもよい。菩薩になり、仏になれば、本当に楽である。永遠の楽、変わることのない楽である。人の世の短い楽しみなど、どこが楽なのか。

誰もが法を求めに来る時、心の中では「今日は何と言えば、リンポチェは自分の話を聞き入れてくれるだろう」と考えている。私はあなたの顔を見れば、あなたが本気で修行する準備ができている人かどうか分かる。だから、ジッテン・サムゴンは非常に明確に説いている。今日、自分は密法を学んでいると思っていても、上師から宝瓶灌頂を授けられていなければ、それは不可能である。「宝瓶灌」とは何を意味するのか。それは、あなたの累世の悪業を押さえて動かないようにし、しっかりと修行できるようにすることである。宝瓶灌がなければ、業が身に随う。『宝積経』にも説かれているように、菩薩道は出家者も在家者も修めることができる。しかし、出家者のほうが修めるのは比較的容易であり、在家者はより苦労する。なぜなら、在家者は業にまとわりつかれているからである。蔡姓の弟子も、業にまとわりつかれている。何もないところから、あれこれと業を自分の身に背負っている。業にまとわりつかれているからこそ、在家の者は出家者よりもさらに多くの努力をしなければならないのである。 

多くの人は、「家に帰って少し唱え、少し礼拝すればいい。まだやることがたくさんある。今は住宅ローンの返済や、子どもの進学のために頑張っている」と考えている。すべては因縁である。どれほど頑張っても、因縁が整っていなければ、結局は同じである。我々はこの一生で人身を得た。そしてこの一生で仏門に帰依する機会を得、上師に従って仏法を学ぶ機会を得た。しかし、それも一瞬のうちに過ぎ去ってしまう。もし自分でこの時間を大切にしなければ、一瞬のうちに過ぎ去ってしまうのである。今は8月である。今年もすでに7か月が過ぎた。自分に問いかけてみなさい。この7か月間、自分は何をしたのか。何を修めたのか。毎日、上師に頼っているだけではないか。陳姓の弟子が亡くなる前、私は彼女にこう言った。毎日、自分が何をしていても、何を考えていても、すべて六字大明咒とし、すべてを浄土に回向しなさい、と。人間とは不思議なもので、死ぬ前になって初めてそれをする。蔡姓の弟子は、今、自分もいつか死ぬとは思っていない。あなたは医師として、これほど多くの人が亡くなるのを見てきたのに、それでも人はいつか死ぬということが分からないのか。それでも家庭が最も重要だと思っている。当然、家庭は重要である。家庭がなければ何もない。しかし、一日に300遍唱えて、私に対して取り繕っているのか、それとも誰に対して取り繕っているのか。私はまだあなたを叱る機会を見つけられていない。
 
(リンポチェが弟子に指示する。「もしあの陳おじさんが、自分も一日に300遍唱えていると言ったら、明日、法本をすべて回収しなさい。もしよく風邪をひいているのなら、まず来ないように言いなさい。ベストを返させてもよい。私はこのような弟子はいらない」) 彼もまた言うことを聞かない。彼に彼岸へ行くなと言ったのに、彼はどうしても行こうとした。ここでいう「彼岸」は西方の彼岸ではない。(大衆が笑う)彼はどうしても行った。そして帰ってきた後、身体がすっかり弱ってしまった。彼は私の弟子だから、私は遠慮なく話す。彼は手印を結び、口では仏号を唱え、人の病気を治してお金を稼ぐことが好きだった。仏菩薩を利用してお金を稼いでいたのである。本尊と相応していないのに、勝手に真言を持誦して人を加持する。それは仏菩薩の真言ではなく、自分自身の福報を人に与えているのである。多くの人は、そのことの重大さを知らない。私は幼い頃、父から道教を学び、その後、仏法を学んだ。道教であろうと仏法であろうと、人を助けようとするなら、まず自分にその能力があるかどうかを自問しなければならない。能力がないのに、仏菩薩が加被してくれる、自分には慈悲心があるから人の病気を治してあげられる、と思うのであれば、ではお金を取らなければよい。お金を取るのであれば、それはもはや病気を治すことではなく、商売である。仏菩薩を商売に使うのか。私はいつも多くの人を加持しているが、必ず供養しなさいと言ったことがあるか。(リンポチェが出家弟子に尋ねる。「昨日、供養はいくら返したのか」出家弟子が「180万元です」と答える。)

だから今日、あなた方を叱っているのは、本当にあなた方が憎らしく、哀れで、悲しく、それでいて自分が正しいと思い込んでいるのを見ているからである。自分は間違っていないと思っている。私は陳姓の弟子に彼岸へ行くなと言ったのに、彼は聞かなかった。どうしても人を治してあげようとし、大金を稼ごうとした。その結果、お金もなくなり、身体も悪くなった。彼が戻ってきた後、もう少しで命を落とすところだったが、それも私が治した。治った後も、彼は一日中風邪をひいていた。我々は仏菩薩を利用してはならない。多くの人は、「仏菩薩は慈悲深いのだから、きっと私を助けて、その人も助けてくれる」と考えている。それもよい。あなたが本尊と同じようになるまで修めればよい。六字大明咒を私と同じように唱え、一度唱えれば、あなた方全員が身体に熱を感じ、香りを感じるほどになればよい。そこまでできれば、それでよい。できるのか。できていないなら、本尊とは相応していない。あなた方には匂いがある。汗の臭いである。 

我々が本尊を修めるには、多くの手順が必要である。一瞬で本尊が身体に入るようなものではない。乩童(神霊の依代となる者)を修めるにしても、道教を修めるにしても、手順が必要である。自分が唱えれば観音菩薩になれると思っているのか。仏経にはそんなことは説かれていない。もし仏経が、一度唱えれば観世音菩薩になれると説いているのであれば、歴代の上師が我々に閉関するよう教えたり、どのように唱えるかを教えたりすることなどない。自分がそう思えば、そうなるのか。迷信を持ってはならない。仏法を学ぶなら、一歩一歩、順序に従って学ばなければならない。高望みをしてはならず、自分はすごい、このようにすれば必ず成就できると思ってはならない。多くの因縁が必要なのである。最も簡単で、最も正しい方法は、上師の話を聞くことである。上師が何を言ったら、すぐに実行しなさい。考えてはならない。少しでも立ち止まってはならない。「今の自分にはできない」と考えてはならない。それは「できない」ということになり、永遠にできなくなる。ただ実行すれば、できるようになる。「自分にはできない」と言えば、それは本当にできなくなる。自分で「できない」と言っているのだから、できないのである。永遠にできなくなる。あなた方は一日24時間の中で、仏法を学ぶために使っている時間があまりにも少ない。毎日一時間を修行に使っているから、それで十分だと思ってはならない。実際には、修行は難しいものでも、苦しいものでもない。
 
ジッテン・サムゴンはここで非常に明確に説いている。苦修をしなくても修められる人もいれば、苦修して初めて修められる人もいる。例えば、ミラレパ尊者が密宗を修めた時は苦修であり、非常に苦しい修行であった。ジッテン・サムゴンがこれらを開示したのは、あなた方が迷わないようにするためである。チベット人が手印を結び、真言を唱えているのを見ただけで、密法を学んだと思ってはならない。もし正統なチベットの修行者であれば、簡単に瓶灌を授けることはない。なぜなら、瓶灌を授けるということは、上師の福報をあなたに与えることだからである。なぜ上師は簡単に授けないのか。あなたにその根器がないからである。授けて何になるのか。浪費であり、粗末に扱われるだけである。あなたが修行者であれば授ける。そうでなければ、まったく授けない。

例えば、ヨンガ・リンポチェは最初、私に授けなかった。まず試験をし、仏法についていくつか質問し、それに答えて初めて授けてくださった。質問する前には、決して授けなかった。その時、私はすでにリンポチェの位にあった。それでも質問された。あなた方は一体何者なのか。その程度で密法を求められると思っているのか。今日、あなた方は顕教の中で学んでいる。私は密法を用いてあなた方を助け、多くの無駄な遠回りを減らすことができる。しかし、あなた方は本当に心を決めて修行しなければならない。「大丈夫、自分にはまだ必要な時期が来ていない。必要になった時にリンポチェに求めればいい。リンポチェは慈悲深いから、きっと助けてくれる」と、運任せの気持ちで考えてはならない。陳姓の弟子もそうだった。まだ40代だった。大学生の時に私に帰依し、その後ずっと、自分は死なないと思っていた。仏法を学ぶというのは、良いことや善行を少し行えばよく、悪いことは起こらないと思っていた。私も彼女に四字熟語の話をさせていた。以前は大法会で彼女に司会をさせていたが、突然やめさせ、もうさせなかった。なぜなら、彼女は上師が何をしているのか理解しておらず、ただ型通りのことを言い、毎回同じことを話していたからである。 

だから、上師が見るのはあなたの心である。お金があるかないかを見るのではない。上師に近いかどうかを見るのでもない。あなたが跪いて私に求めに来れば、あなたの心の中がどうなっているのかはすぐに分かる。泣いても無駄である。特に男性は、求めても得られないと、とても恥ずかしいと思う。もともと十分に恥ずかしいではないか。もし恥ずかしいと思わないのであれば、とっくに修め上げているはずだ。それなのによくもそんな顔ができるものだ。家では男性としてのプライドなどないくせに、仏法を学びに来ると、男性としてのプライドを全部出して私に見せる。しかも、私の男性としてのプライドのほうが、あなた方よりはるかに強い。私が80歳まで生きられるのなら、絶対に普通の男ではない。あなた方男たちが私と比べるなら、まあ待っていなさい。私には、あなた方がまだ知らない多くの能力があるのである。
 
本日の開示を通して、皆さんには仏法を学ぶのであれば、本当に心構えを変えてほしい。正直に言えば、皆さんを追い立てなければ、私のほうが楽に過ごせる。皆さんが唱えようが唱えまいが、私に何の関係があるのか。私は80歳になり、もう年を取った。あと何年生きられるかも分からない。その時になって、皆さんが阿弥陀仏のもとへ行けず、三悪道から離れられなかったとしても、私にはどうすることもできない。しかし、上師として、皆さんを放り出して放置することはできない。だから方法は一つしかない。皆さんが聞くまで叱り続けることである。皆さんが聞けば、この一生で救われる機会がある。皆さんには陳姓の弟子ほどのいい運がないだろう。私がまだここにいて、彼女のためにポワ法まで修めることができたのである。特に今、十代、二十代の人は、勉強を第一にすることも無理はない。しかし、いつか年を取り、仏法が必要になった時には、私はもう必ずここにはいない。私がいるうちに、まだ心を込めて仏法を学ぼうとせず、仏法を学ぶというのは、勉強がうまくいくようにすることや、良い女性、良い男性と知り合う機会を得ることだと思い、それでこの一生に満足している。若ければ若いほど、早く仏法を学ばなければならない。そうしなければ、年を取った時にはすべてが空しくなり、何も残らなくなる。
 
なぜ釈迦牟尼仏は、これほど多くの仏経を我々に説かれたのか。それは、衆生一人ひとりが遭遇する業と因縁が異なるからである。だから、衆生それぞれの異なる因縁と業に応じて、衆生の助けとなる仏法を説かれたのである。釈迦牟尼仏が晩年、舎衛城におられた頃、毎日法を説き、止むことがなかった。仏様は本当にご苦労された。それは、かつて他人を批判したことがあったからでもある。先ほど私が六字大明咒を唱えた時、香りがとても良いと感じなかったか。(大衆:「はい」)風の音のようなものを聞かなかったか。(大衆:「はい」)鳥のさえずりは聞こえなかったか。(大衆:「はい」)今、私は新しい芸当を身につけたのである。まずここを西方極楽世界だと観想した。だから皆さんは皆、一輪一輪の蓮華の上にいるのである。(大衆一同:「ありがとうございます、リンポチェ」)もしリンポチェにこのような力がなければ、こんなことはしない。これは、皆さんのために西方極楽世界への予約を前もって取っておくようなものである。皆さんをそこへ行かせるために予約までしてやるのだから、当然、皆さんを簡単には見逃さない。皆さんの心の中に、上師に対するほんのわずかな悪念でも残っているなら、絶対に行くことはできない。私は皆さんを騙さない。 

なぜなら、『阿弥陀経』には非常にはっきりと説かれているからである。西方極楽世界へ行くには、「諸大善人」でなければならない。「善」とは十善法を修めることである。そして、さらに「大」でなければならない。小ではだめなのである。だから、上師に対してどのような邪念、曲がった念、悪念を起こしても、どれだけ礼拝しても行くことはできない。礼拝さえすれば自分が良くなると思ってはならない。だから皆さんは、私の話を聞きなさい。このようにして、この一生、心を込めて六字大明咒を唱えれば、少なくとも三悪道に堕ちることはない。もし六字大明咒を軽視するのであれば、仏弟子にならないほうがよい。以前の開示でも話したが、仏経には、ある菩薩が仏に六字大明咒を学びたいと請い願ったところ、仏がその菩薩に在家の居士のもとへ行って学ぶよう命じ、しかも多くの供養を準備させたうえで、ただ六字大明咒だけを教えさせたと説かれている。皆さんはどうなのか。自分自身でよく考えてみなさい。
 
続いて、リンポチェは『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十三「禅定波羅蜜多品第十之三」を開示された。
 
経典:「於相所獲。起無相心。」
 
この二句は、菩薩道を修めるすべての者に教えている。我々は今、人間の身体を持っている。たとえ人間の身体がなくても、どのような法門を修める時にも、外相は変化する。例えば、観音菩薩や文殊菩薩の姿を観想する。この姿が外相である。この相が現れたとしても、何かを得たということではない。「起無相心」――この相もまた因縁によって生じ、因縁によって滅するものであり、永遠に変わらないものではないと理解しなければならない。なぜ変化するのか。例えば、観世音菩薩も忿怒相を現すことがあり、文殊菩薩にも忿怒相がある。では、いったい忿怒相が正しいのか、それとも寂静相が正しいのか。衆生の因縁に応じて、どのような衆生を済度するのかによって、どのような相を現すかが決まるのである。
 
例えば、大勢至菩薩は顕教では寂静の姿であるが、密法において金剛手菩薩は大勢至菩薩の忿怒相である。では、どちらが正しく、どちらが間違っているのか。正しいも間違いもない。どのような衆生が修めるのかによる。悪業が軽く、業が重くない人であれば、寂静尊を修めたほうが早い。しかし、自分が生々世々輪廻してきたことを知り、特にこの一生で多くの間違いを犯した者であれば、忿怒尊を修めたほうが早い。煩悩が重い人は、忿怒尊を修めたほうが早い。しかし、上師も忿怒尊を簡単には伝えない。なぜなら、慈悲心を学んでおらず、慈悲心を修めていない者が、むやみに忿怒尊を用いれば、自分自身にとって良くないうえ、衆生を助けることもできないからである。 

忿怒尊を学ぶ者は、必ず空性の慈悲心を修めなければならない。そうして初めて、上師は忿怒尊を伝える。忿怒尊とは何か。忿怒相を現すのは、すべての煩悩を降伏し、修行を妨げる外魔・内魔をすべて降伏するためである。例えば、釈迦牟尼仏が成仏された時、腹部から金剛手菩薩が現れ、外魔を降伏した。それによって成仏することができたのである。もし金剛手菩薩が現れなければ、外魔が釈迦牟尼仏の修行を妨げることになる。だから、忿怒尊は簡単には伝えない。しかし、我々が忿怒尊の相を起こしたからといって、自分の心が忿怒しているという意味ではない。この相は仮のものであり、それを見る必要のある衆生に見せるためのものである。しかし、その本質はあくまで慈悲と菩提心であり、忿怒ではない。だから、この二句、「於相所獲。起無相心」。無相の心を起こすことである。つまり、同時に、その心の中には忿怒という感覚がない。忿怒尊が現れるのは、因縁が生じたから現れるだけである。皆さんに説明しても、分かったような、分からないような状態だろう。これは空性に関わることである。 

経典:「莊嚴菩提道場。起彼順三界心。」
 
ある道場に菩提心がなければ、その道場は荘厳にはならない。もう一つは、自分自身が修行する際に菩提心を修めて初めて、自然に荘厳な相が現れ、人に見えるようになるということである。だから、これらの医師たちが真言を3000遍、300遍と唱えていることは、菩提心がないことを意味する。自分のために唱えていると思い、毎日、自分のことばかり考えている。子どもをどうするか、夫をどうするか、博士号をどう取得するか、鍼灸をどう学び続けるか。一日中そのようなことばかり考えているから、自然に菩提心は生じないのである。

菩提心が生じて道場を荘厳するということは、あなた自身の道場を荘厳することでもある。例えば、多くの人が仏寺へ行くと、仏寺が荘厳だと感じる。しかし、それは仏像が大きいからではない。リンポチェが菩提心によって衆生を済度しているからである。我々の寶吉祥仏寺が多くの仏寺と異なるところの一つは、灯明を点けず、香を焚かず、紙銭を焼かず、功徳主も置かないことである。これこそ菩提心である。皆さんが参拝に来れば、私は仏菩薩に皆さんを加持してくださるよう祈る。最近起きたことだが、一羽の鳥が死ぬ時でさえ、観音殿の外で、頭を私の法像に向けていた。皆さんは畜生にも及ばない。一匹の蛇が死んだ時でさえ、頭を私の法像に向けていた。それなのに、あなた方は自分が正しいと思い込んでいる。リンポチェはただの人間だと思っている。その通りである。私は依然として人間の姿をしている。しかし、私の心は人間ではない。もし私の心が人間の心であれば、多くのことはできない。
 
例えば、陳姓の弟子は癌の末期で、本来ならベッドに横たわったまま動けないはずだった。ところが彼女は、地・風・水・火が分解していくことをはっきりと理解していた。しかも自分で下着を着替え、静かに、ゆっくりと息を引き取った。私が彼女のためにポワ法を修めると、すぐに梵穴が凹んだ。私は彼女のそばに行っていない。これこそ菩提心である。彼女はこの一生、私に帰依してからもリンポチェを尊重したことがなかった。それでもリンポチェは怒らなかった。これも菩提心である。もし私が怒っていたなら、彼女を放っておいただろう。そうだろう。あるいは、彼女がどれだけ供養したかを見ていたかもしれない。私は彼女から供養を受け取っていない。その日の彼女の夫が一束の金を持って来たが、私も受け取らなかった。なぜなら、彼は私の弟子ではないからである。私はすでに多くのことをしている。もし仕事に対する報酬として計算するなら、私は多額のお金を受け取ることができる。しかし、私は受け取らない。なぜ受け取らないのか。私の原則は二つある。一つ目は、私に帰依している弟子でなければ供養を受け取らないこと。二つ目は、供養の多寡によって誰かを助けるのではなく、その人の心を見ることである。彼女の心が変わり、自分の過ちを理解し、懺悔した。そうであれば、リンポチェは必ず彼女を助ける。しかも、私のほうから「あなたのためにポワ法を修めてあげよう」と言った。彼女にどれほどの徳があってポワ法を受けられたのか。供養もしていない。上師にも恭敬ではなかった。しかし、彼女の心が一転したので、私は承諾したのである。私に対して意地を張ってはならない。私は、あなたが死なないとは信じない。あなたは必ず死ぬ。これはあなた方を呪っているのではない。自然に起こることである。

「起彼順三界心。」菩提心によって道場を荘厳すると、「起彼順三界心」が生じる。「順」とは何か。相手の言うとおりに行動することではない。因縁に随順することである。その人の因縁に従って、その人を助けるのである。「三界」とは、欲界天、色界天、無色界天である。つまり、輪廻している衆生を助けることである。例えば、私が陳姓の弟子を助けたのも、彼女の業に随順して助けたのである。彼女が私を恭敬しなかった時、私は彼女を一度も叱らなかった。彼女は教師だった。冗談ではない。私はどうして教師を叱ることができようか。しかも彼女には夫も、姑も、家族もいる。だから叱ることなどできない。彼女に随順し、彼女の因縁に随順した。そして彼女の因縁が変わり、善へと転じたので、私は彼女を助けた。もし彼女が変わらなかったら、助けなかったのか。そうではない。助ける。ただし、助ける力が同じではない。彼女が善に転じれば、私の100%の菩提心を彼女は受け取ることができる。しかし、彼女に悪があれば、私の菩提心に対して、彼女はせいぜい「この人はリンポチェだから、言うことを少し聞いておこう」と思う程度である。100%従うことはない。依然として自分が正しいと思い、そして自分が正しいと考えたことをする。このような人には、救われる道がない。仏経では、このような人を何と呼ぶのか。仏を信じない者を何と呼ぶのか。(出家弟子:「リンポチェ、報告します。一闡提です」)

一闡提である。皆さんは、私に帰依したことがあるから、自分は私を信じていると思ってはならない。それが一闡提である。どういう意味か。仏を信じず、因果を信じず、上師を信じず、自分が正しいと思い込む者である。表面上は仏法を学んでいるように見えても、実際には上師の言うことを聞かない。このような人は、この一生では生死から解脱することができない。自分では「礼拝もしている、実践もしている」と思っている。しかし、自分のやり方で行い、そのやり方が正しいかどうかを、まず尋ねに来ることもしない。私は何度も言っている。仏法に関することであれば、たとえ私自身が正しいと思っていることであっても、私は必ず先に法王にお伺いを立てる。言ったことがあるだろう。(大衆:「はい」)あなた方は記憶喪失なのか、何なのか。それとも、尋ねに来るのが恥ずかしいのか。あるいは「リンポチェは忙しいから、尋ねるのは申し訳ない。叱られるのが怖いから、聞きに行かないでおこう」と思っているのか。それでは、あなたの心の中に上師はいないのである。  

経典:「制伏群魔。起彼攝受有情心。」

「制伏群魔」。魔とは、皆が想像しているような、とても凶暴で、悪く、恐ろしいものではない。実は、魔には福報がある。福報がなければ魔にはなれず、福報のない者は鬼となり、福報のある者が魔となる。魔も善事を行うことがあり、必ずしも悪事を行うとは限らない。しかし、魔には我々を輪廻から解脱させることはできず、むしろ我々が輪廻から解脱することを妨げる。これを魔という。「制伏群魔」とは、この法界には非常に多くの衆生がおり、魔は仏法を信じず、仏法を受け入れず、衆生にいつまでも自分について来てほしいと思っている。衆生が輪廻から解脱すれば、自分の弟子が大勢減ってしまうからである。したがって、「制伏群魔」とは、菩提心をもって制伏することである。
 
そのため、我々が少し猛々しい法を修すると、表面上は非常に猛々しく見えるが、実際には我々の心は菩提心である。なぜ「制伏群魔」のか。それは、これらの魔が、生死から解脱しようとする衆生を妨げないようにするためである。「起彼攝受有情心」。その者が善事をしていようと悪事をしていようと、因縁が生じれば、その者を摂受しなければならない。「有情心」とは、その者が「有情」であるならば、我々はその者を摂受するということである。例えば陳姓の弟子は、このような状態であれば、本来ならば摂受する必要はない。なぜなら、彼女は上師を尊重していなかったからである。しかし、上師はこれまで一度も彼此を分け隔てたことはない。分けているのは皆のほうであり、上師はいつでも待っている。何を待っているのか。いつの日か因縁が生じ、突然あなたが心を転じたとき、その時にあなたを助けることができるのである。だからこそ、絶えず摂受し続けるのである。たとえあなたが聞き入れなくても、上師はそれでもずっと説き続け、因縁が具わった時にあなたを助けるのである。
 
経典:「於諸法自性菩提。起彼順覺悟心。」
 
菩薩となり、菩薩道を修する者はよく理解している。一切の現象、その本質、本性は「菩提」である。つまり、一本の草が生えてきたとして、あなたから見れば一本の草である。しかし、その草は多くの衆生が食べるために生えてきたものである。それならば、それも菩提心ではないのか。多くの動物は草を食べなければ餓死し、多くの昆虫も草がなければ餓死する。だから今、私は弟子たちに指示して、仏寺の空いている場所に果樹を植え、衆生に食べさせようとしている。私が食べるためではない。私はそんなに多くの果物を食べられないし、太るのが怖いので、そもそもあまり果物を食べない。しかし、衆生には食べ物が必要である。もし衆生に食べるものがなければ、敷地内を荒らしてしまう。そのため、これから木を植え、花を咲かせ実をつける木を植えて、敷地内の衆生に食べさせるのである。
 
多くの人が、「なぜリンポチェの仏寺はわずか二ヘクタールしか使っていないのに、二十一ヘクタールも購入したのか」と尋ねる。第一に、土地が広ければ、周囲に人が住んでおらず、人が仏寺に入ってきて騒がせる機会が減る。第二に、多くの有情衆生を養うことができる。あそこには多くの動物がおり、その土地によって、三悪道に堕ちたこれらの衆生を養うことができる。私の土地に住む衆生は、この一生で必ず救済され、再び畜生になることはない。だから、リンポチェが一つの仏寺を建てるのは、単に人を救済するため、千人の弟子を救済するためだけではない。あそこには数え切れないほど多くの衆生がいる。畜生道の衆生こそ、最も哀れなのである。だからこれほど広い土地を購入したのであり、農薬を使ってはならない。化学的な殺虫剤も一切使ってはならない。すべて禁止である。食べられるものは衆生に食べさせればよい。それだけである。取り除けるものなら取り除き、殺してはならない。そうすれば、害虫も次第に減っていく。

「起彼順覺悟心」。我々が一切の諸法の本性は菩提であると理解すれば、次第にこの菩提の心に随順し、覚悟の心を起こすようになる。覚悟とは、すぐに悟りを開くということではない。次第に覚悟し、一つ一つの物事に対して、どうすべきなのかを理解するようになることである。例えば陳姓の弟子は、もしこの病気にならなければ、覚悟することはなかった。彼女はずっと、自分の考えや見方が正しいと思っていた。しかし、この病気になり、苦しんだからこそ、覚悟したのである。だから、一人一人の覚悟に至る方法は異なるのである。
 
なぜここでは「諸法自性菩提」と言うのか。例えば陳姓の弟子が癌になったことは、一見すると彼女にとって非常に悪いことである。しかし、その本質は菩提である。苦しんだからこそ、自分が間違っていたことに気づいた。自分が間違っていたと知ったからこそ、その後になって多くの仏法を思い出した。そして多くの仏法を思い出したからこそ、最後にはポワ法を得ることができ、彼女の福報が起こったのである。仏法を学ぶことに、それほど難しい学問があるわけではない。ただ観念を転換するだけである。観念が一日転換しなければ、一日として前に進むことはできない。だから「諸法自性菩提」なのである。あらゆる善と悪は、あなたが区別しているだけである。仏菩薩から見れば、あらゆる善と悪の本性はすべて菩提である。なぜなら、どのような方法であっても衆生を助けることができるからである。以前、密法には、畜生道の衆生を見たら、すぐにその衆生を殺し、その場で済度する法があった。今では失伝している。なぜか。畜生になることはあまりにも苦しいので、殺した瞬間にその衆生を済度するのである。顕教を修するのであれば、殺生は許されない。殺生はしてはならない、ということである。そうであろうか。しかし、この法門は殺すことを専門とし、殺したらすぐに済度して、畜生道から離れさせる。これが菩提なのである。もちろん、これは一般の人が使えるものではない。そのため、この法門は次第に失伝したのである。
 
施身法も同じであり、まず自分自身を殺す。本尊が私の頭を切り落とし、すべての肉を切り刻む。以前、皆が豚肉や牛肉を包丁でトントントンと細かく刻んで、餃子に使ったあれは何というのか。(大衆:ひき肉。)だから、餃子を作ったことがある人、肉を刻んだことがある人は気をつけなさい。これは「千刀斬」というものである。今は機械があってとても便利だが、それでも皆がやったことには変わりない。だから、このような人は手術を受ける機会が非常に多い。やったことがある人は手を挙げなさい。(会場の多くの人が手を挙げる)わあ、少なくないな。皆は、死んだ肉の塊を刻んだだけだから何もないと思ってはいけない。仏経によれば、衆生の中には死んだ後も神識が身体について離れない者がいる。ちょうどあなたが刻んだ豚の神識がまだそこにいたなら、あなたが一刀刻むたびに、その豚は一度痛みを感じる。あなたがまた一刀刻めば、また痛みを感じる。あなたのことを忘れるはずがない。
 
なぜ仏は我々に殺生をしないよう勧めるのか。衆生の中には、神識が死体について離れない者がいるからである。なぜ墓にはこれほど多くの鬼がいるのか。衆生の中には死んだ後、死体についていく者がいるからである。死体がどこに置かれようと、その者もそこについていく。まだ輪廻する前は、そこにいるのである。墓に鬼がいるからではない。この神識がついて離れないのである。だから墓を掘り返すと大変なことが起こるのはなぜか。あの鬼たちが復讐しに来るからである。これは余談である。つまり、この言葉の意味は、一切の法、一切の状況、一切の出来事の本性は、すべて菩提であるということである。我々は多くの物事に対する見方を、世間的な利益や損得によって判断してはならない。仏法によって物事を見るのである。もちろん、今の皆にはできない。できないのであれば、まず一つの習慣を身につけなさい。人が悪事をしているのを見ても、批判する必要はない。その場を離れ、さらにはその人を憐れんであげればよい。「あなたはかわいそうだ」と本人に言うのではなく、心の中で憐れむのである。例えば、時々テレビを見ていて、人が殺生しているのを見ると、私はその人たちをとても憐れむ。無知であるために、このようなことをしているからである。 

経典:「於轉法輪。起彼無所轉心。」
 
我々が一切の法の「自性菩提」であると見て、「順覺悟心」を起こしたなら、これは仏法の法輪を転じることに等しい。なぜこれが「轉法輪」ことなのか。仏の考えでは、衆生の本性、自性はすべて善である。なぜなら、すべて仏性を具えているからであり、必ず善の側面がある。したがって、それは仏法の法輪を転じることに等しいのである。また、あらゆる法の自性が菩提であると見れば、必ず仏法を用いて衆生を利益したいと思うようになる。これもまた「轉法輪」ことに等しい。たとえ今、自分が法輪を転じていると思っていても、「彼無所轉心」を起こす。つまり、自分が転じているとは考えないのである。それは諸仏菩薩の心が転ずるものではない。例えば、我々が真言が回転していると観想する。これも「轉法輪」のことである。
 
経典:「於大涅盤。起彼隨現輪迴自性平等心。」

したがって、四大教派の中には、涅槃と輪廻は無二無別と修する一派がある。まさにこの言葉である。輪廻と涅槃は、いずれも一切の因果と因縁である。したがって、それ自体も清浄であり、自分がどのように修するかに随って現れる。「輪迴自性平等心」は、すべて平等なのである。今日、輪廻することも、涅槃に至ることも、すべて自分自身の果である。果もまた因縁によって生じ、因縁によって滅するものであり、固定されて変わらないものではない。つまり、今日あなたが輪廻していても、ある一世では大涅槃に入ることになる。大涅槃に入った後、もしある日、大涅槃の中で何かが突然あなたの心を動かしたなら、再び輪廻に戻ることもある。 
 
人は、「大涅槃に入り、成仏したのなら、なぜまた輪廻するのか」と言う。仏が再び菩薩として戻る場合、最も良い例は誰か。(大衆:観世音菩薩。)観世音菩薩である。すでに成仏しており、古仏であり、大涅槃に入っていた。しかし、突然、衆生を救済したいという心が動き、戻ってきて法身菩薩、観世音菩薩となったのである。多くの人は涅槃を追い求める。しかし、我々が菩薩道を修するなら、涅槃と輪廻は一つの現象、一つの果報にすぎず、我々が追い求める目的ではないと理解しなければならない。 我々が追い求めるものは何か。それは慈悲心、菩提心を学び、自分自身が生死から解脱するために十分な能力を身につけ、さらに衆生が生死から解脱することを助けられるようになることである。だから、多くの出家人は「大いに悟りを開き、涅槃に入る」と言う。しかし、『宝積経』によれば、輪廻と涅槃は平等である。それを追い求める必要があるのか。だから、なぜ男性の出家弟子はどれほど閉関しても閉関できないのか。それは涅槃を追い求めているからである。

この物語が最も分かりやすい。観世音菩薩の物語は皆が知っている。観世音菩薩は古仏の再来である。成仏することが大涅槃である。では、なぜ再び来たのか。再び来るということは、すなわち輪廻である。観世音菩薩となったとき、その法身は輪廻しない。しかし、その意念は必ず輪廻する。観世音菩薩も説いているように、六道の衆生を救済し、六道の衆生を救済するときには、さまざまな身を現す。それは輪廻ではないのか。あなたたちのように修行を始めたばかりの者は、まず輪廻を断つ必要がある。しかし、菩薩戒以上、五地以上まで修したなら、輪廻と涅槃は同じ意味となり、平等になる。まさにリンポチェが言う、「衆生が成仏しなければ、私は成仏しない」ということである。これはどういう意味か。涅槃と輪廻は、私にとって同じである。衆生を救済するのであれば輪廻を続け、衆生を救済しないのであれば、まず涅槃に入る。因縁が具われば輪廻する。この輪廻には苦がない。皆の輪廻には苦がある。だから釈迦牟尼仏は、「あなたたちは輪廻の苦を知り、輪廻を断たなければならない。なぜなら、輪廻を断たなければ、別の境地に入ることはできない」と説いたのである。なぜ西方極楽世界があるのか。それは、そこへ行けばすぐに修行を始め、成仏してから再び戻ってくるからである。
 
法本には、成仏するには十七世修行しなければならないとある。つまり、十七世輪廻しなければならないということである。そして一世一世に危機があり、修行しきれない可能性がある。私も、何度か転生したリンポチェを見たことがある。しかし、その人たちはこの一世で修行しなくなった。すでに四、五世再来しているのに、この一世で何かが起こって修行しなくなったのである。私は二人見たことがある。だから釈迦牟尼仏は、我々が安全であるように、阿弥陀仏の西方極楽世界を紹介したのである。一世を終えたら、そこへ行くことができる。「薬師仏を念じても同じように行けるのか」と言うなら、同じように行ける。阿弥陀仏のところへ行かなければ、薬師仏の瑠璃世界へ行くのである。しかし、皆は一日に三百遍念じるだけで、どこへ行くのか。蔡姓の弟子よ、私はあなたがどこへ行くのか分からない。あなたは自分がまだ死なないと思っている。子どもはまだ小さく、夫もまだ若く、仕事も頑張らなければならないと思っている。あなたが死ぬ時になってからでは、もう間に合わない。その時にはリンポチェはすでにいない。あなたを救える人はいない。あなたには陳姓の弟子ほど大きな福報はない。私はまだここにいる。涅槃と輪廻について、分かったか。(リンポチェが出家弟子に尋ねる。出家弟子:「はい、リンポチェ、分かりました。」)今まで話して、やっとこれを聞かせたのだな。(出家弟子:「はい。」)ずっと待っていたのか。(出家弟子:「はい。」)あなたは一生、「悟りを開きたい、涅槃に入りたい」ということに縛られて、そこから出られないのである。(出家弟子:「はい。」)
 
「於彼隨現」とは、何に随って現れるのか。因果、因縁、福報に随って現れるのであり、自分から求めて戻ってくるものではない。この仏経が難しいのはどこなのか。あまりにも簡潔だからである。昔、仏が仏経を説いたのは、一般の信徒に聞かせるためではなく、すでに菩薩の果位を証した者に聞かせるためであった。そのため、とても簡単な言葉を用いている。 「於彼隨現」とあるが、何に「随う」のかについては説明していない。各人の因果、因縁に随って現れるのである。究極的に涅槃なのか輪廻なのか、あるいは輪廻を断って涅槃に入らないのか、それはすべて自分自身が修して得るものであり、誰かが求めて得させてくれるものではない。簡単に言えば、もし今日、我々が少し謙虚になり、涅槃を求めず、輪廻を断つことを求めるなら、そのほうが達成しやすい。

例えば、何十年も出家している弟子が「私は涅槃に入りたい」と求めれば、達成するのは非常に難しい。一生では不可能だからである。我々の密宗では、少なくとも17世輪廻しなければ、涅槃に入ることはできないと説いている。十七世。一世を六十歳として、それ以上長くないとしても、千年かかる。千年の間に何が起こるのか。誰にも分からない。千年というのは、その間に時間を無駄にしなかった場合の話である。時には、今世から来世まで百年、二百年空くこともある。私がこの一世に来た時も、その間に何百年も空いている。だから、なぜ阿弥陀仏を紹介したのか。それは、この一世が終われば、そこへ行くことで、再び輪廻する危険がなくなるからである。涅槃に至った後、再び戻って衆生を救済したければ衆生を救済すればよい。衆生を救済したくなければ、別の場所へ行って成仏してもよい。だから、皆はまずこれを理解した上で、自分が何を求めるべきなのか、その方向を明確にしなければならない。

出家して何十年にもなる弟子が、ずっと「涅槃、涅槃、涅槃……」と言っているが、この一生で涅槃に入ることはできない。無理である。私が授記しておく(笑)。阿弥陀仏のところへ行けば可能性はある。これもあなたに授記しておく。(出家弟子、合掌して感謝する。)だから、末法の時代において、阿弥陀仏の浄土へ行けるだけでも大変なことである。行ける者はほとんどいない。「阿弥陀仏の名号を唱えれば行ける」と思ってはいけない。本当に、多くの福徳と因縁がなければ行くことはできない。阿弥陀仏のところへ行けば安心である。もう輪廻することはない。ただし、観世音菩薩のような仏の境地まで修め、衆生を再び救済するために戻ろうという思いを起こしたなら、戻って大菩薩となればよい。
 
なぜ人間は特に観世音菩薩を修めるのか。私たちは阿弥陀仏のこの法門を特に広く弘めているからである。観世音菩薩は阿弥陀仏の弟子であり、阿弥陀仏が退位すれば、その後を継ぐのが観世音菩薩である。だから、観世音菩薩を修めても同じように阿弥陀仏の浄土へ行くことができる。では、なぜ皆に六字大明咒を唱えるよう勧めるのか。「阿弥陀仏を唱えたほうがよいのではないか」と思うかもしれない。もちろん、阿弥陀仏を唱えることが悪いわけではない。ただ、阿弥陀仏は仏であり、法身・報身・化身という三身がある。仏の働きは、あなたが修行して成仏するところまで修めた時に現れるのである。菩薩はそれより慈悲深い。あなたが人間であれば、菩薩はあなたのことも見てくれる。仏は人間を直接世話する必要はなく、菩薩に指導するのである。分かるか。例えば、法王がリンポチェを指導するようなものである。法王は、あなた方のような者をそう簡単には教えない。たまにあなた方に法を説くことはあっても、ずっと教え続けることはない。私は法王について何十年にもなるから、よく分かっている。法王が教えて世に出したのは私一人であり、ほかの者には教えていない。だから、今日なぜ皆に六字大明咒を唱えるよう教えるのか。観世音菩薩は私たちにとってより身近であり、私たちの声をより早く聞いてくださるからである。そのため、六字大明咒を唱えるほうが成就しやすい。阿弥陀仏を唱えて成就することはできるのか。もちろんできる。ただ、本当に精進し、心を込めて、一日中それを行うくらいでなければ、その機会を得ることは難しい。

経典:「舍利子。如是所說。是為菩薩摩訶薩於隨順覺悟及所覺悟而能成就希有之法。」
 
仏はさらに説かれている。舎利子よ、私がここまで説いてきたことこそが、「菩薩摩訶薩於隨順覺悟及所覺悟而能成就」なのである。つまり、私が説いたことを聞き、その通りに修行し、心構えを変えていけば、必ずいつの日か成就するということである。あなた方は、自分勝手な方法を考えてはいけない。決して自分のやり方でやろうとしてはならない。仏が教えた方法に従い、その教えに随って修行すれば、必ずいつの日か覚悟し、必ずいつの日か成就する。ここで仏が授記しているということは、仏は私たちを欺かないということである。仏が説かれたことは、一人ひとりが実践できる。ただ、あなた方が実際にやるかどうかである。では、護法を修めよう。

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2026 年 08 月 07 日 更新