尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年07月26日
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェによる『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十三「禅定波羅蜜多品第十之三」のご開示
リンポチェは法座にお着きになると、「百字明呪」を唱えられた。続いて、リンポチェは出家衆に指示され、参会者一同を先導して、帰依発心、四無量心、七支供養、伝法祈請、《随念三宝経》および《八聖吉祥祈祷文》を唱和した。
リンポチェは続いて長時間にわたり六字大明呪をお唱えになった。会場にいた大衆は皆、脈輪の震動と温かな気の流れが体内へ注ぎ込まれるのを感じ、全身が熱くなるのを覚えた。持誦が終わろうとした頃、虚空からは美しい楽の音と鳥のさえずりが聞こえ、リンポチェの尊身と壇城には、燦然と輝く黄金色の光が現れた。さらに、殊勝な香りがあたり一面に満ちあふれた。大衆の煩悩はたちまち静まり、リンポチェによる殊勝にして清浄なる仏法の教えを、一心に拝受することができた。
続いて、リンポチェは貴重なる仏法のご開示を賜った。
今週の日曜日の午前中に法会を行うことになったのは、民主的な手続きを経た結果なのである。(会場笑)民主を掲げる政府のもとにいる以上、私たちも少しは民主的なことをしなければならない。子どもでも、話すことができるなら投票してよいことにした。その結果、反対票はわずか三票だった。民主主義の精神に従えば、少数は多数に従わなければならない。この三票はいずれも交通の問題によるものだった。王姓の弟子は来ているか。(弟子より「来ておりません」との報告。)今日はさっそく来なくなったのか。彼女に伝えておきなさい。民主主義に従わないのだから、選挙活動に関わっていた人間としては、まったく困ったものだと。もし彼女が午前中の法会には来られないと言うのであれば、今後はもう来なくてもよい。これ以上、そんなにつらい思いをさせる必要はない。今の彼女は夫人だから、大したものだ。もう立派な身分を手に入れたのだから。
先週、私はいくつかの仏教用語について話した。私は経教を専門に学んできたわけではないので、仏教における多くの専門用語について深く研究しているわけではない。先週話した五根五力とは、第一に「信」、第二に「進」、第三に「念」、第四に「定」、第五に「慧」である。まず「信」である。信とは迷信ではない。諸仏菩薩と上師が絶えず衆生を輪廻の苦海から救い出そうとしていることを信じることであり、自分自身のささやかな世俗の欲望を満たすためのものではない。何を信じるのか。経典には、「衆生は皆平等であり、あらゆる有情衆生は仏と同じ清浄なる本性を具えている」と説かれている。しかし、私たちは生生世世、自らが積み重ねてきた善業や悪業によって、その清浄なる仏性を覆い隠してしまった。だからこそ、私たちは仏や上師の教える仏法を信じなければならないのである。そうすれば、本来具えている清浄なる本性を再び顕すことができるのである。
「信」とは、「自分はすごくなれる」とか、「体が良くなる」といったことを信じることではない。こうしたことは重要なことではない。大切なのは、仏は有情衆生から修行を積み重ねて成仏されたのだと信じることである。仏が「衆生は皆平等である」と説かれた以上、私たちもまた、仏や菩薩、そして上師が教えてくださった方法に従って修行すれば、いつの日か仏と同じように仏果を証することができる。このことを信じるのが、「信」なのである。第二に、あらゆる仏法は清浄であると信じなければならない。あなたが受け入れられるかどうか、信じられるかどうかというのは、あなた自身の疑いの問題であって、仏法そのものの問題ではない。《大蔵経》に収められているもの、そして歴代の大修行者たちが著した論書に説かれているものは、すべて清浄なる仏法である。あなたが理解できない、分からないからといって、それが誤っているということにはならない。そのときこそ、「信」を用いるのである。私がいつも話しているように、法王が法会を執り行われる際、チベット語で読誦されても、私はその内容を聞き取れない。しかし、私はそれがすべて清浄なる仏法であると信じている。そのため、清浄なる仏法は、ごく自然に、私の清浄なる本質の中へと入ってくるのである。これが「信」なのである。
「精進」とは、毎日どれだけ多くのことを行うかということではない。修行の助けとなる方法を選ばなければならないのであり、人づてに聞いた話をうのみにして、わけの分からないことをしてはならない。また、世俗の風習や文化を修行に持ち込んではならない。ただひたすら仏菩薩と上師の教えに従い、絶えず仏法の上において進歩し続けるのである。いわゆる「精」とは、仏法がこの世における最も精髄なるものであるという意味である。だからこそ、私たちはこの方法によって修行しなければならないのである。
「念」とは、どれだけ多くの仏号を唱えるかということではない。念頭であり、念力のことである。念力とは、衆生を念じ、仏を念じ、菩薩を念じ、そして上師を念じることである。「念」とは、その人のことを思い浮かべることではない。あらゆる念頭が、その人そのものになることであり、それ以外のものが入り込む余地がないということである。このようにして培われた念力は、善なるものである。善なる念力が絶え間なく現れ続ければ、悪念は自然に消えていく。悪念がなくなったとき、その念は清浄であり、清らかなものとなるのである。
「定」とは、ただ座ったまま動かないことではない。定の意味とは、その一瞬において、いかなる雑念も存在せず、心がただ一つの境界に集中していることである。たとえば、念仏に専念すること、真言を唱えること、礼仏すること、香を供養すること、灯明を供養することなど、これらはすべて「定」と呼ばれるものである。「定」とは、必ずしも足を組んで座り、そのまま微動だにしないことではない。ただ一つのことに集中することこそが、「定」なのである。だから、いつも注意が散漫で、物事を忘れたり、おろそかにしたりする人には、定力がないのである。
リンポチェは闕姓の弟子を呼んだ。なぜ定がないのか。それは雑念が多すぎるからである。いつも自分はすごい、自分は賢いと見せようとしているので、物事を忘れてしまうのである。以前はずっとその方法で行っていたにもかかわらず、突然やり方を変えてしまう。定力のない者は、仏法を学ぶことなど言うまでもなく、世間法すらきちんと行うことはできない。なぜ運転中に注意を怠るのか。定力がなく、心が別のことへ向いているからである。なぜ車で人をはねてしまうのか。それも定力がないからである。ぼんやりしていた、気づかなかった、見えなかったなどと言ってはならない。仏法において、そのような考え方は存在しない。私も車を運転する。横断歩道を通るたびに必ず停車し、しっかり確認する。後ろの車にクラクションを鳴らされても構わない。それでも必ず確認するのである。交差点を通るときも、きちんと確認しなければならない。今は興奮したような状態で運転する人があまりにも多いので、衝突事故を起こしてしまうのである。
「定」とは、あなた方が考えているように、仏法を学ぶためだけのものではない。日常生活のあらゆる場面で必要なものである。定がなければ、水を注ぐだけでも不注意によって自分をやけどさせてしまう。では、「定」はどのようにして身につくのだろうか。それは、専念することである。このことをすると決めたなら、そのことだけにしっかり取り組めばよい。「一心二用」などというものは存在しない。ジッテン・サムゴンの著作《一意》にも説かれているように、「一心二用」というものは存在しない。心はただ一つであり、ただ念頭が絶え間なく変化し続けているだけなのである。しかも、その変化する速度はきわめて速い。人間はもちろん、動物も含めて、その念頭が変化する時間の速さを測定できる機器は存在しない。それは、一弾指の刹那よりもさらに速いのである。経典によれば、一度指を弾く、そのほんのわずかな間にも、一万を超える念頭が生じるという。だから、「一心二用」などというものは、人をだます言葉にすぎない。あなたの心を二つに切り分けることができるだろうか。それは不可能である。ただ念頭の移り変わる速度があまりにも速く、反応もまた速いために、まるで一心二用であるかのように感じているだけなのである。一心二用であれ、一心三用であれ、一心四用であれ、一心五用であれ、一心六用であれ、動いているのは、結局のところ、ただ一つの心なのである。
心というものは、外からの影響も内からの影響も受けやすい。外からの影響とは、貪・瞋・痴・慢・疑のことであり、内からの影響とは、累世において積み重ねてきたあらゆる業力のことである。もし自分で「心が動いている」と感じたなら、たとえば何かをしている最中に突然何かを忘れてしまったような場合、それは必ず何かがあなたを妨げているのである。そのときは、少し静かになり、はっきりと見極め、よく考えてから行いなさい。焦って急ごうとしてはならない。なぜなら、自分自身が緊張しているからである。では、なぜ緊張するのだろうか。それは、自分が失敗することを恐れ、人前で恥をかくことを恐れているからである。もし今日、人から叱られることを恐れず、「定」をもって物事を行ったとしたら、叱られることがあるだろうか。
仏法を学ぶということは、単に修行のためだけのものではない。実際には、日常生活のあらゆる場面において必要とされるものなのである。たとえば、先ほど話した「念」である。もし「仕事をするときは仕事だけをする」という念しかなく、そのほかの雑念がなければ、仕事はとても早く進み、上司の話もはっきりと聞き取ることができる。たとえば、私はいつも法務チームを叱っているが、私がまだ話し終わらないうちに、彼らの念頭はすでに動いてしまっている。ひとたび念頭が動けば、私の話はまったく耳に入らなくなり、結局は殴られることになるのである。あなた方は皆そうである。特に今の若い世代は、なおさらそうである。なぜなら、いつもスマートフォンを見ているからである。私が「用事もないのにスマートフォンを見てはならない」と勧めているのは、スマートフォンを使わせないためではない。今では、ヨーロッパやオーストラリアの多くの国々で、十五歳未満の子どもがソーシャルメディアを利用することを禁止し始めている。彼らは、その害がどこにあるのかを理解し始めているのである。しかし、私たちの政府は、まだそのようなことを行っていない。そのため、あなた方はすでに心が乱れた状態に慣れてしまっている。特に二十代の世代は、さらに深刻である。彼らは幼い頃から、スマートフォンやコンピューターとともに育ってきたからである。心が乱れてしまえば、「念」はなくなり、「定」もなくなる。そして当然、「智慧」も生じなくなる。何事も機械に頼るようになり、スマートフォンをなくした途端、どうやって生活すればよいのかさえ分からなくなってしまうのである。
仏法を学ぶということは、あなた方が考えているように、自分自身をより良くするためだけのものではない。仏法とは、人としての道の根本を、どのように正しく行うかを教えるものである。だからこそ、仏典には「人道成じて、仏法成ず」と説かれているのである。つまり、多くの善行を積み重ねたからこそ、人間として生まれることができたのである。では、その人道をどのように保ち続けるのか。善を行い続け、自らを正し、自分勝手になってはならないということである。たとえば、王姓の弟子は反対票を投じた。南部から来るのは大変だからという理由で、反対したのである。彼女は、多くの人が北部に住んでいるということを考えず、自分のことしか考えなかった。それが、自私自利なのである。だから、「信・進・念・定・慧」は、彼女とは何の関わりもないのである。
「定」は、日頃から自分自身で鍛えなければならない。仏があなた方に「定」を授けてくださることはない。せいぜい法会の場にいる間だけ、「定」の状態を保たせてくださるだけである。しかし、その場を離れれば、また心は乱れ始める。だからこそ、絶えず自分自身を鍛え続けなければならないのである。「定」が備われば、「慧」が現れる。「慧」と「聡明さ」は異なるものである。聡明さとは、ただ過去世における人生経験の積み重ねに、今世の人生経験が加わった結果にすぎない。だから、人は聡明であることはあっても、それが智慧を備えていることを意味するわけではない。智慧とは、ごく自然なものであり、本来すでに具わっているものなのである。智慧には、もう一つの特徴がある。それは、多くの事柄を明確に分析したうえで、一つの物事を行うかどうかを決めるということである。そのため、多くの悪業をつくることを避けることができるのである。それは、AIよりもはるかに優れたものなのである。
最近、一人の外国人から電子メールが届いた。細かい内容は忘れてしまったが、そのメールには、ジッテン・サムゴンの著作に「阿羅漢は成仏することはできない」と書かれているのを読み、それは間違っていると思うが、リンポチェはどう考えるか、と書かれていた。これがあなた方の出家者だったら、すぐに議論を始めるだろう。冗談ではない。リンポチェに尋ねてきたのだから、リンポチェは必ず答えなければならない。そうだろうか。しかし、私はリンポチェとして、議論はしない。彼がわざわざ私を探し出してきた以上、何か考えがあるに違いないと思ったのである。そこで私は、まず彼に尋ねた。「そもそも、あなたは帰依しているのか。もし帰依しているのなら、小乗を修しているのか、大乗なのか、それとも金剛乗なのか。私は、それを聞いてから、答えるかどうかを考える。」すると、彼はだんだんと本心を現し始めた。「私は帰依しています。以前、 法王のために、ジッテン・サムゴンの《一意》の翻訳を手伝ったことがあります。『一意』には中国語版がないようですから、もし必要でしたら、私に言ってください。」ほら、出てきたでしょう。(会場笑)
二通目のメールの中で、彼はさらに、自分は仏法の研究者であり、この問題を研究したいのだと書いてきた。そこで私は、次のように返事をした。「私は実修実証を行っている者であり、仏法を研究しているのではなく、仏法を修行しているのです。あなたは研究者であり、私は修行者です。私たちは立場が異なります。ですから、私はあなたに答えを与えることはできません。もし答えが必要であれば、《宝積経》を読んでください。ジッテン・サムゴンの著作は、すべて《宝積経》を根本として書かれたものです。その中に、あなたが研究したいと思っている答えがあります。また、《一意》の中国語版はすでにありますので、ご心配には及びません。」すると、彼はまた長いメールを送ってきた。そして、「私たちは《一意》全十二巻の英訳版を翻訳しており、ショッピングサイトでも販売しています。」と書いてきた。とうとう商売を始めたのである。私は再び返事を書いた。「ありがとうございます。私が必要とするものがあれば、松贊図書館に電話をすることもできますし、あるいは 法王にお伺いすることもできます。そうすれば、必要なものはすべて手に入ります。ご親切に感謝いたします。」そして最後に、一言だけ付け加えた。「All the best.」
もし最初からあなた方が考えるように、「仏法について尋ねられた以上、上師として説明しなければならない」と思っていたなら、延々と議論することになっていただろう。彼はきっと、自分なりの理屈を用意して、私と論争するつもりだったに違いない。もし彼が次から次へと自説を書き連ね、それによってますます道を踏み外してしまったとしたら、それは私が彼を誤った道へ導いたことになってしまう。私は、自分の面子のために彼と議論するつもりはない。もちろん、議論で彼に負けるということではない。私は経典について語ることができるのだから、どうして彼に言い負かされることなどあるだろうか。しかし、この世にそんなうまい話があるはずがない。これほど多くのリンポチェがいるにもかかわらず、彼はわざわざ私を探してきたのである。そこには必ず何らかの意図があるはずである。その意図が何なのか、私にも分からなかった。もし「慧」を修めていなければ、きっとだまされていただろう。案の定、彼は私に一揃いの本を売ろうとしていたのである。私は、買いたくなかったわけではない。最初から「英語版がありますが、ご興味はありますか」と言ってくれていれば、それに答えることもできたのである。ところが、彼は遠回しに私を巻き込み、一緒に付き合おうとしてきた。私を庭へ連れ出して歩かせようというのなら、私もまた彼を庭へ連れ出して歩かせるまでである。彼は、自分はとても賢いと思っていたのだろう。それなら、私はとても愚かな人間ということになる。賢さと愚かさとは、実に鮮やかな対比をなすものなのである。
つまり、仏法を学ぶことによって、多くの煩わしい出来事を避けることはできるのである。しかし、「仏法を学べば、この借りを逃れられる」とか、「この借りを抑え込むことができる」といったような考えを抱いてはならない。そのようなことはあり得ないのである。もし本当に精進して仏法を学ぶのであれば、それは可能である。しかし、ただ一つの問題を解決するためだけに仏法を求めるのであれば、過去世において仏菩薩や上師との因縁が計り知れないほど深くない限り、その願いがかなえられることはないだろう。もしそのような深い因縁がないのであれば、因縁に随って進んでいくしかない。そして、絶えず法会に参加し、仏門に帰依し、仏法を学び続けることで、物事は変わっていくのである。では、法会に参加するだけで、帰依しなかったならどうなるのだろうか。何も起こらない。本当に、何事も起こらないのである。ただ一つ、悪業が永遠に清浄にならないというだけである。だからこそ、この五根五力こそが、仏法を学ぶうえでの根本なのである。
七覚支とは、択法覚支、精進覚支、喜覚支、除覚支、捨覚支、定覚支、念覚支の七つをいう。「覚」とは、この七つの方法によって、少しずつ覚りへと近づいていくよう訓練するという意味である。「支」とは、分枝、すなわち分かれた部分という意味であり、主体そのものではない。では、その意味するところは何だろうか。私たちの真の主体とは、本来清浄なる本性のことである。しかし、今の私たちはまだ覚っていない。それは、自らの清浄なる本性を自ら覆い隠してしまっているため、覚ることができないからである。そのため、私たちは多くの方法を用いて、それを助けとして修行していくのである。
第一は、「択法覚支」である。どのようにして、自分にふさわしく、しかも役に立つ方法を選ぶのだろうか。もちろん、それは上師が教え、導いてくださるのである。上師が用いる方法は、あなた方の想像を超えている。なぜなら、上師はあなた方には見えない多くのことを見ているからである。たとえば昨日、方姓の弟子が息子を連れて懺悔に来た。私はその息子に、父親へ懺悔するよう求めた。なぜなら、彼は父親を敬っていなかったからである。私は、その息子に懺悔の仕方を教えたわけではない。ところが彼は父親のもとへ行き、仏寺で洗面器に水を用意し、自ら父親の足を洗ったのである。その父親は、自分の子どもはなんと親孝行なのだろうと思った。そこで私は昨日になって、なぜ今日、そのように子どもが足を洗ってくれるということが起こったのか、その理由を話したのである。私は八十歳まで生きてきたが、子どもたちの誰一人として、私の足を洗ってくれたことはない。私はいつも自分で洗っている。私は彼に、この因がどのように生じたのかを話した。それは、私の母が入院していた頃、彼が私の母の足を洗ってくれたことがあったからである。その善因が植えられたからこそ、今日、この善果が現れたのである。どのようなことであれ、因があれば必ず果がある。何の理由もなく現れることはない。ここにも多くの年配の方々がおられるが、皆さんには息子や娘がいるだろう。その子どもたちは、あなた方の足を洗ってくれたことがあるだろうか。ないのである。なぜなら、あなた方自身が、自分の両親の足を洗ってこなかったからである。だからといって、今になって両親の足を洗ったとしても、それでは意味がない。なぜなら、それは孝行の心から行うのではなく、何か良いことが自分に返ってくることを期待して行うからである。そのようなものは、何の役にも立たないのである。
いかなる因果も、人為的につくり出されるものではなく、自然に生じ、自然に現れるものである。方姓の弟子も、昨日になってようやく、自分が今世においてどれほど多くの過ちを犯してきたかを悟ったのである。このような小さな出来事にさえ果報があるのだから、ほかのことに果報がないはずがあるだろうか。もちろん、あるのである。あなた方は運が悪い。リンポチェの記憶力は非常に優れているからである。Super Computer(スーパーコンピューター)よりも優れており、何十年も前のことでも、私はすべて覚えている。あの頃、私は方姓の弟子に、数日間、病院で母の世話をするよう頼んだことがあった。母は広東語しか話せなかったからである。ある日、私が病院へ行ったとき、その場面を目にした。しかし、そのとき私は何も言わず、彼のことを褒めることもしなかった。私は、その果報がいつ現れるのかを待っていたのである。そして何十年もの歳月を経て、この一つの出来事によって、彼を教え導いたのである。
今では、皆さんも理解できたはずである。リンポチェが何かを行うとき、それは皆さんのために一つの因を植えているのである。では、その果がいつ現れるのか。それは分からない。しかし、私は必ず皆さんのために善因を植える。叱ることも善因であり、打つことも善因であり、あなた方を追い返すことさえ善因なのである。果報がいつ現れるかは、あなた方自身の因縁次第である。因果と因縁の関係は、複雑に入り組んでいるのであり、「一」がそのまま「一」になるわけではない。私は方姓の弟子の息子に、「きちんと父親に謝りなさい」と言っただけであって、どのように謝るべきかまでは教えていない。もちろん、その父親自身も、息子がそのようなことをするとは思ってもいなかった。ところが突然、息子は父親の足を手に取って、遊び始めたのである。七十歳を過ぎた足の、いったい何がそんなに面白いというのだろうか。だから、どのようなことにも、必ず因果があるのである。あなた方は、本当の意味で因果を信じていない。なぜ私が、皆さんが法会に参加しているとき、その一挙手一投足を目にしたなら、必ず叱るのか。それは、法会そのものが善だからである。法会の場にありながら、法会とは関係のない言動をするなら、それは悪なのである。だからこそ、私は容赦なく叱る。それこそが仏法なのである。毎日、木魚をたたき、二、三巻の経典を読誦することだけが、仏法なのではない。だから、「択法覚支」というのである。自分自身では、自分にとって本当に役立つ法を選ぶことはできない。それを助けてくれるのが、上師なのである。
次は、「精進覚支」である。上師は、どの時期に、何をするように勧めるべきか、何をするように促すべきかを見極めている。そして、そのとおりに行わせることによって、あなた方が精進できるよう助けるのである。多くの人が、しばしば不共四加行を求めてくる。しかし、読誦が遅くても私は叱るし、速くても私は叱る。なぜ速すぎても叱られるのか。もちろん叱られる。なぜなら、それは自分の体力の限界を超えているからである。少し前にも、八供女の一人の父親が、一日に千二百回の大礼拝を行っていた。そこで私は、その娘に、父親へこう伝えるように言った。「一日に六百回だけ行いなさい。」なぜなら、彼には仕事があり、家計も彼が支えていたからである。奥さんは認めていなかったが、実際にはやはり彼に頼っていたのである。もし大礼拝によって体を壊し、仕事ができなくなったとしたら、それこそ私は大変なことになる。なぜ大変なのか。また何人か養わなければならなくなるからである。だから、一日に六百回だけにするよう言ったのである。逆に、もっと多く礼拝するよう求めることもある。あり余った気力や体力を持て余しているのであれば、もう少し多く礼拝すればよい。人によって、それぞれ異なるのである。また、あなた方の読誦があまりにも遅い場合、私は法を授けないこともある。精進していないのだから、どうして法を授ける必要があるだろうか。
次は、「喜覚支」である。この「喜」とは、あなたを楽しい気持ちにさせることや、何かを好きになることではない。なぜなら、いかなる仏法も、人に歓喜の心を生じさせるからである。たとえば、昨日の方姓の弟子は、とても喜んでいた。彼も高齢なので、大声を上げて笑うのは気が引けたのだろう。しかし、心の中では笑いが止まらなかったのである。(会場笑)それは、仏法によって、このような歓喜の心が生じたからである。仏法とは、このように堅苦しく、融通の利かないものではない。仏法は、生き生きとしたものである。そして、一人ひとりの因縁や出来事、生い立ちや背景などに応じて、それぞれにふさわしい方法を用い、その人を助け、変えていくのである。そして、少しずつ理解へと導いていくのである。いつの日か、本当に仏法を理解することができたなら、その喜びは、とても言葉では言い表せるものではない。いわゆる「法喜充満」である。今日、経典を読誦して、とても楽しかったから法喜充満なのではない。そうではなく、仏法を学び、仏法を修行し、上師の助けと導きのもとで、煩悩が減り、さらには完全に止息したとき、そこに生じるものこそが、「喜」なのである。
もしあなた方が、いつまでも苦しみの中にあるのなら、それは仏法があなた方の助けになっていないということである。だからこそ、私はあなた方に、より多く読誦し、より多く礼拝し、苦を受け入れるよう教えるのである。なぜなら、苦の因縁が消えていないかぎり、「喜」という覚受は決して生じないからである。なぜ仏法を学ぶ者は怠けてはならないのか。それは、怠惰になるということが、安逸な暮らしを求めることだからである。たとえば、これらの老人たちのように、七十歳を過ぎると、まったく体を動かさなくなる人がいる。毎日家に帰ると、せいぜい線香を供え、水を替えるだけで、そのまま横になり、じっと死を待つのである。しかし、死ぬにも体力が必要なのである。誰もが、自分は七十歳を過ぎたのだから、もう動く力はないと思っている。しかし、私は八十歳になった今でも、毎日三十分間は運動をしている。そして今もなお仏法を説き、これほど多くの事柄に心を配り、さらには大声で人を叱ることもできるのである。この「喜」を生じさせるのである。もちろん、無上瑜伽部には、それを生じさせる方法がある。しかし、それはあなた方に伝えることはできないし、どのようなものかを話すこともできない。だが、顕教においても、「法喜充満」の境地に至ることはできるのである。では、どうすればよいのか。言われたとおりに実行することである。そうすれば、煩悩は自然に少しずつ減っていくのである。
除覚支は、また「軽安覚支」とも呼ばれる。禅宗では、禅定を修めることによって軽安を得ると言われている。しかし、金剛乗においては、「軽安」という言葉はあまり用いられず、「喜」の覚支が説かれている。では、「軽安」とは何だろうか。それは、煩悩が軽くなり、煩悩が少なくなり、粗大な煩悩が微細な煩悩へと変化していくことである。では、「微細な煩悩」とは何だろうか。空腹を感じることも煩悩であり、暑いと感じることも煩悩であり、眠りたいと思うことも煩悩なのである。このような軽微な煩悩は、身体が活動するうえで必要なものである。そのため、仏は、このようなものを持ってはならないとは説かれなかった。しかし、粗重な煩悩は、あなた方の身・口・意から生じるのである。
私たちは、眼・耳・鼻・舌・身・意を通して、外界のあらゆる現象に触れ、それによって身・口・意の反応を生じさせる。そして、その身・口・意の反応によって、何らかの欲望や考えを満たしたいという思いが生じたとき、そこに煩悩が現れるのである。私たちが仏法を学ぶのは、経典を読誦し、仏を念じ、禅定を修めることによって、煩悩を止め、さらには減少させ、ついには消滅させるためである。その結果として現れる感覚が、「軽安」なのである。いわゆる「軽」とは、人が煩悩を持たなくなったとき、身体が軽くなったように感じることをいう。あなた方も、このような経験をしたことがあるはずである。たとえば、試験の前になると、体全体が重くなったように感じることがある。ところが、試験が終わると、合格したかどうかにかかわらず、急に体も心も軽くなったように感じる。勉強をしたことのある人なら、このような感覚を味わったことがあるだろう。どうだろうか。(大衆、「あります」と答える。)
たとえば、付き合っている二人が突然けんかをして、相手が自分を無視するようになったとする。そうなると、ずっと悩み続けることになる。ところが、突然相手から電話がかかってきたら、どうなるだろうか。先ほど私は「法喜充満」という話をしたが(大衆笑)、あなた方の場合は法喜充満ではなく、「欲喜充満」である。それが、すなわち「軽安」なのである。煩悩が消えたのである。「軽安」の定義とは、煩悩が軽くなり、少なくなり、さらには止まることである。そして、「軽安」という覚受の現れは、仏法によって助けられるものなのである。
次は、「捨覚支」である。私たちは四無量心を唱える。その最後にある「愛憎住平等捨」の「捨」とは、この「捨覚支」の「捨」のことである。愛するものも手放し、嫌いなものも手放さなければならない。いわゆる「捨」とは、捨て去って顧みないという意味ではない。目の前に現れたものを見て、「私は要らない」と言うことでもない。そうではなく、それに執着しないということである。私がいつも言っているように、因縁に随って生き、置かれた境遇をそのまま受け入れることである。良いことであっても、一日は二十四時間である。悪いことであっても、一日は二十四時間である。それをどのように過ごすかは、自分次第なのである。もし執着心が強く、「慈・悲・喜・捨」を修めないのであれば、この「捨覚支」は、あなた方とは無縁のものとなる。そして、捨てることができなければ、「定覚支」は自然に現れない。「定覚支」が現れなければ、「念覚支」もまた現れない。なぜなら、「定」を備えた人の念もまた定まっているからである。そのとき初めて、唱える仏号に力が生じる。そうでなければ、何の作用も生じないのである。
先ほど六字大明呪の最後の一節を唱えたとき、皆さんは、とてもよい香りを感じただろうか。(大衆、「はい」と答える。)また、何か音楽のような音や、鳥のさえずりのような音を聞いただろうか。(大衆、「はい」と答える。)これこそが「念覚支」が現れたということである。
次に説かれるのは、「八聖道」であり、また「八正道」とも呼ばれる。これは、仏法が邪であるか正であるかという意味ではない。仏典の中にも、「附仏外道」という言葉が説かれている。表面上は仏法を説いているように見えても、その本質は外道であるということである。では、「正」とは何を意味するのだろうか。私たち自身と衆生が輪廻から解脱することを助ける、あらゆる方法を「正」というのである。反対に、私たちを輪廻へと導くあらゆるものを、「邪」というのである。したがって、「正見」「正思惟」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」のすべては、自分自身と衆生とを輪廻の苦しみの海から離れさせるためのものなのである。「正業」とは、殺生の業を行わず、それ以外の仕事に従事することだと説明する人もいる。しかし、ここでいう「業」とは、世間における職業や仕事のことではない。身・口・意によって行われる、あらゆる行為のことを指しているのである。そして、身・口・意によって行われたあらゆる行為のうち、輪廻を生じさせるものは、「正業」ではないのである。たとえ人に仏を念じるよう勧めたとしても、その動機が正しくなければ、それもまた「正業」ではない。
「正語」もまた、このように解釈されるべきものであり、「正思惟」も同様である。私たちが「正方向へ向かう」と言うとき、それは身・口・意によって行うあらゆることが、自分自身と衆生とを輪廻の苦海から解脱させる助けとなることを意味しているのであり、それをもって「正」というのである。そのため、法本の中には「正上師」という言葉も説かれている。これは、正式な上師とか、正しい上師という意味ではない。そうではなく、あなたを助け、輪廻の苦海から離れる方法を教える上師のことを指しているのである。だから、そのような上師が、あなた方と一緒になって冗談を言い合ったり、耳に心地よいことばかりを語ったりすることは、決してないのである。あなた方は、上師がいつも穏やかな顔を見せ、一日中あなた方を褒め続けることを望んでいる。それなら、そのまま輪廻を続ければよいのである。なぜなら、貪りの心が絶えず生じ、「上師は私を素晴らしいと言ってくださった」「私はよく修行している」と思い込み、慢心が生じるからである。そのようなものは、生死からの解脱に対して、何の助けにもならないのである。
今日お話ししたこれらのことは、あくまでも基礎であり、基本的な概念にすぎない。大切なのは、なぜ仏法を学ぶのかということを正しく理解し、道を誤らず、脇道へそれずに進んでいくことである。リンポチェは、これらの名相について、それほど詳しいわけではない。しかし、私は道を踏み外したことはない。私は終始、正しい道を歩み続けてきたのである。なぜ正しかったのか。おそらく、それは前世において仏法を学んでいたことと関係があるのだろう。あるいは、昔と今とでは時代が異なっているからかもしれない。昔は、悪事を行う機会が比較的少なかった。しかし今は、悪事を行う機会があまりにも多すぎる。たとえば、ウェブサイトやグループチャットの中で、ほんの数文字を書き込んで人を罵ることができる。もし面と向かって相手を罵ろうとすれば、相手に殴られるかもしれない、言い返されるかもしれないと心配し、そんなことはできないだろう。そうではないだろうか。ところが、携帯電話の画面を通して罵るのであれば、相手がどのような反応をするのか分からない。自分の気が済むまで罵り、あとは電源を切って相手を無視すれば、それで終わりである。しかし、その時点で、悪意ある言葉を口にするという悪業は、すでに行われているのである。そうではないだろうか。
皆さんも知っているように、携帯電話に残されたあらゆる情報は、クラウド上に保存されている。そして、そのクラウドが存在し続けるかぎり、悪口という業もまた存在し続けるのである。将来、クラウドに取って代わる新しい技術が発明され、クラウドそのものが完全に消滅しないかぎり、それは消えることはない。しかし、そのときには別のものが現れるだろう。それがAI(人工知能)である。AIは、さらに膨大な情報を蓄積する。このような科学技術は、人々にますます悪業を行わせることになる。たとえば、AIを使って誰かを攻撃したとしても、「私が攻撃したのではない。ただAIが攻撃するのを見ていただけだ」と言うことができる。今では、ロボットが戦う時代になっている。ロボットを戦場へ送り込んだとしても、「私は罪を犯していない」と言うのである。だからこそ、一つのことを理解しなければならない。私たちは末法の時代に生きているのであり、いわゆる五濁悪世に生きているのである。そのような時代にあって、仏法を学ぶ機会を得て、正法を聞くことができるということは、それ自体が、きわめて大きな福報なのである。それを、当然のことだと思ってはならない。
寶吉祥では、創立当初から今日に至るまで、そして仏寺が完成した後も、一度として功徳主を設けたことはない。私は、権力や財力を持つ人々と縁を求めたこともない。むしろ、その人に権力や地位があると分かれば、私はかえって少し距離を置くのである。なぜなら、そのような人々を敵に回すことはできないからである。寶吉祥において、私は在家の修行者である。そして今の時代において、人を出家させることは、とても辛いことである。だから私は、できるかぎり、自分の学んだ仏法を在家の人々に伝えるようにしている。なぜなら、在家の身で修行を成就することは、きわめて難しいことだからである。《宝積経》にも、はっきりと説かれている。菩薩の法門は、在家であっても出家であっても修めることができる。しかし、出家者の悪業は比較的軽く、在家者の悪業は比較的重いのである。つまり、家庭があり、家族がいるかぎり、必ず悪業が生じるということである。悪業がまったく存在しないということはあり得ない。いったい、家の中で一度も口論をしたことのない人がいるだろうか。
仏典曰く:「於奢摩他起彼平等心。」
「奢摩他」とは、「止観」を意味し、禅定の一部である。では、「止」と「観」とは、どのような意味なのだろうか。これは、禅定の中で修めていく一つの過程なのである。「止」とは、止めることであり、「観」とは、自らの内側へと向かって観察することである。通常、禅宗の修行において、「止める」といっても、完全に止めてしまうという意味ではない。そうではなく、悪しき念が絶え間なく連続していくのを止めるということである。大手印の教えで言えば、念が生じたとき、それを追いかけてもならず、無理に追い払おうとしてもならない。たとえば、一頭の獅子が目の前にいるとする。そこへ石を投げれば、獅子に噛み殺されてしまうだろう。また、一頭の馬が前を走っているとする。それを追いかければ、馬はますます速く走り、結局は追いつくことができない。つまり、念が生じたときには、さまざまな方法を用いて、その念をしばらく止め、いったん止まらせるのである。その方法は数多くある。仏像を見ること、仏の名号を唱えることまた、善なる念をもって、その念に代える方法などである。
「観」とは、自分自身を省みることであり、今、自分はいったい何をしているのかを見つめることである。修行をしているのだろうか。それとも、世俗の中にあって、次々と湧き起こる念の中を絶えずさまよっているのだろうか。たとえば、少しでも静かになる時間ができると、過去のさまざまな出来事を思い浮かべる人がいる。それが正しいことであったか、間違ったことであったかにかかわらず、次から次へと思い返してしまうのである。不愉快な出来事を思い出せば、「あのとき、自分はこうすべきだった」と考える。楽しかった出来事を思い出せば、「あのとき、自分はこうすべきだった」と考える。これらはすべて、「止」ができていない状態なのである。「止観」は、禅定を学ぶための第一歩なのである。では、なぜ金剛乗において真言を唱えるのだろうか。真言を唱えることによってのみ、善なる念を用いて、乱れ続ける念を抑え、それを止まれることができるからである。そして、その念が止まられたとき、清浄なる自性が現れ、はじめて仏法の殊勝さを体得することができるのである。もし「止観」によって禅定を修めなければ、坐れば坐るほど、心は乱れていく。なぜ乱れるのだろうか。それは、念が絶え間なく湧き起こってくるからである。だから私は、むやみに禅定を教えることはしない。なぜなら、業が重い者は、禅を学ぼうとしても学ぶことができないからである。また、上師や仏法に対して恭敬の心を持たない者は、禅を修めようとしても修めることができない。したがって、まずは業の一部を清浄にし、そのうえで初めて禅を学び始めることができるのである。
「起彼平等心」ということである。止観を修めることのできる人は、すでに少しずつ、あらゆる物事が因果によって成り立っていることを見抜けるようになっている。そのため、善悪や好き嫌いによって物事を分別することはなく、すべてを平等心によって見つめるのである。たとえば、方姓の弟子は、これまで数多くの過ちを犯してきた。それでも、リンポチェは絶えず彼に機会を与えてきた。それはなぜだろうか。彼が善なる心をもって、かつて私の母を助けてくれたことがあるからである。そのわずかな善心があったからこそ、たとえ彼が多くの過ちを犯したとしても、私はなおも彼に機会を与え続けたのである。すると、皆さんはこう言うだろう。「それなら、もっと早く分かっていれば、みんなでリンポチェのお母さまのお世話をしに行きましたよ。」(大衆笑)もっと早く分かっていれば、というわけである。私は、決して軽々しく口にすることはないのである。
仏典曰く:「於毘鉢舍那發起觀察聖諦希有遍知心。」
「毘鉢舍那」とは、内観を意味する。しかし、「内観」といっても、自分の心臓や五臓六腑を内側から見るという意味ではない。内観とは、禅定を修める場合であれ、真言を唱える場合であれ、あるいはどのような法門を修める場合であれ、その心を外へ向かわせないということである。たとえ真言や仏号を唱えているときであっても、「いったい誰が仏を念じているのか」を観なければならない。浄土宗では、どのように説かれているだろうか。(出家弟子が答える。「念仏しているのは誰か、です。」)「念仏しているのは誰か。」これこそが、内観なのである。これは、あなたの口が唱えているのだろうか。あなたの意識が唱えているのだろうか。それとも、あなたの心が唱えているのだろうか。あなたは、それがいったい誰であるのかを、見いださなければならないのである。
それが誰であるのかを見いだすことは、一朝一夕にできることではない。「まず、自分が唱えているのだと分かった」と言うかもしれない。もちろん、それは口が唱えているという意味では正しい。しかし、空性の考え方からすれば、なぜあなたの口は開いて言葉を発するのだろうか。それは、あなたの意、すなわち思惟から生じているのである。では、その意はどこから来るのだろうか。それは、阿頼耶識から、末那識から阿頼耶識へと至る働きの中から生じ、この意、この思惟が現れるのである。そして、その思惟が動き始めると、過去に積み重ねられた経験や法則によって、自分が何をすべきかが定まっていく。たとえば、仏法を学ぶ場合、上師が「真言を唱えなさい」と教える。あなたはそれを聞き入れる。そして、その教えは阿頼耶識の中に蓄えられていくのである。やがて、その行為を始めようとすると、末那識が働き始める。末那識が動けば、それに伴って、あなたの口もまた開き、真言を唱え始めるのである。
では、いったいあなたの心が唱えているのだろうか。そうではない。唱えているのは、あなたの意識なのである。つまり、自分自身の考えによって唱えているのであって、本来の心から自然に流れ出てきたものではないのである。したがって、内観とは、自分自身を振り返り、自分が仏法を学ぶ考え方が、いったいどこにあるのかをはっきり見極めることである。もし、それが世俗におけるさまざまな事柄のためであるならば、それは仏法を学んでいることにはならない。それは外道なのである。リンポチェに褒められたい、自分はよくできていると認めてもらいたい、リンポチェにこうしてほしい、ああしてほしいと思うこと、それらはすべて外道である。それは、自らを内観していないということなのである。
内観には、もう一つの意味がある。それは、自分自身のどこがまだ改まっていないのか、どこがまだ捨て去られていないのかを見つめるということである。では、「捨て去る」とは、どういうことだろうか。それは、貪・瞋・痴・慢・疑を絶えず捨て続けることである。そして、いつの日か、それらがすべてきれいに取り除かれれば、本来の自性が自然に現れてくるのである。それでよいのである。ちょうど、リンポチェがあの外国人に対処したときと同じである。私は、貪・瞋・痴・慢・疑を起こさなかった。彼からメールが届いても、私は喜んだりはしなかった。「ついに外国人の弟子を一人迎えることができる」と考えたりはしなかったのである。したがって、「内観」とは、毎日の修法の際に、ただ読誦を終えて立ち上がることではない。なぜ、私は皆さんに少しの間、静かに定まるように言うのだろうか。皆さんが座ってしばらく心を静めれば、ごく自然に、自分が今日どのような心構えで仏法を学んでいるのかが、はっきりと見えてくるからである。心構えが正しくなく、動機も正しくないのであれば、たとえ十世にわたって唱え続けたとしても、あるいは百世にわたって唱え続けたとしても、結果は同じなのである。
では、その動機や心構えは、どこから生じるのだろうか。四無量心を念じるときも、四帰依文を唱えるときも、そのすべては、すでに皆さんに教えているのである。しかし、皆さんはただ唱えているだけであり、それを見つめようとはしていない。《仏子行三十七頌》もまた、それを用いて自分自身を省みるよう教えている。これこそが、内観なのである。ところが、皆さんはただ唱えているだけで、自分自身を省みようとはしない。唱えるだけで、いったい何の役に立つというのだろうか。何の役にも立たないのである。李姓の弟子が、「私は毎日唱えています」と私に話したことがあった。それで役に立つのだろうか。《仏子行三十七頌》を用いて、自分自身を省みなければならない。それこそが、内観なのである。皆さんには、自分自身の欠点を見る力がない。自分が仏法の上で、どこが足りていないのかも見えていない。だからこそ、リンポチェも観世音菩薩も、《仏子行三十七頌》を、そのための道具として用いること賛成しているのである。
《仏子行三十七頌》を何遍唱えなさいと言っているのではない。毎日、《仏子行三十七頌》を用いて、自分自身を対治しなさいと言っているのである。今日一日、自分の身・口・意のどこに誤りがあったのかを見つめること、それが内観なのである。皆さんは、それを行っているだろうか。面倒がって行おうとせず、唱えさえすれば加護が得られ、加持が授かると思っている。もしそうであるなら、私たちは日頃から「修」と言っているが、いったい何を修めているというのだろうか。いっそのこと、「唱える」と言えばよいのである。もはや「修める」という言葉を使う必要などない。ただ聞けばよく、ただ唱えればよい、そういうことではないだろうか。皆さんは言うことを聞かず、怠け者であり、それでいて安逸な生活を送りたいと望んでいる。自分自身を省みることは、とても苦しいことだからである。しかも、心の中では、このように考えている。「今日は一日じゅう、これほど多くのことをしたのだから、どうして一つ一つ覚えていられるだろうか。」「私は毎日ずっとこのように生きてきたのだから、どこが間違っているというのだろうか。」「私はもう七十年以上も生きてきたのだから、どこが間違っているというのだろうか。」「私は試験でもよい成績を取り、大学にも進学した。それなのに、どこが間違っているというのだろうか。」「私の息子は海外へ留学できた。それなのに、どこが間違っているというのだろうか。」これらはすべて、内観していないということなのである。
「内観」という言葉については、私はこれまで語ってこなかった。しかし、今日それを語ったということは、すでに皆さんに教えてきたということなのである。それなのに、皆さんは実践していない。私は法会のたびに、毎日《仏子行三十七頌》を用いて、自分自身の身・口・意を省みるよう繰り返し説いてきた。皆さんは、それを実行しているだろうか。していないのである。なぜ、しないのだろうか。それは、自分が間違っていると認めたくないからである。これほど長く生きてきたのだから、自分に誤りなどあるはずがないと思っているのである。とりわけ、官職に就いていた者や、権力や地位を持つ者たちは、「自分のどこが間違っているというのだろうか」と考えている。自分に誤りがあるかどうかを内観しようとしない。そして、その誤りが積み重なり、ある程度の力を持つようになったときには、もはや取り返しのつかない大きな過ちとなってしまうのである。そうなれば、二度と立ち直ることはできないのである。
それでは、仏法の要点はどこにあるのだろうか。信を持つこと以外に、自ら修めなければならないのである。たとえ、自分はもう年を取り、修行する力もなく、読誦する力もなくなったと思っていたとしても、今日、自分が間違ったことを言わなかったか、間違った行いをしなかったか、不適切な念を起こさなかったかを見つめるくらいのことはできるはずである。それくらいの能力はあるだろう。年を取った人ほど、さまざまな考えにとらわれるものである。「あの人は私にひどいことをした。」「あの人はどうだった、この人はどうだった。」皆さんは毎日、このようなことばかり考えている。自分の息子がどうだ、娘がどうだと、そのようなことばかり考えている。皆さんの頭の中には、実に多くの思いが渦巻いている。ところが、自分自身を内観し、自分自身について考えなさいと言われると、どうしてもそれをしようとしない。だからこそ、内観を修めない人は、永遠に仏法と接することはできないのである。
内観を行ってこそ、觀察聖諦が起こり、その働きが生じるのである。ここでいう「聖諦」とは、仏が説かれた四聖諦のことである。そうして初めて、苦・集・滅・道を見極めることができ、あらゆる方法がいかに稀有であり、仏法を聞くことがいかに難しいことであるかを知るのである。さらに、「遍知心」が生じてこそ、あらゆる有情衆生の心のあり方を、おおよそ知ることができるようになる。もちろん、今の皆さんには、それはできない。しかし、少なくとも、まず自分自身を見ることはできるはずである。自分自身の問題がどこにあるのかさえ見えていないのに、一日中、滔々と衆生済度について語っている。いったい、誰を渡そうというのだろうか。自分自身の問題がどこにあるのかも分からないのに、どうして衆生を度することができるだろうか。皆さんには、私のような忍耐力があるだろうか。方姓の弟子に対して、私は何十年もの間、耐え忍んできたのである。そして、昨日になって初めて、そのことをまとめて問いただしたのである。皆さんに、そのような忍耐力があるだろうか。ないのである。
仏典曰く:「成熟有情發彼本清淨心。」
「遍知心」が現れて初めて、衆生を成就させ、成熟させ、その修行を助けることができるのである。「發彼本清淨心」とは、今、リンポチェが皆さんのために行っていることなのである。皆さんは、まだ成熟していない。つまり、まだ仏法を学ぶ道の上に立っていないということである。だからこそ、皆さんがこの修行の道へと歩み出せるように助けなければならないのである。そして、本来、皆さん自身の中に具わっている清浄なる心が現れるよう、その働きを起こさせるのである。
仏典曰く:「於彼法界攝受正法無雜亂心。」
「法界攝受正法」とは、虚空のすべてにわたって、一切の正法を摂受するということである。この虚空の中には、無数の仏がおられる。過去の三世の諸仏がおられるのであり、その数は、とても数え尽くせるものではない。そして、それぞれの仏には、それぞれ弘めるべき正法があるのである。一人の大菩薩として、自分自身の修行だけを行えばよいというものではない。あらゆる仏が説かれた正法のすべてを摂受しなければならないのである。「無雑乱心」とは、このような雑乱した心が起こらなくなることであり、そのような心が存在しなくなるということなのである。
仏典曰く:「於無生法忍起不可得心。」
私たちが忍辱を修めるうえで、最も難しいのが「無生法忍」である。「無生法忍」とは、まだ生じていないものを我慢するという意味ではない。私たちは、名声や利益、誹謗中傷や侮辱といったものが、すべて因縁因果の法によって生じるものであることを、はっきりと理解しなければならない。そして、因縁因果の法そのものの本質は空性であり、本来、無生なのである。つまり、因縁が生じれば、その因縁はやがて自然に滅していくということである。因が生じ、果が熟したならば、その因果もまた滅していくのである。したがって、もし私たちが他人の言葉に執着し、「必ず復讐し、やり返してやる」と考えるのであれば、それは忍辱の法門を修めていることにはならないのである。
まさに先ほどお話しした、あの外国人からのメールの話と同じことである。もし私が忍辱の法門を修めていなかったなら、自分の仏法を相手に誇示しようと急いでいたことだろう。そうなれば、その後には、次から次へと問題が生じていたはずである。まずは少し耐え忍び、状況を見極め、ゆっくりと時間をかけて相手と話をしたのである。そして、自分自身を、攻撃されない立場へと退かせたのである。なぜなら、彼は自分を研究者だと言い、私は修行者であるからである。両者は同じ立場ではない。それならば、もはや話し合うことなどないのである。つまり、誰かが「仏教を学ぶのは迷信だ」と言ったとする。そのとき、「迷信だと言わないでください。私は仏法を修行しているのです」と答える。これはどういう意味だろうか。もう、それ以上は話を続ける必要がないということである。相手は、あなたを迷信深い人間だと思っている。それに対して、私は「私は迷信などしていません。私は毎日、自分に誤りがないかを省みています」と言うのである。人間にとって最も耐え難いことは、人から見下されることなのである。(リンポチェが、一人の女性の出家弟子に向かっておっしゃった。「まさに、お前がそうなのだ。」)しかし、人があなたを尊重するかどうかは、学問がどれほど高いか、品性がどれほど優れているかによるものではない。世間においては、その人がどのように人と接し、どのように事を行うかによって決まる。そして仏法においては、その人の心がどのようなものであるかによって決まるのである。
「於無生法忍起不可得心」とは、どういう意味だろうか。それは、忍辱の法門を修める者が、あらゆる法はすべて因縁によって生じたものであり、もともと自然に存在していたものではないことを、はっきり理解しているということである。因縁によって生じ、因縁によって滅していくのである。だからこそ、あらゆる法が生じたとき、私たちは忍耐しなければならない。しかし、ここでいう忍耐とは、ただ耐え忍び、何も言わず、何の対処もしないという意味ではない。たとえば、今日お話しした外国人の件についても、私はきちんと対処したのである。何もしなかったわけではない。ただ、忍耐したのである。何を忍耐したのだろうか。それは、自分の名聞や利益に対する執着を、すべて覆い隠したということである。私だって、「私は大リンポチェであり、仏法を理解している。どうして一人の在家信者にすぎないあなたが、私にメールを書くのか」と言うこともできたのである。言い返し、叱りつけることもできたのである。そうではないだろうか。しかし、私はそうしなかった。それどころか、一歩身を引き、相手が意見を述べるための余地を残したのである。そうすることによって、物事はより円満に収まるのである。少なくとも、相手は、私が自分を傷つけたとは感じなかったはずである。ただ、「この方は、すべてを手にしているのだから、今は必要がないのだろう」と感じたのである。だから私は、それでもなお感謝の気持ちを伝えたのである。「All the best。」
「All the best」とは、どういう意味だろうか。(魏姓の弟子が答えた。「さようなら、という意味です。」)「All the best」は、「さようなら」という意味ではない。(夏姓の弟子が答えた。「ご報告いたします。リンポチェ、『All the best』とは、『どうかすべてが順調に進みますように』という意味です。」)リンポチェが魏姓の弟子におっしゃった。「お前は『さようなら』『バイバイ』と言ったが、その前に、この言葉をきちんと訳さなければならない。」外国人が「All the best」と言うとき、それは、「もう会うことはないでしょうが、あなたの幸せを願っています」という意味なのである。たとえば、恋人同士が喧嘩をしたときに、「これからも、あなたの幸せをずっと祈っているわ。これからも友達でいましょうね」と言うことがある。それと同じ意味なのである。皆さんも、このような言葉を口にしたことがあるだろう。何が友達だというのだろうか。まったく、でたらめな話なのである。
「忍」とは、忍耐という意味ではない。仏法におけるこの言葉は、文字だけで正確に説明することが極めて難しいのであり、やむを得ず「忍」という字が用いられているのである。「忍」という字には、どこか心ならずも耐え忍ぶという響きがある。しかし、実際の仏法における「忍」とは、ある事柄に気にせず、それを攻撃的に追及しようとしないことを意味している。しかも、その事柄について、智慧によって理解しているのであり、相手に攻撃されていると感じさせることもないのである。「不可得心」とは、求めて手に入れるような心ではない。それは本来、自然に存在しており、遍くあらゆるところに満ちているのである。《般若心経》に説かれているように、心とはもともと存在しているものであり、求めても得ることはできず、見ようとしても見ることはできない。しかし、それは絶えず存在しているのである。ただ、私たち自身が、それを知らないだけなのである。ところが、六波羅蜜の修行を通じていけば、ごく自然に、その存在に気づくようになる。それは、目で見るという意味ではない。その働きが、どこに現れているのかを感じ取ることができるようになるのである。では、その働きとは何だろうか。それは、もはやいかなる悪しき因も植えることがなくなり、あらゆるものが善なる因となるということである。そして、あらゆる物事を、より円満に処理できるようになるのである。
今日、多くの人が考えているように、仏法とは、ただ自分の苦しみから解放され、三悪道に堕ちないためだけのものではない。仏法とは、本来、人間のさまざまな行いを絶えず修正していくものなのである。人間としての行いが少しずつ減り、さらには、使わなくなってこそ、菩薩となり、仏となる機会が得られるのである。もちろん、修行の過程においては、「人」というこの身体を用いて修行しなければならない。この道具がなければ、修行することはできないのである。なぜなら、仏陀以来、一人として、人道を経ることなく仏となった仏はおらず、人道を経ることなく菩薩となった菩薩もおられないからである。したがって、私たちは必ず人道を経なければならないのである。そして、人道に生まれた以上は、人道の長所と短所の両方を理解しなければならない。その長所と短所をはっきり理解したうえで、長所は保ち、短所は減らし、さらには、それを行わないようにしてこそ、人道からさらに精進し、上へと進んでいくことができるのである。そして、小乗においては阿羅漢を修め、大乗においては菩薩を修め、金剛乗においては仏果を成就するのである。このように、一つ一つをはっきり区別して理解しなければならない。上師の仕事とは、まさに皆さんが、このようなことを行えるよう助けることなのである。しかし、「助ける」とは、皆さんの代わりに行ってあげるという意味ではない。何をどのように行うべきかを教えるのである。そして、自分勝手なやり方をしてはならないのである。
「無生法忍」について、一般的な解釈では、「生じていないものを、この仏法によって忍ぶ」と説明されている。(リンポチェが、出家して三十年以上になる弟子にお尋ねになった。)「外では、そのように説明しているのか。お前は説法をしたことがあるのだから、知っているはずだ。」(出家弟子が答えた。「ご報告いたします。リンポチェ、そのように説明しております。」)「『そのように』とは、どういうことだ。私は素人だから、お前が説明してみなさい。」(弟子が答えた。「無生法忍とは、八地菩薩の境地、不動地のことです。」)「では、なぜ『無生法忍』というのだろうか。八地と言われても、皆には分からないだろう。以前、お前が信者たちにどのように説明していたのか、その方法で話してみなさい。」(弟子が答えた。「無生法忍とは、自らの清浄なる本性のことです。それを証得していなければ、その境地を体得することはできません。先ほどリンポチェがお話しされたように、それは毎日働いており、毎日私たちと共にありますが、自分ではそれを認識できず、知ることもできません。それは仏法を学ぶことを通して……。」)「だから……。続きを話しなさい。すまないな、お前の話を遮ってしまった。続けてみなさい。」(出家衆が答えた。「リンポチェがお話しください。」)「いや、お前が先に話しなさい。私がお前の話を遮ってしまったのだから。何を話していたのだったかな。」(出家衆が答えた。「もう途切れてしまいました。」)「今、お前は私と禅問答をしているのだな。私も、自分が何を話そうとしていたのか、忘れてしまったよ。」(大衆、笑う。)
「無生法忍」とは、六波羅蜜における「忍」の法門の、最高の境地である。「無生法忍」を修得していなければ、菩薩の果位を証得することは不可能である。初地の菩薩から八地の菩薩に至るまで、この境地は絶対に欠かすことのできないものなのである。「無生法忍」とは、「法無我」と「人無我」を意味する。私が法を修めているとき、そこには「我」というものは存在しない。たとえば、先ほど私が六字大明呪を唱えていたときにも、「我」は存在していなかった。私はただ、皆のために一つの浄土を観想し、将来、皆がその浄土へ往生できるよう願っていただけなのである。これを「法無我」という。では、どのような境地に達して初めて、「法無我」と呼ぶことができるのだろうか。それは、布施供養を理解し、命さえも捨てることができ、自分自身のあらゆる七情六欲を捨て去ることのできる人だけが、「法無我」を成し遂げることができるのである。「人無我」とは、その人が、人間とは単なる一つの道具にすぎず、業力が結び合わされて生じた存在であることを、はっきり理解しているということである。この道具は、この一生において修行し、衆生を度するための方便にすぎない。しかし、この人間そのものが、自分自身なのではない。これが「人無我」である。もう一つの解釈としては、すべての人間は平等である、ということである。赤であろうと、黒であろうと、白であろうと、青であろうと、黄色であろうと、すべて平等なのである。なぜなら、その人々の自性は、本来、平等だからである。
「法無我」と「人無我」を成し遂げてこそ、初めて「無生法忍」を修めることができるのである。あの外国人からのメールに返事をしたこと、それ自体が「無生法忍」なのである。もし、私が自分の身分や地位に執着していたならば、相手は仏法を学んだこともない一人の人間にすぎないのだから、私はきっと相手を攻撃し、刺激し、さらには教え諭そうとしていたことだろう。しかし、もし私が「無生法忍」を修め、「法無我」と「人無我」の境地に至っているならば、私は、相手には必ず何らかの動機があると考えるのである。その動機が善であろうと悪であろうと、私は、その動機によって相手自身が傷つき、また他人を傷つけるようなことがあってはならないと考える。だからといって、相手にそれを悟らせる必要もない。ただ、自ら困難を知り、退くべきところで退けば、それでよいのである。もし私が相手と延々と議論し、阿羅漢を修めることによって成仏できるのかどうかについて論争したならば、仏典にはすでに数多くの説明があるのであり、私がわざわざ語る必要などないのである。私は、人々に仏法をどのように学び、どのように修行するかを教えているのであって、議論をするためにここにいるのではない。議論のための仏典は、すでに存在しているのである。ジッテン・サムゴンもまた、多くのことを説いているのであり、私が改めて語る必要はない。私の役目は、ただ皆さんの修行を監督することなのである。
もし「無生法忍」を修め、「起不可得心」とするなら、もっと分かりやすく言えば、なぜリンポチェがポワ法を修めることができるのか、その理由がそこにあるのである。それは、「無生法忍」によるのである。「無生法忍」を修めていなければ、ポワ法を修めることはできないのである。なぜなら、「起不可得心」をするからである。つまり、それは、自分に慈悲心があるからとか、何か特別な心があるからということではない。そうではなく、私はその人そのものとなり、その人がどれほど苦しんでいるかを知り、その人を助けようとするのである。それこそが、「無生法忍」なのである。私は、自分を菩薩だと思って、「私が救ってあげよう」「私が助けなければならない」と考えることはない。なぜなら、諸仏・菩薩の心とは、衆生が輪廻の苦海から離れるのを助け、衆生が成仏できるように導くことだからである。この心を修めることができれば、私は諸仏・菩薩に倣い、絶え間なく衆生を利益し、衆生を助け続けることができるのである。では、「学び得る」とは、どういうことだろうか。それは、多くのものを捨て去るということである。
仏典曰く:「於不退轉地起轉無轉心。」
「不退転地」とは、いったい何地の菩薩のことだろうか。(出家衆が答えた。「八地菩薩です。」)八地菩薩の「不退転地」に到達したとき、「不退転」とは、衆生を度しようとする心も、成仏しようとする心も、決して後退せず、転ずることもないという意味である。ところが、皆さんは絶えず退いたり転じだりし、また戻ってきたかと思えば、再び離れていく。皆、そのようなありさまなのである。たとえば、江姓の弟子は、少し生活が楽になると、息子の勉強のほうが大切であり、仏法を学ぶことは重要ではないと思うようになり、そこで退転してしまったのである。もちろん、皆さんは八地菩薩ではないのだから、不退転であることは不可能である。だからこそ、上師は皆さんが退転しないよう助けるのである。なぜなら、一度退転してしまえば、再び前へ進むことは非常に困難だからである。退転する因を植えてしまった以上、その果報として、たとえ将来、菩薩の果位を証得したとしても、いつの日か再び退転してしまうのである。
皆さんは、つまり因果を信じていないのである。仏法を学ぶことは、生活の中で最も重要ではない、ごく小さな一部分にすぎないと思っているのである。ただ日々を穏やかに過ごし、家庭が平安であり、子どもたちが言うことを聞き、夫が言うことを聞き、妻が言うことを聞き、仕事が順調に進めばよい、その程度に考えているのである。もし本当にそのように考えているのであれば、私は皆さんに、いっそのこと仏法を学ぶのをやめなさいと言いたい。それは仏典に説かれていることとは、まったく異なっているからである。そうではないだろうか。すでに仏典の教えと異なっているのであれば、いったい何のために時間を無駄にするのだろうか。仏典にそのように説かれている以上、私は必ずそのとおりに教えるのである。私は、とても無力さを感じている。しかし、その無力さとは、私自身が無力だという意味ではない。どうしようもないということである。なぜなら、私には選択の余地がないからである。たとえ選ぶ機会が与えられたとしても、私は別の道を選ぶことはない。私は退転しないからである。私は必ず皆さんに正法を教える。皆さんが正法を聞こうとするのであれば、それはまさにこのようなものなのである。皆さんは、「とても難しくて、とてもできません」と言う。しかし、できないのではない。やろうとしないだけなのである。
私はいつも言っている。私も皆さんと同じ在家衆である。それなのに、なぜ私はできたのだろうか。皆さんには家庭がある。私にも家庭がある。皆さんには事業がある。私にも事業がある。皆さんには仕事がある。私にも仕事がある。それなのに、なぜ私は成し遂げることができたのだろうか。その違いは、皆さんが決心していないという一点に尽きるのである。皆さんは、死に直面したときの恐怖が、いったいどれほどのものかを知らないのである。私は、自分の父が亡くなるときの一部始終を、この目で見たのである。だからこそ、私は心の中で、自分自身にはっきりと言い聞かせた。「この方法を学び得なければ、人として生まれた意味はない」と。人は必ず死ぬ。死なない人など、誰一人としていないのである。だから私は、この一生において、仏法の中でも最も困難な法門を学んできたのである。人々を済度することは、間違いなく非常に困難なことであり、誰にでもできることではないのである。
今日これほど多くのことを話したが、すべては一つの基礎、すなわち顕教における基本なのである。皆さんは、これをきちんと心に受け止めなければならない。仏法を学ぶことは、こんなにも大変で、面倒で、難しいことなのかと思い、ただ仏を念じ、仏を拝み、経典を唱えればそれでよいと思ってはならない。それでは、仏典に説かれている仏法とは違うのである。私が仏典を説く以上、当然、仏典に説かれていることを話す。もし皆さんが、「仏典に説かれていることは受け入れられない。自分にはできないから」と思うのであれば、それでも構わない。仏は、今すぐ皆さんにすべてを成し遂げなさいとは言っていない。しかし、どのように行うべきかは、はっきりと説かれているのである。もし仏典に説かれている仏法が、皆さんが思い描いていた仏法とは違うという理由で受け入れないのであれば、それでは仏法を学ぶ人とは言えない。《宝積経》は、私が書いたものではない。これほど分厚い経典を、私にどうやって書けるというのだろうか。私は高校を卒業しただけであり、その中に書かれている中国語は、とても難しいのである。だからこそ、皆さんは本当に、よく、そして細かく考えなければならない。自分は、いったい何のために仏法を学ぶのか。
たとえば、私が仏法を学び始めた理由は、父が亡くなったとき、私は何一つ父を助けることができず、そのことに深い苦しみを感じたからである。では、皆さんはどうだろうか。皆さんの苦しみは、ただ自分自身のためだけの苦しみである。自分が人と衝突した、自分がつらい思いをした、そのようなことで苦しんでいるのである。それは利己的なことである。仏法とは、そのような小さな事柄のためにあるものではない。私たちが苦しみを経験することは、よいことである。少なくとも、苦とは何かを身をもって知ることができるからである。そして、苦を知った以上、どうすれば苦しみから離れられるのかを考えなければならない。そのためには、必ず精進し、教えに従い、仏法を学ばなければならないのである。
私が生死という大事を把握できるようになってから、本当に煩悩はずいぶん少なくなったのである。死というものをはっきり理解してしまえば、この世に解決できないことなど、いったい何があるだろうか。解決できないのであれば、そのままにしておけばよいのである。無理に解決しようとしなければよいだけなのである。たとえば、もし私の子どもが親不孝であったとしても、私は法を修めることによって、毎日修法し、その子が戻ってくるまで修め続けることができる。そのような法門も存在する。しかし、私はどうしてそのことで、そこまで悩まなければならないのだろうか。去りたいのであれば、去らせればよいのである。法本にも、「縁のある者は残り、縁のない者は去っていく」と説かれている。私は、法本に説かれている言葉に、完全に従っているのである。皆さんについても同じである。縁があるなら残りなさい。縁が尽きたのであれば、去ればよい。私は決して引き留めたりはしない。皆さんもよく知っているとおり、これまで私のもとを離れた弟子に対して、「本当によく考えたのか」と尋ねた者は、一人もいなかった。そんなことは、一度もなかったのである。ただ、「わかりました。ありがとうございました」と言うだけなのである。あと一言、「ご来店ありがとうございました」と言わなかっただけである。(大衆、笑う。)もっとも、私たちはお金を儲けているわけではないのだから、もちろん、その言葉を口にするわけにもいかないのである。
「起転無転心」とは、その人が不退転を得た後に、初めて「無転の心」を転じ起こすことができるのである。つまり、自らが不退転の境地に達してこそ、退転しようとしている者を助ける力を持つことができるのである。そして、なお揺れ動き、退転しようとしている者たちの心を転じさせ、再び正しい道へと立ち返らせ、退転しないよう導くのである。昔の中国語は、あまりにも簡潔に書かれている。「起転無転心」だけなのに、これは本当に、この翻訳をしている私を困らせているのである。
仏典曰く:「於相所獲起無相心。」
「相」とは、その人の外見を指すのではない。ある境地にまで修行が進むと、さまざまな現象が現れ、ある種のものを得ることになるが、その人自身は、自分が何かを得たとは考えないのである。たとえば、阿羅漢には阿羅漢の相があり、菩薩には菩薩の相があり、仏には仏の相がある。もちろん、そのような相に対して、仏が執着することはあるだろうか。菩薩が執着することはあるだろうか。そのようなことは、決してないのである。なぜなら、それが自らの福報の現れによって生じたものであることを、はっきりと理解しているからである。ただし、もし福報を積み重ね続けなければ、その相もまた消えていくのである。これは、私たちが若い頃から老いるまで、相が絶えず変化していくことと同じである。もちろん、年を取ったという理由もあるが、それだけではなく、福報がほとんど使い尽くされてしまったからでもある。だから、多くのお金をかけて美容医療を受ける人もいる。お金があるのであれば、私は何も言わない。しかし、相というものは必ず変化するのである。永遠に変わらない相など存在しない。たとえその相が、有形のものであれ、無形のものであれ、すべては因縁の法則に従って変化し続けているのである。だからこそ、「起無相心」なのである。
たとえば、私が修法しているとき、皆さんは私の姿が変わるのを目にすることがあるだろうし、ときには普段とは異なる現象を見ることもあるだろう。その相は、どこから来るのだろうか。それは、私が修法しているとき、本尊と相応し、本尊の相が現れるからである。私が修法していなければ、皆さんはその相を見ることはできない。したがって、「無相心」とは、上師が修法を行っているとき、自分自身のためにその相を現し、皆に見せているという意味ではないのである。本尊の心と相応したために、その相が現れたのである。そして、その法が終われば、その相もまた消えていくのである。すべては因縁によるものであり、不変のものではないのである。もし私が喜金剛と同じように忿怒相を現したとしたら、いったい誰が近づいて来られるだろうか。誰も近づけないだろう。あるいは、私がプルパ金剛と同じような姿を現したとしたら、誰が近寄って来られるだろうか。それは無理なことであろう。つまり、この一句が意味しているのは、その人が何をしているかによって、それに応じた相が現れるということである。たとえば、金融業に携わっている人には、金融業に従事する者としての服装や身なりがある。職人には職人としての姿がある。それは、その人の仕事と関係しているため、その相が現れるのである。しかし、家に帰って仕事着を脱げば、今度は家庭における夫や父親、あるいは母親という、別の相が現れるのである。
したがって、この相というものは変化するものであり、固定され、不変のものではないのである。「於相所獲起無相心」とは、どういう意味だろうか。それは、不退転の心を修め得た後、その人にある種の相が現れ、いくらかの福報を得ることになるが、その福報もまた無相であり、その心もまた無相であって、本来、実体として存在するものではないという意味である。すべては、ただ因縁によって現れているにすぎないのである。だから、もし誰かが、「修行をすればするほど、ますます荘厳な相になりますよ」と言ったなら、少し注意したほうがよい。なぜなら、人はいつか必ず老いるからである。したがって、「一切無相心」とは、その相が存在しないという意味ではなく、また永遠に変わらないという意味でもない。その相は、絶えず変化し続けるものだという意味なのである。
続いて、リンポチェは弟子たちを率いてアキ護法の儀軌を修持された。その後、出家弟子に指示し、大衆を率いて回向文を唱和させた。
2026 年 07 月 29 日 更新