尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年12月7日

『宝積経』の開示に先立ち、まずジッテン・サムゴンの著した『一意』の一節を開示する。そこには、仏法を学ぶ者にとってきわめて重要な内容が含まれている。
ある人々は、「因を修めて成就しなくても、一切の功徳は生起し得る」と主張することがある。しかし、我々直貢噶挙では、「因を成就しなければ、一切の功徳は生起しない」と主張する。この点について、ある善知識たちは、「因を成就しなくても、一切の功徳は生じ得る」と説いている。彼らの譬えは次のようなものである。暗闇の中の窓のある部屋に、すべての宝が置かれているが、暗すぎてその宝の存在を見ることができない。ひとたび灯火を手にした人が来れば、すべての宝が一つ一つはっきりと見えるようになる。同様に、地球上の衆生は、仏陀の一切の功徳を本来具えており、すなわち我々の清浄な本性は仏陀と同一であるが、煩悩と業力、そして無明によって覆われているために、それが顕れないだけである。ひとたび灯火のような大印の法身を証悟すれば、功徳の因を改めて成就することなく、一切の功徳が任運自在に生起する、というのである。しかし、この説に対してジッテン・サムゴンは、「因を成就しなければ、一切は生じない。」と述べている。すなわち、いかなる善なる因も作らなければ、一切の功徳は決して生起しないことである。
釈迦牟尼仏は『別解脱経』の中で、「因によって諸法は生じる。仏はこれを因と説かれた」と説かれている。では、いかにしてこの因を滅するのか。大沙門は次のように説かれた――「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教(もろもろの悪をなすことなく、あらゆる善を行い、自己の心を清らかにする。これが諸仏の教えである)」。すべての現象は因があってこそ生起する。法とは、あなたが見、聞いている一切の現象そのものである。仏は、この因をどのように滅するのかを説かれた。大沙門曰く、それこそが釈迦牟尼仏の教えである「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」である。ここでは、苦しみの因は悪であり、悪は取り除くべきであること、また安楽の因は善であり、善は実践すべきであることが説かれている。さらに、身・口・意の因は意業から生じること、すなわち、念を起こさなければ身・語・意の業因は生じないということも説かれている。したがって、清浄の心・煩悩というこの因を調伏すべきである。この滅因の法は、仏教徒が修行するうえで最初にして最も重要な要点であり、また仏教徒にとって無上で特別な法である。これは、他の宗教にはなく、仏教にのみ存在する、きわめて特別で無上の教えであることを意味している。
いかにして「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意」を実践するのか。すべての仏経に説かれているが、あなた方はまったく実行できていない。自分を仏教徒だと思ってはならない。なぜなら、あらゆる悪を行い続けている以上、意は清浄ではなく、当然、身・語・意の因も純粋な善因にはならず、必ず悪因となるからである。この因を滅する法は非常に明確に説かれており、これは仏教にのみ存在する。同様に、一般的に言って、心性を認識する大印証量だけがあるわけではない。大印とは大手印のことである。登清浄地の諸菩薩が起した功徳もそうであり、さらには仏陀・薄伽梵の身・語・意のあらゆる功徳も、因の成就がなければ功徳は生じないということである。つまり、修行をせず、ただ上師の加護に頼るだけでは、悪因を滅することはできず、功徳が生じることもない、という意味である。
ちょうど昨日、ある父子が面会を求めて来た。ひざまずいた瞬間、私はその息子の手に怪我があったことを見た。自転車で衝突したのである。私は言った。「お前が毎日仏法に近づいている時間は、絶対に十分を超えていない」と。ゆえに善因がない。ただし彼は私の帰依弟子であるため、一度だけ守った。しかし二度目は決して守らない。父親のほうも、息子をきちんと監督していなかった。試験に合格すれば仏菩薩のご加護、リンポチェの加持だと思い込み、供養はほんのわずかしかしない。供養の多寡はさておくとしても、息子が怪我をした以上、何らかの悪業がまだ清まっていないことは分かっているはずである。それにもかかわらず、いい加減な供養をして、リンポチェの加持によって今後は不運に遭わないようにと願う。しかしそれは不可能だ。そもそも善因がないからだ。なぜ今日この話を特にしたのかといえば、たった今、何気なく開いたところにあったからである。お前たちは皆、善因をまったく植えていない。
昨日はまた、ある弟子が一対の子どもを連れて法本を求めに来た。一般の感覚で言えば、若い弟子が法本を請い、仏法を学ぼうと発心しているのなら、与えるべきだと思うだろう。しかしリンポチェはそこまで甘くない。彼らは十数年も帰依していながら、一度も法本を請わなかった。それが突然、いくつかの法本を欲しいと言い出したのだから、そこには必ず因がある。その因は、口の軽い一人の出家者から生じている。その者は自分をリンポチェのように振る舞い、何の法を請うべきかを彼らに勧めた。彼は本来、きちんと修行していないのだから慎み、言うことをよく聞くべきだと教えることもできたはずだ。しかしそうはしなかった。なぜこの二人の子どもに法本を与えなかったのか。一つの因は、この出家者の口出しである。二つ目の因は、この母親にある。以前、彼女は翡翠を一つ私に供養した。私はそれを店に置いていたが、彼女は店に来るたびに、これは自分が供養した翡翠だと言い続けた。母親が見ていないときには、娘が「あなたの翡翠はあそこに置いてある」と教えていた。これを供養と言えるだろうか。その後、私はその翡翠を彼女に返したが、彼女は懺悔に来ることもなかった。これは善因を作っていないという表れである。今日、リンポチェは意図的に人を叱っているのではない。私の言葉には必ず根拠がある。たった今、何気なく開いたところに、この一節があったので、それをお前たちに話したまでだ。
法会の前、ある弟子が、誰が供養したのか分からないネックレスを取り出して皆に見せた。身につけられて黒ずんでおり、間違いなく何十年も着けられていたものだ。少なくとも清潔にするべきだろう。これを供養と言えるのか。これは供養ではないが、本人は供養だと思っている。ほかの道場であれば問題にしないかもしれない。今は金の値段も高く、金のネックレスなら少なくとも一、二千元にはなるだろう。しかし私は要らない。なぜか。これほど汚れた物を上師への供養として差し出せば、その果報は非常に恐ろしいものになる。だから私は受け取らず、本人に返した。そうすれば、その果報は生じない。もう二度と、私にゴミを投げつけるような真似をするな。
最近、いわゆる修行がよくできている人たちがいる。宝石店から電話がかかってきて、「宝石を見に来ませんか」と言われても、皆「今は仏道修行しているから、必要ありません」と答える。ふと気づくと、私にはこんなにも小乗仏教を修める弟子が多いのだ。皆に問う。観世音菩薩の身には宝石を身につけているだろうか。(大衆:はい)私たちは何を修行しているのか。菩薩道を修行しているのだ。学仏に宝石は必要ないと、こういう言葉を平然と口にするのは、宝石店を開くことまで罪のように感じてしまうことだ。《宝積経》にそんなことが書かれているだろうか。(大衆:いいえ)買いたくない、金がない、と直接言えばいい。それでも、お金をリンポチェに供養するために残す、と言うこともできる。それなのに、なぜ仏法を持ち出してそれを正当化するのか。自分に面子があり、自分がいかによく修行しているかを見せたいだけではないか。物質は不要だ、と言いたいのだろう。こういうことを口にした人は、深く懺悔すべきである。なぜなら、妄語を言っているからだ。本当に物質が不要なら、私が2007年に3か月間ラプキ雪山でやったように、白湯で味付けのない麺を茹で、一か月間それだけを食べればいい。それができれば、もう物質は不要だと言えるだろう。妄語とは、できていないのにできていると言うことを意味する。「自分は仏を学んでいるので物質は不要」と言うことは、菩薩さえも侮辱していることになる。《普門品》に明記されている。無尽意菩薩は観世音菩薩に何を送ったか。(大衆:瓔珞)瓔珞は宝石そのものである。観世音菩薩はその一部を釈迦牟尼仏に供養しているのだ。では、釈迦牟尼仏は宝石を受け取ってはいけないのか。違うだろう。お願いだから、修行していないのに仏教の言葉を使って世間の事情をごまかすな。それは重い罪である。買いたくなければ、買わなくても誰からも殴られることはない。恥を恐れる必要もない。金がなくて宝石を買わないからと言って顔を立てる必要はないのだ。それなのに、仏法で正当化するのは間違っている。
先週、東豊店は来客が非常に多かった。ある弟子が嫁と孫を連れて、1時間以上、場合によっては2時間近く座っていた。彼等が食事を済ませたあと、私は店員に頼んで、「お客様が入られるように、席を譲ってもらえますか」と相談してもらったのだ。私がリンポチェだからではなく、あくまで一人の常連客として、商売繁盛のこの店で席を一つ譲ってもらえないだろうか、という話だ。(大衆:できる)ところが、その弟子は大直店に行き、私たちが追い出したと苦情を述べた。お願いだから、この人はもう私のコーヒーショップに来ないでほしい。孫も連れてくるな。君がいなくても商売は困らないのだ。大直店に苦情を述べた以上、私はその苦情を受け入れる。しかし、今後は来るな。客でいっぱいのときは、必ず弟子に席を譲ってもらうことになる。それは合理であるか。(大衆:合理)今、東豊店には多くの外来客が来て、「寶吉祥コーヒーショップの質は良い」と言ってくれる。私は何度も言ってきた、誰かが「寶吉祥は良い」と言えば、それだけで福報を作れるのだ。なぜこの悪い弟子は、自分と家族のためだけに苦情に走り、私に直接話さなかったのか。苦情を出しに走れば、私が知らないと思っていた。私がリンポチェであることに、いったい何の意味があろうか。例えば、長い付き合いのある常連の客であれば、商売が忙しいときには情を汲んで席を譲ってくれるはずだ。情のある人なら、誰でもそうするだろう。東豊店と大直店のスタッフは、この人物が誰であるかを把握している。今後、この人物には商売をさせない。もし無理に入ろうとするなら、弟子にすることもない。まさに「諸悪を行い、衆善を行わない」というべき行いである。
自分たちが修行していると思うな。小さなところから、修行していないことはすぐに分かるのだ。上師の役割は、こうしたことを叱ることである。毎日千遍、万遍と唱えても、心が改まっていなければ、それは観世音菩薩の六字大明呪ではない。地獄の衆生が唱える大明呪である。なぜなら、その心は悪毒だからである。大直店に行って、東豊店について苦情を申し立てたのは、同僚同士を争わせるためなのか。度胸があるなら東豊店まで行って文句を言えばいいのに、結局怖くてできない。レストランを経営してお金を稼げると思うな。こんなに良い食材を使っても、実際には利益は少ないのである。私には、多くの弟子が日曜日に法会に参加するため、外で仕事をしている場合、日曜日は法会に参加できない者もいる。
仏道修行したいのなら、ジッテン・サムゴンが説かれたこの数句を必ず覚えておくこと。もう人間のやり方で学ぼうとするな。あの出家弟子はなぜこんなに口出しするのか。自分は口が達者で、自分が話し、相手がそれを聞けば、それだけで自分は功徳を積んだつもりになっているのだ。現場のすべての帰依弟子よ、もし誰かが勝手にその出家弟子と話していたら、その弟子も出家弟子も、二人とも破門にする。なぜなら、彼は出家者であり、いかなる女性にも話しかける資格はないからである。もし女性の弟子が彼と話していたら、私はその女性も破門にする。リンポチェはこの出家弟子に言った。「今後、どの弟子とも話すな。話したら追い出す。何を言おうと関係ない。ただ食事をしたか、念仏したかだけを尋ねても例外なく追い出す。」と。すべての男性出家者と女性出家者よ、彼を監視し、誰かと話していたら必ず報告せよ。報告しなければ、全員を破門にする。これほど口の多い男は見たことがない。出家してなおこれほど話すとは。出家三十年以上の弟子が、毎日人と話しているだろうか。
同様に、一般的に言えば、心性を認識する大印証量、つまり大手印がある。ゆえに、私たちの不共四加行において、最後に上師が大手印を伝える段階がある。しかし、皆の修行の質に応じて、大手印を伝えることはできないのである。登清浄地の諸菩薩の功徳も同じである。つまり、清浄地、初地菩薩以上に到達した者の功徳も、すべて善因から生じるのである。仏陀・薄伽梵の身・語・意の諸功徳でさえ、因の成就がなければ功徳は生じない。言い換えれば、仏を含むすべての功徳は、善の因を成就して初めて現れるのである。
だから、私たちは自分の話し方に細心の注意を払わねばならない。話したからといって何も問題がないと思ってはいけない。あの一群の人たちは、「自分は仏を学んでいるので宝石は買わない」と言ったが、それは正しいのだろうか。もし小乗を修行しているなら、それで正しい。しかし、小乗を修行する者は、食事でさえ自分では作らない。それにもかかわらず、あなた方は出費を抑えるために自炊している。また、小乗を修行する者は煩わしさを避けるため、乳液すら使わない。だが、皆は小乗を修行しているわけではない。私は何度も教えた通り、在家の者は菩薩乗しか修行できない。他の法門はない。あなた方は話を聞こうとせず、むしろ人づてのいい加減な話を信じている。「学仏はすべてを清浄にし、何も執着せず、何も持たない」と勘違いする。私はそんなことを言ったことはないし、仏経にもそのようなことは書かれていない。なぜこんな誤った道に進むのか。出家者ならそれでも構わない。しかし在家者はそうしてはいけない。なぜなら、その考え方は小乗へと向かうものだからだ。出家相を現していないあなたは、いったい何を修行するつもりなのか。釈迦牟尼仏が菩薩乗を説かれたのは、在家者が出家者よりも多いためであり、在家者に向けて開かれた乗だからである。在家者は在家者らしく普通に生活してよい。ただし、心だけは違うのである。私はこのことを教えたではないか。(大衆:はい)ではなぜ、宝石を買う金がないときに正直に言わず、後で金ができてから見に来ればよいのに、「学仏しているから物質は追わない」と妄語を言うのか。人は咎めないのに、自ら戒を破っていることに気づかない。
これは仏経においても明確に説かれている。《宝積経》出現光明会に述べられている。「私は種々の不思議を有する。それは善業の因縁の力によるものであり、種々の愚痴を究極的に断つことによって、さまざまな光を成就する。」この光とは、智慧の光を意味する。というのは、私には種々の不思議の善業を持つことである。不思議とは、物事を理解していないということではなく、思考や議論を経ずとも自然に善を行うことができる状態を指す。善業の因縁の力によってのみ、種々の愚痴は断たれるのである。しかし皆は聞こうとしないため、智慧は育たず、修行してもかえって愚かさが増す。あまりに愚かで、私でさえ、なぜこれほど愚かな者がいるのか説明に困るほどである。
種々の光を生じるとは、種々の智慧を生じるということである。たとえば昨日、若者が法本を求めに来た時の話だが、師としては、若者が仏を学びたいと願っているのは喜ぶべきことである。もし私に智慧がなければ、ただ渡して終わりになり、男の出家者が上師を装っていることを見抜くこともできなかったであろう。この出家者の行為は、他所なら誰も咎めないだろう。分からない衆生に進んで教えてあげることで、衆生のために善縁を結ぼうとしていると思うからである。だが、重要な点は次の通りである。第一に、彼は上師ではないため、仏法を説く資格がない。第二に、儀軌すら理解していないのに、何の経を唱えるべきか他人に教える権利はない。第三に、相手がどの法本を修行すべきか、どうして判断できるのか。これは「我慢」である。自分が出家者だからといって、在家者の善因縁を作ろうとする態度である。本来なら、「リンポチェの伝法を早く求めるべきだ。あなたのやり方ではだめだ」と助言すればよい。しかし、彼は専門家のように振る舞い、他人に『仏子行三十七頌』を求めるべきだと説く。彼と同じような学仏者が多い。しかし、善因を作らなければ、善業も生じない。善業がなければ、種々の愚痴を断つことはできず、智慧も開かれないのである。
私は光明を一つ持つ。それは「清浄眼」と呼ばれるものである。これは明灯を供養して仏に捧げたことによって生じた光明である。清浄眼とは肉眼ではなく、智慧眼と法眼である。もし少しの智慧眼もなければ、昨日面会に来た者の言葉に惑わされ、多くの問題点を見抜くことはできなかったであろう。皆は決して、後ろで黙々と働くこんなに優れた男の出家弟子を見つけられないであろう。私でさえ知らなかったのだ。帰依して十数年、二十年になる若者たちは、私が言っても聞かない。男の出家者が一言言っても聞くのか。実際、彼のいう事を聞くのではなく、アキ護法が彼らを前に押し出し、私に知らせてくれるのである。なぜなら、彼らは手に負えない存在だからである。上師が十数年教えても聞かず、出家してまだ二年にも満たない者の言うことを聞くとは、上師を尊重していない証拠である。心の底では、尊重することなく、平穏に日々を過ごせればそれでよいとしか思っていないのだ。だからアキ護法は彼らを前に出し、私に知らせるのである。これは私の利益のためではなく、彼ら自身のためである。彼らがこのままではいけないことを知らせ、助けるためである。
私は決して人を罵ることを好まない。しかし、仏経はこのように行動するよう教えているのである。たとえば清浄眼の話である。明灯を供えて仏に捧げる功徳は多いと思われがちだが、そうではない。真に供える灯とは、自分の智慧の光を仏に捧げることである。自らの智慧の光と仏の智慧の光が触れ合うとき、はじめて本当の供養となるのである。この光を生み出す方法については、前に説明した。だが、実際に行わなければ、どうして仏に供養できるというのか。
《般若経》にも説かれている通り、正等二智が円満に成就する前は、正等の空性を究竟的に悟ることはできない。先に述べた通り、因果縁起もまた、仏陀の教えの宝である。正等二智が円満に成就していないとは、福と功徳の資糧がまだ円満でない状態を意味する。この状態では、正等の空性を悟ることは不可能である。ここでいう正等の空性とは、頑空ではなく、ただ何もないと思うことではない。真に悟った時こそ、二資糧が円満となる時である。黒ずんだ金のネックレスを供養して、咎められた所以が分かった?それは、そうした供養では決して円満にならず、なお円満でなければ正等の空性を悟ることもできないからである。「自分は正等の空性を悟る必要はない。ただ三悪道に落ちなければよい」と言う者もいるだろう。しかし問題は、臨終のときである。空性の感覚がまったくなければ、波に流されるように輪廻の中へ戻ってしまう。また、上師を信じず尊敬もしなければ、同じく迷いの中に入るのである。
因果、縁起は、仏陀が教えた最も重要な宝である。だから私たちが法を修し、仏を学ぶすべてにおいて、因果も縁起も非常に重要である。たとえば、あの男の出家弟子は、口を出しすぎ、縁起も悪い。私たちは閉関のときに言葉を禁じなければならない。なぜなら、言葉を多く発することは、自分にとって良くないのである。どこが悪いのか。私は、あなたの一言一句が因果に反さないとは信じられないのである。出家者は言葉を慎むべきだが、彼はまるでオウムのように話し続け、あれこれ口を出す。男出家者も含め、もし誰かがこの男出家弟子と一言でも話すなら、追い払うことにする。彼の生活は私が責任を持つものであり、他人の関与は不要である。彼の言葉を認める者は立ち去ればよい。この段落からも明らかなように、学仏や修行の因が善でなければ、どれだけ真言を唱え、どれだけ大礼拝を行っても意味がない。では、どうすれば自らの因を善とすることができるか。それは、仏経に説かれ、上師が教える方法に従い、自らの心を変えることである。
《仏説大乘菩薩藏正法經》巻第三十二〈禅定波羅蜜多品第十之二〉
経典曰く「舍利子。又云何名為菩薩摩訶薩神通。復何名智。以彼天眼正観色相。此説名為神通。」
釈迦牟尼仏がこの部分で説かれたのは、学仏する者が神通に迷信せず、外道の神通を、あたかも仏法の神通であるかのように誤解しないようにとの教えである。実際のところ、これらの神通は、法身菩薩、すなわち八地以上の菩薩でなければ成し得ないものである。しかし末法の時代には、多くの者が「自分は密教を修行している」「自分は仏を学んでいる」「自分は神通を持っている」と称する。だが、その多くは鬼通であったり、さらに外道の通であったりで、仏法の神通とは関係がないのである。だから仏は、特にここで言及して、学仏者自身が何が仏菩薩の神通であるかを見極めるように注意を促されたのである。
「菩薩以彼天眼正観色相」。ここでいう「正観」とは、菩薩があらゆる現象を見るとき、感応や感覚、好奇心、あるいは自分に神通があることを示すために見るのではないということである。「正」とは、色相を観るとき、好奇心のためではなく、衆生を助けるため、あるいは衆生の問題を解決するためにその方法を用いるという意味である。正観とは、自己の利益のために行うものではない。名声や誉れ、供養を得るために見るのではなく、あくまで仏法、因果、因縁に従って色相、すなわち顕現された外表を観るのである。
最も明白で簡単な例を挙げると、昨日、この母親が二人の子を連れて法本を求めに来た。もし私に僅かでも天眼がなければ、正観で彼らを見なければ、彼らに騙されて法本を渡してしまったであろう。その後、彼らはあの男の出家弟子に感謝し、男出家弟子がどう読むか教えることになり、この悪循環が生じてしまうのである。天眼は必ずしも何か特別なものを見るためにあるのではない。天眼でその者が仏菩薩を求める時の心の在り方を見、正観によってなぜ法を求めるのかを見極めるために用いるのである。菩薩は、相手が法を求めたとき、自分にとって利益があるかどうか、法を求められなかった場合に損になるかどうかで判断しない。もし誰かが法を求めに来たら、菩薩はその人に成就させる前に、その法を求める心がどこにあるのかを必ず見極めるのである。たとえば昨日、ある弟子が法を求めに来た。彼は金剛薩埵の修行を求めたが、私は彼の大礼拝が非常に遅いことを指摘したところ、「心臓が悪い」と彼は言った。これを聞いた私は、不共四加行の後半は彼に伝授しないことを決めた。なぜなら、彼は自分の心臓のためだけに不共四加行を求めていたからである。
「だったら、もう何も話さない」と言っても、話さなくても分かるのである(大衆笑)。だから、リンポチェは騙されにくいのである。正念をもって法を求めなければ、必ず何らかの問題が起こる。十数年帰依して子を育て上げ、法を求めに来た者が、あれこれとトラブルが発生したのである。もし昨日、私がほんの少しでも気を抜いていたら、彼らは思い通りにしていたであろう。彼らは法本を手にしても、絶対に修行はしない。なぜなら、それは私が伝授したものではなく、他人に言われて取っただけだからである。「リンポチェ、これを持って帰ります」と言う。ちゃんと読んでいるかと聞いても、「読んでいますよ」と騙して仏法を学ぶわけである。このことから言えるのは、真の菩薩摩訶薩は、すべての事象を正観によって観るということである。「此說名為神通」であり、真の神通とはそういうものである。もし誰かが「何かを見た」と言ったとしても、仏の観念から言えば、それは神通ではない。ただ現象を見たに過ぎず、正観で色相を見ることではない。正観で色相を見ることとは、相手の問題がどこにあるかを見て、解決を助け、堕落せず、間違わず、戒を破らず、誤りを犯さないよう導くことである。これこそ、仏が神通と称するものであり、何かを見たというものではない。だから、他人が「あなたの上師がどうのこうのしたのを見た」と言っても、聞き流すだけでよい。真に受けてはならない。彼らには私をこう見る資格がないのだから。もし本当にすごいと思い込む念を起こせば、その時点であなたは惑わされてしまうのである。
経典曰く「彼幻法智不作正行。此説名智。」
「幻法智不作正行」。つまり、もし菩薩が仏の智慧、空性の智慧をもって衆生を助けるのではない場合を指す。「幻法」とは、不実在で虚ろで変化に満ちた智のことである。「不作正行」とは、衆生を助ける正しい行為を行わないことである。「此説名智」。幻化の智を「不作正行」というのに、このようなものを智と呼ぶのはなぜか。智慧には多くの層があるからである。たとえば『一意』には「類智」と呼ばれるものがあり、智慧に似ているが、根本智でも後得智でもない。修行によって得られる一種の智である。これは、たとえば多くの書物を読み、他人より少し多くの知識を持つといった智慧に似ている。だが、これは仏法を通して心から開発される自然の智ではないのである。
根本智とは何であるか。すべての人、すべての有情衆生は、仏と同じく清浄な根本智慧を持っている。『一意』には、私たちが多くの善悪の業によって智慧が覆われているため、それを見出せないと説かれている。修行によって得られる後得智とは、仏法を通して育まれる智慧であり、根本智の扉を開く鍵である。後得智と根本智が結びつくと、清浄な智慧が生じる。もし今日修行しなければ、後得智は永遠に得られず、あるのはわずかな人天の福報のみである。今日、帰依し、仏法を学び、聞き、知ったことは、それ自体が智慧ではない。たとえば昨日、息子を連れてきた父親の例である。もし私に智慧がなければ、彼らに騙され、ただ「ぶつかってしまってかわいそう、今後はバイクに乗る時に気をつけなさい」と思うだけであろう。あるいは、「バイクに乗る時、気をつけなさい、観音菩薩が守ってくださる、父親がよく祈ったからかもしれない」と言うかもしれない。中には、出家者はこう言うべきだと考える者もいる。これが慈悲だと。しかし私はそうは言わず、一言で「あなたが一日仏法に接する時間は10分も超えていない」と指摘する。もし私にその能力がなければ、再び騙され、彼らを甘やかして、懈怠のまま、修行しないことを助長してしまうのである。
帰依の際に言ったことがある。伝えられた法を修行しないことを懈怠と呼ぶ。懈怠すれば、上師の加持を得ることはできない。このような事例は多く起こっている。法会に参加すればよいと思ってはいけない。参加するだけでは、参加しない者よりはましだが、累世にわたって積んだ業を転じることはできない。修行しなければどうにもならないのである。すべてを私に頼ると思ってはいけない。私は一度だけ助けることはできるが、永遠に助け続けることはない。危難に遭った時、リンポチェは法を修して一時的にその危難を止めることができる。それで修行する余地を作るのである。しかし、常に依存し続けるならば、私はもう助けない。だから二月になってはじめて法会を行うわけである。みなが帰依せず、学仏せず、私の多くの修法は無駄になり、ただ皆の貪念を作るだけになるからである。二月に法を修する理由は、来年が良い年ではないからである。私の帰依弟子や、仏寺に寄付した者が、来年を無事に過ごせるようにするためである。よく聞け、来年を「過ごせる」ようにということである。
毎日千遍、二千遍と唱えれば修行だと思ってはならない。根本から自分の性格を改めず、世間で人として振る舞うやり方のまま仏を学んでも、修行は成就しない。この課題は非常に高いが、必ずやらなければならない。あなたたちは運が良いのか、悪いのか分からないが、少しばかり神通を持つ上師に帰依している。その神通をもつ上師は、あなたの後ろに幽霊がいるかどうかを見ることでも、犬がついているかどうかを見ることでもない。ましてや、未来の白馬の王子が東洋にいるか西洋にいるかを見ることでもない(大衆笑)。私が見るのはそこではない。あなたたちが仏を学ぶ心のあり方が正しいかどうかである。私の前にひざまずいたとき、その心が正しいかどうかを見る。正しければ伝える。正しくなければ伝えない。それが私の神通である。伝えないこともまた、あなたたちへの警鐘である。自分がまだきちんと学んでいないことを知るためのものである。
経典曰く「又舍利子。若於一切有情実有所聞。此説名為神通。」
また舎利子に「若於一切有情実有所聞」と告げられた。この「実有」とは、菩薩が説法することによって、六道すべての衆生が実際に聞くことができることを指す。このようにしてはじめて、それを神通と呼ぶのである。では、どうやってこれを実践するのか。たとえば私が施身法を修すると、衆生はやって来る。それは、一切の有情が実際に慈悲の梵音を聞き、済度を受けに来ることを知るからである。もし神通がなければ、衆生は来ない。皆が施身法の法会や阿弥陀仏大法会に参列の際、私が真言を唱えたり笛を吹いたりすると、必ず寒さを感じるであろう。人間の耳で聞くなら、笛の音はせいぜい窓の外までしか届かない。しかしどうやって衆生に聞かせるか。それは上師の神通力によって音が遠くまで届くからである。縁有りの者は聞けば来る。そうでなければ、なぜこれほど寒いのか。寒さは、人の身体を離れれば火がなくなり自然に冷えるからである。もし衆生が慈悲の呼びかけを実際に聞かなければ、どれほど菩薩の姿を見せても幻としか思わず、来ることはない。実際に慈悲の呼びかけを聞いた者だけが、やって来るのである。
幸いにも、リンポチェは多くのことを行ってきたので、譬えをもって説明することができる。さもなければ、皆はこの話を見てもどう解釈すればよいかわからなかったであろう。施身法が最も分かりやすい例である。一度吹けば衆生はやって来る。もちろん、上師が空性の慈悲心を修し、すでに菩提心を持っていることである。これらの衆生は実際に上師の呼びかけを聞いてやって来る。たとえば上師が持呪する際、それを聞いた者がやって来る。聞かなければ来ない。人々は、上師が虚空のように巨大になれると思うかもしれないが、絶対にそんなことはできない。では、なぜ真の空性を証悟する必要があるのか。真の空性を証悟してこそ、無所執着となり、心は無限に広がる。虚空が広い分だけ、それと同じ大きさの心を持てるのである。だから、虚空の中にいるすべての有情衆生が仏法の助けを必要とするとき、すぐにそれを感じ、自然とやって来るのである。
皆、もうぼんやりしてきただろうか?ぼんやりしていないか?(出家弟子:していません。)聞いたことはないだろう?(出家弟子:ありません。)なぜ聞いたことがないのか、話してみよ。(出家弟子:以前、リンポチェのような人物に出会ったことがなかったので、聞いたことがありません。)私にお世辞を言うな(大衆笑)。これは出家三十年以上の弟子に言わせよう。(出家三十年以上の弟子:リンポチェのように、実修・実証した人で、法身に至った者だからできることであり、我々のような者にはできません。)悟りを開かず、空性を証得していなければ、仏の言葉は文字でしかない。文字で菩薩や仏の境地を説明しても、解説は不可能である。人間の言語では仏菩薩の境地を表現できないから、仏は「仏説不可説」と言ったのである。不可説とは、仏が語れないのではなく、仏の境地を人間の言葉では到底語り尽くせないという意味である。まさに仏の言う通りで、「人が水を飲む冷たさや暖かさは自ら知る」ように、他の誰にも分からない。あなた自身の口だけが、入った水が冷たいか暖かいかを知り、周りの人、親、子はそれを知らない。仏法はこのようなものである。
今日、仏菩薩が修した神通は、他人より優れていることを示すためでも、力を誇示して人を従わせるためでもない。仏菩薩の神通は、衆生を助けるためである。衆生が神通の力を感じてこそ、仏菩薩の助けを受け入れるのであり、さもなければどうやって衆生を導くことができようか。顕教の経典には、このことは教えられていないし、解説もない。ではなぜ釈迦牟尼仏は教えず、解説もしなかったのか。それは、到達していない者には教えられず、説明することもできないからである。しかし、皆はここで多くの例を見ている。たとえば私が施身法を修すれば、皆は冷たさを感じる。だから、私が言うと、皆がすぐ理解できる。もし他所で他人に話した場合、体験や感覚がない人にはそれが分からない。こうした法を体験していなければ、いくら説明しても仏経の真髄を吸収することはできないのである。
なぜ仏ははっきりと教えなかったのか。それは『宝積経』はもともと菩薩道を修行する者のために説かれた経典だからである。だから、自分は仏を学んでいる、物質はこれ以上いらないと言う者たちは、菩薩道を修していないのである。菩薩道を修していない者が私の道場に留まるのは非常に辛いであろう。菩薩道とは、すべて衆生の利益のためであり、すべて上師を尊重することが前提である。上師なしでは修行を果位に至らせることは不可能であり、上師に関わることには、常に慎重であるべきである。たとえば法王が三年間の閉関に入る場合、まだ閉関に入る前であっても、私は法王のために多くの準備をしている。法王が言わなくても、私から提案できるのである。法王が受け入れれば受け入れ、受け入れなくても問題はない。場合によっては、必要ないかもしれない。法王は七月に閉関を開始したが、先月もなお豆乳をひとまとめ送った。法王が必要だからである。
皆は本当に仏を学んでいないのに、死角に迷い込んで、仏菩薩の加護を求めている。仏経には、菩薩道を修行すると発心した者に、仏菩薩が加護を与えると説かれている。あるか?(出家三十年の弟子答:あります。)仏経には、菩薩道を修行しようと発心したとき、諸仏菩薩はその者を自分の子以上に大切に守るとも説かれている。あるか?(出家の弟子答:あります。)では、自分は菩薩道を修しているだろうか。たとえばレストランで席を譲る相談に不満を抱いているようでは、菩薩道を修しているとは言えない。これは仏経に説かれていることである。だから、皆は自分に問いかけるべきである。一年ももうすぐ終わるのに、いつまでも自分の時間を無駄にしてはならない。
経典曰く「而於前際過失俱不可得。此説名智。」
菩薩が神通を得た後は、過去に犯した過ちを繰り返すことはなく、たとえ過去に間違えたことがあっても、衆生に「もう二度とこうしてはいけない」と教えることができる。これこそが智である。多くの人は私に智慧を開いてほしいと思うが、智慧を開くにはまず、間違いを犯していることが前提である。だからまず、自分の間違いを改める必要がある。例えば翡翠を供養したのに、後悔して手放さず、功徳を全て失っている場合である。供養した後も「これは自分のものだ」と執着しているなら、私はそれを正さなければならない。もうその翡翠を彼女に返してから数か月経っているにもかかわらず、未だに私からはこの事を言及しなかった。なぜなら、まだ時期ではなかったからである。その時に話せば、彼女は怒るだろうと思ったからだ。今回、彼女が子どもたちのために法を求めに来たとき、彼女はとても緊張して、ずっと息子に「あなたが話して」と言っていた。私は三度「黙れ」と言ったのに、まだ話を続けた。これは、この女性が私を尊重していないことを示している。彼女は習慣的に、ここにいながら、ただ家族が平安に一生を過ごせればいいと思っているだけかもしれない。それでも構わない。しかし、言うことを聞きもしないあなた、どうすればいいか。
経典曰く「又舍利子。若彼了知一切心行。此説名為神通。於心滅智不滅正行。此説名智。」
この一文は、普通の人にはなかなか説明できない。仏は舍利子に言った。「若彼了知一切心行」。つまり、彼がすべての衆生の心の中で、どのような行為が起こるかを知ることができるという意味である。昨日ずっと、あなたたちにその様子を見せていた。これこそ、私があなたの心、あなたの行動を知るということであり、これこそ神通というのである。もしこのような神通を持つなら、「於心滅智不滅正行」。つまり、菩薩はその心と正しい智慧を用いて、あなたの間違った智慧を滅するが、正しい行動は損なわないのである。例えば昨日の二人の求法者は、出家者の話を聞いたからといって、私のもとで仏法を学うことを止められたわけではない。叱ったとしても、追い払わなかった。これはどういう意味か。間違った智慧は消し去ったが、正しい仏法修行の行いは残してあげた、ということである。理解できただろうか。これは非常に難しい。ここでは取り除き、ここでは取り除かない――と調整するのは本当に大変なのだ。私はもうすぐ引退する。
経典曰く「又舍利子。而於前際念彼無礙。此説名為神通。」
ここでいう「而於前際念彼無礙」とは、前後のことを指すのではない。菩薩が衆生を助けようとする時、衆生が心を動かして助けを求めるとき、あるいは願いを起こしたときに、菩薩はその衆生の前にどのような念頭があったかを知ることができる、という意味である。なぜこれを知る必要があるのか。もし念頭が正しくなければ、必ず障礙が生じるからである。だからこそ、菩薩はその念頭を正し、衆生が将来、学仏において障礙なく修行できるよう助けるのである。「此説名為神通」これを神通という。ここから見て取れることは、すべての神通は衆生が仏法を修行し学ぶためのものであり、菩薩自身の名声や利益のためでもなければ、道場の弟子を増やすためでもない、ということである。こうした方法で仏法を広めようとしても、かえって弟子は減ってしまうだろう。なぜなら、菩薩道を真に学び、修行する者は非常に少ないからである。
多くの人が「勉強は大事だ」と言うが、私もそれは支持する。社会の中で、もし勉強に少しも成果がなければ、親戚や友人から「仏法を学んでいるのに学問ができない」と思われることもあるからだ。しかし、六祖慧能は文字を知らなかった。台湾で最も有名な廣欽老和尚も文字を知らなかったし、ミラレパ尊者も文字を知らなかった。文字を知らなくても、かえって修行がよくできたのだ。なぜなら、上師が何を言っても素直に聞き入れ、書物をいちいち調べることがなかったからである。特に今はインターネットが便利すぎる。リンポチェが言ったことを聞いたとしても、「他のリンポチェはこう言ってるのか?」と比較してしまいがちだ。そうすると、修行は成就できなくなる。特に若い人はこうしやすい。なぜなら、リンポチェが言ったことを自分では実行できないのに、他に方法がないかと探すからである。その結果、修行が進まなくなってしまう。
仮に、この上師とは縁がなければ、あなたはその門下に帰依することはない。その上師が修行する過程や方法には、必ずあなたに合う部分があるはずなのに、あなたは「今の自分にはできない」「やりたくない」と思い、別の方法を探してしまう。そうすると、この一生で、少しも身に付くことができなくなる。私が法王に帰依してからは、好奇心であちこち行ったり、いろいろ見たり聞いたりすることはない。今はネット上にたくさんの仏法の情報があるが、私は一切見ない。なぜなら、それは私には関係ないからだ。自分の上師でない人がどんなに素晴らしいことを言っても、それはその人と縁のある衆生のためのことであり、私とは縁がない。ではなぜ私は法王の弟子になったのか? それは私と法王に縁があるからである。縁のある上師についていくなら、他の人の話を聞く必要はあるか?私はただ、伝承の中で教えられたことだけを聞く。しかし皆さんはそうではない。あちこち東を見て西を見て、特に今の大学生はこれをよくやる。ほかの人がどう言っているかを見て、自分の上師と違うことを言うと、すぐに疑いの心が起きてしまう。
時には、みんなの根器がある種の仏法を聞くにはまだ足りないことがある。その際、リンポチェは敢えて触れないのである。また、縁が整い、根器が十分になったときに、ちょうどよく触れるようにする。例えば今、ジッテン・サムゴンの『一意』を取り出して、リンポチェが本日話した仏法をよりはっきり理解できるようにしている。これは私の発明ではなく、ジッテン・サムゴンが元々言っていたもの。先ほど話した内容も前からあったが、こんなに詳しくは話していなかっただけ。みんなは信じない。皆は、リンポチェがチベット出身でもないし、転生者でもない、在家の人間だからと、こうして理由をつけて上師との間に距離を作ろうとする。しかし、みんな自身も在家ではないか?上師が少し厳しくしただけで、「上師は慈悲がない」と思ってしまう。では、みんなは上師にどれだけ慈悲を持っている?例えば、食事に行ったぐらいでも文句を言う。もし大直店のスタッフが東豊店に電話して「どうして客を追い出すんだ」と文句を言えば、両方の店で喧嘩になる。度胸があるなら、東豊店の男性スタッフに文句を言ってみろ。でも怖くてできないだろう。なぜなら大直店は女性スタッフ、東豊店は男性スタッフだから。ずるいな、今はもう、女性を甘く見る時代じゃないぞ。(大衆笑)。この女弟子たちを甘く見ると、どうなるか身をもって知ることになるぞ。
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2025 年 12 月 11 日 更新