尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年11月30日
台北寶吉祥仏法センターの会衆は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのお導きに従い、恭敬の念をもって、リンポチェが2003年6月15日に開示された仏法の法話テープを拝聴した。
二千五百年以上も前、まだ解剖学が存在しなかった時代に、胎児が毎月どのように変化していくのか、いかにして知り得たのであろうか。釈迦牟尼仏はすでにその当時、胎児が母体の中で十ヶ月を経るあいだ、月ごとにどのような変化が起こるのかを明らかにされている。手・足・諸根が形成されるたびに、胎児は刺すような痛み、闇、吐き気を覚え、自らが牢獄に閉じ込められているかのように感じると説かれている。母親の側にも、頭痛・嘔吐・不快感・むくみ等の症状が現れる。母親が辛い物を食べ、冷たい物・熱い物を口にし、満腹・空腹、歩き、座り、横になる──そのすべてを胎児は敏感に感じ取るのである。前回の開示でも述べたように、胎児が動くのは健康だからではなく、不快を訴えているのである。母親が辛い物を食べれば、胎児は辛さに跳ね上がり、まるで二発殴るかのように動く。冷たい物を飲めば、胎児は冷えに震え、身を縮こませて押し返す。母親が何を食べても、その影響を胎児は等しく受ける。胎児は冷熱の変化、風に吹かれるような感覚、漂い流されるような不安定さ、さらには断崖から落ちていくような恐怖の感受すら覚えるのである。
出生の際、胎内の気が動くことによって手足が逆転する。すなわち、胎児は本来頭を上にしているが、出産にあたって身体を反転させねばならず、まるで誰かに両足をつかまれ、地面へ向かって投げ落とされるような感覚を覚えるのである。産道を通るときには、鉄の孔から強引に引きずり出されるかのような痛苦を味わう。出産に際しては、母子ともに命を落とすこともあり、あるいは母のみ、子のみが生き残る場合もある。たとえ命を落とさずとも、母子ともに臨死の苦を受けるのは避けられない。蓮華生大士は、「母子は閻魔王の府に半歩踏み入れるものなり」と述べ、母親は唇と歯を除き、全身の骨と関節が散り崩れるような痛みを味わうと説かれている。新生児もまた、胎衣が離れる際、皮を剥がれるかのような痛苦を受ける。ゆえに、幼子が生まれた瞬間になぜ泣くのか。その理由は二つある。第一に、過去世からの神識がなお存し、自らがふたたび苦を受ける世界に来たことを知って嘆くためである。第二に、胎衣が離れる際、まさに皮を一枚剥がれるが如き痛みを感じ、その苦しさゆえに泣き叫ぶのである。
私たちは生まれたその日から、すでに死へと向かう歩みを始めている。一生を通して生計のために忙しく立ち働き、世間における多くの行為は、実のところ悪業と結びついている。誕生から死に至るまでの過程において、私たちは本当の意味で楽しんだことなどなく、追い求める物質的な享楽はすべてつかの間のものでしかない。財産を所有することもまた、永続せず、実体のないものである。人生を生きるために、毎日、出勤・退勤・食事・料理・育児・教育に追われ、多くの人は老年に至ってなお、一日中怒りを発しながら過ごしている。そのために目が見えにくくなる。怒りを積み重ねれば、腎や肝を傷つけることになり、その結果として視力が衰えるのは当然である。
私の勧めに耳を貸さず、娘のためにどうしても家を買おうとし、結果として蓄えを失い、今まさに苦しんでいる者もいる。これが「苦を理解していない」ということである。多くの人は「子どもは自分のものなのだから、助けるのが当然だ。子どもを助けずに誰を助けるのか」と思っている。世間の衆生とは、かくのごとく愚かなのである。老苦というものは、ゆっくりと形成される。もし老苦が一度にすべて現れたならば、とても耐えられないであろう。中には、子どもが突然老化する病もあり、本人は大変つらく、見ている者も痛ましい。ミラレパ尊者はこう説かれている。「人が老いる時、立ち上がるのは木杭を引き抜くが如く困難であり、歩む姿は鶏がよろめきながら歩くように不安定であり、座るときは岩が落ちるが如く衝撃を受ける。この三つが現れたならば、老体はすでに衰え始めている」と。その後には、「皮膚は乾きしわが寄り、精血は消耗して身体はくぼみ」、いかに良い化粧品を用い、いかに滋養を取ろうとも、胎盤注射を受けようとも、この三つを避けることはできないと続く。香港には、毎年必ず一回胎盤素を注射している歌手がいるが、それでも老いは隠せない。男性は「精」を基とし、女性は「血」を基とする。女性が閉経を迎える時、それは老いの始まりであり、すなわち血が尽きたということである。男性の精が尽きるというのは、単に精液のことではなく、ホルモンをはじめとするあらゆる内分泌の衰えを指す。ゆえに、日常的に頭脳を酷使する者は、老化が早く訪れることもまた道理である。
「精血は消耗して身は凹む」とは――赤ちゃんが生まれたばかりのとき、足はふっくらとして満ちている。これは精血が最も充実している時期であるからだ。しかし老人になるほど足は細く平らになっていく。肉が無くなったのではなく、精血が消耗し尽くし、骨と皮だけが残るためである。ゆえに、人が老いる速度を見分けるには、足を見るのが最も明白であり、誤魔化すことはできない。「木然として盲視し、糊塗に呆ける」とは、我々が言うところの「老いぼれ」であり、まさしく理に適う表現である。脳が正常に働き続けるのは、精と血が十分にあるからである。密教には、容貌や身体が急速に老いないようにする修法があるが、これは精血の運行が一般人とは異なるためである。長年にわたり脳を過度に使い、また色情に溺れる者は、精血が早く枯渇するため、他人よりも老化が速くなる。パーキンソン病や認知症もまた、精血が尽きた現れである。修行者であっても、この二つの病を治すことは極めて難しい。なぜなら、すでにエネルギーが大きく消耗しており、老から死へと向かう流れが急速に進んでいるからである。悪業を多く積んだ者ほど、この消耗はさらに速くなるのである。
ミラレパ尊者の観察はまことに細やかである。尊者は言われる──「人が老いると、衣服は汚れていても着替える心なく、飲食の熱さ寒さを弁えず、四層墊欲床上臥(四層の敷物を重ねてもなお床が硬い)と言う」と。老人が衣服を汚れたままにして着替えようとしないのは、決して意地でも怠慢でもなく、老いによって感覚が鈍り、身を動かすこと自体が苦痛となるからである。衣服を替えるという、老いの身には大きな負担となり、もはや気力が続かないのである。また「飲食の熱さ寒さを弁えず」とは、認知症が始まる兆しである。食物が熱くても冷たくても判別できず、舌が焼けて水疱ができても「熱くない」と言うようになれば、注意すべき段階に至ったということである。さらに「四層墊欲床上臥」とは、敷物を幾重にも重ねても、なお硬くて落ち着かないと言い張る状態を指す。骨が硬化し、肉が衰えて薄くなり、骨と寝具が直接ぶつかる感覚が痛みとなるためである。ミラレパ尊者は、これら三つの徴候が備わったとき、その老人はまるで老いた犬が次第に意識を失っていくように、昏迷の境地へと入りつつあるのだ、と説いておられる。
人間には「病の苦」がある。病に掛かれば床に伏し、食事は無味となり、昼夜を問わず痛みに苛まれ、身を翻しても安らぐことなく、睡眠も妨げられ、時には神智が混乱し、腹を切り開く手術に至るなど、あらゆる不快と苦痛が伴う。ただの風邪でさえ、寝込めば何を食べても味を感じない。まして糖尿病、高血圧、心臓病、癌などの病を患えば、その苦しみは筆舌に尽くしがたい。病苦は誰もが経験するものであり、時に夜も眠れぬほどの痛みと不安に襲われるのである。
死が突然訪れる時、人は恐怖に震え、治療を求めて財産を使い果たすなど、さまざまな苦が生じる。ゆえに私はよく言うが、多くの人は実に愚かである。数百万元、あるいは一千万、二千万元を医療に費やし、器具を買い、薬を買うことには惜しみがないのに、そのお金で布施をし、善を積むという智慧は持ち合わせていない。このような人は、すぐには死なない。なぜなら財がまだ残っているからである。財が尽きるまで苦しみ続け、いよいよ金がないと悟った時、さらに別の苦が押し寄せ、最後に死を迎える。実に痛ましいことである。ゆえに、仏法をよく理解する者の中には、病を得た時、すべての財を施しに回す者もいる。これは財に惜しみがないことによって寿命や安楽を買おうとするのではない。金を費やしたところで病が治らないと悟り、むしろ布施して他者を利益する方がよいと知るからである。医師の方々には申し訳ないが、こう言ったからといって誰も病院に来なくなる心配はない。安心していただきたい。なぜなら、ここまでの智慧を備えた人間は、実際のところほとんど存在しないからである。
祖師ジッテン・サムゴンは、四大は強から弱へと移り変わり、いかに健やかな身体も一転して虚妄となる、と説いている。時間とはまさに秋の花のようなものであり、この道理を信じられるかどうかは、日々よく思惟するかに懸かっている。自分の身体がいつまでも健康であると思い込んではならない。実際には、それは虚妄であり、老い・死・病は予告なく訪れる。まさに秋の花が一瞬にして散るがごとくである。我々はこのように人生を観じなければならない。死の苦は、すべての人が恐れるところである。人生のあらゆる事は他者と共に享受することができるが、ただ死のみは全くの孤独で受けねばならない。すなわち、死は死であり、誰とも分け合うことはできない。伴侶も、眷属も、仏菩薩も、上師でさえも、死を共有することができない。が死に臨むとき、ただ一人で向き合い、受け入れねばならない。臨終の際、心中に起こる恐怖、荒い呼吸――これらは医師といえどもどうすることもできない。かつての勇気も、驕りも、すべて消え去り、内外のさまざまな混乱した相が次第に現れてくるのである。
私は常に申しているが、身近な者が癌を患ったなら、必ず本人に告げるべきである。多くの人は「今は知らせない方がよい、余計な苦しみを与えたくない」と考えて隠そうとするが、これは誤りである。今、苦しませまいとして隠しても、死の直前に訪れるあの激しい苦しみの中で、本人は必ず悟り、必ず思うのである――「すべてお前たちのせいだ」と。正信の仏法のがなければ、人は必ず家族を恨む。「もっと早く知らせてくれれば、別の医師に診てもらえたかもしれない。別の方法を試せたかもしれない。本来なら死なずに済んだかもしれない」と。したがって、我々には他人の病情を隠す資格などないのである。多くの人は「父に言ってはいけない。言えば父がつらい思いをする」と思い込んでいるが、これはまことに愚かである。人は死の直前、自らが死に向かっていることを明瞭に知る。たとえ外見上は昏睡しているように見えても、内心では自分が死にゆくことをはっきりと理解しているのである。
私はこれまで多くの植物状態の人に加持を行ってきたが、彼らが心の中で何を思っているかを私が言い当てると、家族は皆それが正しいと言う。人は「植物人間には感覚も思考もなく、何も感じていない」と思いがちだが、それは誤りである。彼らの意識はなお活動しており、臨終の直前には必ず自分が死にゆくことを知っている。ちょうど深夜に深く眠っている時、意識がないように見えても、もし誰かが口と鼻を塞いで呼吸できなくすれば、瞬時に「死ぬ」と感じるであろう。それと同じで、死の直前は呼吸ができず、非常に苦しいのである。植物状態、昏睡、脳死だからといって、すべてを知らないというわけではない。脳死は必ずしも神識が肉体から離れたことを意味しない。ゆえに仏教では安楽死を決して認めない。安楽死はすなわち殺害である。神識が肉体を離れているかどうかは、我々のような修行者が観察して初めて分かる。神識が離れている者には、私はその意識を呼び戻し、再び肉体へ入れたこともある。なぜなら、死の直前に意識が肉体にない状態では、どれほど修法や臨終勤行を行っても一切の効果がなく、衆生の事情を知らなければ済度することもできないからである。
ある弟子の双子の子が亡くなった時、すでに神識は肉体から離れていたが、私はその神識を再び呼び戻し、その子が何を思っているのかを知った上で、数日後にようやく旅立ったことがあった。なぜ神識が離れているにもかかわらず、肉体がすぐには死なない場合があるのか。それは、亡者が眷属への恨みを報じ、その苦しみを味わわせているためである。あるいは、業がまだ尽きておらず、肉体がなお債を返している途中であるため、神識自身が強い苦痛を受けることもある。神識は「肉体はすでに死んで動かない」ことを知りつつも、その肉体から離れ切れず、傍らに立ったまま見つめ続ける。その苦しみは言語を絶するほどである。死後に蘇生した人が「自分の身体が横たわっているのを見た」と語ることがあるが、これは正しい。神識が肉体から離れていても、肉体がまだそこに留まっているため、その状態は極めて苦しいのである。
衆生の事相を見極める能力を備えていない者が、慈悲のつもりで衝動的に済度を行おうとすると、必ず逆効果を生むものである。ゆえに、私が亡者に加持を施す時、それは亡者を「よい暮らしができるように送る」ためではなく、亡者が仏法を聞き、仏法を受け入れられるようにするためである。私の定力によって、死者の浮動する心を安定させ、自らの修行により培った力でその神識を鎮め安らがせる。そうしてはじめて、私が語る仏法の言葉、持誦する真言、念じる仏名を亡者が真に受け取ることができるのである。我々が閉関したり禅定を修したりするのは、自分のために使うためではない。衆生を利益し、衆生を助けるためである。私は今日、修行を通じて得た体験にもとづき、死の過程を皆に示し、病を隠してはならない理由を述べた。なぜなら、死が訪れる時、本人は必ずそれを知るからである。たとえ交通事故などで突然死ぬ場合でも、息を引き取る直前 0.0001 秒のわずかな刹那に、自分が死ぬことを確かに知るのである。ゆえに、死に関わる事実は必ず正直に伝えねばならない。もし病状を隠せば、亡者はあなたを怨み、恨むことになる。反対に、事実を告げれば、最初の数日は苦しみ、受け入れ難いかもしれないが、時が経ち、事態が好転しないと悟った時、やがて受け入れていくのである。
癌を患う者は、その過程において極めて大きな苦しみを味わう。家族が病状を隠すため、本人は常に「医者が治してくれる」と信じ、治療のたびに希望を抱くが、実際には苦痛が重ねて訪れるのみである。その度ごとに嗔恨の心は増大し、必ずや地獄へ堕ちる因となるのである。死の真相を理解すれば、自分自身も眷属も、死の過程は皆同じであることが分かる。修行者もまた同じであるが、唯一の違いは、修行者は死の直前に起こる心の散乱、勇気の消失、そして死への恐怖心を自ら制御できる点である。仏法を学ぶということは、この恐怖がどこから生じるかを理解することである。その本質を見破れば、恐怖は自然に消え去り、死さえ恐れなくなる。死を恐れぬ者にとって、この世に何を恐れることがあろうか。我々が恐れを抱くのは、財産や眷属を失うことが本当に怖いからではない。心の最も深い場所で、我々は皆「死」を知っている。しかし誰もその事実を語りたくない、起こらないことを願う。その恐怖を抑え込むために、名声を求め、利益を求め、眷属に執着し、欲望を次々と追い求める。それらすべては、死に対する根源的恐怖を覆い隠すための代用品にすぎないのである。
なぜ、ポワ法を成就した者は、死を少しも恐れないのか。それは、この法を成就した時点で、すでに「死の過程」を一度通過しており、「死とはこの程度のものだ」と自ら体験によって知っているからである。皆さんが死を恐れるのは、「知らない」からである。ちょうど、私が「このスープはとても美味しい」と言っても、あなた自身が口にしてみなければ分からないのと同じである。多くの人は「仏法を聞いたことがあるから理解している」と思い込むが、聞いただけでは決して理解できない。必ず実践しなければならない。ポワ法を学び、成就に達したならば、死がどのようなものであるかを自ら悟り、多くの執着が断ち切られる。しかし、ポワ法を学んだからといって、すぐに他人に対してポワを行えると思ってはならない。自分自身のために修するポワ法と、他者に施すポワ法はまったく別の法であり、心が正しくなければ伝授されることはない。誤った心で行えば、自他ともに害を及ぼすためである。かつて、ある者が弟子を遣わしてポワ法を学ばせ、法本だけを持ち帰り、「これで自分も修行できる」と思い込んだことがある。しかし、それは何の役にも立たない。ポワ法は、法本を読んで観想できれば修得できるようなものではない。必ず上師が直接指導し、最低108日間付き添って修行しなければ成就には至らない。上師の導きなくして修することは不可能である。かつての私自身も、上師がそばにつき、導いてくださったからこそ成就できた。ゆえに「上師が最も重要」なのである。上師は常にあなたを正しい方向へ導き、決して遠回りはさせない。上師自身がすでに成就しているからこそ、弟子を成就へと導くことができるのである。
ポワ法の中には、上師に対する祈願文がまるごと一段含まれている。この「上師」とは、いま実際に法を伝えてくださっている現在の上師を含むことを指す。もし上師に対して、わずか一念でも不敬の心を起こしたり、ほんの少しでも「利用しよう」という思いを抱いたなら、たとえポワ法を授かったとしても、決して成就することはない。だから、ポワ法を学んだからといって、上師と離れてもう会わなくてよいと思ってはならない。仏法を学ぶ意思がないなら、最初から道場に来てはならない。密法が公開されていないのは、間違って学べば衆生を害してしまうからであり、公開されていないのは秘密だからではなく、また高価だからでもなく、仏法はお金で量るものではないからである。
私はこれほど早く進歩できたのは、ポワ法を成就したからである。同じ時期にポワ法を学んだ42人のうち、頭頂が開いたのは2名だけであり、その中で他人に対してポワ法を修してあげられるのは、私一人である。台湾全体では、直貢噶舉でポワ法を学んだ人は多いが、頭頂が開いた者は非常に少なく、ましてや他人のためにポワ法を修してあげられる者は言うまでもなく少ない。頭頂が開いたからといって、他人のためにポワ法を修してあげられるとは限らない。古代において、他人のためにポワ法を修することのできた者は、非常に尊敬されていた。なぜなら、この法は「出会うことが難しく、修することが難しく、成就することが難しい」からである。
私たちは死の直前、一生のすべての勇気が消え去り、過去世からの怨親債主が債を取りにやって来る。死後は、暗闇の中で風(業力の風)に吹かれ、孤独で人のいない場所にいるように感じる。そのとき、まだ分配していない財産のことを思い出すと、心の中に執着と思いが生じる。『地蔵経』には、亡者が往生した後、その者が生前もっとも好んでいた宝物・骨董や財産を代わりに供養・布施してあげるべきだと説かれている。それは亡者の「憶念の心」を断ち切るためである。
ある人の父親が往生して二十日以上が経ち、その間、他人に経を読んでもらい、七日忌の法要も行っていた。その人が面見を求めて来て、父親がすでに離れたかどうかを請示した。私は彼に家に男の子が四人いるかと尋ねた。彼は「そうです」と答えた。そこで私は彼にこう告げた。彼の父親が、今すぐ私に伝えるよう求めていると——「四人の兄弟は財産のことで争ってはならない」と。すると彼は、四兄弟が実際に財産問題で争っていると述べた。その後、この人は再び報告に来て、兄弟たちには「父親が夢に現れて、四人が財産を巡って争っているのを見たと言った」と説明したという。私はその場で彼を叱責した。このような言い方をすることは、第一に不孝である。父親は「自分の口で言え」と私に伝えさせたのであり、それを夢のせいにしたのは不孝である。第二に、これは妄語であり、上師を汚す行為である。多くの人はこのようである。問うだけ問って、聞いたことを信じず、結局は自分勝手なやり方で行う。この亡者は、財産が子孫によって不適切に扱われているのを見て怒りが生じており、たとえ子供たちが臨終勤行を頼んでも、どれほど経を唱えようとも亡者は離れようとしないのである。
生前に自らの財産を供養・布施していなかった場合、臨終前にきちんと整理しておかなければ、亡者の心は必ず不満である。特に、生前に愛していた宝石や古董が、自分の好まない人物に身につけられているのを見れば、必ず心の中で罵るであろう。したがって、亡者の心を理解せずに臨終勤行を行うことは無意味であり、のし袋を受け取った以上、たとえ金額を指定していなくても、その業力を背負うことになる。なぜなら、依頼者の問題を実際には解決していないからである。昔、私は法王の許可が下りるまでは、他人を済度することを敢えてしなかった。幼い頃、父から道教を学び、多くの例を見てきたが、父は「むやみに済度してはならない。」と教えたからである。自分は慈悲心のつもりでも、結果として他人を害する場合があるたとえ出家者が亡者のために読経しても、亡者は依然として憤っていることがある。しかし彼らはすでにのし袋を受け取っているため、その亡者の家族に対して業を負ったことになり、来世で必ず返さねばならないのである。
我々は必ず経典を正しく見極めなければならない。たとえ助念団として他人を臨終勤行する場合であっても、その家族にどのような状況があるのかを事前に理解すべきである。財産の分配がすでに済んでいるかを尋ねてもよい。もし分配が済んでいないのであれば、読経してはならず、分配が済んでから読経すべきである。私は友人の父親を臨終勤行したが、その亡者は自らの妻を心配して離れようとしなかった。ましてや財産。ゆえに、金銭に執着が深い者、生前に慳貪で施しを惜しむ者、供養した後で後悔する者は、いずれもこのような問題を生じる。死後もなお執着が断ち切れず、その事を掌握しようとし続けるため、このような者は餓鬼道に堕ちるのである。
罪業が重い者は、死の直前に胸を打ち叩き、足を踏み鳴らし、あれこれ罵り、誰かを責め、心に強い不平不満を抱くものである。これはまさに罪業が深く、平生からよく怒りを発する者の相であり、このような者は必ず地獄道に堕ちるのである。仏法を聞いたからといって地獄道に堕ちないと思ってはならない。それは行為によって決まる。仏法を聞いていても地獄道に堕ちる者はおり、その場合はまだましの方で、鬼卒となることもある。殊に、仏法を聞きながらなお人を罵り、他人を責める者は、より速やかに堕ちる。なぜなら、法を知りながら法に背く「知法犯法」であるからであり、とりわけ上師を批判する者は、誰よりも早く堕ちるのである。もし友人や親族にこのような兆候が見られたなら、直ちに善知識を請じて加持を受けさせ、福を植え、供養を行わせなければならない。そうしてこそ、その業が生前に速やかに消滅するのであり、さもなくば必ず堕ちるのである。
ある者が臨終の前に手足が痙攣し、絶えず震え続ける場合があるが、これは殺生の業が極めて重いか、あるいは今生において不義・不正の財を得たことを示すものである。死に至る直前、彼の冤親債主が体内に入り、彼と清算を行うためであり、その筋を引き抜くのである。地獄にはまさに筋を抜き取る刑罰が存在する。このような状況に遭遇した場合、無理に鎮静剤を投与してはならない。投与しても効果はないのである。続いて神智の混乱が起こる。臨終の前に手を絶えず振り払う者がいるが、他人はそれを幻覚であるとか、病院に霊がいるのだと思い込む。そうではない。それは、神識が混乱している時に、累世の冤親債主が訪れるのを見て、それを追い払っているのである。また、「おじいちゃんが迎えに来た。とても嬉しい。」と言う者もいるが、注意しなければならない。それは冤親債主が、本人が最も好む親族の姿に変化し、三悪道へ引き込もうとしている可能性がある。このような現象が見られた時は、直ちに善知識を招き、助けを求めるべきである。
最後に気息が断たれる際、口はわずかに開き、眼は白目を翻して亡くなる者がいる。これはまさしく悪業を多く作した者の相である。ミラレパ尊者は、極悪の者は臨終の際、因果を示して導師の如くであると言われている。生前いかに自らを「よく修行している」と語っていたとしても、その死に際の様相を見れば、その者が今生において悪行を多く積んだか否か、その業の重さが一目でわかるのである。ゆえに、仏事を行い、経を読み、真言を誦する時、絶対に怒りを発してはならない。そのような嗔心の業は、殺生の業よりもさらに重いのである。その時には、多くの衆生があなたを頼みとし、期待しているからである。もしその時、あなたの心が仏・菩薩の心であるならば、衆生は利益を得る。しかしその場で怒り、他者を非難し、嗔念を起こすならば、それは三悪道の心であり、亡者を三悪道へと落とす因となる。亡者は必ずあなたを許さないであろう。このゆえに、私は常に人々に、安易に助念に参加すべきではないと勧めている。助念は本来善き行いであるが、条件が必要である。亡者が生前に仏法を学び、その道理を理解していた者であれば、あなたの助念はその信心を強め、阿弥陀仏とともに往生する力となり得るのである。
ある者は、面子のため、功徳を得るため、あるいは断りにくいという理由で助念に参加する。また、自己の慈悲心ゆえであると思い込んで参加する者もいる。さらには、恐怖のあまり絶えず念じ続け、亡者の姿を見るのを恐れて眼を固く閉じて念仏する者もいるが、このような助念は何の効験もないのである。真の助念とは、亡者と生前に同じ道場で仏法を学び、同じ修行をしてきた道友(師兄弟)が、その者の臨終に際して念仏・持咒を行うものである。すでに死亡した後に念仏しても意味はない。密行者が密法を修して行う場合を除き、効果は及ばないのである。助念団が念仏すれば必ず往生を助けることができると迷信してはならない。浄土三部経のいずれにも、そのようなことは説かれていない。さらに、浄土宗の大徳である印光大師ですら、「死後に念仏すれば往生できる」とは説かれていないのである。印光大師が明言しているのは、亡者が生前に正しい仏法を学び、明晰なる心を保ち、修行者であった場合に限り、助念がその往生の力となる、ということである。多くの仏教徒が毎日のように助念に駆け回っているが、効果がないばかりか、かえって自らを害し、衆生を害している。道理を知らず、独断で行い、自己の行為を「慈悲」であると勘違いしているが、それは誤りである。
死後において、すべてが消滅するわけではない。もしあなたが修行者ではなく、また大いなる善業を積んでいないならば、閻魔王の従者が眼前に現れ、あらゆる相を示して恐怖を起こさせ、あなたを三悪道へと堕とすのである。死が到来する時は一定しておらず、その時に真に利益となるものは正法のみである。パドワ尊者は、「死は無常である」こと、「死は必ず来る」ことを常に思惟すべきであると示されている。長寿であると自らを催眠し、自らを欺くべきではないのである。
悪業を断ずることは困難ではない。より多くの慈と悲を行い、辛労をいとわず衆生を利し、後には空の実相を多く観ずるべきである。悪業を断ずること自体は難しくないが、困難なのは、自分が悪を作していると認めないことである。悪の定義とは、衆生の利益のためではなく、自らのある種の欲望を満たすために行い、自私自利であること、これら一切が悪である。上師の教導・勧告を受け入れず、さらには拒絶することも悪である。仏法の薫陶を受けず、仏法を用いて生活しないことも悪である。簡潔に言えば、依教奉行こそが一切の悪を断ずる門であり、一切の善の始まりである。ゆえに、学仏は困難ではなく、悪を断つことも困難ではない。困難なのは因果を信じないことである。言葉を発し、あるいは一つの動作をしたとしても「何も起こらない」と思い込むが、すべてには果がある。因果を深く信じる者は、必ず悪を断つことができる。多く慈悲を修し、苦労して衆生を利益すべきである。しかし現時点であなたたちにはそれができず、ただ供養・布施のみである。これらは上師が多くの金銭を求めるためではないのである。
多くの者は、上師が経典を開示し「収入の四分の一を供養・布施すべきである」と説くのは、単なる方便の言葉であり、深く受け取る必要はないと思い込み、金こそ最重要であり、金がなければ生活できないと考えて従わない。もし仏と上師があなたたちを欺くのであれば、そもそも仏を学ぶ必要はないのである。直貢チェツァン法王も、供養は学仏において最も重要な法門であると公に説かれている。私は、直貢チェツァン法王が仏法を聴聞するために、ケンポに代理供養として曼荼羅を奉げさせた姿を自らの目で見ている。仏法を聴聞するには必ず福報を積まねばならず、その福報は供養から生ずるのである。日々辛労して働くことも、衆生を利益する行為である。社会におけるそれぞれの仕事は、多くの衆生と直接・間接に関わっており、仕事を丁寧に成し遂げることで多くの人々を利益する。しかし、昇進や財を得ることばかりを考えるならば、多くの衆生を害することにもなる。あなたたちは法布施を学ぶ以前の段階にあるゆえ、まずは自らの仕事を誠心誠意行うことが、衆生を利益する一つの方法である。そして、後に「空の実相」を多く観じ、空性の特質を学ぶべきである。これについては今後あらためて教授する。
もし我々が「死」を念じなければ、心は散乱し、親友・怨敵・見知らぬ人の三種の対象に対して、貪・瞋・痴の三毒が必ず生じるのである。死を念じなければ、何事かを掌握しようとする執取が起こり、心はますます散乱し、上師の言葉も耳に入らなくなる。親族・眷属に対しては貪念が起こり、子が孝行であってほしい、自分によくしてほしい、言うことを聞いてほしい、妻が自分の意に従ってほしい等、これらはすべて貪毒の始まりである。怨敵に対しては瞋念が生じ、多くの人が自分に害を及ぼすと思い込み、復讐したい、相手を苦しませる言葉を言いたいという心が起こる。不特定の他者、見知らぬ者に対しては「関係ない」「どうでもよい」と思う心が生じる。ある公衆トイレが汚く扱われるのも、次に使う人を知らぬがゆえに、何をしてもよいと思う痴の毒が働くからである。すなわち、真理を受け入れず、善悪を顧みず、ただ「やってしまえばよい」と思う心こそ、痴毒のあらわれである。
死を念じない者は、もはや修行者ではない。その心は必ず世間法に向かい、貪・瞋・痴の三毒が起こるのである。自らの財産・飲食・受用に対して貪り求める心が尽きることなく、財を集め、守り、増やそうとするために、日々片時もなく散乱し、失うことを恐れ、一切に対して尽きぬ恐怖と苦を感じるのである。これらの言葉は、あなた自身が行い、体験してきたことである。自分を守ろうとし、貪りが止まらず、「栄養」の名の下に殺生して肉を食す。さらに多くの財を求め、教師たる者がは標会(民間の相互扶助的な資金調達組織)や株に手を出し、医師たる者は薬を売り、公務員たる者は汚職する。これらすべては恐怖と痛苦を生じさせる原因である。ミラレパ尊者も言われた。「財富はいったい、いかなる時に満足するのであろうか」と。財を求める過程において、慳貪の心によって自らの心を縛りつけ、善行を行うことを惜しむ。これらはすべて「邪敵」を招くシグナルである。邪敵には二種の意味がある。一つは人間界の邪敵である。なぜ台湾でこれほど多くの人が詐欺に遭うのか。明らかに騙されていると分かっていながら、なお金を振り込んでしまうのは、貪欲ゆえである。「自分がそんなに運が悪いはずがない」と思い、相手につけ込まれるのである。財を集めようとするがゆえに、自然と慳貪が生じ、布施・供養を惜しむので、善業はごくわずかとなるのである。
たとえ今生においてどれほど勤勉に財を蓄え、他人のために用いたとしても、最後には死ぬのである。ゆえに、財と眷属は、我々を輪廻へと誘う「餌」であることを明確に知らねばならない。輪廻はこの二つから離れられないのである。ある老婦が、子の不孝と夫との不和によって強い瞋念を起こしていた。もし私のポワ法を授からなかったならば、その老婦は必ず地獄に堕ちていたであろう。子のために多くをしてやったにもかかわらず、その子が自分の期待に応えなければ、必ず強い瞋念が生じる。この瞋念によって先に地獄に堕ち、来世に再びその子を探し求めて債を取り立てるのである。私は常に開示している。子が孝行であるか否かは、すべて因果であり、金で買えるものではない。金を与え、事業を助け、家を買い与えたからといって孝行になるものではない。もし金で孝行が得られるのなら、数百万元で誰かを雇い、契約書を交わせばよいではないか。いくらでも孝行してくれる者はいる。いま台湾には失業者が多く、あなたの子にこだわる必要はどこにもない。しかし人間は愚かである。財富と眷属こそが最も重要だと思い込む。まさにこれこそが、輪廻へと誘う「餌」なのである。
祖師ジッテン・サムゴンも言っている。財が尽きるのを目にしたとき、たとえ今生どれほど慳貪であろうと、いかに努力して蓄財しようと、それらはすべて泡影であり、財は草上の露のようなものである。よくよく三思すべきである。これ以上、財によって自らを害し、自らを欺いてはならない。もし「死」を思惟しなければ、我々の心は俗世へと散乱し、親しい者・敵対する者・見知らぬ者に執着して貪・瞋・痴の三毒を生じる。安楽・幸福・名声に貪著し、こうして一生を虚しく過ごしてしまう。仏が「虚しく一生を過ごす」と説かれるのは、この一生で仏法を学ばず、生死解脱を得られず、せっかく人身を受けても無意味に終わるということである。事業があり、子があり、家庭があり、身体が健康であるからといって、無駄ではなかったと思うのは誤りである。仏の眼から見れば、これらはすべて虚妄で永遠ではなく、夢幻・泡影のように一瞬で消え去るものである。学問も功名もすべて虚假である。もし「大金を得ること」「高位に就くこと」が人生の目標であると信じるならば、それもまた虚假である。このような考えの者は、決して因果・因縁を信じていない。一切の財富・名利・眷属は、すべて累世の因果因縁によって得られるものであり、今生だけで作り出したものではない。縁があり福報があれば、金を道路の真ん中に置いても誰も拾わない。福報がなければ、金を銀行に預けていても盗まれるのである。
私が二十一、二歳の頃、宝石店でマネージャーをしていた時のことである。ある時、当時の私の二年分の給与に相当する価値の商品の一包みを持って帰宅しようとして、タクシーに乗った。下車の際、それを車内に置き忘れ、急いで追いかけたところ、一周して戻ると、偶然にもそのタクシーがまだ停まっていた。私は走り寄り、運転手に「包みを置き忘れた」と伝えたが、運転手は「あり得ない、さっき短距離の客を乗せたばかりだ」と言った。ところが、その包みは手をつけられることなく、そっくりそのまま残っていたのである。これは、私の命の中で、その大切な包みを失う因果がなかったということである。ゆえに私は今生、自分の所有物に対して非常に自在である。来ることも良し、去ることも良し、すべては命であり、ここでいう命とは宿命論ではなく、因果法則そのものである。いくら貯金が上手でも、必ず誰かに使われてしまう。なぜなら、その金は「絞り出して貯めたもの」だからである。このため私は今生、金銭に関しては「使える時に、できるだけ早く使う」立場である。金は去るのが早ければ来るのも早い。しかしあなた方は、去るのも遅く来るのも遅い。そして他人にすぐ使われてしまう。すべてこの原理によるものである。
このような事柄について、我々は必ず注意を払うべきである。さもなければ今生を空しく過ごしてしまうからである。我々は「この一生に残された時間はどれほどか」を思惟すべきである。それは「あと一年、十年、二十年あるか」という計算ではなく、「人は必ず死ぬのであり、死なない者は一人もいない」という真理を明確に理解するという意味である。いくら計算に長け、策略に巧みであり、またいくら子女に“孝行”を尽くしたとしても、最終的にはすべてが空である。台湾には多くの「孝子」──すなわち息子には孝行であっても、供養となると一百元でさえ「多い」と感じ、一週間で二百、一か月で六百という程度であるにもかかわらず、娘には数百万元を与えても「多くない」と思う者がいる。このような心で行う供養には功徳はなく、これを「比較心」という。人は必ず死ぬ、ということを思惟しなければならない。そして「残された人生をすべて仏法修習に捧げる」と誓願を立てるべきである。私が皆を急かし、叱咤し、強く促す理由はここにある。なぜならあなた方は、自分の残りの命がどれほどかを知らないからである。もしさらに日々を無駄に過ごすならば、死が到来した時にはもう手の施しようがなく、私を探し出せるとも限らない。学仏は必ず「今この時」に行わねばならない。年齢・地位の如何を問わない。たとえ学生であろうと、役人であろうと、大企業の主であろうと、家庭の主婦であろうと、祖母であろうと関係ない。限られた時間を「今この瞬間」から真実に仏法修習へと用いるべきである。
ミラレパ尊者は、「仏が説かれた一切の法は、ただ八風を断ずるためである」と述べている。すべての学仏者は、自らが八風のいずれかに陥っていないかを省みなければならない。仏陀が制定された一切の戒は、決して罰するためでも、褒め称えるためでもなく、世間が我々に与えるあらゆる束縛を断ち切るためのものである。自らに問いなければならない──俗事は増えていないか、と。経懺を急いでこなすことも俗事である。毎日、自分のことばかりを急いで行い、仏菩薩を忘れることも俗事である。毎日、子女の世話に追われ、上師の教誨を忘れることも俗事である。ゆえに、自分は戒を守っていると思っていても、俗事が増えているかどうかを問うべきである。もし常に「死と無常」を念じていないならば、修法して何の意味があるのか。学仏の目的は必ず明確でなければならない。決して現世の利益や、現世の順調さを求めるためではない。最も重要なことは、死を思惟することである。
端的に言えば、一生のうちにどの法門を修行しようとも、その最終目的は「死の瞬間に役立てるため」である。ゆえに、どれほど修行がうまくできようとも、どれほど偉大な力や大神通を得ようとも、それ自体は重要ではない。重要なのは、「いかにして自らが再び生死輪廻に戻らないようにするか」を知ることである。我々が一生を通して唱えてきた真言や経文も、死のその数秒間において力を発揮するためのものであり、我々が修してきた一切の法門も、まさにその一瞬のために修めるのである。決して誤解してはならない。仏法とは、世間の悪い事柄を良い方向へと変えるための手段ではない。もし仏法がそのようなものであるならば、因果の法則は存在しないことになってしまう。経典には、「衆生の心は不可思議なり」と説かれている。衆生の心が思い描き生み出す一切の事象は、たとえ仏の智慧をもってしても、その複雑さの究竟を測り知ることはできないとされる。ここに座する三百余名の心も、またきわめて複雑である。ゆえに、この世にこれほど多くの争いや混乱が存在するのである。
仏は我々にこう示されている。死を思惟せず、「仏法がこの一生を良い方向に変えてくれる」とのみ思うのであれば、そのように学ぶ仏法にいったい何の意味があるのか、と。もし「上師は、自分の子孫を孝行にし、事業を成功させてくれる存在だ」と思うのであれば、その考えも誤りである。上師とは、死亡の真相を正しく認識させ、来世をいかに掌握すべきかを教える存在である。六十歳、七十歳まで生きたのであれば、基本的にこの一生の形はすでに定まっている。良くなるにしても、どれほど良くなるわけでもなく、悪くなるにしても、どれほど悪くなるわけでもない。多くの妄想を抱くべきではなく、ただ実実在在と六字大明咒を持するだけでよい。ブランド品を買う必要はない。年老いてしまえば、いくらブランド品を着ても人はブランドだとは気づかない。衣装を美しく見せる体裁(衣架子)がないからである。私は五十代でブランドを着れば、人はそれがブランドだと分かる。まだ体格がいいからである。ブランドを買うこと自体が悪いわけではない。人が買わなければ、多くの工場が倒産し、多くの労働者が失業してしまう。この一生に起こる一切は因果因縁である。自ら新たな煩悩・問題をつくり出してはならない。
毎日必ず少しの時間を取り、静かに坐って自分の一生を省みるべきである。この一生で自分は何をしてきたのか、社会に何を施してきたのか。死ぬその日はどのような状態なのか、死の数秒間の感覚はどのようなものなのか。さらに深く思惟すべきである。若いからといって死なないのか。老いてからのほうが苦しんで死ぬのか。これはあなた自身の課題であり、毎日思惟しなければならない。「死を思惟すればすぐ死ぬのではないか」と思ってはならない。まったく関係がない。寿命が尽きていないかぎり、一日24時間、一秒一秒「死」を思ったとしても死ぬことはない。
だから、死ということは、あなた方が今、理解できず、解決できない問題に勇敢に向き合うために教えられているのである。この問題は、科学・医学・財富・学問では解決できず、ただ仏法だけが解決できる。あなた方がこれほど多くの恐怖を抱くのは、死を理解していないからであり、一度理解すれば、恐怖は一切なくなり、むしろ人生が希望と光明に満ちていると感じるようになる。なぜなら、自分の未来をどのように掌握するかを知ることができるからである。あなた方のいう「光明」とは財富や名利のことであるが、それはただ福報が現れたにすぎない。この部分で語った「死」は、老年者も恐れてはならず、若者も恐れる必要はない。中年者も家に帰って妻に「もう仕事に行かない、毎日死を考えるだけだ」などと言ってはならない。死を思惟するとは、この自然の現象が必ずすべての者に起こると、まず受け入れることである。これは最も重要で、最も解き難い問題であり、この問題を解決できれば、人生のその他すべての問題は、解決できないものなど何一つない。だからこれは消極的なのではなく、まず最も難しいものに取り組むのである。最も困難なことを解決してしまえば、ほかに解決できないことなどあるだろうか?古人が学問を求めたとき、簡単な問題から学ぼうとはせず、最も深く最も難しい問題から学んだのも同じである。最難のことを理解すれば、ほかはすべて容易である。私たちの人生で最も困難で、最も理解しがたく、最も受け入れたくないものが「死」という問題である。これを受け入れ、解決できるならば、人生のその他の問題は小事であり、問題ですらない。なぜあなた方の「小さな問題」が「大きな問題」になるのか?それは根本である「死」の問題を解決していないからであるこれを解決すれば、自然と仏道の道は誤ることなく歩むことができる。
仏陀は四十九年間にわたり法を説かれたが、仏はかつて「自らは法を説いたことがない」とも説かれている。なぜなら、仏が説かれたすべては、歴代すべての仏が悟りによって説き示した言葉であり、仏はそれを、再び私たちに向けて繰り返し説かれたにすぎないからである。一切の法の最終の目的とは、生死輪廻という真実の苦から解脱することであり、それ以外の世間にあるあらゆる苦難は、仏の智慧から見れば最も重い苦ではない。最も苦しむべきものは、絶え間なく生死を輪廻し続けるその苦である。
生・老・病・死について、私たちは「生まれること」を決定することはできない。それは自らの業力に随って現れるものである。老いることもまたどうすることもできない。それは自然の法則であるからである。病については、もし殺生をせず、善行を多く積むならば、多少は方法があるが、小さな病は免れない。しかし「死」には、解決する方法がある。仏は、今生の肉体が用いられなくなった後、未来の生において生死を繰り返さない方法を教えることができる。上根器の者は、この一生において生死を断じ、死の過程を経る必要がない。しかし私たちは下根器の者であり、この肉体は必ず死を経なければならない。ゆえに、肉体がまだ死に至っていないうちに、その一日を迎えるための多くの準備を行っておかなければならないのである。
決して、少しでも「死の時には上師がポワ法を修して助けてくれるだろう」というような僥倖の心を起こしてはならない。事実、もし私が過去世からの債をすべて返し終え、もし法王が「お前のやるべきことはもうない」と仰ったなら、私は皆に「さようなら」と言うであろう。決して、「毎日上師長住を祈願しているから、上師はこの娑婆世界に居続けてくれる」と思ってはならない。“在世”とは、この宇宙全体のどこにおいても在るということであり、必ずしもここに留まることではない。私がこれほど深く、これほど強く学仏に取り組んできたのは、父の死が私に非常に大きな警鐘を与えたからである。なぜ人は、自分自身の死を理解することができないのか?生きている間は威勢を振るうほどの者でも、死に直面したときには何一つ掌握できない。それでは、人として生きる意味とは何なのか?私は十八歳で父の死と向き合ったとき、「この一生で必ずこの問題を明らかにする」と自分に誓った。今はこう言うことができる──私は理解した、私は掌握できる、と。そして、この経験、学び得たすべてを皆にも伝えたいと思っている。しかし、そのための基本条件がある。それは──聞き従うことである。聞き従わなければ、本当に学ぶことはできない。
密法は非常に殊勝であるが、本当に福報があり、如法に行う者でなければ受け取ることはできない。今日はここまでとする。次回は阿修羅について話す。ここでは阿修羅についてごく短い数行しか述べられていないが、私は多くを語るつもりである。阿修羅道に堕ちる機会は非常に高く、そして実に容易である。阿修羅は地球上では海辺に住むとされる。続きは次回に話す。
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2025 年 12 月 03 日 更新