尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年11月23日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座に登られ、『仏説大乗菩薩藏正法経』巻第三十二〈禅定波羅蜜多品第十之二〉とジッテン・サムゴン著作『一意』を開解された。
リンポチェが法座において六字大明呪を持誦されたところ、会場の多くの人々が全身の発熱やチャクラの震動を感じ、尊き御身と壇城からはまばゆい金色の光が放たれ、妙なる香気が満ち溢れた。その刹那、衆生の煩悩はひとたび静まり、リンポチェの殊勝なる仏法の開示を頂くことができた。
経典曰く「舍利子。於如是行相入解有情心智。此説是名菩薩摩訶薩得他心通智業圓満。」
この一段は、法身菩薩の境地に至った時に、示す神通の力について述べているものである。
経典曰く「復次舍利子。云何名為菩薩摩訶薩宿住念通及彼正行智業圓満。舍利子。如是菩薩摩訶薩。於十方無餘一切世界一切有情。具無量種宿住念通。」
菩薩摩訶薩とは、法身菩薩、大菩薩のことである。「於十方無餘一切世界一切有情」とは、すなわち十方世界のあらゆる衆生を指す。「具無量種宿住念通」とは、つまり、彼はすべての有情に対して宿命通を具えているのである。
経典曰く「若一日二日三四五日。若十二十乃至五十日。百生千生百千生無量百千生。乃至百成壊劫千成壊劫百千成壊劫無量百千成壊劫。諸有情類於彼往昔。如是名字。如是種族。如是姓氏。如是色相。如是形状。如是住処。如是飲食。如是久住。如是苦楽。彼彼生滅及於寿量。彼沒此生。皆悉了知。」
この段は、宿命通について述べているもので、一般の人や登地菩薩では成し得ないものである。絶対に法身菩薩、すなわち八地以上の菩薩でなければならない。八地以上の菩薩は、すべての衆生の過去世におけるすべての出来事を知ることができる。どこで生まれ、どこに住み、名前は何か、外見や形状はどうか、何を食べるか、さらには苦楽の生起や消滅の過程、寿命に至るまで、すべて明らかに理解しているのである。「彼沒此生。皆悉了知。」この生がいつ往生するかも把握している。
経典曰く「又知自身及諸有情。此宿住念非唯一種。自身前際及他補特伽羅前際。此宿住念非唯一種。」
菩薩は自分自身のことも非常に明らかに把握しており、これは有情のを知るのと同じ意味である。「此宿住念非唯一種」というのは、菩薩の宿命通は一種の念だけに限られるものではなく、その全ての念頭が「非唯一種」、宿命通が一種に限らないことである。彼は自分自身を明らかに知り、同時に衆生のことも明らかに知るのである。(補註:「補特伽羅」とは「人」、「衆生」を意味する。)この菩薩は自らの過去のすべてを把握しており、それも一種類に限られたものではない。
経典曰く「又自宿因善根念力及他宿因善根念力。又自善根成熟菩提。令他有情念彼善根発菩提心。又若往昔苦及楽因皆是随順無常苦無我等。彼既随順無常苦無我等。即不楽色相。不楽受用。不楽眷属。不楽富饒。不楽為転輪聖王。不楽為帝釈天主。不楽為大梵天王。不楽為護世天王。一切生處自在王位及諸欲楽皆不愛楽。」
この一段を簡単に言えば、菩薩が修行して法身菩薩に至ると、常に受生することができる。例えば、多くの眷属を備え、非常に富裕であり、さらには転輪聖王や帝釈天主となることもある。しかし、菩薩はそれを一種の楽しみや覚受として捉えることはなく、ただ衆生を利益するために、いかなる身を現しているかと感じているにすぎない。
経典曰く「彼正思惟。是處不為成熟有情而受輪回。彼唯随順無常苦無我等往昔諸煩悩行之所招集。」
正思惟とは、思考の面において一切が衆生を助けて輪廻から解脱させ、仏果を証得させるためであるということである。そのため、異なる身、異なる階級として現れ、さまざまな衆生を度することになる。今日たとえ自らが一国の王であったとしても、それを自分自身がその果報を享受するためであるなどとは決して思わない。
「是處不為成熟有情而受輪回」とは、彼は今日、成熟した有情のために輪廻を受けるのであるという意味である。「彼唯随順無常苦無我等」とは、衆生無常苦無我等に随順するということである。意味としては仮に一人の菩薩が六道の中に輪廻していたとしてもそこには苦があるのではなく 「随順無常」のであり、その因縁によって生ずべき道が定まり、因縁が成熟すれば、その縁に従って生を受けるということである。
例えば、釈迦牟尼仏はかつて鹿王、熊の王、猿猴王として生を受けたことがあるが、仏には苦はなく、ただ衆生を度するのみであった。ゆえに「無常苦無我等」である。仏はこの境地において我がなく、すなわち苦を受ける我も、楽を受ける我もなく、ただ菩薩道を行じ、ある道に生じて衆生を助けているにすぎない。たとえ菩薩が六道の中に輪廻していたとしても、それはすべて過去に生じた煩悩に基づいて「行之所招集」されたものである。
例えば、なぜ釈迦牟尼仏は地球に来て弘法したのか。なぜ阿弥陀仏には自らの浄土があるのか。地球は苦が多く楽が少ない場所である。釈迦牟尼仏は過去世において阿弥陀仏と共に修行していたとき、阿弥陀仏の修していた法は空性の中に立脚しておらず、最も円満なものではないと批評したことがあった。このような発言が因縁となり、釈迦牟尼仏はこの生において地球で成仏することになった。地球は五濁悪世であり、釈迦牟尼仏は業力の極めて重い我々のような衆生を度するために、特に大きな苦労を担うことになったのである。
釈迦牟尼仏が地球に生まれるのは、過去世に自らが作った業によるものである。しかし成仏したため、その業も伴って現れる。これは不善業と考えられるが、成仏しているため、仏は不善業の中でも善を行うことができる。すなわち、成仏の仏果を用い、このような五濁悪世、娑婆世界に生まれることによって、かえって多くの苦しむ衆生を度することができるのである。この段落は、今日菩薩道を修している者について述べている。どの道に生まれようとも、過去世に自ら抱いた煩悩によって「招集」されているのである。なぜそのような煩悩を抱えながら衆生を度するのか。それもまた過去の自分の行いによるものである。しかしその道に生まれた者は、「無常」・「無我」などのさまざまなことを明確に理解しており、この生においてはただこの身を現して衆生を度するにすぎない。
経典曰く「極生追悔起大厭離。及現在事諸不善業乃至命根。厭不復作。往昔善根令於阿耨多羅三藐三菩提根広大成熟。」
苦の中で修行しているとはいえ、過去世のすべての善根や過去世の苦の種、苦の縁はすでに修行を通じて消失している。そのため、この生に苦の果報が現れることはあっても、善根が非常に大きいため、阿耨多羅三藐三菩提において、その根はさらに広く成熟するのである。
経典曰く「又能積集現在善根。除滅一切險難境界。成熟佛法僧種子。」
「險難境界」とは、修行の面から解釈すれば、菩薩道を続けることを妨げるような困難に容易に遭遇する境界のことである。「成熟仏法僧種子」。そのため、彼は仏法僧の種子となるのである。
経典曰く「相続不断成熟一切智智正念縁力。又此正念。以自加持。法界加持。不傾動故而無所嬈。成熟定業亦無嬈惱。」
「正念」とは、すべての念が輪廻からの解脱、衆生の利益、衆生を成仏に導くためのものであることをいう。「以自加持。法界加持。不傾動故而無所嬈」。正念があるため、常に一切の法界の衆生を加持し、心はいかなる理由によっても歪んだり動揺したりして衆生を加持しなくなることはなく、またこの行いを妨げるものもないのである。
「成熟定業亦無嬈惱」。この生において、過去世のすべての善業・悪業はすべて清算され、いかなる煩悩も存在しない。例を挙げれば、龍樹菩薩が修行していたとき、多くの外道が彼を妬み、あらゆる手段で殺そうとした。毒を盛るなどの方法も試みられたが、いずれも成功しなかった。最終的にある者が龍樹菩薩に向かって言った。「死んでくれ。あなたが生きているせいで、私たちは非常に苦しい」と。龍樹菩薩は答えた。「私を殺すことはできない。過去に私が行ったすべての殺業の定業はすでに清算された。ただ一つ、過去世に私は一本の草で一匹の蟻の頭を切った業が残っている。そのため、今、この一本の草で私の頭を切るのだ」。この仏典の話が示す意味は、自己の定業は必ず成熟するということである。しかし定業が成熟したとしても、煩悩の心は生じず、定業が来たことによって苦しむこともなく、これを変えようとすることもない。むしろ、慈悲心、空性、無常の心をもってこれを受け入れるのである。
経典曰く「於奢摩他。以自加持心無迷亂。於毘鉢舍那而為摂受。」
続いて、この段は、彼が行ったすべてのことにおいて、その加持の心は決して迷ったり乱れたりすることがないということである。まるで、リンポチェが毎日修法を行う際、必ず衆生や弟子を加持するのと同じである。弟子が従うか従わないか、修行するかしないか、供養の有無にかかわらず、その心が迷うことはなく、ただ毎日、絶えず行い続けるのである。
経典曰く「以現量智無怯弱故。」
「以現量智」とは、仏果を証得する以前に、我々の智慧には「現量」があるということである。例えば、登地菩薩から八地菩薩に至るまで、智慧には異なる層次がある。八地菩薩が振り返って登地菩薩を見ると、登地菩薩の智慧は有限である。意味としては、ある果位における智慧は有限であっても、智慧が有限であるために心が虚しくなったり、修行や法の求めを恐れたりすることはないということである。例えば、今の皆のように、智慧は有限である。しかし、日々「自分にはできない」と考えてばかりいるのは「怯弱」、胆力がなく勇気がないということである。ここで戒めているのは、皆に自分の智慧が少なく有限であることを自覚させるためである。今は凡夫であり、どうして仏や菩薩の智慧があるだろうか。しかし、この有限の智慧をどのように開くか。それは、ひたすら修行を続け、怯まず、退転せず、振り返らず、そして「自分には無理だ」と思わないことである。
前に非常に明確に述べたように、この生で六波羅蜜を修行しなければ、次の生にはそれがない。皆がこの生で六波羅蜜を修行していないのは、前の生で修行していなかったからである。だからこの生でしっかり修行する必要がある。例えば、皆が一万元を受け取ったことについてであるが、私はその一万元が現れたのを感じていない。皆はそれをどこに使ったのか。誰も答えない、怯弱である。自分の金だと思っているが、実際は突然に現れたものであり、皆がそれを手に入れたのだ。出家者は受け取ったか。(出家衆答:受け取りました)では、どこに行ったか。(ある出家弟子答:供養しました)私は分かっている、あなたは供養した。他の出家弟子はしていない。飛んできた金を供養することも惜しむ、特に皆が私に世話され、食事や住居、医療を受けている者たちである。
これはどういう意味か。「怯弱」とは、一万元が少額であるため、リンポチェはこの一万元が無くても支障がないと感じている。これは政府が皆のために与えたものである。皆がその金を受け取った後、どう使ったかは見ていない。まずクレジットカードの返済に充てたのか。それとも、この金がないときはどうやって日々を過ごしていたのか。この点から、皆が修行していないことが見て取れる。リンポチェはこの金を貪っているわけではない。この金を話題にしているのは、皆が供養を本当に理解していないことを知らせるためである。
昨日、供養を理解している弟子もいれば、本当に分かっていない弟子もいた。昨日は出家者のうち一人しか供養に来ず、他は来なかった。彼らのうち数名の男性出家者だけがリンポチェからの単金を受け取らなかったが、他の全員は受け取っていた。だから『宝積経』が台湾でほとんど解説されないのである。解説すると、皆が恥をかくことになるからである。なぜなら、菩薩が行うべきことについて語っているからであり、ここで皆に勧めているのは、たとえ現量の智慧を持っていても怯弱になってはいけないということである。皆が一度求法しても、リンポチェが法を伝えなかったからといって、もう諦めたり、縁がないと考えたりしている。それは怯弱なのである。
因縁は作り出すものであり、仏や菩薩が与えてくれるものではない。自ら因縁を創造しなければならず、絶えず求め続け、求め続けることで因縁はやってくる。例えば、昨日ある弟子が父親の往生のために済度を求めたが、私は応じなかった。なぜか。それは、父親が生前に一度も私に会いに来なかったからである。その弟子はまた、2023年にリンポチェが道場で父親のために大礼拝を行うことを許したと言った。しかし、大礼拝は済度を求める行為なのか。私は確信している、その弟子が大礼拝を行ったときの心は、父親の病苦が減ること、三悪道に堕ちないことを願うものであり、リンポチェに済度を求めたものではなかった。だから縁がなかったのである。特に、生前に一度も私に会ったことがないのに、どうして縁があるだろうか。だから私は出家衆に、彼女が他の寺院で済度を受けられるよう紹介するよう指示した。
思わなかっただろう、リンポチェはこういう考え方をするとは。明らかに大礼拝を行うことで縁はできるはずだが、拝む者の心はどうだったか。私は皆に、父母のために大礼拝を行うとき、それは父母を代表して行うものであり、自分自身のために行うのではないと何度も教えてきた。私はこれを話したことがあるか。(大衆答:あります)この弟子は聞き入れず、自分のために行っていると思い込み、父親のために行うことで自分が孝行していると思っていた。しかし実際には孝行ではなく、手間を減らし、少し楽をしただけである。だから昨日、家族全員が来ても、私は彼女の父親を済度させることができなかった。縁がなかったのである。以前にも話したことがあるが、子として、父母が仏菩薩やリンポチェと結縁できるよう手助けすることは可能である。これについて、以前言ったことがあるか。(大衆答:あります)皆は実行したか。しかし多くは行っていない。父母は死なないと思い込み、死ぬその日まで待てばリンポチェが慈悲をもって応じてくれると考えている。仏は縁のある者を度する。縁がなければどうして度されるだろうか。2023年、彼女が大礼拝を行ったとしても、父親のための縁を生み出すことはできなかった。それは、彼女の大礼拝を行ったときの心に完全に関係しているのである。
仏を学ぶことは非常に微妙なことである。一つの思想、一つの念だけで、自分自身を変えることも、親族を変えることもできる。「正念」とは何か。もし父母が仏を学ぼうとしないとしても、少なくとも、彼等が三悪道に堕ちないよう、リンポチェからの済度を受けられるよう、彼らを代表して求め続けることはできる。求めずに、人は死んでから来るだけである。《地蔵経》によれば、人が死ぬときにどうすべきか、私は何度も話してきた。皆もサイトを見て私が何を言ったか確認するとよい。誰が実際に行っただろうか。ひとりとしていない。リンポチェはそれを咎めたりはしない。少しでも関わりを持って実行したことがあれば、こちらはできる限り済度を助ける。しかし皆は怯弱である。一度求めて叶わないと、もう諦め、「縁がない」と言う。縁がないのは、自分たちで言っているだけである。
経典曰く「以正憶念無忘失故。」
仏典で「正」と説かれるとき、それは仏典を読むか読まないかによって正・不正が決まるという意味ではない。「正」の定義の要点は、いかにして衆生を生死・輪廻から解脱させるか、いかにして自分が将来仏果を証得できるか、そして衆生も仏果を証得できるようにするか、ということである。これを正念という。ゆえに「正憶念」とは、あらゆる動作や行為がこの目的のために行われ、学仏の理由を忘れたり失ったりすることがないということである。
経典曰く「受大快楽。積集諸行不由他悟。積集行故趣於彼岸一切能到。」
たとえこの生で非常に大きな快楽を受け、多くの修行行為を積んだとしても、「不由他悟」である。つまり、他者に強制されて悟るのではなく、修行を通じて自然に、因縁が整ったときに、仏法をしっかり学び、修行すべきだと覚るのである。「積集行故趣於彼岸」。このように多くの修行の原因を積み重ねた後、彼岸に趣す、すなわち仏土に生まれるのである。
経典曰く「積集行故。以正念緣力。過去現在無忘失法。此説是名菩薩摩訶薩宿住念通智業圓満。」
一切の修行の原因を積み集めることは、「以正念緣力。過去現在無忘失法。此說是名菩薩摩訶薩宿住念通智業圓滿」と説かれる。すべての積み重ね、集まった修行の因縁は正念を主としているため、「過去現在無忘失法」、すなわち過去も現在も、自分の修行や衆生を助ける正しい仏法を忘れたり失ったりすることはない。因縁が整えば、少し修行するだけで、過去世の因縁が現れる。その者はこの法を真剣に信じ、自然に、努力して絶えず修行するのである。
例えば、私が因縁でチェツァン法王に出会い、一度加持を受けたことによって、私は過去に修行したことを忘れることはなかった。そのため、この生では密法を自然に、そして容易に学ぶことができた。これは過去世に自分が行ったこと、発した願、そして善根を積み重ねる努力によるものであり、この生に善根の力が現れるのである。もしこの生で善根を積まず、常に自己中心的であれば、例えばこの女弟子が行った大礼拝のように、効果は限定される。大礼拝は役に立つか。もちろん、大礼拝は役に立つ。しかし心が正しくなければ、大礼拝はただの運動にすぎず、効果は得られない。多くの人は、大礼拝をすればすべてが成就すると考えるが、それは誤りである。心が歪み、正念でなければ、大礼拝は単なる運動でしかない。
経典曰く「復次舍利子。云何菩薩摩訶薩於神境通及彼正行智業圓満。舍利子。此菩薩摩訶薩断除諸行而能具足修習欲神足定。」
仏は舎利子に問う、何をもって菩薩、大菩薩というか。「於神境通」とは神足通のことであり、「及彼正行智業圓満」である。舎利子よ、一人の菩薩摩訶薩のすべての行為、修行は、修行の習慣を具え、神足定を得るための練習を備えている。
経典曰く「断除諸行具足修習勤勇神足定。」
神足定を修行するには、一切のすべきでない行為を断つ必要がある。「具足修習勤勇神足定」とは、神足定、神足通が最も完成すれば、全宇宙、十方世界のどこへでも、一念動かすだけで行くことができる。《阿弥陀経》に説かれるように、阿弥陀仏の浄土に生まれた者が、もし他の仏の国土に行って仏法を聞こうとすれば、一念で到達でき、往復する時間は一食分にすぎない。これが神足通である。
私たちは地球上で神足通を修得することはできない。直貢噶舉に於ては、以前、ミラレパが閉関した場所では、私も閉関した経験があるのでよく分かるが、標高六千メートル余り、ほぼ七千メートルの山頂に山洞があり、人は登ることができなかった。以前は登るための道具も絶対になかった。ミラレパは下の層から順に修行して登り、標高五千メートル余りのところにも山洞がある。現在はそこに仏寺が建っており、私もそこで修行した。以前、多くの直貢噶舉派の者がラプキ雪山で修行するとき、この洞窟で修行した。ミラレパ尊者は標高五千メートル余りの地点から、飛ぶようにして七千メートルの洞窟に到達し修行した。これが神足通である。
また、直貢噶舉の記録にもある。元朝のとき、黄教が直貢梯寺を攻めた際、祖師ジッテン・サムゴンはすべての出家者を大殿に集め、修法によって皆をこの山から対面の山の山頂へ飛ばした。現在の車で移動すれば約一時間ぐらいかかる距離である。同行した弟子は全員入定し、心に一切の思いを起こしてはならなかった。ただ一人、炊事をしていた僧侶だけは落下した。なぜなら、彼は突然、飯がまだ煮えていることを思い出したからである。これが神足通である。もし現代に神足通を修行しようとすれば危険である。空中でレーダーに捕捉されれば、ミサイルで撃たれる可能性があるため、現在は神足通はあまり使われない。(大衆笑)
経典曰く「断除諸行具足修習心神足定。断除諸行具足修習観神足定。彼欲。勤。心。観摂受諸法而能修習成出離故。又此四神足数数修習。即於現前獲神境通而得受用彼無量種神通変化。」
釈迦牟尼仏はここで、どのように修行すれば何を得られるかだけを説いており、修行の方法そのものは説いていない。この段に及ぶならば、決して顕教ではなく、密法を修してこそ成り立つものである。現在のチベットには、非常に年老いたラマの中に、法座からわずかに宙に浮かぶことができる者がいる可能性がある。これも神足通である。この法門を修するには、一日中禅定に入り、すべての事を放下して何もせず、ひたすら入定し続ける必要がある。食事も極めて簡素にし、肉体を軽くし、気によって身体を動かし飛び上がるのである。私もかつて金剛薩埵の閉関をしていたとき、ひたすら真言を持誦し、身体が少し浮き上がったことがあるが、心が動いた瞬間に落ちてしまった。釈迦牟尼仏はこの法門の修し方を説明してはいないが、こう行じれば必ずこれらを得られるとだけは示している。
「而得受用」とは、昔は交通が不便で、衆生を助けるために数か月を要することもあったため、多くの修行者が神足通を修したという意味である。密法ではさらに幻身が現われるように修し、上師の存在を感じさせることもできる。例えば昨日、ある信者が面会を求めて来て、私の仏寺に行った後、二度私の夢を見たと言った。私は「それで?」と言ったが、それ以上の言葉はなかった。せっかく来たのに、得難い機会にもかかわらず指示を伺わなかった。おそらく夢の中の私はより格好良かったのだろう。分身は若く見えるからである。だから彼は何も聞かなかったのだ。(大衆笑)
経典曰く「又此神変而常観矚一切有情。一一神変皆能調伏一切有情。」
彼はさまざまな神通変化を持つようになったら、それをもってすべての有情を観ることにする。「一一神変皆能調伏一切有情」とある。神通力を示さなければ、聞こうとしない衆生もいるかもしれない。たとえ夢で二度見たとしても、それでも聞かない者がいる。例えば、先日ある信者が寺に行った後、ある存在が目に見えるようになった。しかし、それが治ったところで、それ以来来なかった。末法時代における衆生の度化は非常に困難である。利益を受けても来ようとしない者が多い。
経典曰く「又此神変普能顕現。若身若力或復加持。」
もし一切の有情を調伏できるなら、この神変は常にあなたに現れる。例えば、弟子たちが危険に遭遇したとき、よく私を目にすることがある。この神変は私が作り出したものではなく、私の慈悲心によって現れるものである。私の願力は衆生を助けることであり、あなたたちは私の門下に帰依しているので、当然救われるのである。意味は、すでに帰依した者は、言うことを聞き、しっかり修行すれば自然に救われるが、言うことを聞かなければ全く救われないということである。ここにいる多くの弟子や家族も目にしたことがあると思うが、見たことがある人は手を挙げてごらん。(場内、多くの者が手を挙げる)。
経典曰く「又彼如是一一身相。能往調伏諸有情類。又彼如是一一身相。復能顕現或佛身相。或縁覚身相。或声聞身相。或帝釈天身相。或大梵王身相。或護世天身相。或転輪王身相。又彼所現一一身相而復顕現如是身相。能往調伏一切有情。及能𢤱悷諸傍生類。」
「𢤱悷」は凶狠で調伏が難しい。有情の中でこれら凶狠な者を調伏するには、必ず忿怒尊を修行しなければならない。息懷増誅の四種の法は我々も成就しており、これら四つの本尊を修行して成就すれば、常にこのような身・相を現して有情を調伏することができる。中にはあなたたちには見えない衆生もいる。我々がどのような身・相を現すかによって、初めて彼らは従うのである。
経典曰く「又彼所現如是身相。為諸有情演説正法。又復能現如是勢力。普為摧伏一切有情極重瞋慢。謂大壯士力。乃至四分那羅延力。乃至半那羅延力。乃至那羅延力。乃至如是諸力。以手二指舉須弥山高六十百千庾繕那。又擲彼山遠八万四千庾繕那。譬如挙一菴摩羅果從此擲置他方世界。而神境通菩薩摩訶薩力都無動作。又能以三千大千世界。如是広大下從水際至色究竟天。其間有情置於掌中住經劫数。一切道行普能顕現。」
この段は、もし法身菩薩まで修行すれば、一つの山をも持ち上げることができるということを示している。「須彌山」は一般の山ではなく、菩薩は普通の山を動かすことができるという意味である。例えば、菩薩が「菴摩羅果」を他方世界に投げることがあるが、実際に菩薩自身が動かしているのではなく、菩薩の慈悲心、菩提心、そして願力がそれを動かしているのである。菩薩自身の体は動かず、禅定の中で、一切の有情を手に載せるかのようにして、長い時間をかけて、一切の道行が彼らに現れるようになる。
経典曰く「而菩薩摩訶薩為彼慢過慢極重忿怒諸有情類。成就力能可伏慢過慢忿怒等而為説法。」
菩薩の誅法の成就力は、一切の驕り高ぶる・忿怒に満ちた有情衆生を降伏させ、彼らに仏法を説くことができる。
経典曰く「又依彼神足得加持智。於加持智。即得如是諸加持法。」
菩薩摩訶薩は神足通を具え、どの世界にも行くことができ、智慧を加持し、一切の加持法を得ることができる。
経典曰く「或以加持大海為牛跡量。復以牛跡為大海量。又或時加持火聚為彼水聚。復以加持水聚而為火聚。」
ガムポパ大師は水火定を修した。仏経には水火定を修すれば、身体の上が水、下が火となり、この人を見ることができなくなると説かれている。この段の意味は、彼が水火定を修したとき、水と火を常に衆生を助ける形に変え、衆生が一切の法を得られるようにできるということである。
水と火を用いるのは、すべての有情が地・風・水・火・空の五つの元素の結合で成り立っているためである。水と火が成立すると、地と風も生じ始める。仏経には、地球が滅びる前に大水と大火が出現すると説かれている。多くの外道は大洪水などが起こると言うが、釈迦牟尼仏は次のように予言した。地球が滅びるとき、まず大水災が起こり、すべての陸地を水没させる。その後、大火災が起こり、地球全体を灰にする。この大火災は地球自体が燃える火ではなく、太陽の滅びなどによってもたらされる火であり、突然地球を焼き尽くすものである。
現在、地球では突然の大水災や大火災が起こることがある。これは兆候であり、壊の始まりである。一つの惑星は、成(惑星の成立)、住(有情が住む)、壊(破壊の始まり)、空(消滅)の四つの段階を経る。現在、地球は住と壊の段階にあり、多くの大水や大火が発生しており、すべて壊の段階に向かっている。もしこの生で輪廻の問題を解決できず、仏法を軽んじ、上師の説く仏法を聞こうとせず、ただ誤魔化して生きるなら、またちょうど壊の中末期に生まれた場合、非常に惨めな状況になる。地球が大きいから自分には関係ないと思ってはいけない。誰が堰止湖一つで十数人が亡くなることを予想できただろうか。
現在、私たち寶吉祥は絶えず法会を行い、皆が平安でいられるようにしている。一千人以上の弟子の家で今のところ水害は起こっていないが、将来はわからない。男性の弟子たちは、なぜそんなに多くの金ばかりため込んでいるのか。もし私が少し手を緩めれば、家が水害に遭い、すべてを失うことになる。1万元を手にしても貯め込むだけで、妻や彼女への贈り物に使うことはないのか。本来、仏経は時に宝石を妻や彼女に買い、妻を喜ばせるよう教えている。しかし、あなたたちはそれを実行していない。仏経の教えがあるのに、なぜ実行しないのか。
なぜ「火聚」のか。例えば拙火定を修行する場合、火を聚める必要がある。2007年、私はラプキ雪山で閉関したとき、とても寒く、暖房もなく、夜は薄い寝袋だけで寝なければならなかった。多くの衣服を着て寝ることもできず、眠れなかった。そのため、毎日拙火定を修行して火を聚め、身体を温めなければ、寒さの苦しさで修行が続けられなかったのである。なぜ水を聚めるのか。人体のすべての活動は水なしでは成り立たない。水には血液や内分泌も含まれる。
水と火は非常に重要であり、両者を聚めると気が生じ、地が安定し変わらなくなる。病気になるのは水と火が弱くなるからである。たとえば今の気温が十数度であなたたちが寒く感じても、私には暑く感じるのは、あなたたちの火が聚まらず、散り始めているからである。人が年を取ると肌が乾燥するのも、水が聚まらないためであり、いくらスキンケア用品を塗っても散ってしまう。
リンポチェがあなたたちのために長寿佛を修行するのは、水火を聚めるためであり、それによって修行が可能になる。しかし、あなたたちは言うことを聞かず、リンポチェが多くのことをしても無駄になっている。特に男性の弟子たちは言うことを聞かず、物事をいい加減に行っている。私は記憶力が良すぎるため、彼らが言ったことはすべて覚えている。
経典曰く「以要言之。於上中下法一切互相加持。亦復獲得如是成就。世間所有。」
「上中下法」とは何であろうか。実際、法に大小の区別はなく、あなたの発心に関わる。もし発心が無上菩提を証するためであれば、すべての法は上となる。もし発心が自己や眷属が三悪道の輪廻に落ちないようにするためであれば、中と呼ぶ。もし発心がこの生を快適に過ごすことのためであれば、下法と呼ぶ。下法であっても輪廻の機会は残る。上法・中法・下法を修行するにせよ、菩薩摩訶薩は「互相加持」し、あなたが下から中、中から上へ変わることを願う。「亦復獲得如是成就。世間所有。」修行がある程度進むと福報が起こり、世間のすべての事を求めなくても得られる。福報が具備されることで、一切が円満となる。
経典曰く「天人魔梵。沙門婆羅門諸有來者。皆無有能振動変易及能出沒。」
修行が成就に至ると、「天人魔梵、沙門婆羅門」が訪ねてきても、完全に影響を及ぼすことも変えることもできず、しかもあなたの前に姿を現すことすらできない。
経典曰く「又復世間。此加持法無有共者。唯佛世尊能有是故。」
この加持の方法には共通するものはなく、外道はこの加持の方法を知らない。唯一、仏世尊だけがこの方法を持つ。
経典曰く「又以工巧加持縁力。為彼慢過慢極重忿怒諸有情類。広説妙法極令歓喜。又彼修神足者。於魔境界天魔眷属及諸煩惱而無墮滅。超越自在。於佛境界而能入解。」
「工巧」とは、手先が巧みという意味ではなく、衆生への加持の方法があたかも職人が巧みにさまざまな技法で物を作るように、非常に巧妙であることを指す。「加持緣力」は原因ではなく、加持の後に生じる因縁の力である。傲慢や怒りの心が強いすべての有情に対して、「廣說妙法極令歡喜」とあり、この法を聞くことで、「魔境界天魔眷属及諸煩惱」に堕ちることせず、滅びる。「超越自在」とは、輪廻の苦海を超え、生死を自在にすることを意味する。「入解」とは、すべての仏法の真の意味を解き、輪廻の苦海の苦から解き放つことである。
経典曰く「於諸有情。乃至少分無有損害。」
一切の善根を損なうような力は、微塵も存在しない。
経典曰く「一切善根相応随順。此説是名菩薩摩訶薩於神境通智業圓満。」
これこそ、菩薩摩訶薩が神足通と智慧においてすべて円満である所以である。
祖師ジッテン・サムゴンの著作『一意』
さきほど仏経で多くのことを説いたので、皆さんもう頭がくらくらしてきたことだろう。私の手にあるこの法本は、祖師ジッテン・サムゴンの著作『一意』である。途中のいくつかの段落について、少し皆さんに解説していく。
ジッテン・サムゴンはこう説く:たとえ「定中不生功德,類智之中生功德」と主張する者があっても、つまり、入定した後では功徳は現れず、絶えず思惟して智慧を用いることでのみ功徳が生じると考える立場である。しかし本宗直貢噶舉では、「定能生一切功徳」(定において一切の功徳が生じる)と主張する。
この一文を見る前から、私はすでに知っており、また何人かにこう話したこともある:定まで修めれば、一切の功徳は自然に生じる。
法本にこう記されている:ある大禅師たちは、入定を虚空のようなものであり、空性そのものであると見なし、功徳も過失も生じないと主張し、一切の功徳は類智によって生じるとする。しかし、直貢噶舉は「定能生一切功徳」(定において一切の功徳が生じる)と主張する。一般的に、有情衆生が輪廻に堕ちる根本は無明と我執であるが、具量の上師の加持によりこれを悟り断じることができ、その境地に住することこそ入定と呼ばれる。
ここでしっかり聞いてほしいのは、上師の働きが「加持所生了悟斷彼無明」にあるという点である。無明とは、因果を信じず受け入れない心、そして煩悩だけがあり智慧がない状態を指す。上師の加持力は、この無明を断つことができる。断つ時間の長短は、加持を受ける者自身の修行による。たとえば先日、私が仏寺で上師供養法を修した際、私は自らの加持力によって皆の無明を断じた。その瞬間、皆は身体が熱く感じ、次第に雑念が消えたのを体験した。これこそ「入定」と呼ばれる状態である。
「離開此定之時,生起煩惱與分別念是為類智」の意味はこうである:入定中は、念頭が消えたように感じる。しかし、この定を離れると、念が再び動き始め、煩悩や分別の念が生じる。このとき生じるのが「類智」と呼ばれるのである。
多くの人は、定が長く続けば続くほど良いと思いがちだが、そういう意味ではない。定はあなたの修行、念頭、煩悩に応じて生じるものであり、定が生じると煩悩は止まる。まるで川と海の関係のようで、海が川を生み、川が海を生む。つまり、川と海は分かれていない。我々が淡水と海水を分けるが、実際には海水は川に流れ込むため、区別はない。区別があるのは、我々がそう分けているだけである。
「定随喜」とは、煩悩があるからこそ定を用いて煩悩を鎮めることである。煩悩がなければ、その定は生じない。定が生じると、煩悩は一時的に動かなくなる。定と煩悩は二分されるものではなく、明確に分けられるものでもない。煩悩が欲しくないと言う者もいるが、煩悩を完全に持たないことなら無上瑜伽部しか実現できない。一般的な禅定では実現できない。無上瑜伽部では、一瞬のうちに上師の加持を通して本尊の光や自性の光を観ることができ、すべての煩悩はその瞬間に「パッ」と消える。したがって、定と類智は互いに生じ合い、煩悩とも相互に作用しながら動くのである。
多くの人は入定の際に、あらゆる念頭や思考を消し去ろうとするが、それは不可能である。無上瑜伽部を除けば、上師の加持によってのみ、煩悩を一瞬で完全に止めることができる。もし自力に頼る場合は、「随住定」を理解する必要がある。入定とは、風の吹かない大海のような状態である。入定している間、まるで海上に風がないかのようになる。「諸行猶如風」とあるように、あなたのすべての行為や内的感覚、たとえば心臓の鼓動、空腹での腹鳴、頭皮の痺れなど、一切の動きは海面に吹く風のようなものである。「以此為緣,大海產生海浪,其乃定在類智中」というのは、これらの現象が生じたとしても、それは敵ではなく、無理に抑えたり消したりする必要はない、という意味である。なぜなら、これらは絶えず現れ去っていくものであり、この人間の身を持つ限り、煩悩は必ず存在するからである。
私たちはどのように煩悩を菩提に転換するか?それは自分自身が絶えず修行することによってである。悪い業の力を減らし、善い業が現れることで、定の力が出てくる。だから上師の教えを聞かず、自分勝手に判断し、自己流の修行法を作り出す者には、絶対に定は生じない。定がなければ、永遠に煩悩の大海の中に漂い続けるだけである。しかし定があれば、煩悩を一時的に停めることができる。「停める」と「停める」の間に、清らかな智慧の光が現れる可能性がある。その智慧の光が現れると、自分の煩悩をすべて止めることができ、上師の智慧や諸仏菩薩の智慧と結びつく機会が生まれる。そしてその結果、仏法への理解や体験が徐々に蓄積され、悟りの道が開かれていく。
したがって、定とは「完全に動かない」「座っていて全く感覚がない」という状態ではない。私自身、過去の定の修行の経験では、定が起きても失っても問題はなく、また定に入ればよい。まるで海の波のように、来ては止まり、また来ては止まる。私たちにはこの肉体があるため、呼吸を止めることも、血液の流れを止めることも、空腹を感じないようにすることもできず、完全に無感覚になることは不可能である。例えば私がかつて禅修をして耳が聞こえなくなったり感覚がなくなったりしたことがあるが、それは正しい定ではない。心の力が沈み込み、五感を完全に遮断した状態で、耳は聞こえず、皮膚にも感覚がなく、ただひたすらにそこに座るだけの状態は、「枯木禅」と呼ばれ、それは非常に危険で、うっかりすると事故につながってしまう。
私たちは、定とは短い時間であれ長い時間であれ、煩悩が動かない状態であることを理解する必要がある。煩悩を動かさないためには、単に定力だけでは足りず、少なくとも自分が仏法においてどれだけ積み重ねてきたか、福報がどれだけ蓄積したかを確認する必要がある。なぜ供養を行うのか?それは財産や健康、楽な生活のためではなく、供養によって福報を積むことで、定力が徐々に現れるからである。不思議なことに、買って得られるものではないのに、そうなるのである。なぜ煩悩が多いのか?福報が浅いからである。なぜ上師の教えを聞かないのか?福報が浅いからである。なぜ上師の言葉が入ってこないのか?それもまた福報が浅いからである。これで少し理解できただろうか。私自身、かつて修行していた時もこの方法であった。
先ほど述べた類智、すなわち類似した智慧は、定の中にあるものといえる。風が静まれば、海の波は消える。では、波は海の中に存在していないのかといえば、存在している。したがって、一切の行為や分別の念が止息した後、類智(類似智慧)は定の中に融け込んで存在する。我々の本智(本来の智慧)は定の中にあり、本来は動かない。しかし、生々世々の輪廻の中で多くの煩悩を生じさせ、その煩悩を主人とし、定を従者のように扱い、見失ってきたのである。よく「とても退屈だ」と言うが、それはなぜか。煩悩には慣れている一方で、定には慣れておらず、思念がなく、何もすることがない状態に慣れていないからだ。何もするなと勧めているわけではない。ただ、暇になると退屈に耐えられず、電話をかけて誰かと話そうとする。これは煩悩心が重い人の傾向といえる。定と類智を二分的に捉えるのではなく、どちらも自分自身が作り出しているもの、すべて自分の問題なのだと理解できれば、次第に定に入れるようになる。
煩悩があるのを見たとき、その煩悩を洪水や猛獣のように追い払おうとすると、追い払えば追い払うほど、かえって近づいてくる。反対に、煩悩を見てそれについて行けば行くほど、どんどん遠ざかり、定は現れなくなる。だから、定はもともと自分に備わっているものだということをはっきり知る必要がある。私たちの自然智、本智は本来定の中にある。しかし煩悩があるため、その煩悩が常に波打ち、私たちは煩悩こそが自分の心だと感じてしまう。定とは何かというと、この煩悩の波動の力を少しずつ弱めていくことを指す。ちょうど海の波がだんだん小さくなり、海が静まっていくようなものだ。波が静まったとき、定力が現れる。それが根本智であり、後から修して得られた智慧と結びついて、入定が生じる。では、定とは何か。定はリラックスすることでもなく、頭を空っぽにすることでもなく、何も考えないようにすることでもない。とても自然な形で、すべての煩悩がふっと消えてしまう状態だ。たとえば、あの日、私が仏寺で皆さんに加持をしたとき、突然何の念もなくなったと感じただろう。(大衆回答:はい。)
だから「入定能生一切功徳」という言葉の意味は、禅定を修して定が現れるとき、自然智はもともと定の中にあり、定が現れたそのこと自体が一つの功徳になる、ということである。功徳は修行のためのもので、修行に功徳があってこそ、さらに修行を続けられる。功徳の中には、あらゆる福報とあらゆる智慧が含まれており、分けて考える必要はない。しかし、私たちが普段行っているのは福報ばかりで、功徳にはなっていない。だから皆は毎回、お経や法本を唱え終えたら、急いで片づけたり、急いで立ち去ったりしないほうがよい。あの日の法会で、皆が急いで法本を片づけているのを私が叱ったのは、急ぐことで煩悩が起きていたからだ。唱え終えた後は、上師が動いているかどうかを見て、上師がまだ動いていなければ、それに合わせて動かず、しばらく定まっているとよい。ところが皆はそうしない。いったい何をそんなに急いでいるのか、どこへ急いで行こうとしているのか。急いで法本を片づけるのは、動きが遅いと人に笑われるのが怖いからだ。しかし実際、皆の動きは本当に遅い。水と火が集まらないからである。どれほど急いでも、七十八歳のこの老人である私より速くなることはない。あと二か月で七十九歳になる。
ジッテン・サムゴンはこう言っている。私もよく皆に話しているが、慈悲心と菩提心には違いがある。その時私はまだ『一意』という本を見ていなかったが、今見て、なるほど、私は早くから学んでいたことがわかる。
「主要之因是生起上師為仏想」。皆はできているだろうか。できていない。できていないのに発菩提心文を唱えるのは、自分を欺いているようなものに過ぎない。なぜなら、皆は決して「生起上師為佛想」を生じさせていないからである。上師を普通の人として見ているなら、得られるのも普通の人の加持にすぎない。これは経文に説かれていることであり、私が勝手に言っているわけではない。
今日この一段を読むのは、はっきり理解してもらうためである。菩提心を修する必要がある。願菩提心は、まだ勝義菩提心ではない。そして、「廣大累積福徳資量」。広大とは、わずかな量のことではなく、たとえば一万元を手に入れたらすぐ使ってしまうようなことではない。広大に資糧を積み重ねていなければ、そもそも菩提心を成就することはできないのである。福徳資糧とは何か。供養、布施、禅定、戒を守ること、そして智慧を修することである。「行殊勝皈依」とは、帰依戒を決して破らないことである。帰依のとき、上師が語った言葉を一字一句はっきり覚えておくことが大切である。多くの人は帰依したあとすぐに忘れてしまう。特に重要なのは、上師に対して怒ってはならないという点である。もし上師に怒れば、すべての加持は消えてしまうのである。
第三に、「以四無量心修心」。我々は毎日これを唱えているが、これで本当に自分の心を修めているだろうか。答えは否である。第四は、「主要之因為生起上師為仏想」。第四の主要な因から、願菩提心を持つことができる。「生起上師為仏想」(上師を仏と思う心を生じさせれば)、願菩提心は自然に徐々に起こる。そして、願菩提心が起こらなければ、勝義菩提心を証得することはできない。私はかつて、菩提心を修めなければ済度できないと話したことがある。なぜか。前にも述べた通り、一匹の犬や一匹の猫でさえ慈悲心を持っているからである。法王はかつてこういう話をした。ある家が火事になったとき、母犬はすでに外にいたが、子犬はまだ中にいた。母犬は中に入り、子犬を一匹ずつ咥えて救い出した。最後に母犬自身は家の中で焼死した。これが慈悲心でなくて何であろうか。私も短いテレビニュースを見たことがある。魚が魚屋から落ちて地面に転がったところ、通りかかった犬がその魚を食べずに、ずっと近くの水をかけ続けていた。これも慈悲ではないか。動物でさえ慈悲を持っているのである。だから法師は非常に慈悲深いはずである。もし慈悲がなければ、法師である意味がない。しかし、菩提心についてはまた別に論じる。
菩提心なしで済度することはできない。菩提心は衆生を仏果へ導くためのものである。願菩提心や勝義菩提心なしには、衆生を輪廻の苦海から救い、天界に生じさせ、阿弥陀仏のもとに生まれるよう導くことは不可能である。
なぜ私に済度を求めるとき、私はとても厳しいのか。それは、私は亡者のためにただ適当に経を唱えるだけでもなければ、亡者を慰めるだけでもないからである。世間で耳にするような、仏経を誦して亡霊を慰め、恐れの心を起こさせないようにする、そのようなことを私はしているのではない。私は、亡者が将来仏果を成就することを助けているのである。仏果を成就させることを助けるために、私に願菩提心がなく、広大な福徳の資糧がなければ、どうしてその者を転変させることができようか。諸君、紳士淑女、そして私のいわゆる帰依弟子たちよ。誰かのために済度を求めるのであれば、その前に必ず準備を整えなければならない。それは私にどれだけ供養をするかということではなく、その者のために善なる因縁を作ってあげるということである。そうでなければ、力が及ばないのである。
なぜなら、我々はすでに済度というものを非常に簡単なことだと信じてしまっているからである。我々は、名前を書いて金封を出せば済度できると信じ、また「阿弥陀仏」と一句唱えれば済度できると信じ、さらには、そこで大礼拝を一度行えば済度できるとも信じている。しかし、ジッテン・サムゴンは我々の祖師である。その祖師が誤ったことを語るであろうか。あなた方は、私の言うことを信じなくてもよい。それは、あなた方が上師を仏として思っていないからである。そのため、法を求めに来ても散漫で、いい加減になり、願菩提心をもって法を求めていない。ゆえに、法を得ることはできないのである。
昨日、ある女性が上師相応法を求めに来た。私は彼女に簡単に一言だけ尋ねた。「慈悲とは何か」と。彼女は「無縁大慈」と答えた。私はそのように教えただろうか。私は慈悲について明確に皆に説いてきたし、慈悲の法話テープも授けている。では、なぜ彼女は言えなかったのか。私はこう説明することができる。とても緊張していたからである。これほど緊張していて、どうして上師と相応することができようか。私は緊張していないのに、彼女は緊張している。その状態でどうして相応できるのか。これこそが、上師を仏として思っていないということである。彼女はただ一言、「上師がいなければ仏法はない」と言った。この言葉は私を誹謗するものである。仏法は私のものではない。釈迦牟尼仏が説き伝えたものであり、ジッテン・サムゴンが私に教え、法王が私に教えたものである。おそらく彼女の本意は、もしリンポチェが仏法を説かなければ、我々には仏法が理解できない、という意味であったのだろう。その解釈であれば、私は受け入れることができる。
皆さん、今日は家に帰ったら、私の話を少し考えてほしい。ただ帰ってすぐに、一万元の使い道ばかり考えるのはやめなさい。特に、家に四、五人いる人は、四、五万元をうまく使えばよい。それで十分である。しかし、仏法が最も大切である。家に帰ったら、今日リンポチェがどのような開示をしたかを考えてほしい。もし思い出せなくても構わない。公式サイトを見ればよい。無駄に時間を使うために来ているのではない。授業を受けに来ているのでもない。試験に落ちたときや、リンポチェが法を伝えなくなったときに考えようなどと思うな。青春も時間も無駄にしてはいけない。あっという間に一年が過ぎてしまう。私はずっと皆にこのことを言ってきたが、誰も聞き入れず、考えず、自分に起こることだと信じようともしなかった。さて、今日はここまでとする。(会衆一同:ありがとうございます、リンポチェ!)礼を言う必要はない。体力の無駄である。
リンポチェは大衆を導き、アキ護法および回向儀軌の修法を行った後、続けて次のように開示した:
ここで皆に少し話しておきたいのは、「入定能生一切功德(入定によってあらゆる功徳が生まれる)」という段落である。「如是從定中見道之後」の所謂「定中見道」。ここでいう「道」とは道行そのものではない。修行の道筋を自ら見出したことを指す。いわゆる「見道」とは、目で見たという意味ではなく、心によって自分が正しい修行の道に入ったことを深く体得することである。もし定の中で道を見ていなければ、自分が得たと思っている証はすべて偽りであり、場合によってはただの人伝えの知識に過ぎないのである。
定の中にいるとき、十二種の百功徳を得ることができる。これはかつてチベットの人々が言っていた意味である。つまり、百の功徳が十二で掛け算され、一千二百種の功徳が得られるということである。さらに二地を証得すると、十二種の千功徳を得ることになる。つまり千の功徳が十二種類で掛け算され、一万二千種の功徳となる。定はより強大になる。それは、入定できる時間の長さではなく、定の力がいつでも現れるということである。昼間でまだ眠っていないときでさえ定は現れる。なぜなら、他のことを考えないよう自分を訓練しているからであり、眠っているときでさえ定は現れるのである。そのため、ナーロー六法には夢瑜伽があり、我々は眠って夢を見ているときにこの定を修するのである。
この定がますます強大になると、定の力によって、すぐに煩悩のない完全な境地に入ることができる。その結果、より強大な功徳が生まれ、どれだけの障碍を断つことができるかに比例して、類智も減少する。では、ここでいう障碍とは何か。それは修行の障碍である。例えば、リンポチェが修法を行うとき、常に多くの障碍が現れる。もし定がなければ、その障碍を断つことはできず、修法において多くの困難が生じる。どれだけ障碍を断つことができるかに応じて、類智は減る。類智とは煩悩のことであり、煩悩が減るほど、定の力は大きくなる。定が大きくなるほど、功徳もまた大きくなる。したがって、入定は必ずすべての功徳を生むのである。
今の皆には、入定する資格も入定しない資格もない。ここで重要なのは、定とは何かを体験してもらうことである。たとえ0.001秒でも念が止まったと感じれば、それが定である。皆が真言を唱えているとき、念があまり起きないと感じるなら、それも定である。定とは、非常に虚ろなものでもなく、必ずしもあぐらを組んで座る必要もない。ただ念が起こらず、心が動かない状態こそが定である。どうやってわかるか。日常的に真言を唱えている者なら必ずわかる。真言を唱えていない者はわからない。また、上師の教えに従わず真言を唱えない者は、永遠に定を得ることはできない。
なぜ上師の教えを聞かずして定を得られないのか。それは、あなた方が上師をただの普通の人、単なる教師としてしか見ておらず、そのまま真似して唱えているに過ぎないからである。上師を仏菩薩として、真に具徳のある上師として観想していなければ、その教えに従わず、自分の方法で行うことで、定は生じないのである。なぜ皆が六字大明呪を唱えても入定できないのか。私が唱えると、皆はすぐに定に入る。皆はそれを体験しているだろう。(会衆:はい。)差があるのはここである。その差はほんのわずかである。どの差かは、教えない。
私はこの修行に多くの時間と精力を費やし、命をかけて取り組んできた。今日皆に仏法を説くのは、帰宅したら自分の問題がどこにあるのかをしっかり見極めてほしいからである。「大丈夫」と言ってはいけない。皆は常に「懺悔」を口にしているが、単に間違いを認めているだけで、懺悔しているわけではない。私は何度も何度も、千万回も言ってきた。一日でも成仏するまで、懺悔し続けなければならない。なぜか。それはまだ無明が残っているからである。我々は無上瑜伽部まで修行したとしても、毎回修法の前に必ず金剛薩埵を修する。金剛薩埵に業障と無明を清めてもらって初めて、その法に入ることができるのである。
それに比べ、皆は一日中あちこちに走り回り、何を急いでいるのかもわからない。転生のために急いでいるのか?時間をうまく使って真言を唱えたり修法したりしていない。忙しいのなら、お金を稼いで多くの供養をすべきではないか。しかし、何もしていない。いったい何をして遊んでいるのか理解できない。もし皆がまだ決心せず、素直に修行しなければ、この一生を無駄にしてしまう。もうリンポチェが言った「帰依弟子であれば三悪道に堕ちることはない」という言葉に期待してはいけない。それで満足できるのか。この一生、六波羅蜜を修せず、供養も十分にせず、ただ生きていても、たとえ三悪道に堕ちなくても、人としての生活は決して充実しない。もう一度言う。もし修行せず、ただ修行しているふりをして、たくさん唱えたから修行したと思っても、それは違う。心が改まっていなければ、何の意味もない。
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2025 年 12 月 03 日 更新