尊貴的 仁欽多吉仁波切法會開示 – 2025年9月14日
2025年9月14日、開山住持である尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが、初めて寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺にて、殊勝なる「直貢噶舉派 阿弥陀仏無遮大済度法会」を主法されました。これは、衆生を輪廻の苦しみから解き放ち救済するための儀式であり、無限の有情衆生、そして台湾の大地と世界のために祈りを捧げるものでした。
「阿弥陀仏大済度法」は、直貢噶舉の岩伝密法に属し、極めて清浄かつ殊勝な法要です。この法は、尊勝なる直貢チェツァン法王が、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して特別に四密灌頂を単独で授与されたもので、極めて希少で深遠な法です。この「阿弥陀仏大済度法」を主法するには、以下のような厳格な条件が求められます:リンポチェの果位を有していること・顕教に対する深い理解と修学があること・「不共四加行」を完成していること・閉関にて阿弥陀仏の真言を100万遍以上円満に修し本尊と相応していること・大手印禅定離戯瑜伽を成就していること・亡者を浄土へと導く「ポワ法」の修行を成就していることと、このような修行と成就を備えた者のみが、「阿弥陀仏大済度法」の主法者として法会を導くことが許されます。また、「無遮」とは、法会において功徳主を設けず、金銭や地位によって功徳を量らないという意味です。縁があって法会に参加するすべての衆生が、平等に諸仏菩薩の加持と救済を受けることができるという意味です。
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、空性の慈悲と智慧を具え、天災・事故・戦争・疫病などにより苦しみ亡くなった衆生に深く哀れみを抱かれ、大悲の誓願を発されました。その誓願のもと、2005年より台湾において、毎年自ら主法を司り、2万人規模の「阿弥陀仏無遮大済度法会」を16年にわたり継続して厳修されました。2020年、新型コロナウイルス感染症の感染が深刻な状況下においても、法会は中止されることなく、変わらず開催されました。さらに、日本の信徒の切なる祈願に応え、2012年、2016年、2024年には日本を訪れ、東北地方の大震災と津波で命を落とした方々、そして約100年前に発生した北但馬地震の犠牲者、その他すべての有縁の亡者のために、大済度法会を厳修されました。
このように壮大な済度法会を16回以上も継続して開催できたのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法における「慈・悲・喜・捨」の精神を自ら体現されているからにほかなりません。諸仏菩薩や龍天護法までもが加護し、法会が順調に行われてきたのです。リンポチェは、約30年にわたる弘法の道において、常に苦しむ衆生を心にかけてこられました。衆生が最も困難で、最も痛み苦しむ時にこそ、リンポチェは私心なく我を捨て、極めて勇猛な大慈悲の心をもって、仏法を通して衆生を救済し続けておられます。
法会の中で、リンポチェは参会者に対し、次のように熱心に勧められました。「この生において密教の法会に参加できるという因縁と福徳を、心から大切にしてください。決意を固めて、徳ある上師に帰依し、菜食を実践し不殺生を守り、仏法を学び修行し、五戒・十善を修めましょう。そして、浄土へ往生することを願い、そのための福徳と因縁をしっかりと積んでいくことが大切です。」
修法の過程において、大地が震動し、会場には妙なる香りが立ち込めました。多くの人々は、全身に暖かい流れが巡るのを感じました。この現象は、リンポチェが本尊の修行が成し遂げ、諸仏菩薩が喜びとともに降臨し、加持を与えている証であることを示しています。修法が円満に終了した後、リンポチェと壇城は、まばゆい金光を放ちました。虚空に存在する一切の有情衆生は、上師の大慈悲によって、苦しみから解放され、安らぎと喜びを得ることができたのです。
2025年9月14日、寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺において初めて「直貢噶舉派阿弥陀仏無遮大済度法会」が開催され、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが自ら主法なさいました。法会前日の9月13日には、リンポチェがすでに一日中、寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺で阿弥陀仏の修法を行われました。法会当日の午前9時22分、幡や幢、出家僧、八供女、宝傘、楽器、薫香に先導され、リンポチェは八吉祥の白いカーペットに色とりどりの花が撒かれた道を通って寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺の大殿へと入場されました。荘厳な音楽が流れる中、参列者は合掌し、厳かに立ち並んでリンポチェを恭しく法座へとお迎えしました。リンポチェは壇城に上がり、諸仏菩薩に頂礼を捧げ、灯明をともして仏に供養を捧げた後、法王の法座に額をつけて礼拝され、それから法座に登って修法を始められました。
リンポチェが法座にお着きになった後、出家僧が参列者全員で「帰依発心文」と「四無量心」の念誦を行うよう導きました。続いて、曼荼羅献上の儀軌が執り行われました。リンポチェは岡波巴(ガムポパ)の法帽をお召しになり、出家弟子および八供女が参列者を代表して曼荼羅献上を行われました。
リンポチェがちょうど法話を始めようとされた時、参列者たちは一斉に法本を片付け始め、大きなガサガサという音が会場に響きました。リンポチェは静かにその場に安住され、大衆をじっと見つめ、静寂が戻るのを待ってから、法話を続けられました。「今日は阿弥陀仏の儀軌を修法します。すべての仏菩薩には、有情衆生を慈悲によって済度する功徳があります。(済度の中国語が超度であり)“超度”の“超”とは、衆生を輪廻の苦海から引き上げること、“度”とは、涅槃という彼岸へと渡すことを意味します。しかし、すべての衆生が仏菩薩の済度を受けられるわけではありません。それは、その者自身の因縁や福報にかかっています。今日は20人が申し込みをしておきながら、来ませんでした。これは因縁がなかったということです。多くの人は、法会に“来たいから来る、来たくないから来ない”と考えているようですが、もちろんそれは各自の意思次第です。けれども、儀軌に則って如法に行われる法会を開催するには、一日でできるようなものではありません。特に密教の法会は、より多くの人手、資金、物資が必要であり、そのような条件が整って初めて成り立つのです。」
この法本は、チベット仏教において「岩伝法」と呼ばれるものであり、本尊が直接伝授された法本であることを意味します。この法本を専修することで、必ず衆生が輪廻の苦海から離れる助けとなるのです。しかし、この法を修するには、多くの条件、福徳、そして因縁が備わっていなければなりません。まだ寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺を建立する前、私は毎年2万人以上が参加する阿弥陀仏大済度法会を行っていました。ですが、寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺の建設を始めてからは、その法会の開催を中止しました。というのも、この法会を毎年開催するには莫大な財力が必要であり、寺院の建設資金を確保する必要があったため、中止せざるを得なかったのです。
昨年、寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺の建設が完了し、今年からこの法を再び修することにしました。寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺の大殿は最大で3,000人を収容できますが、法会に参加する信徒の条件がよりふさわしくなるようにとの配慮から、今回は2,500人までの参加申込に制限しました。しかし、申し込みをしておきながら来なかった人たちは、結局この法会に参加する因縁や福報がなかったということになります。中には、「済度法会に参加する=お金を払って名前を登録すれば、それで済度される」と思っている人もいますが、それは違います。私たちの法会では、済度の名簿を貼り出したり、「いくら支払えば済度してあげる」といったことは一切していません。仏典の中にも「済度にはお金が必要」とは書かれていません。ですから、仏がそのようにお示しになっていないことを、私は勝手にやることはできません。このことについて、他人にわざわざ話す必要はありません。知っている人だけが知っていれば、それで十分です。
法会に参加する衆生の「心」は非常に重要です。先ほど、皆さんが一斉に法本を片付けたとき、同じ動作を一緒にしたため、大きな音が立ちました。ですから、私はそこで法話を中断しました。もし一人だけが法本を片付けていたなら、その音はほとんど聞こえない程度だったでしょう。しかし、2,500人が同時に行えば、その音は非常に大きくなります。これと同じように、もし今日ここにいる2,500人全員が、同じ慈悲の心を持ち、修法者を通じて阿弥陀仏と相応し、この法会を通じて縁のある者・ない者すべての有情衆生を助けたいと願うなら、その力は計り知れません。法会の加持力も、その成就も、間違いなく大きなものとなるでしょう。同じ心で共に一つのことに取り組めば、その力は本当に不思議なほど大きくなります。私はただの媒介者・仲介者にすぎません。仏菩薩の力を私のもとに通して、それを皆さんに加持するだけです。しかし、何よりも大切なのは、法を求める人、法会に参加する皆さん自身が、その「心」を持っているかどうかなのです。
もしその「心」がなければ、ただ私が何をしているのか見物している以外、他は見えません。「こちらは他の場所と違う」と言われることがありますが、それは当然のことです。もし他と同じであるならば、私が今日ここでわざわざ法会を行う必要などないのです。間違いなく、ここは他とは違います。中にはこう言う人もいるでしょう:「他のところはこうじゃないのに、なぜここはこうするのか?」と。でも、他は他、私たちは私たちです。私はこの法を、最も根本から学んできました。途中から始めたわけではありません。すべては法本に基づいており、千年以上にわたって伝承されてきた儀軌に則り、順を追って一つ一つ丁寧に行っています。特に、これは密法であり、単にお経を読んだり真言を唱えたりするだけのものではありません。密法というのは、「金剛部」「金剛乗」の修行を成就した上師だけが修することのできる法なのです。そして今日、私は皆さんのために無償でこの法を修しています。だからこそ、皆さんにはまず傲慢な心や比較する心を脇に置いてほしいのです。たとえ「なんだか騙された気がする」と感じたとしても、失うのはたった数時間の時間だけです。ですから、他人と比べたりあれこれ競ったりしないでください。それぞれに法門があり、それぞれに縁(えにし)があります。
もし、今日この法会に参加している方が、この法、この上師、この伝承とご縁がなかったなら、そもそもここには来られなかったはずです。この場所は簡単に来られる場所ではありません。バスや地下鉄が直接通っておらず、乗り換えが必要です。ですから、まず「決意」と「因縁」がなければ、ここにたどり着くことはできません。では、なぜ来なかった人たちがいるのでしょうか?それは、決意が足りなかったか、ご縁がなかったことから、急に病気になったり、急用ができたりして来られなかったなどです。この法会は、年に一度しか開催されません。私の道場では、毎月一度、済度法会を行っていますが、それは済度を私に直接願い出た人だけを対象としています。願い出ていない人には、行いません。なぜなら、私は済度でお金を稼いでいるわけではないからです。
今は旧暦の7月で、多くの地域ではこの月はとても特別な時期とされています。なぜなら、済度の行事が多く行われるからです。しかし、仏典には「鬼門が開く」ということは書かれていません。私はよく冗談のようにこう言います──「もし本当に鬼門が開いて、幽霊を外に出したら、果たして誰が自分から戻るだろうか?」と。まるで刑務所の囚人を1ヶ月間外に出して、「時間になったから戻りなさい」と言っても、皆が自ら戻るわけがありませんよね。それは他人のもう一種のやり方であって、私はそれについて評価するつもりはありません。ただ、はっきりと皆さんにお伝えしたいのは──仏教の経典には「鬼門が開く」といった記述は一切ない、ということです。
仏教には盂蘭盆節という行事があります。これは釈迦牟尼仏の大弟子であり、神通第一の目連尊者の母親が亡くなった後、餓鬼道に堕ちてしまったことに由来します。目連尊者は神通力を使って母親に食べ物を届けようとしましたが、食べ物が口に入ると火に変わってしまい、食べさせることができませんでした。そこで尊者は釈迦牟尼仏に助けを求めたのです。
昔インドでは、毎年夏になると行者たちは5月から7月まで閉じこもって閉関修行を行っていました。これは、その時期が最も暑いため、外に出ると熱中症になる恐れがあることや、地面を這う生き物を誤って踏んでしまうのを避けるためでした。釈迦牟尼仏は目連尊者に対して、阿羅漢が閉関を終えて出てくる日に、すべての阿羅漢に食事を振る舞い、その斎食(さいじき=食事の供養)の功徳を母親に回向するように命じました。これによって母親は餓鬼道から離れて天道へと往生できたのです。この物語から次のことが明確にわかります。第一に、神通力だけでは亡者を済度できないということ。第二に、供養の対象に功徳があるかどうかが重要であるということです。仏典によれば、釈迦牟尼仏のもとには1200人の弟子がいて、全員が阿羅漢であり、比丘戒(びくかい)を受けた修行者でした。彼らの閉関による功徳は大きいものであるため、そのような方々に供養をすることで、母親に福報が生じたのです。第三に、注意すべきは、このような供養が必ずしも亡者を阿弥陀仏の浄土へ導くことを保証するものではないということです。
多くの人は、自分が祈れば亡者が阿弥陀仏のもとへ往生できると考えていますが、それは根拠が必要なものであり、ただ阿弥陀仏の名を数回唱えただけで往生できるわけではありません。『阿弥陀経』にはっきりと記されていますが、阿弥陀仏の浄土へ往生できるのは「善男子」「善女人」です。その第一の条件は「善」であることです。五戒や十善を守ることが「善」にあたり、まだ帰依しておらず、肉食を続けている人にはその条件が備わっていません。五戒は最も簡単で基本的な戒律であり、五戒と十善法の両方を修める必要があります。また、「福徳因縁欠かせてはならない善男子・善女人」の「欠かせてはならない」とはちっとも欠けたら駄目なことなので、即ち毎日の実践が必要なことです。福は供養・布施、徳は功徳、因縁は毎日阿弥陀仏を修することです。あなた方はそうしていますか。もし、そうしていなければ、どうして阿弥陀仏の名を一度唱えただけで亡者が阿弥陀仏の浄土に往生できるというのでしょうか? それは不可能です。私の話す仏法はすべて、仏典に基づいたものですので、異論を唱えないでください。
今日のこの法会が開催されることになったのは、約20年前に私の根本上師であるチェツァン法王が、私に済度の因縁があることを知り、この法本を伝授してくださったからです。この法本は秘伝であり、持っている人は極少数です。では、この法本と単に経典を唱えることの違いは何でしょうか?経典を唱えることも悪くはありませんが、最低でも49日間、1日8時間以上唱え続ける必要があり、しかも必ず出家者が唱えなければなりません。それをあなた方ができないのに、どうして家族のために済度ができるでしょうか?この法本だけがそれを可能にします。なぜなら、この法本は阿弥陀仏の願力、慈悲力、功徳力により、亡者を救う方法を伝えているからです。修法を通じて、亡者が持つあらゆる障害や業障を取り除き、衆生が生前に積んだ業によって、阿弥陀仏がその者をふさわしい善道、あるいは阿弥陀仏の浄土へ導いてくださるのです。
皆さんは済度法会に参加することが大好きですが、多くの方が「済度法会に参加して先祖や冤親債主を済度すれば、自分も良くなる」と考えています。この考えは一見正しいようで、実はそうでもありません。私たちが衆生を輪廻の苦海から救い出すのは、当然のことであり、それが慈悲心です。彼らが輪廻の苦海から離れれば、自然と皆さんも良くなっていくでしょう。しかし、それは「今すぐに」というわけではありません。また、過去世に犯した悪い行いが消えるわけでもありません。ただし、皆さんが将来仏道修行を進めていく上で妨げにならなくなるという大きな助けになります。
私たちが修行し、仏道を学ぶのは、現世の安楽のためではなく、修行の過程であらゆる困難や障礙を超え、克服し、消し去ることが目的です。皆さんが法会に参加した後に、財運が向上するか、健康が良くなるかについては、法本には記されていませんし、私もお伝えしません。法本に書かれているのは、あなたが済度したいと願う衆生を助けることだけです。しかし、あなたの慈悲心が起こり、衆生を助けたいという思いが生まれれば、その時点であなたの福報は始まり、そこからずっと福報が積み重なっていくのです。
私は南港展覧館で2万人以上の大済度法会を十数年にわたり開催してきました。そのたびに皆さんに必ず「これからは菜食を心がけなさい」と勧めていますが、多くの人は聞き入れません。「衆生の肉を食べることがそんなに重大なことなのか?」と思っている人が多いのです。これは仏を信じていないということを意味します。なぜなら、仏典には「衆生の肉を食べることは慈悲の種子を断つ」と記されているからです。肉を食べないことが必ずしも身体の健康につながるとは限りませんが、仏道を学び修行し帰依するなら、慈悲心を育てなければなりません。慈悲の種をまくことが絶対に必要であり、衆生を傷つけないことがその最も基本的なことなのです。
私は転生したのではなく、この一生で修行によって成し遂げました。帰依して仏道を学ぶ前は肉を食べていましたが、学ぶと決めてからは完全に肉を断ちました。しかし、以前に食べていた肉によった問題は、修行を十数年続けてようやく徐々に解消されてきました。ですから、皆さんにお伝えしたいのは、もし因果を信じるならば、衆生の肉を食べることに果報がないはずはないということです。私は今年78歳ですが、多くの高齢者が抱える病気はほとんどありません。それは私が早くから菜食を心がけ、修行し、閉関し、絶えず衆生を利益してきたからです。ここまで話したので、あまり長くは言いません。これから修法を始めますので、皆さんは心を少し落ち着けて、あまり考えすぎないようにしてください。
リンポチェは修法を開始し、その間に次のように法本の一節について説法されました。「持誦名号」とは、絶えず阿弥陀仏の名を唱えることを指します。「能除非時死」とは、つまり寿命が尽きていないのに突然の死を避けることができます。「心中念自然除世間災」の「心中念」というのは、心の中で阿弥陀仏を唱えるのではなく、心の中のすべての念が阿弥陀仏で満たされることを指しています。こうすれば、自然と世間の災いが除かれるという意味です。これを成し遂げるのは非常に難しく、つまり心の中に他の念は一切なく、阿弥陀仏のみがある状態を言います。この境地に到達した人はいません。皆さんは阿弥陀仏に常に祈っていますが、実は「祈る」必要はありません。この境地が実現できれば、世間の八大難と十六小難、すべての災難を取り除くことができるのです。
「若為皈依自得恆常樂」。もし帰依すれば、永遠の喜びを得ることができます。この喜びは世間の喜びではなく、お金を稼いだり出世したり結婚・出産する喜びではありません。それは永遠に生じることも滅することもない喜びであり、阿弥陀仏の浄土へ行くことを意味します。多くの人は阿弥陀仏の名を唱えることを怖がり、死んでしまうのではないかと恐れています。しかし、唱えなくても人は死にます。多くの人が迷信を信じて、「阿弥陀仏の名を唱え続けると阿弥陀仏が自分を死なせる」と思っていますが、安心してください。苦しみがまだ清算されておらず、返済すべき借りが清算されていない限り、阿弥陀仏はあなたを迎え入れません。ただし、阿弥陀仏の名を唱えることで、多くの困難は解消されます。その条件は帰依することです。家にいて唱えるだけでは効果はありません。もしそれで良ければ、法本には信者は帰依する必要がなく家にいればいいと書かれているはずです。
多くの人が仏教を学ぶとき、同じ過ちを犯します。それは「自分だけで修行できる」と思ってしまうことです。これは間違いです。法本には「自分だけで修行して結果を得られる」とは書かれていません。入学手続きせずに独学で博士号が取れるかというようなものです。確かに少数の人はできるかもしれませんが、それは例外に過ぎません。人は皆、自分を過信しがちです。「他人ができるなら、自分にもできる」と思ってしまいますが、そうではありません。必ずまず「帰依」しなければなりません。ここにそのことが明確に書かれています。「我等恆常向汝敬礼讃」。「我等」とは一切の信徒を指し、永遠に、常に阿弥陀仏に恭しく礼拝し讃嘆するという意味です。もしこれができなければ、いくら阿弥陀仏の名を唱えても意味がないのです。
リンポチェは修法の後、参加者全員を導いて長時間にわたり阿弥陀仏の心咒を唱えさせました。外供の前には威厳ある忿怒の姿が現れ、その後さらに修法を行いました。その後、リンポチェは次のように説法しました。「皆さんに簡単に説明します。先ほど修したのは、私自身が本尊であり、法会に参加するすべての人と共に西方極楽世界にいるということです。この場所自体が西方極楽世界です。次に、本尊である阿弥陀仏、西方三聖、そして西方極楽世界全体をこの壇城の中に観想します。その後、上師は自分自身に灌頂を授け、その後で済度の修法を行います。」
続いて、薈供、八供女の献唱、献茶およびご飯の献上儀軌が行われました。供物が配られる際、参加者はリンチェンドルジェ・リンポチェによって加持された供物を一つずつ受け取り、さらに法会の中で本尊および上師と共に食するという、非常に稀で殊勝な善い縁を得ました。
リンポチェは参加者に先に少し供物を口にするよう指示し、次のように説法しました。「先ほど私たちは薈供を行いました。これは本尊への供養です。すべての福報は供養から生まれます。本尊に供養をした後、法会に参加する皆さんには、助けたい亡き者たちを助けるための福報がもたらされます。さきほどの供物を少し口にすることは、皆さんのために善い因縁を種をまくことです。将来、皆さんは阿弥陀仏のもと、西方極楽世界で阿弥陀仏やすべての仏菩薩と共にあらゆる美味しい食べ物を楽しむことができるでしょう。」
仏典に説かれているところによれば、阿弥陀仏の浄土では、食べたいものが地下から湧き上がり、食べ終わると茶碗やお皿、箸は自然に地中に戻っていくので洗う必要がないとされています。外国人であればナイフとフォークが現れます。ですから、もし洗い物が嫌いな人は、阿弥陀仏の浄土に往生することを願うとよいでしょう。この世で洗い物が嫌いな人は、すでに阿弥陀仏の浄土へ行く習慣を身につけているともいえます。ですので、特に奥さんの家事分担に皿洗いを手伝いたくない男性は、阿弥陀仏の浄土へ行くことを示していますから、しっかりとそれを願いましょう。もし奥さんに「なぜ皿洗いをしないの」と叱られたら、こう言えばいいのです。「阿弥陀仏の浄土に行く準備をしているんだ」と。奥さんが「あなた死ぬつもりなの?」と言ったら、「いつか必ず死ぬけど、今はまだ死んでいない。情の借りをまだ返しきっていないから」と答えましょう。
リンポチェの開示:これから済度を始めますので、皆さんもう少し礼節をお守りください。今はとても現代的になっていて、私たちは済度の名簿をすべてDVDに焼き付けています。これによって環境にも優しくなりました。以前は名前を紙に書いていましたが、それだと環境を汚してしまいますし、小さな道場ではそんなに書き写す人手がないです。そこで全てコンピューターに入力しています。では、コンピューターに入力することと名前を書き写すことは何が違うのか?実はどちらも同じことです。見えるかどうかにこだわらないでください。あなたの目に見えているものは偽物です。最も重要なのは阿弥陀仏が見ることです。皆さんはお金を払ったのに名前を書いてもらえているか心配かもしれませんが、ここではお金は一切いただいていませんので心配無用です。お金を取らない分、私たちはより慎重に取り扱っています。逆にお金を取るところでは、大物の名前だけ丁寧に扱い、小物の名前はページをめくってしまうかもしれません。皆さんが助けたいと願うすべての衆生の名前は、すでにこのDVDに書き込まれています。どうぞ安心してください。
皆さんが亡者を助けたいという心が動けば、DVDがなくても大丈夫です。なぜなら、法会の主法者である私が常に衆生を助けたいと願っているからです。今回の修法に先立ち、私は昨日一日中阿弥陀仏の修行をしていました。なぜ事前に修行するかというと、自分の功徳がまだ十分でないことを心配するからです。今日は2500人の参加者がいますが、仮に一人につき10体の亡者がいたら、なんと2万5千体になります。二万五千の鬼を救うことよりも、たった一体の鬼を救うだけでも、計り知れない功徳と福報が必要とされます。以前、2万人規模の大法会を行ったときは、3日間の閉関をして誰とも会わず、話さず、ひたすら持咒して準備しました。私は十数年間にわたって大規模な済度法会を行い続け、阿弥陀仏の助けを得て衆生の済度に努めてきました。だからこそ、私の身体には大きな問題が起きず、佛法の事業もますます繁栄しているのです。これは成し遂げたことを表しています。皆さんは直接済度の成果を目にすることはできませんし、実際に成就したかもわかりませんが、行者の佛法事業が絶えず進歩しているかどうかで、それがわかるのです。進歩とは、単に仏寺を建てたり弟子を増やしたりすることではなく、佛法の事業が持続的に成長し続けていることを指します。
弟子たちがこれから私のところの閉関センターで閉関を始める予定です。なぜこの場所に寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺を建てたのかというと、佛経や密教の教えでは、修行は山や森の中で行うべきだと説かれているからです。だからこそ、寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺は山林の中にあり、外部の人の出入りもありません。そして何よりも、この寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺には一切の商業的な要素がありません。物を売ることも、線香奉納も、大きな香炉もありません。ここはただひたすらに修行に専念する場所であり、観光地ではないのです。
今日、皆さんに因縁があってこの法会に参加されたのは、過去世に阿弥陀仏と縁があったからですが、ただよく修行していなかったため、またこの世に生まれてきて、しかも今は皆に見つかったこともあり、今生こそしっかり修行するといいです。自分自身の決断次第です。人生はあっという間に過ぎ去ります。私自身も身につけた教えをすべて伝えきれていません。密教には中陰身をめぐる法本がありますが、実際には中陰身とは死んでからの状態だけを指すのではありません。生きている間に仏になっていなければ、その状態もすべて「中陰」と呼びます。この法本は、死の前後における身体や心の変化、死後どの道に行くかを教えてくれます。自分自身でその様子を見ることもできるのです。将来的にご縁があればこの法を伝えますが、帰依していない方や、阿弥陀仏の浄土へ行く決心ができていない方には伝えません。好奇心で知りたいと思っても意味はありません。この法は本当に輪廻の苦しみから解脱したい人のためのものだからです。
私は今から済度法を修し始めます。第一歩として、名札の上にあるすべての業障を清めることです。さきほどすでに行いました。皆さんが亡者が本当に来ているのか心配しないように、法本にはこう書かれています:「空性の中の蓮の上、名札の中にあるすべての名前が、亡者の姿が化現する。」つまり、生前の姿が美醜にかかわらず、すべて蓮の中に現れます。「勾引與融入心」。行者の慈悲心によって彼らを勾召し、上師が持する真言や・上師の心や手印などを通じて、亡者のすべての神識を依るべき対象に呼び寄せます。つまり、名札の上にです。
リンポチェが修法を終えた後の開示:先ほどは、亡者が生前に犯したすべての悪業によって生じた生命の障礙、例えば治らない重い病気のようなものを取り除きました。また、死後に存在するあらゆる悪業障礙の魔物を先ほどの修法で追い払い、それでも離れない物は金剛杵で打ち砕きました。
黒ごまをまくのは、亡者の業が鼻穴から出ていくようにして消滅させるためです。砂をまくのは、亡者の往生を妨げる障礙を取り除くためです。しかし、リンポチェが黒ごまや砂をまいているのを見て、ただ真似してはいけません。そこには多くの観想があり、それを説明していないからです。もし自分がこれを学んだと思い込み、ただ真似して行うと問題が起きます。済度は遊びではありません。空性の慈悲心や菩提心を起していなければ、亡者は受け入れません。たとえ家族であっても同じです。そうすると、あなた自身に害が及ぶこともあります。
その後、清浄の法を修しました。修法の過程で、リンポチェは何度も参列者に亡者の名前を唱えるよう促し、亡者を助けました。リンポチェが済度を始めると、苦しみにあえぐ亡者たちが一斉に集まり、会場に冷たい風が何度も吹き込んできました。そのため、参加者の中には上着を羽織る人もいれば、子どもたちが泣き出す場面もありました。
リンポチェは一人の出家弟子にDVDディスクを持って壇城の前にひざまずくよう指示し、参会者に起立して合掌するよう促しました。そして開示されました:「この法本を書いた人はとても慈悲深く、皆さんが2時間半座って足がしびれないように、立ち上がってもらうことにし、亡者を代表して祈願することです。」
リンポチェは慈悲深く、参会者に次の文句を一緒に唱えるよう指示されました:「中陰の恐怖、閻魔の関所。煩悩と苦しみに責められ、悲しい境遇を彷徨う。慈悲の力よ、どうか救い護りたまえ。」これを三度唱えた後、リンポチェはすべての参会者に、亡者を代表してリンポチェおよび諸仏菩薩に頂礼または一礼するよう指示されました。
リンポチェは修法を続けられました。済度が終わると、会場は温かく明るくなり、先ほど泣いていた小さな子どもも静かになりました。リンポチェと壇城の諸聖像が光を放ち、一帯は和やかな雰囲気に包まれました。
リンポチェからの指示を受け、出家衆は皆でチョンツァン法王の長寿祈願文、チェツァン法王の長寿祈願文、そしてリンチェンドルジェ・リンポチェの長寿祈願文を唱えるよう導きました。参加者は一度《求生極楽浄土祈願文》を唱えた後、リンポチェが自ら唱えました。リンポチェは開示されました。「今から私が唱えますので、皆は静かに聞いてください。皆が唱えるのは助念ではありません。多くの人は自分が助念できると思っていますが、仏経が説く助念とは、同じ師匠のもとで修行を共にしている仲間たちが行うもので、皆の修行の位や功力がほぼ同じであることが条件です。その中の一人が亡くなる前に、共に修行した兄弟子に助念を頼み、亡くなる前後に助念して亡者の浄土往生の信心を堅固にします。ですので、誰でも簡単に他人のために助念できるわけではありません。もし正しく唱えられなければ、自分に害が及ぶこともあります。空性の慈悲心を修しておらず、戒律を守っていない者の助念は意味がありません。今日はこのことを言うことで多くの人の反感を買うかもしれませんが、どうしても伝えなければなりません。では、もう一度私が唱えます。皆、よく聞いてください。上手に唱えられたら拍手をしてください。上手でなければ拍手はしないでください。」
リンポチェは《求生極楽浄土祈願文》を二度唱えられ、その慈悲深く切なる法音は虚空に響き渡り、音波が震動して満ち満ちていました。唱誦が終わると、多くの人が涙を流し、会場は雷鳴のような拍手に包まれました。リンポチェは開示されました。「この拍手は私に対してではなく、皆さん自身に対してのものです。現代社会は忙しく、今日、皆さんは長い道のりを経てこの法会に参加し、三時間以上も座り続けるのは簡単なことではありません。今日は皆さんのために済度の修法を行いましたが、さらにチベット仏教の中で最も殊勝で秘法の『ポワ法』も含まれています。したがって、ポワ法の成就がない者はこの法本を修することはできません。皆さん、これをよく理解してください。あの子はもう歌っていませんね?それは素晴らしいことです。彼は最初から最後まで阿弥陀仏を称賛していました。泣いているのではなく、称讃しているのです。」
リンポチェは弟子たちと共にアキ護法の儀軌を修持された後、開示されました。「先ほど修したのは、直貢噶舉派の不共のアキ護法であり、寂静尊です。直貢に帰依しているすべての弟子が修持可能です。これから修する武のアキ護法の儀軌は、リンポチェのような高位の者のみが修持できます。アキ護法に仏法の事業が円満に成就するように助けをお願いすることができます。昨日、私はすでに武のアキ護法を修しました。今日の法会が円満に執り行われ、一切の有情衆生に利益をもたらし、参加者全員に加持がもたらされ、すべてが安全で円満であるよう祈願します。」
リンポチェは武のアキ護法の儀軌を修持した後、開示されました:「修法はちょうど3時間かかりました。(会場の皆さんが感謝の気持ちを込めて一斉に『ありがとうございます』と伝える。)でも、私に感謝する必要はありません。感謝すべきは皆さんです。今日、皆さんが来なければこの法会は成り立ちませんでした。つまり、一切の有情衆生と阿弥陀仏本尊が皆さんに感謝しているのです。どうかこの慈悲心、衆生を利益しようとする心をこの日だけで終わらせず、これからも続けてください。人生は短く、あっという間に過ぎてしまいます。数ヶ月後には私も79歳になります。皆さんも同じです。だから、まだ体力も精神もあるうちに、できるだけ早く仏法を学んでください。学ぶことには良いことしかありません。決して忙しいという理由で後回しにしないでください。私ほど忙しい人はいません。皆さんに感謝します。」
会場には熱烈な拍手が響き渡り、リンポチェは法座を下りた後、再び壇城に礼拝しました。参列者が敬意を込めて合掌し感謝の声をあげる中、リンポチェは寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺の大殿から歩み出られました。
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2025 年 09 月 18 日 更新