尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年9月7日

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法座にお登りになり、直貢噶舉不共四加行の強化版法本および祖師ジッテン・サムゴン著『一意』を開示されます。

リンポチェが法座にお登りになった後、出家衆に指示され、会衆全員が皈依発心、七支供養、『随念三宝経』、『八聖吉祥祈祷文』、『仏子行三十七頌』を唱和いたします。その後、リンポチェは六字大明呪を持誦なさいます。リンポチェ尊身および壇城からは金色の光が放たれ、慈悲の法音は深遠かつ朗々と響き、まるで天鼓が自然に鳴り響くかのように虚空を振動させ、十方に満ち渡ります。会衆の妄念はすべて消え、煩悩は静まり、心を鎮めてリンポチェの殊勝な仏法のご教導を受けることができました。

続いて、リンポチェは貴重な仏法の開示を賜ります。

『寶積経』を開示する前に、まず手元にあるこの法本について話す。この本は、いま皆が修行している不共四加行の簡略版ではなく、直貢噶舉の不共四加行の強化版で、観想・修行・祈求の部分にいくつか非常に重要な言葉がある。中国本土で仏法を学ぶ場合、ほとんどが顕教を中心としていて、皈依していようがいまいが、皈依の前も後も「仏法と仏菩薩を受け入れればいい、法師は経を読むことを教えるだけで、自分で読めばいい」という観念を受け入れている。この修行方法自体は間違っていないが、この方法だけで一生修行しても、生死解脱の可能性は高くないし、開悟することは絶対に不可能だ。古代には、もちろん出家者の中にも開悟する者はいたが多くはなく、自利利他を成し遂げられる者も少なかった。問題は上師の導きがなかったことにある。仏経では本師・導師釈迦牟尼仏と何度も説かれている。つまり釈迦牟尼仏は私たちの先生であり、仏法を伝える方だということだ。しかし私たちには釈尊の法を直接聞く福徳因縁がない、そこに問題がある。

歴史の記録によれば、仏が説法していた当時には録音も記録もなく、仏が涅槃に入った後に五百人の阿羅漢が集まり、神通力を用いて過去に仏が説かれた言葉をまとめた。最初は古代インドの言語で書き記され、それが徐々にさまざまな言語に翻訳され、やがて私たちの手元に中国語の訳本が届いた。その内容が釈迦牟尼仏の説かれたものと百パセンド同じかどうか、私にも分からない。二千年以上の翻訳・印刷・誤伝などを経て、多くの事情が重なっている。チベット仏教は伝承を非常に重んじており、一代一代、各教派の歴代法王が最も重要な仕事として法本の校正を行ってきた。例えば私の根本上師であるチェ・ツァン法王も、一生をかけて古代直貢噶舉の法本を探し、校正し、多くの欠落部分を補ってきた。

顕教は主として仏経を中心に学ぶので、それ以外の仏経に触れる機会がなければ、その内容は分からない。しかしチベット仏教は、顕教と密教のすべての教えを包含している。チベット仏教の特徴は、必ず徳を備えた師に依止するという点にある。ここで言う「徳」とは道徳や福徳のことではなく、「功徳」のことを指す。上師に功徳があるかどうかは、実際に接してみればすぐに分かるものだ。

この法本の中には、現代の仏教徒がほとんど実践できていない句がいくつかある。そのうち二つは、上師が語るあらゆる言葉は梵天の声と同じであるというものだ。「無礙」とは、その言葉に障りがなく、世間法にも出世間法にも役立つという意味である。また「具足獅子吼音」とは、師の声が獅子の咆哮のようであるということを指し、その言葉が聞く者に強い衝撃を与える力を持つという意味である。ある人はそれを叱責と受け取り、ある人は諭されたと感じるかもしれないが、上師が語る言葉は必ずこのような力を伴う。

皈依して仏教を学んでいるからといって外道ではないと思ってはいけない。実際には九割の人が外道のやり方で仏教を学んでいる。昨日、皈依して十八年になる弟子が来て、浄土に往生したいという念を強める加持を求めた。この言い方は一見間違っていないように聞こえるが、皆は忘れている。私は毎回の法会で極楽世界に生まれたいと求めなさいと言っている。最後に読む回向文も極楽世界に往生したいと願っている。では誰が求めているのか。(大衆「自分です」)つまり彼女は求めていなかったということだ。自分がいつか病気になるとは思わず、死ぬと感じてから初めて阿弥陀仏のもとに行きたいと求める。健康な時に求めず、健康でなくなってから求めても、もう間に合わない。上師は必ず済度するが、あなたは阿弥陀仏のもとに行く資格がない。なぜならこの一生で求めてこなかったからだ。

『阿弥陀経』には「福徳因縁を欠けてはいけない」とはっきり説かれている。毎日修している法、発している願に求めることをしていないのに、自分ではもうだめだとわかってから求めても、私は何の理由で助けるというのか。十八年間ずっと言うことを聞かず、上師の言葉を受け入れず、俗世の生活を送り、時が来てから初めて求める、それは外道と同じであり、これが顛倒見だ。加護を求めたり健康を求めたりするのは外道だ。私は毎回の法会で阿弥陀仏のもとへ往生すること、生死から解脱することを求めなさいと勧めてきた。諸仏菩薩、護法、上師の加持は必ず届くが、誰も聞かない。二十年以上、三十年罵ってきても、また加持して浄土に往生したい心を強くしてほしいと言う者が出てくる。だが堅いかどうかは自分で決めることだ。私がこの一生修行したのも自分で決めたことだ。法王が私にこれほど多くの法を授けてくださったとしても、私が決めなければ何の意味もない。言っても聞かず、言われても聞かず、何かあったときだけリンポチェに加持を求めに来る。

上師の言葉を自分に対する叱りだと思うと、頂礼しなくなり、加持も得られなくなる。上師の意、念頭、思っていることのすべては虚空のようで、汚れがない。虚空には星も何もなく、汚れもない。汚れているのはあなたたちの心であり、そのために上師が言うことを間違っていると感じる。上師の言葉は必ずあなたたちが未来世に楽を得るようにし、自分のしていることが間違っていると気づかせるためのものだ。空性には分別がなく、上師の意はすべて衆生を利益するためであって、自分の利益のためではない。「解脫所有善安住」(あらゆる善をも解脱して安住し)、善道すらも解脱し、往生浄土に安住し、生死を解脱する。

上師の意は衆生を生死から解脱させることを願っていて、自分の名利のためではない。上師は仏であり、また仏法でもあるのに、あなたたちはそこをはっきり分けて、法座を降りたらリンポチェではない、生活のことを話したらリンポチェではないと思っている。上師の仕事は二十四時間休むことがなく、ただ演じる役割が違うだけで、それを分別しているのはあなたたちだ。なぜあなたたちは言うことを聞かないのかといえば、分別があるからだ。私が在家のもので、商売をしていて、車を運転しているときはリンポチェではなく、法座に上がっているときだけがリンポチェだと思っている。それがあなたたちの考えであり、そのために二時間だけの加持しか得られず、それ以外は何も得られない、分別しているからだ。

なぜ多くの人が私の店に行かないのかというと、それは分別だ。私が商売をしていると思っている。私の店であれば、加持力があるかどうか、あなたたちはどう思うか(大衆が答える:あります)。一部の賢い人はお金を使うのを恐れ、遠いのを嫌って来ない。私はあなたたちの商売をしようとしているのではない、誤解しないでほしい。私は二十四時間あなたたちに接することができないから、あなたたちがもう少し私に接する機会を持てるように、いろいろな方法を考えるしかない。今、あなたたちはすごい、月曜日の東豊店は必ず満員、火曜、水曜、木曜になると人がいなくなる。私は日を変えようと思っている(大衆笑)。あなたたちは私に会ってこそ加持がある、会わなければないと思っているのか。あなたたちは菩薩に会ったことがあるか。なぜ菩薩があなたたちを加持していると思うのか。つまり会う必要はない、それは菩薩の意だ。私は毎日修法してすべての帰依弟子を加持している。だから帰依の時に言う、上師に親近するようにと。それはあなたたちに毎日私に会いに来いということではなく、上師のすべてのことにあなたたちが接する機会があるのなら、なぜ聞かないのか。

私が升座する場合、あなたたちは一か月に四週しか私を見ることができない。毎週たった二時間だ。普段私に会えないのは、あなたたちが会おうとしないからだ。あなたたちは月曜日まで待っている。しかし私の店は小さく、座れない。あなたたちはそこに座って、私が立たない限り誰も立たない。次の客が入れない。あなたたちはこうやって私を困らせるな(大衆笑)。外にまだ人が待っているのを知っていながら、食べ物を食べ終えたら離れて、他の人に入らせるべきだ。結局しがみついて動かず、私が立ち去ったら鳥獣のように散る、ひどいものだ。

法本ははっきりと説いている。上師を尊重しないな、上師は諸仏菩薩を代表して仏法を宣説する、仏法の代表だ。たとえあなたたちが彼を在家だと考えても、彼の在家の生活はあなたたちとは違う、彼の意はあなたたちと違う。だからあなたたちがリンポチェが法座を降りたらただの人だと思うなら、私はもうリンポチェではない。リンポチェは二十四時間修行していて、寝ているときも夢を見ているときも修行している。このような分別心を持つと、得られる加持はとても少ない。昨日来た帰依十八年の弟子のように、彼女は分別心があり、私が道場を離れたらリンポチェではないと思っていた。だから私が話したことも知らず、私の場所にも来ず、法会だけに参加すればよいと思っていた。

上師もまた僧衆に等しい。上師は必ずしも出家者である必要はない。具徳のある上師であれば、在家でも出家でもよい。唯一の違いは、出家者は出家戒を守らなければならないが、在家の上師はそうではない。しかしその他の戒はすべて同じだ。金剛乗・菩薩乗を修する者は、菩薩戒を主とし、必ずしも出家の戒律を受ける必要はない。

今日あなたたちが得ているすべては上師が与えたものだ。自分が仕事しているから給料があるなどと言うな。たしかに、働かなければ給料はない。しかし、上師の加持がなければ、そんなに順調にいくか。たとえば、ある人は計算に計算を重ねて、やっとわずかばかり供養するだけだ。昨日、帰依して八年になる弟子が、子どもが病気になってからようやく懺悔に来た。彼は自分がうまくいっている、すべて順調だと思っていたが、子どもが病気になって障りがあると感じ、自分が間違っていたのだろうとようやく懺悔に来た。では子どもが病気にならなければ懺悔しなくていいのか。私はいつも皆に教えている、成仏するまでは毎日懺悔が必要だと。私たちの身口意には必ず多くの欠点があり、できていないから成仏できないのだ。成仏どころか、阿弥陀仏のところにすら行けないのに、まだ懺悔しないのか。

私たちはすべての上師に対して恭敬し、礼讃しなければならない。昨日私はある弟子を叱った、上師の功徳を讃嘆することすら分かっていないくせに、自分に都合のいいことばかり並べ立てたから、おれはその供養を受け取らなかった。あなたたちが決心して仏門に帰依するなら、ひとつ非常に大事な条件がある。この一生、上師なしでは無理だ。どれほど学問や権勢があっても、上師に学ばずに仏を学ぶことはできない。何がその証拠か。今、別の法本がそれを証明している。

もう一冊は祖師ジッテン˙サムゴンが説いた重要な論『一意』だ。その中に非常に大事な一句がある。彼は「有定能生一切功徳」と言っている。だから仏経では「戒・定・慧」と説かれている。もし戒を守らなければ定は生じない、定がなければ智慧は開かない。なぜ戒を守ると定が生じるのかというと、無明と煩悩が減るからだ。たとえば殺生しないと、その殺さないという定が現れる。

昨日、私は法本の中で二句を見た。そこにはジッテン˙サムゴンの修行がすでに仏の果位であると讃嘆されていた。彼ははっきりと言っている。一切有情が輪廻に堕ちる根本は無明と我執だ。無明とは仏法を信じないこと、因果を信じないことだ。ちょうどあの帰依十八年の弟子のように、彼女は因果を信じていない。自分が求めていないのに、どうして浄土に生まれることができるのか。我執とはいろいろなことに執着することだ。彼女は十八年も帰依していて、自分は死なないと思い、ただ法会に参加していれば良くなる、変わると思っている。みんなも定がないまま法会に参加して、ただ少しの福報を修しているだけだ。その福報はこの一生では使えず、次の生でしか使えない。私たちは定を修してこそ功徳が生じる。功徳が生じてこそ、自分の業や未来世を変えることができ、さらに衆生を助けて衆生の業を軽くし、早く果が出ないようにし、未来の果を良くすることができる。定がなければ何もできない。

なぜ私が一度真言を唱えると、みんなの雑念や妄念がほとんどなくなるのか。それは私に定があって、みんなには定がないからだ。具徳の上師は弟子を定の境地に導くことができる。定の境地に入ると、根器が良ければ、自分がすべての無明と雑念を断つことができると悟る。その境地に入ったとき、これを入定という。定から離れると煩悩と分別念が生じる。これを類智という。つまり、道場を離れたとき、あるいは私が持咒をやめたとき、みんなの定はなくなり、心の中に多くの想念が生じる。ここに書かれている通り、具徳の上師だけが弟子を加持し、入定させる資格があるのだ。

前回、佛寺で、出家三十年以上の出家人がみんなを導いて読誦していたが、定はあったか(大衆:ありませんでした)。読めば読むほどイヤイヤになり、眠くなった人もいた。これは煩悩・無明が起きたからで、導く側に定がないので、みんなにも定がないからだ。彼はずっと開悟したいと思っているが、定すら修していないのにどうやって開悟するのか。文字だけで遊んで、衆生は見抜けない、賊を父と思っていると言うが、一番大事なものを修していない。戒を守れていないから定が開かれない。定に入っていないから当然衆生を定に導くこともできない。なぜ私の済度がこれほど強いのか。それは私が定の境にいて、何も要求していないからだ。この衆生が私に供養したかどうかは重要ではない。この衆生が私をどれだけ尊重しているかも重要ではない。ただその因縁があれば、私は必ず助ける。

この一段はとても重要だ。みんなは自分が仏を修していると思っているかもしれないが、定を学んでいなければ修していないのと同じで、ただ少し福報を修しているに過ぎない。上で言った上師への恭敬とも呼応している。上師だけがみんなの無明と煩悩を断つ手助けができる。上師が持咒修法している時、定が生じてみんなの雑念を押さえ、その一瞬にみんなはいくらかの功徳を得る。功徳がなければ何もならない。毎日家で何千遍も読んでいるからといって功徳があると思ってはいけない。確実にない。ただ少し福報を得て、仏菩薩や上師との因縁が少し近づくだけだ。自分が修していると思わない方がいい。本当に修していれば、私はすぐに分かるし、みんなが法を求めることに希求し、絶えず精進しようとするはずだが、みんなは全くそうしていない。

昨日、ある弟子が何度目かの不共四加行を求めに来たが、私はまだ法を伝えていない。なぜなら彼にはまだ三割ほど「大礼拝を学んで家の人に良くしたい」という思いがあるからだ。これは菩薩の心ではない。私たちは自分のために大礼拝をするのではない。私は大礼拝を伝える時、いつもみんなに「なぜ懺悔するのか」を繰り返し言っている。生々世々、たくさんの善業や悪業を積んできて、今なお輪廻する機会があるのに、まだ懺悔しないのか。大礼拝をすれば身体や運気が良くなると思っているのなら、それは金剛乗でも菩薩乗でもなく、外道であり、修行を間違えていることにも気付いていない、ということだ。

私がどうしてみんなが修行を間違えているのか分かるかと言えば、9月14日に「阿弥陀仏無遮大超度法会」を開くが、参加者は2500人いる。内場を担当している人が「女性が男性より多いから、八吉祥白絨毯の位置をずらして道場のようにして、曲がって出るようにしよう」と言い出した。誰かがそれに反対したが、その担当者は「道場もそうだ」と言った。私は道場から出る時は自分の部屋から出ているが、では仏寺では私はどの門から大殿に入っているか?(大衆「大門」)大門は真っ直ぐで、曲がる必要があるか?道場の部屋から出る時は前に八供女も儀仗もいないから曲がっても平気だ。しかし仏寺では、私が大殿に入ると前には二十人以上が並んでいる。彼らにそんなふうに曲がらせるのか?二人の担当の弟子が自分の考えにこだわって、私に聞かずに私の決めたことを変えようとした。なぜこうなるかというと、無明だからだ。自分の仕事がすごいと見せたがっているからだ。

昨日洪という弟子と莊という弟子が翻訳をうまくやれなかったことで懺悔に来たが、私は「懺悔に来なくていい」と言った。なぜ彼らの懺悔を受けなかったかというと、あまりにもひどいからだ。2023年から2025年まで私が引き継ぐ前の2年間、一篇の文章も翻訳されていない。これは大規模ストで、懺悔が必要か?この二人の弟子が翻訳をしなかったせいで日本語の翻訳まで止まり、みんながお互いを見ているだけで、誰も私に聞きに来なかった。彼らは翻訳を手伝っている二十数人が全員ダメだと思っていたようだ。もしそうなら他の人を探せばいいし、私に相談して翻訳会社に頼むこともできたが、何も言わなかった。アキ護法が見かねて私に知らせたので、私は初めて知った。今は私が引き継いで、毎週翻訳を出しているが、結局やっているのは同じ数人だけだ。彼らは以前は二十人以上いたのに、私は今四人だけで回している。能力がないのに自分が偉いと思って、懺悔しに来る。何を謝るというのか。

今道場で手伝っている人はみんなこうだ。前回の法会は千人ちょっとの参加だったのに、王という弟子と龍という弟子が四十人以上も集めて供養箱を運ばせた。法会がまだ終わっていないのに、その四十人全員が外に出て行った。海外で交響楽団の演奏を聴いている時、演奏者がまだお辞儀もしていない、拍手も終わっていないうちに席を立てば、すぐに「礼儀がない」と叱られる。私が法会をしているのに、終わっていないのに四十人が供養箱を持って出て行った。なぜこんなことが起きるのか。供養が集まらないとリンポチェが怒ると思っているからだ。そんなことがあったか?(大衆:ありません。)つまり法や修法人に敬意を払っていないということだ。修法人がまだ座っているのに先に出て行く、人としての礼儀もない。まるで誰かが講演している途中で聴衆全員が出て行って物を配りに行くようなものだ。何の仏法を学んでいるのか。四十人が彼ら二人に同調した。だから今日この人たちは法会に参加させない。彼らは二人が命令を出すと思って従った。法座に座っているリンポチェの言葉は聞かずに、その二人の言うことを聞くなら、もう来なくていい。

お前たちは今みんなこの癖を犯している。内場組だ外場組だと分けている。道場の仕事を手伝っていることは私は讃嘆するが、お前たちには権力も勢力も金もない。ただ一人に一つの仕事を任せているだけで、自分が主になれるわけではない。誰が主なのか。私が主だ。私の白絨毯を横に動かそうとするなんて、人が多いから座れないと思っている。私の仏寺は三千人が座れるように設計してあるのに、今二千五百人しか座っていないのに「座れない」と言って、女が男より多いからと全部私に問題を押し付け、報告書まで書いてきて、私が絶対に同意すると思っている。年寄りだからと私をなめているのか。リンポチェがこうして法を伝えている意味がどこにある。ちゃんと修行しようとせず、ちょっとした仕事でもいつも問題ばかり起こしている。

あなたたちは法本に書いてあることをよく聞け。どれ一つ出来ているのか。出家者ですら出来ていない。せっかく時間と労力と金をかけて仏を学んでいるのだから、きちんと学べ。もう自分の考えで仏を学ぶな。お前たちの考えは全部間違っている。もし正しければ定が現れるが、一人も現れていない。みんな自分がたくさん唱えれば定が生まれると思っているが、そんなことはありえない。戒を守っていないし、上師を尊重していないからだ。私はこの一生で少しばかり成就できたのは、全部法本に従って人として、また事を行ってきたからだ。

例えば私が寺を建てた時、どうやってやるか全く見当がつかなかった。でも上師が命じたからには、私に寺が必要だと判断したのだと思って、衆生のためか教派のためかはともかくやった。寺が建ったということは私に福徳と功徳があるという証拠だ。今まで仏寺を参拝した人は皆香りを感じた。これはあなたたちのリンポチェが戒をきちんと守っているという印だ。金を返すこのやり方も相当なものだ。昨日またどれだけ返したか。(報告:七人に百二十万。)昨日はそんなに少なかったのか。

仏を学ぶこと自体は全然難しくない。難しいのは、この一生ずっと自分本位の教育を受けてきて、自分を守り、利益を得ることばかりを教えられてきたことにある。ちょっとしたことでも人に褒められたいと思い、自分は偉いと思う、そういう謙虚さのない者は修行はできない。今日私がこれだけ多くの仏法を話すのは、あなたたちに私を尊重させるためではなく、あなたたちのためだ。十八年話しても耳に入らず、体が駄目になって初めて浄土往生を決める。毎回法会の最後に『求生極楽浄土祈請文』を唱えるのは無駄に唱えているのではない。あなたたちは恋歌を歌っていると思っているのか。あれはあなたたちに発願させるためにやっている。あなたたちは本当に発願しなければならない。自分はまだ死ぬ準備ができていないから往生浄土を願わない、そう思うのは間違いだ。早く発願する者ほどこの一生が良くなる。死ぬその日になって初めて発願しても間に合わない。因縁と福徳がないからだ。

毎週日曜にリンポチェが六字大明呪を唱えるのを聞いていれば阿弥陀仏の所へ行けると思うな。私が六字大明呪を唱えるのは、あなたたちがこの一生で阿弥陀仏の所へ行くためではなく、あなたたちの冤親債主が絡まないようにして、この一生のうちに往生浄土を発願する時間を与えるためだ。誰もが死ぬのを恐れて発願しないが、誰が死なないというのか。阿弥陀仏に早く発願すればするほど、この一生の困難は減り、年を取ってからあれこれ病や事故に遭わなくなる。発願した者は未来の仏菩薩だから、多くの護法や仏菩薩が守ってくれる。死にかけてから「リンポチェに加持してもらって信心を固めたい」と言うが、私に何の関係があるのか。

金を稼ぐために仏法を心に留めず、毎週日曜に来てただ加護を求めているだけの方がいるが、俺が知らないと思うな。寶吉祥道場の特色は、この一生で少なくとも阿弥陀仏の所へ行けるように教えることだ。あなたたちは聞かずに勝手に自分の生活をしている。それならそれでいい。もし俺がそんなに世俗的なら、他の方のように柱一本何万円もして前に立てて「一生福報がある」と守ってやることもできる。だがお経には書いていないから私はやらない。法本にも「柱を壇城の前に置けば加護が得られる」とは書いていない。私は見たことも聞いたこともない。表向きは仏法と言いながら完全に外道だ。リンポチェの所は当然厳しい。阿弥陀仏の所へ行くのは口で言って少し唱えれば行けるものではない。これはあなた自身のことだ。自分で実行してやれ。夢を見て阿弥陀仏に会えることを期待するな。

発願の力が足りなければ、阿弥陀仏には届かない。阿弥陀仏は私たちから十万億の仏土、つまり十万個の銀河系ほど離れている。どうして適当に言っただけで聞こえると思うのか。たとえ仏が大神通を持っていても、こちらの力が強くなければ聞き取ってくれない。私たちが持咒するのは妄念を消すためだ。持咒の時にふっと一言清浄な言葉が出た時、その定の中で唱えた言葉を阿弥陀仏が聞く。あなたたちの一言一言、一句一句の真言がすべて自分のためで始まっている限り、阿弥陀仏には絶対に届かない。だからこそ多く唱えろと言っている。三千遍、一万遍唱える中で一言でも心が本当に清浄になれば、その時にようやく阿弥陀仏が少し聞き取ってくれる。

前回少し試してみたら、出家者なら修行できると思っている者がいたので、出家者に導かせた。この出家三十年以上の者は、自分は入定して念じていると思っている。だがお経にはっきり書いてあるように、持咒・念仏号には数珠を持つことが必要だ。なぜ数珠を持つのか。数えるためだけではなく、最も大事な点は、一句一句の仏号を連続して途切れなく唱えることにある。それは私たちの一念一念を数珠の珠のように一つずつ連ね、絶えず続ける訓練だ。この出家弟子は自分で賢いと思い込み、数珠を持たずに計数せず、入定して念じているつもりだ。何を念じているのか。出家者でありながら数珠も持たないで、形になるか。名相ばかり語って、実際の修行方法を全くやっていない。

以前私は言ったことがあるが、お経にはどんな材質の数珠がどんな効用を持つか書かれている。探せば記録があるはずだ。仏法の中の事柄は全部理由があって、適当に決められているわけじゃない。数珠を使う一番大事な理由は、私たちの心続を訓練して、念念が途切れないようにすることだ。ひとつひとつの念頭が仏号になる、つまりそれを使って訓練するんだ。あなたたちはまだ凡夫の段階にいるのに、どうして数珠を使わずに念じられると思うのか。不可能だ。さらに、数珠を使えば妄念が減る。もし数珠が役に立たないなら、釈迦牟尼仏が「もう要らない」と教えてくれただろう。空性を修めて、その境地に達している者だけが数珠を使わずに念じられ、加持でき、何遍唱えたかもはっきり分かるようになる。

あの日、私が「何遍唱えた?」と聞いたら「分からない」と言いやがった。自分は入定しているから数える必要がないと思っているらしい。もし本当に数える必要がなければ、いろんな法本に「この本尊は一万遍、十万遍唱えよ」とはっきり書かれていないはずだ。私は出家三十年超えのその弟子に言った。「あなた、いつから根本上師になったんだ?自分勝手なやり方で修行していたら百世かかっても成就しないぞ。言うことを聞かないで、出家三十年やってるからって仏法が分かると思うな。あなたに残っている唯一の福報は出家の相を現していることだけで、他は修行には何の役にも立たないものばかりだ。」

私たちは数珠を持つのは、自分が仏教徒だと見せるためじゃなくて、修行中に妄念や雑念を減らし、心の流れを数珠の珠のように一つ一つ連続させるためだ。これはすごく大事なことだ。なぜ数を数えるかというと、自分がどれだけ用心しているかを示すためだ。法門によっては唱えすぎるのも良くないし、少なすぎるのも良くない。法本には全部書いてある。多ければ良いと思うな。ある法門は多く唱えてはいけない、ある法門は少なく唱えてはいけない。こういうことは上師だけが知っている。だから計数しろって言うんだ。数えることすら怠ける。なのに領衆して、彼らに自分がどれだけ唱えたかを知らせない。あなたは自分の修行をしているのか?彼らは添え物か?だからあの日大殿があんなに臭かったんだ。あなたの心が間違っていたからだ。菩薩乗の修行はすごく細かいところまでやるもので、粗いところじゃないし、文字だけで修行できるものでもない。自分でも分かっていないのに、何で大衆を導くことができるんだ?出家したってだけで導くことができるのか?よく考えろ。そんな修行の仕方じゃ、この一生を無駄にするぞ。

もう一年があっという間に過ぎようとしている。家に帰って、自分の心構えをしっかり見直せ。過去にどんな心で仏法を学んできたとしても、今からちゃんと自分を見直せ。『寶積経』に書いてある通り、過去世で何を修したかによって必ずその果を得る。この世のことだって同じだ。この世で六波羅蜜を修したなら必ず六波羅蜜の果を得る。何も修していないのに、どうして果を得られるんだ?それが無明だ。因果を信じていないということだ。

何を修すべきか。基本的な礼仏・拝仏・懺悔のほかに、最も大事なのは内に向かって自分の心を修することだ。長年帰依している者がちょっとした事で問題を起こすのは、傲慢で自分が決定できると思っているからだ。昔と同じやり方ではなく、方法を考え直せ。それが貢高我慢だ。あなたたちはただ道場・寺院の代表としてある事を執行しているに過ぎず、決定権を持つ者ではない。どんなことも必ず戻って聞くべきだ。中にはあなたたちには見抜けない道理があり、リンポチェだけが見抜ける。あなたたちは勝手に決め、勝手にやっている。

一日中叱られるのは、リンポチェの存在を無視し、リンポチェはもう年だから自分のやっていることはリンポチェが喜ぶだろうと思っているからだ。私は好き嫌いで判断していない。すべて衆生に利益のある法なら必ず受け入れる。逆に他人に余計な障害を生むことなら絶対に受け入れない。昨日も弟子が来て、寺に花を植える供養をしたいと言ったので叱った。人に自分の供養を知られたいのか? 私はこれだけ多く供養してきても一度も言わなかった。法王が公に言って初めて言った。誰もが功績を誇りたがる。どんなことをしても必ず果がある。功を誇る必要はない。こうすればリンポチェが自分に優しくしてくれる、法を伝えてくれると思うのか? ますます伝えない。なぜならそれは傲慢心だからだ。

今私が一番感心しているのは、私たちの仏寺を建ててくれている工人たちだ。最近こんなに暑いのに、彼らはずっと働いている。あなたたちはどうだ? 彼らは給料をもらっているが、それでも熱中症になってもやり続けている。私に花を植えてあげるだけで大したことをしたつもりか?さらに写真まで持ってきて見せる。私は明らかに別の弟子に彼と連絡を取るように指示したのに、彼はその弟子を飛ばして直接来る。自分が大物だと思っているのか?帰依が長いからリンポチェは自分にもっと良くしてくれると思ったら、そこで問題が起こる。私は全員を平等に扱う。歯磨き粉を供養してくれた弟子にも、供養は受け取らずに同じように超度している。普通なら供養していないのに、なぜ往生後に頭で穴を開けてあげるのか? 彼女が供養の心を起こしたからだ。供養の仕方は正しくないが、往生後に行ける所に影響し、浄土に行けないかもしれないが、供養の心があるので三悪道に落ちないようにしてあげた。彼女の供養は私が一千元だけ受け取った。今では外で経を唱えるだけで一千元では済まず、何万元もかかる。私はこうして彼女の供養を成就させている。気持ちがあればそれでいい。だからあなたたちのリンポチェは普通の人ではない。誤解しないでくれ。

今日これだけ話したのも、あなたたちの供養のためではない。私はいつでも供養を受け取らないことができる。先週すでに自分をいじめるように供養を全部返した。あなたたちは一日中自分をいじめている老人を少しは気の毒に思って、ちゃんと話を聞いて仏を学び、ちゃんと修行し、あなたたちのその悪い習慣を改めることができるか?(大衆「はい」)だんだんひどくなっているのは、私が年を取っていじめやすくなったからか? 私はもう78歳になった。私が決めれば、何でも要らないことができる。今はまだ決めていないのは、法王がまだ出関していないからだ。私は法王に引退したいと何度も報告したが、彼は許さなかった。私はもう戻らないと何度も報告した。最後の時、法王は私が戻らないのはあまりよくないと思った。私は少し考えた、戻っても意味がない、仏法を教えて何十年、修行できる人をほとんど見なかった、たぶんそれは私の縁、私の運命なのだ。

今日あなたたちが修行できているかどうか、仏を学んでいるかどうかに関係なく、一日でも私の帰依弟子であり、道場や仏寺を離れていない限り、私ができること、教えられること、守れることは全部する。あなたたちが修行できないのはあなたたち自身の未来の果報であって、私には関係ない。しかし私は自分の命をかけてこのことをやり遂げる。私は自分自身をよく分かっている、いつか離れたいと思えば去る、今もまだ残っているのは法王がまだ閉関しているからだ。あなたたちの人生を無駄にするな、働いたり会社に行ったりすることが大事だと思うな、それがないと生きていけないと思うな、それらはただ人生で必ず通ることにすぎない、毎日食べることと同じだ。しかし毎日食べることは生死を解脱できることではない、阿弥陀仏の浄土に行けることでもない。だからネットでインフルエンサーをやっている人は、自分の写真をどれだけネットに載せても、どんな高級車を走らせても、お金を多く稼げると思うな、お金を稼いだら病気になる、なぜならネット上では必ず言ってはいけないことを言うからだ、因果はとても明らかだ。

乱れた末法の時代において、伝法者であることはとても辛い。なぜなら一心に一切の有情衆生が輪廻苦海から離れられるよう願っているからだ。しかし有情衆生の業は重く、短い数十年で衆生の問題が解決できるものではない。だから未来には必ず多くの菩薩が転生して地球の衆生を救う。あなたたちは「リンポチェはなぜ来ないのか」と聞くかもしれない。来るのは、地球の衆生に対して私にまだ借りがあるからだ。この生で必ず清算し、清算したらもう来ない、借りもなくなる。私は未帰依信者からの供養を受け取らない、それは借りを作りたくないからだ。実際、私はとても苦しい。私から離れて行った弟子やスポンサーが他の所へ行ったのは、私が厳しく、菜食を求めるからだ。残っている千人のあなたたちは、たぶん私を絡め取る力がとても高い。まるで「煙雨濛濛」の歌詞のように、絡んで絡んで、あなたたちに絡まれて今に至る。私の老いた命はもうすぐ尽きる。

あなたたちが本気で修行してくれるなら、あなたたちに絡まれて私の老いた命が尽きても、それはそれで価値がある。リンポチェが教える仏法は耳に入れて、実際に行うことだ。あなたたちが過去に何を学んできたかは関係ない。私は経験があり、実際に修行して結果を出してきたし、私が他の人にはできないことをやってみせたのは、その修行の経験があるからだ。昨日、帰依して八年になる弟子が懺悔に来た。私は彼女に「妊娠中に味の濃いもの、塩辛く辛いものを食べたから娘が皮膚炎になったのだ」と言った。彼女は私の前で「そんなことはない」と言ったが、帰ってから思い出したという。夫が濃い味付けを好むので、彼が作る料理も濃い味になっていた。しかもその夫はケチで、私のレストランで夕食を買ってきてあげなかった。結果、塩辛く辛いものばかり食べて子どもが病気になった。全部自分たちがやったことだ。これからは「ない」と私に言わないことだ。「ない」と言うと私が間違っていて、あなたが正しいということになる。帰ってから思い出したときには、加持力はもう遅くなっている。リンポチェは軽々しく口にしない。この夫婦の懺悔は余計なことだった。なぜなら彼らは私が間違っていると思っていたからだ。子どもが加持した水を飲んで少しは良くなったか?(弟子が報告した。「はい、子どもの赤みはすでに半分良くなり、夜も痒がらず引っ掻かず、泣かずに眠っていました。とても不思議です!」)(大衆が拍手)私はただ子どもがかわいそうで、母親が夜通し看病して目の下が真っ黒になっていたので、昨日は母親が一晩ぐっすり眠れるようにした。リンポチェが具徳の上師であることを知ってほしいだけだ。医者に頼んで娘をその日のうちに良くさせてみろ。私が話したときに「ない」と言うなど、まったく仏法を信じていない、心に仏法がない証拠だ。

私は軽々しく口にしない。あなたたちはこの教訓を永遠に覚えておくべきだ。私の言葉を受け入れないということは、あなたに問題があるということだ。私の加持を受け取れなくなる。あなたがその場で承諾せず、問題を解決する方法を考えるということは、受け入れていないということだ。さっきはっきり言ったように、上師が口にする言葉はすべてあなたたちにとって良い言葉だ。あなたたちが聞かなければ悪くなる。あなたたちはまず反発し、自分にはできない、やれないと思う。あなたたちは先に「やります」と答えることができないのか。

ちょうど私が仏寺を建てたときのように、私は「土地がない、お金がない」とは言わない。上師が口にしたことは絶対にやる。法王が「徳を具えたリンポチェには一つの仏寺が必要だ」と言ったので、私はやった。なぜ私が言っていることがあなたたちに通じないのか。私はこういうことも話したことがある。ある年、法王が法会を開いたとき、主催者が私に法衣を着るよう通知しなかった。私は法王の門口に着いたが、まだ中に入っていなかった時、法王は大勢の人の前で私を叱った。「なぜ法衣を着ていないのか」と。あなたたちなら必ず「誰も自分に知らせなかった」と説明するだろう。しかし私は一言も言わず、すぐに「法王、着替えてきます」と報告した。あなたたちにはできない。私は弟子として上師との関係をきちんと守ったので、法王はその後どんどん多くの法を私に伝えた。法王は誰も私に通知しなかったことを知っていて、わざと試したのだ。あなたたちは自分の面子のために必ず先に説明するだろうが、私は説明しない。法衣を着ていないのは自分の過ちだからだ。こうして私は修行の資格を得たが、あなたたちはそうではない。

あなたたちが自分と上師との関係を切り替えられないなら、私がどれだけ多くの経典や仏法を説いても理解できないし、上師からの加持も受け取れない。あなたたちはずっと拒んで、自分の生活が上師の言葉を受け入れられないと思っている。法王が私に仏寺を建てろと言ったとき、私の生活のやり方でもそんな大金はなかった。それでもやった。家に帰ってよく考えなさい。一年がもうすぐ終わるのに、生きても死んでもいないような、まるで生ける屍のように何のためにそんなみじめな状態でいるのか。本来仏法を学ぶことは楽しいことなのに、あなたたちは何か間違えるとすぐに苦い顔をする。泣いてどうするのか。仏法を聞かないからだ。田という弟子は何十年も帰依しているのに、昔間違ったことを言って今も間違ったことを続けている。悪い癖が直らず、すべて自分の考えを優先している。

上師の話を聞かず、上師に注意を払わなければ、すぐに間違いを犯す。灌頂のときの法本にも「常時令師喜(常に師を喜ばせよ)」とある。上師は、あなたたちが仏法を学ぼうとし、改めようとしている姿を見ればうれしいのであって、供養の額ではない。なのにあなたたちがいつまでも同じことをしているのを見れば、洪という弟子のように、生きても死んでもいないような生活になる。彼は英語翻訳の責任者なのに二年間一篇も翻訳せず平然としている。どれだけ私に恭敬しても無駄だ、仏法を尊重していないからだ。彼らは外国人が読まないと思っているが、読む人がいるかどうかにかかわらず、私が翻訳せよと言えば翻訳するべきだ。二人の日文翻訳も同じく翻訳していない。あなたたち翻訳班の怠けは、衆生に対して恥ずかしくないのか。道場のことを怠けて、良い果報があるはずがない。今すぐ改めなければならない。私に懺悔するのではなく、衆生に申し訳ないと思うべきだ。あなたたちはボランティアだから、やめたいなら早めに言えばいいのに、それも言わない。情報班も同じで、一年近く経ってもコンピュータを使いこなせず、誰も道場や仏法や上師のために真剣に働こうとしない。各自の考えだけで動いているなら、もうやめればいい。懺悔しに来るくらいなら、最初から能力がないと早く言えば、リンポチェは理解する。

今日は経典の話にまだ入っていない。あなたたちがどれほど手がかかるかが分かる。

アキ護法と回向の儀軌を終えた後、リンポチェは引き続き開示されます。

以前、私は皆さんに説明したことがあるが、慈悲心と菩提心とは同じ修行の結果ではない。祖師ジッテン˙サムコンの『一意』にもそう書かれている。私は以前からも申し上げているが、慈悲心がなければ仏法はない。慈悲心を修めていなければ、密法は決して伝えない。慈悲心については既に説明しているが、皆さんが本尊と相応しないのはなぜか。特に観世音菩薩は慈悲心を主に修めているのに、皆さんは慈悲心を修めていないからだ。

祖師ジッテン˙サムゴンはこう言っている。菩提心と悲心には違いがある、と。悲心は仏教と外道に共通する法でもある、と。この言葉を理解するためには、例えばある宗教でも善い行いをし、衆生を助けることがある、ということを考えるとよい。だから悲心は必ずしも仏教だけにあるものではなく、外道にもある。さらに、動物が苦難に遭った時でも、自分の子や親族を見れば悲心を起こすことができるのだから、まして他の有情においてはなおさらである。

この一段はとても大事である。仏・法・僧およびすべての上師に対して、信じ、仰ぎ、喜ぶ心を起こし、捧げるし、そして菩提心を起こすべきである。だからこそリンポチェは菩提心を起こすことができる。すでにこの言葉どおりに実行しているからである。

悲心は苦しみを遠ざけ、菩提心は仏果を証得することができる。つまり、慈悲心だけでは仏果を証することはできないが、菩提心があっても慈悲心がなければ衆生を輪廻の苦しみから遠ざけることはできないという意味である。所縁の対象から見ても異なっており、悲心は有情衆生を縁じ、菩提心は仏果位を縁じる。仏果を修めるには必ず願菩提心が必要であり、いわゆる世俗菩提心と勝義菩提心がある。外道も慈悲心を修めることができるが、その慈悲心の大切さは有情衆生に向けられる点にあり、菩提心の縁は仏果を証することである。だから私たちが発する願はすべて仏果を証するためのものである。一人の上師がすでに菩提心を発しているときは、必ず衆生に輪廻から解脱するよう教え導く。この生で仏果を証することができなくても、少なくとも阿弥陀仏のもとに至ることを願わせる、これこそが菩提心である。

もし阿弥陀仏のもとへ往生することが「自分の死を宣言することだ」と思うならば、それは慈悲心がなく、上師を信じず、菩提心も持っていないということであり、この一生の仏教修行は無駄であり、ただ習っただけで終わってしまうことになる。あなたがたは今、すべて外道の修行をしていることになる。この段を話し終えた今、はっきり理解できたはずだ。

だから弥勒菩薩はこう言っている。「発心は利他のために。正しい菩提を希求する」と。発心とはいくらお金を寄付するかということではなく、私たちがどんな菩提心を発してもすべて衆生を利益するためであり、正しい菩提心を求めることを願うことだ。だから今日、出家した弟子たちを含め、あなたたちを叱ったのだ。これらのことをしなければ、どうして悟れるのか。悟りとは、自分が輪廻する原因がどこにあるかをはっきり知り、それをもうしないということであり、悟りとはどう修行して衆生を利益するかを知ることであって、一日中自分だけを修めることではない。彼らは自了漢・阿羅漢になることさえできていない。なぜなら阿羅漢は毎日少なくとも三座から六座の禅定を修するからだ。

だから、大乗仏法と金剛乗仏法には二つの心が最も重要だ。慈悲心と菩提心だ。あなたたちは今、慈悲心なしに真言を唱えている。先週、仏寺の大殿で真言を唱えた時、唱えれば唱えるほど場が臭くなったのは、慈悲心を持たずに唱え、自分や家族のためにだけ唱えていたからだ。慈悲心がないから観音菩薩の慈悲心と相応しない。なぜ私が法座に昇って百遍ほど唱えるだけで香りが出るのか。それは、私は衆生を利益するために唱えているからであり、私の慈悲心が菩薩と相応しているからだ。私は自分のために唱えているのではなく、あなたたちのため、六道の一切有情衆生のために唱えている。だからすぐに相応する。あなたたちが慈悲心を修めないなら、学んで何になるのか。上師にさえ慈悲を持てない者が、他人に慈悲を持てるはずがない。『一意』には、上師の恩徳を心に刻まない者は慈悲心・菩提心を修めることは決してできないと書いてある。上師を単なる先生のように、課題を教えるだけの存在だと思わないことだ。

後に自分自身が仏果を証得する、ということを言っている。これは「この一生で仏果になる」という意味ではなく、その道を歩み、その願い・誓いを立てて行くということだ。この部分は、菩薩道・金剛乗を修める私たちにとってとても重要だ。慈悲心がなければ仏法は現れない。慈悲心という土壌がなければ菩提心は芽生えない。慈悲心と菩提心は果が異なるが、私たちは二つを同時に用いる必要がある。菩提心を発した上師は必ず空性を証得している。空性とは「何もない」ということではなく、因縁法をはっきりと知ることだ。だからこそ、菩提心を行じても執着がない。例えば、往生した弟子を助ける時、供養を受け取らなくても同じようにできる。空性の菩提心があるからこそ、衆生が苦しんでいれば、供養があるかどうか、尊重されるかどうかに関わらず、縁がある限り必ず助けるのだ。

だからもう供養のことを私にいちいち言わないでほしい。リンポチェは命も金も要らない人で、仏法と上師に教わった方法に基づいて菩薩道を行じている。これから私が話すときに反抗したり口答えしたりしても、その結果は私には関係なく、自分がつくったものになる。私はむやみにあなたのことを口にしないが、口にするときには必ず理由があるから、そのまま聞けばいい。今できなくてもかまわないから、その方向に向かってやっていけばいい。さっき話したように、法王に「仏寺を建てなさい」と言われたとき、土地も人もお金もまったくなかったが、私は「土地がない」「人がいない」「お金がない」とは一言も言わず、だからこそ仏寺を建てられた。あなたたちは自分の家のことさえうまくいかないが、それは慈悲心と菩提心がないからで、それは絶えず訓練していく必要がある。

どうやって自分を鍛えるかというと、執着する心を少なくし、損をしたくない心を少なくし、恥をかくのを恐れる心を少なくし、人に悪く言われるのを恐れる心を少なくする。これらはすべて『仏子行三十七頌』に含まれているから、毎日自分を見直して、決して自分を甘やかさないようにする。花を供養した弟子が叱られたのは、『仏子行三十七頌』を修していなかったからで、もし修していたなら、決して功を誇ろうとはせず、私が指示した手順に従って行い、他の人を飛ばして私に会いに来るようなことはしなかった。修していなかったからこそ、私に褒めてもらいたいと思い、少しのことをして自分が立派だと思ってしまったのだ。

帰ってよく考えることだ。もしこのまま自分の時間を無駄に使うなら、戻った方がいい。仏法はとても貴重だ。私がこれらの法本を得るためには、多くの過程を経なければならなかったし、さらに翻訳も必要だった。そこでアキ護法がチベット語を翻訳できる人を送ってくれた。彼女はもともと体調が悪く、情緒も不安定だったが、今はだいぶ安定しているな(その弟子がうなずいて、はいと答えた)。なぜアキ護法がこの人を送ってきたのかというと、ちょうど彼女が必要だったからだ。これは、アキ護法が私に協力して、皆に仏法を教えさせていることを示している。実のところ、これらの法本は私自身には必要ない。私は全部やってきたし、全部知っている。ただ話さなければ、皆が「リンポチェは中身がない」と思うだろうから、今こうして見せているのだ(大衆が拍手する)。拍手は要らない。これは法王が私を鍛えているのだ。なぜなら、私の弟子は多く、さまざまな人がいるので、こうした道具が必要だからだ。

正直に言うと、この何十年もの修法の間、私はこれらの法本を見たことがなかった。《寶積経》に述べられている通り、私は前世に修行してきたからこそ、この世でこの果を得ている。これらは私が仏法を教えるために使う道具だ。今、仏寺が建ち、私が法座に昇って大リンポチェとなったので、ようやくこれらの道具が必要になった。皆に教えるためだ。自分がやっているかどうか、私ははっきりわかっている。さっき話したことは、皆も私が実際にやってきたのを見ているな(大衆「はい」)。私自身もこの法本を見たことがなく、翻訳の弟子が忙しく、最近になってようやく翻訳してくれたので、昨日その一文を見てとても嬉しかった。やっと皆を叱るのに役立つ一文が見つかったのだ。

みんなが今生でこうして直貢噶舉のように殊勝な仏法を聞くことができるのは、過去世から積み重ねてきた果報だ。だから無駄にせず、気に入らないからといって他のところへ行かないようにする。もちろん行くのは自由だが、行ってしまえば未来の生々世々、もう直貢噶舉の法を聞くことはできなくなる。チベット仏教の中では、寧瑪(ニンマ)以後から始まったのが噶舉(カギュ)で、四大八小と呼ばれるが、直貢が一番大きいわけではない。四大八小というのは宗派の大きさや教えの小ささを指しているのではなく、祖師ジッテン・サムゴンがパグモ・ドルパ尊者の弟子として入室されたことを示している。いわゆる四大のうち、今ではほとんど残っておらず、現在噶舉派に残っているのは竹巴噶舉(ツェルパ・カギュ)・香巴噶舉(シャマル・カギュ)・直貢噶舉(ディクン・カギュ)・噶瑪噶舉(カルマ・カギュ)・達隆噶舉(タクルン・カギュ)だけだ。

皆がこの果報を得て今世で直貢噶舉の仏法を聴き、祖師ジッテン・サムゴンの開示を耳にしているのは、累世の修行の結果だ。私は過去世ですでに聴いていたので、この世ではすべて実行できている。今世で私は皆にこの種を播いているが、受け入れるかどうかは自分自身の決めることだ。もうリンポチェに加持してもらって阿弥陀仏への心念を堅定にしてほしいなどと求めるな、それは自分のことだ。なぜ食事のときには私の加持を必要とせずに、必ず食べると決めているのに、仏道のことになると加持が要ると思うのか(大衆笑)。恋人と付き合うときにも、加持してもらって必ず付き合うと決めているわけではないだろう、全く勝手な話だ、あなたに本当に感心しちゃうよ。

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2025 年 09 月 11 日 更新