尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年8月31日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ猊下は、8月31日午前9時15分より寶吉祥仏寺密殿にてご自身で修法を開始されると同時に、出家衆に弟子らを導き、午前9時30分より大殿にて六字大明呪の持誦を開始するようご指示なされました。 午前11時10分、リンポチェ猊下は密殿での修法を終えられると、休む間もなく大殿へとお越しくださり、弟子たちの持呪の様子をご覧になりました。幡、幢、出家僧、八供女、宝傘、楽器、薫香などの荘厳な行列にてお迎え申し上げ、リンポチェ猊下は法座にお登りになり、六字大明呪の持誦をなされました。
リンポチェ猊下が「六字大明呪」を持誦なされている間、大地は震え、場を覆っていた重く濁った気は清らかな空気へと変わりました。リンポチェ猊下および壇城におまします諸尊の御尊像はまばゆい光を放ち、壇城からは芳しい妙なる香気が立ちのぼり、大殿の内は限りなく明るく照らされました。参列者の多くは、頭上より甘露が注がれるような清らかな感覚を覚え、その清涼さは心の奥深くにまで染み渡りました。リンポチェ猊下の慈悲に満ちた法音は、会場におられた一同の心のざわめきを鎮め、静かなる安らぎをもたらされました。
リンポチェは続けて開示されました:香りがするのがわかりますか。(大衆:はい、わかります) あなたたちは2時間も唱えていたのに、(私が大殿に入った)最初は臭いがしていました。私が200回以上唱えてからようやく香りがしてきました。あなたたち、どれだけ臭いんだ!2時間も唱えていたんだぞ。一人で最低何回唱えましたか。 (出家弟子:報告します、リンポチェ。何回唱えたかは数えていませんでした) 数えすらしないで、何の出家衆なんだ。 皆さん、何回くらい唱えましたか。 (弟子:リンポチェ、6000回ほどです) 一人が6000回唱えて、全体で600万回にもなるのに、それでもまだ臭いとは!自分たちが修行していると思い込んではなりません。今日私が実演して見せよう:リンポチェとは何か、弟子とは何かを。
私が唱えると香りが現れるのに、あなたたちが唱えても何も起こらないのはなぜでしょうか。みんなは自分が修行しているつもりでそこに座っているが、いったい何を修行しているのでしょうか。私が(大殿に)入ってきたときに感じたのは、臭いでした。汗臭く、人間臭いばかりでした。今日はわざと、あなたたちがどうやって真言を唱えるのか観察していました。出家者であるにもかかわらず、何回唱えたか数えもしない、何と言っても自分のことばかり修めています。定に入ったのか。悟りを開いたのか。観音菩薩を見たのか。ますますでたらめなことを言うようになって、もはや出家者らしくなくなります。
仏法を学ぶのはとても簡単です。大切なのは、心を改めることです。でも、あなたたちはまだ、自分が平穏で、幸せで、一般人並の人生を送りたいと思っています。この世で借りを返したくないのなら、それはもう仏法とは関係がありません。多くの真言を唱えれば悟りが開ける、すべてが平安になる――そんなふうに考えていいます。さっきの出家弟子のように、入定したつもりでいても、何回唱えたかさえ分かっていません。心を入れ替える決意もせず、ただその日暮らしのように生きていて、帰依して、菜食をして、真言を唱えていれば、観音菩薩が助けてくれると思ってはなりません。あなたたちの心が正しくなく、菩提心を発しておらず、阿弥陀仏のもとへ往生する決意もないまま、ただ日々を過ごしているだけでは、いずれ命の尽きるその時、リンポチェはもういないから、誰もあなたたちを救ってはくれません。
さっき、あなたたち一人ひとりが6,000遍唱えたのか5,000遍だったのかに関係なく、誰一人として阿弥陀仏のもとへ行こうという発願をしていませんでした。ただ自分自身のために、あるいは冤親債主やご先祖のために唱えていただけです。悪い癖というものは、何をどう言っても、なかなか改められません。出家者が自分が早く悟って果位を得たいと願って唱えるのは、それは仏法の菩提心とは無関係です。ですから、どれだけ修行しても、本当の成果は得られないのです。香りが出たのは、冷房を強くしたからではありません。壇城からずっと香りが漂ってきたのです。それに比べて、あなたたちはどれだけ臭いのか!前に座っている者は、出家者を名乗っていられるのか。もし何の現象も現れないのであれば、それは成就者とは言えません。それははっきりとあなたたちにも見える現象です。よって、上師を見下すような男衆も女衆も、心を改めなさい。もし私と同じレベルまで修行できたというのなら、私を見下してもよいです。そうだとしても、それはやってはいけないことです。なぜなら、仏経にははっきりと書かれている――菩薩道を修行する者は、決して傲慢の心を起こしてはならない、ほんの少しでも傲慢な心を持てば、それまで積んだすべての功徳が消えてしまうからです。
なぜわざわざ台北からここまで来て、六字大明咒を唱えるのかと、あなたたちは不思議に思っているでしょう。今回は、あえて環境を変えて、あなたたちの様子を見てみようと思ったのです。しかし、結果はやはり同じで、相変わらずの態度です。私は密殿での法を修め終えて、すぐにここへ降りてきました。そして、さっき200遍以上唱えたところで、香りを嗅いだのです。もともとは、とてもひどい臭いがしていました。さっき、あなたたちは何も臭いを感じませんでしたか。臭いとは思いませんでしたか。それとも、もう臭いに慣れてしまっていたのでしょうか。同類だから、お互いに臭くても気にならない――そんな状態なのではないですか。
今日ここに来てもらったのは、あなたたちにお金を使わせるためではありません。伝えたかったのは、どれだけ場所が清らかでも、あなたたちの心が清らかでなければ、意味がないということです。仏寺が清らかな場所だから、そこに来て唱えれば、心も少しは落ち着いて清らかになるだろう――そんなふうに思っているかもしれませんが、違います。たとえば、あの出家者が「今日は自分が真言読誦をリードする番ですか」と聞いてきました。彼は出家している人で、出家者がリードしなくて、誰がするのですか。そんなこと、いちいち聞く必要があるでしょうか。叱られるのが怖いのですか。私は思いました――彼は本当に、修行を続けるどころか、どんどん後退している、と。
続いて、護法の修法と回向の儀軌が行われました。回向の儀軌が進行している最中に、何人かのボランティアが立ち上がって大殿の外へ供養箱を取りに行きました。しかし、戻ってきたとき、扉を閉めずに入ってきたのです。これに対してリンポチェは、扉を閉めなさい、まだ外にいる者は中に入ってはいけないと指示されました。
回向が円満に終わった後、リンポチェは開示されました:毎回の法会が終わる前に、大勢の人が外へ走り出すけど、よく言えば供養箱を取りに行くと言いますが、それはそれほど大事なことなのでしょうか。みんな、法会が終わってから供養箱を持ち出す方法を考えられませんか。もし急いで帰りたいなら、もう来なくていいです。供養箱を外に置くことは、誰の提案ですか。入ってくる人もまたゆっくりと歩いています。扉を開けっぱなしにして、冷房がずっと外に逃げてしまっています。刻一刻と料金が発生されていることをご存じでしょうか。次の法会では、私がまだ回向を唱えている途中に誰かが離れたら、その人はこれからもう来なくていいです。そんなくだらないアイデアは聞きたくないです。供養箱を取ってきて、ずっと手で持ったら、赤い紙の色が服に付きませんか。あなたたちはちゃんと学校に通ったことがあるのか。社会に出て働いたことはあるのか。こんな小さなことまで私が頭を悩ませなければならないのでしょうか。もし解決できないなら、供養など要りません。私なら土曜日の一日だけで多くの供養金を突き返すことができるのに、あなたたちはそんなに供養したことがあるのか。まるで本物のボランティアであるかのように振る舞っていますが、みんな表面だけで仏道を学んでいるだけで、誰も対策を考えようとしません。
さっき、この十数人の様子を見ていたが、外に出てから戻ってくるまで、ほぼ5分かかっていました。みんなもそれを見て、ただあなたたちがあちこち走り回るのを見ているだけです。もし私がそんなにお金が必要なら、とっくに法会の前に集めてしまっているし、そうなると、皆もそんなに苦労しなくて済むはずです。なぜ事前に供養をするような方法を考えようとしないのでしょうか。どうして必ず法会が終わってからでなければ供養しないのでしょうか。つまり、私が法を修さなければ、供養もしないということなのでしょうか。(大衆:違います)でも、私はあなたたちがまさにそう考えていると思っています。あなたたちは私の帰依弟子なのに、なぜ事前に供養しないのでしょうか。1,000人いて、誰一人として頭を使って動こうとしません。
だからさっき、私が入ってきたときにこんなに臭かったのはなぜでしょうか。それは、みんなが自分自身のためだけに修行していて、慈悲の心がないからです。上師のためでも、道場のためでも、仏寺のためでも、教派のためでもなく、みんな自分のためだけに動いています。自分はボランティアをしている、供養箱を持つのは功徳があると思っているだけです。もし次回も同じことがあったら、私は永遠に供養を受け取らないようにします。また供養を受け取らない状態になります。本当にひどい人たちです。こんな簡単なことを私が処理しなければならないなんて、理事も出家者も何をしているのか分かりません。出家者は私の金で贅沢な生活をして、漢方医の診療を無料で受けています。たとえ私があなたたちの意見を聞かなくても、あなたたち自身は意見を出せるんです。自了漢を修めているのではありませんか。大乗仏法を修行していると、よくそんなことが言えますね。
今日はなぜ信者の皆さんを入れなかったのでしょうか。それは、みんなをしっかり叱るためです。供養箱を取りに行った人たちがのんびり戻ってきて、冷房の効いた空気が外に逃げていくのに気づきません。そのせいで仏寺は余分に十数元も電気代がかかるのに、誰も供養をスムーズに進める方法を考えようとしません。毎回、古いやり方に固執しているだけです。次の法会でも供養の受け取り方法を改善できないなら、もう私には供養をしなくていいです。仏寺に対しても供養は不要です。それでも法会には来てもらいます。私は真言を唱えるとき、金持ちか貧乏か、供養したかどうかで区別はせず、平等な心で修法しているからです。皆さんが間違っていようといまいと、皆さんを菩薩として見なして法を修めているからです。2時間かけてようやく6,000遍唱えたんですって。よくもそんなことが言えますね。それで、一体どうやって閉関修行しようというのですか。
人間の仏法を学んではなりません。むしろ、そのようなものは本来、存在すらしないのです。私たちが学ぶべきは、出世の仏法・生死を解脱するための仏法です。もしあなたたちが世間の仏法、人間の仏法を学びたいのなら、他の場所へ行きなさい。ふざけたことばかり言って、ますます常識外れです。40人以上も集まって供養箱を取りに行って、人数が多ければ仕事がはかどると思っているのですか。早く終わらせるつもりですか。供養箱がたくさんあったほうが、供養を入れる人にとって便利だからいいと思っているのなら、もう供養なんてしなくていいです!今日は供養は受け付けません。あなたたち、本当にしつこいし調子に乗りすぎ!自分が偉いとでも思ってるんですか。
今日は特別に皆さんに一つ教えを授けます。皆さんが何を唱えているのか、よく見てみました。出家者は数を数えずに唱えて、自分のためだけに唱えています。彼らもまた衆生の一つです。六字大明咒をそうやって唱えれば悟りが開けると思っているのではありませんか。観世音菩薩は衆生を救うためにいらっしゃるのに対して、あなたたちは自分自身しか助けていません。そのままでは、悟りが開けますか。あと10回生まれ変わっても、悟りは開けないでしょう。
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2025 年 09 月 03 日 更新