尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年8月24日

尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェ猊下が法座にお登りになり、《仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十二「禅定波羅蜜多品第十之二》についてご開示くださった。

リンポチェ猊下は出家衆に指示され、会衆を導いて帰依発心・七支供養・《随念三宝経》・《仏子行三十七頌》・『八聖吉祥祈願文』を唱和させた。その後、猊下は六字大明呪を持誦され、参会の大衆は脈輪が震え、全身に熱を覚え、また、リンポチェ猊下の尊身と壇城から金色の光が放たれるのを目撃し、会場には妙なる香気が満ち溢れた。衆生の煩悩は静まり、清らかにリンポチェ猊下の殊勝で清浄なる仏法の教導を領受することができた。

続いて、リンポチェ猊下が尊い仏法の開示を賜った。

経典に曰く:「又此有情根性以布施相應。此有情根性以淨戒相應。此有情根性以忍辱相應。此有情根性以精進相應。此有情根性以禪定相應。此有情根性以勝慧相應。」

有情とは、すべての有情衆生を指す。ここで言うのは善道に属する有情衆生であり、過去世あるいは今生において修した法門は必ず相応する。ただその相応がいつ現れるかという違いがあるだけである。釈迦牟尼仏はここをとても詳しく説かれており、なぜなら衆生それぞれの好みは異なるからである。ある者は慈悲の修行を好み、ある者は布施を好むなどして、特定の法門に特別に相応するのである。今生で六波羅蜜のいずれかを絶えず努力して修すれば、この一生のうちに必ず相応する。その「相応」とは、自らを助ける方法を身につけ、また衆生をも助け、しかもその効果を生じさせるという意味である。

経典に曰く:「又此有情根性以大慈為因。此有情根性以大悲為因。」

この二つの句は、一部の有情衆生が修行するにあたり、その因を「慈悲」としていることを示している。すなわち、彼の一切の修行の方向や法門はすべて慈悲を因としているのである。以前にも解き明かしたように、慈と悲は二つの異なるものであるから、ここでも仏は「慈悲」と一つに言わず、「慈」と「悲」とを分けて説かれている。

とは、自らの良きものをもって衆生の悪しきものと交換することである。密教には専門にこの法門を修する法があり、その交換の方法とは、自らが十分な福報と資糧を積み、さらに菩薩道を行ぜんと発心したとき、その福報をもって衆生が学仏において遭遇する一切の障礙や困難を代わって担うことである。『地蔵経』においても、菩薩は学仏の衆生をして一切の障礙を超えさせると説かれており、まさに「因」から始まるのである。もし仏道修行の初めから大慈を因としなければ、せいぜい阿羅漢に至るか、あるいは阿修羅道や鬼道に堕するのみである。ゆえに「因」が肝要であり、学仏する理由が何であるのかを正しく定めねばならぬ。

その理由を自ら確立すべきであり、例えば病気や不順、家庭の貧困といった些細な事柄のために学仏してはならない。これらはすべて過去世に自らが為した因果の結果である。もし修行によってこれらを変え、克服したいと願い続けるだけであれば、先に説いた六波羅蜜を修することはなく、も行ぜないことになる。したがって仏菩薩とも衆生とも相応することはない。

多くの人は、ただ毎日経を唱えれば仏菩薩が聞いて助けてくださると思っているが、そうではない。自らが行じる方法が仏菩薩の方法と異なれば、相応するはずがない。毎日木魚を打ち、経を唱え、坐禅し、礼拝し、あるいは真言を誦し観想するとしても、仏の説かれた六波羅蜜に基づいて修めず、慈も修せず、悲も修せず、ただ自分のことばかりを求めるならば、本尊とも上師とも衆生とも相応することは決してない。

「不相応」とはどういう意味か。人天のわずかな福報だけを修すると、来世においては人として生まれるか、あるいは福報を具えた畜生として生まれ、人から「可愛い」「好ましい」と思われることはあっても、生死を解脱することはできない。だからこそ、法会の灌頂の前には必ず参列する衆生にその動機を問うのである。すなわち、あなたの「因」は何かということである。もし自分自身でそのを確定できず、「苦しみたくないから学仏する」と思うのであれば、来ない方がよい。なぜなら、その苦しみはあなたが累世にわたって造ってきたものであり、仏菩薩とは関わりがないからである。学仏するとは、新たな苦のを造らないためであり、その結果として未来には苦の果を受けない。ゆえに「願眾生離苦及苦因」と誓願するのである。苦を離れるとは、すなわちもう二度とその行為をしないことである。苦因を離れるとは、もう新たに苦の因果を生み出さないということである。

多くの者は「学仏すれば今の一切の苦を解決できる」と望んでいる。しかしそのように修行しても、永遠に成就は得られない。せいぜい人天の果報を得るにとどまり、仏菩薩・本尊とは決して相応しない。たとえ毎日経を唱え、礼拝したとしても相応しない。決して観世音菩薩に「私は苦しい」と訴えてはならない。まず自らが苦を離れ、不苦の境地に至ってから発心して修行すべきである。他人にそう言えば心を動かすことはあるだろうが、私に言っても無意味である。私は多くの苦を経てきたが、決して観世音菩薩に「早く私の苦を終わらせてください。心を安定させ、修行できるように」と願ったことはない。むしろ「金銭に不安なく修行できるように」「体調が良くなるように、病に煩わされず修行できるように」「癌細胞さえも共に修行できるように。苦しくなくなるとちゃんと修行する」といった考えは、すべて戯論に過ぎぬ。仏経に説かれる六波羅蜜や、を因としを因として修することとは、まったく関係がない。

この一群の男衆には修行している者が一人もいない。不共四加行を求めてきて、しかも求められたのは、ほとんどが女性だ。男衆は一人も求められなかった。なぜかと言うと、一度私が断ったら、もう来なくなるからだ。恥ずかしいと思い、気まずいと思い、求められなかったのは自分がちゃんと修行していないからだろう、と考えて「じゃあ、もう少し待ってみよう」となる。昔、女の子を追いかけていた時、何度も断られても、なぜ最後まで追い続けた?手に入れるまで追ったではないか。だから仏経には「末法の時代には学仏するのは女性が多く、男性はますます少なくなる」とある。仏経は「学仏は大丈夫の行為である」と説いているのに、お前たち男衆とはまるで関係がない。だが、女性の中にも二十一回も求めても私は答えなかった者もいる。このまま進んでいけば、寶吉祥は女性の道場になるかもしれない、私にも分からない。見てみろ、あの男衆たちを。生きているのか死んでいるのか分からないように学仏している。表面上はリンポチェを信じているように見えるが、修行を見れば信じているかどうかすぐ分かる。全く相応していない。誰もが主観が強すぎて、自分は間違っていない、修行している、やっている、と考えている。しかし仏経に基づいて言えば、お前たちは全員相応していない。

なぜ上師が法を伝えないのか。それは相応しないからだ。女性の中には二十一回も求めてきた者もいれば、十八回も来た者もいる。あなたたちはどうだ。三、四回求めに来ただけで来なくなる。なぜか。第一に恥ずかしいからだ。第二に多く供養しなければならないのではと恐れるからだ。家のローンや学費や家賃の支払いを心配して、「そんなにお金はない」と考える。そして「今は無事だから、退職した後にリンポチェに求めればいい」と思っている。しかし、その時には私はもういない。

だから、この経文は皆さんが見ているほど簡単なものではない。仏が私たちに告げているのは、この一生で相応するのは、必ず過去世でやってきたことがあるからだということだ。今で言えば、この一生で修行する原因がどこにあるか、ということになる。その因があれば、必ずその法門と相応する。もし大慈大悲を修すれば、相対的に衆生もあなた方の心に善をもって接し、相応する。なぜなら、あなたたちが表に出す感覚が攻撃性のないものになるからだ。なぜ人と喧嘩するのか?それは修行していないからだ。六波羅蜜を修していない。布施も惜しんでいる。これもしたくない、あれもしたくない、これも要らない。ただ観音菩薩に守ってもらうことだけを求めている。私は『寶積経』をこんなに長い間説いてきたが、観音菩薩が守ってくれるなんて一度も言っていない。ただ「修しなければならない」と言っているのだ。だがあなたたちはずっと修しようとしない。特にあの男衆たちだ。だから来週の土曜日、群がって法を求めに来るな。私は伝えない。特に来週の土曜日は私は仏寺に行くから、ここにはいない。

「此有情根性以大悲為因」。悲とは、一つの法門を習得して衆生を輪廻苦海から解脱させることを指す。だからと呼ばれる。

経典に曰く:「此有情根性以大喜為因。此有情根性以大捨為因。

この「」というのは、ただの「うれしい」という意味ではない。仏典に説かれている「」とは、輪廻を断つ喜びのことだ。慈・悲・喜・捨を修することこそ、四相を破る最も根本的な方法である。その後には「此有情根性以大捨為因」とも説かれている。もし衆生に「喜」を与えることができなければ、自分自身も真の喜びを得ることはできない。衆生にとって最も大切な喜びとは、単なる小さな欲望を満たすことではなく、輪廻の苦を解き放ち、そこから歓喜を得ることなのだ。例えば、多くの人が死後に私の加持を受け、すぐに顔つきが安らかで歓喜に満ちた表情に変わることがある。これは「大喜」である。なぜなら、その人はリンポチェに助けられ、もう三悪道に堕ちることはないと分かったからだ。

もしリンポチェが「大喜」を修していなければ、いくら加持しても効果はない。だがリンポチェが亡者に加持すれば、或いは家族が私の名号を唱えたり、私を観想するだけでも、その亡者の顔がすぐに変わるのだ。なぜ変わるのか?人が死んだ後には筋肉も動かず、神経も働かない。なのに口が閉じて、微笑んでいるような表情になる。それは亡者が「大喜」を得たからである。自分はもう救われたと分かったからだ。

いわゆる「大喜」とは、衆生を輪廻の苦海から救い出せるかどうかということであって、ただ仏法を少し語ったり、お経を唱えたり、慰めの言葉をかけることではない。これらは大喜ではないのだ。だからこそ、慈悲喜捨を修めた上師は必ず済度の力を持つ。最低限、ポワ法を成就していなければならず、すべての済度の法門を成功させることができる。この場にいる多くの人々も身近で人が亡くなった経験があるはずだ。リンポチェが加持するだけでなく、私の名号を唱える、あるいは私の姿を観想するだけでも、亡者の顔がすぐに変わる。そういう経験をしたことがあるだろう?(会場の多くの人々が「ある!」と答える)――こんなに多くの人が亡くなったのか?(一同笑)――これこそが慈・悲・喜であり、亡者自身がそれを知ったからだ。

とは、衆生を修めることではなく、自分自身を修めることである。すなわち修行者が一切を捨てられるかどうかということだ。ではそれはどこから来るのか。忍辱の法門から来る、布施の法門から来るのである。例えば昨日、私はまたいくらのお金を退けたか?(出家弟子が「リンポチェ、とても多かったです」と答える)――これこそなのだ。捨は本当に容易なことではないが、リンポチェは実際に捨ててきた。なぜ捨てるのか。それは、上師が供養を受けるときに、決して金を見て心を開くのではなく、布施をする人の現状を見極めて受け入れるからだ。昨日も、ある人が家を抵当にして借金し、その金を供養に持ってきた。私は言った。「いらない、それを持ち帰りなさい。」その人にその心があるだけで十分なのだ。ところが中には、まず受け取ってしまう上師もいる。――これが「捨」ということなのだ。

なぜリンポチェが名声を求めないのか――それも「捨」である。なぜリンポチェが人からどれほど罵られ、どれほど侮辱されても腹を立てないのか――これもまた「捨」である。少し前、ある弟子がいた。その夫の葬儀費用は私が出し、その娘も幼い頃から私が生活費を援助し続けてきて、今ではもう高校生になっている。だが、ある日突然「もう来ない」と言って来なくなった。その理由はここでは語らない。もし私が大捨を修していなければ、心の中でブツブツ文句を言い、不快に思っただろう。しかし私は「捨」を実践した。彼女がそれを仏法より大事だと考えるのなら、私はそれを手放すのである。実際、喜金剛の中にもこう説かれている。「縁のない者とは一切交わるな。縁ある者をこそ迎えよ」と。だから、そこの男衆よ、気をつけなさい。あなたたちはもうすぐ私と無縁になろうとしている。なぜなら、法を求めず、法を惜しまず、法を得ようとせず、ただ毎日リンポチェに加護を祈るばかりだからだ。あなたたち一人ひとり、皆住む家を持っているのに、その家を担保にして銀行から金を借り、それを供養に充てた者は見たことがない。昨日のあの人はそれをやった。しかも彼女は自分のためではなく、夫のためにそれを捨てたのである。私は別に皆に同じことをしろとは言わない。ただ、こう感じるのだ――この一群の男衆は本当に心を込めていない。いったい何を修めているのか、私にはわからない。六波羅蜜も修めず、慈悲喜捨も修めず、五戒十善も修めず――では何を修めているのか?「良い人間」になろうとしているのか? 良い人間になるのに仏法はいらない。倫理と道徳に従って生きれば、それで立派な「良い人間」である。だが、あなたたちは皆、口から出まかせを言い、日々を誤魔化して過ごしているにすぎない。

慈・悲・喜・捨とは、すなわち『金剛経』で説かれる四つの相――我相・人相・衆生相・寿者相を打ち破ることである。『金剛経』には、この四相を破る方法までは説かれていないが、『寶積経』には、まさに慈・悲・喜・捨をもって破るのだと説かれている。では、なぜこの四相を破らねばならないのか。もしこの相を破らず、なお強く執着しているならば、それは仏法の真の意味を理解していないということであり、仏法を修することも学ぶこともできない。多くの人は「学仏とはただ平安のためである」と思っている。それも一応はかまわない。しかし、それでは単なる信者にすぎず、仏法を学ぶ器ではない。ゆえに、上師・本尊・護法と相応することはない。たとえ毎日アキ護法を修していても、慈・悲・喜・捨を修めていなければ、護法とは決して相応しない。小さな願いごとを少し助けることはあっても、修行の道においては決して助けてはくれない。あなたがたは毎日経を唱えているが、法本の中で何が説かれているかを本当に見ていない。アキの法本にははっきりと「修行せよ」と書いてある。しかし皆は修行をしようとせず、「アキの真言を唱えることがすなわち修行だ」と思い込んでいる。違う!そうではない。だから心の持ち方が何よりも大事だ。同じことをしていても、心が変われば結果が変わる。同じ行為であっても、心が違えば、結末はまったく異なるのである。

仏法の特徴とは、私たちに自分の心を修めさせることにある。私は毎週経典を説いているが、それは皆さんの心と考え方を変えるためであり、俗人のようにこの世に生きないためである。人間的な生活ばかりを求めれば、結末は良くない。昨日、ある弟子がアメリカから帰ってきた。10年前、私がインドで彼女を見たときは、若く美しく、多くの男性が求めていた。ところが10年後に再び会ったら、私は誰かのおばさんかと思った。なぜか。彼女は「人間の生活」を選んだら、自然に学仏の善因、善果及び一切の福報はほんの少しだけ残るようになった。人間的な生活を送ることが間違っているのかといえば、仏典には「送ってはいけない」とは書かれていない。しかし、この一生で生死を解脱したいと思うなら、やはり仏法のほうを重んじねばならない。どんな世間の出来事に直面しても、私の場合は世間のことは捨てられる。しかし仏法は決して捨てない。皆さんは逆で、世間のことは「大丈夫」と思い、仏菩薩はまだいるから、自分のことを片付けてから仏法に戻ればよいと思っている。だが、そうやって振り返るときには、もう百年が過ぎている。決して自分に僥倖の心を与えてはいけない。「仏菩薩はきっと許してくれる」「護法は必ず助けてくれる」などと思ってはいけない。仏菩薩は罰することはないから、「許す」という言葉も存在しない。それは自分自身の問題であり、自分が仏菩薩を求めないから、相応しなくなるのだ。

金剛乗の修行において、私は毎日、自分の智慧・光・功徳を仏菩薩に加持していただき、それを十方法界の一切衆生に照らし、すべての有情が仏法の助けを得て修行できるようにと観想している。だが、実際にどれほどの衆生がそれを受け取っているのか、私は知らない。知っているのは仏のみだ。なぜ多くの衆生が得られないのか。それは学仏の心構えが間違っているからであり、進む方向が誤っているからであり、ゆえに相応しないのだ。寶吉祥の道場と仏寺が清浄であるからこそ、仏法の福報を修めることができ、その結果として、皆さん皈依の弟子たちが数十年の間、平穏無事に過ごしてこれた。しかしそれは修行しているという意味ではない。もし私がいなければ、それも存在しない。私は予言できる。ある日もし私がいなくなれば、この道場は必ず閉じる。なぜか。皆さんは修行に来ているのではなく、集会や講演に参加して、今日気持ちがよかったと思うだけだからだ。だが、それを実際に行動に移しているか? やっていない。私はこれらの男衆を見れば見るほど、男に見えなくなる。男なら根気よく法を求めるはずなのに。 ある男弟子の息子は、誰だったか忘れたが、法を十数回も求め続けた。彼は何度も来た。それは少なくとも信心があるという証拠だ。だから私は授けると答えた。だが、自分の顔を保つことばかり考え、リンポチェに言われるのが嫌なら、いっそ退いてしまえ。まだここに居座って何になる?あなたたち男衆は、なぜそこまで面子にこだわるのか。私には理解できない。この世に生きながら、行屍のように生きているだけだ。食って、寝て、働いて、金を稼いで、住宅ローンを払って、そして人生を終えて帰っていくだけだ。

今、学んだからといって安心するな。今日、不共四加行を修めたからといって、それで十分だと思うな。上師がいなければ、何も成り立たないのだ。だからこそ、慈悲喜捨というのは口で言うだけでできるものではない。必ず、自分が法会に参加したその一瞬、その時に下した決心、その因から始まる。そして、その後から慈悲喜捨の修行が始まるのだ。

経典に曰く:「又此有情根性以大乘為因。此有情根性以緣覺乘為因。此有情根性以聲聞乘為因。又此有情諸善因力具足成就。又此有情諸善緣力具足成就。」

また、ある有情衆は、あらゆる善縁の力が具わったことで成就を得ることがある。だからこそ、私は以前、法王に寺を建立するにあたり多くの人々が手を貸してくれたと報告した時、法王は私にこう仰った──「あなたは善縁の力を具足した。だから成就を得たのだ」と。なぜ皆さんの生活や学仏の道にこれほど多くの障碍があるのか。それは善縁がないからだ。人と善縁を結んでいないからだ。善縁を結ぶというのは、単に人にお金を与えたり、手助けしたりすることを意味しない。とは「害する心を持たない」ということだ。たとえ相手が過ちを犯したとしても、取るべき行動はあっても、害意を持ってはならない。ただ、彼に「それをしてはいけない」と分からせるためである。簡単に言えば、相手に後ろの道を残してやることだ。追い詰めてはいけない。もし善の因縁とその力を修し成就すれば、自然と何をしても人が助けてくれるし、弟子や信徒も集まってくるのだ。

私はこの一生、弘法のために出てきて、一度も広告を出したことがない。皆もよく知っている。ところが今は、多くの者が宣伝し広告を出しているのを見て、心の中でとても悲しく思う。なぜなら経典を読んでいないからだ。もしこの一段を読んでいたら、自分に善縁の力が具足していないことを知るはずだ。もし具足していれば、広告などしなくても自然に人は法会に集まってくるのだ。そうだろうか。(大衆:はい。)リンポチェは十数年、大法会をしてきたが、一度も広告を出したことがない。すべては皆が口伝えに広めただけだ。時に不思議に思うこともあるだろう。なぜかというと、あなたが声をかけても来なくてもいい人が、あなたと親しくない人が逆に来たりする。これはあなたが言ったから来たのではなく、主法者が善縁の力を具えているかどうかにかかっている。だから修法が成就するのだ。なぜなら彼、衆生のために修しているからだ。皆もよく知っているように、リンポチェが大法会をしても一円も受け取ったことがない。これは衆生のためではないか。(大衆:はい。)著名人が来ても壇上に立たせない。政治家が来たいと言っても、「来るなら歓迎するが、最初から最後まで座って聞け」と言った。すると彼らは来なかった。なぜか。数時間あれば他のことをたくさんできるからだ。これこそが証明になる。リンポチェは外の勢力や人脈、他人の名声を利用して法会を行ったのではない。初めて大法会を開いたとき、果たして成り立つかどうか全く自信はなかった。もし初めての大法会で、せいぜい千人や二千人しか集まらなかったら、それは恥ではないか。だから自分に善縁力が具わっているかどうかを証明しようとした。そして事実が示した。私はやり遂げ、13年続けてきた。なぜやめたのか。それは費用が大きすぎたからだ。私は弟子たちにこれ以上お金を使わせたくなかった。だからやめて、今は仏寺で行っているのだ。

だからこれは証明になったんだ。皆も家に帰って考えてみなさい。あなたがただ電話一本かけても、人はすぐに来ただろう?他のことならいくら催促しても来ないのに、そうだろう?例えば「一緒に歌を聴きに行こう」と誘えば、「忙しい」と言うのに、法会なら「時間がある」と言って来るんだ。これはその人が法会に行きたいから来るのではなく、修法する者が本尊と相応しているかどうかにかかっているんだ。相応していれば、過去世に本尊と縁を結んだ人は自然に集まって来る。この一言こそ、修法する者に善縁の力が具わっているかどうかを証明しているんだ。

経典に曰く:「若復有情不善因緣力成就故。即此有情以彼因緣力相應生下劣種族。」

また、ある有情は不善の因縁力が成就して、その因縁と相応し、劣った種族に生まれることもある。古代でも現代でもそうだが、もし極めて貧しい家庭に生まれたなら、この一生で仏法に触れることはとても難しい。もちろん例外もある。例えば六祖慧能は、家にはお金がなかったが、学問の高い家系であり、家族が早く亡くなったために幼いころから寺で暮らし、これも彼の因縁力だった。

ここで大事なのは、この一生でまったく仏法に触れる機会のない家庭に生まれる場合、あるいは仏法に触れる機会があっても、実際に聞法したり学んだりする縁が与えられない場合があるということだ。例えば、私の往生した弟子の一人は、亡くなる前に夫に子どもを学仏させるように託したが、その夫は子どもを仏法に触れさせなかった。仏経の観点からすれば、これこそが「下劣種族」と言える。下劣種族とは貧しいことを意味するのではなく、必ずしもお金がないことではない。福徳因縁や善根が欠けていて、次の世代に学仏させることができないという意味なんだ。

経典に曰く:「若復有情善因緣力成就具足。即此有情以彼因緣力相應生高貴種族

もし善の因縁力が成就して具わっていれば、その有情は来世において必ず何らかの善き因縁と相応し、高貴な種族に生まれる。ここで言う「高貴」とは、お金持ちであるとか、大統領のように身分が高いという意味ではない。最も大事なのは、仏法を学ぶ因縁があるかどうかなんだ。たとえ裕福であっても、あるいは大統領の地位にあっても、次の世代に学仏させる縁が与えられないなら、それは本当の意味での高貴ではない。高貴な種族とは、学仏できる因縁を持っている種族のことを言うんだ。

経典に曰く:「或復有情意中清淨。非工巧清淨。」

この二つの言葉はとても特別なんだ。「或復有情意中清淨」――つまり、この有情衆生は過去世においてを清浄に修してきたので、雑念が少なく、とても澄んでいるということなんだ。非工巧清淨。――これは、たとえば仏像を造る人がいて、その仏像がとても荘厳に仕上がる時、それはその人の技術が巧みだからではなく、その心が清浄だからなんだ。だから仏像やタンカを描いたものを見た時、自然と荘厳さを感じ、見る者が歓喜の心を起こすんだ。

経典に曰く:「若或有情工巧清淨。非意中清淨。」

あるいは、有情衆の中には、技術が優れていて清浄ではあるが、意の中の清浄ではない場合もある

経典に曰く:「若或有情工巧清淨亦意中清淨。若或有情非意中清淨亦非工巧清淨。」

これらの句は、私たちが作業を巧みに行うことだけでなく、菩薩道を行ずる者が、その方法を清浄で巧みに行うことも意味している。巧みというのは、衆生の問題をはっきりと示すことができるという意味である。逆に言えば、ある人は生まれつきの才能で美しい絵を描いたり、巧みな仕事をすることができるが、これはその人の技が清浄だからではなく、その心が清浄だからである。有情の中には、技は清浄で巧みであっても、その意の中が清浄ではない者もいる。ただ学んで身につけたものであり、学んだものは清浄であっても、意の中は清浄ではない。だから、その意の中が一度でも不清浄になると、そのも変わってしまう。

経典に曰く:「舍利子。此諸有情往昔根因心所行智。如我相應說法之智。此說名為菩薩摩訶薩他心智力。」

これらの有情は必ず過去の因によって心所行の智を持っている。学んだ知識や経験則を用いて菩薩道を行ずるのではなく、智慧をもって菩薩道を行ずるのである。ちょうど、「如我相應說法之智」、それは釈迦牟尼仏と相応して説法する智慧なのである。

此說名為菩薩摩訶薩他心智力。つまりこの菩薩摩訶薩は他心通の智慧を有しているということである。釈迦牟尼仏はこのように他心智を解釈したが、それは単純な禅定や懺悔、仏を礼拝することによって得られるものではない。必ず不断の修行と経験の鍛錬を通して、その心が清浄であるかどうかによって、はじめて工巧清浄が生じるのである。

例えば私が寺院を建てたとき、皆が見に来て清浄だと言うのは、建てる前にすでに設計図があり、どう作るかを求めたからである。もちろん工事そのものは私がしたのではないが、私の心が清浄であるゆえにそのように求めたので、出来上がった工も自然と清浄になるのである。例えば私は自分の寺院に功徳主を置かず、光明灯を点けず、売店もなく、大きな厨房で人に食事を作らせず、人を中に住まわせないと決めた。これこそ心が清浄であるからであり、その結果、建てられた寺院は自然と人に清浄だと感じさせるのである。わかったか?

仏がこの段で説かれた意味はこうである。工巧清浄というのは学んで身につけたものである可能性があり、良い師匠に従って一通り学んだとしても、心が必ずしも清浄とは限らない。例えば寺院を建てるとき、私は工法を理解していなくても、相手が間違ったことをすればすぐに分かる。なぜなら彼の心は清浄ではなく、私の心は清浄だからである。実際に小さな部分で手抜きをした者がいて、その作業班の者が我が社にメールで告発してきたこともあった。もしその者が告発しなければ、私は気づかなかっただろう。だから、あなたたちはただお金を出しただけで、何もしていないのである。

あなたたちのやり方ならどうする?きっとすぐにその人のところへ行って怒鳴りつけるだろう。しかし私は工巧清浄であるから、すべての作業班を集めて会議を開き、「これから検査の人を派遣する。手抜きがなければよいが、もしあれば一週間の猶予を与えるので自分から報告して直しなさい。もしこちらが検査で発見したなら、その時は仕方がない」と伝えた。私は行かず、魏という弟子が行ったのだが、話を終えて彼が車で帰ろうとした時、班長が車を止め、自分がやったと自首した。その班長が自首しなければ、私たちは絶対に気づかなかっただろう。なぜならそれは土の中に埋まっていて、やり直さなければならない工事だったからである。

この出来事はすべて前の経典で説かれたことと相応している。私は善因縁を修したのであり、寺を建てたこともまた一つの善因縁である。私は一円も取らず、広告もせず、また諸宗を驚かせて寺を宣伝することもしなかったので、天龍八部や護法がずっと助けてくれた。この人も白状せずに済むこともあろう。。なぜならそのものは土の中に埋まっていて、建物が完成して問題が起きなければ誰も知らない。しかしもし後で問題が起きて掘り返すとなれば大変で、ほとんど建物全体を壊さなければならないだろう。相応と不相応の違いが分かったか?だから君たちは全部不相応なのだ。私はただ一つの寺を建てただけで、多くの修法や修行の話を語ることができる。これらはすべて私が修行して得たものである。金があっても、この寺を建てられるとは限らない。多くの箇所は私が見抜いた。なぜ見抜けたのか?私の心が清浄だからであり、自然と寺も清浄に現れるからだ。なぜ皆が寺に行くと香りを嗅げるのか?それは住持の心が清浄だからである。清浄な心で建てられた寺は清浄であり、商業的な気配はない。ただ随意に供養するだけで、それでもなお不清浄であろうか?仏菩薩は喜ぶか?喜ぶ。相応するか?相応する。護法は来るか?来る。それだったら、また求める必要があるか?

なぜあなたたちは何度も求めても得られないのか?それは上師に対する清浄で恭敬な心があるかどうかを見るからだ。ないのだ。あなたたち男衆は、今夜帰ったら一人一人泣くべきだ。本当に恭敬心をもって私から仏法を学ぶようにするふりだ。この経を聞き終えて、あなたたちは本当に汗顔の至りで、地に穴があったら入りたいほど恥ずかしいはずだ。それでもまだ「男らしい」と言えるのか?

経典に曰く:「又復入解他心智力。而此有情行布施因。於未來世得布施果。」

なぜある人が他心智の力を知ることができるのか?それは、その有情がかつて多くの布施を行ってきたからだ。私が布施をたくさんしてきたのだろうか?(大衆:はい。)だから昨日、一人の信者を厳しく叱ったら、彼は大声で泣き出した。なぜなら、私は彼の妻が何を考えているかを知っていて、夫婦二人しか知らないことを言ったからだ。誤解するな、よるのいとなみのことではなく、二人の間のことだ。それを言った瞬間、彼は泣き出し、納得した。もしこのような他心智の力がなければ、どうやって彼を納得させられるだろうか?どうやって仏法を聞かせ、信じさせられるだろうか?彼は「ちょっと聞いてみようか」という気持ちで来たのに、私が二つのことを言っただけで、まるで二発殴られたように気絶しそうになり、すぐに泣き出した。私は多くは言わない、二つ当てれば十分だ。多く言えば価値がなくなるからだ。これはどこから来るのか?布施、捨だ。

なぜ布施をしなければならないのか?それは、捨てることで心の中の多くのものも一緒に捨てられ、自然に清浄になるからだ。なぜ六波羅蜜の最初が布施なのか?多くの人は「お金を出さなければ仏法を学べない」と思い、少しのお金を棺桶代に残そうとする。昨日、一人の弟子が供養に来て、枕のように高く積まれた供養金を持ってきたが、私はその半分しか受け取らなかった。なぜ半分だけなのか?彼は大金を差し出したように見えるが、実際にはまだ捨てきれていなかったからだ。ただし、供養の心はあったので、半分を受け取り、残りの半分は彼に残させた。昨日、私が供養を退けたこと自体が布施だったのだ。

布施とは、誰かの金を欲しがっているのではなく、修行の一つの法門なのだ。私がコンサートを開催したことを例に話そう。ある人は一生コンサートになど行かないが、私のコンサートに来て楽しくなった。それは歓喜心を起こさせたことになるのではないか?(大衆:そうです。)それも一種の布施ではないか?(大衆:そうです。)それなのにお前たちは私に細かく計算する。仏法を学ばない者、学ぼうとしない者を無理に呼ぶことはできない。ただ彼らに歓喜心を起こさせ、仏法に対して別の見方を持たせる方法が必要なのだ。仏法を迷信だと思わせず、言ってはならないことを言わせない。私は心を尽くしている。どの一歩も修行であり、すべて六波羅蜜を修しているのだ。

もし私が布施をしていなかったら、衆生の心など分かるはずがない。その信者の妻が病院で昏睡状態にあった。私は病院に行って彼女に直接言わせることなどできない。医者も昏睡だと言い、夫も昏睡だと言う。しかし私が語ったのは、その夫婦だけしか知らないことだった。それこそが他心智力なのだ。

なぜ他心智力が解けるのかといえば、その有情が常に布施を行ってきた因によって、未来世に布施の果を得るからだ。だから彼は未来世に必ず布施の果を得る。未来世に絶対に金がなくなることはないし、飢え死にすることもないし、誰からも助けられないということもない。布施の果として返ってくるのは必ずしも財産とは限らず、別の形の事柄かもしれない。しかしそれらもすべて財の範疇に入る。たとえば私が仏寺を建てることもそうだ。もし過去世や今世でこれほど多くの布施をしていなければ、私が仏寺を建てる時にこれほど多くの人が助けてくれるはずがない。助けとは、すべてが私に都合よく進むという意味ではなく、たとえば政府が本来一ヶ月かかるはずの手続きを十日で済ませてくれる、そういうことも一つの善き助けなのだ。

例えば私が下の二つの村に布施をしたら、彼らはもう私たちを煩わせなくなった。あなたたちは法会に来てとても気楽に感じる。車が門の前で待っているからだ。その観光バスは門の前で待っていたせいで通報され、罰金を取られたが、彼らは自分で払って私には請求しなかった。私はこの件を処理して、今ではもう罰金を取られることはない。

来月は阿弥陀仏無遮大超度法会だ。私はお金を出して古家村のある婦人に草仔粿(ツァオアークエ、日本の草餅やよもぎ餅のような台湾の伝統的なお菓子)を千個作ってもらい、阿弥陀仏の前に供養し、その後村の人々に一人一個ずつ配る。(大衆拍手)あなたたちの分はない、拍手するな!そのお金は基金会から出す。私は布施を習慣としている人間で、どんな事でもどう布施すれば衆生に歓喜を起こさせようとしている。しかしあなたたちはリンポチェに布施したら、リンポチェがあなたたちによくして、何かを与えるべきだと思っている。それでは私の出発点とは全く違う。私たちがこの二つの村の人々に布施をしたら、将来彼らは私たちを護持するだろうか?必ず護持する。これが布施の果だ。たとえお金が多くなくても、布施の心が大事なのだ。あなたたちは私のほんの一かけらも学んでいない。


また叱らなければならない。みんな私の店に布施しに行かない。行くのはいつもあの少数の人たちだけだ。特にあの男衆、どこへ行ったのだ?そんなに忙しいのか?妻は一人しかいないだろう、他の時間はどこへ行ったのだ?(リンポチェが女衆に向かって)あなたたちの夫は私に帰依しているのだから、厳しく調べなさい。なぜ私の店に行かないのか?どこへ行ったのか?私に報告しなさい(大衆笑)。調べは厳しくするように。なぜあなたたちの夫は私の店に行かないのか?お金がないのか?私に言いなさい、私があげる。美味しくないのか?美味しくなるまで作るから。これからは門口にカメラをつけるかもしれない。誰が来たか確認して、来なかったら記録する。これは冗談だ。

経典に曰く:「又此有情行淨戒因。於未來世得淨戒果。」

彼はこの一生で戒を清浄に守っている。清浄の定義とは、五戒、比丘戒、比丘尼戒、沙彌戒、菩薩戒を守ることである。これらの戒を守るのは自分が良くなるためではない。このような観念を持つこと自体が不清浄である。戒を守るのは、自分の身口意を清浄にするためである。私たちはどうやって身口意を清浄にすればよいのか分からないから、釈迦牟尼佛が戒律を制定し、このように行えば身口意は自然に清浄になると教えられた。だから帰依の時に「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意」と言うのである。この一生で持戒するのは、帰依し戒を守ったから自分が良くなるとか、子供が言うことを聞くようになるとか、妻が自分を愛するようになるとか、そういう理由ではない。そのように考えるなら、その戒は清浄ではない。不清浄であれば、後に清浄戒の果を得られない。この一生で守る戒が清浄であれば、自然に未来世でも守る戒は清浄となり、自然に清浄なる佛法を得、清浄なる上師に出会い、清浄なる教法を得て佛法を学ぶことができる。だから皆よく覚えておくべきである。とは自分を良くするためのものではなく、懲罰を恐れるためのものでもない。

とは、仏を学ぶ以上、普通の凡夫俗子のように好き勝手に振る舞ってはならないという教えである。そうすれば三悪道に堕ちるからである。だから戒を守る時には、それが自分の身口意を少しずつ清浄にするためであると明確に知っていなければならない。その時、その戒は清浄となる。そうでなければ不清浄である。「菜食をしなさい」と言うと、多くの人は「菜食はできない」と言い、また「菜食をすれば良くなる」とも言うが、これも間違いである。菜食とは、殺生の機会を減らすためであり、殺生しない戒を清浄に守ることができるのである。多くの人は「密教でも肉を食べる」と言うが、私は今はまだできない。なぜなら、もし魚を食べたなら、吐き出しても死んだ魚のままだからである。もし吐き出して生きた魚であれば、その時には食べてもよいだろう。その時は皆驚かないで、「リンポチェは魔術をする」と言わないように。(大衆笑)

経典に曰く:「又此有情行忍辱因。於未來世得忍辱果。」

この有情は今生において忍辱を行じた因により、来世において忍辱の果を得る。前にも説明したが、忍辱とは人に罵られたり叩かれたりして怒らないことではない。最も難しいのは、自分が名や利を得た時に、それに耐えて心が変わらないことである。つまり、仏法を学ぶ過程で、善が起こり、悪が作用を止めると、自分が良くなったと感じることがある。その「良くなった」と感じる念が生じた時点で、すでに忍辱を修していないことになる。忍辱を修していなければ、今生で絶対に輪廻から解脱することはできない。自分が良くなったと感じたり、何かが良くなったと感じたりするのは間違いである。修行の過程においては、自然に悪を行うことが止まり、悪が加わらなければその力は弱まり、やがて止む。そのため善の力が増え、少し良くなったように感じる。しかし実際には良くなったのではなく、ただ悪の側が動いていないだけで、存在しないわけではない。傲慢や驕りの心が少しでも起これば、忍ぶことができなければ、悪の側はすぐに戻ってきてしまう、とても早く。

以前に仏経でも説かれ、『寶積経』にも説かれているが、もし菩薩道を修するにおいて憍慢の心があれば、その功徳はすべてなくなる。だから必ず覚えておかなければならない。とくに男衆がなぜ法を求めに来ないのかといえば、驕り、怠け心、恥ずかしいと思ったり、できないと感じたり、自分は忙しい、一日八時間や十時間も働いている、供養するお金もない、それでどうやって法を求めるのか、とそう考えているからである。(リンポチェは担当の弟子に指示された。「今後二か月の間に男衆が法を求めに来ても、申し込みは受け付けない。特に長く皈依している者は、もし本当に求めたいのであればとっくに来ているはずで、今さら来るのは遅すぎるから。」担当の弟子は「はい」と答えた。)

経典に曰く:「又此有情行精進因。於未來世得精進果。

この一生で仏を学ぶことに怠け、怠惰で精進しないのは、過去世で修行していなかったからである。リンポチェがこの一生で比較的精進できるのは、過去世で修していたからである。なぜ今生で毎日のように皆を叱り、追い立て、急がせるのかといえば、精進を修させるためである。帰依の時にすでに明確に説いたとおり、上師が伝えた法を修しないのは怠惰である。怠惰であれば、上師の加持力はなくなる。もう一度言う。私が伝えた法を修しなければ、すなわち怠惰である。例えば私はずっと皆に勧めている。毎晩『仏子行三十七頌』を手にとり、その日の身口意に過ちがなかったかを省みなさい、と。これをしなければ怠惰である。怠惰な者は、上師の加持力を受け取ることはできない。皆は行わないよう努力している。行って役に立つのか。間違いなく役に立つ。これは仏が説かれた三十七頌であり、皆はそれを行おうとしない。すでに千回以上も説いた。毎晩眠る前に必ず『仏子行三十七頌』で自己を省みよ、と。しかし皆は頑として行わない。ただ自分は帰依弟子であり、護法を修めたからよいと考えている。私が教えた法を修しない、それはすなわち怠惰であり、精進していないのである。精進しなければ、精進の果は得られない。なぜ彼らが法を求めないのか?それは精進がないからである。

仏を学ぶことは自分の好き勝手にしてよいものではない。帰依証を放棄して信者として留まることはできるし、私はそれでも来ることを許し、追い出すことはしない。しかし帰依証を受け取った以上、その上にははっきりと「諸悪莫作、衆善奉行」と書かれている。ところが皆は逆に「衆悪奉行、諸善莫作」となっている。私は毎日、自分が善を行ったかどうかを検討せよと言っているのに、なぜ言うことを聞かず、実行しないのか。五分を惜しむほどのことなのか。先週も話したし、今週もまた話している。なぜかといえば、いまだに多くの人がやっていないからである。特に白髪頭で、肥えて減量しなければならないのにしない者たちよ。『仏子行三十七頌』は、身の行い、口の言葉だけでなく、最も大切なのは意、つまり思考である。その思考が『仏子行三十七頌』と矛盾しているなら、それは誤りであり、仏子ではない。何人が実際にできているのか。皆は精進していない。だからリンポチェが法を伝えないと怨んではならない。精進していないのに、六字大明呪を千遍、二千遍唱えるだけで修行だと思っている。それならリンポチェは修行する必要はない。私は毎日それ以上に多く唱えているのだから。

私が『寶積経』を説けば説くほど、皆はますます恐れる。他の場所では誰も『寶積経』を説かない。なぜなら、説けば「なるほど、仏を学ぶとはこんなに面倒なのか」と分かり、「それなら学ばない」となるからだ。私は、皆が仏を学ばないことを恐れているのではない。ただ三悪道に堕ちることを恐れているのだ。私は説いた。にもかかわらず皆が聞かず、やってはならないことをやり続けるのなら、その時に三悪道に堕ちても、それは私の責任ではない。

経典に曰く:「又此有情行禪定因。於未來世得禪定果。」

この修行する有情は、過去世において禅定を修した因があるので、今生において必ず禅定の果を得る。したがって、この一生で修行の過程において、たとえ真言を唱え、経を誦し、仏を礼拝し、あるいは座禅をしても、心がどうしても定まらないのは、過去世に禅定を修してこなかったことを示している。ゆえに、この一生では必ずしっかりと禅定を修めなければならない。

経典に曰く:「又此有情行勝慧因。於未來世得勝慧果。」

いわゆる勝慧とは、単に頭が良いということではない。仏が説かれる智慧とは空性であり、人間の頭脳や思想、経験とは関係のないものである。一人の上師の導きと指導を通さなければ、今生において何が智慧であるかを理解することはできず、知ることもできない。もし今生で智慧を修しなければ、来世においてもそれを得ることはできない。ではなぜ智慧が必要なのかといえば、もし今日智慧を修さずに福報だけを修するなら、来世に智慧を欠いたまま修行することになり、それは非常に危険である。逆に智慧があっても福報がなければ、やはり修行は危険である。福があって智慧がなければ、永遠に成就を得られず、智慧があって福がなければ、必ず傲慢になり、やはり成就を得られない。いわゆる「福慧双修」とはこのことであり、六波羅蜜において最初の三つは福を修し、後の三つは智慧を修するのである。

六波羅蜜は必ずしも菩薩になると誓願してから修するものではない。人道において、もし今生で生死を解脱したい、阿弥陀仏のもとへ往生したいと思うなら、六波羅蜜を修し始めなければならない。ここにはっきりと説かれているように、今生でこれを修しなければ、来世においてもそれを得ることはできない。来世に得られない以上、たとえ阿弥陀仏の国へ送られたとしても、一から修し直さねばならず、それには多くの時間を要する。それは一、二年ではなく、十年、百年でもなく、非常に長い時間である。だからこそ今生で修し始めるべきであり、どこまで修められるかは重要ではなく、とにかく始めることが大事である。にもかかわらず、あなたたちはなかなか修しようとしない。例えばここにいる男衆は忍辱を修しようとせず、だから来世においても決してその果を得られない。なぜなら彼らは皆とても傲慢で、自分は間違っていないと考え、リンポチェが自分を理解してくれないと思い込み、法を求めても得られないなら「もういいや」となってしまうからだ。本当に「もういいや」だ。あなたたちはそこに座って聞いているだけで開悟できると思っているのか?そうなら私が閉関する必要はなくなる。あなたたちの方が私よりすごいということになる。

経典に曰く:「又此有情行大乘因。於未來世得大乘果。」

彼は今生において大乗仏法を学んだ因があるので、来世において必ず大乗の果報を得る。ちょうど私が今生において小乗仏法に全く触れたことがなく、小乗仏法の経典である『阿含経』『雑阿含経』も自然と見たことがないのと同じである。私が今生で目にしたものはすべて大乗仏経であり、学んだのも金剛乗、大乗仏法である。私は過去世においてすでにそのように修していたので、今生においても自然とそのように修することになり、小乗仏法を修する出家僧に出会う因縁すらなかった。有名な僧であっても、私は縁がないので会ったことがない。これこそ過去世の因である。だからこそ私は今生において法王に会うことができたのであり、これは過去世においてすでに密宗を修し、確かに金剛乗を修していたからである。そうでなければ今生において彼に会うことはあり得ない。なぜなら、その因が存在しないからである。

今生で私に会うことができたのは、過去世においてすでに私に叱られることに慣れていたからであり、今またここに来たのだ(大衆笑)。数多くの仏寺があるのに、そちらには行かず、わざわざ私のところに来て毎日叱られたり、打たれたりしている。しかも要求も多く、ああして欲しい、こうして欲しい。これらはすべて自分の因であって、怨むべきではない。いつの日か離れていくとしても、それも自分の因であり、私とは無関係である。だから私ははっきりと言っておく、これは釈迦牟尼仏がお説きになったことである。今生で仏法を誠に求めないのは、過去世で仏法を誠に求めたことがなかったからである。今生になって突然欲しいと思っても得られるものではなく、すべては過去世の自分自身の因による。もしその因がないのなら、この一生でその因を作りなさい。次の世に持ち越してはならない。

仏法の意味は、今生のすべては過去に作った因によって得た果であるということだ。だから来世を今生と違うものにしたいなら、この一生で良い因を作らなければならない。そうしてはじめて来世に良い果がある。もし今生で良い因を作らなければ、来世に良い果は決して生じない。これは確実であり、因果の理なのに、君たちは信じない。たとえ私があなたたちを済度して三悪道に堕ちないように助けられるとしても、今生で布施をしなければ、来世に布施の果を得ることは絶対にない。今生で多くの善い因を修していなければ、来世に高貴な種族に生まれることはない。なぜなら今生でそれをしていないからだ。

この経文が伝えているのは、過去世でやっていなくても構わないから、今生ですぐにやれ、待つな、ということだ。待つ時間なんかない。あっという間に数十年が過ぎて、人は死んで帰ってしまうからだ。リンポチェが今生で修行できたのは、過去世で説かれたことを全部やってきたからで、だから今生では誰かに強いられたり、言われたりしなくても、自然とずっとやり続けてきたんだ。だがあなたたちはどうだ? 騙しても、なだめても、叩いても、叱っても、追い立てても、全く動じない。あなたたちは石よりも救いがたい。石ころでさえ、ずっと話しかければ少しは動くことがある。禅宗には石に説法したという公案があるが、人に説いても聞かないから、仕方なく石に説いたら、その石がわずかに動いたという話だ。

君たちは本当に「人間」すぎる。「人間らしさ」が極まりすぎている。『地蔵経』に説かれているように、この宇宙の中で最も度し難いのは地球の人間だ。剛強自用,難調難伏(頑固で自分勝手、調え難く、伏し難い)。私の道場ではまさにその通りの姿がはっきりと現れている。特にこの一群の男衆だ。いったいどこがなのか、私には分からない。今日はここまでだ。(大衆が一斉に「ありがとうございます、リンポチェ」と言う)礼はいらない。あなたたちはやらないし、聞かない。そんな「ありがとう」を言われても私には何の役にも立たない。むしろ私があなたたちに一つ借りを作ってしまう。言うべきは感謝ではなく、行うことだ。もう一度言っておく。今晩『仏子行三十七頌』を手に取って自分を省みなければ、私は今日の修法でアキ護法にお願いするぞ。あなたたちを腹痛にさせ、男衆は一晩中トイレに立たせる。どうだ?(大衆が笑って「はい!」と答える)

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2025 年 08 月 27 日 更新