尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年8月16日

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ猊下が法座にお昇りになられ、『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十二「禅定波羅蜜多品第十之二」を御開示くださいました

リンポチェ猊下は、出家衆に、参会者を導き、帰依発心、七支供養、『随念三宝経』、『仏子行三十七頌』、『八聖吉祥祈祷文』を読誦するよう御指示くださいました。その後、リンポチェ猊下自ら六字大明咒を読誦なされると、会場には妙なる香気が満ち、たびたび地が震動いたしました。参会者一同は全身に熱を覚え、チャクラが振動し、煩悩は鎮まり、リンポチェ猊下の殊勝で清浄なる仏法の御教導を、心を込めて拝受いたしました。

仏典に「若於色相等聲決定聴聞而生歓喜。彼如色相等聲為令聴聞決定歓喜。又若處衆説法。以天耳識加持彼聲」とあります。ところで、この段落の少し前に、とても大切な一文がありましたが、それを皆さんは聞いていませんし、誰も口にしません、覚えてもいないようです。なぜなら、多くの人は、お経を聞くときに、自分が聞きたいところ、自分にとって役に立つと思う部分だけを受け取って、それ以外は覚えていないことが多いのです。では、その大事な一文とは何だったのでしょうか。――それは、「以自心清淨潔白而為彼説。」という言葉です。すっかり忘れていたのではないでしょうか。誰の記憶にも残っていなかったようですね。

なぜ、お経を聞くときに分別心が生じてしまうのでしょうか。それは、「自分が聞きたいこと」「理解できること」「すでに知っていること」「聞いていて嬉しくなること」――そうした内容だけを選んで聞こうとするからです。そして、「自分とは関係ない」と感じる話になると、耳を閉ざしてしまい、扉も閉めてしまうのです。このような聞き方は、正しい法の聴聞のあり方とは言えません。この一文が重要である理由は、二つございます。第一に、法を伝え、法を説き、お経を解き明かし、衆生を導こうとされる上師において、「以自心清淨潔白而為彼説。」自身の心が清らかで潔白である状態で法を説いておられる)かが問われているということ。そして第二に、法を求める側もまた同じような姿勢で向き合うべきである、ということです。

皆さんは、「お経を説く」ということを、ただ話すことだと思っておられるかもしれません。あるいは、「行者が見性(けんしょう)を得たならば、お経の内容もはっきりと説けるようになる」とお考えかもしれません。では、「見性」とは何でしょうか。それは、仏性を見出すことです。そして仏性とは、完全に清らかで潔白そのものを意味します。なぜ、私はこのことを繰り返し強調するのでしょうか。先週も、その前の週も、皆さんに伝えました。皆さんが私の前にひざまずいているとき――私はすでに、皆さんのことがわかっています。その理由は何かと言えば、私は求めることのない者貪りを持たない者だからです。皆さんが私の前に跪かれたとき、私の心は清らかで潔白であり、一方で、皆さんの心は穢れているのです。私の心はまるでのようであり、その鏡は皆さんのすべてを映し出します。「五智」の中には「大円鏡智(だいえんきょうち)」という智慧があります。私はその智慧によって、皆さんのすべてを映し出しているのです。

なぜ、多くの衆生の方々が私の前でたくさんの仏法を説かれたり、あるいは悲惨なお話をなさったりしても、リンポチェはまるで動じず、まるで聴き入れないかのように見えるのでしょうか。それは、私の心が清浄で潔白であるために、皆さんのたった数言の言葉で、衆生を助けるための方法を変えることがないからです。この言葉を、特に出家の皆さんは覚えているのでしょうか。おそらく多くの人は覚えていず、ただ聞き流してしまっているのではないかと思います。これこそが、皆が修めるべき方向です。皆さんは日頃、「理解したい」「悟りを開きたい」と言いつつ、心が清浄で潔白でなければ、どうして真に理解できるのでしょうか。どうして悟りを開くことができますでしょうか。

では、どのようにして心を清らかで潔白なものとしていくのでしょうか。そのためには、五戒・十善を守り、上師が伝える仏法、そして『仏子行三十七頌』の教えを実践していくことが基本になります。三十七頌を日々唱え、教えにしたがって生きるよう心がけていれば、心は自然と清らかになっていきます。意図的に求める必要はありません。もし上師の心が清らか・潔白でなければ、衆生を助ける際に、方法や言葉を誤ったりすることも起こり得ます。先週、歯磨き粉を絞るような形で、供養をしにきた弟子がいましたが、その方は昨日、息を引き取られました。がんの末期とは思えないほど、苦しみの少ない、穏やかな最期でした。まず、供養の申し出に対し、私はそれを受け取りませんでした。なぜなら、彼女は「供養すれば快適に過ごせる」「気持ちよくなれる」と、見返りを期待する気持ちで供養しようとしていたからです。彼女が経済的にさほど裕福でもなく困窮しているわけでもないと、私は知っています。彼女は帰依してから亡くなるまで、一度も上師に対して100%の恭敬を持つことがありませんでした。その背景には、強い驕りと、「自分は多くのことを学び、理解している」「自分は教師としての経験もあり、わからないことなどない」「上師は仏法については詳しいかもしれないが、それ以外のことでは自分の方が上だ」――そうした思いがあったように思われます。

先ほど『仏子行三十七頌』を読誦した際、驕慢の心についての教えがありますよね。(大衆:はい、あります)もし弟子が上師に対して驕慢の心を抱いているなら、如何なる法門も修め得るまで進めることができないとされます。大礼拝を行ったとしても、線香を一本供えたとしても、功徳は生まれないのです。では、なぜ私が繰り返し「上師への恭敬」を勧めているのか。それは、皆さんに私を恐れさせるためでもなく、私自身が敬意を求めているわけでもありません。それはただ、皆さんがご自身の心を清らかで潔白に訓練していくためなのです。上師に対してすら、これほど多くの思いを巡らせ、傲慢さを抱くようであれば、他の衆生に対して驕慢を持たないなどということは到底あり得ません。

寶吉祥が数十年前に始まった当初から、功徳主を立てず、線香や灯明の奉納も設けず、すべて不要としていたのは、なぜでしょうか。それは、私はよく分かっていたからです。たとえ私自身の心が清らかで潔白であったとしても、下の他の人々もそうであるとは限らないと。そのような制度があれば、たちまち人は比べ始め、「あの方は大功徳主、この方は小功徳主」「この人は道場のためによく動いている」などと言われるかもしれません。あたかも、私の数名の理事もある人について「とても協力的です」と評価する時、私はこう尋ねます──「協力的とはどういう意味でしょうか?私がその人に対して特別によくしてあげるべき、という意味ですか?」私は、人を判断するにあたって、その方が仏法を学び、修行しているかどうかを基準にしています。皆さんの協力、その中身は様々です。ひとつは、単なる人間関係として断れないから手伝おうという場合。もうひとつは、周囲がやっているから自分もやらざるを得ないという場合。しかし、皆さんが何を行うにも、必ず功徳と福報があることに変わりはありません。ただ、多くの方が、自分の修行の方向は正しいと思い込んでいます。もし、自心が清らかで潔白な状態に至っていないのであれば、いかなる修行も、決して成就することはありません。これは、私自身が歩んできた修行の道の中で、深く実感してきたことです。

昨日往生された弟子は、帰依してから一度も、上師に対して百分の百に心服して身を委ねて帰依するということがありませんでした。彼女は、上師の加持によって「家族が平穏無事に暮らせますように」「何も問題が起こりませんように」と願っていました。その一方で、自分の考える「正しい生き方」を手放さないため、病を得ても、四年間ものあいだ誰にも話さず、黙っていたのです。なぜなら、彼女は心のどこかで「上師にできるはずがない」と思っていたからです。そして、いよいよ死期が迫り、どうにもならなくなって初めてこちらへ来ました。しかし、それでもなお心服して身を委ねず、多少のお金を差し出せば、上師が冤親債主を解決してくれるのではないか、そうすれば苦しまずに済むのではないかと、取引のような気持ちでした。けれども、上師の心は清らかで潔白であるために、金銭が目の前に差し出されても、心は一切動きません。私は、彼女の「心」を見ておりました。再度、訪ねてきたとき、さらに大きな供養を差し出されましたが、私はそれもお受けしませんでした。ただ、彼女のご主人の姿勢に誠意が感じられたため、千元のみを受け取り、供養を受けたという形にしたのです。その結果、彼女の福報が即座に起こり、往生の際には大きな苦しみなく、静かに旅立つことができました。本来、末期のがんで亡くなるということは、痛みや苦しみが避けがたいものであるはずです。

彼女が最初に私のもとを訪ねてきたとき、私は「もうご自宅での食事は用意しなくてよい、私のレストランで召し上がるように」と伝えました。しかし本当は、すでに食事ができる状態ではないと分かっていたため、そのことをはっきりとは言わなかったのです。ふだん彼女は、私のレストランで食事をすることもなく、日本食品小売店でのお買い物もほとんどしないような人でした。ほんの少し買っただけでも、あたかも大量に購入したかのように周囲に伝えていたようです。二度目に彼女のご主人が来られたとき、私は「もう治療はせず、緩和ケア病棟に移されるように」と伝えました。つまり、もう長くはないことをやんわりと伝えたつもりでした。けれども、もし私がその場で「あなたの奥様はもうすぐ亡くなります」とはっきり言えば、おそらく彼は「リンポチェは霊験がない」「供養もしたのに、なぜ延命できないのか」と思ったことでしょう。皆さんの心の中にある思い──私への批判の言葉を、私はよく見えております。ですが、どのように言われよう、私の心は一切、揺らぐことはありません。

私はこれまで、いつか皆さんを本当に救える日が来ることを、心の底から願い続けてきました。ですから、昨日彼女が息を引き取ったあと、すぐにその家族全員を呼び、大礼拝をしてもらうようにしました。なぜ大礼拝を勧めたのか。それは、この家族が、長年にわたり非常に物惜しみの心を抱えて生きてこられたからです。彼女自身も、財を千分の一ほどしか供養・布施にまわしていませんでした。私はこれまで多くの故事を、中にも釈迦牟尼仏の時代の故事をお話ししてきました。あるとき、一人の女性が貧しさの極みにあり、供養できる物が何ひとつありませんでした。けれども彼女は、釈迦牟尼仏が通られると知るや、自らの唯一の長ズボンを脱いで門前に敷き、仏の御足が泥水に触れぬようにと差し出したのです。その供養によって、後に彼女は王妃となりました。けれども裕福になった彼女が、再び釈迦牟尼仏に供養をしようとしたとき、釈迦牟尼仏はそれをお受けになりませんでした。なぜなら、そのときの彼女の心には、すでに「驕り」があったからです。この家族もまた、驕慢の心をもって供養をしようとしました。

彼女からの供養を受け取らなくとも、静かに穏やかな最期を迎えられるように助けています。彼女は、息を引き取られる際に苦しみもなく、ご遺体の顔もとても安らかなご表情をしていました。これこそが、皆さんのリンポチェです。たとえ皆さんがどのような戒を破っていたとしても、この道場を離れないかぎり、私は必ず救います。そして、たとえすでに道場を離れた方であっても、私は今も日々その者たちを助け続けています。ですから、どうか「上師も人間にすぎない」と思わないでください。もし私がただの人間であったなら、修め得ることなど、決してできなかったでしょう。私はもはや「人」ではありません。人間の肉体という形を借りて、皆さんの前に現れているだけなのです。そして、もしもある日、「責任はすべて果たした」「この一生においてなすべきこと、返すべきものは、すべて終えた」と、私自身が見極めたときには――私は、自らの意志でこの世を去るでしょう。その決断を、誰にも止めることはできません

この経文の意味は、皆さんにぜひ理解してもらいたいところです。人を本当に助けることのできる上師とは、まずその自心が清らかで潔白でなければなりません。そして、法を求める者の側も、同じく清浄な心で向き合うことが必要です。自分の中にあらかじめこうした思い込みがあってはなりません──「こういうふうに求めれば、上師は応えてくださるに違いない」「こういう頼み方をしなければ、聞き入れてもらえないのではないか」と。多くの方が、長いあいだ心の中で思い悩み、ようやく私のもとを訪ね、たくさんの言葉を尽くして話をされます。それでも、私が首を縦に振らないとき、「自分は弁舌が優れているのに」と、内心では思っている人もおられます。けれども私は、数十年にわたり仏法を学び、古の行者たちがいかに法を求めていたかをよく知っています。本当に心から求める者の言葉は、実に簡素で、わずか一言二言で済むものなのです。たとえばミラレパ尊者は、自らが極めて深い罪業を背負っていることを深く自覚し、「このままでは死後、必ず地獄に堕ちる」と確信していました。そのうえで、師であるマルパ尊者にただ一つ、この一生で輪廻から解脱する法を教えてほしいと願ったのです。その祈願は、非常に簡潔なものでした。ところが、現代の多くの方々は、自らの過去を長々と語り始めます。「あの人に傷つけられた」「こういう経緯があった」「あの時はこうだった」と、誰かのせいにする話ばかりです。私は、こうした話をされる方とは、基本的には語りません。なぜかというと、その人の中に強い瞋恚があるからです。そしてそのような心を抱いたままでは、最終的にその人は、上師に対してすら「助けてくれなかった」として恨みの心を抱くようになるのです。

なぜ私があの家族からの供養を受けなかったのかというと、彼らの中に瞋恚や、慢心が見られたからです。供養は受けませんでしたが、それでも彼女を助けました。きっと皆さんの中には、「リンポチェは来ていないのに、どうして助けられたとわかるのか?」と思う方もいらっしゃるでしょう。もし、私がわざわざその場に赴かなければならないのであれば、それはもうリンポチェとは言えません。私はポワ法を修するに当たって、たとえ二千キロ離れていても、その修法は成功裏に上手く届きます。ましてや、皆さんは台北市にいて、私との距離ものすごく近いをや。私が少し思いを向ければ、すぐに届きます。わざわざこの肉体が現れる必要はあるのでしょうか。必要がないのです。

皆さんにぜひ経典の中でもっとも大切な一節を覚えていてほしい──「自心清浄潔白」という言葉です。この一言があってこそ、その後の実践が可能になるのです。これがなければ、まったく成り立ちません。たとえば、末期がんの弟子のひとりがいました。彼女の財は不正な手段で得たものでしたので、私は供養を受け取りませんでした。その家族は彼女をとても愛し、今もなおあらゆる方法を尽くして治療を続けています。ですが、そのお金の得られ方に応じて、いずれ同じ道筋をたどって失われていくものなのです。因果ははっきりしています。標的治療には多くの費用がかかり、しかも非常に苦しいものです。それはどうしようもありません。なぜなら、彼女にはそのような善き縁がなかったからです。上師というのは、「自心清浄潔白」自心が清らかで潔白な存在です。彼女は、母親から譲り受けた金の塊を、長らく家に隠していて、私が「お金はいらない」と言ったと知ってから、ようやく取り出して供養として差し出しました。私は、渋々ながらそれを受け取りました。将来、彼女のために済度する縁がつながるように、という思いからです。私は彼女の家のことについて、いろいろ知ってはいますが、関わろうとは思いませんし、意見を述べるつもりもありません。なぜなら、彼女のことを愛している人が、あまりにも多いからです。

一人の伝法者として、もし自分自身に問いかけて「自心清浄潔白」でないと感じるのであれば、升坐し法を説くことは避けるべきです。もう一つ例を挙げますと、リンポチェが以前開催した阿弥陀仏大済度法会には二万人以上の方々が参加されましたが、その際、参加費は一銭も徴取しないという方針を貫かれました。これは断るに非常に難しいことです。仮に、二万人の参加者がそれぞれ千元を支払ったとしたら、(会場から一部の方が「二千万元ですね」と反応されました)計算が非常に得意のようですね。もし、一日に二千万元が手に入るのであれば、こんなに苦労する必要はないかもしれません。実際、13回連続で法会を行うと、総額は二億六千万元以上になります。それを使って、いくつかの不動産を購入することもできますが、それでも「一切受け取らない」と決めているのです。「要らない」と言えば、要らないのです。もちろん私にもプレッシャーがあります。大勢を養う必要がありますし、様々なことを行う必要もあります。それでもこの姿勢を貫き通すのは、決して容易なことではありません。

清らかで潔白な境地に達することは、出家者にとっては少し困難であるかもしれません。なぜなら、出家には特定の目的があるからです。もし出家が生死を見透かすためでなく、あるいは自分の過去世で証果がなかったために出家したのでなければ、この出家は清浄で潔白なものとは言えません。もしこの出家が、ただこの生や来世において苦しみを避けたいというものであれば、それは本当の潔白清浄とは言えません。ですので、阿弥陀仏は私たちを彼の浄土に導いてくださいます。これは、私たちの心が清らかでなく、潔白でない場合、輪廻を断ち切ることができないからです。そこで、阿弥陀仏の浄土へ導くことです。また、菩薩道を修行して一定の境地に達したとしても、もし浄土に生まれることを願わないのであれば、その人は自分の行った善業に従って生き続けることになります。生涯が終わった後、もしその人が再び来たいと思えば来られ、来たくなければ他の世界に生まれることができます。これも、法王が私のために書かれた長寿文において「自在於諸善緣所伏洲」(自在にして諸善縁の所に伏し拠る洲と為す)と記されたのように、銀河系の四部洲のいずれも人類がおり、その中で善き縁のあるところへ赴き、私は必ずしもここへ戻るわけにはなりません。むしろ、地球に戻るつもりはない。なぜなら、私はこの世で地球における縁を全て果たし、やるべきことはすべて行ったからです。これからは他の世界に行って、そこの生きとし生けるものを助けていきます。このようになるまで修行したいのならば、仮に心が清浄で潔白でなければ、きっと多くの言い訳が生じるでしょう。

ですので、釈迦牟尼仏は天耳通や天眼通の重要性をお説きになりました。それは、菩薩が衆生利益する際に、より多くの手段を持つことに伴い、衆生を摂受し、導くためです。決して、天耳通や天眼通を用いて、ただ信者を集めるために神通を見せびらかすためではありません。私の前に跪かれると、私はすぐ神通が現れます。例えば、昨日往生された弟子がいましたが、その弟子が以前私の前で膝をついたとき、私はその方がもう食事を取れないこと、そして近い将来に亡くなられることを知りました。これは神通でしょうか?確かに神通です。しかし、この神通は私の能力を誇示するためのものではなく、弟子や信者を威圧したり脅かすためのものでもありません。また、自己の利益を得るために神通を用いることは決してありません。私がこの能力を持つのは、ただただ、より多くの衆生を助けるために他なりません。助けるべきは、ただ今この瞬間に彼らが幸せで過ごすことではなく、彼らが仏法を学び、修行し、輪廻から解脱し、三悪道に堕ちないように導くことです。これが私の目的であります。

もしあなた方が「リンポチェが我が家を十年以上もお世話してくださった」とよく口にするのであれば、まずその収入が全て私に捧げられているのでしょうか?昔の時代において、「お世話をする」とは、どのような意味を持っていたのでしょうか。それは、食べるもの、飲むもの、住む場所が全てその人から与えられることを意味しました。ですから、もしお世話するというのであれば、お世話を受けた側が儲けたお金は、お世話する側のものになるべきでしょう。ですが、今なお自分たちの生活を享受し、豊かな日々を送っているのではないでしょうか?ですから、今後そのような言葉はもう使わないようにしなさい。リンポチェがあなた方を加護しているのは、あなた方が普通の、平凡で、楽しく、家族団欒のような日常を送るためではありません。リンポチェがあなた方を加護しているのは、あなた方が非時の死に見舞われることなく、手足が折れることなく、健全なお体で仏法を修行できるようにするためです。仏教の経典に明記されています。身体に欠陥がある者は仏道修行ができないと。「できない」というのは、あなた方に能力がないということではなく、業障が重く、その修行を阻むという意味です。それでは、過去十数年、リンポチェがあなた方を楽に、豊かな生活を送らせてくれたのか?いいえ、それは違います。リンポチェがしてあげたことは、もっぱらあなた方が仏法を学ぶために、欠けることなく、例えば耳が聞こえ、目が見え、口が動き、足が歩ける状態でいることです。もし歩けなければ、仏像にお参りすることもできません。

多くの人々は、リンポチェが私たちを守り、私たちに快適で豊かな生活を送らせてくださると考えています。例えば、昨日往生されたその弟子のご家族も、まさにそのような考えを持っていました。その弟子は私の店に来て、私の商品に対して批判的な言葉を口にし、自分がそのことをよく知っているかのように思っていました。ですから、後に病気になったことも私に伝えることはありませんでした。なぜなら、彼女には慢心があったからです。彼女は医師が免許を持っていることに依存し、リンポチェは免許を持っていないから、この病気についてどうして分かるだろうかと考えてしまったのです。しかし、すべての癌は因果による病であることを理解しなければなりません。もしリンポチェが因果についてよく分からないのであれば、どうして私がここに座って皆さんに法を説くことができるのでしょうか?彼女の慢心が、結局は彼女自身を害してしまったのです。

もし、彼女が4年前に来ていれば、たとえリンポチェが彼女の癌の発作を止めることができなかったとしても、彼女自分自身で自分を三悪道に堕ちさせないに足りる時間があるなど、少しでも命を延ばすようにしてあげることはできたかもしれません。私は何度も皆さんに伝えしているように、リンポチェが永遠にこの世界にいるわけではありません。私は必ず離れます。ですから、私がここにいる間に、皆さんは私の教えをしっかりと受け入れ、着実に行動に移してもらいたいのです。ご年齢に関係なく、たとえ今、皆さんが中学生であろうが、高校生、大学生、あるいは大学院生であろうと、将来の事業を目指しているとしても、それは人生の一つの過程であって、最終的な結論ではありません。良い事業を築けたとしても、それが修行とは関係がありません。多くの人々は、良い仕事を得ることで供養が増え、福報が増えると考えがちですが、重要なのはお金の額ではなく、あなたの心の持ち方です。心の変化こそが、何よりも重要なのです。

経典曰く「以天耳識加持彼聲。」

この言葉の意味は、菩薩が天耳通を得た後、その天耳通の能力、この意識の能力によって彼の声に加持を施すことができます。つまり、菩薩が発する言葉のお声が、衆生に聞こえるようになるのです。

経典曰く「令諸有情而能解了。」

一切の有情衆生が仏法を解き明かし、理解できるように導くことです。

経典曰く「然彼有情聴聞是法或能解了。又若有情聴聞是法或未解了。彼於是處得法界清浄。」

ある衆生が法を聞いても、解明できない、理解できない場合もあるでしょう。しかし、そのような場合でも、「彼於是處得法界清浄」。たとえ法の内容を理解できなかったとしても、清浄な心で法を聴くことによって、その瞬間に「得法界清浄」、法身の中で清浄を得ることと同じです。つまり、本人が気づかないうちに、心の中の汚れたものが減少していることです。前にも言ったことですが、以前、法王がチベット語でお話しされたとき、私はその言語を全く理解できませんでした。しかし、私は清浄で集中した心で法を聞いていたので、まるで定の心をもって法を聞くようなもので、結果として法界の清浄を得ることができました。それゆえ、修行が非常に速く進みました。ですが、あなた方はそのようにしていないのです。

あなた方は選り好みの心で法を聞いています。ですから、冒頭に皆さんは「清淨潔白而為彼説」との一言を忘れてしまっていたことを指摘したのです。なぜなら、あなた方はこの一言は、菩薩の場合でしたら、こうなのと、と考えているから、それなら覚えていなくても良いと思っているからです。リンポチェに対して、私には理解できませんと言っても構いません。ここでも記された通り、理解できなくても問題はありません。ただ清浄な心で法を聞けば、法界は清浄になることです。あなた方の意識がこの法を理解することを求めているのではなく、あなた方の法界、法身が本来、汚れによって覆われている部分が少しずつ取り除かれていくことが重要です。理解できましたか?もし、今もなお理解できないのであれば、まるで石に向かって法を説いているようなものです。

たとえ今日私が話した仏法が理解できなくても、どうか集中してください。心を飛ばさず、比較せず、考え込まず、また上師が言っていることが自分にはできないから覚えなくて良いと思わないでください。そのようにしてしまうと、永遠に修め得ることがないです。仏はすでに私たちに非常に明確にお教えくださいました。ある衆生は根器が良く、仏法を理解できる一方、別の衆生は根器が良くなくて理解できないこともあると。しかし、たとえ理解できなくても心配することはありません。大切なのは、集中して法を聞くことです。そのことが必ずあなた方にとって助けになるのです。リンポチェは何度も法を聴く方法について教えましたが、なぜあなた方はそのことを学ばないのでしょうか?今でも加護を求める心、加持を求める心で法を聴いているのですか?このような基本的な顕教の理論を理解せず、受け入れなければ、あなた方にとってすべての法は永遠に無関係なものとなってしまいます。

あなた方は、不共四加行を学んだら修行していると思っているかもしれませんが、それは修行ではありません。これらの基本的なことさえできていないのに、ただ法を貪っているだけです。法が多くても、それがあなたにとって何の役にも立ちません。あなたがそのレベルに達していなければ、ある法は全くお見せすることはありませんし、言うこともありません。それは、あなたに福報がないからです。まだその大きな法を受けるだけの力を持っていないため、もし伝えたならば、あなたに害を及ぼすことになります。なぜ私はこの一年間、経典ばかり解き明かし、これまでのように多くの法を伝えなかったのでしょうか?それは、あなた方が本当にそのような器ではないことに気づいたからです。十数年も帰依しているのに、まだそのような状態なのです。考えた結果、これはいけないと思いました。このままだと、あなた方は本当に危険(原文では中国語で「死定了」と書くが、掛け言葉に「死ぬことに決まる」という意味もある)です。もちろん、あなた方は死を免れることもないでしょう。(集まりの中で、少し笑い声が漏れる。)このままだと、修行面では一切進展がありません。みんな迷信にかかって、チベット密教がすごいと信じて、どんな問題も解決してくれると考えています。しかし、私は何度も言ってきましたが、もし本当にそれがそうなら、私はまず修行しなくてもいいはずです。法王は私の根本上師であり、毎日のように彼の法号を唱えるだけで、すべて解決するのですから。けれども、そうではないのです。私がそのような立場でないのに、なぜあなた方はそのように考えるのでしょうか?

毎晩寝る前に、『仏子行三十七頌』を読み返し、自分がどこで間違えたのかを振り返ることを勧めます。しかし、実際にそれを行っている人は何人にいるのか、ほとんどいません。なぜなら、自分には間違いがないと思っているからです。私は何度も皆さんに勧めていますが、『地蔵経』には非常に明確に記されています。『起心動念、すべて業であり罪である』と。なぜなら、あなた方は凡夫であり、あなた方が起こす心の動きや思いが業であり、罪となるのです。それはなぜかというと、すべてが自分のために行われるからです。善業であろうと悪業であろうと、すべては輪廻を招きます。

ですから、リンポチェは皆さんに『仏子行三十七頌』を毎晩寝る前に必ず一度読み返すように教えました。そして、一日の中で何か『仏子行三十七頌』に反することをしていないかを振り返ることです。もし、一か条でも反していることがあれば、今日はあなたは仏弟子ではありません。例えば、上師に対して傲慢を抱いてしまったら、それは仏弟子としての心ではありません。そうですよね?(大衆:はい。)例えば、他の人を見下したりした場合、『仏子行三十七頌』には「敬彼如上師」と、彼を上師のように敬えという教えがあります。つまり、どんな人であっても、良い悪いに関わらず、その人を上師のように敬うことが大切であり、ましてやあなたの本当の上師であればなおさらです。ちゃんと教えているのに、皆さんはこれを聞き入れようとせず、一向に私はこのお経を読んでいるから大丈夫だと思い込んでいます。ですが、古人の言葉にもあります。「お経を読むことよりもお経を行うことが大切だ」と。つまり、この経を実際に修行することが何よりも重要なのです。

もう一度伝えておきます。毎晩寝る前には『仏子行三十七頌』を必ず一度読み、自分を振り返るようにしてください。今日は傲慢な気持ちになっていなかったか、上師のことを批判しなかったか、自分に問いかけてみてください。私のお店のことをあれこれ言うのも、批判になります。(来たくなければ)来なくてもかまいません。ただ、以前にも言ったように、友人が店を営んでいれば、一度くらいは顔を出すものです。それすらしない人もいます。前に厳しく言ったら、1ヶ月ほどは毎日のように来ていたのに、その後またぱったりと来なくなった方もいます。まるで韮(にら)切り取るようなご来店です。リンポチェは怒っているわけではありません。ただ、不思議な人たちだな、と感じているだけです。たとえば、父親が店を開いているのに、あなたが毎日外で食事をしていたら、父親は何か言わないのかしら? おそらく、何か言うでしょう。私も皆さんを責めているわけではありません。うちの店は清潔で、食事も体のことを考えて作っています。それでも、ただ味の好みで外のものを選ぶのは、少し残念に思います。この間も、八供女の一人が、言うことを聞かず、便利だからと別の菜食レストランに行きました。そしてすぐにコロナウイルスに感染しました。彼女はどこへ行ったかを教えてくれませんでしたが、私は「外食したとき、近くに咳をしている人がいて、それで感染したのだ」と言いました。なぜうちの店に来なかったのかはわかりませんが、その行動を見ると、私よりも他の人のことを先に考えていたと分かります。

経典曰く「即耳界智界亦得清浄。」

今日お話しするこの経典の中で、菩薩が天耳通を持っているのは、自分がすごいと見せるためではありません。天耳通があっても、それは自分のためではなく、衆生が修行できるように助けるためのものです。ですから、ここで「即耳界智界亦得清浄」と説かれています。「法界(ほっかい)」については、まだよくわからない方もいるかもしれませんが、「耳界(にかい)」はわかると思います。そして「智界(ちかい)」とは、自分の智慧のことです。「自心清浄潔白」の上師から法を聞くとき、意識を集中して天耳・天眼のある菩薩からの説法を聞くと、ご自身の法界だけでなく、「耳界智界亦得清浄」耳界や智界も清浄になっていきます。これはどういうことかというと――あなたの耳が、今後だんだんと汚れた言葉を聞かなくなっていく、やがては誰からも悪口や罵りの言葉を向けられなくなっていく、ということです。なぜなら、自分自身が清浄になっていくからです。中には、生まれつき周りから悪い言葉をかけられやすい人がいます。これは過去世からの業によるものです。また、ある特定の環境にいると、自然とそういう言葉を耳にすることが多くなる人もいます。これが耳界が清浄でない状態です。耳の記憶の中に、汚れた情報がまだ残っていて、それが消去されていないためです。だからこそ、自然とそのような環境や人と言葉が引き寄せられてくるのです。簡単に言えば――人から悪口を言われたり、罵られたり、卑しい言葉や意味のない話を向けられやすいというのは、自分の「耳界」がまだ清浄になっていないからなのです。

智界が清浄でないというのは、自分の智慧が空性に基づいた清らかなものではなく、「自分は賢い」「自分はよく知っている」と思い込んでいる状態のことです。こういう思いがあると、それがかえって修行の妨げになり、智慧が開かないものです。なぜなら、自分がすごいと思い込んでいるからです。こんな人なら、救いようがありません。なぜかというと、自分で自分を間違った方向へと進ませてしまうからです。そしてその先には、最悪の場合は精神を病んでしまったりすることもあります。

経典曰く「我以耳界既獲清浄。而此有情亦獲清浄。」

「我」は、つまり法を伝える者を指し、耳界(にかい)が既に清浄を得ることができれば、それに触れる有情もまた、次第に清浄になっていきます。ですから、『仏子行三十七頌』の中でも、「悪しき言葉を口にしないように」と教えられているのです。自分がそういった言葉を発しなければ、不思議とそういう言葉を耳にすることもなくなっていきます。耳界が清浄になれば、周りの人も自然と、あなたの前でそのような汚れた言葉を話さなくなるのです。修行の中では、眼・耳・鼻・舌・身・意、いわゆる「身・口・意」のことについて、特に金剛薩埵の修法に際して、この身・口・意の業力を浄化することが中心です。ご自身の耳界が清らかになった際、まわりの有情もまた、少しずつ清浄さを得ていくのです。ですから、長い時間をかけて仏法を聞き続け、仏の名号を耳にすることは、それ自体が耳界を清らかにしていくことに繋がります。

経典曰く「於彼耳界得善出離。」

耳界(にかい)が清浄になってくると、輪廻の世間からの出離(しゅつり)が育っていきます。では、なぜ耳界が清浄になると出離しやすくなるのでしょうか。それは、耳がもう汚れた言葉や罵詈(ばり)、毒語を聞かなくなるからです。そうすると、だんだんと瞋恚や復讐心といった心も起こらなくなってきます。だから、耳界の清浄さと出離には、深い関係があるのです。自分で悪い言葉を話せば、その言葉は自分の耳にも入りますよね? たとえ口に出さず心の中で言っていたとしても、実際には耳がそれを聞いているのです。ですから、その時点で耳界はもう清浄ではありません。耳界が清浄でないと、どうしても輪廻の中に留まり続けることになります。そして、自然とまた悪い言葉を耳にするような状況がやってきます。中には、生まれた時からずっと、誰かに悪口を言われたり、呪われたりするような環境にいる人もいます。それは、過去からの因縁によって耳界が清浄でないままになっているからです。

経典曰く「如其所説文字義理及諸有情巧妙言辭。令五趣有情聞説法聲悉令悟入。又能於此天耳界中而得成就如來天耳。」

すべての有情に対して、文字の持つ意義や道理を説き、巧みな言葉をもって導いていく「令五趣有情聞説法聲悉令悟入」「令五趣」というのは、すなわち地獄道を除く衆生たちのことを指します。では、なぜ「六道の衆生」とは言わず、「五道」と言われているのか。それは、地獄に堕ちる衆生はあまりにも苦しすぎて、菩薩が化身して地獄に入るようにすることでなければ、地獄道の衆生には仏法が聞けることが皆無だからです。地蔵菩薩が「地獄不空、誓不成仏」と願われ、「我不入地獄、誰入地獄(われ じごくに いらずんば、たれか じごくに いる)と誓われたように、つまり、地獄に堕ちた衆生というのは、すでに仏菩薩との因縁を断ってしまったため、もう仏法を聞くことができないのです。何故なら、縁がなければ、なかなか地獄の衆生に仏法を聞かせる機会がないからです。

私たちが修法のときに鈴を鳴らしたり、太鼓を打ったり、寺院で鐘や鼓を叩いたりするのは何故かというと――その音を地獄まで届けることにより、地獄道の衆生の業力を一瞬停止させ、仏法・真言を聞かせるためです。ですから、修法のときに鈴や太鼓を鳴らすのは、見た目が立派だからではなく、本当に重い業障を背負っている衆生の心がほんのわずかでも止まって欲しいからです。その「止まった一瞬」に、清浄な仏法入っていくんです。清浄なる仏法が入るからといって、すぐに衆生を地獄から解放するというわけではありませんが、地獄にいる時間が少しずつ短縮し、早く三悪道から離れて、仏法を学ぶ縁が近づくのを願っています。そのため、徳を備えたすべてのリンポチェは、毎日欠かさず祈願をしています――三悪道に堕ちている衆生たちの重い業が一日でも早く清められ、善趣に生まれ変わって仏法を学べるようにと願いを込めて、修法を続けておられるのです。

ですから、衆生に仏法を聞かせたいと思っても、ただ経を唱えているからといって、すぐに彼らが聞けるわけではありません。毎日回向をしているからといって、自動的に届くものでもないのです。なぜなら、彼らは今いる場所から出られないのです。たとえば、民間信仰では「七月になると鬼門が開く」と言われていますが、如何なる仏典にも、「鬼門が開く」などという教えはひとつもありませんから、鬼門が開くことなんかあり得ません。もし本当に七月だけ幽霊が出てこられて、供養を受けられるのなら、誰が戻ろうと思うでしょうか? 彼らを戻すのは簡単なことではありません。なぜなら、鬼は非常にとらえどころのない存在で、仏教の経典では「煙よりも軽い」とされています。たとえば、線香を焚いたときに立ちのぼる煙は、とても軽くて、目に見えていてもすぐに消えてしまいますよね。でも、幽霊はその煙よりもさらに軽く、ほとんど形もなく、見ることもできません。もし姿を見せたとしても、それはその存在が意図的に現れているだけで、普段は私たちのすぐそばを通ったとしても、まったく気づかないものなのです。

中には、何か霊的な気配を感じたときに、布団をかぶって頭を隠せば、幽霊は自分自身のことに気づかなく、大丈夫と思っている人もいます。でも、実はそうではありません。お化けは、普通に一緒に布団の中に入ってこれますよ(大衆笑)。というのも、お化けは、所定の三か所を除き、どこでもすり抜ける力があります。お化けが通り抜けられない場所が三つだけあります。一つ目は、釈迦牟尼仏の法座。もう一つは、女性の子宮。そして三つ目は、十字金剛杵。だから、玄関にお札を貼ったからといって防げるわけではありません。お化けは床下からでも、どこからでも入ってこられるのです。だからこそ、我ら修法の際には、結界を整え、念を込めて守る必要があります。民間信仰の中には、七月になると「鬼門が開く」と言われて、なんとなく不思議な習慣が残っていますが、もし仮に、自分が幽霊だったら、そんなに素直に帰るでしょうか?出た以上、戻る気かい?捕まったら、その先のことを考えるのでは?と、ちょっと考えてみたくなりますよね。そもそも、鬼道になる存在というのは、貪(とん)・瞋(しん)・痴(ち)によったことです。そんな存在が自由に出てこれるなら、そのまま逃げ出すに決まっているでしょう。わざわざ待つなんて、あり得ない話です。ですから、そういった話はあくまで民間の迷信にすぎないものです。

「令五趣有情聞説法聲悉令悟入。又能於此天耳界中而得成就如來天耳。」とは、五道が聞いてから、仏法に悟入されることは、ただ時間の問題になることを指します。あらゆる天耳界の中で成就を得られ、如来天耳を得られることになります。

経典曰く「復於此中無雜亂意。此説名為菩薩摩訶薩得天耳通智業圓滿。」

天耳通を得た後は、その間に雑多な思いが起こることはありません。「此説名為菩薩摩訶薩得天耳通智業圓滿。」天耳通を得た者は、みだりに何かしらの音を聞くことはありません。自ら聞こうと思えば聞こえますが、聞きたくないときには動じることがないのです。動じないことに伴い、心も動じることがありませんから、そこに乱れた思いも起こらなくなります。

前回みなさんに話したことがありますが、私は以前、入定するときに方法を間違えて、周りの音が聞こえなくなってしまったことがありました。今回の話は、それと少し似ています。私は天耳通を得たわけではありませんが、音を聞く意識を自分で止め、完全に音が聞こえないようにすることができるのです。真空の環境での、原子や分子が摩擦して出す微細な音ですら、聞こえなくなります。これはつまり、ある種の意識を訓練によって止めることができる、ということです。ただし、天耳通の場合は、耳識や聞識の働きを無くすわけではなく、動かなくなるようにさせるなのです。動かない状態になると、自然と外からの情報を受け取らなくなります。そうすると、心も乱れることがなくなります。たとえば、みなさんが持呪するときに、横で少し音がしただけで、すぐにそちらを向いてしまうことがありますね。これは、耳が散乱しているということです。けれども、もし持咒にある程度定が入っていれば、どんな音がしても心が乱されることはありません。

経典曰く「復次舍利子。云何菩薩摩訶薩他心智通及彼正行智業圓滿。」

ここは「他心通」のことを言及しています。「他心通」とは、他人の心の中で何を考えているか、どんな観念を持っているかが分かることです。たとえば、二週間ほど前に、ある弟子の娘さんを助けようと思って話したことがありましたね。それに対して、その弟子はいろいろ言って答えたところを、私は「あなたは来たくない、面倒なんだと思う、忙しいから」と言いました。そのあとで、本人からは「確かに連れてくるのが面倒だった」とのことでした。誰もリンポチェにこういう少しの力があるとは思っていなくて、まさか分かるはずがないと思っていたようです。けれども、私は心を動かさなければ、たしかに気づかれずに済むこともあります。しかし、心を動かすこととなると、「知ろう」と思えば、だいたいのことは分かります。あとは、知るかどうか、行うかどうかだけです。だから、私の弟子になるというのは、ある意味で不幸でもあり、同時にとても幸福なことでもあります。(大衆はそうですと答えた)リンポチェは、正しい仏法を教えることができます。でも、不幸なのは、私をごまかすのが少し難しいということです。ときどき、私はあえてだまされたふりをすることもあります。それは、みなさんに少し達成感を持たせるためです。「リンポチェもだませた、自分はなかなかやるな」と思うかもしれません。でも、そのうちに、自分が本当にどうなのか、きっと分かるときが来ます。

経典曰く「舍利子。此菩薩摩訶薩於十方無餘一切世界諸有情類。往昔邊際心能了知。及彼現在心亦了知。又復過去有情心智麁因細因種種心智皆能了知。」

私はそんなにすごいわけではありません。ただ、知るというだけです。「十方無餘一切世界諸有情類」とは、菩薩が他心通を修して得たとき、十方世界のいずれの世界の有情衆生も、過去世で心の中で何を考えていたか、現在何を考えているのか、すべて知るということです。「又復過去有情心智麁因細因種種心智皆能了知」。さらに言えば、過去の有情の心智における粗い因や細かい因など、さまざまな心智もすべて知ることができるということです。だから私が、ときどきとても細かくみなさんの心を分析することがあるのは、まさにこの教えの通りです。中には、本人でさえ気づいていないこともあります。

経典曰く「或此有情最上心因。或此有情中分心因。或此有情最下心因。」

この一言は、修行時の心について説かれています。「最上的心因」とは、法を求める際に、最高に恭敬かつ誠懇な心を込めるか、もしくは有情における中間の心因、もしくは有情における最下の心因で求めるかどうかを指します。

経典曰く「又此有情根性以布施相應。」

この言葉は、とてもはっきりと説かれています。「根性」とは、仏道を学ぶ上での善根の本性のことで、そして、それは「以布施相應」とされます。なぜ私が、毎日のようにみなさんを叱るのか。それは、私がわざとお金を欲すからではありません。これは仏教の教えであり、仏が説かれたことです。みなさんも知っている通り、私はしょっちゅう供養金を突き返しています。けれども、みなさんはそれを信じようとせず、「これは棺を買うためのお金だから、取っておこう」「これは念のために取っておこう」と考えています。世間法から見れば、それはたしかに非難するほどのことではなく、理にかなっていると言えるでしょう。けれども、修行という観点から見れば、それは正しいとは言えません。以前読んだある伝記に、こう書かれていました。「もし観世音菩薩を心から信じるなら、決して飢えることもなく、着るものに困ることもなく、住む場所にも困ることはない」と。ところが、みなさんは観世音菩薩を信じず、心の中では将来のことをどうのこうの心配しています。それも、たしかに非難するほどのことではなく、「人に遠慮なければ、すぐに近くの憂いが現れる」――この言葉も間違いではありません。けれども、ここに大切な言葉があります。本当に修行を深め、根器を育てたいのであれば、「以布施相應」が必要となってきます。

「布施相應」というのは金額の多い少ないのことではありません。そこに誠実な心、見返りを求めない心、慈悲の心をもって布施や供養ができているかどうか――それが大切なのです。もしそうであれば、その人の根器は自然と伸びていきます。どうやって供養や布施をすればよいか、私はすでにみなさんに見せてきました。聞きつけて、そしてそれがやるべきことであれば、必ず実行します。ところが、みなさんはいつも、小銭の計算をしています。「今日はこのぐらいで食事を済ませよう」「このお金はこう使おう」――それも、もちろん非難するほどのことではありません。人はこの世に生きている以上、ある程度のお金を自分のために残しておくことは必要なことです。でも、修行というのは、弥が上にも、このようなことを扱うのです。もちろん、「持っているお金をすべて布施しなさい」と言っているのではありません。ただ、やるべきときには、少なくとも四分の一は使うべきなのです。それが最低限の基準です。

法王も公の場で、リンポチェはこれまでに一千六百万ドル以上の供養をしてきたことを話されたことがあります。これも七、八年前の時点で、法王が把握しておられた金額であり、法王を経由して供養されたものです。そのあとも、供養は途切れることなく続けてきました。だからこそ、今日の私に小さな成就があるのです。私は、天から降ってきた神でも仙人でもありません。この一生で、本当に修行して積み上げてきたのです。不思議なことに、これらの仏経を目にする前から、私は自然とこうした行いを続けていました。おそらく、過去世でも同じようにやってきたのでしょう。ですから、私もまた転生してきた者であることは間違いありません。

経典曰く「此有情根性以淨戒相應。」

有情の根器というものは、必ず清らかな戒を守ることと相応しています。もし私が過去世で清浄な戒律を守っていなかったなら、この一生で修行の成果を得ることは絶対になかったでしょう。みなさんが、よく戒を破ったり、間違った行いをしてしまうのは、過去世で清らかな戒を修してこなかったからです。だからこの一生では、根器がなかなか相応しないのです。だからこそ、私は何度もみなさんに戒を守りなさいと強く伝えています。たとえこの一生で成就できなかったとしても、たとえ生死から解脱できなかったとしても、来世にはその根器が整い、自然に相応するようになります。最低でも、阿弥陀仏のところに往生できるので、その分ずいぶん時間が省かれるのです。「この一生、ちょっとぐらい修行をサボっても、リンポチェが後で済度してくれるから大丈夫だ」と思っている人がいるかもしれません。たしかに、それは私の誓願ですから、みなさんを済度することはお約束します。でも、来世で良い暮らしができるとは、一度も約束していません。この一生で修行しなければ、私はどうすることもできません。ただ、もう一度チャンスを与えるだけです。来世で修行ができるかどうか、それにかけるしかないのです。来世で修行できれば、そこから少しずつ進んでいくでしょう。でも、この一生で「すぐに実行しない」「まだ時間はあるから待とう」と思って先延ばしにして、いよいよ命が尽きる頃になってやっとリンポチェのことを思い出し、供養をしようとしたところで――間に合わないこともあります。それは、私が時間を与えないのではありません。あなた自身が、自分に時間を与えなかったのです。

お金があって、何の意味があるのでしょうか?お金をため込んで、何の役に立つのでしょう?命の終わりが来れば、誰であっても同じようにこの世を去るのです。残されるのは、ただ子どもたちがそのお金を使うだけです。たくさんの土地を持っていても、それを売らず、供養にも使わない、それで何になるのでしょう?私が仏寺を建てようとしているのを知っていながら、それでも供養しないのです。昨日往生した弟子も、一つの土地を持っていて、そこに一家で住むための別荘を建てるつもりでした。お金がなかったわけではありません。ありました。もちろん私は、彼女にお金があったことをうらやんでいるわけではありませんし、何かをもらおうとしているわけでもありません。ただ、「できるなら、早くやっておいた方がいい」と言っているだけです。できないことを無理にとは言いません。私にも強制はできません。みなさんも知っている通り、経済的に苦しい人がいれば、私が面倒を見ています。葬儀費用が出せない人がいれば、私が出しています。リンポチェは、たくさんの人を養ってきています。今回、離れたその方もそうです。彼女のご主人が亡くなったとき、葬儀費用は私が出しました。そして毎月、彼女の子どもの教育費までサポートしていました。けれども、彼女の心は瞬時に変わってしまいました。それは、善根がなかったということです。リンポチェは、やるべきことを、できる限り尽くしています。

経典曰く「此有情根性以忍辱相應。」

過去世で忍辱を修していれば、この世の根性も自然にそれと相応するものになります。「忍辱」というのは、ただ人から罵られたり叩かれたりしても怒らない、ということだけではありません。もっとも難しいのは、お金があるときに忍ぶことです。たとえば、昨日往生した弟子の家族も、経済的には恵まれていましたが、供養や布施をすることを惜しんでいました。また、ある人は名声や地位を手に入れたとたん、忍べなくなります。「こうしないと商売にならない」「こうしないと官位が保てない」「こうしないと…」と、いろいろと理由をつけて、自分をごまかしてしまうのです。もし過去世でしっかりと修行していれば、この世でも自然と忍べるようになるのです。

以前にも話したことがあります。昔、ある人が「あなたがビールを一杯飲んだら契約します」と言ってきたことがありました。私は「結構です、契約しません、その仕事は受けません」と答えました。また、ずいぶん前のことですが、誰かが私のためにひとつのビジネスの話を持ち掛けてきてくれたことがありました。ところが、その相手が「仲介にもう一口、手数料を上乗せしたい」と言ってきたのです。私はそれを聞いて、「それなら私はやりません」と答えました。そのお金は私の取り分ではなく、相手に請求される側に上乗せされるだけでした。けれども、それでも私はやりませんでした。それが忍です。多くの人はこう言うでしょう。「やればいいじゃないか、誰にも分からない。天も知らず、地も知らず、中間の人間しか知らないことだ」と。仲介者が自分で動いて、取りはぐれのないように段取りも整えています。こちらの利益から引くわけではなく、たとえば本来5ドルで売るところに、もう1ドル上乗せして6ドルにするだけの話。こんな取引、誰だってやっています。ここにいる中でも、商売をしたことがある人、誰かのために取引に関わったことがある人は、みんな経験していることでしょう。でも、私はやらなかった、儲けなくてもいい、と。なぜそこまでして「やらない」とはっきり言えたのか、自分でも分からないところがあります。でもそれは、貪らない心、そして“忍”があったからだと思います。

リンポチェが金銭に欲深いと思わないでください。私はこれを習慣として身につけてきました。リンポチェをするようになってからも、多くのお金をお返ししてきました。二千万元も百万元も突き返し、そうやって訓練してきたのです。これは過去世で忍辱を修したからこそ、今生で相応しているのです。一度相応すると、リンポチェとして活動するとき、忍辱の力がとても大きくなります。名誉や利益のために、自分を傷つけたり、仏法を壊したりすることはありません。名誉や利益にこだわって誰かに合わせたり、その人の考えに沿って仏法を利用することもありません。

あなたがどれほど偉い役人であろうと、それはあなた自身のことです。昔、ある大臣クラスの高官がいました。彼がまだ大臣になる前、私が彼を助けたことがあります。訴訟を抱えていたのですが、私は彼にどうすればいいかを明確に伝え、どこで証拠を見つければよいかも教えました。その結果、彼は無事に問題を乗り越えることができたのです。けれども、彼が大臣になってからは、まったく別人のようになってしまいました。その後、彼は癌で亡くなりました。亡くなったあとも、家族の誰一人として、私のもとに助けを求めては来ませんでした。彼の部下の何人かは、今でも私のもとにいます。商売の感覚で言えば、こういう大臣に対しては、最低でも一度は挨拶に行き、顔を合わせて、「リンポチェが修法してあげたら、こうなりますよ」といった話をして、関係を築こうとするのが普通でしょう。もし彼が何かの情報をくれたら、すぐにでもお金が稼げたかもしれません。でも、私はそういうことは一切やりませんでした。たとえ元手がかからずに儲かる話であっても、私はやらないのです。なぜか?彼が仏法を学ばないのであれば、彼がどんな「長(トップ)」であろうと、「智」が育っていません。智慧を育ていず、官位は彼の福徳に過ぎず、それは私とは何の関係もないのです。

だから、多くの官僚たちがここに来ても、最終的には去っていくのです。なぜなら、官僚としての生活に慣れてしまっていて、いつも周りから持ち上げられているからです。私のところに来たときに、他の人たちと同じ立場で接することになり、そこで違和感を覚えるのです。長く官を務めていればいるほど、尚更その違和感は強くなり、結局「だったら戻ったほうがいい」となるのです。私が法を弘めて20年、その中で最も早く離れていくのは、官僚経験のある人たちです。なぜなら、彼らはすでにそういう生活に、習慣が身についていて、「自分が言えば、それが通る」「人の話を聞かなくてもいい」そう思っているのです。そして、法会に参加することすら「リンポチェに顔を立ててやっている」と考える人もいます。でも、私はそういう「顔を立てる」「面子」というものを、とても軽く、価値のないものだと思っています。だからこそ、忍辱はとても大切なのです。

以前、ある弟子で看護師の方がいました。病院から産科へ異動するように言われ、「行ってもいいでしょうか?」と私に相談に来たのです。私は彼女にこう尋ねました。「産科で一番多い業務は何ですか?」答えは──堕胎でした。彼女は少し考えたのですが、結局は数千元多くもらえるからと、そこへ行くことを選びました。彼女は信じようとしませんでした。「手術するのは医師で、自分はただ隣で手伝っているだけですから」と。でも、それが共業なのです。中には、「もっとお金を稼ぎたい」と思って、こちら(リンポチェのもと)ではとても厳しいから、まず離れてお金を稼ぎに行くようにする人がいます。これは、忍辱の法門を修していないということです。過去世でも忍辱を修しておらず、今生でも修していません。だから、ほんの少しの誘惑にも耐えられず、離れていくのです。ここで耐えられずに離れていった人たちも、まさに忍辱がないということです。

この一生で忍ぶことができないというのは、過去世で修行してこなかったということです。だからこそ、今生では必ず忍辱を修しなければなりません。もし、この上師があなたの命を傷つけるようなことをしたわけでもなく、特別な問題があったわけでもないのであれば、なぜ少しのことも忍べないのでしょうか?中には、離れていった人が「自分の面子が立たない」と言っていました。それなら、“面子”じゃなくて“ティッシュ(面紙)”をたくさん買ってあげたほうがいいかもしれませんね。(原文では、この「面子(miànzi)」と「面紙(miànzhǐ)」は、発音がとてもよく似ているため、語呂合わせとして使われることがあります。)

経典曰く「此有情根性以精進相應。」

彼の今生の善根が優れているのは、過去世において精進して修行してきたことと相応しているからです。「精進」というのは、ただたくさん行じたり、大量に唱えたりすることではありません。正しく行うこと、素直に聞き従うことが大切なのです。つまり、仏典に説かれているとおりに、上師の教えに従って、そのまま実践すること。自分で勝手に方法を作り出してはいけません。

経典曰く「此有情根性以禪定相應。」

もし過去世で禅定の修行をしていたなら、今生では自然と、心が乱れにくく、また、衝動的になったり、怒りっぽくなったりすることも少なくなります。何か出来事に直面しても、落ち着いて、安定した心で対処することができるのです。

経典曰く「此有情根性以勝慧相應。」

彼はすでに智慧を修得しているので、今生においても、どんな行いも仏法の智慧から離れることがありません。

経典曰く「又此有情根性以大慈為因。」

この衆生が今生で修行の根気が「以大慈為因」としています。以前にもお話ししましたが、「慈」とは、自分の善いものを差し出し、衆生の悪いものを引き受けることです。だから、リンポチェとして生きる者は、毎日たくさんのことをしているのです。それは、自分の功徳と引き換えに、衆生の苦しみを受け取るという実践なのです。もしかしたら、皆さんはそのことをあまり感じていないかもしれません。でも、実際にはあるんですよ。たとえば、今日の法会の前に、自身の経験について語ったあの弟子(衆生済度事跡第1299号を参照)──私は十数年、彼女のことを見守ってきました。何のために?どうしてか?私の功徳と、彼女の苦しみを交換してきたのです。それなのに、彼女は供養をしたか?──していません。だから、いっそ本当に領収書でも出そうかと思っています。「1か月にあなたの家族を何人支えたか、その費用を人数分でもらいましょうか」なんて、まったく良心がないんです。ちょっと人前で何か話しただけで、リンポチェが喜ぶと思っているのなら、それは「リンポチェが忍辱を修していない」と思っているのと同じです。私は、あなたが本当に行動しているか、如実に修行しているかを見ています。私があなたの家族を支えてきたのは、あなたを「普通の人間」として生かすためではありません。あなたを「菩薩道を歩む人」に転じさせるためです。それなのに、聞こうともせず、未だに迷信の中にいます。

もし私があなたを世話するなら、請求書を出さなければなりません。病院に行くときはお金を払いますか?(大衆:はい、払います。)薬を飲むときはお金を払いますか?(大衆:はい、払います。)では、毎月あなたが私に数千元や一万元を渡すだけで、あなたの家族全員を世話することができると思いますか?そんなうまい話があるでしょうか?私が交換できるのは、ただ一つのことだけです。それは、あなたが修行して仏道を学ぶこと。それ以外には、私の世話と交換できるものは何もありません。なぜなら、私は毎日、仏さまと菩薩さまに誓って、修行している人たちの世話をすると願っているからです。あなたが修行せず、言うことを聞かないなら、私はあなたを世話して何のためでしょうか。その力も持ち合わせていないのです。

何度話しても、みんななかなか聞き入れません。毎日何千遍か唱えれば修行になるとか、法会に参加すれば修行になると思っています。物を買えばそれが修行になるわけではありません。修行とは、六波羅蜜の一つひとつをしっかり実践していくことです。毎日『佛子行三十七頌』を使って自分を見つめ直し、振り返り、「ここで止まってはいけない、止まる余地も与えない」そういう方向性があって初めて進めるものです。「今日は何もないから読み返さなくていい、寝てしまおう」「今日は遅くなったから明日やろう」「今日は忙しかったから、もう十分勉強した。これくらいはいいだろう」そんな気持ちではいけません。仏道を学ぶとは、習慣を養うこと。自分を絶えず点検し、監督し、甘やかさないことです。「自分は仏道修行者だ」「自分は良い人だ」「もう一生懸命やっている」そんなふうに思わないでください。もし本当に一生懸命なら、もうあなたもリンポチェとして壇上に登り、私がしている務めを果たしていることでしょう。

私が初めて直貢噶舉に入ったとき、法王が私を訓練し、育てようとしているとき、多くの人が反対し、法王の前でなぜなのかと問いただすこともありました。しかし法王は気にせず、私への指導を続けてくださいました。なぜ私がここまで来られたのか?それは、ひたすらやり続け、決して止まらず、精一杯努力し続けたからです。もちろん、皆さんの目的がここにあるわけではないので、私と同じレベルのことを皆さんに求めるつもりはありません。そうであれば、きっと寶吉祥にはリンポチェがあふれてしまいます。しかし、リンポチェが多い分、信者がいなければどうすればいいのか。リンポチェとして過去世によった福報があるからこそ、この世に信者が寄ってくれるのです。私は広告を出したことがあるのでしょうか。ありません。毎日テレビで宣伝しているのか。していません。道端に立ってプラカードを掲げたこともありません。「紹介すると報酬がもらえますよ」とも言いません。では、信者はどうやって来るのか?私にも分かりません。それはすべて過去世からの縁によるものです。その縁が短くても長くても、喜ばしいものでもそうでなくても、それは縁なのです。仏菩薩、上師とのご縁は、生生世世に続くものです。決して途切れることはありません。たとえ離れてしまっても、上師がどうのこうの言ったとしても、その縁は残っています。なぜなら、私はすべての衆生と善い縁で結ばれているからです。

ずっと前に私が交通事故に遭ったとき、ある人がテレビで私の悪口を言っていました。私は皆さんに「あの人には手を出さないでほしい」と言いました。護法に対しても、「私が成仏したら、最初に救うのはあの人だ」と伝えました。すると、すぐにその騒ぎは収まり、テレビでも報道されなくなり、何もなくなりました。多くの人は、仏道修行は大げさなものだと思いがちですが、そうではなくて、あなたの心と願いの力が大切なのです。多くの人は、たくさんの法を学び、毎日たくさん唱えなければならないと思っています。リンポチェが新しい法本を与えれば、さらに法が増えると考えますが、それは違います。「根本」ができていなければ、たとえ1000の法本を与えたとしても修行は成り立ちません。伝えますと、直貢噶舉の経典は、私の生涯をかけても読みきれるものではありません。リンポチェがそれらを完全に習得したかどうかと問われるかもしれませんが、それは間違いもなく衆生を救済するための方法をしっかりと身につけています。(経典の)中には、歴代法王の論説や修行の経験、過程などがたくさん書かれています。
例えば、直貢噶舉には最低でも50の本尊がありますが、その50の本尊をこの一生で全部学ぶことはまず不可能です。なぜなら、本尊の修行には必ず灌頂が必要で、灌頂を受けた後は最低限でも2ヶ月から3ヶ月の閉関を行わなければならないからです。もし50の本尊すべてを修行するとしたら、本尊一つにつき2ヶ月の閉関をした場合、合計で100ヶ月、つまり8年4ヶ月かかる計算になります。皆さんにそれができるでしょうか? ほとんど不可能です。ですから、50の本尊というのは、各々の衆生が過去世から縁のある本尊によって、この世で灌頂を受けるという意味です。縁がなければ、灌頂を受けることはありません。私も50の本尊すべてに灌頂を受けたわけではありませんが、これらの本尊は存在しており、それぞれの衆生の縁に応じて灌頂が授けられます。

『寶積經』で説かれているのは、皆さんの根器をしっかりと築き上げることです。自分は修行していると思っていても、根がしっかりしていなければ、上に何も育ちません。木が成長するには根をしっかり張り、深く耕し、きちんと聞き入れることが必要です。そうでなければ、仏さまがわざわざこの言葉を私たちに説かれることはありません。今のこの一生の根器は過去世の修行に応じているものであり、それがあるからこそ、何を修めるかが現れるのです。

私たちはやはり、自分自身をリラックスさせる時間が必要です。休む時間を少しでも取ることは大切ですが、毎日の時間をきちんと計画して、仏法の修行に努めることも必要です。すべてを仏菩薩や護法、上師に頼るのではなく、自分自身で努力をしなければなりません。私たちがお伝えできるのは、皆さんを導き、指導し、教えること、そして方向を示すことだけです。しかし、まったく修行しない方に対しては、正直に申し上げて、私にはどうすることもできません。あなたの業を変えることはできないのです。せいぜい、死ぬ前に少しでも苦しみを和らげる方法を施すことができるくらいです。それでも、それは大きな価値があります。人は死ぬとき、誰でも苦しみます。特に癌の末期であればなおさらです。穏やかな最期を迎えられることは有りえません。医者に聞いてみてください。謝先生は多くの亡くなった方を看取ってこられましたので、その経験を語ってもらいましょう。

(謝医師:リンポチェ、皆さんにご報告いたします。がんは医者でも完全に理解することが難しい病気です。治療は一般的に化学療法、標的療法、摘除手術、放射線療法が行われますが、これらの治療は患者の組織にダメージを与え、体も傷ついてしまいます。そのため、亡くなる過程は非常に苦しく辛いものです。私が診てきた患者さんは、モルヒネやその他の薬を使って痛みを和らげても、それでも強い痛みや苦しみを感じています。多くの患者は臨終時に吐血し、体中から液体や出血があり、腫れや呼吸不全の症状が出ます。睡眠中に悪夢を見ることも多く、その苦しみは言葉では表現できません。私たちはただ見守ることしかできず、とても辛く、助けることもなかなかできません。このような苦しみの過程は本当に言葉にできないものです。)

だから、あの歯磨き粉のチューブから少しずつ絞り出すように供養した弟子は、この一生で熱心に仏道を学んでいなくても、法会に参加し続け、ここに足を運んでいたことで少しずつ福報を積んできたんです。亡くなる前にふとひらめきがあって、リンポチェところに来て助けを求めたから、私も助けることができたんです。つまり、前からの因があるからこそ、突然現れた人を私が助けられるんですよ。もし彼女が法会に参加せず、私の道場やリンポチェへの帰依を離れてしまい、突然戻ってきて助けを求めても、もう手遅れです。彼女は完璧ではなくても、ずっと続けていたから何もしないよりもましです。今の皆さんも同じ状況です。でも、あのように終わり際に慌てて求めるのはやめてください。リンポチェももう78歳、数ヶ月後には79歳になります。先は限られています。リンポチェが長生きし、良好な健康状態が保つことと期待しないでください。私のこんな健康なんて、撤回しようと思えばすぐに撤回できるようなものです。ですから、私が「もういい」と言えば、それで全てが終わるのです。

私は今、まだやり残したことがあるから、この肉体を維持しています。ある日、見透かし、すべてのことが円満に完成したとき、私はこの世を去ります。皆さんに何度も言っていますが、仏教修行を単なるレジャーのように、気晴らしや機嫌を良くするための娯楽だと思わないでください。また、自分の願いが叶わないからリンポチェに助けを求めるのも間違いです。これは間違いです。道場で起きるさまざまなことは、あの方だけに起こるのではなく、皆さんにも同じように起こる可能性があります。ご自身の心構えは調整する必要があるとされますが、私にはそれを調整してあげることができないし、仏菩薩にもそれを調整することができないのです。ただひたすら、どう実践すれば良いかを伝えるだけで、実際に行うのは本人自身です。

この後に話すことは、仏法においてもとても特別な意味があります。

経典曰く「即此有情以彼因緣力相應生高貴種族。或復有情意中清淨。非工巧清淨。」

良い仕事ができるのは器用だからではなく、心が清らかだからです。心が清らかになると、出来上がるものがまったく違ってきます。これはちょうど、料理人の心が清らかであれば、その料理が美味しくなるのと同じ意味です。今日はここまで話しましたが、皆さんに体得ほしいのは、仏教修行の主役はあくまで「あなた自身」であるということです。リンポチェはあなたの先生であり、教え導き、助け、見守り、励まし、指導する存在です。しかし、修行をするのはリンポチェではなく、あなた自身です。もしあなたが言うことを聞かず、昔の悪い癖のままで仏教を学ぼうとしても、私にはどうすることもできません。

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2025 年 08 月 22 日 更新