尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年8月10日

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ猊下が法座にお登りになり、『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十二「禅定波羅蜜多品第十之二」についてご開示くださった。

リンポチェ猊下が法座にお登りになった後、出家衆に、会衆を導いて、帰依発心・七支供養・『随念三宝経』・『仏子行三十七頌』・『八聖吉祥祈願文』を唱和するよう、指示された。その後、リンポチェ猊下は六字大明呪を持誦され、慈悲深き法音は深遠で宏大、声は本尊と相応し、まるで天鼓が自然に鳴り響くが如く、虚空を振動させ、十方に遍満した。尊きお身と壇城からは金色の光明が放たれ、道場は妙香薫り満ち溢れた。リンチェンドルジェ・リンポチェ猊下の慈悲と功徳に摂受される中、会衆一同は身に熱気を覚え、煩悩が静まり、心を一境にして、猊下の無比なる仏法の教えを領受することができた。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェ猊下は尊き仏法の開示を賜わった。

「本日も引き続き、『禅定波羅蜜多品 第十之二』を解説する。」

経典曰く「復次舍利子。諸佛世尊説彼往昔任持之行。由今善根聴聞聲故。」

釈尊は再び弟子の舎利子に一切の仏世尊は、「説彼往昔」とは、彼の過去世における「任持之行」のことを指すと告げられた。ここにいう「任持の行」とは、諸仏菩薩が成仏される以前、修行の過程において担われたすべての仏法上の責任を指す。すなわち、修行し、仏果を証し、衆生を利益し、戒律を保持する行為である。今生じてきた善根が「聴聞聲故」、その善根を因として、天耳通が生ずる。

経典曰く「於時非時分中獲彼所說。」

「於時非時分中」とは『中観論』を指す。中観とは、有りに偏せず、に偏せず、またに執着することもない教えである。私はかつて法王に「『中観論』を学ぶべきでしょうか」とお尋ねした。しかし法王は「不要だ、大手印を学べばよい」と答えられた。ゆえに私は大手印の教えより空性を理解することができた。

中観の要は「空」である。されどに執着しても誤り、に執着しても誤り、全く無と見るもまた誤りである。『金剛経』もまさにこのことを説いている。この境地は、体験なら可能だが、人間の言語では説き尽くせない。仏は方便として文字を用い、「これが中観である」と示されたのである。

「於時非時分中」とは、すべての事象が因縁により生起し、因縁尽きれば滅することを示す。でもなく、でもなく、中間でもない。ただ因縁が備えたら事が生じ、因縁尽きれば滅する。それをに執着し常住を願えば苦が生じ、滅したことに執して永遠を望めば苦が生じる。また「自らはにもにも執していない」と思っても、それが分別心である限り苦は去らぬ。仏法で最も体得し難きは、まさにこの理である。

修行における智慧とは、単に聡明でも、弁才に優れ仏法を語ることでも、世間において能く事を為すことでもない。それは「世智弁聡」であって智慧には非ず。智慧とは中観であり、さらにその上は「空性」である。ゆえに金剛乗は悉く空性を説き、その空性の働きを体得を目指す。それにより、菩薩道を修めるには五つの段階がある。

第一は「資糧道」。すなわち十分な福報と智慧を積まねば「加行道」に進めない。法会に参加し、如何なる供養を行じ、真言を誦し、仏に礼拝する等、仏法に関わる一切の行為は福と智慧の資糧を積むことである。もし資糧が不足すれば、上師や諸仏菩薩に祈願しても、必ず誤る。言うことも誤って、やり方までも間違えて来る。なぜなら、自己の心、自己の思い込みによる求め方だからである。それはすなわち100%貪念に基づくものである。

再び、ある弟子の例を上げよう。名前は言わない。彼女は病に四年苦しみながら、一度も懺悔せず、医師に余命を宣告されて初めて懺悔に来た。彼女は「今生の殺生の罪を懺悔し、冤親債主を解き放ちたい」と言った。だがそれは「冤親債主さえ去れば、自分は良くなり、楽になり、善処に往けるだろう」という取引的な懺悔にすぎぬ。なぜこの四年間、仏法を信じず、学ばず、修せずに過ごしたことを懺悔しないのか?初めて供養したとき、私は「汝は慳貪であり、供養を惜しんでいる」と告げた。昨日、供養を少し増やしたのだが、私は受け取らなかった。「汝は歯磨き粉を絞るように供養する。叱れば少し増やし、さらに叱ればまた少し増やす。上師の反応次第の対応だったから、私は受け取らぬ。歯磨き粉を絞るような方法で供養すれば、私も歯磨き粉を絞るような方法で返す。これは因果そのものである」。

彼らが大金持ちだと言うわけではないが、少なくともお金は持っている。では、なぜ自分がもうすぐ亡くなり、この世を去ろうとしている時でさえ、歯磨き粉を絞るように少しずつ供養するのだろうか。そのようにしては、供養の福報は起こらない。他のところであれば、きっと受け取るだろうが。「ああ、懺悔しましたね。慈悲です。法師が助けてあげるよ。はい、受け取りました。」と。しかし、仏菩薩がどうしてお金を使うだろうか。もし本当にお金がなくても大丈夫だ。真心を込めて供養すればよい。私もかつてはお金がなく、ご飯を食べられないほど貧しかった。しかしそれでも仏菩薩、上師に供養していた。一日食事を抜いてでも供養したのだ。たとえ供養した金額が少なくても、一日食事をしなかった分、その供養の価値は大きいではないか?とても大きい。だからこそ、私たちは福と智慧を積み重ねなければならない。本当に上師の教えの方法を聞き従わなければ、福と慧を積むことはできない。

ある者は言う──「私は修し、礼拝し、誦し、護法まで修したのに、なぜ福慧が生じぬのか」と。この二度の法会で、私は『仏子行三十七頌』を再び唱えさせている。だがその中の一頌、二頌、三頌すら実践している者はどれほどか。行じぬのに福か慧か、どちらも生じるはずはない。叱られたら懺悔しに来る。三十七頌は汝らのお守りである。毎晩眠る前に、自らの一日の行いと言葉を省み、三十七頌に背かなかったかを見直すべきである。もし「難しすぎて自分にはできない」と思うならば、むしろ学仏をやめた方がよい。なぜなら三十七頌こそが仏弟子の行を示しているからである。行いが仏弟子に似ていないなら、それは学仏と矛盾しているのではないか。俗世間のやり方をもって、ここで学仏すれば、矛盾が生じ、辛いのではないか。もし三十七頌を私たちの学仏のやり方の一つの方向にしなければ、永遠に其の門に入ることは得られない。噂に耳を貸さないで、あれこれ言うことも聞かないで。

私は常に言っている──もし私の皈依弟子であるならば、臨終の時には必ず助け、三悪道に堕ちることは決してさせないと。ところが最近、その言葉尻を捉えて七十歳、八十歳になってから皈依を求めに来る者がいる。以前は来なかったのに、私がこのことを強調するようになったからである。もし正直に跪いて「皈依を求めます」と言えば受け入れることもある。しかし綺麗ごとを並べ、「修行したい」と言う。七十九歳になって何を修行するというのか。私を騙しているだけではないか。私は今から修しているのではなく、三十歳の時から今日までずっと修しているのだ。昨日も一人来た。私は言った。「あなたはすでに多くの法師に皈依しているだろう。その名を挙げてみなさい」と。彼は黙った。私はすぐに指摘した。「皈依師を蒐集するのはやめなさい」と。以前の法師は「三悪道に堕ちない」と約束しなかったから来なかった、しかし私が約束したから来たというのか。もし正直に「私は三悪道を離れる力がありません。どうかリンポチェ、私を皈依弟子として受け入れてください」と言えば、受けるかもしれない。しかし、私の言葉をそのまま利用して皈依を求めるならば、それは欺きであるから私は受けない。他の人々は言うであろう。「彼は年老いているのに、なぜあなたは同情しないのか、哀れまないのか」と。しかしその初発心が間違っている。思想が間違っている。真に仏法を聞き、学び、生死を解脱し、浄土に往生したいのではなく、ただ死を恐れ、死の時に助けがないことを恐れているだけである。それならそれでよい、大供養をすればよい。しかしそれすら惜しむ。私にどうしろと言うのか。

寶吉祥は若い人だけを受け入れるのか」と言う者がいる。そうではない。私の左側を見よ──白髪の老翁たちが大勢座っている。私は彼らを追い出したか? いや、修めていないとはっきり分かっているのに、追い出していない。右側にも白髪で歩行も困難な女性弟子たちがいる。私は彼女らを追い出したか? いや、していない。彼女らは長年皈依しており、少なくとも供養をしたことがある。私は彼女らを憐れみ、「よい、残りなさい」としているのである。しかし、私の言葉を捕まえて皈依を求めに来る者には、先週もはっきり言った。「あなたがどんな言葉を口にしても、私はあなたの心の中を知っている」と。そうであろうか?(大衆:「そうです」)しかし誰も信じようとしない。

先週の日曜日にも一件のことがあった。私は悲しいとは言わない。ただ惜しいと思った。ある小さな子供が幼い頃から私に皈依していた。彼女は牛乳を飲めず、いつも下痢をしていたので、私は母親に「豆乳を飲ませなさい」と言った。先週、その子の歯が前に伸びているのを見て、矯正が必要だと分かったので、私は母親に「連れて来なさい、私が手配する」と言った。すると母親はすぐに「子供は痛みを怖がります。同級生に歯科医がいて、家の近くにもあって、矯正も痛くないところがある」と言った。諸君は聞いたことがあるか? 矯正して全く痛くないという話を。聞いたことがあるか?(大衆:「ない」)私を騙すならもっとましな方法でやれ。彼女がそう言った瞬間、私は「来たくないのだ」と分かった。土曜日に遠くから連れて来るのが面倒で、会食の機会も一回減らすのだ。だから私は「よい、来なくてもよい」と言った。するとこの週はもう来なかった。しかも私は毎月、その小さな女の子に教育費を援助している。上師としてこのようなことを見ると、もし空性を修していなければ、「もう衆生を度するのはやめたい」と思うだろう。度して何になるのか。母親はただ怠け、面倒を嫌い、台北に来たくない。そのために言い訳を並べて私を騙しているのである。

先週の日曜日、私ははっきりと言った──「私を騙してはならない」と。あなたが私の前に跪き、一言発すれば、私はすぐに何を考えているか分かるのだ。だが誰も信じようとしない。私がその人の虚偽を暴いた時、彼女は「分かりました、少し落ち着いて考えます」と言った。落ち着くのは私の方だ!(大衆笑) 本当に私は沈澱し、濾過しなければならない──「なぜこのような弟子を受け入れたのか」と。もし衆生を利益する上師が、空性を修していなければ、このような事に直面すると必ず放棄してしまうであろう。放棄するのはその人ではなく、仏法弘揚そのものをやめてしまう。なぜなら人間性は実に醜悪だからである。だが空性を修すれば、「すべては縁起である」と理解できるので、ただ「まあよい」となる。「まあよい」とは、これは彼女自身の因縁なのだと観ずることである。決して方便として「因縁だ」と言って誤魔化すのではない。なぜ早く言わなかったのか、なぜ後になって言わなかったのか──それは彼女がすでにますます深みに入り、自ら抜け出せなくなっていたからだ。そこにたまたまこの因縁が到来し、時が満ちただけなのである。

もし福慧、資糧道を修する時に心を込めなければ、その後の修行はすべて成就できない。多くの人は「福を修めたり、慧を修めたり、少し供養すれば福が得られる」と思う。──違う!お経を少し唱えれば智慧が開けると思う。──違う! 必ず心を込め、多くの時間を費やして修しなければならない。これを成して初めて加行道に入るのである。多くの人が不共四加行を求めるが、それを加行道だと思っている。──違う! 不共四加行はいまだ資糧道に属し、福慧を積んで初めて加行道を修することができる。加行道とは何か──それは灌頂を受け、観想を口伝えすることである。

昨日も一人、以前に金剛薩埵の伝授を受けた者がいた。私は彼に「どのように観想するのか」と問うと、聞いたこともない話を延々と語った。私は言った──「あなたは密法を学ぶ器ではない」と。なぜなら密法を学ぶ者の心は非常に繊細であり、上師が一度説けばすぐに覚えるからだ。特に密法の分野ではそうである。経典の文は必ずしも覚えなくとも、真言や観想については明確に記憶する。なぜ彼がそうできないのか──福慧の資糧が足りないからだ。不共四加行を学べば業障が消えると思っているが、消えない!福慧が足りなければ自然に消除できない。これこそ我々が努力すべきことであり、その後に初めて先ほど述べた「於時非時分中」、すなわち『中観論』の理論を少しでも体得できるのである。そうでなければ、聞いたとしても結局は「ただ聞いただけ」、耳を過ぎて何も残らないのだ。

では学仏の要点はどこにあるのか?──それは自分自身が、仏が説かれた方法に基づいて心を調整しているかどうかである。とりわけ『仏子行三十七頌』は極めて重要である。もし『仏子行三十七頌』に依らず生活するなら、いずれ必ず道を誤る。たとえ私のもとを離れ、他の道場に行っても同じだ。『仏子行三十七頌』をもって自らを省みなければ、人は徐々に怠惰となり、「学仏とはこの程度で十分だ」と思ってしまう。しかし三十七頌に説かれる行を実践できなければ、もはや仏弟子とは言えないのだ。

先週も言ったが、もしアキ灌頂を授けるなら、私は人を選ぶ。なぜか?あなたは直貢噶舉の弟子ではなく、ただ寶吉祥の弟子だからだ。なぜ直貢噶舉の弟子ではないのか?我が直貢噶舉の教派は常に戒律厳格であり、修行も厳格である。現在はリンポチェの中に少し緩い方もいるかもしれないが、私は変わっていない。法王も直接こう仰った──「この弟子の教法は古代の最も厳格な教法である」と。だから私は間違いなく転生者なのだ。そうでなければ、どうして古代の教法を知ることができようか。そうだろう? ただ私は前世が誰かを調べるのが面倒なだけだ。仮に見つけたとして、それが何になる?もしかすると前世に共にいた人々が一斉に押し寄せてくるかもしれない。私はそんな罠にかかりたくはない。

「獲彼所説」とは、初めて彼が語ったことを理解できる、という意味である。すなわち、善根が十分に具わってこそ天耳通が発動する。だが天耳通が発動した後も、中観を理解しなければ、相手の言葉を明瞭に聞き取ることはできない。もし中観を欠き、ただ「何か音を聞きたい」と執着するだけでは、相手の真意を永遠に理解することはできないのである。

経典曰く「若衆會時。或説法時及非時説。而別解行。聴已能説。」

この一段は、修行を経ていなければ決して語ることはできない。いくら経典をめくって読んでも解説できない。「衆會時」とは、多くの人々が集まるとき、すなわち法会や諸々の行事を指す。「或説法時」とは、上師が法を説くときである。「及非時説」とは、誤った時間に説くことではない。すなわち、今私が法座に登っていない時──これが「非時説」と言えるか。しかし真に菩薩道を行ずる者は、法座に登るときだけでなく、日々常に法を説き続けている。経典には「広長舌相」と説かれる。これは仏が絶えず仏法を宣説されることを示す。衆生の因縁やその仏との結縁によって、ある者は聞き取ることができ、ある者は聞き取れない。仏が法を宣説されるとは、すなわちその願力・慈悲・衆生を教化する力が常に働き続けているということであり、決して一定の時間に限られるものではないのである。

言い換えれば、突然ある上師が現れて法を説くならば、それもまた仏が法を説いているのである。彼は仏の化身として法座に登り、説法するのである。「非時説」とは、誤った時間に説くことではなく、たとえ眠っているときであっても衆生の語る声を聞くことができる、という意味である。仏は入定しているときにも、衆生の声を聞き取ることができる。定に入るときは動かず、何も聞こえないのが正しいと思うかもしれないが、そのような定は誤りである。

私がかつて禅を修していた時、突然何の音も聞こえなくなり、動きも時間の流れも全く感じられず、ただ自分が呼吸していることだけを知覚し、それ以外は何も分からない、という体験をしたことがある。このような定に入るのは非常に危険であり、もし出てこられなければ、心は身体の中に閉じ込められ、呼吸は続くが死ぬこともできず、生ける屍のようになってしまう。私は二度この経験をした。一度はアキ護法が私を呼び覚まし、もう一度は観世音菩薩が呼び覚ましてくださった。それ以来、自分が禅を修する際に、何が禅定であり、何が掉挙であり、何が昏沈であるかをはっきり区別できるようになった。また仏法の禅定と外道の禅定の違いも分かるようになった。もしこの過程を経なければ、私はその区別を知ることはできなかっただろう。

もし上師の導きなしに禅定に入るならば、それは非常に危険である。私が当時まだ顕教を修していた頃、そのときもし入定して心が完全に静まってしまい、音も聞こえず、全く動けなくなっていたならば、極めて危険であった。もしアキ護法が私を呼び覚まさず、観音菩薩が私を喚び起こしてくださらなかったなら、今日の私はここに存在していなかったであろう。ゆえに「非時説」とは、自分で時間を決めることではなく、衆生の必要に応じて法を説くことである。虚空の中には時間は存在せず、衆生の心が動くことによって時間が生じるのである。たとえば宇宙の中では、それぞれの星が異なる速度で回転しているが、それは因縁と力によってそう動いている。そのため、地球における時間は正しいとしても、他の場所においては必ずしもそうではない。これを明確に説明することは難しい。たとえば地球の時間と天界の時間も異なっており、「南柯の夢」という成語のように、一晩眠ったように感じても、目覚めるとすでに物が朽ちてしまっている。それは彼が赴いた場所の時間が、地球の時間と異なっていたからである。「非時」とは時間が存在しないという意味ではなく、聞こうとする人が自分で時間を決めることでも、受動でもなく、ただ因縁が熟せば自然に聞こえ、因縁が熟さなければ聞こえない、という意味である。

「而別解行。聴已能説。」すなわち、彼が声を聞く方法は、耳によって聞くのではなく、心によって聞くのである。聞いた後には、それを解釈し、行動に移し、さらに説き示すことができる。先ほど述べたように、私が入定していた時にアキ護法の声を聞き、呼び覚まされたのも、この意味である。通常はアキの声を聞くことはなく、アキも日常的に何かを語るわけではない。しかし、ある境地、ある禅定の状態において、分別心がないときには、その声を聞くことがある。たとえば我々が金剛乗を修する時、本尊が口を開き、自らに語りかけてくることがある。これは他人には聞こえない。これは幻覚でもなく、邪霊に取り憑かれたのでもなく、狂気でもない。修行が一定の心の境地に至った時、意識が一時的に停止し、その時に本尊の声を聞くのである。しかし我々の意識は止まらない。なぜなら呼吸し、物を見、耳で音を聞き、触覚を感じるなど、常に活動しているからである。しかし金剛乗の修法を通じて呼吸を調御することによって、ある段階に至れば意識が停止する。その時に本尊の声を聞くことができる。これは邪見や妄説ではない。仏経に説かれている通り、実際に成就しうることである。

経典曰く「又説法時。或衆會時。或一苾芻。為彼説法如實記別。」

仏法を説くとき、あるいは大衆が集まる時に、たとえ一人の比丘が「為彼說法」としても、それは衆生のために法を説くことであり、「如実記別」すなわち確実に覚え、正しく分別するのである。この言葉は、いかなる上師・比丘が法を説く場合であっても、諸仏菩薩は必ず聞いておられる、決していい加減なことを言ってはならない、という意味である。ゆえに、加行道・見道に至らないならば、軽々しく口を開いて法を説いてはならない。

なぜリンポチェが常に弟子たちに「私はこうしているから、あなたもこうすればよい」と言わないようにと諭されるのか。それは誤りだからである。あなたはあなたであり、彼は彼である。あなたの業と彼の業、あなたの縁と彼の縁は同じではない。空性を証悟し、経典に説かれるように衆生の心を知り、その善悪を理解し、その根器に応じて適切な法を説くことができない限り、必ず誤りを犯す。法を誤って説く因果は極めて重い。一人の法師が因果について説く際に、一字でも誤れば五百世のあいだ狐身を受けねばならない。仏法は決して軽んじて説いてはならず、随意に語ってはならない。もし果位を証していなければ、軽率に語れば必ず誤る。それは空性智慧に立脚していないからである。

経典曰く「於他損害而不為說。」

この一句は非常に重要である。自分では正しいと思っていても、相手にとっては害になることがある。その場合は語ってはならない。多くの人が、ついお節介に「自分はこうだ、ああだ」と言いたがるが、それは慎むべきである。もし他人が仏法を学びたいと思うなら、まず仏寺へ参拝に連れて行き、因縁が熟した時に「リンポチェに会いたい」と自ら口にするであろう。その時に来ればよい。だが結論はどうなるか?叱られるのである(大衆笑)。私は絶対に「善男子」「善女人」とは言わない。十善法を修していないのに、どうして善男子善女人と言えるだろうか。必ず叱責されるであろう。「於他損害而不為說」、すなわち、自分自身に害を与えていることにさえ気づかない場合がある。たとえば、仏像の造形を批判したり、上師のある修法を批判することなどである。金剛乗の戒律の中には、批判してはならないという教えが明確にあり、それを犯すと五無間地獄に堕ちると説かれている。要するに、理解できなければ「分からない」と言えばよい。他人を批判する必要はない。それぞれにそれぞれの因縁がある。たとえこの世で邪師であったとしても、それも彼自身の福報と因縁である。ただ「分からない」「理解できない」と言っておけばよいのである。

一つ、現実の生活の話をしてあげよう。以前、私は国境で翡翠の原石を見に行ったことがある。そのとき、決して「これは高すぎる」とか「偽物だ」などとは言わなかった。そんなことを言えば、その場から生きて出られなくなるからである。ただ「分かりません、私は素人です。申し訳ありません、すみません」と言うだけでよい。相手もあなたが礼儀正しいと分かれば、無理に難題を押し付けてこない。同じように、他人の修行を批判すれば、相手は必ず反発する。なぜなら相手は「自分は正しい」と思っているからだ。だから誰かが何か言ってきたら、「ああ、そうですか」と相槌を打てば十分であり、わざわざ私の名を持ち出して対抗する必要はない。

多くの人は自己膨張し、自らを高く見せようとする心を持っている。もし誰かが私を批判したなら、あなたはただ「申し訳ありません、私の上師を批判なさるのなら、私はここで失礼します」と言えばよい。それで終わりではないか。もし相手が「もう会わない方がいい」と言えば、「それではさようなら」と言って、この機会に別れればよい。私の多くの女弟子の恋人たちは、必ず上師を批判する。「ああ、そんな迷信を信じて、何もできなくなるではないか」と。これは批判か?批判である!ならば、その機会に別れればよいのではないか(大衆笑)。それなのに別れないのは愚かである。情に惑わされ、心が暗くなっているからだ。私は「情」という字の成り立ちを常に分析する。心の横に「青」という字があるが、青は黒の意味を持つ。つまり心が黒くなっているということだ。そのような状態でどうして「情」を語れるのか。この一生で夫縁があれば、自然に現れる。なければ、ただ付き合いを試すこともできる。しかし最後には問題はすべて自分にある。

私は結婚に反対しているわけではないし、恋愛を否定しているのでもない。しかし、すでに仏門に帰依したのであれば、仏法の観念に基づいて生活すべきである。もし宿命的に結婚すべきならば結婚すればよい。宿命的に夫縁がなければ、それでよいではないか。自ら問題を作り出す必要はない。すでに多くの問題を抱えて仏法を学ぼうとしているのに、さらに煩悩を増やすのか。アキ護法に祈って、男性が自分の言うことを聞くように、結婚が順調に進むように願い、その後彼を連れてリンポチェに帰依させ、仏道修行を妨げないようにしようと思うのか。私は断言する、アキは決してあなたを助けない。なぜか分かるか?アキが生まれたとき、両親は彼女に縁談を用意したが、彼女自身が「自分で探す」と言い、その結果、ジッテン・サムゴンを生む家庭に嫁いだのだ。あなたにそのような力があるのか?ないではないか。ならば、なぜ両親やリンポチェに相談してから行動しないのか。あなたたちは勝手に行動してから、後で泣きついてくる。私に何の関係がある?楽しいときには私の出番はなく、苦しくなってから私や両親に泣きつく。それが正しいことだろうか?楽しみが終わった後に苦しみだけ押し付けるとは、母親にとってはまさに非常に運が付いていないのではないか。

仏道を学ぶというのは、頭の良さを競うことではなく、智慧をもって物事を見るということである。すべての因縁は生じては滅びていくものだから、もしどうしても結婚しなければならない縁なら結婚すればいい。ただ、その後は自分が相手に返すのか、相手が自分に返すのか、それは分からない。ただ静かにこの一生を過ごせばよい。私自身も、結婚生活を何度も計画しましたが、ことごとく失敗した。最後に「仏道を歩もう」と決めてからは、一度も失敗せず、ずっと前に進むことができた。しかし皆さんは私のように真似をする必要はない。私は大きな代償を払った。そのような代償を背負える人はほとんどいないし、実際にはできないであろう。故に、自分の行いには慎重でなければならない。よく考えずに進めば、後で後悔しても間に合わない。

私たちが仏法を学び修行するにあたり、「経典に書いてあることは自分にはできない」と思うなら、では何のために学び、修行するのか?経典に説かれることは必ず誰かが成就したことであり、成就できないなら仏陀は説かれない。ただ弟子たちが実行しようとしないだけである。もし「この一生では不可能だ」と思うなら、経典にもはっきりと説かれている。例えば地蔵菩薩は多くの生を修めて大菩薩となられたのであり、一生終えてすぐ大菩薩になったのではない。地蔵菩薩は絶えず修し続けられたのだ。ところが皆さんはこの一生で絶えず「しない」ことを続けている。それではどうなるのか。

もう一度皆さんに念を押す。私は確かに約束した、私に帰依した弟子でこの一生を通して離れない者は、必ず三悪道に堕ちさせないと。しかし決して「来世も必ずよくなる」とは約束していない。なぜならこの世で修行していないからだ。私が約束したのは「この一生、私に帰依したゆえに三悪道には堕とさない」ということだけである。しかしこの一生でしっかり修めず、福と智慧を積まずに過ごしたなら、来世もまた福もなく、智慧もない。死んでから修行しよう、供養しようと思っても、それはもう手遅れである。

リンポチェのような性格に出会ったなら、私はいつでも供養を受け取らない。供養の心が正しくなければ、本当に受け取らない。だから皆さんはよく自らを省みるべきだ。一体なぜ仏法を学ぶのか。もし世間的な「加護」を求めるためなら、むしろ来ない方がよい。今、多くの道場は「加護します、修法します」と言い、いくらかのお金を出せば柱を一本立て、その柱があなたを守ってくれると言う。我が道場にも八本の柱があるが、いずれの柱も皆からの寄附によって立てたものであるし、もし本当にそう加護してくれるなら、皆さんはひたすらその柱を抱きしめればよいではないか。これは人を欺く話だ。一本の柱があなたを守るなど、私は信じない。もしそのような法があるなら、法王がとっくに私に教えてくださったはずだ。それは民間信仰かどうか、私には分からない。もし数万元を出して柱を仏菩薩の前に立てればこの一生安泰になるのなら、皆修行する必要はない。他宗教と同じであり、仏法を学ぶ必要はなくなる。

学仏とは自らを改める精進である。自分を改めないためのいかなる言い訳も設けてはならない。「難しい」「今はできない」と思ってはならない。他の法師には通用する理屈も、私には通用しない。なぜなら私は、食費も家賃も払えぬほどの貧しさの中でもやり通してきたからである。なぜ私にできて、あなた方にできないのか。私はすでに手本を示している。私のように本当に食べられないほど貧しくなることを真似る必要はない。今のあなた方は、誰一人として食事に困るほどの貧しさに至ることはない。何故なら、あなた方には、そのような悪業には至っていない。私は至った。では、いかに転じたのか。仏の説かれたことを、私は絶えず行じ、やめず、いかなる口実にも妥協しなかった。だがあなた方は自らに多くの言い訳を与えている。今、不如意が生ずるのは、あなた方がまことを尽くして改めず、修さないことから、時が熟して業報が目の前に現れているからであって、仏菩薩や上師のせいではない。上師は一視同仁に仏法を教えている。私のところでも、供養の多寡で前席を与えることはない。前列の者は供養していない者も多く、財も多くはないが、毎回堂々と前に座っている。なぜ(前列に座るのは)いつもあなた方なのか。何の理由か。問題点を洗い出すよう、後日お打ち合わせしよう。はっきりと理解しなければならない。仏が説かれたことは、必ず成し遂げることができる。

経典曰く「又不如實記別。擇彼相應義理。」

仏法を伝えるにあたり、必ず種類を分けて如実に行わねばならない。たとえば現在、密殿と顕教を分けているのは、私に分別心があるからではなく、皆さんの福報や因縁、心によるものである。「又不如實」とは、信衆に正面から真実に向き合うことを意味する。たとえば歯磨き粉を絞るように少しずつ供養する弟子、私はそれをすべて受け取ることもできるが、そうすれば彼女は供養が受け取られたことできっと喜ばれるだろうが、しかし実際に、私はその一包みの供養からわずか千元だけ受け取った。もし、一包みの供養を受け取ったら、きっと彼女は歯磨き粉の絞り方が正しかったと思え、また同じことを繰り返すだろう。だから私はその場で警告することで、次の世でも歯磨き粉のように小出しにする心を起こさないようにする。もし私がすべて受け取り、その後少し叱ってまた少し出させるなら、表面上は良いことのように見えるだろう。しかし私はその道を閉ざす。私は金銭のために教えるのではなく、金銭のために与えてから何かと取引するわけではない。私は常にその人の「心」を見ている。心が転じていなければ、その供養は受け取らない。それは私に取れないのではなく、受け取ればその人に貪念が生じ、「金でリンポチェを変えられる」と錯覚するからだ。私は変えられない。何度も皆に話したように、二千万元の現金供養を退けたこともある。ある人は、肉食を許すなら精華地のビル2フロアの三百坪を供養すると申し出た。ただ条件としては、肉食を許すことだったが、リンポチェは許すことはなかった。今なら一坪二百万元、総額十二億元にもなる。皆で合わせても及ばない金額だが、私は受け取らなかった。本気であれば、まず受け取ってから少しずつ菜食を勧めるという手もあっただろうし、菜食しないと不幸に見舞われるぞと言ったらすぐ肉食も断てるが、私はその道を断った。「リンポチェは慈悲がない、人に機会を与えないのでは」と思う人もいるかもしれない。だがそれは慈悲の欠如ではなく、その人の心構えが誤っているのだ。私を賄賂で買収しようとする心。私が買収されたが最後、その怨敵はどうするかということ。その報いはまず私に、次に彼自身に及ぶ。護法は私を守護するか?しない。なぜなら、金銭に目がくらんだ者には護法は護持しないからだ。だから私と金銭で遊ぼうとしても、絶対に勝てない。私は金銭を憎んでいるのではない。私は金銭を必要としている。しかしリンポチェが金を受け取るのは、正しい道に則り、決して随意ではないのだ。

この一句は非常に明確に示している。説法をする者は、いかなる事情であっても妥協してはならず、必ず仏法を堅持し、正統な仏法を説かなければならないのである。以前にも皆さんに話ししたことがあり、法王の60歳の誕生日のとき、私は500人の弟子を率いてインドのチャンジュリンへ赴き、法王の御生誕を祝賀した。演目を観覧していた際、法王とガチェン・リンポチェ(噶千仁波切)は前列に座られ、私はその後ろに座っていた。法王とガチェン・リンポチェ、二人のチベット人は中国語で会話をされていたが、ガチェン・リンポチェの中国語はほとんど通じず、ご本人しか理解できないほどで、私には全く分からなかった。その時、法王が私を指差し、「この弟子は人を叩く」と仰せになり、ガチェン・リンポチェは「それは慈悲ではない」と答えた。すると法王は「これこそ最大の慈悲である。彼は叩き、叱らねばならない」と返された。ガチェン・リンポチェも「そうだ、これは古来の教法である」と同意された。(参照:貴重映像「直貢チェツァン法王、厳格な教法に賛同」)つまり、お二人が私のために寸劇を演じ、私に「叩き続け、叱り続けよ」と示されたのである。今皆さんも聞いたでしょう!法王が60歳のときから現在の80歳まで、私は20年間叱り続けてきた。すごいでしょう!これは法王の正式な授権と承認(Authorized)を受けたものであり、私は正規に人を叩き、叱ることを許されたリンポチェである。

なぜ皆さんはそのようにしてしまうのでしょうか?――まさにこの二句に尽きる。例えば、歯磨き粉を絞るようなやり方で供養をする弟子、もし私がそれを受け取れば、皆が「ハッピー、ハッピー」、彼女も喜び、私も喜ぶかもしれない。しかし、私はそうすることはできない。なぜなら、彼女はまだ間違っているからである。もし本当に一文無しであれば、私はそのように教えることはない。しかし彼女にはお金があり、最初は来ない、二度目は少しだけ出す、三度目に用事があると少し多めに出す――このようにしていけば、私の責任はどんどん大きくなってしまう。いずれ彼女は仏を謗り、上師を謗ることになるでしょう。「あれほどたくさん捧げたのではないか?なぜ自分の望みが叶わないのか?」と考え、自分の願望が示されないことに不満を抱くのである。上師がその貪欲を助長させることなど許されるでしょうか?ゆえに、たとえ私が多くのお金を失うことになったとしても、決してそのようにはしないのである。

ある出家の弟子が、なぜ叱られても叱られても離れようとしないのか?それは、彼が私のそばにいて、毎週のように私が多額のお金を突き返すのを見ているからである。昨日はどれくらい退けたのか?(出家弟子の答え:昨日はおよそ150万元でした)。その金額で新たに一つの寺院を建てることはできなくても、少なくともいくつかの道場を開くことはでき、ビルの何フロアかを買うこともできる。目の前に銀白の現金が山と積まれていても、私は決して受け取らない。

逆に、私に供養することを惜しむ者たちも、私は叱る。昨日も何人かが法を請いに来たが、18回頼まれても私は授けなかった。昨日また来ても、やはり薄っぺらな供養であった。私は彼に計算して言った。「18回、もし毎回500元を供養していれば、合計で9500元になるはずだ。昨日も9500元には届いていない。そのお金は一体どこへ行ったのか?」――つまり、本気で供養して法を求める気がないのである。私は言った。あなた方の口座に、数百元、数千元、数万元すらないなど、私は信じない。あなた方はそれを“命のためのお金”だと思い、リンポチェに渡すことは施しだと考えている。リンポチェは必ず法を伝えるだろう、そうすれば修行がより良くなるだろうと。だが、もう一度はっきりと言っておく。不共四加行とは、あなた方の福と智慧を積むためのものであり、あなた方自身をその場で変えるものではないのだ。多くの人が、不共四加行を学び、大礼拝をやり終え、これをやり終えたら“偉くなった”“成功した”と思い込む。しかし、それは加行道には含まれない。なぜなら、それはただの驕りであり、法を得たと錯覚しているに過ぎないからだ。

寶吉祥道場の弘法のやり方は、他の道場とは異なる。法王が私に授けてくださった長寿祈請文にも、そのことがはっきりと書かれている。いわゆる「舞蹈威力瑞」とは、私が舞を踊り、皆さんと戯れ、時に笑い、時に叱りながら仏法を伝えるという意味である。最近テレビを見ていると、同じ広告が何度も流れていて、「テレビCMを出して法会を行う」というのを目にした。これはあまり正しいことではないと思う。そのお金を使うくらいなら、むしろ衆生を助けるために用いた方がよいのではないか、と私は思う。

経典曰く「擇彼相應義理。善巧方便摂受於他。」

「相応」とは、相手と自分が互いに相応するということではなく、自分が用いる仏法によって、相手の心を正しい方向に戻し、改めさせ、聞き入れさせることができるかどうか、という意味である。その「義」とは仏法の内面的な道理であり、それをどのように智慧をもって伝え、相手が受け入れられるようにするかが肝要である。もし受け入れられないのであれば、いくら説いても無意味である。

善巧方便摂受於他」とは、様々な善巧な手段を用いて相手を導くことを指す。叱ることもあれば、打つこともあり、宥めることもあり、あらゆる方法を尽くして、ただ相手が仏法を学び、改めることができるようにするのである。例えば、釈迦牟尼仏が弟を帰郷させまいとした際、多くの方法を用いられた。天界に連れて行き、この世を終えた後どのように楽しみ、その享受の後にはどのような地獄に堕ち、いかなる苦を受けるかを見せる、これも善巧方便である。また、弟が暗闇に紛れて帰ろうとしたとき、釈迦牟尼仏がその道を遮ったことも、まさに善巧方便である。仏法とはこのようなものであって、皆さんが想像するように、いつもにこにこ笑いながら「菩薩よ、発心がありますね、ますます修行が良くなりますよ」と言って済ませるようなものでは決してないである。これは本来あってはならないことである。

経典曰く「以自心清淨潔白而為彼說。」

この一句は非常に大切である。説法をする者の心は、清浄で汚れがあってはならない。例えば、歯磨き粉を絞り出すような供養の仕方なら私は受け取らない。以前二千万の供養を差し出されたこともあるが、それも受け取らなかった。なぜなら私の心は清浄で、何ものにも汚されないからである。どんなことがあっても妥協はせず、たとえ三百坪を二フロア与えられても、私は妥協しない。肉を食べるなら来なくてよい、会うことすらしない。

もし上師自身が「自心清淨潔白」に修めていなければ、その説法は衆生を傷つけることになる。その傷害とは、今すぐではなく、未来の修行に多くの障礙を生じさせることである。つまり、上師が何かをするとき、自分の将来を思ってではなく、衆生の未来を思って行うのであって、自分の立場を考えるのではない。もし私が仏法に則った弘法をしていなかったなら、今ごろは本当に楽をして、十七階建てのビル一棟を買い取り、すべて自分のものにできたでしょう。

リンポチェはこの経文の一節を見る以前から、何十年もずっとこのようにしてきて、一度も変えたことはない。供養をしない人であっても、私は助けてきた。今日、寶吉祥仏寺が建立され、参拝する人々が皆歓喜の心を起こすのはどこから来るのでしょうか。それは上師の修行力、清浄な仏法を根本とし、戒律を基礎としているからである。その結果、参拝する人々は歓喜を得るのである。皆さんも多くの友人を連れて行ったが、誰一人として否定的なことを言った人はいなかったでしょう?(大衆の答え:はい、その通りです)。

私の寺院は決して豪華絢爛ではない。大殿が少し荘厳に見えるだけで、その他の場所はすべてごく質素な造りである。私が住んでいる家も簡素な内装で、家具も一番安いものを買っている。では、なぜ人々が来ると歓喜の心を起こすのでしょうか?それは、仏法が清浄無垢であり、その人の汚れた心が一瞬にして清らかになるからである。その清らかな心によって歓喜が生じ、自然とまた訪れたくなるのである。ところが、あなた方はいつも親戚や友人を寺に連れて来ようとしない。「遠い」「面倒だ」「自分も忙しいし、相手も忙しい」などと言って、親戚や友人を来させないが、それはすべてあなた方自身の問題である。

現在、台湾で仏法を弘めるのは容易なことではない。チベットでは、普段は大法会を行わず、特別な年、例えば巳年・亥年・戌年などの記念の年にのみ行われる。大法会は3日間、7日間、12日間、さらには1か月間続けて修されることもある。しかし台湾ではそれはできない。もし私が「3日間仕事を休んで法会に来なさい」と言ったら、少なくとも半分の人は来られないでしょう。なぜなら皆、お金を稼がなければならないからである。

経典曰く「若於色相等聲決定聴聞而生歓喜。」

衆生が仏法を聞くとき、説法者の「色」、すなわち外見によって歓喜の心を起こすことがある。最近、ある人が「20年前にリンポチェに出会った時、とてもハンサムだという理由で、彼の法会に喜んで参加した」と言っていた。これがまさに「色」、外相によって人を引き寄せる力である。そのために、『普門品』にもはっきりと説かれている──もし子を望むならば、女子は端正な容貌を、男子はどうでしょうか?(出家の弟子が答える:「男子はハンサムです」)──「ハンサム」という言葉は古代にはない。(弟子がさらに答える:「ご報告いたします、リンポチェ、『大丈夫相』とあります」)そう、「大丈夫相」とは今で言う「ハンサム」という意味である。また経典には「若於色相等聲決定聴聞而生歡喜」と説かれている。説法する者の声は、決してしゃがれたり、鋭すぎたりするものではなく、聞いて心地よいものでなければならない。その声はどこから来るのでしょうか? それは前世において経を誦し、真言を唱え、諸仏菩薩や上師を讃嘆した功徳によるものである。そうした功徳を積んだ者は、次の世で声が美しくなる。逆に前世において人を罵ったり、呪ったり、仏菩薩や上師を誹謗した者は、今生において必ず声が良くないのである。

弘法に出る者の外相を見れば、その人が過去世にどのような修行をしてきたかがほぼ分かる。潘安のように容貌が美しいということではなく、見ていて心が安らぐような姿であれば、人々は落ち着いて説法を聞くことができる。もしそうでなければ、すぐにでも立ち去りたいと思ってしまうでしょう。また、その声がカラスや豺狼のようであれば、人々はやはり聞きたくはないのである。

今日釈尊が説かれた仏法には、すでに多くの因果の道理が含まれている。上師や法師になりたいと願う人々は、まず鏡を見て、自分の姿を他人に尋ねてみるべきである。もし相応しくないのであれば、無理にやろうとすべきではない。これは経典に説かれている通りで、「若於色相等聲決定」とある。経典にはさらに、仏が世に現れられたとき、多くの人々はそのお姿を見ただけで自然と恭敬の心を起こし、ひざまずいて礼拝したと記されている。なぜなら仏は三十二相、八十随好というすべての殊勝な相を具えておられるからである。

釈迦牟尼仏には一人の出家弟子がいた。ある女性がその弟子を見て、強く恋い慕い、どうしても結婚したいと願ったことがあった。それは彼の修行によって相貌が清らかに変化していたからである。もし皆さんの顔がまだ黒ずんで皺だらけであれば、それは修行ができていない証拠である。私は七十八歳まで生きてきましたが、顔に少し小さな皺はあっても、大きな皺はなく、しかめっ面をした姿を見せたこともない。これはどこから来るのか?一つは修行の力から、もう一つは福報の力からである。人々は見て心地よいものを好むので、私たちは人の前に醜いものを差し出すことはできない。すると皆さんは反論するでしょう。「忿怒尊は恐ろしい姿をしているではないか」と。しかしそれは虚空に存在する多くの魔や悪道の衆生を対治し、人間の学仏を妨げさせないためのものであり、彼らよりも恐ろしい姿を示している。その忿怒相は、決して皆さんに向けられたものではない。私はかつて日本でこの経験をしたことがあり、忿怒相を現したところ、日本で最も有名なある神社の神が逃げ去ってしまった。私が顔を振り向けただけで、その神は姿を消した。

今日、仏経に説かれていることは、私たちの日常生活と照らし合わせることができる。――「聴聞而生歓喜」と。多くの皆さんの親族や友人が私の大法会に参加して、「リンポチェはとても立派で格好いい」と言って、喜びを感じている。今、寺院の法会に来る人々も同じように「リンポチェは格好いい、また来たい」と言う。私は化粧もせず、眉も描かず、口紅も塗らず、ただ自然のままの姿を皆さんに見せている。これは私自身の容貌ではなく、修行の現れなのである。もしきちんと修行をすれば、ある日あなたの旦那が「君は綺麗になった」と言うでしょうと、皆さんも理解しなさい。逆に、旦那が「君はますます年を取り、醜くなった」と思っているのなら、それは修行ができていない証拠である。私は七十八歳になった。では、そこの七十代、六十代を過ぎたおじいさんたち、私と一緒に並んで写真を撮ってみましょう。(会衆笑)修行しているかどうか、一目で分かるはずだ。

今日、仏経は私に修行があることを証明してくれている。彼らには修行がなく、私の隣に立てば一目で分かる。仏経にはこう説かれている――乞食が富者のそばに立てば、どちらが乞食か一目で分かる。富者が高官のそばに立てば、どちらが高官か一目で分かる。高官が王侯のそばに立てば、どちらが貴族か分かる。貴族が皇帝のそばに立てば、相が異なるので、どちらが貴族でどちらが皇帝かすぐに分かる。つまり、弘法修行に出る者の相は、必ず人々に歓喜心を起こさせるものであるということである。もちろん例外もあって、醜い者を好む人もいるし、そのような上師を「正しい修行をしている」と思う人もいる。しかし本来はそうではなく、私たちは仏経に基づいて判断しなければならない。

経典曰く「彼如色相等聲為令聽聞決定歡喜。」

なぜ歓喜が起こるのでしょうか?それは、その人の外貌や声によって、聞いた人が自然に歓喜を決定づけられるからである。なぜ私が話すと皆さんは笑うのでしょうか? 出家弟子も話すが、なぜ皆さんは笑わないのでしょうか?その違いは「修行があるか、ないか」にある。仏経は、修行者をどう判断するかを教えており、それはまた、私に修行があるかどうかを判定する基準であり、同時に自分自身に修行があるかどうかを判定する基準でもある。もし十分に修行していないのであれば、自ら改めなければならない。改めないままにしてはならず、「自分はこういう人間だから仕方がない」と思ってもいけない。何かあればリンポチェに頼めば聞いてくださる、と考えてもいけない。私はすでに七十八歳になり、いつ耳が遠くなって聞こえなくなるか分からない。必ずしも聞き取れると思わないで。衆生の声は聞こえるが、皆さんが私の前に跪いて意味のないことを言っても、私は聞こえないふりをする。

経典曰く「又若處衆説法。以天耳識加持彼聲。令諸有情而能解了。」

衆生の前で説法するとき、彼には「天耳」の意識がその声に加持される。これはどういう意味でしょうか?たとえば私が真言を誦するとき、皆さんが聞いているその声は、まるで私の口から出ていないように感じられる。(大衆:そうです)。なぜなら、上師が真言を誦する時は本尊と相応しており、本尊の声がその身に現れて響くからである。上師自身がその声をはっきり聞くことができるため、上師自身の声と本尊の声が一緒に重なって唱えられる。皆さんがどんなに真似しても同じにはならない。たとえ私のように速く誦しても、皆さんの声ははっきりしていない。

この言葉の意味は、彼が定の中で説法するとき、それは清浄な本性から出ている説法であり、書物をめくって、どの経典が根拠になるのか探すような説法ではない、ということである。私は経典を宣説して何年経ったかもう覚えていないが、私の場合は経典を紐解いたら、その場で語る。なぜでしょうか?第一に、自分自身が本当に修行できているかを試すためである。第二に、諸仏菩薩が私に加被を与え、智慧を開かせ、辯才を授けてくださり、皆さんに分かりやすい言葉で仏法を説けるかどうかを確認するためである。もしそれがなければ、私は法座に坐る資格がないということである。分かったのか?だから私は筆記をしない。今日話したこの一節も、今経典を開いたばかりで語ったものですが、その中には菩薩乗の修行についての多くの内容が含まれている。もし修していなければ、もし学んでいなければ、決して語れるものではない。

仏経には、仏には三十二相と八十随好が備わっていると説かれている。修行者はその境地には至っていいないが、密法を修する時に観想を通じて少しずつ本尊の相と一体となっていくことで、外見が変わって来る。この「変わる」というのは、美しくなるとか、ハンサムになるという意味ではなく、本尊の相は福報に満ちているため、その相に触れると見る者は自然に歓喜心を起こす、ということである。本尊の声と上師の声は、衆生を善へと導く声です。だから皆さんはそれを聞いて心地よく感じる。たとえ私が皆さんを叱ったとしても、それも善の声であり、皆さんのためになる声である。そのため、聞けば心が安らぎます。実際、私に叱られた人の中には、家に帰ってその夜ぐっすり眠れ、朝まで目が覚めなかったという人もいるよね?(大衆:います)。

今日この一節を皆さんに伝えたのは、修行とは「その人が美男子に見えるから」ではなく、「見ていて心が歓喜に満たされるかどうか」であることを理解してもらうためである。その歓喜は、相手を惹きつけ、話を聞けるようにする力である。多くの人が「リンポチェの法会に参加すると、心が静まり落ち着ける」と言うが、これこそが「摂受」である。もし摂受できなければ、二時間の法会でいくら多くの言葉を語っても、皆さんは落ち着けない。つまり、私の摂受力──色相と声による摂受──があるからこそ、皆さんは静まる。複雑なのか?(出家弟子:いいえ)なぜ複雑ではないのでしょうか?(出家弟子:それはリンポチェの功徳力と、諸仏菩薩の加持力によって大衆が摂受され、二時間安定して聴法できるからです)。

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2025 年 08 月 13 日 更新