尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年8月3日
尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェ猊下が法座にお登りになり、『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十一「禅定波羅蜜多品第十之一」についてご開示されます。
リンポチェ猊下が法座にお登りになった後、出家者たちに、会衆を導いて、皈依発心・七支供養・『随念三宝経』・『仏子行三十七頌』・『八聖吉祥祈願文』を唱和するよう指示をされました。その後、リンポチェ猊下は六字大明咒を持誦され、リンポチェ猊下の尊いお身体と壇城から金色の光が放たれました。慈悲深い法音は遠くまで響き渡り、まるで天の太鼓が自然に鳴り響くかのように、虚空を震わせ、十方世界を満たしました。衆らもまた全身が熱くなるのを感じ、煩悩は鎮まり、心を集中させて、リンポチェ猊下のこの上なく尊い仏法の教えを受けることができました。
続いて、リンポチェ猊下は尊い仏法のご開示を賜りました。
経典曰く「所発語業善不善根彼因及果。悉皆了知。」
この二句は、行者にとっても、すでに証果された上師にとっても非常に重要です。もし上師が、弟子の語る言葉が善なのか不善なのかを理解されていなければ、弟子に善根を植える助けができません。中には、自分の言葉は丁寧で、聞こえが良く、礼儀正しいと思っている方もいますが、それが必ずしも行者の目には善とは映らない場合もあります。ですから私はよく、「そんな文語調で話す必要はない」と弟子たちを叱ります。「語業善不善根」というのは、清らかな本性から言葉を発することにあることです。つまり、人と話すとき、あるいは上師や仏菩薩に祈願を述べるとき、もしそこに貪念があれば、その言葉は不善なのです。
現代社会においては、すべてのことを明確に言葉で説明するのは不可能です。しかし、ここで経典に説かれている「語業善不善根」とは、修行の中に、自分が発した言葉が果たして善なのか不善なのかは、自分自身では決められないということを意味します。たとえ自分では「発願した」「誓願を立てた」「仏典に基づいて話している」と思っていたとしても、心が不善であれば、その言葉は単なるAIのようなものに過ぎず、多く語っただけでまったく役に立ちません。
「彼因及果」とは、菩薩や上師が、衆生が語る言葉の背後にある原因と将来の果報を見抜くことができるという意味です。ですから、ある人がしょっちゅう私の前に来て、たとえ恭しくしていても、あるいは騙そうとしていても、私はその人の問題がどこにあるのかを語ることができます。それは、彼の心が何を思い、どのような念を起こしているのかを知っているからです。「悉皆了知」。天耳通は、六道の有情衆生の声が聞こえるだけでなく、「語業善不善根」彼らの発する言葉の語業が善であるか不善であるか、どのような動機から語っているのか、そしてその言葉が将来どのような果報をもたらすのかまで、すべてを理解できるのです。ですから、時には上師があなたの発言を止めたり、話を続けさせないことがあるのは、まさにこのような理由からなのです。
多くの人は、上師の前で「自分は間違っていない」と、自分の考えや理由を弁解しようとします。しかし、もし上師があなたに「話させない」場合、「なぜ話す機会を与えてくれないのか?まだちゃんと説明できていないのに」と思うかもしれません。それは、上師があなたのその発言が不善であると見抜いているからであり、これ以上話させると、悪い果報を受けてしまうと分かっているからなのです。多くの人は、自分の話し方に不備があることに気づいていません。そして自然と、口腔に不調が現れるのです。
例えば、私は現在78歳ですが、歯はまだしっかりしており、歯周病にもなっていません。これは、仏法を学んだあと、ひたすら自分の語業を改めてきた結果なのです。もし、頻繁に口の手術を受けたり、抜歯や虫歯の治療が必要だったりするなら、それは自分の語業が良くないことのあらわれです。これは「果報」ではなく、「花報(けほう)」に過ぎません。多くの人は、「年を取れば歯が悪くなるのは自然だ」と言いますが、私は78歳になっても、歯医者にこう言われます。「皆さんの歯がリンポチェのようであれば、私の仕事はなくなりますよ。」と。もちろん、自分でも歯のケアは丁寧にしていますが、もっとも大切なのは語業における善因です。私は、悪い因を善に変えてきました。かつて私も、口汚い言葉を使ったり、乱暴なことを言ったりしていました。台湾に来たばかりの頃は、まず「三文字の国罵(台湾の俗語的な悪口)」を覚えました。しかし、仏法を学ぶようになってから、ある日気づいたのです──「もう、そういう言葉は使っていない」と。それは、心が善くなると、自然とそのような毒のある言葉は口から出なくなるのです。
結局のところ、自分の心が悪ければ、たとえ仏道を学んでいても、口に出す言葉はやはり悪いものになります。上師への批判や不満もすべて悪です。あなたは「そんなことはない、私は上師を批判していない」と言うかもしれません。しかし、皈依の時に、「上師の間違いを言ってはいけない」と言ったのではありませんか。言いましたよね?(会衆:「はい」)では、なぜ皆さんは何時でも上師を批判したがるのでしょうか。上師があなたたちの期待通りにできないと、すぐに批判しようと。私は自分が成就したかどうかは言えませんが、少なくとも小さな福報は得ています。しかし、あなたたちはそれすらありません。この点で、あなたたちは私には到底及びません。本当に実力があるなら、誰か仏寺を建ててみせなさい。お金があっても建てられません。能力がなければ建てられません。助けてくれる人がいなければ建てられません。78歳の私が、いまだに毎日忙しく、多くの衆生を度しているのを見てください。あなたたちにそんなことができますか?ここにいるお年寄りたちを見なさい。皆、一人ひとり年をとっており、大礼拝すら満足にできません。お年寄りの話は置いておいて、60代の人も礼拝できない者がいます。それは福報がないからです。少なくともリンポチェは福報を修めています。
ですから、なぜ私の前で話すとき、私はよくあなたたちの話を止めたり、聞かずに「もう話さないで」と言うのかというと、皆はここが法廷だと思っているからではありませんか?ここは法廷ではありません。ここは、善悪の因果を見分けるための道場です。上師はあなたの話が不善だと感じたら、話を続けさせません。不善の因を種植えし、後に不善の果を受けることを恐れているからです。現在、多くの弟子は、そんなに精進して修行する必要はないと考えています。なぜなら、私は約束しました。帰依弟子はもれなく、離れずにいれば、死後、三悪道に堕ちることは絶対にないと。はい、私は約束しましたし、その力も持っています。しかし、三悪道に堕ちないとは、どこに行くのかというと「人間の道」です。しかし、生前に修行しなければ、人間の道に生まれてもとても哀れです。ただ次の人生で修行できる機会が少し残るだけであり、決して富貴な家に生まれたり、善根が厚い家に生まれたり、お金持ちに生まれたりはしません。なぜなら、生前に修行しなかったからです。
最近、私が見たある弟子のことですが、二、三日前に九十歳を超えた弟子が亡くなりました。彼女は生前、出し惜しんで供養しませんでした。リンポチェは彼女のために済度を約束しましたが、私は彼女を阿弥陀仏のもとへ済度することはできませんでした。なぜなら、彼女に福報がなかったからです。二週間ほど前、彼女の弟さんが彼女の代わりに供養のお金を持ってきましたが、途中で供養を忘れて立ち去ってしまいました。生前に供養を習慣にしなければ、臨終の際にも供養もできないことです。彼女は一年以上、二年も床に伏していても、供養をせず、もう無理になりそうになった時に、弟に薄い金封を持ってこさせただけでした。お金がなくても構いません。私は何度も言いました。私はよく弟子たちの経済状況を気にかけています。お金がない人は私が助けます。葬儀などの後事も私が責任を持ちます。しかし、多くの人は「棺桶代がない」と心配しています。生前に供養も布施もしなければ、次の世でお金を得る福報はどこにあるのでしょうか?あなたはこの十数年、二十年近く私のところに来て、法会ごとに少しずつ、仏寺にも少しずつ、何もかも少しずつ捧げてきました。それで、何と交換しましたか?私があなたを三悪道に堕ちないよう助けているのです。
もう一人、以前私の会社で働いて十数年前に辞めた弟子の話ですが、最近、その母親が亡くなったためまた戻ってきました。その母親が亡くなる前に突然、「必ずリンポチェに会いに行きなさい」と言ったそうです。そこで、彼女は私が唱える真言を母親に聞かせ、甘露丸を一つ与えました。母親が火葬された後、頭頂部に二つの円形の穴が現れました。この弟子もまた問題があります。昨日は本来、済度を求めに来たのですが、途中で求めることを忘れて立ち去りました。これはどういう意味でしょうか?福報がないために私の済度を受けられなかったのです。私は彼女の母親が三悪道に堕ちないよう助けはしましたが、さらに上の位に引き上げる資格も条件もありません。その弟子は私の前でひざまずきましたが、話の途中で立ち上がって去ってしまい、その後のことは全て忘れてしまいました。彼女はリンポチェがすでにすべてをしてあげたと思っているのです。
私が仏道を学ぶ者として、一番望んでいるのは、衆生が絶えず向上し、未来生において十分な修行の機会を得られるよう助けることです。しかし、皆さんは生前にそれをしようとせず、惜しんで行わないのです。例えば、昨日、末期がんで亡くなろうとしている弟子が供養に来ましたが、私は受け取りませんでした。彼女はこれまでずっと惜しんで供養をしていないからです。彼女はお金を持っていましたが、惜しんで供養しなかったのです。普段は供養をしなかった上、四年前に病気になった時も、私は知らず、彼女の所属組の組長も知らず、誰も知らなかったのです。彼女はずっと医者に通い、医者からもう助からないと言われてから、ようやく私を訪ねてきました。そんな弟子が何のために必要でしょうか?彼女が何をしているのか、分かりません。昨日は彼女が家族全員を連れてきました。三人の子供たちは皆成人しています。彼女の夫は10万元の札束を持ってきましたが、彼女は自分自身のを紙袋で隠して私に見せませんでした。多くても30万元程度だと私は推測しています。彼らにとっては大金かもしれませんが、私にとって、この家族はそれ以上のものを持っています。私は彼らの財産や資産が欲しいのではありません。供養や布施の心がないからです。供養や布施の心がないゆえ、もし私がそれを受け取れば、大きな責任を負うことになってしまいます。リンポチェは何度も言っています。私は癌を患いましたが、医者に行かず、何もしませんでした。修行により癌は消えました。しかし彼女は聞き入れませんでした。また、癌の治療が非常に困難で、時に治療不可能な病気であり、仏法だけがそれを治せると何度も伝えましたが、これも聞き入れませんでした。彼女は4年間、医者に多くのお金を使いましたが、4年間真剣に修行をしなかったのです。今ここにいる中、癌を患っている弟子も何人かいますが、彼等は私の言うことをよく聞き、毎日お経を唱え、今まで生き延びているも少なくありません。なぜ皆さんは耳に耳栓をしているかのように、聞こうとしないのでしょうか?
私はただ約束しただけです。皈依弟子の誰でも、私から離れなければ、あなたが亡くなったとき、必ず三悪道に堕ちることはないと。しかし、生前に修行しなければなりません。私は何度も言いました。福徳の因縁を少なくしてはいけないと。言いましたか?(会衆:「はい!」)ほとんどの法会で、皆さんにこの言葉を繰り返し伝えています。それなのに、なぜ皆さんはお金をそんなに重視するのでしょうか?
皆さん自身が修行しなくても構いません。供養もまた修行の一つの法門ですが、それすら惜しんでいます。私はどうしたらよいのか分からないのです。だから私は受け取りません。なぜなら、私は多くの責任を負わなければならないからです。彼女からわずかな供養金を受け取ったら、多くのことを助けなければなりません。それは値しないことではありません。値します。しかし、リンポチェは年を取っています。私は皆さんに約束したことは必ず成し遂げます。約束していないことは、絶対にしません。どんなことか?皆さんが真剣に修行しなければ、私が助けることはありません。この四年間、医者にお金を使い、多くのサプリメントを摂りましたが、修行だけ真剣に向き合いませんでした。皆さんは決心をしません!
なぜ私が今、道場で仏典だけを説いているのかと言いますと、すべての仏法は釈迦牟尼仏がお説きになった教えであるからです。だから仏典を皆さんにお聞かせし、修行の方向性や根本的な道理を理解してもらい、どのように修行すべきかを知ってもらいたいのです。しかし、皆さんは聞こうとしません。ただの「お参り」だと思い、加護を求めるを目的にし、薄い金封を渡せばすべて願いが叶うと思っているのです。そんな甘い話はありません。リンポチェが供養の話をしているのは、決して供養自体を求めているのではなく、修行の方法として必要なことをお伝えしているのです。皆さんはそれをしなければなりません。例えば、あの九十歳を超える弟子は、もし一年以上前に供養していれば、この一年以上も苦しむことはなかったでしょう。彼女は自分は死なないと考え、リンポチェが守ってくれると思っていました。しかし、もう助からないとわかった時に供養しようとしましたが、弟さんも供養を忘れてしまいました。なぜなら供養の心がなければ、私の前に来てもすべて忘れてしまうからです。弟さんが昨日また供養に来ましたが、私は受け取りませんでした。なぜなら、弟子でない者のお金は受け取らないからです。
皆さんは、このような混乱した世界に生きているからこそ、決心をしなければなりません。この一か月以上、南部では大洪水が起こり、多くの人々が苦しみました。しかし、南部の弟子たちは少なくとも無事でしたね?(弟子たち:「はい、ありがとうございます、リンポチェ様!」)皆さんの財産が損なわれず、家が壊されなかったのに、まだ決心して修行しないのですか?それでもリンポチェが皆さんを守ってくれると思いますか?もし、皆さんが帰依戒に違反したなら、どうやって守られるのでしょうか?帰依の時に、はっきりとお話ししました。皆さんが九つのことを行うなら、上師の加持は届かないと。言いましたか?(会衆:「はい」)皆さんはそれを忘れ、起こらないと思っています。リンポチェはとても慈悲深く、仏菩薩も同じく慈悲深いのです。だからこそ、九つの条件をお伝えしているのです。皆さんは信じようとしません。今、ここの数文を見て、心の中で「本当に辛い」と思うでしょう。辛いのは私であって、皆さんではありません。自分の話し方が間違っていることさえ気づかず、こう話してはいけないぞと、上師から何度も指摘し注意しないといけません。仏教用語的な言葉で話しかけてくれれば、私は皆さんの言うことを受け入れると思う事なかれ。本当は、皆さんの心が正しいかどうかを見ているのです。どうか自分自身で良く考えて行動してください。
経典曰く「若語業貪隨染愛所表。若語業瞋隨惡罵所表。又語業癡亦隨貪瞋所表。皆能了知即語業癡亦隨惡罵所表。」
ここでの説明は、言葉を口にすれば、業が生じるということです。「貪隨染愛所表」とは、あなたの話し方が貪愛(とんあい)の場合、汚れた愛よりそれが表われることを意味します。たとえ、甘い言葉であったり、聞こえが良かったり、丁寧な言葉遣いであっても、汚れた言葉であれば、それは染まった言葉なのです。もし上師がその言葉の裏にある意味を聞き取れなかったら、その上師はその役割を果たせていませんので、離れても良いです。また、「語業瞋隨悪罵所表」とは、表面は人を罵っていないように見えても、心に瞋恚があるから、言葉遣いは穏やかでも、実際には人を罵っていることになるということです。いわゆる「指桑罵槐(しそうばかい)」のような行為をよくしているでしょう。再度皆さんにお伝えしますが、リンポチェに対して不満があっても、決して罵ってはいけません。私が皆さんが私を叱るのが怖いわけではなく、皆さんの罵りは聞こえませんし、私への悪口も聞こえません。なぜなら皆さんは家の中でこそこそと話しているからです。ご夫婦でこそこそ話すこともあるでしょう。しかしどんな言葉であれ、それには業が生じます。その業はリンポチェには聞こえません、ですよね?釈迦牟尼仏はかつて言われました。「誰かが贈り物をあなたに渡しても受け取らなければ、どうなりますか?その人はそれを持ち帰るでしょう。」ですから、皆さんが家で私を批判して「どうして公平じゃない」「あの人には良くて、この人には悪い」と言っても、私は受け取らなければ、それはどうなるか?皆さんがその言葉を引き取ることになるしかないでしょう。どうぞこれからも一生懸命に話し続けなさい。
私は不思議に思います。帰依して十数年もの間、一生懸命に仏法を学んでいれば、なぜ癌があるのでしょうか?たとえ癌があっても、治らないわけがないでしょう?それは身・口・意の善業が清浄でなく、ただ上っ面だけ行っているからです。仏菩薩の教えや上師の加持の力は、そういう方には届きません。
だからこそ、話す言葉は慎重でなければなりません。「皆能了知」—あなたが口を開くとき、私はあなたが貪念をもって話しているのか、瞋恚をもって話しているのかを見抜きます。ここでいう瞋恚とは、私に対する憎しみだけでなく、不満や不快、思い通りにならない気持ちも含まれます。仏菩薩や上師に対して、そのような言葉遣いをすることは許されませんし、それはあなた自身にも良くないのです。
「即語業癡亦隨悪罵所表」という言葉があります。ここでいう「癡」とは、話す時に因果を理解していないことを意味します。「癡」とは因果を信じない人のことです。「隨悪罵所表」とは、口に出すと聞くに堪えない言葉のことを指します。例えば、親が子供に対してとても耳障りな言葉で罵るようなことも良くありません。「死小孩(意味はクソガキに近い)」という言葉がありますが、これは台湾語で何と言いますか?(このとき、一人の出家弟子がマイクを別の出家弟子に渡そうとする)リンポチェはそれを見て、マイクを持っていた弟子にこう指示しました:「これは業にならないから、あなたが言いなさい。」(その出家弟子は答えました:「死囝仔(シギンア)」)口癖として罵らない、習慣にならないように気をつけなさい。
経典曰く「若語業唯悪罵所表」
「悪罵」とは必ずしも暴言のことや、他人に暴言を吐くだけを指すわけではありません。「悪罵」とは、人を恥ずかしい思いにさせ、居場所がなくなるほどの言葉のことです。そのような言葉は決して話してはいけません。しかし、私の場合、許されます。たとえば先ほど、マイクを渡そうとして「死囝仔」と答えた出家弟子に困った目に遭わせたのは、彼が他人を傷つけるのを避けたかったからです。しかし、皆さんの場合、それは許されません。リンポチェは皆さんの最も汚れた、最も暗い部分までも掘り起こします。もしリンポチェに暴言を吐かれたと思うのなら、それはあなたに対する暴言です。どう思いますか?(大衆笑)叱られるのが嫌なら、ここを去ってもいいからです。皆さんは行者にいつもにこにこ優しく、決して批判しないことを望みますが、そんなことはありえません。もしそのような上師がいるなら、理由は二つしかありません。一つ目はあなたのお金を狙っている場合、二つ目はあなたに対して無関心で、いつでも離れていく場合です。その上師はいつまでも台湾にいるわけではありません。もしあなたが「これが欲しい。これをやるにはいくらする?」と要求すれば、彼は「はいはい、法を修めましょう、何でもいいですよ」と言うでしょう。そういう上師が欲しいなら、外にはたくさんいます。
経典曰く「即瞋隨悪罵所表。彼語業癡亦即隨癡冥所表」
ここは数句で簡単そうに言い終わるものから、多くの人は口業が非常に重大なことだとは思っていません。言ってしまったことは相手が忘れるから大丈夫だと考えています。また、自分の口からこそこそ囁いたことも問題ないと思っています。最近では、話す内容を口の中に含むかのように話し、相手に何を言ったのか尋ねられても「何も言っていません」と答える人もいます。しかし、意が伴って舌が動けば、それは言葉を発したことになります。舌の動きが早くて相手に聞き取れなければ問題ないと思ってはいけません。話した時点で成立します。『地蔵経』にはっきりと記されています。口業が重い人は死後、耕舌地獄に堕ちます。そこでは、舌が非常に大きくなり、地獄で牛に引かれて犂を舌の上にかけられます。一部分ずつ切り取られ、切り取られた部分はすぐにまた生えてきて、悪口を言った悪業がなくなるまで最低何千年もこの苦しみが続きます。これは非常に悲惨なことです。
今でも癌を患う方は、必ず身・口・意の三業がまだ清浄でないということです。自分が悪業を犯したことがあるとは信じていません。私たちは金剛乗を修行していますが、他の事はさておき、特に喜金剛について少し説明します。喜金剛の修行ができる上師は、必ず無上瑜伽部まで修得しています。しかし、喜金剛の修法を行う前に、まず金剛薩埵の修法をし、身・口・意の悪業を清浄にします。なぜあなたは懺悔をしないで済むと思えるのでしょうか?自分の身・口・意が清浄であると勘違いしているからです。私たちは閉関の前に、多くの修法を行い、口業を清浄にします。なぜなら、口が常に真言を唱えられるようにするためです。そのため、不共四加行を修行し、真言の持呪がうまくいかない方は、口業が非常に重いか、時には上師を批判したことがあるからです。どのような形であれ、貪・瞋・癡の三つの範囲に入れば、それ成立しますから、非常に犯しやすいものです
経典曰く「悉能了知。又天耳通智。如実了知発生善巧。破彼語業。随順清浄。由能対破。」
天耳通の「了知発生善巧」、何を破るかというと、衆生の貪、瞋、癡、慢、疑という煩悩を破るのです。これは私がよく人々が話すのを止めるのと同じで、まさに皆さんの貪瞋癡慢疑を破っているということです。
「破彼語業。随順清浄。由能対破。」とは、もし衆生の語業を「随順清浄」(清浄に従わせて)変えることができれば、つまりその発言を清浄に向けて導くことこそ、その貪瞋癡の語業に対抗し、破ることができるという意味です。
経典曰く「語業清浄。即能対破一切貪瞋癡等悉令清浄。」
語業が清浄であれば、一切の貪、瞋、癡を破ることができるという意味です。以前、私も「三文字の国罵(台湾の俗語的な悪口)」を使っていたことがありますが、ある時ふと気づいたら、すでに国罵やめていました。これは善をもって貪瞋癡を対治し、破ったということです。しかし、皆さんは自分の言葉が自然に出てきたところ、それは無意識だと言い張ります。しかし、言葉を発する以上、無意識なんかありません。必ず意識があります。その意の中にはまだ強い貪瞋癡が存在しているのです。なぜ供養を惜しむのか?それも貪瞋癡が深いからです。皆さんは何でも怖がりますが、三悪道に堕ちることや因果の存在だけを怖がりません。法会に参加すればすべての悪業が清浄になると思ってはいけません。法会は、悪業の勢いを一時的に止めるだけで、影響を弱めることはあっても、自分で修行しなければなりません。修行しなければ、悪念はまた必ず起こります。その時、仏菩薩や上師が悪を阻止する力は消えてしまいます。消えたというのは、彼らが取り戻したのではなく、あなた自身が善の薫陶や教えを受け入れず、自分勝手に悪業を続けているためです。それで、悪の力がどんどん強まり、自分を変えることができなくなってしまうのです。
仏教の特徴は「自分を改めること」にあります。「対破」とは、対治し、破解することです。自分の性格だから仕方ない、変えられないと言うのではありません。変えられないなら、地獄で変えるしかありません。もしこの生で変えられなくても構いません。ただ、地獄道や畜生道で変わるのです。地獄道や畜生道に墜ちることは、本当の返済です。借りを返し終えれば、そこから出られて少しは良くなります。自分自身をしっかりと省みなさい。聞いただけで終わりにしてはいけません。因果は仏菩薩が発明したものではなく、宇宙に存在する自然の法則です。ただ仏様がそれをとても詳しく、緻密に説明してくださったのです。私たちはそれを心に刻み、必ず信じなければなりません。
もし自分の口業が改められないなら、必ず大懺悔を行い、多くの真言を唱える必要があります。中には真言を唱えている途中で続けられなくなる人もいますが、それはその人の口業がまだ非常に重いということを示しています。こういう人は上師を信じておらず、軽視しているために自然と唱え続けることができません。たとえ唱えたくても、突然疲れを感じたり、何かが起きて唱えられなくなるなどは、自分の悪業が重いからです。
経典曰く「又彼天耳。於聖人非聖人聲悉聴聞。如是聴已。於聖人聲不生住著。於非聖人聲不著對破。」
ここでいう「聖人」とは、前に説明した通りに、すでに輪廻を断ち切った行者のことを指します。「非聖人」とは、まだ輪廻を断ち切っていない一般の行者や凡夫のことです。「聲悉聴聞。如是聴已。於聖人聲不生住著。於非聖人聲不著對破。」この文は、この菩薩は天耳が通じるようになり、清らかになったとき、聖人の言葉だけ聞き入れることもなく、非聖人の言葉ならどうしても聞き入れないことも無くなります。これこそ、「不著對破」を意味します。つまり、必ず相手をやっつけよう、相手の発言を反論し、打ち破ろうということがなくなります。これを皆さんに理解してもらうまで、言い聞かせるのが難しいかもしれません。例えば、ある弟子が話をしているとき、その因縁が整っていなければ、私は返答せず話さないことがあります。それで、その弟子は、自分が勝ったと思うかもしれませんが、私が彼の言葉に「對破」しないのは、今は彼を救うタイミングではなく、もし私が反論すれば、彼は強い嗔恚を起こすだけなので、あえて相手にしません。つまり、その人は今は度せない、救えないのです。
だから、菩薩は必ずしも耳に心地よい言葉だけを聞くわけではありません。悪い言葉を聞いても、必ずそれを打ち破ろうとしたり、反論したりはしません。ただひたすら因縁に従って行動するだけです。因縁がなければ何もしません。これは、たとえば学問を少し学んだ人が、人の話の間違いを見つけると、ずっと議論して相手を論破しようとするような人と違います。私が仏法を説く時、皆さんを論破することは当然ながら、仏法を説いていない時は、あまり多く話しません。人が何か言っても、「はい、はい」と流すこともあります。なぜなら因縁がない場合、無理に反論すると、相手が仏や僧を誹謗する心を起こすかもしれないからです。この加減をわきまえるのは、菩薩の道を修めて初めてできることです。
まだ菩薩の道を修めていない人には、この加減をするのは難しいです。なぜなら、一言を耳にしただけで、自然に心に思いが起こり、口を動かして相手に反論したり対応しようとするのは、人間としての曲がった本質であるからです。
経典曰く「又於聖人声獲得大慈。於非聖人声発起大悲。於一切声無前後際。以決定智如実了知。」
解脱して生死の苦しみから自由になった聖人の声を聞くときは、「獲得大慈」大慈を得ます。以前はすでに大慈・大悲がどうやって生じたかについて説明したことがあります。聖人であり悟りを得ているので、その人からさらに多くの仏法を学ぶことができます。一方で、まだ聖人ではない人の声に対しては大悲を起こし、その人たちを助けて彼岸へ導こうとします。
経典曰く「又彼天耳。於十方無餘一切世界。得聞如是諸仏世尊所説妙法。聞已念彼所度根器。不生癡冥一切摂受。」
天耳通を持つ大菩薩は、「於十方無餘一切世界」。言い換えれば、十方のすべての世界、残るところなく一切の世界で、「得聞如是諸仏世尊所説妙法」諸仏世尊が説かれる素晴らしい教えを聞きます。そして、その教えを聞いた後、彼は「聞已念彼所度根器。不生癡冥一切摂受」。すなわち、彼が一切の世尊が説かれた仏法を聞いたら、彼は「念彼所度根器」を実践し、どんな根器を持つ衆生をも念じて、好き・嫌い・受け入れる・受け入れないを起こすことなく、すべての衆生を包み受け入れます。これは、例えばリンポチェが数十年にわたり弘法してきたように、分け隔てなく、財力の有無に関わらず、すべての因縁ある人々を平等に助け、特に経済的に余裕のない弟子にはさらに手厚く接していることに通じます。
この数文の意味は、彼(菩薩)が仏になる方法を学び、聞いた後は、衆生の根器がどうであれ、あらゆる方法で衆生を摂受し、仏法を伝えるということです。たとえ寶吉祥では、大乗や金剛乗を区別していても、それは皆さんの根器に応じた違いであって、リンポチェは変わらず衆生を摂受しています。摂受とは、変わらず仏法を伝えることを意味します。皆さんの根器では受け入れられるかどうかは私が決めることで、根器がない者にいくら伝えても修め得ることができません。しかし修め得ることができなくとも、私は別の法門で摂受するようにしています。
たとえば今月は仏寺で法会を執り行うことせず、来月は阿弥陀仏の法会を開催します。阿弥陀仏法会の申し込みの速さから、台湾では顕教を学び、顕教の話を聞く人が多く、金剛乗を学ぶ人はごくわずかだと分かります。そこで私はこの環境に適応し、阿弥陀仏の済度法会を行うのです。現在すでに2001人が申し込みました。何と速いスピード!他の法会のなら、皆にその良さが分からず、頼んでも申し込まない人が多いですが、阿弥陀仏と聞くと申し込みが殺到しています。なぜなら皆、自分の祖先や冤親債主が済度されれば、自分も良い日々を送れると考えているからです。それは有り得ないことです。しかし、これは縁に随っているだけです。特に旧暦7月は済度法会が好まれる時期なので、皆さんに開催してあげて、楽しんでもらっています。(大衆「ありがとうございます、リンポチェ様」)
経典曰く「亦無失念。如彼有情根器入解。了知諸法平等一味。又復不於一佛二佛所説之法得聴聞已。不作互相障礙差別事相。」
この数句の意味は、菩薩が法を伝える際には、衆生の根器や縁に応じて、どの法門を修行すべきかを教えるということです。決して区別して、「あの本尊がすごい、この本尊はそうでない」などと分けることはありません。一部の衆生は、この生で成就するに適する根器がないため、無理に法を与えれば耐えきれず苦しむことになります。また、ある衆生は厳しく叱らなければならず、叱らなければかえって悪行を重ねます。さらに、ある衆生には来させない場合もあり、逆に来させると自分はもう修め得たと思い込み、悪行を続けることもあります。
一人の菩薩は、ある仏が他の仏より偉いとか、ある仏が他の仏より優れているとは考えません。すべての法門は衆生が仏になるための助けであり、成仏の過程や時間、修行の方法はそれぞれの衆生によって異なります。なぜなら、それは衆生の業によるものであって、仏の業ではないからです。
仏は各衆生の業に応じて、その衆生を助ける法門を示します。八万四千の煩悩に対応して八万四千の法門があり、多くの衆生を救うために作られました。これは、どの仏が優れているとか劣っているという意味ではなく、すべての仏は平等であり、それぞれの願力が異なるのです。例えば、阿弥陀仏の願力は、有情衆生を彼の浄土に迎え入れることであり、到達できなくても少なくとも衆生が三悪道に堕ちないようにすることです。また、釈迦牟尼仏の願力は、地球や天界の衆生に仏法を教えることです。それぞれの仏の願力は異なるため、他の人がある仏を修行しているのを見ると、この仏が良くないやら、あの仏のほうが優れているやら、と批判することはできません。あるいは、他の人が特定の仏を専修すれば、あなたも真似たりすることではありません。それはその上師や仏との縁によるものであって、別に他者より優れていることを意味しません。
ある人たちは必ず「転生者」だからといって、その人から学ぼうとします。私も転生者ですし、釈迦牟尼仏も転生者です。皆さんも転生者です。転生したからといって、この生で必ず成果が出るとは限りません。私の長年の経験から言うと、転生者でもこの生で成就できるとは限らず、ただこの生での学びやすさ、善い因縁が私より良いだけです。しかし、その人がこの生で努力して修行しなければ同じです。だから、多くの人は転生を迷信のように信じて、「あの人は力が深い」と思い込んでいますが、それはその人自身のことであり、あなたには関係ありません。
密教において、「転生」とは、その人が願力をもって再び衆生を度するために来ることを指します。もし本当に転生して衆生を度する者であれば、必ず自分の手で建立した寺院があり、いくつかの拠点があるだけで転生と言うわけではありません。また、その人が「前世にこの寺に住んでいた」と言うだけで転生とは言えません。私も前世に寺に住んでいましたし、皆さんも住んでいたかもしれません。ですから、「転生」という言葉に迷信しないでください。大事なのは、その上師がこの一生で仏法を広め、仏が説かれた教えから逸脱していないか、その教えが私たちの生死の解脱や自己の問題を見極める助けになるかどうかです。転生であるかどうかは関係ありません。これは自己弁護ではなく、私は本当に転生者です。もし転生していなければ、この世で直貢噶舉派に出会うことも、チェツァン法王に会うこともなかったでしょう。
皆さんによく分かって欲しいことは、仏道修行の道は決して一朝一夕で成し遂げられるものではなく、一年や二年で完了するものでもありません。時間をかけて少しずつ積み重ねていく必要があります。その過程で、心が一度でも乱れると、簡単に退きます。だからこそ、皆さんは決意を固めて、家に帰ってからもリンポチェのお話をよく聞き、よく学んでください。自分はもうできていると思わないでください。リンポチェの加持だけに頼るのもいけません。リンポチェは、必ず皆さんが非時の死をしないように守ってあげますが、それ以外は自分自身の修行にかかっています。ここで言う「非時の死をしない」というのは、まだ帰依戒を破っていない人に限ったことです。
今日お話しした天耳と天眼は、皆さんの一般的な認識とは少し違います。多くの人は天耳はたくさんの音を聞くこと、天眼はたくさんのものを見ることだと思っていますが、実際のところ天耳天眼で最も重要なのは「衆生を度する」ために使うことです。自分の能力を誇示するためではありません。もしこの能力を衆生を救うために使わなければ、天耳天眼はかえって自分自身や他の衆生に害をもたらします。「衆生を度する」というのは、ただ単にこれからどうなるかを予言することではありません。大切なのは、その力で「あなたが救われるかどうかを見極め」「どんな方法で生死の苦しみから解放する助けになるのか」「どんな方法で悪行を止めさせるか」「どんな方法で悪を善に転じさせるか」を判断して実践することです。これこそが天耳天眼の真髄であり、最も重要なことなのです。
以前は多くの人がリンポチェがとてもすごくて、何でも知っていると思い込み、よく私を訪ねてきました。しかし今はもうそういう人と会うことをしません。なぜなら意味がないからです。まるで私が占い師のように扱われていました。もし本当に占いをするなら、とても高い料金をいただかないといけません。それは、私は本当にすごいからです。
自分自身が仏法を学んでいると思っているのなら、仏法の面ではしっかり見極めなければなりません。自分勝手に「これが正しい」と思うやり方をしてはいけません。仏典やリンポチェが説いたこと以外の方法は、どんなものでも間違いです。皆に伝えたことを、皆が怠けたりはしていながらも、決してご自身で考えた方法を勝手に実行することはできません。リンポチェが教えていないことをやるのは、間違いなのです。
皆さんはリンポチェに求めるのは面倒だと思い、自分でやっても特に何も変わらないと思っているでしょう。もちろん、何も変わらないのは、その通りです。なぜなら、あなたが「何も変わらない」と思っているからこそ、その通りの結果が現れるのです。それがあなたの因果応報です。(会衆が笑う)今になってやっと少し分かってきましたか?皆さん、本当に頭が良いですね。
リンポチェが弟子たちと共にアキ護法儀軌を修持した後のご法話:
リンポチェは、何年も前に法王から一冊の法本を伝授されました。当時、その法本を漢民族の私に伝えることに不満を持つリンポチェもいました。なぜなら、その法本は秘伝のものであるからです。In the near future、どれほど近いか分かりませんが、それを帰依して12年以上経ち、不共の四加行を修了した方々に伝授する予定ですが、それでも必ず伝授するわけではなく、私は慎重に選びます。また、仏寺や協会に多大な貢献をされた帰依弟子の方々にも伝授します。貢献とは金銭だけではなく、さまざまな面でのご尽力を指します。
この法は何だか知りたいですか?(会衆:知りたいです。)知ることは良いことではないですよ。(会衆:笑)この法はアキの灌頂法本です。私はこれまで一度も伝授したことがありませんよね?(会衆:はい!)なぜこんなに厳格なのかというと、アキ護法には誓いがあるからです。直貢噶舉の弟子なら、必ず守護すると。ですので、直貢噶舉の弟子でなければ、ただの信者であれば守護しません。「もう法本は伝わっているのでは?」と思う方もいますが、その法本はただ唱えるだけのものです。唱えるだけでも効果はありますが、本格に修するためには灌頂を受けなければなりません。私たち直貢の出家者の中には、一生アキ護法だけをひたすら修行し、アキ護法で成就を得る方もいます。
アキ護法が成就したとされる洞窟は現在も青海にあります。彼女が去った後、その洞窟は封印されました。洞窟の隣には、祖師であるジッテン・サムコンの最初の寺院があります。かつてアキ護法は「誰もこの洞窟に入ってはならない」と言い残しましたが、若い僧侶二人が信じずに中に入りました。結果として、一人は出てきた後に亡くなり、もう一人は精神を病んでしまいました。このことから、アキ護法は他の一般的な護法とは異なる存在であることがわかります。チベット仏教において、アキ護法は智慧型の護法であり、法身菩薩以上の存在であって、一般の俗世の護法とは違います。一般的な俗世の護法は、小さな世俗的な助けはしてくれますが、修行や福報の積み重ねの面では役に立ちません。だからこそ、アキ護法を修行するのです。
他の教派では、アキ護法を九大護法の一つに含めています。なぜなら、アキ護法のご主人は在家修行者であり、ニンマ派の一人の上師だったため、彼らはアキ護法もニンマ派の護法であると考えています。しかし実際には、アキ護法の法はニンマ派のものではなく、直接上から伝えられたものです。私はこの生涯で上師になる前に、実際にアキ護法にお会いしたことがあります。
アキ護法には、寂静尊と忿怒尊と二つ分かれます。法王が一度忿怒尊の法を伝授された際、読経はされましたが、真言は伝授されませんでした。そこで私は手を挙げて「法王様、真言が伝授されていません」と申し上げました。法王は私をしばらく見つめ、私は再び「法王様、真言をお願いします」と言ったところ、法王は「分かってるよ」と言われました。そしたら、法王は奥から真言の書物を取り出し口伝してくださいました。ですので、この法本を持っているのは私だけです。ただし、この法本は残しておらず、私は記憶を頼りに唱えています。私が亡くなる前に、それを唱え出しますから、下の人に伝え、修めてもらうようにします。
私たちの大法会では、仏寺で寂静尊と忿怒尊の修法を行っています。寂静尊は皆さまの修行を助けるためのものであり、忿怒尊は上師の願力や事業などを支えるためのものです。実際、多くのことはアキ護法のそばにいる四つの護法が助けています。なぜこの法を伝えるのかというと、私も年を重ねていますので、このまま伝えなければ失伝してしまう可能性があるからです。台湾ではこの法本を持つ者はほとんどおらず、チベットの直貢噶舉派のリンポチェでなければ持っていません。その他の人は絶対に持っていません。多くの護法には正式な灌頂の法本がなく、ただ読誦する法本だけがあります。皆さんは「なぜ自分には回ってこないのか」と思うでしょうが、もちろん回ってきません。なぜなら、あなたが直貢噶舉の正式な弟子ではないからです。もし私がこの法をあなたに伝授しても、あなたが言うことを聞かずに離れてしまった場合、アキ護法はあなたを攻撃しませんが、その周りの多くの眷属たちがやって来ます。彼らはあなたを罰するのではなく、あなたがこの生涯で私のもとで積んだ善根の一部を持ち去るだけです。
多くの密教を学ぶ方々は護法を得たいと願い、それによって自分がとても強くなれると思い込んでいます。しかし、実際はそうではありません。あなたの信心が非常に堅固であり、教派への護持が揺るがず、決して変わらない場合に限り、護法は生生世世にわたってあなたを護り続けます。それは一世限りのものではありません。今一度、自分自身に問いかけてみましょう。あなたは教派に対し、上師に対し、道場に対し、仏寺に対してどれほどの献身をしていますか?ただ法会に参加しただけでは、献身とは言えません。
最近、私は協会の多くのことを整頓しています。多くのことは皆さんができるはずなのに、やらずに何も尋ねもしない、まるで互いに関係がないかのようです。例えば、英語の翻訳が2023年までしか進んでおらず、その後は全く更新されていません。日本語翻訳チームも同様です。千人以上の弟子がいるのに、誰も気づかず、誰も報告しないのは、皆さんがあまり関心を持っていない証拠です。英語翻訳チームには、中学生もいます。彼らはアメリカ人学校に通っているので英語が得意なだけです。高校の英語の先生も手伝っています。私自身は高校卒業ですが、英語がとても得意とは言えませんが、それでも私の英語力は十分通用します。この状況から皆さんがそういった習慣を身につけてしまっていることが見て取れます。だからこそ、今私は協会内のことを徹底的に整頓しようとしています。
この協会は、皆さん全員のものです。それなのに、皆さんは自分のことだけを考えていて、たとえ自分にできないことであっても、一言声をかけることくらいはできたのではないでしょうか。組長や連絡係もいるのですから、その方たちに伝えることは可能だったはずです。ですが、組長の方たちも理事会には何も伝えず、理事会もまったく反応がなく、ただ人を叱ったり、お金があるかどうかを見るだけで、それ以外のことは何もしていません。結局は、年配の私がこれらのことを処理することになってしまっています。本来、私はこの件について何も知りませんでした。弟子は千人以上いるので、皆さんは能力があり、社会でも活躍されている方々ばかりだと思っていました。だから、こういう小さなことくらいは、皆さんで協力して処理できると思っていたのです。でも、実際にはそれぞれが自分の生活を大事にしていて、誰もこのことに関わっていなかったのです。私がこのことを知ったきっかけは、ある方たちが仏寺のウェブサイトを申請しようとしていて、その英語の名前を見たときでした。そこに “Temple” という単語が使われていて、「これは間違っているのではないか」と思いました。前回にもこのことについて叱りましたので、今回はもう言いません。英語があまり得意でない方が協会の中にいて、しかも千人以上いるのに、誰もその間違いに気づかなかったというのは、本当に残念です。私はただ一つ、「台湾の英語力は一体どのくらいなのだろうか」と嘆くしかありません。英語ができる方はたくさんいるはずです。”Temple” と “Monastery” の違いが分からないということは、皆さんが「自分には関係ない」と思っているからではないでしょうか。「リンポチェが供養を受けているから、すべてのことはリンポチェが責任をとるべきで、私たちは何もしなくていい。ただ法会に参加して、リンポチェから恩恵を受ければいい」と思っているのではないでしょうか。もし皆さんがこの協会のことを真剣に考えないのであれば、この協会はいずれ無くなってしまうでしょう。
先ほどお話した癌を患っている弟子について、彼女は癌を発症してからもう4年になりますが、その間、一度も協会の誰にも話していませんでした。私も知りませんでした。なぜ話さなかったのかというと、自分の問題だからと考えていたそうです。医者は「治る可能性がある」と言ったので、まず医者にかかり、もし治らなければ私のところに来ようと思っていたそうです。こうした心の持ち方です。しかし、もし私がいなくなったら、この協会は存在し続けるのでしょうか?私は存在し続けるとは信じていません。ただし、私の寺院は存在し続けると思います。
長年の間に皆さんは悪い習慣を身に付けてしまいました。誰かが推進しなければ動かず、推進されると少しだけ動くという状態です。例えば、英語翻訳チームは2年間も一つも翻訳を提出していませんが、皆さんは特に気にされていません。もしかすると、海外の誰かが英語の翻訳を見て仏教を学びたいと思うかもしれません。そうなればまた一人、仏教を学ぶ人が増えるでしょう。ですが、翻訳をせず、そのまま放置されています。なぜならリンポチェが直接言及していないからです。英語翻訳チームには22名がいますが、一人も積極的に動いていません。リーダーも推進せず、指揮する人も指揮しないまま、ただ放置されています。皆さんは道場や協会のために働くなら、心を込めて取り組むべきです。心を込めなければ逆効果になります。まさに先ほどの経典にあるように、貪りや怒りをもって話すのと同じです。そうしてはいけません。もし参加したくなければ、参加しない自由はあります。「リンポチェのもとで仏教を学ぶだけです」と言うこともできます。しかし、参加すると申し込みはするのに、実際には何もしない方が大勢います。皈依の際に、「ボランティアの権利と責任を放棄します」と署名する書類を作れば、皆さんも催促されることはなくなるでしょう。せっかく見つけられたのに、能力がない場合、できないと言うこともせず、ひたすら居座るのは困ります。
以前、仏寺が落慶したばかりの時に、地面に八吉祥を描く必要がありました。その時、男性たちが女性を連れてきて描かせようとしていました。私は叱りました。「なぜ自分の奥さんに這いつくばって描かせないのですか? なぜ少しお金を払ってでも他の人に描いてもらわないのですか?あなたたちはみんなそんな人たちです。」なぜあなたたちは修め得ないのか?それは、自分勝手で、貪りや怒りや愚痴にとらわれているからです。因果を信じていないからです。協会や仏寺のことを「やっているだけでいい」と思っていますが、本当に心を込めていますか?心を込めなくても構わないならいいですが、私はずっとあなたたちを消耗させています。私がいなくなった時、あなたたちがどう処理するか見ものです。今、私は多くの大きな改革を進めています。翻訳チームは全部廃止し、情報チームもすべて解散します。パソコンのサポート係たちも要りません。懺悔に来ても彼らの懺悔は受け入れません。なぜなら、悪意があるからです。2年前に彼らに仕事を依頼しましたが、今まで何も完成していません。
私が一番理解できないのは、なぜ皆さんが「仏寺」を「Temple」と呼び、しかも英語が分かっていると自称しているのかということです。皆さんは長い人生を生きてきましたが、台湾だけでなく、世界中で「仏寺」を「仏廟」と呼ぶところがどこにありますか?なぜ私の仏寺が「仏廟」と呼ばれなければならないのでしょうか?ただ「Temple」が英語だからというだけの理由で、この一点から、皆さんの心の恐ろしさがよく分かります。千人以上いる中で一人として気づく人がいなかったのです。私は毎日仏法を弘め、皆さんを教え、守り、加持しています。そんなに小さなことに気を配る時間はありません。もしもウェブサイトのURLを変更する必要がなければ、皆さんのこのひどい状態に気づかなかったでしょう。皆さんは自分勝手で利己的です。そんな心でどうやって修行ができるのでしょうか。何かあれば皆さんはリンポチェを頼りますが、仏寺や協会のことになると、みんなできるだけ関わろうとしません。関わってもゆっくりとしか動きません。皆さんはこれからどうするつもりですか?
私は日々皆さんに見せるように演じています。例えば、私が皮膚癌にかかった時のことを何度も話しましたが、医者にも行かず、仏菩薩にもお願いせず、法王にも知らせずに治りました。なぜそうなったのか、皆さんはもちろん信じられないでしょう。
その時、謝という姓の医者の弟子が私の部屋で検査をしてくれました。皆さんに私がどんな癌にかかっているかを伝えましょう。(医者の弟子の話:その頃、リンポチェの顔に茶色がかった黒い斑点があり、それが変化しているのを見て、私はリンポチェに報告しました。「これは良くないもののようです。医者に診てもらった方がいいかもしれません」と。しかし、リンポチェは私を見ただけで、相手にしてくれませんでした。しばらくしてまた報告しましたが、リンポチェは「気にするな」と言い、その後は全く気にしなくなりました。数年前、リンポチェの顔にはもうその色の斑点は見られませんでした。リンポチェは本当に薬も飲まず、医者にも行かず、私たちの(言う)ことも気にかけませんでした。)
今日この話を皆さんにお伝えするのは、仏法は実際に可能であるということです。しかし、皆さんが言うことを聞かないからです。帰依したその日から言うことを聞かず、当然ながら仏法の力は皆さんのところに届くときに減少し、最後にはほんのわずかな福だけが残り、皆さんがここに留まるためのものに過ぎません。しかし、何一つとして皆さんを根本的に転じさせることはできません。謝という姓の弟子が、私にとても恐ろしい癌だと教えてくれました。それは何か、ちょっと説明してもらいましょう。(答え:メラノーマ(悪性黒色腫)です。皮膚にできる癌の中でも非常に悪性の腫瘍で、転移しやすいものです。皮膚の小さな点に見えても、肝臓、神経、骨、脳にまで広がっていることがあります。私たちのある師兄の兄弟の脚にもメラノーマがありました。彼は貧血で病院に行った際に、胃と腸の中も全てメラノーマで覆われていることが分かりました。つまり、非常に悪性の腫瘍なのです。)
私がその年はだいたい何歳ぐらいだったのでしょうか?(医師の弟子が答えます:「だいたい1999年ごろです」)ですので、約26年前になります。癌が26年も持ちこたえることができるでしょうか?(医師の弟子の答え:「そんな例は見たことがありません」)通常、何年で再発しますか?(医師の弟子の答え:「私の友人の奥さんが、最近の2年間であちこちに転移しています」)これが仏法の力です。リンポチェは自分の中の悪業をずっと転換し続け、すべてが純善になりました。たとえ悪いことがあっても私の身には起こりません。起こるのはほんのわずかなことだけで、私に害を及ぼすことはありません。皆さんは信じていませんが、私は皆さんのために実例を示しています。皆さん自身が修行しなくても構いませんが、少なくとも言うことを聞き、上師に敬意を払い、供養すべきものは供養し、すべきことはきちんと行うべきです。しかし、皆さんはそうではありません。みんなが手を抜き、妥協しています。その妥協は私には関係ありません。皆さん自身の問題です。みんなが自分は敬虔だと思い込んで、毎週日曜日の法会に来て、仏菩薩が自分を守ってくれるのか?……見てろよ。
簡単に一言申し上げます。私が真言を唱えているとき、熱さを感じますが、皆さんはご自身が真言を唱える時には熱さを感じますか?(会衆の答え:「感じません」)感じないということは、仏菩薩が聞いていないということです。皆さんが真言を唱えるのは、自分の悪業を少しずつ減らし、善行を少しずつ増やしているに過ぎません。しかし、まだ本尊と相応しているわけではありません。本尊と相応するためには、必ず閉関修行をしなければなりません。私たちは本尊と相応して、ただ自分が無事でいるのを望むことではなく、衆生を利益し、絶えず助け続けるために修行しています。皆さんは自分のためだけにやっているので、絶対に本尊と相応することはできません。
今日はたくさんお話ししました。皆さんに早く帰ってほしくなかったので、少し多めに話したのです。皆さんが早く帰っても私の店で買い物をするわけではないので、むしろ時間を引き延ばしました。電気代はもう払ってありますし、2時間話さなければ皆さんは物足りなく感じるでしょうから。
今日のご法話の経典は皆さんにとって非常に重要です。自分が善い人間だと思わないでください。あなたが善か悪かを判断するのは、あなた自身ではなく、上師や仏、菩薩です。自分が善いと思うと、慢心が生まれます。私自身、2007年に閉関を終えて出てきて、法王と一緒に食事をしたのですが、それが人生で初めての野外での食事でした。草の上に座って、なかなかロマンチックでした。しかし、お相手は法王でした。法王は座るなりいきなり私を叱りました。なぜ叱ったのかというと、上師はその弟子が閉関後に自分がすごいと思っていないかどうかを見ているからです。私が傲慢でなかったので法号を授けてくださったのです。皆さんは一体何様だと思って、自分がすごいと思うのですか?少なくともリンポチェは三ヶ月間の閉関をしていました。断食し、水も飲まず、毎日最大でも五時間しか眠りませんでした。あなたはそんな修行をしましたか?もししていないなら、なぜ自分が純粋な善だと思うのですか?だからこそ、上師の教えや言葉はしっかりと受け入れ、違背しないでください。できるだけ実行し、やらない理由を自分に作らないようにしなさい。
最近、帰依された弟子がいます。しかも、二回目の帰依です。帰依した直後に韓国へ遊びに行きました。そんなに遊ぶのが好きなら、帰依しなければいいのに、帰依する意味は何でしょうか?彼女は私にバレていないと思っているようですが、実も知りませんでした。ただ、彼女が聖像を求めに来た時に、アキ護法が彼女の件をバラしました。二回目の帰依にもかかわらず真剣に取り組まず、まず遊びに行くなんて。リンポチェがあなたを探さないと思っているのですか?誰も探しませんよ。もう来ないでください。まず遊びに行って、遊び足りたらまた学びに来ればいいですか?あなたはまだ若いですが、仏教の修行はとても厳しいものです。これもできない、あれもできないと制約が多いのに、数日遊びに行って楽しむのは簡単でしょう。お金は遊びに使うのに、供養するお金はないのですか?帰依していないならこのようなことは言いませんが、帰依した日に包んだお布施はたったの1000元でした。韓国に行くには少なくとも数万円はかかるでしょう。たとえ誰かに招待されたとしても、何かしらの出費はあるはずです。こんな弟子がいるなんて。もともと私はこのことを知りませんでした。皆でアキ護法の聖像を求めにときに、唯一人来れないと情報が入ったから、問いただして初めてこの件を知りました。彼女は二度目の帰依で、こんな態度です。リンポチェは彼女にとても寛大で、よく戻ってくることを許してあげたのです。
本日、皆さまにこれだけ多くのことをお話しし、開示させていただきましたのは、皆さまが仏道修行の道のりにおいて、少しでも障害を減らし、間違った方向に進むことが少なくなるように願ってのことです。(会衆:ありがとうございます、リンポチェ様)人生は短く、今年もあっという間に8月となりました。一年は非常に速く過ぎていきます。今年が終わればまた新しい一年が始まります。もし私たちが仏法の修行や自分の仕事に一生懸命、充実に取り組んでいれば、決して遊びに行くことを否定しているわけではありませんが、物事には優先順位があります。たとえ他人に約束していたとしても、上師に対してした約束を軽んじてよいわけではありません。もし約束を守らなければ、何もかも意味を失ってしまいます。帰依する前は、皆さまは寶吉祥道場では毎週日曜日に必ず法会があることを知っていました。1回、2回、3回欠席しても許されるかもしれませんが、4回目からは許されません。
ある帰依弟子が、いつも「中国大陸に行ってお金を稼ぐ」と私に話していました。ですので、現在は仏寺は彼に行かせていません。あまりにも私を尊重していないのです。お金だけを尊重しています。もう70歳を過ぎているのに、まだそんなにお金に執着しているのです。彼の命にそういう運命があるのなら、台湾でも十分にお金を稼げるのに、わざわざ向こうに飛んで行く必要があるのでしょうか?この点からもわかるように、Maybe(もしかすると)彼はあちらで何かが……(会衆:笑い)私は知りません。言っていませんよ。皆さんが笑っているだけです。私はただ「Maybe(もしかすると)」とか「Probably(おそらく)」と言っただけです。
« 昔の法会開示 - 法会開示へ戻る - 新しい法会開示 »
2025 年 08 月 06 日 更新