尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ猊下は、寶吉祥仏寺にて「長寿仏法会」ならびに《直貢噶舉上師供養法儀軌》の修法をご主導賜り、円満終了いたしました。

2025年7月28日は、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王猊下の御誕辰にして、また、ブータンにおける三年閉関修行のご入関という瑞祥の日にあたります。寶吉祥仏寺の開山住持にして、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ猊下は、深きご恩徳を賜る上師・法王猊下への感謝の意を込め、同日、謹んで法会を厳修されました。午前には長寿仏法会をご主導賜り、午後には上師供養法儀軌を修持し、法王猊下のご長寿とご健勝、ならびにご閉関が吉祥円満に成就されますよう、心より祈念申し上げるとともに、衆生が法王猊下との深き法縁を結ぶことができますよう、衷心より願いを込めての法会でございます。

1988年にリンチェンドルジェ・リンポチェ猊下が尊勝なる直貢チェ.ツァン法王猊下に帰依されて以来、根本上師に対する一途なる御忠誠を貫かれ、師弟お心を同じくして仏法の大道を歩み、衆生済度という大悲の願行に専心しておられます。法王猊下はご入関の前夜、遠くブータンよりお電話をくださり、「どうかご自愛なされ、十分にお休みください」と、リンポチェ猊下のご健康を深くご案じくださいました。リンポチェ猊下もまた上師を慕われ、「ご入関の日に修法を厳修し、法王猊下に供養を捧げ、閉関の順調円満を心より祈念申し上げます」と、自ら申し出られました。師弟の間に結ばれたこの深厚なるご情誼は、まことに感動を禁じ得ないものでございます。

昨夜、苗栗地方は激しい雷鳴と共に豪雨に見舞われ、気象予報によれば、本日も激しい雷雨が予想されておりました。そうした中、リンチェンドルジェ・リンポチェ猊下は、衆生が無事に法会に参列できるよう深くお念じになり、昨日午後、密殿にて修法を行われた際、特別にアチ護法尊に加持と庇護を祈願されました。そのおかげをもちまして、本日は見事に天候が回復し、陽光燦々たる晴天となりました。仏寺の上空には青空と白雲が広がり、ただし周囲の山々にはなお黒雲が垂れ込めておりました。午後の法会が円満裏に修了した後、天空には五色の吉祥雲と七色の虹が顕現し、まばゆいばかりの光彩を放つ、実に不思議かつ勝れた霊相が現れました。夜に入ると再び苗栗には激しい雨が降り始めましたが、龍昇村の村長がわざわざご連絡くださり、仁波切猊下の御慈悲とご加持により、法会が円満に成就されたことに対し、深い感謝の意を表されました。法会当日のこの妙なる天候の移り変わりは、リンポチェ猊下の衆生利益の仏行事業が、諸仏菩薩の御守護と御讃嘆を賜っていることの明らかな証でございます。

長寿仏法会

午前9時50分、リンポチェ猊下はエレベーターにて仏寺二階大殿にご入場なさいましたが、経幡・幢幡・出家衆・八供女・寶傘・楽器・薫香が前導し恭しくお迎え申し上げましたにもかかわらず、大殿正門が未だ開いていなかったため、猊下は諸仏菩薩を恭しくお迎えすることができるように、大門が開かれるまで堅くお待ちになり、その後、撒かれた鮮花で飾られた八吉祥の白地毯の上を歩み壇城へと進まれました。参列の皆さんは荘厳な音楽に包まれ、合掌し静かに立ち、リンポチェ猊下を恭しくお迎えいたしました。壇城にお上がりになった猊下は諸仏菩薩に頂礼を捧げ、灯明を供えられた後、法座にご昇座なさいました。

リンポチェ猊下は開示を賜りました:

午前中、瑪珠貝傑摩仏母(マギチュペジェモ仏母)の長寿仏観修儀軌を修持します。なぜこの法を修持するのかと申しますと、本日が直貢噶舉派第37代チェ.ツァン法王の誕生日であり、法王は私の根本上師で、そして本日より、ブータンにて三年間の閉関修行に入られるためです。

長寿仏とは阿弥陀仏の報身仏で、長寿仏修持の意義は三つあります。第一に、この一生を衆生のために絶えず修行し、願力が円満になる前に、長寿仏が寿命を延ばすご加持を賜ります。第二に、懺悔の心を起こし、この生において仏法を学び、生死の解脱を目指すと決心した際に、長寿仏修持によって、この生で犯した悪業により失った寿命を補うことが叶います。例えば、肉食によって寿命が必ず短くなるとされますが、長寿仏修持は本来与えられるべき寿命を取り戻す助けとなります。第三に、生まれつき短命である場合においても、大いなる懺悔心を起こし、出家や帰依仏門を果たして、一切を捨てて修行し生死の解脱を志すならば、長寿仏修持によって地球上で十分な寿命を得て修行に励み、生死を超越することが可能となります。

本日の法会に参列の信衆の中で、もしなお肉食を続けられる方がいれば、本日の法会はただご縁を結ぶにとどまり、決して寿命が延びることはありません。法会に参じ、仏菩薩のご加護があるといっても、寿命が延長されると安易に考えてはなりません。仏菩薩がお説きになったお示しを実践してこそ、そのご加護が真に現れるものとなります。

仏経には非常に明確に説かれているように、衆生の肉を食することは慈悲の種子を断つことです。もちろん、「自分はそこまで学ぶつもりはなく、ただ仏菩薩のご加護を願っているだけだ」と仰る方もおりますが、仏菩薩は大慈悲をお持ちですが、もしあなたに慈悲の心がなければ、仏菩薩の慈悲があなたに加持することは果たして可能でしょうか。答えは当然、不可能です。なかには「チベットのラマでも肉を食べている」とおっしゃる方もおりますが、私はチベット密教を数十年学び続けておりますが、肉は食さず、菜食を実践しています。直貢噶舉の祖師ジッテン・サムゴンも菜食でしたし、これは理由にはなりません。無上瑜伽部の修行に達した場合を除き、肉を食するのは口腹の欲を満たすためではなく、衆生の平等を願ってのことでありますが、それも毎日求めるのではなく、ただ随縁に任せるものとなります。したがいまして、最もよき方法は肉食を避け、菜食を実践することで殺生の機会を大いに減じることです。

私は1995年より衆生を救済して以来、衆生が多くの病苦や事故、不幸に見舞われるのはすべて肉食殺生に起因していることを目の当たりにしました。多くの方は、「多くの場所では菜食を強制されない」と申されますが、それは信衆や弟子が不足しているためであり、ただ来てもらえばよく、何をなさっても構わないということです。私は1997年より弟子の帰依を受け入れて以来、すべての弟子に厳格に菜食を守るよう求めています。もし菜食を守れないならば、それは口腹の欲を放下できておらず、殺生の念も断ち切れないことを意味し、如何なる仏法修行も成就し得ません。なぜなら仏陀は慈悲を根本とされており、慈悲を学べなければ仏法はあなた方とは何の関係もないものとなります。

本日の長寿仏修持の目的は主に皆さん個人のためではありません。後ほど私が皆さんと共に長寿仏の真言を唱えてチェ.ツァン法王に供養しますが、これは仏法において「法施」(仏法をもって施すこと)と申します。皆さんお一人お一人の力で真言を唱えて供養するだけでは効果が生じません。必ず修行の証果を得た上師の導きのもとで唱えることにより、功徳が生じるようになります。本日は千名を超える方々が一緒に長寿仏の真言を唱え、法会に参加されたすべての方々は、供養の功徳のみならず、真言を唱える功徳も分かち合っています。一人で短時間に百万遍を超える真言を唱えることは不可能ですが、もし閉関修行を行い、この本尊を毎日修持するならば、百万遍唱誦するには最低でも二十日以上かかります。しかし本日、もし皆さんが平均して千遍ずつ唱えられれば、一千名以上の方々の合計は百万遍を超えることとなります。

本日、わずか一時間余りの間に百数十万遍もの真言を唱える功徳と福報を分かち合うことができますので、法会にご参加の皆さんにはどうか心を集中し、真剣に取り組んでもらいたくと思います。自分自身のためだけに真言を唱えることをお考えでしたら、それはどれほど効果があるでしょう。少しは効果があるかもしれませんが、それは一人の力に過ぎず非常に小さいです。よく考えてください。あなた一人が唱える真言の力が有効なのか、それとも百万遍の真言の力が有効なのでしょうか。仏道を学ぶと決められたのであれば、どうか自己中心的な考えはやめてください。仏菩薩は決してご自身のためだけに働かれたことはなく、常に衆生のために尽くしています。

なぜ長寿仏の真言を唱えてチェ.ツァン法王に供養するのかと申しますと、法王は直貢噶舉教派を代表し、世界中に仏法を絶え間なく弘めています。私は法王猊下の弟子として、当然のことながら法王猊下の寿命が延び、より多くの衆生の利益となり、教派の弘揚に一層役立つことを願っています。多くの信衆は法会に参加して「ご加護を求める」ことを目的としていますが、ただ加護を求めるだけならば、私のもとに来る必要はなく、どの宮廟にお参りしてもある程度のご加護は得られるでしょう。本日の法会は単なる集まりではなく、個人の生生世世にわたり解決できなかった問題を根本的に解決するためのものであり、それは仏法のみが成し得ることなのです。もちろん、一度参加しただけで全てが解決するわけではなく、法会に継続的に参加し、仏法を学び、肉食を断ち切り、帰依を決意することによって、運命は必ず変わってまいります。

私は四十代で癌を患いましたが、医者にはかからず、法も修せず、ただひたすら修行に励んでまいりました。今年で既に七十八歳になりました。仏法を学ぶ以前、占い師たちは私が最長でも四十五歳か四十八歳までしか生きられないと申したが、今は七十八歳になりました。寿命とはどこから来るのでしょうか。寿命は過去世で自ら蒔いた福報の報いであり、この生においてその寿命を得ているのです。しかしこの一生において寿命は変えることができ、短くも延ばすことも可能です。それはあなたの行い次第でございます。もしこの一生が母の胎内にいる時から肉食を始めたならば、妊娠したその日からあなたの寿命は減少し続けているのです。

仏経に説かれるところによりますと、釈迦牟尼仏は現在の人類の寿命は減少の段階にあると仰いました。現在の平均寿命は約七十歳であり、百年ごとに一歳ずつ減少していて、人類の寿命が十歳まで減少した時、それは地球において最も悪い時代であり、そこから再び寿命が百年ごとに一歳ずつ増加し、八万歳に達するまで続くこの循環を一小劫と呼びます。今は減寿の劫にあるため、七十歳以上まで生きられる方はこの生において修行をしている証です。九十歳以上生きても病にかかる方もいますし、私と同じ年齢でも体調の優れない方もいますが、それは寿命が完全でなく欠損しているためです。寿命について語ることは非常に多いのですが、本日は時間が限られているゆえ、これ以上は申しません。興味のある方はただ一つの方法、すなわち帰依して仏法を学ぶことです。

この法門を修することにはもう一つの大きな利点があり、それはこの一生において非時の死、つまり事故死の可能性がほとんどなくなるということです。私は千名を超える帰依弟子がいますが、過去数十年の間に多くの弟子が往生しましたが、一人として非時の死をした者はいません。皆、寿命が尽きた時に自然にこの世を去っています。ゆえに、この法門の最も重要な働きは、非時の死を防ぐことです。非時の死とは誤った医師にかかること、誤った薬を服用すること、誤った食物を摂取すること、交通事故に遭うこと、あるいは些細なことで亡くなることを指し、本来死ぬべきでない時に死んでしまうことです。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。それは過去世とこの世において絶え間なく悪業を積み、悪業を共に作る者たちと共にあり、不正な利益を得ているために寿命が減少するからです。

これから私が修法を開始しますので、皆さんどうぞ心を集中して法会に参加してください。どうか本日、決意を新たにしてもらってほしいです。本日の修法はチェ.ツァン法王への供養です。供養を差し上げた後に自分に何も残らないのではないかと心配する必要はありません。むしろ供養すればするほど、より多くの功徳が戻ってまいります。私はその一例でです。私は多くのものを供養していますが、諸仏菩薩は常に私を助けてくださいます。修行においても、人生においても絶え間なく助けてくださり、その加護は明確に語られることなくとも、自然と支えられていることを感じています。

先ほど私がなぜ門の前で立ち止まり、中に入ろうとしなかったのかと申しますと、法会の開始時には必ず大門を開けなければならないからです。私の弟子たちは、私がすでに上で修法をしていると思い込み、大門を開けずに私が直接中に入ればよいと考えていました。私は儀軌に非常に厳格で、なぜ法会の前に仏寺の大門を開けなければならないのかと言いますと、諸仏菩薩をお迎えするためです。しかし私の弟子たちは、私だけが入れば十分だと思っていました。

本日、一部の信徒の方々がさまざまな理由により参加いただけなかったのは、ただ単にそのご縁と決心が足りなかったからです。失礼ながら申し上げますと、その方々にはまだその福報が備わっていません。現在、台湾において密教を修することができ、一千人を超える道場はほとんど存在しません。誇張して申し上げるならば、望んでもそのための場所がない、仮に場所があってもそのような上師がおられないのが現状です。今から修法を始めますので、どうか皆さん心を落ち着けてお座りください。

リンポチェ猊下は修法を開始なさいました。

修法の最中、大地が激しく揺れ動き、現場には妙なる香りが漂い、多くの方が熱を感じ汗をかかれました。温かな流れが全身を巡り、リンポチェと壇城からは眩い金色の光が放たれておりました。

修法がしばらく進んだ後、リンポチェ猊下は参列者の皆さんに長寿仏法本の読誦を導かれ、また法本に記された長寿仏の真言をできる限り多く、最低でも千遍唱えるようにご指示なさいました。リンポチェ猊下は直ちに皆さんとともに長寿仏の真言を唱和されました。

持呪の初めに、リンポチェ猊下は侍者に長寿仏の寶瓶および長寿仏のトルマをリンポチェ猊下の法卓にお供えするようご指示されました。一定時間持呪をされた後、再び侍者にそれらを法王の法卓へお移しになるよう指示なさいました。その瞬間、法王の法照は熾烈に明るく輝きました。持呪がほぼ満了に近づいた際には、再び長寿仏の寶瓶およびトルマをリンポチェ猊下の法卓にお戻しいただき、リンポチェ猊下は直ちにこれらを端持ち、ご自身の身・口・意を加持されました。最後にリンポチェ猊下は長寿仏のとトルマを高く掲げ、慈悲深く参列の皆さんにご加持を授けられました。その時、参列の方々は明らかに全身に熱を感じ、汗をかき、また奇妙な香りを嗅ぎ取ることができました。

続いて曼荼羅献供の儀軌が執り行われました。リンポチェ猊下はガムポパの法帽をお被りになり、出家弟子たちと八供女が代表して衆生の身代わりとして尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ猊下に曼荼羅供養を捧げられました。

リンポチェ猊下は開示を賜りました:

もともとこの法本にはさらに一節ありますが、本日は修法しません。その理由は、私たちの身体の寿命は血肉・気・神識・身体の熱が集中して生じるもので、今生や過去生に多くの悪業を行ったため、悪業とは必ずしも人を殺すことだけではなく、肉を食べること、人を騙すこと、他人の噂話をすること、怒りっぽいこと、怒りのために家の家具を壊すことなどが含まれ、これらはすべて寿命を損ないます。寿命は散じ(散り)、破れ、曲がり(寿命が突然良くなったり悪くなったりし)、揺れ(割れたり壊れたりし)、悪魔に盗まれることなどです。悪魔はどのようにして寿命を盗むのかと言いますと、毎日鬼神や祖先に助けを求めることにより、寿命が悪魔に盗まれてしまうのです。

もう一つの例は肉やネギ・ニンニクを好んで食べる人です。仏経には、ネギやニンニクを好む者は夜寝るときに、鬼がその口元に来て吐く息を吸うと記されています。息にはネギやニンニクの臭いが含まれているため、鬼がその気を吸い取る、つまり寿命を奪うのです。西洋人は「鬼はニンニクを怖がる」と言いますが、それは誤りで、私たちは正統な漢民族であり、漢民族の鬼は、西洋人の鬼も含め、ニンニクを怖がりません。鬼が怖れるものとは何かと言いますと、慈悲心と福報です。怖れるとは尊敬し畏れることであり、そうすることで鬼は害を及ぼさなくなるのです。

なぜ本日はこの部分を修法しないのかと申しますと、多くの方がまだ肉食を続けているためです。もし皆さんの寿命を延ばしてしまえば、より多くの肉を食べることになり、それによってさらに多くの衆生を害してしまうことになるからです。皆さんが将来、私の前でこの一生は肉を食べないと誓い、あるいは仏門に帰依する決意を示されたならば、私はこの修法を執り行う所存です。今年で私は七十八歳になりますが、筋肉は衰えず、いわゆる筋萎縮症もなく、血気も衰えておらず、二十代や三十代と変わらぬ状態です。これもこの修法のお陰です。羨ましく思われるでしょう。しかしながら、皆さんが菜食をしない限り、私はお助けしかねます。私は非常に現実的ですし、これこそが仏の教えであり、衆生を害することを助けることはできないのです。「殺すのは自分ではなく他の人間だ」と。しかし、あなたが食べなければ、誰かが殺す必要がありますか。あなたが食べなければ、誰かが飼育するでしょうか。

私には一人の弟子が幼い頃、祖母が鶏を殺して食べさせて、その弟子が鶏の脚を掴んで祖母に差し出していました。その後に交通事故に遭い、脚を負傷しましたが骨は折れませんでした。この因果は非常に恐ろしいものです。因果を信じないことなかれ。あなたがこの一生で傷つけてきたものは、必ず身体に何らかの形で現れるのです。私はあまりにも慈悲深く、皆さんが寿命を持って衆生をさらに傷つけることを望んでいません。だからこそ、この修法は行いません。また、法本にも明確に記されているように、修することも修さないことも可能で、これは皆さんの選択ではなく、私の選択です。

本日、多くの信徒様がお念珠を持参されていませんでした。もちろん、まだ帰依されていない方にとっては念珠は必ずしも必要なものではありますが、本日の法会において何が行われるのか、前もって聞いても良いでしょう。果たして単なる拝礼のためではなく、当方は拝礼の場ではなく、皆さんのために法を修法させていただいています。先ほど寶瓶とトルマをもって皆さんに加持しましたが、これは皆さんへの利益です。先ほど私が寶瓶とトルマを高く掲げました際、皆さんは体が熱く感じられたのではありませんか。(参列者の声:はい)これはただの一個の銅製の寶瓶とトルマに過ぎませんが、なぜ熱を感じるのでしょうか。これは私が皆さんに加持を施したからです。しかしながら、もし皆さんが仏道を学ぶ決意を固められないのであれば、私がいかに与えしたくとも叶いません。それは慈悲心の欠如ではなく、与えられないのです。従いまして、本日この部分の修法は進めることができません。申し訳ないです。皆さんがまだ生きとし生けるものの肉を口にされているゆえ、私はその加持をお届けすることが叶わないのです。

リンポチェ猊下は引き続き修法を執り行われ、薈供儀軌を進められた後、大衆に短曼荼羅供養を念誦するようご指示なさいました。また、寿酒および寿桃に息を吹きかけ加持を施されました。さらに、リンポチェ猊下は侍者に対して、出家衆および八供女へ供物を配るようご指示を出されましたが、その際侍者がご指示を十分に聞き取れていなかったため、リンポチェ猊下は適時、厳しくご指導をなさいました。

修法が円満に成就いたしました後、リンポチェ猊下はご出家の弟子にご指示をされ、大衆と共に尊勝なる直貢チェ・ツァン法王猊下の長寿祈請文、尊勝なるチョン・ツァン法王猊下の長寿祈請文、そして尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ猊下の長寿祈請文を念誦させられました。さらに、『求生極楽浄土祈請文』および『発菩提心』も皆さんと共に誦されました。

リンポチェ猊下はご出家の弟子たちに対し、如何に寿桃と寿酒を配布すべきかまた担当の方々に誘導の協力をご指導されました。そしてご開示なさりました。「後ほど皆さんに寿酒を渡しますが、実はそれはお酒ではなく果汁です。また青稞粉で作られた寿桃、出家の方々が入口にて渡します。寿桃と寿酒を召し上がることは、必ずや皆さんの寿命にお力添えとなることです。」

「直貢噶舉上師供養法儀軌」を修持なさいました

午後1時20分、寶吉祥仏寺の開山住持であらせられる尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ猊下は、経幡、出家僧、八供女、寶傘、楽器、薫香の先導と迎請を受け、花びらが散りばめられた八吉祥の白い絨毯の上を歩み壇城に至られました。諸仏菩薩に対し三拝の礼を捧げられたのち、法座にお上がりになりました。

リンポチェ猊下は開示を賜りました:

本日午後、私たちは上師供養法儀軌を修めます。顕教においてはこの法門は修されませんが、チベット仏教、特に密乘においては、上師供養法は極めて重要な法門であります。なぜなら、上師からの口伝や修行経験の教導なしには、密法においていかなる成就も得ることは不可能であるからです。顕教とは、釈迦牟尼仏が説かれた、明確でわかりやすい仏法の修行理論と方向を指しますが、この方法を理解し、どのように用いるかを知るには、必ず密乘を学ばねばなりません。

法本には、最も速やかに修行の福報を積む方法が上師への供養だと記されています。したがって、本日この法本を修するのは、ティクン.カギュ歴代の伝承上師並びにすべての法門の伝承上師、特に私の根本上師であるチェ・ツァン法王を供養するためです。『上師供養法儀軌』の法本の第一ページを開いてください。ここで私たちは「不共発心」と称します。仏法は小乗、大乗、金剛乗の三乗の修行方式に分かれますが、「不共」とは金剛乗にのみある発心のことです。いわゆる発心とは、多くの信衆が「彼はとても発心している」と言う意味とは異なり、正確には「菩提心を発すること」を指します。仏法に関わることを行っても、菩提心を発していなければ、それは単なる一つの行為に過ぎません。よって、第一段は「不共発心」と称され、小乗や阿羅漢道の発心は菩提心とは無関係です。皆さん、合掌のうえ、私に続いて唱えてください。

リンポチェ猊下ご自身が先導され、皆さんとともに「不共発心」を念誦されました。

信者の皆さん、最後の数句に少し注意ください。私たちが金剛乗を学ぶのは、仏果を証得するためです。ですので誓います。今日から、身・口・意の三門で善行を行います。三門とは身・口・意のことを指します。ここで言う善とは、単にお金を寄付したり、真言を唱えることではなく、釈迦牟尼仏が教えられたすべての仏法、生死の解脱へ導く仏法のことを指します。今から仏果を証得するまで、身・口・意の三門で善行を誓います。当然、この世の中での善行も必ず行わなければなりません。もし完璧にできなくとも、少しでも努力するならば、今からこの生涯が終わるまで、必ず身・口・意の三門で善行を行うことを誓ってください。

もしこれもできないとしても大丈夫です。今日この時から明日の同じ時刻まで、身・口・意の三門で善行を行うことを誓う。ですから、まだ菜食をされていない方は、今日から明日この時間までの24時間、肉を食べないでください。このお願いは決して過剰ではありません。仏様は非常に慈悲深く、多くの方が修行者ではないことを理解されているため、余地も配慮した上で、誓いを立てる機会を与えてくださっています。徐々に誓いを立てて習慣化すれば、少しずつ進歩し、最終的には仏果を証得するまでと続けられます。つまり、生生世世続けることとなるため、この生に限ることもなく、単なる口約束で済むことでもありません。ただ、最低でもまずは24時間実践してください。

皆さんが佛寺を離れてご自宅に戻るまでの間、どうか人を罵ったり呪ったりせず、他人の悪口や陰口を言わないようにしてください。テレビを見る際も、争いごとや悪い内容の番組は避けてください。もともと心が不安定なところにそういった番組を見ると、心が汚染されて行動に悪影響を及ぼします。また、スマートフォンを触るのも控えてください。中身を見ても、特に重要なことはないし、あるのは噂話だらけなのです。24時間の間は、心を静め、ご自身を振り返る時間にしてください。生まれてから今までの間に、仏法を学ぼうと決心したかどうかを見つめ直しましょう。これからもう二度、一緒に唱えてください。

発心の最初の2段落を見てください。私に怒りを向ける敵、私に危害を加える魔、生死からの解放を妨げる者たち。証果を得た遍智者とは仏果を得た者を意味します。虚空一切の有情は母の如く。虚空一切衆生は母のような存在で、彼らが安楽になり、あらゆる苦しみから解放されることを願う。このような誓いは、「これを私の冤親債主に廻向して。そうすれば彼らは私から離れ、阿弥陀仏によって済度されるであろう」といった一般的な誓いとは異なります。これらはすべて虚偽であり、仏や菩薩を欺くものです。あなたは良い人生を望んでいるからこそ、このようなことを言うのです。私たちの金剛乗の発心とは何でしょうか?私たちは、私たちを傷つける敵や悪魔たちが安楽になってほしくて、苦しみからの解放を願っていれば、これには口先だけでなく、修行が必要です。これは不共の発心です。次は不共の帰依となります。

リンポチェ猊下は皆さんとともに不共の皈依文をを唱和されました。

この皈依の第一文にある「具恩」とは、仏典にも記されているように「恩を忘れない人は非常に稀であり、多くの人は恩を忘れてしまう」という意味です。こうした人々は仏法において決して成就を得ることができません。根本とは、すなわち仏法を教え、伝え、どのように修行すべきかを示すことを指します。伝承に関しては、チベット仏教の帰依の上師は必ず詳細かつ明確に、自らがどこで誰から学んだか、その伝承の系譜を伝えます。決して突然現れて「私は閉関して修行して成就した」などと謂うことはなく、必ず明確に由来を説明します。

「聖」とは何を意味するのは、上師は必ず私たちに生死の解脱の方法を教えなければなりません。仏典には聖人と凡人の違いについて説かれています。聖人とは生死の輪廻から解脱した者であり、凡人はまだ解脱していない者を指します。つまり、六道の中にいる存在、例えば天界の神々、皆さまが知っているあらゆる神々、天の神であれ地の神であれ、彼らは聖人ではありません。なぜなら彼らもまだ輪廻の中にあるからです。ゆえに「聖上師」とは、自らが生死の輪廻から解脱する方法を確実に知っており、さらに皆さまにその解脱の道を教えることができる方のみが、その名にふさわしい上師であるという意味です。

上師には必ずその修行の本尊がおありであり、壇城も非常に重要です。なぜ私たちがまず上師に帰依するのかというと、末法の時代においては、衆生の福報が薄く、縁が浅いため、直接に仏や菩薩を見ることはできません。必ず上師を通じて仏法の教えを受ける必要があるからです。したがって、上師が最も重要であり、決して仏が重要でないということではありません。しかし、上師なしには仏法を学ぶことはできません。その後に共発心が続きます。

リンポチェ猊下は皆さんと共に法本を唱誦されました。

禅定灌頂とは何を意味するのは、多くの方は足を組んで座れば禅を学んでいると思いがちですが、釈迦牟尼仏の教えによれば、禅を学ぶ際には《金剛経》や《楞嚴経》、《楞伽経》などの経典に明確に示された心構えや留意すべき点があります。チベット仏教において禅坐を学ぶには、まず上師から灌頂と加持を受けることが必要です。禅坐はただ座って心を空にし、思考を止めるだけという考えは誤りです。禅の学びとは、複雑な人生観を簡素化し、自らが本来備えている清浄な本性を徐々に観じていくことです。上師の加持を受けずに自己流で行うことは非常に困難であり、《楞嚴経》に説かれるように、魔が精気を飛ばしてお口に入り込むようにして、禅の修行が原因で病気や精神異常に陥らせる危険もあるのです。

リンポチェ猊下は修法を続けられ、曼荼羅献供儀軌を執り行われました。リンポチェ猊下はガムポパ法帽を戴かれ、出家弟子および八供女が代表して衆生のために尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ猊下へ曼荼羅供養を献じました。

リンポチェ猊下は参会の皆さまと共に長時間にわたり上師供養法の心咒を誦持されました。その後、八供女は壇城に上がり、上師並びに諸仏菩薩に三拝礼を捧げた後、献唱を行いました。

続いて薈供、供茶、供飯の儀軌が執り行われ、参会者はリンポチェ猊下より加持された供物を受け取り、法会の中で上師や諸仏菩薩と共に食すという稀有で殊勝なご縁を得られました。リンポチェ猊下は信衆に対し、供物は少し召し上がり、残りはお持ち帰りいただくようとのご指示をされました。

続いて灯供の儀軌が執り行われ、リンポチェ猊下は衆生を代表して灯明を供えられました。供灯の際、リンポチェ猊下は一時、殊勝な忿怒相を顕現されました。

リンポチェ猊下は修法を続けられ、参会の皆さんは依然として明らかに体が熱くなり、汗をかき、体内に熱気が巡るのを感じられました。また、連続する地震動を体感し、濃厚な瑞香が漂うのを感じ取られました。

上師供養法の修法が円満に成就し、リンポチェ猊下は参会の皆さんと共に回向文を唱和されました。

リンポチェ猊下は出家弟子に指示され、参会者全員で尊勝なる直貢チェ・ツァン法王猊下の長寿祈請文、尊勝なる直貢チョン・ツァン法王猊下の長寿祈請文、そして尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ長寿祈請文を唱誦させました。

続いて、リンポチェ猊下は引き続き皆と共に『求生極楽浄土祈請文』、『発菩提心』、および『願法興盛吉祥文』を唱誦されました。

リンポチェ猊下は弟子たちを導いて、アキ護法儀軌を修持された後、次のように開示されました。

現在修持するのは我々直貢噶舉の不共の護法、アキです。不共とは他の教派とは共に修持しない護法のことを指します。アキは直貢噶舉の祖師ジッテン・サムゴンの祖母であり、在家の方でありながら直貢噶舉において非常に重要な護法です。この法本はアキの誓願であり、一切直貢噶舉に帰依する弟子で、心を発して修行する者には護法が修行の障害を減らし、場合によっては障害が現れないように護持し、速やかに成就を得られるよう助けてくださいます。この法本は教派内で「寂静」と称され、笑顔をたたえた姿で現れます。次に私は別のアキの法本を修持しますが、こちらは「武のアキ」と呼ばれ、比較的忿怒の相を持っています。

通常、寂静のアキは一般の弟子に伝授されるものであり、信徒には伝授されません。伝授されるのは皈依した弟子のみです。次に私が修持するこの「武のアキ」の法本は、一般的には弟子であっても伝授されることはほとんどありません。寂静の法本は主に皈依弟子の修行を助けるものであり、一方で忿怒の尊である「武のアキ」は、住持が仏法の事業において多くの課題を解決するための助けとなるものです。

例えば昨日、私が密殿にて修法を行い、最後に「武のアキ」を修持した際、アキに祈願しました。「どうか本日大雨が降りませんように、私の弟子や信徒が無事に法会に参列できますように」と。(現場の参加者から熱烈な拍手とリンポチェへの感謝の声)拍手は不要で、それは私の功績ではなく、アキが弟子や信徒の皆さんが安全かつ円滑に法会に参列し、無事に帰宅できるようにしてくださったのです。(参加者より再び熱烈な拍手とリンポチェ猊下への感謝の声)

昨夜の深夜、十一時過ぎ頃、この地域は激しい雷雨に見舞われました。雨は非常に激しく降りましたが、朝になるとすっかり止みました。ですから、皆さんが来られた時は雨は降っていなかったのですか?(大衆一斉に「はい」と応答)住持が心を動かし、教派や仏法のために祈願すると、その願いは必ず応じられます。だからこそ、今日皆さんがこの法会に参加できたのは、「来たい」という単純な願望だけではなく、単に「申し込めば来れる」というものでもありません。今日、何人かは何の理由もなく来られなかったのです。皆さんが来られたのは、非常に複雑で絡み合った因縁によるものであり、それは過去世の行いと今生の因縁、そして今回の皆さんの決意によるものです。決意がなければ、到底この場に来ることはできません。金剛乗は、皆さんがただ仏寺で線香を焚き、灯を供えるのとは違い、本当に仏法によって皆さんが何かを成し遂げられることを助ける力があるのです。

本日は非常に殊勝な一日で、私自身にとっても、また私たち修行者にとっても、上師が閉関されることは非常に尊いことであります。なぜなら、上師は教派のために閉関されており、私たちも常に絶え間なく閉関を重ねています。ですから、皆さんがこの法会にご参加いただけることは、仏法の修行における福報を速やかに積む大変ありがたい機会です。ただし、法会に参加したからといって悪いことが起こらないという誤解はなさらぬようお願いします。これとは全く関係ないことです。仏法を学び修行する者にとって最も大切なのは福報の有無であり、もし今日の福報がなければ、皆さんはここに来ることは叶いませんでした。また、もしアキ護法が私たちをお守りくださらなければ、昨日のあの恐ろしい雨の中で皆さんが無事に来られることもなかったでしょう。皆さんが本日無事にここにお集まりいただけたことは、仏法を学ぶ準備ができている証しではありますが、まだ決意が足りていません。ですから護法は皆さんにもう一度機会をお与えくださっているのです。

人生は一瞬で過ぎ去ります。多くの方は自分が忙しく、まだ多くのことを片付けていない、家庭があるなどと言われますが、それを出家者に言うのは通用しても、私には通用しません。私は在家の身で、離婚前は家庭も事業もありました。なぜ私にできて、皆さんにできないのでしょうか?それは決心がないからです。決心こそが何よりも重要です。皆さんには「まず腹を満たしてから仏様を顧みる」という言葉がありますが、これは絶対に間違っています。仏様は皆さんに世話をしてもらう必要はまったくありません。全く必要ないのです。供養しても仏様は食べたりしません。ではなぜ供養するのか?それは皆さんからの供養に対し、仏菩薩が借りたままのことにせず、それを皆さんに返すからです。皆さんが仏様に一を与えれば、仏様は十を返してくださいます。それは財産を得るためではなく、この一生を順調に仏法を学び、輪廻から解脱し、三悪道に堕ちないようにするためなのです。

どうか皆さん、ご自身が三悪道に堕ちる可能性を信じてください。それは非常に容易なことです。私を信じてください。私は済度の専門家であり、1997年から現在に至るまで、多くの衆生を済度してきました。そのため、事の真実を非常によく見ています。だからこそ、今日ここに皆さんがご縁を得て集まったことは非常に有り難いことです。特に私は78歳の老人でありながら、ずっと皆さんに仏道を学ぶ機会を決して諦めないように勧めています。時は一瞬で過ぎ去り、気を抜けばすぐに逃げてしまいます。仏法を学ぶことほど重要なことはありません。皆さんの諸事情がどんなに重要でも、私の事情もまた重要です。皆さんの経験された悲惨なことは私も全て経験してきました。どうか私と比べないでください。皆さんが話せることは、私が交通事故に遭って死ななかった以外は、ほぼ全て私も経験してきました。皆さんがそこまで酷い状況に至っていないことでしょう。だから、どうか自分自身に言い訳をせず、仏法を学ぶことから逃げないでください。

私は今、再び武のアキの法を修めます。アキが引き続き皆さんをお護りくださり、皆さんが未来に仏法を学ぶ機会を得られますよう願っています。

(リンポチェ猊下は武のアキ護法の法を修持されている)

法の修行におきまして、私は速やかに行ずることで知られているゆえ、皆さんにはお早めに帰られます。(参加者より再びリンポチェ猊下への感謝の声。)信者の皆さんが供物を最も愛する方、最も好まれる方、あるいは最も好まれない方へ与えても結構ですが。どうか、お好きな方のみにお渡しになることなく、少しでも優しくしてくれるかもしれないから、あまり好まれない方にもお分けしましょうか。なぜならば、供物は他所の供物とは異なり、真言をもって加持されているものです。さらに、この供物は、本日、御本尊、諸菩薩、上師、そして伝承の御加護のもと、共に享受させていただいた薈供です。そのため、加持と福報が宿っています。ただし、この供物をいただいたからといって、すべての問題が解決されるという迷信に陥ることなく、そうした意味ではありません。むしろ、これにより、悪業が一時的に止まり、善なる根器と善業が築かれ、仏陀の教え、仏法に対する信心が徐々に芽生えてまいりますよう、願っています。

我々は「アキ」を智慧に満ちた護法尊と称しています。なぜならば、アキ尊はすでに十地以上の境地に到達された大菩薩であり、世間一般の護法尊とは修行の果位が大きく異なっています。私も数十年にわたり修行を重ねてまいりましたが、その経験から明確に申し上げられることは、仏法において一定の果位に至った者が、宗派や仏法の事業において助けを必要とする時、アキ尊は必ず御加護を賜ります。本日はその最も顕著な例です。すべての気象予報において豪雨が予告されていましたが、現在は晴天です。これもアキ尊の御加護によるものであると深く感じています。もっとも、法会が終了後の天候は、私の責任の範疇ではありませんので、何卒ご容赦ください。(会場一同、笑)それでは、皆さん、さようなら。(会場より盛大な拍手が響き渡り、リンポチェ猊下に深く感謝申し上げます。)

リンポチェ猊下は法座を降りられる際、直貢チェ・ツァン法王猊下の御法照の御前に進まれ、額を法座の頂に触れて頂礼を捧げられた後、壇城を静かに降りられました。弟子が上師に対して抱く深い感恩の念は、誠に感動的であり、会場の心を深く打つものでございました。

法会が執り行われました仏寺の所在する苗栗地域におきましては、当日の降雨確率が九十パーセントと予報されておりました。しかしながら、リンポチェ猊下が護法尊に祈願を捧げ、御加持を賜りましたことにより、法会当日は一日中晴天に恵まれ、法会が円満に終了するまで、雨は一切降りませんでした。夜に入ってから、雷を伴う激しい雨が降り始めたのでございます。


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2025 年 08 月 10 日 更新