尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2025年7月13日
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法座にお着きになり、『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十一「禅定波羅蜜多品 第十一」を御開示くださいました。
リンポチェが法座にお着きになった後、すぐに長きにわたり六字大明呪をお唱えになり、その慈悲に満ちた法音は深く遠くまで響きわたり、まるで天の鼓が自然に鳴り響くかの如く、虚空を震わせ、十方世界に満ち溢れました。その場にいた会衆は大地が震えるような感覚を覚え、リンポチェの修行における功徳とエネルギーが、諸仏菩薩と感応していることが明らかとなりました。また、会衆一同の身は熱くなり、煩悩が静まり、一瞬にして清らかな本性が現れ、リンポチェの卓越した仏法の教えに深く摂受されました。
経典曰く「於懈怠者而常勤策。為散亂者現禪定分。為惡慧者示正慧眼。為邪道者開悟正道。」
この御文の意味は、天眼が開かれるのは何かをただ見るためではなく、主に菩薩が衆生の修行の障害や困難を見て、それらを乗り越えられるように様々な方法で助けるためでございます。「於懈怠者而常勤策」(怠け者には常に励ます)とは、たとえば法を伝えたのに皆様が怠けている場合、菩薩はそれを見て必ず叱咤し励ますということでございます。「策(さく)」とは鞭を使って叱咤激励する意味でございます。今のところ私はまだ本当に鞭を使っておりませんが。
「為散亂者現禪定分」(散乱する者には禅定の境地を示す)。散乱とは、心が集中できず、多くの妄念や思考にとらわれている状態を指します。「現禪定分」(禅定の境地を示す)とは、皆様に座禅や禅定をただ行いなさいと仰るのではなく、仏法の様々な法門を通じて、散乱した心を集中させるように導くという意味でございます。つまり、あたかも禅を学び、定に入っているかのような心の集中した状態を現わすということでございます。
多くの方は、禅定とはずっと足を組んでじっと座っていることだと誤解されておりますが、それは禅定の一つの方法に過ぎません。真の禅定とは、24時間のうち、定めたい時だけいつでも心を定めることができ、いかなる人や事、物によっても心が乱されることなく、常に仏法に集中し、仏法を学び続けることでございます。もし心がよく散乱する場合には、上師は叱咤したり、追い出したり、さまざまな方法を用いて、皆様の散乱した心を消し去り、心を集中させて物事を考えられるように導かれるのです。
「為惡慧者示正慧眼」(悪慧者に正慧眼を示す)とは、「悪慧」とは自分はすでに修行を成し遂げ、分かった、知恵を得たと考えることを指します。しかし、このような方の「悪」が、その智慧は、衆生を助けるためや生死解脱のために使われるのではなく、自分自身の利益のために用いられている所にございます。菩薩はそのような「悪慧」を見るとき、「正慧眼」を示します。この「眼」とは肉眼や物理的な目のことではなく、何が正しく智慧へと進む道であるかを示す「眼」を意味しております。
「為邪道者開悟正道」(邪道者に正道を開悟せしむ)とは、たとえ仏道を学ぶ者であっても、時に誤った道に迷い込むことがあります。そのため、菩薩はその者に対して仏道を学ぶ正しい道を悟られるようと導かれるように教え示されるのです。
経典曰く「劣勝解者導以最上佛之知見。」
「劣勝解者導以最上佛之知見。」ここでの「劣」とは、劣る意味でございます。自己の修行の力によっては、殊勝な見解、仏が説かれた仏法に対するすべての見解を十分に理解し得ない者を指します。そのような者に対して、菩薩は「導以最上佛之知見」最上の仏の知見をもって導かれます。「導」とは、単に仏法を繰り返し説くことではなく、その者が理解しやすい言葉や方法を用い、仏の「知見」を伝えることを意味します。殊勝な見解は、凡夫の私たちにはなかなか理解しきれないものだからです。
経典曰く「又彼天眼。於一切智智最上神通。」
天眼は「一切智智」であり、つまり智慧以上の智慧を指します。「最上神通」とは、最上の神通と称されているのでございます。
経典曰く「於菩提道專注一境決定現前」
すなわち、仏の道を歩む上で、「專注一境」ただ一つの境地――すなわち成仏の境界――に心を集中させていることを意味いたします。その方の一生は、世俗の事柄のためではなく、すべて修行に専念するものでございます。「決定現前」このようにすれば、その結果として、この一生のうちに、眼通が必ず開かれることが確定的に現れるのでございます。
経典曰く「舍利子。此名菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)而能圓滿彼天眼通及智事業。」
「智事業」すなわち、天眼が開かれる目的は、自身や家族の未来を知るためではなく、もし天眼の助けがなければ、智慧の事業が円満に完成しないことを理解しているがゆえに、天眼通が必要なのでございます。たとえば、私たちが仏寺を建立する過程で、先日会議の折に、ビオトープが長らく水漏れを起こしていると報告されました。担当の建設会社は、何度調べても原因が分からなかったのです。その場にて私は、漏れている箇所を明確に見て取り、具体的な位置までも魏という弟子に伝え、工事現場の方に伝えるよう依頼いたしました。ところが、現場の方々はすぐには信じず、こう言いました――「仁波切が金口を開かれた」と。これはどういう意味かと申しますと、「本当に当たるかどうか見ものだ」というような含意で、不正確であれば“金口”ではなく“石の口”になってしまう、という冗談混じりの言葉でございました。(会衆笑)幸いにも、私の指摘は非常に正確で、まさにその箇所が漏水の原因であったため、今では水漏れも完全に止まっております。
この一節は、天眼とは決して自分自身のためのものではないということを、明確に示しております。多くの方々が、自らのことを見たいという欲望から天眼を開こうと願われますが、それは必ず禍(わざわ)いを招く結果となります。この経典の中で語られている天眼に関するすべての記述は、衆生を済度(さいど)するためにあるものであり、菩薩が天眼を開いたことによって、いつ自らが悟りを開き、いつ成就を得るのかといったことに関しては、一言も触れられておりません。すべては、修行の実践、衆生の修行を助け導くことに尽きているのでございます。
ゆえに、「天眼」という語は単なる名称であり、実際には肉眼のような眼ではございません。修行を積んだからといって、眼がひとつ増えるということでは決してないのです。仏像の額に一つの眼が描かれているのをご覧になったことがあるかと存じますが、それは「この仏尊には天眼・仏眼・智慧眼が具わっている」ということを象徴的に示しており、実際に眼が生えてきたわけではございません。神話の中に登場する二郎神が三つの眼を持っていると語られることがありますが、同様に、仏像や金剛部、あるいは護法尊などが三つの眼を持っているとされるのも、天眼通が備わっていることの象徴なのでございます。その天眼通には智慧が含まれており、菩薩が菩薩道を実践される際、衆生を救済するためのツールとして働きます。すなわち、衆生が抱える問題の所在を見抜く力でございます。たとえば、誰かが怠惰であったとして、菩薩がその事実を知らなければ、助けることも導くこともできません。ですから、菩薩はその天眼によって、それを看破なさるのでございます。
天眼をもって見るということは、目を閉じて頭を振りながら「あなたはこうだ、ああだ」と言うことでは決してございません。それはすべて誤りでございます。天眼とは、修行においてどこに問題があるかを極めて明確に見極め、その解決のためにどのような修行法を行うべきかを、直接的に伝えるものでございます。天眼が開かれるということは、皆様が思われているほど特別なことではございません。天眼が開かれるのは、衆生を利益する際に、助けとなる一つのツールに過ぎないのでございます。もし、生死からの解脱を本気で目指しておられないのであれば、そのような天眼とされるものは、実際には鬼眼、あるいは自分の幻想にすぎず、正しいものとは申せません。たとえ、偶然に何かが見えたり、非常に正確なことを語られたりすることがありましても、それはあくまで偶然の産物であり、永続するものではございません。
先ほど漏水の件について申し上げましたが、私はそのビオトープがどのように施工されたのか詳細には存じ上げません。ただ、彼らの報告を拝聴しただけで、どこに問題があるのか、どこに亀裂があるのかをはっきりと指摘することができました。このようなことが起こるのは、いくつかの理由がございます。第一に、仏寺が一日も早く完成するのを願うことです。完成しない限り、衆生からの出費は続けられるからです。第二に、施工に携わってくださっている方々が非常にご苦労なさっており、亀裂の原因を見つけようと何度も調査を重ねるたびに費用もかさんでしまいます。それでも誠心誠意取り組まれているその姿が、菩薩のお心を動かし、天眼をもって、彼らに方便をお与えになりました。そして、「ここに亀裂があります」との示しがあり、その導きにより、修復を無事に終えることができたのでございます。
修復が完了したからといって、リンポチェである私が偉大であるということにはなりません。私はまったく偉くはございません。もしこの出来事がなければ、私の天眼が開くこともなく、その現象を見ることもなかったでしょう。会議の際、皆様が報告なさったその瞬間、私は衆生への深い哀れみの心から、突然天眼が働いたのでございます。もしその時、衆生を憐れむ心がなく、ただの好奇心や傲慢な心、「自分は他の者よりも優れている」というような考えがあったならば、その天眼の現れは自らを害するものでしかございません。たとえ一度や二度、何かを見通すことができたとしても、それが徐々に妄想となり、「こうだろう、ああだろう」と勝手な思い込みが膨らみ、次第に魔に取り憑かれるのではなく、正気を失って狂ってしまうことさえあるのです。
多くの出家者が禅を学び続けるうちに、最終的に精神に異常をきたすのはこのような理由からでございます。彼らは、禅定に入れば必ず何かを感じたり、感応を得たり、何かを「見る」ことができると強く信じております。そのため、次第に心の状態や神経に支障をきたし、ついには錯乱状態に陥ってしまうのです。このような病は医学では治療が困難であり、ただ法会に継続して参加するしか方法がございません。この状態を「禅病(ぜんびょう)」と申します。
いわゆる「禅病(ぜんびょう)」はどのようにして起こるのでしょうか。『楞厳経(りょうごんきょう)』には、その原因がはっきりと説かれております。すなわち、禅修行の際に、貪り・怒り・傲慢といった不浄なる心を起こすと、その隙をついて魔が「飛精入口」し、つまり魔の精気を飛ばし、お口から入り込み、心を汚染すると言われております。例えば、喜金剛の祈祷文には「發瘋鬼衆」(狂わせる鬼衆)という存在が説かれており、それらの鬼は人の精神を狂わせることを専門とする存在でございます。このような障りは、現代医学では根本的な治療が難しく、仮に一時的に快方に向かったとしても、完全には治癒しがたいものでございます。
私たちは仏道を学ぶことで必ず守られることができますが、問題は自分自身が正しく戒律を守っているか、あるいは戒律を破っていないかにあります。先ほど私が大きな声で叱ったのは、彼らが私のスタッフをいじめたからです。皆、自分が仏道を学んでいることで他の人より優れていると思い込み、仏寺や道場のために働いているからといって、命令権を持っているかのように振る舞い、他の人全てに従わせようとします。
これは非常に良くないことです。なぜ良くないのかと言いますと、衆生のために働くことは良いことですが、権勢を振りかざして人をいじめることは良くないからです。私は法座で『宝積経』の教えを説きました:権勢を振りかざして人をいじめることは地獄の因を種まくことだと。私の会社の従業員は給料をもらい、忠実に職務を果たし、できる限り協会のために節約しようとしています。しかし私の弟子たちは協会のために節約しようとせず、「みんなこうすることに同意している」と言います。今日は金額が大きくなく、五万余りでしたが、もし五十数万だったら、この経験豊富な老人として、彼らの間に必ず利益が入っていると確信します。
だから私はさっき彼らを叱りました。彼らがそんなに偉いのなら、自分たちで五万余りを出せばいいのに、自分ではお金を出すのを惜しみながら、他人を圧迫するのをしていていいですか?(参加者の皆さんの答え:いけません。)本来、この社員はこの仕事をする必要はありませんでした。なぜならこれは私たちの会社の業務ではなく、協会や道場の仕事だからです。ただ、彼が私の社員なので手伝っただけです。ところが、いわゆる私の弟子たちが人をいじめてこう言いました。「私たちは全員、この会社から購入することに同意しています。」まったく状況をはっきり理解していません。
皆さんはよくこういうことを起こします。人をいじめておきながら、自分たちには非がないと考え、相手が事情をよく理解していないからだと思っています。ところが、私は親しい人よりも理を重んじます。私の社員が一生懸命探し、より安いのを見つかったところ、彼等はまた「人に圧迫されている」と感じて不満を言います。そして「みんなで同意している」と言い張るのです。「じゃあ、みんなで同意しているなら、あなたたちがお金を出しなさい。そうしてくれたら、私はそのことを知らなかったことにします」と私は言いました。お金を出すのを惜しみながら、威張って「私が言った通りにやれ」と人に命令するし、あなたたちは給料を出すならいいが出さないし。そんなことをして、私を困らせるのですか?どれだけ仏教経典を説いても無駄です。あなたたちの一つの行動で、全てが台無しになります。悪いことをしているのに、自分では気づかず、言い訳ばかりしているのです。
先ほど、私は翻訳チーム全員を解散いたしました。洪という苗字の弟子はアメリカで留学して帰ってきたので、英語は上手だと思っていました。また、アメリカから戻ってきた別の方がいて、彼らの翻訳が正しいかどうかをチェックする役割を担っていました。そして、もう一人、誰かは存じ上げません。どうして彼らの翻訳が間違っていると分かったかと言いますと、私の寺院で新しいウェブサイトを立ち上げた際、管理者である朱という苗字の弟子が見せてくれました。私が見てすぐに「なぜ寺院の名前が ‘Gloje temple’ なのですか? ‘Temple’ とは神廟の意味です。我々は神廟ですか?」と尋ねました。(皆様の答え:違います。)それなのに ‘Temple’ という表現が何年も使われていて、誰も直そうとしませんでした。
私は彼らの英語力が限られていることを知っていました。 “Temple” と “Monastery” は全く違う言葉です。彼らは英語の背景や歴史を理解しておらず、皆が “Temple” と呼ぶからといって安易に使っていました。皆様にお尋ねしますが、仏様を拝む場所を「神廟」と呼びますか?(参加者の答え:いいえ。)では、何と呼びますか?(参加者の答え:仏寺。)なぜ英語に翻訳すると「神廟」になるのでしょうか?このことから、この数人の翻訳者は仏菩薩やリンポチェを尊重していないことがわかります。もし尊重していれば、この言葉をきちんと確認したはずです。私は高校卒業しかしていませんが、なぜ彼らの誤用に気づいたのかと言いますと、私は非常に気にしているからです。何を気にしているのか?ここは仏寺だからです!私は30代で仏法を学び始めて以来、仏寺は “Monastery” という言葉を使うと知っており、一度も “Temple” を使ったことはありません。学問のある者が、なぜ “Temple” という言葉を使うのでしょうか。
私は翻訳の問題を見つけ始めました。翻訳自体は正しかったのに、修正を担当している弟子がそれを勝手に変えてしまいました。私が話していない内容を、まるで私が言ったかのように改変してしまったのです。例えば、ある部分で私は仏経の教えを説き、「今日の困窮は、過去に布施や供養をしなかったからである」と言いました。正確に翻訳すればよいのに、修正を担当した弟子は「私は過去に貧しかった。なぜなら前世で布施や供養をしなかったからだ」と訳してしまいました。私はそんなことを言いましたか?いいえ、言っていません。私が「私はかつて貧しかった」と言ったからといって、自然にそれを書き加えたのでしょうか?翻訳とは何でしょうか?話し手が言ったことを一字一句、正確に訳すべきです。
それから、もう一つ適当に例を挙げますが、仏経には天人の形相は金色であると明確に書かれているのに、翻訳者はその通りに訳しました。しかし、修正を担当した弟子は無理やり変更しました。私はどの言葉を変えたのかさえ覚えていません。(リンポチェが翻訳担当の弟子に尋ねる)「翻訳ではどの単語を使ったのか?」(弟子の答え)「最初は『Their look is golden.』と訳しました。」(リンポチェ)「それをどう変えたのか?」(弟子の答え)「『Its form is in golden color.』に変えました。」
仏経で使われている「形」という言葉はどういう意味でしょうか?それは、私たちがその姿を見たということです。前の部分で「天で私たちはその形の色を見た」と言っています。形や姿を話す時は、まず見ることが必要です。(参加者答え:はい。)私たちは「その形が金色である」とは言いません。そんな言い方をしますか?(参加者答え:いいえ。)そんな言い方はしませんよね。だから、翻訳は『Their look is golden.』と訳しました。天人は金色に見える、という意味です。ところが、修正した人は自分の考えで『form』を使いました。『form』には「形」という意味もありますが、「形成する、作る」という意味もあります。例えば「I form…」「Formation(形成)」もこの言葉から来ています。なぜ彼女は変えたのでしょうか?自分の中国語が優れていると思っているからです。しかし、仏経の中国語は古文であって、現代語ではありません。
自分は文字がわかっていると思っている人たちは、みんなデタラメを言っています。だから今、翻訳チームを解散しました。もう必要ありません。なぜなら彼ら一人ひとりが私に害を与えているからです。Templeという単語を何年も使い続けているのに、私は全く気づきませんでした。彼らは翻訳チームのメンバー全員のレベルが非常に高いと言っていました。アメリカで卒業した者や、アメリカに長年住んでいる者もいて、英語が非常に上手で、他人の文章を修正する資格があると。でも、翻訳者が正しい言葉を使っているのに、いつあなたが修正する番なのでしょうか?あなたは年を取っているからですか?若い人を見下しているのですか?だから、こう言うしかありません。みんな仏法を学んでいません。私は私の言うことを言い、あなたはあなたの聞くことを聞き、あなたはあなたのやり方をして、何かあった時、仏法をすべて忘れてしまうのです。
彼女は実際に電話でも連絡して、「なぜこの言葉を使ったのか」と聞くことができたはずです。人に教えるのなら、なぜ連絡を取らなかったのですか?無理に直すなんて、それは彼女が傲慢で、自分が正しいと思っているからです。あなたは翻訳を教える教授ですか?教授でも、他人の文章を直すときは、相手と相談しなければなりませんよね?(リンポチェが李という苗字の教授の弟子に質問。弟子は「はい」と答える。)あなたは何様ですか?私はあなたに彼らの文章を直すように指示していません。(リンポチェが洪という苗字の弟子に指摘)なぜあなたは彼女に文章を直すように命じたのですか?私の許可を得ましたか?(弟子の答え:「はい、リンポチェ、許可は得ていません。」)今私はここを降りて、あなたが上がってリンポチェをやってください。彼女のレベルが良いかどうか、どうしてあなたが分かるのですか?
皆さん、それぞれ仏寺や道場のために働いているつもりでも、自分がボスだと思い込み、好き勝手にやっているだけです。他のことは言いませんが、20人以上の若者が書いた文章をあなたが何度も何度も直して、その結果、私はあなたがそんなに凄くはないことがわかりました。お願いですから、仏道を学ぶのはやめてくださいませんか?今日私が話した菩薩道の修行について、あなたたち二人は全くできていません。一人はアメリカに住んでいる人にお任せと責任を押し付けて、もう一人は自分が先生や教授だと思い込み、誰の文章でも勝手に直しています。それからもう一人、名前は何でしたっけ?翻訳を任せる人を勝手に決めている。あの人は誰ですか?(洪という苗字の弟子の答え:「リンポチェ、荘という苗字の弟子です。」)彼女は気に入った数人ばかり呼んで、嫌いな人は呼ばない。めちゃくちゃです!
法王様はかつてこうおっしゃいました。「弟子である皆さんはリンポチェを守らなければならない」と。リンポチェを守るというのは、私のために喧嘩をしたり、外部の問題を防いだりすることではなく、私の仕事の負担を減らすことです。しかし、結果としてまた私の仕事が増えてしまいました。洪という苗字の弟子は本当にひどいです。私が知らない人を勝手に連れてきて、どうして彼女の英語力が良いとわかるのですか?「アメリカに長年住んでいるから英語が上手だ」とでも思っているのですか?幸い、私は英語なら、少しわかります。スペイン語の翻訳は涂という苗字の弟子に見てもらっていますが、ロシア語の翻訳は私にはどうしようもできません。あなたは何一つまともにできていません。
経典曰く「復次舍利子。云何名菩薩摩訶薩得天耳通及能圓満最上正行神通智業。」
復次舍利子。菩薩摩訶薩得天耳通とは何でしょうかと問います。この言葉に注意すること。菩薩摩訶薩とは法身菩薩のことであり、得天耳通及能圓満最上正行神通智業(天耳通を得て、最上の正行神通智業を円満に成就する)。なぜなら、天耳通を得た後は、圓満最上正行神通智業を得ることからです。その神通を自己の利益や特定の対象の利益のために用いるのではなく、すべての神通を衆生のために、仏法の修行と学習、そして生死解脱を助けるために用いるからです。
経典曰く「舍利子。此菩薩摩訶薩天耳清淨出過於人。能聞十方無量世界人非人聲。」
この菩薩摩訶薩は、天耳清淨出過於人(天耳が、清浄であり、人間のものをはるかに超えている)。つまり、人間にはこのような天耳通を得ることはできないです。いわゆる天耳清浄とは、人間の耳が「聞所」と「聞能」という二つの要素に分かれていることを指し、「聞能」が音のシグナルを受け取り、それが「聞所」に送られく蓄えられて初めて音の識別が生じることです。しかし菩薩摩訶薩は「能」と「所」を介する必要がなく、天耳は清浄のため、ただ念頭が動くだけで、宇宙のあらゆる音声なら、すべて聞き取ることができます。ゆえに、清淨出過於人(人間の耳をはるかに超えている)です。もし誰かが自分の耳で何かの音を聞いたと言うならば、それは神経の異常か、あるいは霊の仕業であり、決して天耳通ではありません。なぜなら、菩薩摩訶薩の境地に至っていないからです。
もし耳に問題があるならば、それは腎臓か神経に問題がある可能性が高いです。自分がたくさんの音を聞いたり、耳の中で誰かが話しているのを聞いたりするとしたら、必ず体に何か異常がある証拠です。たとえ霊があなたに話しかけても、それは耳の中で伝えることでもなく、耳の中で聞こえるものでもありません。なぜなら、私自身その経験があるからです。以前、私は台中に行ったとき、一軒の家の大広間に座っていたら、老年の男性の霊が現れ、台湾語で話しかけてきました。私は台湾語がよくわかりませんでしたが、彼の話す古い台湾語を私は天耳を使って理解したのです。
多くの人は天耳通(てんにつう)を「世界中や宇宙のあらゆる人の話が聞こえる能力」と誤解していますが、実際は違います。天耳通の目的は何か?それは能聞十方無量世界人非人聲(十方無量の世界の人間や非人の声を聞くことができる)ことです。つまり、人間ではない存在たちの声を聞くことができるのです。特に、鬼道、畜生道、地獄道にいる人間ではない声です。ただし、天耳通で聞く声は、この人間・この非人が何を言っているかという言葉の内容を単純に識別するためではありません。むしろ、その声を通じて彼らが伝えようとしている意味を理解するために使われるのです。
天界も例外なく、六道のすべての衆生には、それぞれの言語があります。直貢噶舉派の歴史にも書き記されている祖師ジッテン・サムゴンの時代の出来事ですが、かつてある龍王が人の姿に化身して、直貢梯寺の大殿にて祖師ジッテン・サムゴンを訪ねて法を求めたことがありました。ジッテン・サムゴンはその龍王の正体を見抜き、「ある月のある日、ある時刻に来なさい。その時に法を伝えよう」と告げました。さらに、龍王には人の姿ではなく龍の姿で現れるように伝えました。弟子たちには、弟子たちが龍を見たら龍に害を与えるご配慮から、その日は弟子たちには外に出ないよう命じ、ジッテン・サムゴン一人だけが大殿にいることにしたのです。
直貢梯寺に行ったことがある方は皆、その大殿をご存知でしょう。龍はその日、側門から現れましたが、龍の体があまりにも大きいため、身体の一部は外に残っていました。その日、ある閉関中の弟子は外出禁止の通知を受けていませんでしたが、入定中に神通が現れ、大殿の門の外に龍がいるのを見ました。その弟子は龍が上師のジッテン・サムゴンに害を与えるのではないかと心配し、大鵬金翅鳥(ガルーダ/だいほうこんじちょう)に変身して飛び降りました。龍は何でも怖がりませんが、この大鵬金翅鳥だけは怖がるため、龍はその弟子を見て逃げ去りました。ジッテン・サムゴンはその弟子に「なぜそんなことをしたのか?」と尋ねました。弟子は「このことを知らなかった」と答えました。すると、ジッテン・サムゴンは、「知らなくても、龍を追い払うべきではなかった。龍は大殿の中にいて、私もここにいるのだから」と言いました。そのため、その弟子は罰として一冊の書物を書くことになりました。その書物にはすべての動物や鳥類が話す言葉が記録されていました。しかし、その書物はいまなぜか行方不明です。その弟子は動物たちのいかなる言葉が示す意味を理解していたのです。現在でもチベットには、外出時に鳥の鳴き声を聞くことで、その日の行いが順調かどうかを判断する修法が残っています。
ずっと昔、日本のある社員と話していたときのことです。彼は自分の家の犬の鳴き声を真似して私に聞かせました。私は「あなたの犬は、与えられている餌が硬すぎると言っているよ」と伝えました。すると彼は帰って犬の餌を変えたら、犬はちゃんと食べるようになりました。彼はただ犬の鳴き声を真似しただけでしたが、私はその意味がわかったのです。これは毎日起こることではなく、たまに起こるだけです。なぜなら、私はまだ大菩薩の境地に達していないので、すべての衆生の声を完璧に聞き分けることはできないからです。
経典曰く「所謂天聲。龍聲。夜叉聲。乾闥婆聲。阿脩羅聲。𮓃嚕拏聲。緊那羅聲。摩睺羅聲。人非人聲。聖人聲。聲聞聲。緣覺聲。菩薩聲。佛聲。是名諸菩薩摩訶薩天耳清淨。」
𮓃嚕拏(がるだ)聲という言葉が分からないから、調べてきてください。その天耳は、天龍八部それぞれの部の声を明確に識別することができます。菩薩、声聞や縁覚の声も聞き分けることができ、また仏や菩薩の声も聴き取ることができます。時に修行が非常に清浄で、入定の状態にある時には、経典を唱える声や真言を唱える声、時には歌声さえも聞こえることがあります。これらは天界の声、声聞や縁覚、菩薩が真言を唱える声であり、頻繁に現れるものではありません。皆様の心がまだ清浄でないために、決して自分はすでに天耳通を得ていると思わないでください。あくまでも稀に起こる現象です。密教を修する者は、生起円満次第を修する際、本尊(ほんぞん)と相応(そうおう)することがあります。ゆえに真言を唱える時、本尊もまた唱えておられ、深い定(じょう)に入った時には本尊の声が共に聞こえることがあります。これもまた稀なことです。例えば私が先ほど六字大明咒を唱えた際に、地震が激しく起こりました。皆様もそう感じられましたね。(参加者一同:はい。)
私たちが禅定や入定の際、非常に静かな状態にあるとき、空気の中に音が聞こえることがあります。皆様も経験されたことがあるでしょう。非常に静かで、まったく雑音のない環境の中で、「おーん」という響きが聞こえるのです。これは一体何の音でしょうか?これは腎虚(じんきょ)や耳の異常によるものではありません。この音は空気中の原子や分子、さらにはクォーク同士が摩擦することで生じる音なのです。この音は非常に微細なため、話し始めたり心が散乱したりすると聞こえなくなります。なぜならば、その音が他の音や思考にかき消されてしまうからです。この音は虚空(くうくう)に遍満しているのです。
例えば、私が誰かのために済度を行うとき、亡くなった方が私に何を伝えようとしているかがわかることがあります。これも天耳通(てんにつう)の一部です。これは他心通ではありません。なぜなら、亡者が非常に明確に私に話しかけてくるからです。例えば、亡者の靴が盗まれたことや、腕時計を誰かに取られたこと、子どもが孝行でないこと、あるいは財産に関することなどを、亡者が話すことがあります。もちろん、時には話さないこともあります。なぜなら、亡者それぞれの状況や過程が異なるからです。
これらのツールは何のために使うのでしょうか?好奇心から他人のことを探るためではなく、衆生を助けるためです。衆生が何を求めているかを知らなければ、その縁(えん)や業力(ごうりき)に応じて助けることができません。例えば、相手が何かを話せば、その内容に基づいて助けることができます。なぜ毎回、皆さんが私の前に跪くときに、私は必ず「何かご用ですか?」と尋ねるのか。それは、外では「あなたはリンポチェだから神通を持っていて、私たちのことを知っているはずだ」と言う人がいますが、私は絶対に知らないからです。あなたが話さなければ、私は知ることができません。必ず話してもらわなければ、その縁起は成立しないのです。
この一節からわかるように、すべての有情衆生は声を発し、音を持っています。ただし、その発し方は人間とは異なります。ですから、完全に無音の環境にいることは避けられません。たとえどこで閉関修行をしていても、時折音を聞くことがあるかもしれません。音を聞いたからといって、それが必ずしも霊の存在を意味するわけではありません。それが何を意味するかは必ずしも明確ではなく、たまに感覚が刺激されてそのような音を聞くことがある、というだけです。しかし、聞こえたとしても気にしすぎる必要はありません。聞こえなくても同じことです。なぜなら、あなたはまだ菩薩摩訶薩の境地に達していないからです。
簡単に言うと、どんな音が聞こえても、それが不運や幸運を意味するわけではありません。音は虚空に満ちていて、あらゆる世界に存在します。鬼には鬼の音があり、畜生には畜生の音があり、天界には天界の音があります。私たちは人間の耳しか持っていないため、聞き分けられる周波数の範囲は非常に狭く、高すぎる音や低すぎる音、また重すぎる音は聞こえません。ですから、耳を鍛えるのは単に禅定をするだけでは得られません。一番大事なのは本性が清らかで、本来持っているエネルギーを十分に発揮できたときに、自然と音が聞こえるようになるのです。
私の修行経験から言うと、天耳通は求めなくても自然に得られるもので、意識して求めたり、考えたり、わざわざ耳を傾けて誰かの言葉を聞こうとする必要は全くありません。噶舉派の偉大な成就者、ミラレパ尊者の聖像は他の仏像と違い、片手を耳のそばに当てています。これは、誰かが彼の名前を呼べば、どこにいても聞き届けて修行の助けを与えるという意味です。よく聞いてください、「修行」の助けです。形だけの敬意を示す必要なく、あなたが修行者でなければ、いくら敬意そうに行っても仕方がありません。将来、仏寺にはミラレパ尊者の石像が設置されます。それは、何年も前に法王が彫刻を依頼しましたが、設置場所が決まらず保管されていた石像です。最近、その石像を私のところに置くことになり、私も了承しました。なので、近い将来、私たちの仏寺にその石像が設置される予定です。
経典曰く「是名諸菩薩摩訶薩天耳清淨。又復得聞諸罪業聲。地獄聲。傍生声。焰摩羅界声。乃至微細辺際蝴蝶蜂蠆蚊蚋等声。及諸有情所発語業或攀縁心善不善等。一切了知。」
蠆はサソリの仲間の毒虫を指します。この一節は、天耳通が天龍八部、天界、仏菩薩、声聞、縁覚の声を聞き分けることができることを示しています。また、その下の部分は三悪道の声も聞くことができることを説いています。実際には、私たちに天耳通がなくても、少し心を静かにすれば、これらの声を聞くことができます。夜、寝ているときにも聞こえることがあります。地獄の声や傍生(畜生界)の声。特に地獄の声は悲惨で、非常に哀れな叫び声をあげています。
又復得聞諸罪業聲とは、彼らが話す言葉に罪業があるという意味ではなく、その呼喊や苦しみの声を通じて、彼らが多くの罪業を犯したことを知るということです。時には畜生が鳴き叫ぶのも、それが罪業の声です。多くの人は誤解して、この犬や猫が自分に向かって泣いていると思い込むが、それは違います。あれは罪業の声なのです。
或攀縁心善不善等。この人は専らとある縁に縋り付くために発せられた言葉、心が善或いは不善のことがあります。一切了知。すべてのことを彼は明晰に理解しています。
経典曰く「所發語業善不善根彼因及果。悉皆了知。」
発せられた言葉が善であるか不善であるか、すべてを完全に知っているということです。彼因及果は、その因と果のことです。例えば、さきほど私が叱ったその人たちのことも、その人に潜む因と果を見通しているからこそ叱っているのです。あなた方の仕草なのに、どうして私は叱るのでしょうか。それは、そう発言されると、それなりの因と果が現れることを分かっているからです。多くの人は因果の繊細な働きを理解しておらず、軽々しく行動してはその因果を自覚しません。翻訳者が私の言葉を勝手に変えたことも、因果の一例です。本人は「たいしたことではない。意味もさほどズレてはいないし」と思っているかもしれませんが、それは慢心や驕り、そして上師への不敬を表しています。仏寺や道場の仕事をしている皆さんの行動からも、それぞれの本性や欠点が明らかになっています。誰もが驕り高ぶり、怠惰で、因果の恐れもなく振る舞っているのです。
私たちの道場は他の道場とは違います。私の寺院もより厳格です。なぜなら私は因果をはっきりと理解しているからです。さきほどの言葉のように、皆さんが話す言葉を聞くと、その因果がどのように現れるかがわかります。そして、皆さんの言葉が善なのか不善なのかもはっきりと知っています。もし皆さんの言葉が不善であれば、私は必ずそれを止めます。皆さんは自分では悪いことを言っていないと思うかもしれませんが、私はその言葉の裏にある心の意味が善か不善かを知っています。皆さんのリンポチェとして生きることはとても大変です。皆さんは一人ひとりがとても優秀で、一人ひとりが有能で、一人ひとりが驕り高ぶりです。もし私に修行や力がなければ、本当に皆さんに振り回されてしまうでしょう。
皆さんにお願いしたいのは、私の前で自分の賢さや有能さを見せびらかさないでほしいということです。私が尋ねていないことに関しては、意見を述べる必要はありません。私が質問するときは、皆さんの意見が必要だという意味です。質問しなければ、意見はいりません。私が頑固なのは、年を取ったからではありません。私は78歳で、皆さんよりも長く人生を歩んできました。多くの苦労を経験し、多くのことを見てきました。皆さんが些細なことで動くと、大きな因果を招いてしまいます。それは良くありませんし、そうする必要もありません。
小さなことをしたぐらいで本当に悪になるのかと思わないでください。皆さんは帰依の時に「諸悪莫作、衆善奉行」(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう)と誓いました。この二つの言葉を永遠に守ることはできていません。皆さんはそれが問題だと思いますか?そんなに深刻ですか?ただの小さなことに過ぎないでしょう?ただ一言間違えて言っただけで、ただ相手に腹を立てただけです。「私たちが選んだものは高すぎる」「私たちはコンピュータがわかるが、相手はわからない」と言い合いが続いています。では、なぜ『仏子行三十七頌』を唱えているのですか?その中には「三千大千世界で誰かに冤枉(えんおう)されても、それを上客として迎えよ」と書いてあります。皆さんはそれを実践していますか?少しでも自分の思い通りでなければ、すぐに相手を攻撃します。言葉は丁寧でも、菩薩道を修行する者の耳には、それは善ではなく、相手をいじめているように聞こえます。
皆さんは私のもとに帰依することは辛いかもしれません。なぜなら、私は世俗の仏法を修めているのではなく、菩薩道を修めています。すなわち、衆生の生死解脱を助ける仏法です。だからこそ、私は仏典に説かれた方法に基づいて衆生を導いており、決して迎合したり、お世辞を言ったりしません。もし気に入らなければ、離れても構いません。これは仏典に明確に説かれていることです。先週から今まで話してきたことは、すべて皆さんのためです。皆さんの誤りを見て、私が言わなければ、それは菩薩道を修めていることにはなりませんよね?(会衆:はい)皆さんはリンポチェに人道を修めてほしいですか、それとも菩薩道を修めてほしいですか?(会衆:菩薩道)私を困らせないでください。菩薩道の修行はとても苦しいものです。菩薩道が至高無上、最高のものだと思わないでください。菩薩道の修行は、非常に厳しく、悲惨なことなのです。なぜなら、何も求めないからです。私と比べないでください。私は何も求めなくてもよいのです。
本日、『宝積経』のご法話をさせていただき、仏様の偉大さを改めて深く悟ることができました。私は常に『宝積経』の教えを説き続けていますが、それは自分自身が修行の道を歩むうえで、より一層引き締め、また多くのツールを得て衆生の苦しみを離れさせる助けとなるためです。
昨日、一人の方が済度を求めに来られました。彼のお母様が亡くなられた時は、涙を止められず嗚咽されていました。お母様が病気の時には、一度救われて数年命を延ばされたのです。今回、面会を求めに来た時、私はお母様がいつ亡くなられるかをはっきりとお伝えし、その予言は正確でした。そして、昨日、済度を求めに来た時に、その方に「この生涯で菜食はできますか?」と尋ねると、彼は10分間考え込み、結局その場を去ってしまいました。なぜ去ったのかと言うと、実行できなかったからです。なぜできなかったのかと言うと、彼の孝行心は偽りだったのです。彼は仏菩薩を信じていなかった、もし信じていれば話を聞いたでしょう。しかし彼は自分に都合の良いことだけを聞き入れ、都合が悪いことは聞き流し、自分勝手に行動しました。だから彼が書いた大量の資料は、私は見ることさえしませんでした。それは偽物だからです。世の中にはこのような偽物の人が多く存在します。
なぜ今回、彼を試したのかというと、彼が私の前でずっと偽りの態度を見せていたことを知っていたからです。正直に言えば、彼は私の弟子ではないので、あまり言うべきではないのですが、済度を求めに来た時となると、私は本気で対応しました。だから皆さん、済度を求めに来る時は覚悟してください。私の前で信者として礼拝するのは構いませんが、済度は遊び事ではありません。もし私がその方を済度できなければ、私自身も傷つきます。私は自分が傷つくことを恐れているわけではありませんが、まだやらなければならないことが多いので、傷つくべきではありません。だからこそ、済度を求めに来る人には必ず守るべき条件を求めます。それは仏典に説かれていることであり、私は一切お金は頂きません。一度試せば、本性や本質がはっきりと分かります。皆さんも同じです。与えられた課題を通して、自分自身の本性が明らかになるのです。
洪という姓の弟子は一番ひどいです。責任を取らず、怠けて、できるだけ避けて、問題を全部他人に押し付けます。でも彼だけを責められません。幼い頃から何でもお母さんが全部やってくれたからです。洪という弟子はまた別のお母さんをさがしてもらえませんか?お願いだから、そんなに私を弄るのをやめてください。(洪という苗字の弟子:報告します、リンポチェ、弟子の過ちです。)あなたは悪くありません。悪いのは、あなたのお母さんが早く亡くなったことです。こんな人は見たことがありません。やりたがっているのに責任は取らない、しかも大の怖がり屋、もう本当に限界です。
今日のお話はここまでにします。天眼であれ、天耳であれ、すべては衆生を利益し、助けるためのものであって、ほんのわずかな私利私欲のためではありません。自分が天眼を持っているとは言えませんが、天眼を得てから一度も自分のために使ったことはありません。とても簡単なことです。離婚が必要かどうかを天眼で見たこともありません(会衆は笑いが起こる)、すべては縁に任せています。縁が尽きれば、それで終わりです。
実は、私が物事を見ることができるようになったのはずっと昔のことで、今リンポチェを務めてからではありません。おそらく前世から引き継いだ修行の力がこの世に残っているのだと思います。決して乱用はしません。天眼は乱用すると功徳を損なうことをよく理解しているからです。私が使うのはすべて衆生のため、お寺や道場のためであり、自分個人のためではありません。もし私の天眼がそんなに優れているなら、この人はお金持ちだと見て、商売をすることもできますよね?しかし、そういう使い方はしてはいけません。それは良くないことです。
この経典の一節から、私の考えが正しかったことが確認できます。そこに書かれているすべては、天眼を使って衆生の修行を助けるためのものであり、自分自身のために使うとは一言も書かれていません。皆さんは、菩薩が天眼を持っているのだから、自分が初地、二地、三地、五地へとどのように昇進するかを知ることができると思うかもしれませんが、そのようなことは一切述べられていません。出家衆たちは、自分に天眼が得られたら、それで自分がどのように修行すべきかを見られると考えていますが、そんなことはありません。天眼は衆生のため、仏道修行のためにあるのです。天眼を持つことで自然と仏法の尊い見解が見えてきて、その方法を使って衆生を助けることができるのです。今、はっきり理解してください。
今回の翻訳や情報設備の件について、私はもともと知らなかったのですが、すでに非常に忙しい中で、なぜか私のところにその問題が浮き彫りになりました。これは、彼らの時が来たということを示しています。もう悪業を続けてはいけないということです。もし彼らが悪業を続けるなら、私は彼らを救うことはできません。今ならまだ救うことはできますが、皆それぞれ自分が正しい、自分がすごいと思い込んでいて、善行をしている、彼らを助け、翻訳のやり方を教えていると思っています。そうは言いながら、それはとても難しいことです。この世の中で、人間が最も救済しにくいものであり、むしろ霊を救うほうが速いのです。
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2025 年 07 月 18 日 更新