尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年12月26日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて灯を点して仏に捧げられ、自ら殊勝な『心髄プルパ事業道用之簡軌』を主られ、並びに貴重な仏法を開示された。

どうして顕教においては金剛部を修めていないのだろうか。顕教の仏典には金剛力士に言及する部分があるし、釈迦牟尼仏のお傍にも金剛がいて保護しているとされるが、顕教ではまだ仏典で言う菩薩乗を修めていないから、金剛部を修めないことにしている。菩薩乗は息・懐・増・誅という四つの部に分かれる上、その中はまた所作タントラ・行タントラ・瑜伽タントラと無上瑜伽タントラに分かれている。今生に菩薩道を証果させるには、息・懐・増・誅を円満にし、所作タントラ・行タントラ・瑜伽タントラと無上瑜伽タントラを成功裏に修め得られる必要がある。

金剛部のポイントは、今生に成仏するためには金剛部まで修める他ないところにある。直貢噶舉で後期まで修めるには、勝楽金剛と喜金剛を修める必要があるようにだ。金剛は本尊の心が金剛と同様に変わらないことと定義され、つまり衆生利益する慈悲心と菩提心は永遠に変わることはないという意味なのだ。金剛部を修習する上師の心は、世間にいくら誘惑・脅し・恐喝などがあっても変わることはない。その修行に変わることはない。我らは金剛部の大威徳に助けられるところが多くある。何故なら、我らは生生世世に作った善業・悪業があまりにも多すぎて、これ等の善悪業によって我らが修行に当たって過ちを犯しても気づかなくなるように差し障ることがある。金剛にはもう一通りの定義があって、それは修行へのあらゆる差支えを打ち砕けることだ。徳の備わった上師が金剛部で成就を得られていなければ、末法時代での衆生済度に、比較的苦労するようになるだろう。

金剛部の本尊は何方も忿怒相を現しているのは何故だろうか。何故なら金剛部の本尊は強情っぱりな衆生を専門に度するとされるからだ。あたかも親が子供を諭す際に、最初はとにかく愛想がよさそうに勧告するが、それでも子供が言いなりにならなければ、子供に聞いて欲しいと思って、親の顔が次第に険しくなっていくようにだ。金剛部の本尊が忿怒相を現すのは、衆生が忿怒の最中にいるからだ。よって、この種の衆生を度するには、忿怒相を現さなければ度することができないのだ。顕教を学んだ出家衆は、回数の多い少ないはともかく、何方も水陸大法会に参列したことがあるはずだ。中には観世音菩薩の化身である焦面大士が居られるが、まさにその現された相が鬼道と地獄道の衆生の相だ。要するに、それは観世音菩薩がこれ等の衆生を度する為に現した相だ。末法時代の衆生は心が強情っぱりで悪業がとりわけ重いから、金剛部がなければ、末法時代には衆生を度し難いだろう。

仮に衆生に福報がない場合には(ここでの福報は金銭・権勢や恭敬さを指すのではなく、累世にあるレベルまで福報が積もれてないことだが)、決して金剛部を聴聞し、触れる機会がなく、ひいては、上師が法を修めさせたり、自分が学んだりするなどがないのだ。何故なら、金剛の心は慈悲の至りだ。如何なる事もその慈悲心を打ち砕くことができない。空性の慈悲心まで修めずに、金剛部を学ぶとなると、それは非常に危険なことになる。自分が凄いと自惚れ、傲慢になるからだ。『宝積経』では、釈迦牟尼仏は仰せになったことがあるが、菩薩道を行う者は傲慢・高慢になってはならないという。今や密法を修習する多くは、自分がある法門を修得したから、もう並ではなく、凄いと思っているが、これぞ傲慢だ。傲慢の心が現われると、菩薩道がその瞬間に凡夫道に変わってしまう。いくら本尊の真言を唱えようと、効かないままだ。

本日、此の法を修める理由は三つある。第一に、プルパ金剛の威徳力を通じて、そなたらの心における貪瞋痴を降伏させることだ。第二に、そなたの仏道修行に差し障らないよう、累世の善悪業の力を調伏することだ。金剛部の法会に参列すれば、何もかも好転し、何も恐れないのではない。鬼道衆生は恐れる。鬼道衆生が恐れるのは、彼らがそなたの仏道修行に差し障らないからだ。第三に、人が往生してから、大悪も大善もなければ、四十九日内の七日間ごとに、仏部・菩薩部・金剛部の本尊が現われて来迎引接してくれるとされる。仏部・菩薩部の本尊が引接しに来られた際に、もしそなたが彼らに縁がなかったり、信心がなかったりすると、このチャンスを逃すことになる。

最後に、金剛部の本尊が引接しに来ることになる。通常、金剛部の本尊が来ると忿怒相を現している。何故なら、そなたの業障が重くなければ、とっくに仏部・菩薩部に引接されており、ついて行かない事はないはずだ。つまり、多くの怨敵がそなたを邪魔していることだ。だが、金剛部の本尊が現われると、怨敵らを追い払うようにする。仮に、此の人が生前に金剛部に触れたことがなければ、一般の輪廻衆生と同じように、きっと金剛部を見かけた途端に、飛ぶように逃げ、近づこうとしないのだ。これこそ、本日金剛部を修める理由だ。

プルパ金剛の行者とは、プルパ金剛を修める者は自分の目的を達成する為にプルパ金剛を利用するのではなく、衆生を救済・利益する為にプルパ金剛を用いることを指す。ややもすればプルパ金剛を使ってあれやこれやと追い払うような者はプルパ金剛の行者とは言えない。具徳とは、一切の功徳を具備するという意味だ。


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2022 年 02 月 27 日 更新