尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年12月19日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて自ら殊勝な施身法法会を主られ、並びに貴重な仏法開示を賜わられた。
最近、親族の済度を請いに来る人が多かったが、何れに対しても、私は『地蔵経』を裏付けに、亡者に素早く大福報を蓄積させ、諸仏菩薩と上師と縁を結ばせるように、彼らに懇誠に仏を礼拝しろと要求している。実は、それは地蔵菩薩がバラモン女だったある世の話で、彼女は母親がどこに生まれ変わったか知りたくて、豪邸を売って仏に供養し、血を流して気絶するまで仏を礼拝した話に因んだのだ。完全に『地蔵経』の言われた通りにするのなら、そなたらは全員成し得ないだろうと思う。そなたらは家を売るはずがないだろうし、私もそうして欲しくなく、ただ大礼拝(五体投地)を要求している。親族に福報を蓄積させ、ご自身の健康にもいいほか、身内の代わりに仏を礼拝する際、そなたの心もより懇切になる上、こうして礼拝してあげるのも生涯一度きりのことだ。
『地蔵経』でも、亡者の代わりに仏事を行うと、亡者はその七分の一の功徳を、(仏事を)行った眷属自身は七分の六の功徳を得ると説かれている。七分の一を亡者に振り向けたら、充分なのか。充分だ。我らはこの業報(ごうほう)の身を持つ際、累世で積み重なった体の業は非常に重いもので、その中でも語業(ごごう)が特に重いわけだ。単に祈祷やら、真言でも唱えるだけで、累世の業力を転じさせたいのなら、それはほぼ不可能に近いことだぞ。灌頂を授かって、ひたすら本尊を修めれば、業力を転じさせられると思う人もいるが、それはないことでもないが、機会は少ないのだ。何故なら、功徳を修めていないからだ。
苦難の衆生を代表して修められれば、最大の功徳になる。全ての衆生は亡くなってから、どの道への往生が決まるまでの間は、非常に辛いものなのだ。その辛さは、自分の将来がどうなるかが全然分からないし、将来を変えようがないし、何をしてくれたらいいかと眷属に伝えられないし、仏菩薩に祈り求めることができないところにある。この亡者が生前に行者だったらまた別論だが。彼が辛くて無力を感じた際に、その眷属は進んで上師の言うことを聞き、全て仏が説かれた事を喜んで実行すれば、大きな功徳になる。終日、息子の嫁が菜食するようにやら、息子やら、自分が人に好かれるようにやら、自分は癌細胞と仲良く生存するようにやら廻向を振り向けていると、どれも役に立たない廻向になるのだ。何故なら、功徳のみ、業を転じさせたり、業を取り除いたりすることができるからだ。功徳とは何だろう。苦難の衆生を助けられることこそ功徳だ。自分自身を助ける全ての事は、功徳ではなく、福徳に過ぎない。だが、人は往々にして自分自身を助けるようになりがちだ。人はエゴだからだ。
「ひたすら持呪することを通じて、仏法が分かるように、よりよく修められるように祈り求めたい」なんてのは自分自身を助けることだ。「私の修行がよりよくなってくれ、業障が私の修行に差し障ることがないように」と請うのも、自分を助けることになるから、功徳がない。「リンポチェがこう言った以上、私は何のために修めるのだろうか」。功徳は沙のように、こつこつと積もるもので、焦っても仕方がないことだ。再来人だとしても、最初から修め直す必要がある。いわゆる再来人とは、過去世に菩薩道を行うと願を発したが、願力が円満しないままだったから、今生に再来して菩薩道を行うことで、再来人と呼ばれるのだ。再来人には自ら転生先を決める能力がある。密宗には選胎門という転生先を選ぶ法門があって、自身の業力によって生まれ変わるのではなく、転生先となる対象を選ぶことができる。そなたらは自分らの業力によって母胎に入り、つまり共同の業力を持つ方がそなたの両親になるのだ。殺生に携わる家族がいるのは、自分と関係がないなんて思ってはならない。もちろん関係がある。前世に殺業が重いことに伴って、今生に殺業(せつごう)にまつわる家庭に生まれるのだ。だから、それは先祖がしたことで、私とは関係ないだろうと言ってはならない。
亡者は生前に懺悔や悔い改めを分からなくとも、彼と因縁が深いそなたなら、彼を代表して仏菩薩と上師に請う場合には、遺伝子が同じということから、その功徳も一直線に繋がるのだ。七分の六を得るそなたに対し、彼は七分の一を得る。彼にとって、この七分の一は充分足りている。何故かと言えば、亡者には眼・耳・鼻・舌・身がなく、意のみ残っているからだ。これこそ彼が生涯にわたって考えたり、したりしたことによる業力で、この七分の一の功徳だけで充分に彼が作った業力を解決し得るし、輪廻を断ち切り、浄土往生する因縁・福報を持たせられるのだ。『地蔵経』でもはっきりと説かれているが、地蔵菩薩がこうして祈り求め、血を流して気絶するまで拝み、全財産を供養したことにより、その母親はすぐ地獄から出て天界に昇ったという。その母親は何の罪を犯したのか。三宝を軽視し、すっぽんの卵を好んで食べたことだ。振り返って考えると、この平和と繁栄の社会の中で、ご自身の眷属は人肉以外、好きなだけ何でも食べているではないか。こんな場合、適当に請えば、済度が得られるというのか。うすっぺらい数枚のお金で済度を求め得られるようのなら、とっくに仏典にも「末法時代に、人は修行に時間がなく、1500元の賽銭で済度が得られる」と記載してあるはずだ。残念ながら、仏典にはそう記載されていない。衆生を済度させられることは、入り組んだ因縁と要因があってはじめて成り立つのだ。
昔、チベットでのお話しだが、ある喪中の家は亡者への修法にある僧侶に願い出た。年配の僧侶は誦経しながら供養のことを考えていた。もう一人付き添いの沙弥(しゃみ)は慈悲心を持ってどうにかして亡者を助けようとしたが、功徳がなく、何れにせよ済度させることができなかった。よって、済度を得られない亡者は癇癪を起すようになった。その時、通りかかったある瑜伽士は、こんな状況を見て亡者を手伝おうと思ったが、縁なしには度せないということから、瑜伽士と亡者と縁を結ばせるように、喪中の家に亡者の名義で食べ物を布施せよと要求したところ、亡者に福報を蓄積させてから亡者を済度させられることになった。
従って、縁なしには度せないのだ。観音菩薩も地蔵菩薩も慈悲深いのに、どうしてまだあんなに度されていない衆生がいるのだろうか。それは縁なしに度せないからだ。今生に帰依やら、菜食やら、誦経やら、座禅・念仏やらすれば、仏菩薩と上師と縁があると思ってはならない。仏菩薩と上師が教えた方法を聞かず、拒絶すれば、縁がない。縁がなければ、救いようがない。多くの人は仏法に対して深い誤解を持っている。仏菩薩を神と見なして拝み、私は拝めば、助けてくれるべきだと思っている。あんなにも拝んでいるのに、くれないのは何故だろうか。それは、縁なしにはくれないし、神や菩薩は因果を変えることができないからだ。衆生を済度させるには、済度を司る人は必ず充分な福徳を持つべきだ。
これ以上(自分は)リンポチェの福報を消耗していると言わないでくれ。リンポチェは菩薩道を行う者で、自身の修行によった功徳を以て衆生の苦と交換している。だが、そなたらにはその意味が分からない。私が修めた功徳は衆生に差し出す為だが、衆生は上手くそれをキャッチできるかどうかは衆生次第だ。そなたらに大礼拝(五体投地)をさせるのは、済度をより楽ちんにさせる為ではない。済度には簡単と複雑の区別がないが、ばっちり実行しなければならない。リンポチェは次第に年を取っているし、修めれば修めるほど慈悲心が強くなっているから、そなたらの眷属はもれなく済度を得られ、将来彼らも仏道修行し、一日も早く成仏すると願っているから、そなたらは彼らの為に福報を蓄積させておくべきだ。
地蔵菩薩の母親は仏から未来仏になると授記を得られた根拠は何だろう。彼女はまだ修めていないのに、その娘は進んで修め、「地獄が尽きない限り、成仏しない」と大願力を発したからだ。こんな願を進んで実行すれば、我らの眷属や過去世の両親には役に立つに違いない。そなたらはエゴで、ひたすら自分に振り向けるように唱えたり、拝んだりしている。弥が上にもエゴになり、少しも仏教徒らしくなくなっている。どれも自分に振り向けないで唱えれば、何のために唱えるのだろうと心配している。そもそも自分に振り向けるために唱えるのではなく、あたかもお腹に山となっている虫らはまだ度されていないようにだ。そなたらはよくプロバイオティクスを飲んで、腸内の菌で消化を助けさせようとしているのではないか。仏典でも我らの皮膚の表面に寄生虫が多くいると説かれているように、ご自身の体内にいるのすら度していないのに、ひいては衆生済度しようと言えるのか。傲慢にいるべきではない。傲慢になると、功徳はすぐに福徳になってしまうのだ。
特に密を学ぶ人は、ちょっとでも学ぶと傲慢でたまらず、「自分の学ぶスピードが早く、成仏できる」と思っている。もし、そなたの顕教の基礎が固まらず、どうして仏道修行するかを弁えられていなかったら、いくら最大の法を学んだとしても修め得られないとする。金剛乗は仏・菩薩に成る方法だ。『宝積経』の中で釈迦牟尼仏ははっきりと説かれたように、菩薩道を行い、修める者が少しでも傲慢になれば、全ての功徳はすぐ消えてしまって人天福報に変わるという。これはよくあることだ。これだけ学んだ私でも、自分がどの法を知っていると皆に見せびらかしたことがないようにだ。必要がない時には使わないようにするが、必要がある時に衆生の救済に使うのだ。毎日、唱えたり拝んだりする必要があるかどうかに至っては、それは言うまでもなく必要だ。まるで毎日必ず食事するように、生きている限り修行が必要なのだ。
帰依して20数年の香港からの女性弟子がいるが、今年86歳で親類がいなく一人ぼっちだ。ここ20数年間、私は彼女に飲食・住まいと医療を提供し続け、ひたすら彼女に仏を礼拝し、念仏するのを勧めたが、彼女はそれを聞こうとしない。彼女はそなたらと同じ心構えで、「その時に為れば、リンポチェは助けてくれる」と思っているから、今や自分が苦労し老人病を患うようになったのだ。これ等の出家衆も24時間ずっと彼女を世話するわけにもいかないから、この間、彼女が脳卒中に罹ったことで、彼女を介護するために私は介護士を雇っている始末だ。一日最低でも2500元はするが、一か月で9万元もかかっている。彼女は運よく、良い介護士を見つけた。今の時代は、こんな介護士は滅多にいなく、まず彼らには仕事がないことがないから、一日中あれやこれやと要求してきて大人しくないお年寄りだったら、引き受けないようにしている。彼らが「引き受けない」と申し出たら、病院は直ちに彼らを別の病床の介護を紹介したりするようにしている。
彼女は重病持ちでもなく何の医療措置も出来ないことから、このまま病院に居られないのだ。好運にも、彼女は道場に近い療養施設へ送られた。問題は感染症予防のため、彼女を見舞ったりすることができず、彼女はいつも一人ぼっちで療養施設にいるが、彼女の頭ははっきりしている。彼女の苦しさが弥が上にも増している状況は、どう引き起こされたかと私は考えた。全ては彼女自身が作ったのだ。現在、修めていず、福報が上がらなければ、去ろうとする時になると、苦しさが訪れるのだ。
以前、彼女は出家弟子らと一緒に住んでいた。起きて念仏しないかと誘われても、彼女は具合が良くないから歩けないと答えていたから、今はまさかその通りになり、歩けず寝たきり状態になっている。こんな苦しさは自分が求めてきたもので、まるでそなたらが毎日適当に1000、2000遍でも唱えれば、死んだらリンポチェが済度してくれると思っているようにだ。そなたらお年寄りは自分が大変だと思って、「私は動けず唱えられないのに、唱えよと言われている。リンポチェは慈悲だから、きっと助けてくれる」と言っている。私はもちろん助けるが、そなたらは話を聞くべきだ。
ある帰依して四年余り、90代の出家弟子がいるが、その息子は煙草も吸うし、お酒も、お肉も食べる、しかも仏道修行もしないし、彼を世話することもできない。私はポワ法を修めてあげると約束したから、もともと彼は毎日、寺院の僧房で大の字で横たわって、人に自分を侍従させたり、死を待ったりしていた。待っていると、福報が瞬く間に費やされ、業力が現前するようになる。結局、私はもう一人の出家弟子を通して、彼に「このままでは、老人ホームへ送るぞ」と伝言を残したら、彼はすぐ起きて、今では彼は毎日歩いたり、念仏したりするようになった。彼が歩けることから、寺院も彼が住み続けることを許し、少なくとももう一人の出家弟子が毎日ちょっと会ったり、付き合ったりしている。
彼は私の広東語訛りの国語が分からないので、普段、法会では台湾語にする通訳が付き添っているが、彼は他でもない信じる、聞くのだ。彼は預金を引き出して私を供養したが、それが彼の最後のお金だと私は分かっている。少ない額だが、彼の発心だ。彼にはあまり価値のない土地がまだあるが、それについて私に言っていなかったが、私は知っている。土地の所有者を息子に名義変更しろと私は言った。綺麗に去って欲しい。ここを離れる前に、彼にこの地球に何も残さずにいてほしい。
例の86歳の女性弟子は、銀行にまだ貯金がある。僅かな金額だが、出し惜しんでいる。厄介事に見舞われるようになってはじめて、それを出家者らに委託して、リンポチェに供養すると彼女は言った。彼らがお金を持ってきたところ、彼女はまだ死んでいないとして、私は受け取らなかった。20数年をも台無しにし、人の脛を齧って生産性がなかった。彼女からしてみれば、年を取ってから頼りとする場所があって安心だと思いきや、自分の業力に頼っているのだ。本来であれば、ここ20数年間は、彼女を死亡の苦から免れられるように福報を蓄積するのに足るはずだった。一人ぼっちで療養施設に横たわって、知っている人は一人もいないし、人に何をされようと怒ってはならないし、たとえ怒ったとしても相手にしてくれる人がいない状況を皆で想像してみよう。年配の皆さん、子供たちが付き添っているから、自分は大丈夫だと思ってはならない。今のうち、自分自身を厳しく律しなければ、きっと死ぬ前になると、自分が間違っていたと分かるはずだ。自分はまだ若いなんて思ってもならない。これは全員にもれなく可能性があることだ。
若いうちに努力して修めるべきだ。自分は大法を学んだから、悟りを開けると思ってはならない。そなたらはそんな器ではなく、密法を修習できる人は何人もいない。灌頂を授かったからと言って、自分は密法を修習したと思ってはならない。密法は広く伝えるものではなく、一対一の教え授け方となる。全ての心法はテキストに記載していない。密法の上師は、自身の福徳・功徳と慈悲心を以て、ひたすらそなたらを助けたり、言い聞かせたりしている。それに対して、そなたらは聞き入れるべきだ。上記の弟子二人は、明かに対照的な例だ。86歳の女性弟子は、ここ20数年間言うことを聞かず、毎日、出家弟子から「リンポチェがあなたに日課はしているかと聞いた」と言われると、「した、した」と答えている。だが、彼女はしていない。彼女は生活が安穏だし、食住も医療も付いていると思っているからだ。
仏典に在家衆は修行し難いとあるが、それは業障が重いからだ。とはいえ、難しいからこそ、自分で覚悟を決めて、自分を突き放して、話を聞くべきだ。仏道修行する中で、何に遭ったにしろ、自分の業力だ。受け入れれば、上手くクリアするが、受け入れずに意地になって逆らおうとすると、苦しみに繋がるようになる。本日、施身法を修めるのは、亡者に輪廻の苦を離れさせることが主な理由だ。在世の人は亡者の代わりに、仏法を請ったり、諸仏菩薩と上師からの助けを祈り求めたりすれば、そなたへの功徳が多くなる。かと言って、一回きりで充分なわけではなく、続けてする必要がある。
かつて私が顕教で仏道修行した際、毎日、亡き父の代わりに仏を礼拝し、懺悔文を拝んでいた。ある日、夢の中で父親が私に昇天したと告げたのを見たにもかかわらず、私は拝み続けていた。彼が呂祖のお傍で仏道修行していると夢を見たところまで、拝み続けた。呂祖は私より上だからと思って、これで一安心した。それから、私は修め続け、諦めずに修行に励んでいた。そなたらみたいに、突飛な考え方でいっぱいで、まったく話を聞きもしないようではない。話を聞かなくても別に構わないが、今後苦労するのはそなた自身なのだ。寶吉祥道場の特徴の一つに、事例が多いことがある。だから、はっきり見極められる。帰依歴20数年からして、晩年、こんな苦労はしないはずだった。そなたらお年寄りは念仏したり、散歩したりするべきだ。若者たちも唱えるべきで、自分はまだ若いなんて思ってはならない。人は誰でも老けていくし、時間の経つのも早い。ほら、既に12月になっただろう。もうじきこの一年も終わってしまうだろう。
ある弟子は私に救ってもらうように求めに来たが、私は歩けない場合は車いすに乗ろう、歩ける場合は歩けるだけ自ら歩いたりするべきだと言った。横たわっていたほうがいいと思ってはならない。横たわったままのほうが穏やかな最期を迎えられるとは限らない。私の母親も亡くなる一か月前から、歩くのが大変だと言って、歩きたくなくなっていた。幸いなことに、彼女に進んで修める息子がいるお陰で、医療による苦を受けずに済んだのだ。仏法は簡単で、決心をすること、話を聞くことである。自分はよく修めているから、特別な法を習得しただけでいいと思うべきではないことだ。
こんな傲慢な観念で仏道修行していると、最後の日がやってくるようになった時に、自分は正しくしたかどうか見分けられることになる。自分はまだ若いから、そんなことはないだろう、まだ時間があるだろうと思ってはならない。時間は人に左右されるものではない。早くも今は12月になって、もうじき来年だ。皆さんにとって、また一年少なくなった。
リンポチェとしての私は、毎日少なくとも2時間は修めるようにしている。土曜日に照明をセッティングしてくれた人も仏道修行しているが、彼からリンポチェは体力が優れていて、月曜日から金曜日までの出勤の他、土曜日には信者との面会、また日曜日にも法会を主催していると言われた。実は、私は毎日仕事している。そなたらは毎日私に嫌がらせをしてきている。正面からではなく、裏で嫌がらせをしてきている。裏からこっそりとしてくるのに対しても、私はそれをしっかり受け止めないといけない。菩薩道を修める者として、あらゆる心・意識も、衆生が苦を離れることをと願っている。衆生は苦を離れるかどうかに至っては、衆生の決定次第だ。
続いて、リンポチェは修法を開始し、苦難中の亡者を済度された。リンポチェは大手印禅定の中で、殊勝な施身法を修め、勝義菩提心を以て自身の全ての血肉・骨をもれなく諸仏菩薩に供養し、一切の六道衆生に布施するよう観想し、並びに六字大明呪を長らく持し、慈悲な法音は十方に遍満した。
修法が円満に終わり、リンポチェは次のように開示された:
浄土祈請文どおりに修めようとすれば、そのうち何節か重要なのがあるが、それは「我今如是發此誓願已、十方一切諸佛及菩薩、無礙成就祈請賜加持」だ。これは、毎日僅か千遍、五百遍でも唱えたり、自分の嫁・女房に廻向したりするのではなく、浄土に廻向するべきだということだ。『宝積経』及び『無量寿経』の中でもはっきりと説かれているが、そなたの修める法門が何であろうと、その功徳を西方極楽世界に廻向するだけで、発願して往生を求め得ることになる。
後ろの二節が非常に重要だ。「十方一切諸佛及菩薩、無礙成就祈請賜加持」。「菩薩」はそなたの上師のことも含む。「無礙成就」とは、修行の中に少しも障礙がないのではなく、この「無礙」のポイントはそなたが事切れた際にある。今、自分が唱えたら、妻の健康状態は少し良くなって、気分も良くなったと思ってはならない。間違いだらけだ!自分が唱えでもすれば、良くないことは全て消えてしまうと思ってはならない。どれも間違いだ!もし、仏法を外道(仏教以外の宗教)のつもりで修めれば、求め得られないのでもないが、ただ業力が違うところへ移ったりし、求めた事は発生しない代わりに、何か別の事は発生するようになるのだ。
夫の不倫相手が消えるよう求めに来る女性も時々いるが、仮に女性の願った通りにさせようと私が言ってしまうと、恐らくその代わりに何か発生するようになるだろう。不倫相手がいたほうがましなのか。それとも、深刻な事態になったほうがましなのか。誰しも因果・因縁を信じず、物事が自分の望んだふうに運ぶのを仏菩薩に求めている。いわゆる「無礙」とは、そなたが事切れる前に、「父さん、死なないで」、「もう死んでいるの?目覚めて!まだ唱えていないぞ!」と言ってそなたらを揺らす人がいないことだ。何故かと言えば、全ての人は死に際に自分はそろそろ事切れることをはっきり知っているからだ。
私に済度されなかった亡者の遺体の何れもが口を開いていたのは何故なのだろうか。それは、自分には口で空気が吸えないことをよく分かっているからだ。俗に言う「三長二短」とは、まさに死に際の呼吸を形容することだ。それは簡単で、お年寄りの皆はそれを複雑と思ったりする必要がない。密法を修める者が毎日修めているものはまさにこれだ。この息が長めになるよう我らは修めているのであって、それは長生きする為ではなく、息を長めにさせれば、自分も入定して本尊と相まみえて結合することになるからだ。
だから、もしそなたはこんな願を発さず、ひたすら妻の意識がもっとはっきりするようになるのを願っても仕方がないのだ。それは累世の業だ。どうして頭がはっきりしないのか。それは累世で因果を信じないからだ。前にも触れた帰依して20数年の弟子のことだが、彼女は脳卒中だった。幸いにも、彼女は私の寮に20年も住んでいて、意識をよりはっきりさせるような福報を持ち、昏迷に陥ったまま死ぬことにならなかった。意識不明で死んだ場合、畜生道に堕ちるに違いない。そなたらの中でこれを信じる人は一人としていない。ひたすら信じ、ひたすら浄土往生を求めれば、そなたの業力の数々は自ずと転じ始め、求めずに自ずと転じるのだ。何故なら、そなたはひたすら修め続け、福徳が充分厚くなった時に、業力は転じ始めるからだ。
施身法にだけ参列しにくる人たちは何のつもりなのか。施身法だけが法で、他の法は法ではないと思っているのか。或いは、他の仏法はそなたを救えなく、施身法だけはそなたを救えるというつもりなのか。間違いだ!どこが間違っているのか。依怙贔屓だ。テキストでもはっきりと説かれているように、法を修める際に、私に平等心を以て一切の衆生を加持させるよう、仏菩薩と伝承上師からのご加持を求めるという。平等心とは何だろうか。六道における衆生は善であろうと悪であろうと、私と縁がある限り、善悪を問わず助けてあげることだ。
そなたらは仏法に対しても平等心を持っていないのに、自分に平等心があるわけがないだろう。平等心が無ければ、次第に思い詰めるようになる。あらゆる仏法は我らを離苦得楽させるよう助けている。我らはとある仏や菩薩と縁があれば、多少なりとも多めにそれにあたる仏法を聴聞したりすることになるが、それを修めなければならないとは限らないし、そなたは成功裏に修められるとも限らない。それは因縁の有無次第だ。
『無量寿経』でもはっきりと言及されたが、発願している限り、どの法門を修めようと阿弥陀仏の身許へ行けるという。「無礙」とは、即ちそなたが事切れる前に心が乱れないよう、眷属がそなたを揺らしたり、そなたが子供に会いたかったりすることがないよう助けてくれることだ。傍で誰かがくしゃみしただけで、そなたは機嫌を損なって、心が乱れるようになる恐れがある。乱れると、仏菩薩が現われてもそなたはついて行けなくなる。何故なら、そなたは怒りの心を起したからだ。私が仏典を紐解くと、いみじくも不動仏の篇をめくるのか、それはそなたらに瞋害の心を有してはならないことを教えているのだ。仮にそなたは常に瞋恚を持つのに慣れていれば、死に際に何か問題が発生し得るのだろう。
私は何度もこんな状況を見てきた。事切れてから、ある人が病室の台車を押して音がしたのに対しても、子供たちがお墓の風水について相談しても、医者が亡者の足を正しく置かなくても、癇癪を起している。こんな場合、もし私に済度されていなかったら、地獄に堕ちるに違いない。もし、そなたらにはそんな運がなく、リンポチェが先に死んでしまったら、どうしよう。リンポチェは年を取っているから、リンポチェに仕えるべきではないと言った人もいる。とは言え、私が年を取って、弥が上にも智慧が増え、功力が高くなっているうちに、そなたは言い付けに従って実行するべきだ。たとえ私が死んだとしても、私の願力は存在するままだ。私の生身は存在しないながらも、願力は続くものだ。
「十方一切諸佛及菩薩」、この一節はとてもはっきり言っている。私は菩薩道を修めており、もちろん菩薩の一人とも言える。「無礙成就祈請賜加持」とは、そなたを輪廻に陥らせないことで、成就はそなたを阿弥陀仏・観世音菩薩や大和尚にしたりするものではない。仮にそなたらがこうなるまで修められれば、もう偉いし、ほら私は阿弥陀仏の身許へ行くことを確信できていると、全ての兄弟子に周知させることができる。
よって、この祈願文は遊びで唱えるのではなく、ひたすら毎日阿弥陀仏・浄土に廻向するべきだ。そなたが廻向していると、阿弥陀仏本尊・観世音菩薩・大勢至菩薩、そして大勢の菩薩もその中に居られる。『無量寿経』にも、いったんそなたが決心すると、72億の菩薩が手伝ってくださるとある。菩薩は駆け付けて助けるのではなく、こんな願を発している限り、その願力と慈悲心だけでそなたを助けられるのだ。妻の健康が良くなければ、これ以上健康になるよう求めるのではない。彼女には発願することができないから、その代わりに発願するべきだ。ひたすら彼女の代わりに祈請文を唱えてあげるべきであって、彼女の福報が上がると、自ずと健康状態が良くなるのであって、求める必要などない。
多くの人は求めても得られないことを仏菩薩が霊験あらたかではないせいにしている。仏菩薩が霊験あらたかでなければ、仏菩薩とどうして呼べるというのか。それより前に、我々は法門を正しく実践するべきだ。後に加えたこの呪文は、まさにそなたが祈請文を唱える際のエネルギーを強める働きだ。何故なら、そなたらはみな凡夫で、そなたらが唱えても、仏菩薩が聞こえず、そなたからのシグナルが届かないから、この呪文を持してはじめて届くようになる。こうして、地球にこんな人がいてまだ来ていないと分かるようになり、待ってくれるようになるのだ。
毎日唱えれば、(仏菩薩は)聞こえると思ってはならない。それは聞こえないのだ。これ等の呪文を唱えるのは、まさにシグナルを向こうに届くように転送する働きなのだ。だから、仏道修行のことをはっきりと理解し、漫然と過ごすべきではない。一生涯はあっという間に終わってしまうのだ。「無礙」の二字は非常に重要だ。リンポチェは1997年、衆生済度に取り掛かるようになってからというもの、「無礙」の衆生を一人も見たことがない。何れも有礙だから、彼らが事切れてからすぐ阿弥陀仏の身許へ行くことができていない。その中の多くは念仏も菜食も礼拝も誦経も多くの善もしていた人々だった。残念ながら、法門を正しくしていない。
誰しもがこの祈請文を歌のように歌っている。歌い終わると、きっと阿弥陀仏もお分かりになるだろうと思っている。そなたが発願していなければ、阿弥陀仏は決してお分かりにならないから、ひたすら特定の人を対象に廻向を振り向けてはならない。『無量寿経』では、子どもや嫁或いは眷属に廻向するなんて言っていない。どうしてそなたらみなは発明家になったのか。釈迦牟尼仏は結婚もしたし、子どもも儲けたし、しかも王子だったから、我らのことを分からないわけがない。彼はまさかそれらを忘れられたというのか。つまり、これらのことは我らの死に際に役に立たないことだというのだ。
生前に常に大切な人に廻向するようにしていれば、そなたは死ぬ際に有礙になる。「私が死んだら、誰が彼に廻向するのだろうか。だったら、私は死なないでおこう。一日多めに生きているだけ、多めに廻向できる」とそなたは思ってしまうようになる。それは間違いだ。そなたは生きているうちに呪文を多めに唱えて自分の旦那に廻向すれば、きっと彼の頭をよりはっきりさせられるだろうし、自分が亡くなってから、彼も自分自身を世話することができるだろうと勘違いしている。いったい、それはそなたとなんの関わりがあるというのだろうか。そなたは既に往生したから、残りは彼の命、彼の福報によるのだ。そなたが死んだとしても、地球は止まらずに回るぞ!そなたは自分に罣礙(けいげ)を作っているのではないか。
そなたは自分の旦那に振り向けるように修めれば、きっと自分が死んだ時に、彼は何れもよくしてくれるだろうと思っている。これに関しては、心配ご無用、そうはしてくれないに決まっている。生前にそなたが愛されていない以上、そなたが死んでから、彼はそなたを世話するどころか、空を仰いで長く笑うしかないだろう。それはただの妄想だ!仏菩薩と上師だけそなたを世話する。何故かと言えば、私の弟子だからだ。リンポチェが生きている限り、そなたらに何か事があれば、私は自分の能力範囲内で世話する。だから、話を正しく聞くべきで、でたらめ・ちぐはぐして、自分の道が逸れてしまっても気づかないことがないようにして欲しい。
発願文は毎日唱えるものに過ぎないと思ってはならない。何を唱えているのか、何を言っているのか知るべきだ。実は、それを通じて既に浄土の様子を教えてくれている。ただ口伝してくれる人がいなくて、そなたに分からないだけなのだ。例えば、林という弟子は毎日テキストを翻訳してくれていることのようにだ。彼女はチベット語ができるとしても、チベット語のテキストを読んでいると、チベット語は分かりながらも、彼女にとってはそれはまるで字が無いのと同じようなもので、どう修めるのか分からない、内容も大体しか分からない、どうやって修め得られるのか分からない。自分で確かめたいのなら、どうぞ彼女をインタビューしたらいい。林という弟子は毎日翻訳しているから、よく分かっているはずだと、そなたらは好奇心を持つだろうが、心法が口伝されていない限り、どうしようもないのだ。心法は上師が伝承した口伝の経験で、こうだと言われたらこうだということだ。
だから、そなたらは漫然とではなく、しっかりとこの一生を過ごすべきだ。我らの一生は債務を返済しに来ているのであって、返済し切ったら、去ろう!これは消極的な態度で過ごすという意味ではなく、返済し切ってから去ろうという認識がある以上、返済し切るまでじっくりと待とうということだ。待つのではなく、積極的に仏法の面で返済し切ろうとするのだ。仮に、そなたは自分が年を取っているから、待とうというお考えであれば、そなたはけっして完済する日がやってこず、全身の苦痛しかやってこないのだ。何故かと言えば、そなたは福を享受しているからだ。
六字大明呪を誰もが唱えているが、どうやったら成就を得られるというのか。不共四加行を円満にしてから閉関修行をし、閉関修行の際に、上師から観音菩薩の潅頂を授かり、生起円満次第を通して修め、閉関修行の中で十万遍まで唱える必要があるとする。テキストによれば、自らを度することができるのだ。つまり、生死解脱・浄土往生を確実にできるのだ。百万遍まで唱えれば、衆生を輪廻苦海から離れさせることができる。前提として、十年間の顕教と不共四加行等を円満にすることだ。
もし、年を取って既に不共四加行を行うことが出来ないのならば、上師と本尊の願力を完全に信じ、祈り求めるしかない。自分の健康状態が良くなって、何句か多めに唱えられることを祈願するのではなく、死に際の無礙を祈願するのだ。これ以上、健康(或いは、胃腸や足がよりよくなるなどのこと)に関して求めるべきではない。こうすると、福報を使い切ってしまうからだ。どうしてそなたは良くないのか。それは福報はそろそろ尽きるからだ。なお、これ以上求めるのなら、いったん福報を体に使っていると、阿弥陀仏の身許へ行く福がなくなっているのだ。慎重に行動しろ!
病気があれば、医者に行け。病気になっても医者に診てもらう必要がなければ、私の漢方診療所は何のための存在なのか。そうは言いながらも、私は滅多に私の漢方診療所の医者に診てもらっていない。何故かと言えば、彼はいまだに私の体の状態をよく見極められていないからだ。そなたらの体だと、わりと分かりやすいのだ。(黄という漢方医は確かに未だにリンポチェの体について弁えていない、リンポチェの身体の仕組みは凡夫のと違っていることから、幾つかの面で彼は今でも把握できていない状態だと表明した。)
黄という漢方医弟子に私の体の状態を把握させられるようなら、彼は既に神医になっている。病気がない人はいない。若者には若者なりの病気があり、お年寄りにもそれなりの病気がある。医者に診てもらったからと言って、病気が無くなるわけではなく、ただ少しでも病気が少なくなれば、自分に数句でも多く唱えさせる体力を持たせるのだ。だから、こんなところでお金を節約してはならない。リンポチェは皆のお金が欲しいのではない。皆のお金を儲けたいのなら、とっくに二年前から値段を上げていたはずだ。漢方診療所が開業して以来、生薬の価格が何度も値上がりしたにもかかわらず、患者の診療費に関してはあまり上がっていない。去年と今年は、基本的にあまり上がっていない。
私は商売の話をしているのではなく、私にはこれだけの出家と在家の弟子を世話する必要があるからだ。しかも、私の出家弟子は全員と言っていいほど病気になっている。私は業障が重い者だ。弟子を入れると、通常は弟子からリンポチェの為に医者を用意するが、私の場合はそれと真逆で、全部私が用意している。にもかかわらず、そなたらはきちんと修めようとしない。ある出家弟子は特にそうだ。彼の話となると、私は叱りたくなる。リンポチェの言っていることはかちんぷんかんぷんだと彼は言ったが、彼が患者を診た時ははっきりしていた。彼自身はかつて歯医者をしたからと言って、医者のことがよく分かっていると言えるのか。
今日は修法が早かった分、多めにお話をした。
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2022 年 02 月 27 日 更新