尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2022年1月9日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』巻第十九「不動如来会第六之一」を開示された。

『宝積経』によれば、不動仏は仏果を証する為に修めていることが分かる。凡夫としての我らは、もし密法を学んでいなければ、それを決して成し遂げることはない。修行する中で、もし菩薩道を修めることや、将来仏果に成ることを決心していなければ、そなたらにとって仏典で説かれた全ての事はただの物語に過ぎず、ひいては、ただのおとぎ話に過ぎないと思う人もいる。

少し前に、不動仏も「世尊、我れ今一切智心、乃至、無上菩提を發すに、若し諸罪人の將に刑罰せられんとするを見て、身命を捨てゝ而彼を救護せずんば、則ち一切の諸佛を欺誑すと為さん。」と説かれ、不動仏は一切罪過の衆生を救済するために、身体も命も惜しまないと発願された。一般の凡夫にとっては、これは震撼させられるような話しだ。何故なら、多くの人はとある欲望と目的を持って、仏道修行しにきているからだ。本気で修行したいから、仏を学びに来て、帰依を求めた人を私は見たことがない。口先ではそう言っているが、心では別なのがいる。所謂「身命を捨てゝ而彼を救護せずんば」とは、命を失うのを恐れないことであって、最も簡単な例と言うと施身法だ。施身法を修める行者は、自分の体すら顧みないで修めてはじめて成就することができるのだ。

どうして施身法を修めれば、済度できるのか。それは、釈迦牟尼仏が仏典の中ではっきりと説かれているように、人が死んで中陰身に入ると、人と違って鬼通を持つようになるという。鬼通を持つ中陰身は、誦経し修法してくれる人が命を惜しまずに衆生を助けられるかどうかを、鬼通を通じて分かってから、受け入れて、済度されるようになるのだ。称名したり誦経したりすれば済度できると勘違いしている人が多いが、実はそうではなく、ある程度の果位まで修めなければ、執着心が比較的重めの中陰身は済度を受け入れてくれないからだ。

(以前の)古い道場での話だが、ある元弟子は道で友達に出くわして話していると、友達の師匠がインドで往生したのを知った。当時、私はまだリンポチェではなかった。その弟子は相手の方に、「こちらでは施身法法会が執り行われているから、あなたが参列すれば、うちの師匠からあなたの師匠を済度することができるよ。」と言った。私は当時そんなに要求を課していなくて、参加したいだけ参加させていた。あの亡者は(仏教以外の)外道を修めるものだったが、彼自身は自分が仏道を修行していると思っていた。私が鈴を揺らして施身法を修めた時に、彼は機嫌が悪く、私のほうに駆け寄って「どうして私を引き寄せて済度させるのか」と言った。彼は私の慈悲心と定力が足りているかどうかを試したかったのだ。彼は私を傷つけようとしていたが、傷つけることができない。施身法を修める際に、そなたらは私の生身が見えたとしても、中陰身の衆生は見えない。何故なら、観想を通じて私の体が見えなくなっているからだ。彼は勢いよく私のほうに駆けつけたが、私の体が見えなくてどうしようもなかった代わりに、私の鈴を引っ張ったのだ。引っ張られた鈴の紐は直ぐにも切れてしまった。私は心が動じず、もう一個の鈴を取って、揺らして修法をし続けて、彼を済度させたのだ。

もう一つの事例は弟子の義理の父親だった。彼は生前に何十年も、とある有名なお宮で、青い漢服を着て信者らにサービスを提供していた。私が彼を済度しようとした当日、彼も不機嫌そうに駆けつけてきた。その背後には衆生が大勢ついてきていたのを私は見ながらも、彼を済度させたのだ。

この事で証明できることは一つだけで、それは私が凄いのではなく、慈悲心・ねだる事がない心が出るまで修め、命も惜しまない行者のみ衆生済度できるということだ。不共四加行を修め切ったら、衆生済度できると思ってはならない。何かしらの呪文を回数を満たすまで唱えたら、衆生済度できるとも思ってはならない。仏典では既にはっきりと説かれているようにだ。だから、仏道修行すると、ここが痛いやら、あれが問題だやらと、終日心配している者には、学ばないことを勧める。私は密法を学ぶと発心した時に、すぐ倒産し、離婚し、お金に事欠くようになったようにだ。そなたらだったら、まあまあいい方だと、「もしかしたら、私には密法を学ぶ資格がないではないか」と、それよりちょっと劣った人だと、「密法は私に害を与えるのかな」と、もっと劣った者なら、「上師には資格が足りていないのではないか。私は修行したいのに、どうしてよくクリアできるように助けてくれないか」と思ったりするが、これらはすべて一般人の考え方だ。私にはそんな考えはなかった。私の場合は、「よし!あんなに忙しくしていては修める時間なんかない。食事に事欠いたほど貧乏になったのは、時間があるようになって、修めるに最適だ!」だと思っていた。

リンポチェに対して正しくない見解を持つ人もいるが、これについて主に二つの方向から説明することができる。まず、過去世で私は間違いなく人を批判したことがあり、自分の福報はまだ円満になっていないことだ。とはいえ、釈迦牟尼仏さえ批判されたのに、いわんや微小な上師をや。第二に、よく人を批判する者は累世の業が重いのだ。前回も、誰かが過ちをたくさん犯したのを見ても、心が動じて先方を批判してはならないと言ったようにだ。そなたらに言わないでいてもらうことは難しいのだ。言わないと、口がムズ痒くなるからだ。だから、上師まで批判する者は、一般人を批判しないことなどはない。そなたらは人の欠点ばかり注目していて、人の良い所に目を向けていない。逆に、自分自身に対する場合、長所だけ見えていて、短所は少しも見えないのだ。明らかに鼻筋が真っ直ぐでないのに、これが東方の美だ、胴長なのに、自分は人とは違うと言う人こそ、自分の欠点が見えないわけだ。

仏典を解き明かすということは、私が凄いやら、そなたらには福報があるやらを表すのではない。仏道修行した以上、仏典で書かれている諸仏と諸菩薩の修行方法はまさに我らが学ぶべきことだということを表している。進んで学ぼうとしないのなら、この道を離れるのみだ。離れた人は学びたくないに決まっているし、多くの理由をつけて上師があれやこれやと間違っていると批判する。もし、私はあれこれと間違っていれば、どうやって衆生を済度し続けられるのか。もし、私の全てが間違っていれば、それらの鬼衆は私の言うことを聞くというのか。聞くはずがないだろう。

仏典を通して、我らは自分の仏道修行に対する心構えがどうなっているのかを見直すべきだ。信者になりたての時、あれやこれやと求めたりするのを強く非難することできないが、いったん仏道修行し、仏法を聴聞したり修習したりするようになると、仏法を以て自分らの心構えを調整しなければならない。この段階で金輪際、仏菩薩は私が望んだ事を助けてくれるに決まっていると思ってはならない。もし、物事がそう運ばなくても、きっと上師が霊験あらたかではないやら、上師にはどこかがよく出来ていないやらで、私は求めても得られないと思ってはならない。もし、私はそんなに凄く、そなたらが望むことだけ、すべて私は満足してあげられれば、きっとこの通りにある全ての家は私の物になっているはずだ。だが、それは事実ではない。

今、私はだんだんと弟子を入れなくなっている。もう飽きた。皆の顔よりも、私はもっと仏菩薩が見たいからだ。自分は業障が重くて、ずば抜けた弟子を入れることはないし、年齢も年ごとに重なっていくものだから、そなたらと費やす時間がそんなにないと知って、数年前から、私はリタイヤしたいと法王に申し上げたことがある。絶えず皆に仏典を言い聞かせているのは、そなたらの常識を増やす為ではなく、正しい観念を伝えようとしているのだ。仏典が言ったことに間違いはない。仏典から出典した内容すら疑っていれば、いっそのこと仏道修行をやめたほうがいい。リンポチェはわざとそれを言い間違えたりすることはないだろうか。それに関しては、心配ご無用。ここにこんなに出家衆がいるのだから、仮に私が言い間違ったら、きっと一人も居てくれないだろう。仏典を解き明かすのは、自分らの心構えが果たして調整されているかどうかをそなたらに見極めさせる為なのだ。

経典:「世尊、我れ是の行を修して無上覺を證せば、彼の國中の出家の菩薩をして、彼の夢間に於ても漏泄なからしめん。」

この一節は不動仏について言っているのではなく、あらゆる一切の有情衆生について言っている。いわゆる習気(しゅうき)そのものだ。そなたが六道のどの道にいようと、我らが生まれ変わることになるのは、すべて淫欲によるものだ。心の中が清浄で淫欲がなければ、自然に生まれ変わらない。たとえ天界に生まれようと、それも淫欲によるのだ。最も修め難いのは、まさにこれなのだ。だが、我らは有情衆で、在家で修行している者だ。釈迦牟尼仏は『宝積経』の少し前のところでも説かれたことがあるが、「菩薩道を修める者は、眷属から何かしらの要求を拒否してはならない」と言っており、これがそなたの縁なのだ。出家衆は決してこの一節を言ってはならない。上記の一節で言いたいことは、彼の心の中では、この事に対してもう清浄になり、無くなっているからこそ、制御ができていることだ。

密宗には「夢瑜伽」という修行法門があるが、夢を修行として見なしている。周知のように、昼間考えたことはよく夢に出ているという。夢に出たことは、全て昼間考えたことによる反映だ。いや、私は今生にこんな事なんかしたことがないなんてそなたは言うだろうが、それでは、嫌がってもしょうがないのであって、それは前世でしたことによっているからだ。清浄まで修めることはそう簡単、容易なことではない。聞経(もんぎょう)・聞法(もんぼう)する他、我らは戒律・持呪を通して、我らの絶え間なく妄動する心を落ち着かせ、落ち着いた後、清浄なる本性が顕われるようになるのだ。

例えば、百字明呪を唱えることこそ金剛薩埵を修めることだとか、金剛薩埵を観想するともう修めたことになるのだとかと思い込んでいる人が多い。実は、金剛薩埵は非常に大きな法門である。前回、私は金剛薩埵には外・内・秘密と瑜伽部があると少し触れたが、後半の部分に関しては私は伝えるつもりはない。金剛薩埵は報身仏である。言い換えれば、もしそなたが今生に菩薩道を学び、行い、累世で菩薩をすると決心していれば、金剛薩埵を修めると、早く成就できるということだ。もし、そなたがただ業障解消のみを考えているのであれば、それは効果を発揮することはない。多くの人は、百字明呪を唱えれば業障を解消できると言っている。確かにそうだが、そなたの修行に差し障る業を解消するのであって、そなたが気に入らない・必要だと思わない業を解消するのではない。

こんな話が言えたのは、不動仏が菩薩果位だった時に、既にあらゆる密法を修め得られていたという意味だ。そこまで修めていなければ、こんな願を発するわけがないからだ。私自身も閉関修行を経験したことがあって、これは好き勝手に言えることではないとはっきり知っているからだ。もし禅定の功力が足りていず、そして自分の貪念が減少していなければ、まずそれは有り得ないことだ。

経典:「世尊、若し我れ此の一切智心を發して、乃至、無上菩提を證得すとも、我が佛刹中の若き諸の女人に、女の過失あること餘の土の如くならば、終に正覺を取らじ。若し正覺を取らば、則ち一切の諸佛を欺誑すと為さん。と。」

この一節は解説しにくい。今後、私の仏土では、もし女人に過失がある場合だったらを指すのだが、過失とは何だろうか(餘の土:娑婆世界・四大洲)。単に男女間の欲望を指すだけではなく、女衆は男衆よりも嫉妬心・瞋恚の心を起しやすいこともある。だが、現在は必ずしもそうとは限らないような気がする。今や、男性のほうが嫉妬心・瞋恚の心を起しやすいらしい。というのは、わが仏土に生まれ変われた女人は、きっと生まれ変わる前から、私の所に来る前から、行者であったはずで、しかも菩薩果位まで修め、既に清浄になっているからこそ、私の所へ来させたのだ。よって、ここは浄土・阿弥陀仏国土と違うのだ。阿弥陀仏の国土へは、そなたの悪業を綺麗に返済し切って、善業がまだ残っていれば行けるところだ。だから、女の身で行こうと、男の身で行こうと、どちらも可能だ。この一節では、彼女が来た以上、女としての過失をいっさい許さないことを表している。簡単に言えば、女衆で後世にも女の身でいたい者の場合、不動仏の国土に生まれ変わることを求めれば、きっと女性の生理も発生しなくて、お金が浮くほか、面倒な事もかなり少なくなるので、心が動じすぎることも無くなるのだ。

私が拝読した他の仏典では、他の菩薩もこんな願を発されたのを見たことがない。不動仏だけ、こんな願を発されている。言い換えれば、不動仏は最も度し難い人を専門に度するのだ。女人は度し難いものだ。道場は女性でいっぱいだが、実際に度せるのは何人もいない。今や、男性もなかなか度し難いものだ。末法時代は、男女ともに平等だということは、この点から見れば確かに平等だ。だから、これ以上、男のほうが凄いやら、女のほうが凄いやらと争う必要などない。どちらも同じく度し難いぞ。

経典:「舍利弗、若し菩薩、此の大願の種子を以て成就せば、念に隨つて是くの如き諸法を出生して、能く衆生のために種々の教を説かん。舍利弗、時に比丘あつて、不動菩薩に白して言はく、大士、若し誠心退かず至言妄なくば、願はくは、足指を以て大地を揺動せんことを。と。時に、不動菩薩は佛の威神及び本願の善根力を以ての故に、彼の大地をして六種に搖動せしめたり。謂はゆる動・大動・遍動・搖・大搖・遍搖なり。」

この段落はとりわけ、不動菩薩は既に円満なる功徳力を具備し、その善根による力によってはじめて大地を六種の震動にさせられることを表している。いわゆる揺動は地震と異なり、こうした動ではそなたは恐怖心を起さないし、いかなる災害や損失も引き起こさないのだ。どうして大地は揺れるのか。暇だから揺れているのではない。どの惑星も、どの仏土も因縁によって結合されたものであって、何れも地・風・水・火・空という五つの元素から成るものだ。こんな結合はもとより無常で、常時変動し、安定したものではない。仏典には、国土は危脆だが、仏菩薩の本願による善根力を通じ、こうした動は良くないのをふるい落とし、良いのを残すようになるとある。もし、本願・善根力が足りていなければ、こんな状況になることは有り得ない。まるで、私がプルパ金剛を修める際に、皆は地が揺れたと感じるように、それは修法者は本尊と相応し、本尊のご来臨によって、この土地の地・風・水・火・空をすべて配列し直すようにさせたからだ。つまり、善を残し、良くないのを振るい落とすから、地が震動するのだ。仏典曰く、持呪が成就した場合、仏像は揺れると言う。要は、私が日本の城崎温泉寺で持呪していると、木彫の古い観世音菩薩の仏像は前後に揺れるようになったのと同じ意味だ。

経典:「舍利弗、彼の不動菩薩摩訶薩は昔の所願の如く、今已に成辦せり。是の故に、菩薩摩訶薩、證阿耨多羅三藐三菩提を證せんと欲せば、應に不動菩薩摩訶薩を學ぶべし。」

というのは、今後、そなたらは法身菩薩を証したいのであれば、不動菩薩が発された願を見習うべきだということだ。

経典:「若し菩薩あつて、善く其の行を修せば、當に彼の佛刹の如き獲、及び能く速に阿耨多羅三藐三菩提を證すべし。」

ひたすら菩薩道を修めている者が、不動菩薩のような修行を学べば、きっとそなたの仏果・空性の菩提心を証することを加速させるのだ。

経典:「爾の時に、舍利弗、佛に白して言はく、世尊、不動菩薩の初發心の時に、幾何の天子而ち會に來集せる。佛、舍利弗に告げたまはく、彼の時に三千大千世界の有らゆる四大天王、及與び帝釋・魔王・娑婆世界の主、梵天王等は皆歡喜・合掌是くの如き言を作さく、」

舎利弗は世尊に「不動菩薩が発心しだした際に、天子(天の天子)がどれぐらい集会に参列したのか」と聞いた。三千大千世界とは、即ち宇宙全体のことで、非常に多いということだ。これは仏教辞典の中にも説明がある。ここでは、どうして魔王について触れたのかと言えば、天の中では、天帝は輪廻を繰り返すもので、仏・菩薩ではないからだ。魔と呼ぶことは、輪廻するという意味で、先方が良くないと言う意味ではない。

経典:「今此に所の功德の甲を被ることは、我等、昔未だ曾て聞かざるなり。」

天にいる天人・天帝すら、こんな修行方式を聞いたことがない。

経典:「世尊、彼の不動菩薩の成佛する時に當つて彼の刹中に於ける有らゆる衆生をば下劣の善根を以てしては成就するを得じ。と。」

不動菩薩が成仏する時、その国土でのあらゆる衆生は、ちょっとした人天福報の善根を修めれば成就できると思うことはない。

経典:「舍利弗、佛に白して言わく、世尊、佛の所説の如く、不動菩薩の被甲せる功德は、諸餘の菩薩に未だ曾て有らざりし所なり。佛、舍利弗に告げたまわく、是くの如し、是くの如し。諸餘の菩薩の大甲冑を被て、無上菩提に發趣せること、不動菩薩摩訶薩の如き者あることなし。」

仏は再び仰せになるが、舎利弗、そうだよ、他のあらゆる菩薩が大甲冑(修行の仏法を被って修行するのは、彼を保護する鎧を被るのと同じだ)を被り、無上菩提を発したとしても、不動菩薩と比べると、不動菩薩が発された大願に勝ることはない。

経典:「舍利弗、彼の不動菩薩の、功德を成就せることは、賢劫の中に於ける一切の菩薩に皆悉く有ることなし。」

不動菩薩が成就した一切の功徳と言えば、賢劫(非常に長い、長くて仕方がない時間)という長い歳月の中で、不動菩薩の如くこんなに大きな功徳を成就した菩薩はない。

経典:「舍利弗、爾の時に、廣目如來は不動菩薩摩訶薩に阿耨多羅三藐三菩の記を授けて言はく、善男子、汝、來世に於て當に作佛を得、號して不動如來、應・正等覺・明行圓滿・善逝・世間解・無上丈夫・調御士・天人師・佛世尊と曰ふべきこと、然燈佛の我が與めに授記したまへるが如し。と。」

あの時、廣目如來は、不動菩薩は未来仏で、そしてどの世成仏することになると記を授けていた。廣目如來は不動菩薩に、将来、そなたの名号は不動如来であると言った。よって、仏様の呼び方は全部その中に書いてある。まるで、然燈佛が釈迦牟尼仏を授記した時のようにだ。

経典:「舍利弗、不動菩薩の授記を得たる時に、大光明の普く世界を照すあり。是の時、大地の六種に震動せること、我れの往昔一切智を證せる時に、此の大千界の六動に震動せるが如し。」

不動菩薩が授記を得た際、大光明を放って普く世界を照らした。つまり全宇宙を照らしたということだ。そして、大地に六種の震動が発生した。ここに一個の千と書いてあるのに対し、前のほうは三千大千と書いてあることから、釈迦牟尼仏の管轄は如来仏のより狭いことが分かる。一個の大千世界と、三千大千世界とは、かなり違う。

経典:「復次に、舍利弗、彼の時に、三千大千世界の有らゆる草木、叢林は皆菩薩に向つて傾靡せること、亦我が昔菩提を證せる時に、一切の草木傾いて我れに向へるが如し。」

例えば、菩薩が西方に居られた際に、当時、三千大千世界のありとあらゆる花・樹木・叢林といった物はすべて菩薩に向かって傾いたりしていたことだ。私が菩提を証した際も、一切の草木が私のほうに傾いてきたようにだ。仮に誰かが自分は仏だと名乗ったのを聞いたら、名乗った方に対して、それでは草木は傾いてきてくれたかと聞いてもいい。もちろんそういう風に背景を加工するのも有りだが、こんなのは騙しても騙せないことなのだ。

釈迦牟尼仏は、授記されると大光明を放ち普く世界を照らす上、大地に六種の震動が発生すると特別に言及されたが、私自身の場合もまさにそうだった。要は、成仏すると授記されるというのはこういうことだ。彼だけではなく、私自身もそうだったし、廣目如來もそうだったし、未来仏だと授記される仏には、必ずこんな現象が発生するわけなのだ。あらゆる樹木・花・草が傾いてくれるようになる。私もそうだった。つまり、あらゆる仏はこうなるのだ。こうならなければ、偽りだ。「自分は何らかの未来仏やら、何らかの宗やら」と名乗る人もいるが、そんなのを絶対に信じないで欲しい。我らにはある仏典に基づくという方法がある。例えば、中国本土の華厳宗は『大方廣佛華厳経』という仏典に基づいて修行することによって生まれたものだ。これは釈迦牟尼仏が説かれた仏法だと分かっている。仮に、釈迦牟尼仏が説かれた仏法ではない宗が突然現れた場合、それは気を付けるべきだ。いくら仏法ばかり言ったとしても、僅か数十年のうち急にできた宗なんてないから、気を付けるべきだ。一つの宗を作るには、最低でも菩薩果位が必要だ。そうでなければ、不可能だ。

経典:「復次に舍利弗、不動菩薩の、佛の記を蒙れる時に、彼の大千界の有らゆる天・龍・夜叉・阿修羅・迦樓羅・緊那羅・摩睺羅伽は皆悉く合掌して菩薩を頂禮せること、我れの此に於て大菩提を證せるとき、娑婆世界の有らゆる天・龍等の皆悉く合掌して我れを頂禮せるが如し。」

天龍八部は全員で合掌して、不動菩薩に頂礼する。釈迦牟尼仏は大菩提を証した時、娑婆世界にいる全ての天龍八部もそうした。

経典:「復次に、舍利弗、彼の不動菩薩摩訶薩の授記を得たる時に、彼の世界の中の有らゆる女人の懷孕せるもの、皆、安和の分釋を得て諸の苦難なく、盲者は視るを得、聾者は能く聞きたること、我れの成佛の時の如く等しぅして異なるあることなし。」

何故、現在妊娠が上手くいかない女性が多いのか、盲者(見えない人)が多いのか、それは仏の成仏がないからだ。我らは苦難の中に生きており、自分らは快適な生活を送っているなんて思ってはならない。自分が努力してお金を儲けたり貯めたりすれば、良い生活が送れるなんて思うのは、全部間違いだ。この世界で成仏する仏が居なければ、我らは全て苦難の中にいるというのに、衆生はまだそれを知っていない。ここでははっきりと言っているが、求めさえする必要がなく、あらゆる女性は妊娠したいだけ妊娠できるのだ。(仏教以外の)外道の言い方とは違って、上から飛んできて妊娠させるのではなく、必ず夫を必要としていて、仏様と関係がないから、誤解をしないように。ここで言っている意味は、彼が記を授けた際に、あらゆる女性は妊娠したいだけ妊娠するし、お産の過程も順調で、母子ともに安全になり、難産によって帝王切開することはないことを指す。

女性が子供を産む際に帝王切開することは、過去世・累世の殺業が重いことを表している。無痛分娩や、帝王切開すれば痛くないなんて信じるべきではない。考えてみろ。魚を殺す時、卵を取る為にどこから包丁を入れるのか。お腹からだ。鶏のずりもお腹から切って取るものだから、帝王切開で出産した者はもっと懺悔するべきだ。人によって、出産は卵を産むように簡単な人もいれば、一週間痛くても生めない人もいる。後者の場合、この子供は債務を取り立てに来るに決まっている。債務の取り立てに来た以上、更に心を配って返すべきだ。無暗に返すのではなく、仏法を以て返すものだから、自分はもっと修行に励むべきだ。子供を法会に参列させるだけで、子供はすくすく成長し、自分にもっと孝行し、自分が気に入った嫁をもらってくれるし、また良い孫をもうけ、将来金運成就して安穏な生活ができると思ってはならない。そう思っているのであれば、彼を連れてくるのを勧められない。我らは苦難の日々を送っている中、願い通りの子供を産めるわけがないではないか。

我らは自分が罪業の深い存在だと信じるべきだ。仏道修行を始める前に、肉をどれだけ食べただろうか。仏道修行する前の頃、妊娠時に、健康状態を懸念して、あれやこれやと栄養補給しただろう。何れも返すべきだ。出産の時に、帝王切開してまず一件返済する。『地蔵経』でもはっきりと書いているが、いかなる婦人が出産する時にも、地蔵菩薩は善神を遣わして妊婦を出産中の死から保護するという。妊婦は子供を出産して後、殺生してお祝いし、仏菩薩からの御恩をすっかり忘れると共に、この子供・家庭・妊婦に重い悪業を植え付けさせるようになるのだ。、現在の子供が教えにくいわけだ。昔の人は、産後ケアは自宅でしていたが、今や専門の産後ケアセンターまである。そこに泊まって、最も良いものを選んで食べて、栄養補給すればするほど、悪業が深まるようになる。決して面白いと思ってはならない。これは楽しくないのだ。

これを弁えた上で、仏道修行者はどうやって自分の人生と向き合うか分かるようになる。でなければ、漫然と、独りよがりに今生を最後まで送ってしまうようになる恐れがある。今生が終わって、来世にまた来るとしても、返すことは決まっており、永遠と返し切る日はやってこないものだ。我らは福報が良くないからこそ、仏が在世する時代に生まれていない。自分らが仏道修行していると思ってはならず、今学んでいるのは枝葉に過ぎないのだ。仏が居られれば、我らはこれだけの物を享受することができる。なぜかと言うと、仏様の福徳は多すぎるからだ。

釈迦牟尼仏が生まれたネパールのある一帯の方々は、今でも仏が残された余福を享受している。ネパールの他の地域と比べると、その一帯の人々は比較的良い生活をしている。2000数年も経ったのに、動物でさえ他の地域より良い。前回、私はインドに行った時、仏陀が最後に説法された舎衛城に行ったが、その周辺はまだいい生活をしているが、少し離れた所では良い生活はしていない。インドの猿はふつう怖いが、お経を解き明かして説法した敷地内の猿はそれらと違う。じっと座っていて、人の物を奪おうとせず、人からくれるならもらうが、くれなかったら寄ってこない。これを通じて、仏が居られるのと、仏が居られないのはどんなに違うかということを思い知らされた。そなたらは今や仏菩薩の余福に少し接点を持っているから、それを大切にするべきだ。自分の生活のために、気軽に仏道修行を諦めようとする姿勢はよくない。また、上師が厳しくて怖いと思う人も多いが、仏典通りにすれば、少しも厳しくはないだろう。そなたらにとっては、どの一項目でもなし得ないだろう。私はすでにそなたらに緩めに対応している。それに対して、そなたらは好きなだけ自分を放縦させていて、仏道修行については気に入った事だけ拾って学び、気に入らないことを学ばないようにしている。そんなものではない。そなたの未来世にとって大事なことであって、今生に身に付けなければ、後世で学ぼうとしても、そう簡単には行かないぞ。

経典:「復次に舍利弗、彼の不動菩薩摩訶薩の阿耨多羅三藐三菩提に發趣し、及び廣目如來應正等覺菩提の記を授けたる彼の二時に於て、一切の衆生に橫死の者なかりしこと、亦我が一切智時を證せる時の如く異なるあるなきなり。」

ここでは明瞭に言っているが、廣目如来が不動菩薩を授記した場合、一切の衆生は横死(事故による死)を免れるという。まるで最近法会への参列ができなくなった弟子の話のようにだ。幸いなことに彼は自分でベストを返却しに来ていなかった。彼は頭蓋骨が裂けたほど、ひどい交通事故にあった。かつて、彼は私が経営しているレストランで働いていたが、いつも事をし損なってばかりいた上、職場をめちゃくちゃにしていた。私はこの事を知った日に、少し彼の事を考えただけだが、今彼は集中治療室を出たそうだ。

寶吉祥帰依弟子のベストを返却する人もいる。私にとって、これはどうでもいいことで、私と関係ないことだ。ただ、このベストを返却したら、安全バリアがなくなるわけだ。これは自然に発生するもので、私がわざと皆を苛めようとするわけではない。このベストは価値がないと多くの人に思われている。しかし、これは上師から頂いたもので、ベストの上にも寶吉祥のロゴと直貢噶舉のロゴが印刷されている。もっとはっきりと言えば、別にこのベストをはおっても守られるわけでもないが、少なくともこの関係が繋がっているから、そなたに何かがあったら、きっとリンポチェも心が動じるだろう。ベストを返却していなければ、最低でも名義上は私の弟子であることから、私は多かれ少なかれ気にかけてあげる。

私は心念をちょっと動かせば、彼は目が覚めるようになった。あの日、頼という弟子からの電話で私にこの事を知らせた時、彼は死なないよと私は言った。私は医者でもあるまいし、どうしてあんなにはっきりと言えたのか。これこそ、仏典で説かれた「橫死の者なかりしこと」そのものだ。「あんなに凄いのか」と疑う人もいるだろうが、私はちっとも凄くなく、全ては仏菩薩によってご加護くださったお蔭で、これで私は自分の弟子を世話する能力が生じるようになったのだ。だから、ベストを返却するという衝動がある皆を、私は絶対阻止しない。そなたらがリンポチェを批判しようと、罵ろうと、私は怒らないでいる。そなたらはこの道場を壊すようなら、私はただただ感謝の気持ちだ。何故なら、これが私のリタイヤするきっかけとなるからだ。

私はもう75歳だ。私の今の状態では、あと十数年生きても問題ないと思う。ただそなたらの為にこんなに気を遣う必要があるというのだろうか。例を挙げると、二人の弟子に、帰依していない80代の母親がいるのだが、彼女は心臓に問題があって、むかし私に救われたことがあるようだが、私は既にそれを忘れている。彼女は心臓のことで支障がないようかつてリンポチェに救われたことを思い出したから、私に会った時に台湾語で「彼ら二人はいつも私を医者に診てもらうように連れて行っている」と愚痴った。

もう、うんざりだという意味だ。私に会えば、医者に診てもらう必要がないと思われている。だが、医者に診てもらわないと、結果は二つに分かれる。一つは、今すぐ早々にあの世へ行くから、医者に診てもらう必要がなくなる。もう一つは、寝たきりになって、動くことも、医者に診てもらうこともできなくなる。だから、昨日私は彼女にどうしても医者に診てもらえと言い、台湾語で「分かったかな」と聞いて、彼女は「分かった」と答えた。

どの人も私を仙人のように見なしていて、加持されるだけで病気が治ると思っているようだ。加持されるだけで、そなたは完治するのであれば、もともと身にあった良くない物はどこへ行くというのか。私はそれを粉々にすることができない。たとえ、煙の分子となって宙に舞い上がったとしても、宙の中にあるから、消えているわけではない。消えていない以上、みんなの分を漏れなく私は吸い取るというのか。私が命を顧みず全てを吸い取ったとして、果たして、私はどうやってもっと多くの衆生を救済することができるのか。

「リンポチェ、身体の不調があれば、楽に感じるまで弄ろうか」と私に聞いてきた人がいたが、私は要らないと言った。行者として、体に少し不具合や病気があるのは普通だ。こんなに多くの衆生を助けていると、分子や原子が飛んでくるのは当たり前で、これほど小さな物からは避けられようがないではないか。多少は入るものだ。まるでミラレパ尊者もかつて仰せになったように、彼に加持された衆生の病は全部彼の身に降りかかっているという。ミラレパ尊者の身に降りかかるなんてと信じない人もいたから、尊者は「さぁ、見せよう!」と言って、全ての病の力を全部発散してみると、ついに部屋の扉を打ち砕いてしまったという話もあった。

だから、たとえ私の体調がよくなくても、不調の箇所も一般人と違う上、私はそれを気にしないし、愚痴らないでいつも通りに高座に上がって説法している。そなたらにはどれぐらいの業があるのか。大きい数字は言わないで。そなたらを1000人として、一人当たり10件で計算すれば、計何件になるのか。そなたらは、誰もが少しでも不調だったら、ワーワー言うではないか。だから、もう贅沢を言わないでくれ。人は年を取ると、不具合があっても正常なのだ。だから、年を取っても楽に感じている者は正常ではないわけだ。神経がなくプラスチックで作られた人間でなければ、こんな可能性などない。若しくは、そなたは若返ったことになる。だが、現社会ではこんな法なんかないぞ。

そなたを完全に楽を感じさせるわけなどないではないか。そんなのあるわけがない。そなたは日頃から体を動かないし、唱えないのだから、どうしようというのか。リンポチェは今でも毎日30分間運動するようにしている。どうしてか。良い生活の為ではなく、こんなにも私を煩わせてくれる人がいるから、体力がなくてはどう過ごすというのか。先ほど六字大明呪を持したことを取り上げると、きっとそなたらは唱えれば唱えるほど体が冷えるだろうが、私はそれに反して発汗したのだ。どうして発汗するのか。それは私が呪文を唱える際、使った部位が皆と違うからだ。そなたらは肺と声帯を使って唱えている。

(リンポチェは、法会が始まる前に自身の経験を語った柯という音楽家弟子を指名して、リンポチェがどの部位を使って持呪しているのか分かるかと聞いた。柯という音楽家弟子は、リンポチェの持呪を聞いた限りでは、いわゆる声楽の方法を用いるのではなく、多種多様な音が出ているように聞こえると答えた。声楽家が歌っているところをたくさん聞いてきた彼自身の経験では、どの種の歌唱家であろうと、どの国家・民族音楽の声楽家であろうと、歌を歌う際には多層の倍音列、或いは説明しようがない声が伴って震動することはないが、リンポチェの持された六字大明呪を聞いていると、少なくとも一個の高周波の倍音列がある他、一個の副旋律があるように聞こえていると答えた。)

実は、持呪というものは詰まるところ、そなたらが思うような、声帯で発声するものではない。仏法で言えば、いわゆる「自性念仏」というのは、こう自然に清浄なる法性から出る声であって、ひたすら六字大明呪を唱え続ければ自性念仏するまで唱えられるわけではなく、必ず密法と禅定の修習を通じてから、さらに体にあるもう一個のシステムを起動して持呪することだ。だから、『普門品』で言及された「梵音海潮音、勝彼世間音」だが、もしこのレベルまで唱えなければ、そなたには「梵音」、「海潮音」のことが分かることはなく、文字通りに体得するだけしかできない。

実は、彼が言ったこの二つの言葉は、音波の変化と震動を指している。音楽を学んだ経験のない者には、音波の震動を体得することが難しい。何故なら、音波の震動によったクォーク・分子・原子による摩擦から、さらに非常に高い周波と非常に低い周波の音が発生することになる。それは人類で発せるような音ではない。まさに柯という弟子が言ったように、それは多くの民族音楽でも歌えない領域だ。これを通じて自分の凄さをアピールしたいのではなく、これは学び・修行によって得たものなのだ。

どうしてこんな音を用いなければならないのか。我ら凡人の耳は意識を頼って聞くものであるが、それは我らの清浄なる本性の中に入れない。簡単に、声楽を例に取り上げると、こんな音波では体の中にある強烈な業力を震動させられず、特殊な音波を通じてはじめて業力は震動される。震動され、次第に散っていき、そなたの清浄なる本性はこうなってはじめて現われるようになる。清浄なる本性が現れないと、そなたはだんだんと学びたくなくなる。学んでいるうちに、学びたくなくなる人は何故いるのだろうか。それは彼自身の心の中に自我の考え方があり過ぎて、抵抗する心がこんな周波・音波の震動を受け入れられないからだ。本日、私は周波・音波について多く触れたから、いちばん勉強になったのは柯という弟子だろう。そして、きっと彼がフランスに帰ってからも、よく眠れるに違いない。(柯という弟子は、リンポチェからの御恩を有難く感謝しますと答えた)

経典:「彼の二時に於て、一切の衆生に橫死の者なかりしこと、亦我が一切智時を證せる時の如く異なるあるなきなり。」

釈迦牟尼仏も、彼自身が授記を得た際に、天龍八部からの頂礼も得、しかも授記の時に、衆生に横死がないことと仰せになった。

経典:「復次に、舍利弗、彼の不動菩薩の授記を得たる時に、悅意の香ありて普く世界に熏ぜること、亦我が昔大菩提を證せるときに、妙香遍く聞えて意に適せるが如く異なることなし。」

不動菩薩が授記を得た際に、ある香りがする。その香りを匂ったら、悦喜する。「普く世界に熏ぜる」とは、世界中でこの香りが匂えるということだ。「妙香遍く聞えて意に適せるが如く異なることなし」というのは、嗅ぎたいと思ったら、匂わなくなることだ。集中して心が動じなければ、匂える。先ほど私が六字大明呪を持した時に、香りを感じる人もいれば、感じない人もいるようにだ。(リンポチェは、その場に居た弟子らに、リンポチェが六字大明呪を持した時、香りを嗅いだ人はどれぐらいいたかと聞いた。確かに嗅いだという弟子が多かった。)

匂わないことは、何を表すのか。つまり、私が持呪をしていた時、そなたの心はここにない、或いは自分のことばかり考えていたのだ。例えば、リンポチェが自分を加持してくれて少しでも具合をよくさせるとか、リンポチェはどうして持呪するのだろうかと考えて気が散ったりするとか。香りを匂った人がいるということは、私が凄いのではなく、仏菩薩からのご加護なのだ。そなたらはどうして匂わないのか。それはマスクをつけているからではなく、心がここにないからだ。仏道修行したいから法会に参列するのではなく、守られたいからだ。だから、香りが現れた時でも匂わないのだ。匂った人は、今日はより落ち着き、専念し、絶対にリンポチェを信じる人だということを表している。匂わない人は99%信じない人、しかも自力で修め得られると思っている。間違いなく、自力では修め得られないのだ!

そなたらには共通の問題があるが、それは仏典の解説を聞いても自分に対してあまり効果を発揮しない、それよりも法を修めるほうが効果があると思っていることだ。仏典を解き明かすに過ぎないし、自分は成仏したいわけでもないし、リンポチェが言っているのを一時間以上も聞いても、ちんぷんかんぷんだと思っている。法を修めるほうが、直接の加持だ、熱く感じるのだと思っている。仏典の解明を聞いても、感覚がないなんて、まったくそなたらの分別心だ。分別心が出れば、自然に仏菩薩がされた全ての動きを感じ取れない。何故なら、そなたの心はもう清浄ではないからだ。

そなたらの今日の調子を説明するのに「意に適せるが如く異なることなし」がもってこいだ。もし、そなたの意が本日の殊勝な仏法の法会だと完全に思っていれば、香りが匂える。「異なることなし」というのは、まさにそなたらが今日は法を修めるのではなく、聞きに来るのだと思っていることだ。現在、私もだんだんと違いがどこにあるのか気づくようになった。法を修める日には、親切そうに供養を多めにしてくれたり、仏典を解き明かす場合、少なくなったりする。仏典も仏法ではないか。よって、仏典を解き明かす場合だと、加持してくれたり、病気を治してくれたりするのではないと思って、誰もが区別している。

しかし、今は不動如来が成仏した方法について言っている。この加持は大きくないか。だが、そなたらは区別している。そなたらからの供養を見れば、区別していると分かる。なかなか面白い話だよ。ここ数年間、外れたことはないぞ。数字も大体そこらへんに維持している。本当にまいったな。どれも私が説法しているのに。まさか仏典を解き明かす時のほうが、私の広東訛りの国語が聞きづらいのでは。

そなたらの分別心のせいで、私がどんな仏典を解き明かそうと、そなたらは聞き入れない。逆に言えば、こんなに法を修める道場はないぞ。他所では、年に二回・三回ぐらいで済むのに、我らのように頻繫に修法するところはあろうか。これがまさに、そなたらは今でもまあ横死していない理由だ。当たり前のことなんかない。そなたらの区別は止まったことはない。本日は仏典を解き明かす予定だが、もともと用意していた供養金を一枚減らそうとか、仏典を解き明かすのなら、どうせ自分は成仏を目指して仏道修行しているわけではないし、それも口を動かすに過ぎないだろうと思っている。修法だと、小鼓を揺らしたりするし、大変そうだから、ちょっと多めにあげようとか。

私を同情しないでくれ。ご自身を同情するといい。あんなにもはっきり分けられるなんてすごいではないか。もともと言うつもりはないが、「意に適せるが如く異なることなし」との一節を説くと、言い出さなければならない。つまり、事はご自身が作ったのだ。どうして釈迦牟尼仏は「全員が匂う」と言わずに、特別に「意に適せるが如く異なることなし」ということを言い出されたのか。

かりに私は菩薩道を行うと発願していなければ、本当に仏典を解説すればするほど、止めたくなっていると思う。「意に適せるが如く異なることなし」との一節を解説すると、本当に止めたくなってくる。ほら、仏典の解説だと安く、修法だと高くしてあげよう。こうなったら、今後の修法に価格を提示すればいいのか。私はそうしたくもなく、ただそなたらの意に従い、そなたらの意に適合するだけだ。仏典を紐解いて仏法を宣説すると、それが加持だ。そなたらは完全にこれを身に付けないし、あれやこれやと法を求めに来ている。どうやって求め得られようというのか。基本的な観念すら不十分なのに、長く帰依すれば伝法されると勘違いしている。長く帰依する特典がある。それはそなたが厄介事に見舞われても、私はそなたのことをちゃんと覚えているからだ。しかし、そなたらは仏典に書いてあることを忘れ、依然気ままに自分を放縦し、自己中心的に物事に対応している。このままでは、どうしようというのか。

経典:「爾の時に、舍利弗は佛に白して言はく、世尊、彼の不動菩薩摩訶薩は是くの如き廣大なる功德を成就したまへり。と。佛、舍利弗に告げて言はく、彼の不動菩薩の佛の授記を蒙れるとき、唯此の功德ありしのみにあらず、又能く無邊の功德の彼岸に到れるなり。復次に、舍利弗、彼の不動菩薩の、廣目如來より佛記を與授せられし彼の時の天人・世間・阿修羅等の心は、皆、悅慶して柔順に調善せること、亦我が無上菩提を證せるとき、諸天人等の皆同じく歡喜せるが如し。」

この段落では、不動仏が前に現わしたのはこんな功徳だけに留まらず、無辺功徳彼岸まで行かれるという意味だ。先ほど言った授記の時に現れた様々な事は、ただ彼の福徳円満によって現われたものに過ぎず、無辺功徳彼岸まで行かれることにはなっていない。だが、不動仏はそうなっている。彼の福徳円満によって現われた現象の他、その功徳円満によって我らを無辺功徳彼岸へ連れて行かせることができる。つまり仏国土に行くのだ。

経典:「復次に、舍利弗、彼の不動菩薩の授記を獲たる時に、大夜叉の手に金剛を持ちたるありて菩薩を侍衛せること、我が如くにして異なることなし。」

釈迦牟尼仏は、不動仏が授記を得た際に、菩薩を保護する為に手に金剛杵を持った夜叉があることは、私と同じだったと仰せになった。この段落は、如何なる名号の仏も、あらゆる仏の円満功徳によってこんなことが現れるが、もしそれがなかったら仏ではないとされる意味だ。たとえそなたが十地菩薩まで修めたとしても、授記を得る前は、これらの功徳は現われない。というのは、仏からの授記を得てはじめてこれらの事が現れるのだ。授記とは、そなたは成し遂げると確信する予言だ。

どうして仏による授記があんなに重要なのか。仏は我々に妄語をしてはならないと教えている。だから、無いことを敢えて言うことはない。つまり、仏はこの菩薩は将来必ずどうなるのかを見てはじめて授記するわけだ。仏ならその心がどうなるとはっきりとわかるから、授記するのだ。まるで法王が私の為に書いた長寿文のようだ。簡単に言えば、これも授記だ。もし成し遂げられなかったら、法王は書かないだろうし、その下にも自分は誠懇して記したと書いてある。法王は私に誠懇するのではなく、衆生に誠懇し、仏菩薩にこの弟子は今後どうなると誠懇して言うのだ。即ち、諸仏菩薩は私が精進してこの道を邁進するよう加持・護持してくださるのだ。

いわゆる長寿文とは、私の世間での寿命が伸びるほか、私の法も含めて伸びることで、衆生はそれを必要とすれば、この法は伝わっていくことになる。ここで言及された全ては、誰でも仏だというのではなく、三十二相八十種好(さんじゅうにそうはちじっしゅこう)の他、これらの現象が伴って現われると、我らにはっきりと教えている。例えば、密宗では、あらゆる木々を自分のほうに傾けさせるような大神通を修めている。ただ、この種の大神通は一般人では修め得られるものではないとされることこそ、ここで言及されたことと呼応している。どうして密宗の大神通は、木々を自分のほうに傾けられるようになるまで修められるのか、それは彼は既に未来仏と授記を得ているから、木々が彼に傾くようになるのだ。そうでなければ、そうはならないに決まっているし、いくら呪文を唱えようとも、そうならない。

この法門は、自分に能力があるかどうかをはっきり認識させ、菩薩果位を見極めて未来仏になるのを確認する為に存在している。だが、現在、この法門を得た人は何人もいないことも既に仏典の中で言及されている。密宗は釈迦牟尼仏が説かれたものではないと疑ったりする人もいるが、これは疑いもなく釈迦牟尼仏が説かれたのである。不動仏が授記を得た時に、木々は全て彼に傾いたし、釈迦牟尼仏の時もそうだったと、仏典のこの部分で明瞭に言っている。よって、この法は実在する法だ。密法もそうだ。まるで前半で言った、「彼の夢間に於ても漏泄なからしめん」ということも、もし密を修めていなければ、なり得ないようにだ。絶対に無理だ。

だが、どうしてここでは直接に密と言わなかったのか。それは、仏はこんな法門は一般凡夫向けではないと思って、触れないようにされたのだ。これが菩薩を対象に言われたものな以上、菩薩が聞くとすぐ密法だと分かるわけだ。それに対し、そなたらが聞くと、「ほんとうか。嘘だろう!」と思っている。間違いなくそうなる(木々が傾くようになる)。柯という弟子の言ったように、私は豪邸に住んでいるし、スポーツカーに乗っている。どうしてか。行者には何も彼も持たないはずではないか。だが、実際はなぜそんなわけがあるのか。我らは大法を修める時、阿弥陀仏が宮殿の中に住んでいる。宮殿が綺麗なもので、その中がどれほど荘厳なのかと色々観想する必要がある。仏はそれを持ってどうするのか。どうして彼の為に、あんな宮殿や高価な品々を観想してあげなければならないのか。

『無量寿経』の中に、浄土の木には金や銀があると書いてあるように、修行しているのに、金や銀を持ってどうするのよ。これこそ、福報が集まることだ。多くの人は菩薩道を修める者は、食事に事欠く貧乏人だと思っている。確かに、昔、私は食事に困った時期もあったが、菩薩道を修め始めてから、福報が少し集まるようになり、当たり前のように、福も集まってくれている。以前、何人かの音楽家弟子は音楽を以て私を供養しようと言ったが、私はそれは要らないが、交響楽団を結成して演奏させようと言った。不思議にも、以前どうしても招きにくかった有名な演奏家の皆さんは、今なぜか来てくれるようになったのだろうと彼らは思っている。今回の演奏で88名も集まったのは、どうしてだろうか。

私は全くの素人だ。ピアノを弾くことすらできない。指揮の棒を手に持っても、ただ人を叩くのに使えるくらいだけなのだ。だが、どうして寶吉祥交響楽団が出来たのか、そしてどうしてこれらの有名な演奏家が惹き付けられてきたのか。もちろん、これらの音楽家弟子が一生懸命に探してくれたお蔭でもあるが、彼らが喜んできてくれるのも寶吉祥という看板・リンポチェの福報があってはじめて、自然に集まるようになったのだ。一人で楽しむよりも、皆で楽しもう。私が一人で彼ら数人の演奏を聞くよりも、皆で聞こう。聞いて喜ぶ人が多いからだ。

どうして私はこれ等の事をするのか。かつて私も言ったことがあるように、彼らから「寶吉祥はいいよね」と言われるだけで、福報が起きることになる。何故なら、寶吉祥は祖師ジッテンサムの名号だからだ!だから、私は商売で損しても最善を尽くしたい。実は、2021年、会社は赤字になったが、赤字のことを自分で堪えて皆に言わないようにしているが、最善を尽くしたいと思っている。ある弟子は防疫ホテル(検疫対象者対応ホテル)に泊まった時に、ホテルのスタッフがミシュラン三つ星のお弁当が用意してあると言って、開けてみたら、寶吉祥のお弁当だというようにだ。だが、そなたらが大したものではないと疎んじている物を、人からミシュラン級のお弁当だと見なされている。疎んじる他、高いとそなたらは思っている。だが、今や安いものはあろうか。

本日は、商売について言っているのではない。ただ、仏典で説かれた事は全て正しいから、決してそなたらの考え方で上師を批判しようとしてはならない。何故なら、私は仏法通りに実践している人だからだ。そなたらは私にこんなに長く仕えているから、分かるはずだと思うが、医療費や学費などに困ったりする人がいれば、私はちゃんと出している。死んでから、葬儀費用がなかった場合、私は出しているし、済度してあげる人がいなければ、私も済度している。以前、ある出家弟子が亡くなってから、私は弟子の代わりにその母親を五年間世話していた。その母親を養うだけではなく、月に六万元で介護士を雇って世話した上、葬儀費用まで私が持った。

リンポチェはお金持ちだとよく思われているが、私のお金はいつもこうして布施している。そなたらだったら、惜しまずに布施できようか。しかも、この母親にまだ子供がいるが、彼らは(お金を)惜しんでいた。私はただ出家弟子と、その母親のことを責任を持つと約束した通りに実行し、約束した以上やり抜くのだ。世間の事を責任を取るほか、亡くなってからも私が責任を負うことこそ、菩薩道だ!枝葉のようなことで私を判断するのではなく、私がしたことも成し得てはじめて、私を批判する資格があるのだ!

これらの出家弟子にも母親がいるが、その中の誰かに五年間世話するよう任せ、月に6万元手当するほか、葬儀費用も済度も負担できる人がいれば、もう私を批判してもいいぞ。誰か敢えてする者はいないか。ひょっとしたら、最初の一年は本気そうにやっているかもしれないが、二年目から、知っていたらやらなかったのにと後悔している。菩薩道を行うのも、そなたらが思ったように持呪したり、衆生済度したりすることではなく、ほかにも多くの世間の事に煩わされている。

最近、とある病院は私の日本食品小売店の商品を販売できるよう招いてくれた。私はそれを承諾した。そして、この活動による収益を全額彼らの慈善基金に寄付すると約束した。私は商売しに行くわけではなく、寄付しに行くのだ。寄附となると、当然のようにお金が関わってくる。すべて私のお金だ。私は多くの事をしているが、ただ言わないようにしているだけだ。そなたらは人が言ったのを聞いたりするべきではなく、私を批判するべきでもない。何故なら、私がしたことを敢えてするような人は、そなたらの中には一人もいないからだ。私は、自分は完璧な人間だとは言わない。なぜかと言うと、私はまだ成仏していない、成仏こそ円満だから、成仏する以前、八地菩薩になる以前、多少習性は残っているが、そなたらはわざと、そなたらが正しくないことろをピックアップして、私に対処しようとしている。私の正しいところを、何故黙って言わないようにしているのだろうか。

だから、私が法を修める時に多めに供養しよう、法を修めない時に少なめに供養しようという状況が生まれるわけだ。本日、そなたらは今まで通りにしてくれ。私が言ってからわざと多めに供養するのも、私の不快を招くことになる。言われてからする、言わないとしないなんて、そなたらもあまりにも厚かましすぎるのではないか。

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2022 年 05 月 08 日 更新