尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年12月12日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』巻第十九「不動如来会第六之一」を開示された。

不動如来はもとより瞋害の心を起さないよう修めることを説かれているが、どうやって瞋の心を起さないようにするかについてここでは仏は説明されていない。実は、瞋の心を起さなければ、害の心も自然に起こらないようになるのだ。私自身の修行経験から言えば、そなたらに取り付きから慈悲心や菩提心が出るように修めてもらうのはさほど簡単なことではないと分かっているが、一つだけ有情衆生ならできることがある:「恩を知ること、恩を感じること、恩に報いること」。それは、単に親切にしてくれた人だけが対象ではなく、ひいては我らの怨敵に対しても恩を知る・恩を感じる・恩に報いる心を起すべきだ。自分に関わる事・人や物と向き合う際に、いくらその過程でいざこざや揉め事が多くあったとしても、こんな心持さえ持てば、瞋害の心は起こらないようになる。

多くの人は、「彼は私に危害を加えたから、復讐しなきゃ!私を苛めてはならないと思い知らせる!」と言っている。だが全宇宙で最も大きな力は慈悲なのだと私はかつて言ったことがある。もし、恩を知ること・恩を感じること・恩に報いることすらしないのなら、この人は間違いなく修行者ではない。また、多くの人は私の前に駆けつけて、「リンポチェのご恩を有難く思っております。」と言うが、私はそんなのを言う必要はないと答えている。何故なら、恩に報いることがなく、仏道修行しようとしていないから、それはありがとうに替わる挨拶に過ぎないのだ。勝手に、「リンポチェのご恩を有難く思う」なんていうべきではない。ご恩を有難く思っていれば、話を聞いて修行しろ。そなたらは、意地になって修めようともしない。

自分に「恩を知ること・恩を感じること・恩に報いること」を訓練しなければ、修行において永遠に瞋の心を動じないようになることはないのだ。菩薩道を修める者は六波羅蜜を修める必要がある。前半の三つは福を修め、後半の三つは智慧を修めるものだ。これも実は方便で、我らが布施・供養をしている時、同時に持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を修めているのだ。多くの人は前半の三つを先によく修めてから、後半の三つを修めようと思っているようだが、実はそうではない。布施・供養する際に、後の五つも同時についてくるものだから、どれか一つを捨てようともなかなか捨てられない。また、多くの人は「忍辱とは、びんたを食らっても、叱られても、私は癇癪を起さないことだ」と思っているが、実はそうでもない。

仏が指す「忍」とは、全ての良いこと・悪いことを忍び、そなたの心はちっとも動じないことだ。忍辱の頂点に「無生法忍(むしょうぼうにん)」があり、俗世間の様々な出来事に対して、心が動じたり、変化したりすることが一切ないという意味だ。忍とは、歯を食いしばって耐えるのではなく、見破っていることから、自ずと忍ぶようになるのだ。布施・供養をし始めると、自然と持戒し、窃盗もしないようになる。布施できる人は、貪念を起すことにならない。もちろん例外もあるが、「私が1元を出すと、10元をくれ!私が10元を出すと、全てが上手くいくよう守ってくれ!」なんて、これはまったく布施ではない。六波羅蜜を修める菩薩道は、そなたが進んで布施・持戒・忍辱すれば、それからは修め続けるようになり、分けて修めるのではなく、同時に修めるのだ。

恩とは何であるか分からなかったら、恩を感じることが自然にできなくなる。この恩に感謝しなければ、恩に報いることが自然にできなくなる。多くの人々は、「私に親切にしてくれたり、救ってくれたり、私に命を保たせた人こそ恩人だ。私の妻をさらによくさせた人こそ恩人だ」と思っているが、実はみな間違いだ。奥さんが病気になったことから、そなたが法会に参列するようになったので、奥さんの怨敵こそそなたの恩人なのだ。又は、「リンポチェよ。私は今腫瘍を患ってしまって、ここ20年修めていませんでした。」というのも多くいる。彼らは消極的に死を待つ態度を持っている。決して死を待ってはならない。でなければ、『阿弥陀経』で説かれた「福徳・因縁を欠かせない」ことに背くことになる。何故なら、そなたはもう修めるつもりがなく、リンポチェに済度されるのだけ待っている。福徳・因縁が無ければ、いくら私に済度されたとしても、せいぜい三悪道に堕ちずに終わるが、阿弥陀仏の身許へ行く資格などがないのだ。

ある私の出家弟子はこの間病気になったが、病院から退院して彼の寺院に戻ってからというもの、終日大の字でベッドに横たわっていて、体を動かそうとしなかった。誰も彼のことを世話する人がいなく、彼が出家する前の息子は肉を食べるし、煙草を吸うから、彼を侍することができる状態ではない。彼はまだ生きているが、ただ気持ちよく穏やかな最期だけは迎えたいと考えているのを、私は知っている。私からポワ法を修めてあげると約束したからだ。よって、私は別の出家弟子に、「帰ってからそなたらの住職に、費用は私が持ちますから、その病気になった出家衆を老人ホームへ送りましょう」と伝言を頼んだ。その出家衆がこの話を聞くと、翌日、すぐ起きるようになり、今は歩けるし、念仏もしている。ということは、死にたくても福報がないことだ。それでも、まだベッドに横たわって死を待てると思うのか。

ある弟子らは帰依して20年も経っているが、今は乳がんに罹っている。「リンポチェ、私はきちんと実践していない」と泣きながら言ったが、そなたはもともと全くしていないのだ。「私はそれ(がん)と共存する」なんて言う時は、そなたが諦めて修めていない時だ。私はこんなにも自身のことについて言い聞かせているのに、誰一人も覚えたり、聞き入れたりしていない。かつて私が皮膚がんに罹っても、法王に「私は皮膚がんに罹って、死だけを待っていますから、今後は法王からの済度をお願いします」と言わなかったことを皆にも言ったことがある。私は恩を知り、恩を感じ、恩に報い、こんなにも海鮮を食べてきたから、癌に罹らないわけにはいかないだろう。だから、上師が教えてくれたことを私はひたすら実践し続け、何も聞かず、求めず、医者にも診てもらわずにいた。私は40代で発病して、74歳になった今はまだ癌細胞があるかどうかが分からないが、少なくとも現在まで生きている。そなたらはかえって問題をリンポチェに擦り付けているだけなのだ。「前もってリンポチェに供養しておきますから、済度をお願いします。」というなんて、前もって供養しておくことは、ただ自分が死んでから、お金が出せないのを心配して先に供養するだけなのだ。こうして私を縛っておくと、私は済度をしてあげなければならないことになる。死ぬ直前すら、心がこんなにも悪い!何の法門を修めようと相応しないのは何故だろうか。それは心が悪いからだ。

この出家弟子にはまだちょっと福報があるから、私がこう言ったのを聞いて、老人ホームに行ってしまうと世話してくれるのは女の人ばかりで男の人がいないから、それはいけないと思った。出家して長く、こんなにも年を取っているのに、裸になって人に触られるなんて思うと、彼は這っても起きなければならない。このことから、彼は戒律を守っているとわかる。そなたらはどう。最初は泣いたり、懺悔したりしにはやってくるが、その後、すべて医者に責任を負わせるようにし、死に際に少しも尊厳がないことになる。何故なら、訴えられない為に、医者としてはSOP(標準作業手順書)に則って処理しなければならないからだ。そなたらは進んで福徳資糧を蓄積しようとせず、少しでも福があれば自分は幸せ、自分はよく修めていると思って、この福を享受するようにしている。

『宝積経』では明瞭に説かれているが、菩薩道を修める者は受用することはできるが、摂取することはできないという。我らが人間界で持っている全ては、事切れた時から何れも自分らの物ではなくなっている。仏道修行し修法すれば、福報が上がるに決まっていると、釈迦牟尼仏は既に我々に教えているにもかかわらず、そなたは自分が成功したと思っている。例えば、博士課程に受かったのは、毎日自分が唱えているおかげだという念頭を起すと、福報はすぐ使い果たすようになる。何故なら、そなたはせっかくこの福が出るまで修めたのに、これからも修行し続けようとせず、それを自分が成功した、満足していることばかりに振り向けているからだ。試験に受かるようにと求めに来る人が多いが、何れに対しても私は手伝わないでいる。日ごろ努力しないくせに、手伝ってもらいたいと思っている。もし、私が手伝ったら、別の人はひどい目に遭うことになる。何故なら、別の人が受かるはずだったところを、私が手伝ってそなたが受かった分、その人はチャンスを失ってしまうからだ。こんなのは全て因果に背いている。

出家衆も含め、仏道修行する者は受用だけはするが、摂取してはならない。「今の生活が安穏だから、菩薩は私を世話してくれている」なんて思うと、もうお終いだ。福を享受する心が起きれば、この福は修法・仏道修行に使うのではなく、人天福報に使ってしまうようになる。こういったことは頻繫に発生することだから、出家弟子らは気を付けるといい。『宝積経』では菩薩道を修める者は絶対高慢になってならないと何度も言っているが、まさにこれを指しているのだ。「自分は…になりますようにと観音菩薩に祈り求めます」というふうに、多くの人々は仏菩薩に何かくださいと求めているが、いったいそなたは何をしたのだろうか。「福」というものは、修行に使われていなければ、そなたに危害を及ぼすのだ。何故なら、福を享受に使うと、使い果たすとないものになる上、そなたがかつて作った悪業が訪れるようになるからだ。帰依して20年の弟子は、どうして発病するのだろうか。彼はもう満足しているからだ。「毎月の収入が決まっていて、全てが整っているから、きっと私がよく修めたおかげだ」。成仏しなければ、いいとは言えようか。

ちょっと実感を持たせるように、喩えよう。我らは今真っ暗な野外で生活しているとして、何も彼にも持っていない。野外で一晩過ごすには、最も大事なのは火を起して暖を取り、料理を作り、動物が近づかないよう防ぐことだ。火を起すには火種が必要で、息を吹くだけで着火することにならない。クンダリーニ(拙火定)まで修めれば、別論だが。火種は、二つの物が摩擦し合うことによるもので、因縁そのものだ。火種の他に、火を燃え滾らせるように、木の枝・落ち葉をたくさん拾わなければならない。着火してから、途中で何度も薪を加えなければ、今のそなたらみたいに、火がだんだんと消えてしまうようになる。我らは止まらずに新しい薪を入れなければならないから、毎日修めるべきで、一秒でも立ち止まってはならない。火が燃え滾っていると思って、ちょっと出かけてくると火が消えているのだ。

火が燃え滾ると、気持ちいいと思うと同時に、あまり近づきすぎると火傷する。そなたは火に触れられるか。触れられない。にもかかわらず、どうして皆は福を享受したがるのか。福報は火と同じように燃えている。火は我々を助けられるものだが、ポイントはその使い道にあるのだ。間違えて使うと、そなたを死なせたり、火傷させたりする。誰しも火傷の経験がありながらも、火がなければどうにも生活が成り立たない。火は福報と同様で、正しく使えば人生において助けになるが、間違えて使うと自分を負傷させる。どうして福を大切にするのか。お金を使ってはならないというのではなく、福の使い道について大切にしなければならない。享受に使うべきではない。

自分のお給料は毎月使い果たしていると言い張ったあの弟子は、洋服を買ったり、食事に行ったり、映画を見たりして享受している。だから、お給料を毎月使い果たしているというのは、自分を騙すことだ。不動仏が言い及ばれたこれらの事は、全て仏道修行者としての根本条件だ。恩を知らず、恩を感じず、恩に報いない人は仏道修行する者ではない。ひたすらリンポチェから何かもらうことばかり思っている。それを手に入れることができなかったら、すぐいなくなってしまう。これらの人たちがここに来た理由は、好きな物を手に入れたかったことのみだ。手に入らなければ、去ってしまう。仮に三宝に対して、恩を知り、恩を感じ、恩に報いるのなら、離れられようか。いや、離れられない。多くの人は「自力でいける」と言っている。だが、不動仏・阿弥陀仏すら上師がいる。まさかそなたらは仏よりすごいのか。また、そなたらは釈迦牟尼仏には上師がいないと言ってくるだろうが、仏典によれば、釈迦牟尼仏は兜率天から降りられ、彼はそこで成仏する寸前まで修められて、地球で仏をすると発願されたということから、前の何世には上師がいることが分かっている。仏のお教えに従って仏法を修習しようとしなければ、永遠に門外漢に留まるのだ。

智心を以て廻向すると、この廻向にはねだる事がなく、智慧でいっぱいの心で廻向することだ。それに対し、そなたらからの廻向は願い事でいっぱいだ。私はこの法門を修めて因縁を引き起こし、衆生の為にこの事をしたから廻向するべきだ。逆に「今、この法門を修めて私を開悟させ、福報を持たせる」、「私を健康にしてくれ」、「嫁が話を聞き、菜食してくれ」…なんて全く関係がない。そなたらからの廻向が効かないわけなのよ。たまには霊験あらたかな時があるとしても、修行に関しては効かないのは当然だ。

ここでは何度も智心について触れており、つまり俗塵の心で廻向するのではないと言っている。かつて私も言ったように、ご自身で発明した方法で廻向してはならない。テキストや仏典でのお教えに基づいて廻向すればいい。ある人たちは、「廻向を女房に振り向けなければ、いつか彼女が病気になったらどうすればいいか」と思ったりするが、もし、そなたにこんな思想があれば、それはこの仏道修行は台無しだということを示している。先週、緑度母を修めた際に、テキストに「修法する者はその守りたい衆生を守る」とのこの一節があるが、私がこんなにも苦労して修めるのは何のためなのか。私の為でもない。もし、そなたの心は仏菩薩のと違っていたら、あらゆる衆生を守れようというのか。

テキストには、「本尊緑度母が私を加持し、私に本尊の智慧と功力を満たさせ、今後、私は衆生を保護することができる」とある。ポイントは二つある:私が緑度母を唱えて、緑度母がそなたらを保護するのではない。緑度母はそなたらと無関係だ。現在、世界中の仏道修行者はほとんど(仏教以外の)外道になっており、終日「観世音菩薩よ、私を守ってください!」と求めている。観世音菩薩はそなたらと関係がない。何故かと言えば、そなたはまだ阿弥陀仏の身許へ行く準備をしないで、ひたすら俗世間のことを求めているから、相手にされることはない。だが、衆生利益すると大願を起し、本尊と相応し無二無別するような、媒介・仲介人がいる場合を除く。この場合は、そなたらが衆生を利益すると求めると、持呪してそなたらを加持するのだ。無事を求めたいそなたをちょっと加持したりする。まさか、観音菩薩・金剛薩埵が自分を加持したとは思わないだろう。というのは、そなたを加持したこの人本人が、既に本尊と相応するまで修めたから、彼がそなたを加持する際には、ちょっと唱えたりすればいいようになることだ。多くの人は、自分がすごいと思って、毎日数千遍を唱えれば、人の代わりに唱えさせることができると思っている。本尊と相応しなければ、どう唱えようと効かないのだ。

経典:「舍利弗、時に異なる比丘ありて、是くの如き念を作さく、此の菩薩摩訶薩は、初發心より精進の甲を被て」

ある比丘は念頭を一つ起した。初發心から精進の甲を被り、初發心から成仏するまで、とどまることなく精進し続ける。ここでの「菩薩摩訶薩」とは、法身菩薩を指す。

経典:「一切衆生に於て瞋等の為めに搖動せられず。と。舎利弗、時に彼の菩薩をば此の念に因る故に妙喜の國中にて號して不動と為せり。」

全ての有情衆生に対し、瞋念を起したりして初發心を揺らすことはない。この菩薩はこの念頭に因んで妙喜國中で不動と呼ばれるようになる。

経典:「時に廣目如來、應正等覺は、彼の菩薩の不動の名を得たるを見て隨喜・歎善し、四大天王・釋・梵世主も彼れの名を聞き已つて亦皆隨喜せり。」

その時、廣目如來はこの菩薩がこの国土で不動という名号を得たのを見て、随喜してその善を称讃された。四大天王・二か所の天の主もこの名前を聞いて随喜された。

経典:「舍利弗、彼の不動菩薩摩訶薩は彼の佛前に於て是くの如き言を作さく、世尊、我れ今此の一切智心を發して、是くの如く阿耨多羅三藐三菩提に廻向す。」

かの人が発された願は、我らのと全く違う。菩薩は仏の前で、自分を成仏させるよう廻向するやら、自分がどうなるかと廻向するやらと言わない代わりに、阿耨多羅三藐三菩提に廻向すると言っている。どうしてこう廻向するのだろうか。多くの人は、廻向とはちょっと言い出したりする程度で済むことと勘違いしている。だが、如何なるテキストも三つの部分:前行、正行、廻向に分かれている。前行とは、前もってこの法を修める心をどういう風に準備するかということだ。正行とは、この本尊を修めるに当たっての祈請文・本尊の智慧と功徳・持呪のことだ。最後は廻向になる。

この言葉から言えば、仏菩薩への供養にしろ、衆生への布施にしろ、何れも全て我らが差し出した力は戻ってくるということだ。彼らも我らに廻向するという意味ではなく、虚空中の全ての功徳大海は一つの循環となるからだ。仮に、我らが修めた僅かな功徳を回向せず、自分にだけ振り向けていていたら、功徳を多めに得ることにもならない。何故なら、そなたは諸仏菩薩の功徳大海と一つになることができないからだ。六道衆生も絶えず輪廻を繰り返しながらも、それなりの功徳がある。全ての衆生は多少なりとも仏法を聞いたり、唱えたり、修めたりしたことがある。これも私がひたすら皆の注意を喚起している所以だ。我らへの怨敵に対して、恩を知り・恩を感じ・恩に報い、廻向してあげるべきであって、「追放するよう廻向する。廻向すれば、彼に恨まれないから」というのではない。私の功徳を以て、先方と恨みを交換することこそ、廻向だ。

癌を罹った多くの人が如何に懺悔しても効かないのは、彼らは廻向を恐れ、果敢に廻向することができないからだ。昔、私が癌に罹った時も、私は自分の癌細胞に廻向せず、ひたすら阿耨多羅三藐三菩提・浄土に廻向している。そうしたら、面白いことにこの癌細胞が度されたのか、ついに消えてしまったのだ。そなたらは「私は懺悔したから、癌細胞は許してくれる」とひたすら思っているから、そなたの懺悔は無効だ。何故なら、そなたの本当の内面世界において、その最も深いところでは、苦しみが欲しくないと考えているからだ。恩を知り、恩を感じ、恩に報いる心で廻向していず、自分は苦しみが欲しくないと望んでばかりいるからだ。「私は自分の非を認めたのに、まだどうするつもりなのか」、「私は既に仏菩薩に自分の非を認めますと申し上げた。仏菩薩が立ち会っているのに、また何が欲しいというのか。さっさと離れてくれないか」こんなのはそなたらの心持だ。

そもそも大礼拝(五体投地)は最も殊勝な懺悔法門だ。テキストに、10万遍の大礼拝(五体投地)をし切ったら、業力が半分無くなり、修行に差し障らなくなるとある。どうしてこの先にもこんなに障礙があるのか。例えば、百字明呪を2年もかかって唱え切る場合やら、私から曼達献上を授けたとしても、そなたはどうのこうの意味が分からないやらがある。どうしてだろうか。基礎が固まっていないからだ。そなたらが大礼拝(五体投地)をする際、ひたすら自分が被害を受けないようにと懺悔していては、どうして役に立つというのか。どうして大礼拝(五体投地)をするのだろうか。累世でこんなにも悪業を造ったのに、唱えるだけで解決できそうか。体を苦しめなければ、それら怨敵はそなたを許すわけにはいかないだろう。気楽に一日を過ごし、10万遍の大礼拝(五体投地)をよくできていなければ、後から引っかかってしまうに決まっている。

10万遍の大礼拝(五体投地)をし切って百字明呪を求めに来たとしても授けない。百字明呪を唱え切って曼達献上を求めに来ても授けない。私は金剛部を修める者で、絶対に冗談なんて言わないし、社交辞令も言わない。何故なら、そなたらは大礼拝(五体投地)を正しく行っておらず、ただ運動しているだけで、内面世界では自分の非を認めていないからだ。

以前も言ったが、法王から私に大手印を授けようとした時、私は閉関中だった。法王は私に関房から出ろと命じたが、私は法王にどうか11万遍の百字明呪を唱え切ってはじめて法を頂きに参りたいと申し上げた。しかも、十日間以内で唱え切った。私は自分が生生世世で多くの業があると深く信じている。それに対して、そなたらは自分が生生世世で多くの善があると思っているから、法の求め方が適当だ。そんなに偉いなら、高座に上がって二時間でも話してごらん。

どの人もなんやかんや言って、この日曜日どうして来られないのかと私に言っている。来られない理由として、他の人の両親を代表して結婚式の立会人をしなければならないと言う。結婚式の立会人をすることが、こんなにも大切なのか。そうだったら、今後病気になっても、私の所に駆けつけないように。先方に事前に約束したからと、そなたは言うだろうが、そなたもリンポチェに毎週法会に参列すると約束したではないか。そなたが厄介事に見舞われた時に、どう約束しただろうか。少しでも安穏な生活があると、また二の舞を踏むようになり、義理人情のほうが重要だと思ってきている。夫を一人で行かせてもいいし、プロの結婚立会人を雇ってもいいだろう。法会を一回サボっても、リンポチェは知らないと思われるだろうが、私は知らないとしても、そなたの怨敵はちゃんと知っている。

私は仏道修行し始めてからリンポチェになった今まで、接待の会食に行っていない。今年ももう少しで終わりを告げる。自分なんか見通しが立たないと思ってはならない。もし、そなたがそうだったら、いくら仏法を説き聞かせてもそなたの役に立てない。自分のことが触れられていないと思ってはならない。仏の説かれたことは、殆ど全員の問題だ。

経典:「乃至、未だ無上正覺を證せざるに、所修の行業或は此の言に違せば、則ち無量無數の世界の、諸佛如來の安住・説法したまふ者を欺誑すと為さん。」

不動菩薩の説かれたりなされたりした全ての事は、決して自分自身の願力に背くことがない。

そなたらは終日私を「欺誑」している。帰依した時、戒律を守れとか、どうのこうのすべきだ…とかはっきり伝えたのに対し、そなたらはどれも喜んで守ると言ったのに、今はどう。もう守らないというのか。仏はここで「安住・説法したまふ者」を付け加えたのは、リンポチェを「欺誑」してはならないということだ。リンポチェはただ一人だと思いきや、私の背後に無数にいる。本当に用事があれば、どうして正直に言ってくれないか。「リンポチェは知らないから」と思いきや、多くの事をよりにもよって私は知っている。何故なら、私の背後に無数にいるからだ。私のことはさておき、アキ護法のお傍にどれぐらいいるかすら分からないぞ。我らが唱えるテキストに、アキ護法の眷属は数十いるとあるが、また数十の眷属のお傍にまた数十いるから、合わせて数万もいるだろう。適当に一兵卒でも遣わしたら、そなたは打ちのめされるだろう。現在、私は弟子が一人増えても減っても平気だ。もう70代なのに、リタイアしていられない。こんなに苦労して、何の為なのだろうか。

経典:「世尊、我れ今此の大心を發して是くの如く迴向す。乃至、未だ菩提を證せざるに、若し一一の語言に於て念佛及び一切智と相應せずんば、則ち一切の諸佛を欺誑すと為さん。」

念仏とは称名のことではなく、私の念頭が仏のお教え・功徳と慈悲を考え、そこから離れないことだ。そなたらは自分のことばかり考えている。もし仏果を証する以前に、その言われた言葉や話に仏法でなく一切の仏の智慧と相応しないのがあれば、即ち「一切の諸佛を欺誑す」ことになる。不妄語の戒そのものだ。本物の行者は、普段あれやこれやと、とかく言うことはない。口を開けると、仏法だ。そなたに関わることを言及したとしても、仏法に関わることだ。

経典:「世尊、我れ今是くの如く發心・迴向す。乃至、未だ無上菩提を證せざるに、生生に在家にして出家せずば、則ち一切の諸佛に違背すと為さん。」

この一節もよほどの願を発されている。私が仏果を証することになるまで、もし在家の家に生まれて、出家しないのであれば、一切の諸仏に背くことになる。出家と言えば、四種類がある。一つは身心とも出家、一つは身は出家せず、心は出家する、一つは身は出家するが、心は出家しない、一つは心身とも出家しないことだ。出家とは輪廻の家を出ることだ。我らが在家衆としても、仏道修行する心は輪廻・火宅の家を出離する為でなければ、出家・仏法修習にならない。今生の因縁で我らは在家相を現しているが、我らの心も在家とは限らない。だが、我らは毎日、家の中で、仏法と無関係なことばかりやっている。そうしなければ怒られそうだが、いったんしたらまた仏法に相違する恐れがあると思っている。だからこの前の部分には、重要な一節がある。「若し一一の語言に於て念佛及び一切智と相應せずんば」である。よって、人を罵ったり、批判したり、悪口したりするべきではない。もしそうしたら、念仏していないことだ。

経典:「世尊、我れ今此の一切智心を發して、乃至未だ無上菩提を得ざるに、生生に出家して、若し乞食せず、一坐食せず、食を節減せず、不食に再食し、」

私が仏果を証するまでの世ではいつも出家する。若し乞食でなければ、坐食(一日一食のみ)せず、食を節減せず(自分の食生活を放縦しないこと)

食を節減せず」。ここは出家の人についてだ。食事の時、もし茶碗にご飯が八割だけしか無かったら、この膳はそれでいい、お替わりなんか言うべきではない。これこそ、そなたが今日受用できる福報なのだ。多めに食べたかったら、前もって言えばいいが、もし何も言っておかなかったら、もらった分だけでいい。

ある出家弟子はかつてこのようなことで私に呵責されたことがある。彼は外で食事した時におかずを選り好みしていて、まったく出家衆らしくないからだ。ブッフェではどれを選んだらいいかと迷ったりする人が多い。これが好きやら、あれが嫌いやらと言って、こんなのは本当に良くない。吐くことになるほどの、食べ放題ブッフェも良くない。漢方医は腹八分を勧めている。吐くまで食べるのも「食を節減せず」で、福報にとっても良くないことだ。注文の場合では、ちょっと注文しただけで2、300元もするし、心が痛むから、すぐ止めるようになる。私は若い頃から今まで、一日は朝食・昼食・夕食との三膳で、とてもシンプルだし、腹八分を貫いている。そなたらのうち、朝食を二回・間食・昼食・アフターヌーンティー・夕食に夜食をし、その上、合間にはおやつが絶えない人もいる。

不食に再食し」。出家衆はこの箇条をよく犯している。食べ終わって席を離れた後、「まだ残っているよ、福を大切にするべきだよ。食べに戻れ」と言われると、そなたは席に戻って「再食」したり、雑談したりするようになる。こんなのは正しくないのだ。出家衆は食べ終わると、他でもない、雑談もせずに僧房に戻ることだ。今後、寺院が建てられたなれば、これらの出家衆はお腹を空かせることになる。いったん食卓から席を離れると、もう戻って食べることは許されない。前世は出家した為か、在家である私すらこのルールを知っている。

経典:「三衣を持たず、糞掃衣を著ず、所に隨つて坐せず、常坐せず、阿蘭若に住せず、樹下に安止せず、露坐せず、塚間に住ずんば、則ち一切諸佛を欺誑すと為さん。」

糞掃衣(ふんぞうえ)を著ず」。昔、釈迦牟尼仏が身に纏われた袈裟は、捨てられた服を一枚ずつ切り取り、洗い清め、継ぎ接ぎにして作ったのだ。顕教では、袈裟の外から格子柄の布が一枚羽織られるが、それこそ糞掃衣を表している。ただ、現在は高品質で綺麗な布で作っている。この時代の出家衆は糞掃衣を持っていない。

所に隨つて坐せず」。というのは、出家衆にはそれなりの威儀があるべきであって、出家衆は好き勝手に座ったりしてはならないことを指す。ある出家弟子は、昔、アメリカにいた頃、よく「師僧さん、どうぞお掛けになって、お話ししましょう。」と周りの人に要求されていた。だが、何を話すというのか。出家衆が座るのは、座禅と食事のみで、それ以外のご用はない。芝生にでも座って草を抜いたり、ゆっくり雑談したりするのが好きな女衆らもいるが、これもいけないことだ。

常坐せず」。座禅を指すのではなく、じっと座っているべきではないことなのだ。これも健康のためになる。私はよく私の従業員に「お尻が椅子にくっついているぞ!」と言っているように、あまり座りすぎると、健康に良くないのだ。もう一つのポイントに、出家衆は福を享受してはならないということだ。体調が良くないから座らなければならないと思ってはならない。体調が良くなくて座るのは理解し得ることだが、一日中座ったままのことはない。

阿蘭若に住せず」。即ち、閉関修行しないことだ。

樹下に安止せず」。昔の出家衆は、木の下で座禅し修行するのが多かった。木は酸素を作るから、木の下で座禅するのは、体にいい。

露坐せず」。出家衆が木の下で座禅する際に、蚊に刺されないよう、寺院がアクリル板を用意して彼らを覆ったのを私は見たことがある。

どの法門を修めようと、呼吸が必要だ。木の下だと、いい酸素を吸うことができる。ひたすら家に閉じこもり、外で座ったりしない出家衆にとって、これはまず健康に良くないし、次は衆生と縁を結ばれる機会がないのだ。先ほど、自身の経験を語った弟子(衆生済度事跡第1110号を参考)が、蚊に刺されたことを債務の返却・布施と見なしていると言ったようにだ。もし、そなたの修行が良ければ、蚊もそなたを刺すことがもったいないと思ってできないだろう。満遍なく刺される人の場合には、良く修めていないことを表しているのだ。

あの年、私がラプキ雪山で閉関修行をし、三か月たって関門を成し遂げた時、法王の関房で食事することもできたが、法王は私に、法王と二人で芝生に座って食事しろと直接仰せになった。

塚間に住ずんば」。お墓に住まないといけないという意味ではない。古代の出家衆には決まった住まいがなく、各地を遍歴し、たどり着いた場所があれば泊まったりしていたから、選びようがなかった。例えば、日が暮れて泊まる場所が見つからない場合、あるお墓が掘られ、穴が開いたのを見かけると、そこに泊まろうという状況だ。わざと、誰かの棺桶を掘り出して、自分を泊めようというのではない。現在の出家衆はあまりにも楽すぎて、決まった住まいまである。昔の人の場合は、寺院がなかった。私が舎衛城へ行った時も、仏教寺院を見かけなかったし、あるのは、建ち並んだ狭い部屋・広々とした芝生と菩提樹で、木の下に座っての説法のみで、大雄宝殿などない。

この何節かは、そなたが仏果を証することになるまでは、ひいては菩薩道を修めることになるまでは、そなたの修行は苦しいもので、選びようがないという意味なのだ。何から何まで選びに選んで、気楽なのを選びたいというのであれば、とりもなおさずそなたの修行方式は正しくない。全て縁に従うべきだ。縁に従って過ごし、境遇に従って安住すべきだ。こんなのこそ、出家行者らしいというのだ。

経典:「世尊、我れ今此の大菩提心を發して、是くの如く迴向す。乃至未だ一切智智を得ざるに、若し無礙の辯才を成就せずして諸の妙法を説かば、則ち無數の諸佛を欺誑すと為さん。」

不動仏が菩薩を目の前にして、この願を発したのは重要だ。というのは、彼が一切智(後得智と根本智)を証する前、「無礙の辯才」を成就していないし、彼は諸の妙法を説かないのだ。仏法を説き明かす際に、口任せに言ったり、好きなように言ったりするのではなく、必ず仏典を裏付けにしなければならない所以は、そなたはまだ一切智を得ていないところにあるのだ。我らは仏典・上師が説かれた修行経験を通してだけしか仏法を宣説することができなく、自分に「無礙の辯才」があるから諸の妙法を解き明かすと言うべきではない。

無礙の辯才」とは、弁論や名相の説明が上手いなどではなく、衆生の何ものかが仏法・輪廻に関する全てのことに対して疑い・惑いがあった場合、そなたは答えを与えるのではなく、それについて説明したり、方向を導いたりすることができることだ。答えを与えた場合、因縁法にならないのだ。先方にある方向、ある説明を与えるのは、全てのことはいつでも変わったりして、固定不変なことがないからだ。「無礙の辯才」とは、つまり辯才は無礙で、自分や衆生の業力によって妨げを受けたりすることがない。衆生から仏法を求められるだけで、「無礙の辯才」が現われる。

高座に上がって説法するには、こうして全部得られた場合を除き、決まった修行の過程を経なければならない。その上、そなたは上師から説法が可能だという認証を得てはじめて高座に上がって説法することができるのだ。数年か修め、ちょっと名相(みょうそう)を分かっている状態で、弟子を入れ始めたり、人に仏法を説き聞かせたりするのは、間違っている。

経典:「世尊、我れ今是くの如く發心す。乃至未だ無上菩提を得ざるに、若し三威儀に住せずして、或は立ち、或は坐し、或は經行せば、則ち無量の諸佛を欺誑すと為さん。」

この一節は立ち振る舞いまで言及された。「三威儀」とは、行者にとっては行住坐臥の何れも威儀があるべきことを指す。もし威儀の中に住していなければ、一切の諸仏を欺誑することになる。威儀というものは、見せる為にわざとそのようにするのではなく、修行がある程度にたどり着いて心が清浄になれば、自然に現われるものだ。昔の人が釈迦牟尼仏を見かけると尊重の意を表すのと同じように、その威儀を見れば、思わず尊重するようになるのだ。これこそ、福徳の表れだ。

つまり、「三威儀に安住する」ことは、学んできたり、聞いてきたり、わざと装ったりしてできたものではないということだ。これは、芸能人が作為的なパフォーマンスをするのと違って、修行の福徳によって現われたのだ。福徳によって三威儀が現われると、その中に安住するべきであって、自分の本来の身分を忘れたりせず、行者には行者らしい立ち振る舞いがあるのだ。もちろん、濟顛みたいな行者もいるよと言う人もいるが、それはもう一通りの言い方だ。

或は立ち、或は坐し、或は經行せば」。行者は立つ時、きちんとした立つから、不良の立ち姿にならない。座る時も、それなりの座り姿があって、だんごのように弛んだ状態ではない。ひいては、歩く際すら三威儀がある。私は法座に上がると、脊筋が痛くてもちゃんと背中を伸ばすようにしている。修行の福徳によって、三威儀は自然と現われるものだから、ひたすら精進し、前に言及した精進の鎧を被るのであれば、自然に三威儀に住するようになる。もし、それが消えたら、つまり精進していず、自分は気を緩めたという意味だ。まるでそなたらが自分の気を緩めようとして、唱え終わったら息でもついて、お茶を飲んだり、今誰が話題の的中になっているのかとテレビを見たりするようにだ。どうしてこうなるのか。それは、お勤めをするにしろ、唱えるにしろ、毎日のお勤めはあたかも必須の食事のように、食べ終わってお腹がいっぱいになったら、ゴロゴロしてくつろぐつもりなのだからだ。

法座を降りたからと言って、威儀がなくなることにはならない。だから、法会前に自身の経験を語った弟子は、私が出てきて皆を叱ったと言ったのは、私もまだ道場にいたのに、皆は騒がしく喋ったりしていて、まったく威儀がなかったからだ。他の人に外からこんなのを覗かれれば、みっともないではないか。もし業務連絡があれば、レストランも用意してあるのに、どうして行かないのか。お金がかかるレストランに対し、ここは無料のつもりなのか。ここは無料ではなく、水道光熱費にお金がかかっている!ここを社交室のつもりで使っているのか。前回、私も言ったように、皆はここをクラブのように扱っている。私が指摘したあの時はクラブだったが、指摘した後もなおクラブのままだ。こんなのを黙ってみていられるか。

こんなにも小さなことに、私が手を出さなければならないことから、そなたらの心では三宝を敬っていないことを思い知らされた。仏菩薩と護法はこの道場を離れているのか。どうしてそなたらはそんなに喧しいのか。明らかに私を苛めている!例えば、皆を総統府へ行かせたとして、そなたは総統との面会が終わったら、総統府の中で喧しく話したりするのか。どうして、道場だったらいいのか。そなたらが成功裏に修められていない所以は、自分を緩めていることにあり、聞き終わって、叱られ終わって、費用(供養)も出したから、残りは自分らの事のみだと思っているからだ。いつからそなた自分らのことになっているのか。

友情を深めたくても構わないが、法会後レストランへ行かないかと事前に約束すればいい。(レストランが)満員になったら、少し待てばいい。だが、そなたらはそうはせず、誰もが急いで帰りたいようだ。逆に言えば、急いで帰りたいのなら、どうして法会後に30分でも喧しく雑談していられるのだろうか。広東語の諺に「女が三人揃うと、市場になる」というのがあるが、女性が三人いると一か所の市場になるというと、ここには女の人は何人いると思うのか。どうか仏道修行者らしくなって欲しい。どうしても約束できなかったら、せめてそれっぽくして欲しい。

経典:「我れ今上の如き心を發す。乃至未だ一切智智を得ざるに、或は衆生に於て根本罪を犯し、或は妄語及び餘の世俗の憒閙の言を作し、」

ついさっき私が諭したことだが、ここでも諭している。不動菩薩曰く、我れ今日上の如き心を発し、一切智智を得ず、或いは衆生に於いて根本罪を犯す。つまり、最低限の五根本罪のことであって、菩薩道を修める者なら菩薩戒で、出家衆なら出家戒を決して犯してはならないことだ。犯しても、謝れば、懺悔すればいいと思ってはならない。確かにどうにもならないが、ただそなたの修行に差し障りが出るようになるだけなのだ。

或は妄語及び餘の世俗の憒閙の言を作し」。ここでは俗塵に塗れ、騒然とすることを指すが、ここでの「騒」とは、喧嘩の意味ではなく、騒々しさのことだ。法会が始まる前に、自身の経験を語った弟子が、自分の髪の毛が綺麗に染められたのを見せて、グループ傘下のヘアサロンを宣伝しようとした。だが、宣伝するにもやり方が違っている。ここは道場で、商売する場所ではない。明らかに妄語になっているのに、自分はそれがユーモアだと思っている。どこがユーモアなのか全く理解できない。誰もが、仏典が書かれた通りに、人や物事に接しようとしない。だから、不動仏の説かれた内容を見ていると、私は胸が張り裂けるように痛い。そなたらみなはまさにその言われた通りだからだ。

経典:「或は他論を摧伏する相應の心を起さば、則ち無數の諸佛を欺誑すと為さん。」

他論を摧伏する」とは、別の修行者が説かれた論を打ちくじいて屈伏させようとし、もっぱら自分が正しく、他の人が間違っていると思い、仏典の内容を裏付けにせず、自分の考え方で対応していることだ。よって、もし弁論が好きな出家衆がいれば、それは気を付けたほうがいい。必ずそなたが間違っているとは限らないが、そなたが言っていることは全て仏典を根拠にし、上師のお教えを裏付けにしているのか。それとも、ご自身の見解を根拠にしているのか。それとも、他の人が言っていることは全部正しくなく、自分が言っていることだけ正しいと思っているのか。

仏法を根拠に言えば、「法には定法が無い」ことになる。仏法は我々に実行する為の方向や方法を与えないという意味ではなく、衆生によって業力が違うものだし、衆生に対する法門もそれぞれ違うから、そなたにぴったりの法門は、必ずしも別の衆生にも適すとは限らないからだ。この衆生が学ぶ法門は、仏典からの、上師が教えたのであれば、いくらそなたから見て正しくないと思う箇所が有って、そなたのほうが正しいと思っても、そなたは彼を摧伏するべきではない。先方とは、仏典・大徳らの書かれた論という視野で、切磋琢磨するといいが、先方を打ちくじいて屈伏させようとするべきではない。

現在、台湾ではこんなやり方が流行っていて、こちらの公式ホームページでも、時々こんな書き込みがあったりするようにだ。この間、私は比丘尼には幾つの戒があると言っていた。在家上師としての私は、比丘尼戒を授けるはずがないから、具体的に戒が何個あるかも知らないし、たとえ知っていても言えないのだ。何故なら、私はこの戒を授かったことがないからだ。私が授かったのは菩薩戒のみだ。

自分が少し学んだ後、他人の問題に気付き始めたとたんに、自分のほうが良い・優れていることを証明するように、他人のあら捜しばかりしてはならない。何故なら、人はそれぞれ違う法門を使うからだ。あたかも釈迦牟尼仏が在世だった時に、500の阿羅漢を助けるために、船頭さんを殺したようにだ。釈迦牟尼仏が間違ったと皆は言えるか。間違っていたら、どう成仏するというのか。だから、そうしてはならない。我らは因果論からその仏法開示を見るべきであって、もっぱら名相(みょうそう)から、先方の説いた仏法・論の正確さを決めるべきではない。

この一節こそ、今どきのいわゆる仏道修行者の問題を言い表している。まるで、昔、私がレストランで見かけた男性歌手のことのようにだ。彼は人に菜食するよう勧める為に、より攻撃的な事を口にしたところで、相手の方の機嫌を損ねたのだ。こんなことをすると、逆に衆生を傷づけるようになるぞ。そなたからは勧めるのみで、聞いてくれるかどうかに至っては先方次第だ。

経典:「世尊、我れ今此の一切智心を發して、安住して阿耨多羅三藐三菩提に迴向するに、或は婦人の與に説法せんとき、若し無常・苦・空・無我の相を起さずして、彼の相を取り及び齒を露して笑まば、則ち為一切諸佛を欺誑すと為さん。」

いいか。男衆の出家衆はこの一節をよく聞け。そなたは女性に対して説法する際、男衆が出家した以上、当然のように男女関係を思い当たることはないが、相手の方は見た目から貴婦人のように見え、大功徳主かもしれないと思って、笑ったりして親切に対応しようと決めることこそ「彼の相を取り」だ。歯を見せて笑ったりしてはならない。在家衆だったら全く問題がないから、お家で主人の前で歯を見せずに笑ったりする必要はないぞ。そうしてしまうと、顔面神経麻痺かと思われるからだ。今やいつもマスクをしているから安全で、男衆の出家衆はマスクを外さず付けたままで済むが、女衆に会った場合、その外面の相に囚われないことを忘れないようにしておくといい。

リンポチェに会いに来る人が多い中、普段、リンポチェはチラ見しただけで、すぐもう見ないのだ。(リンポチェに仕えた出家弟子はそれは確かだ、リンポチェは謁見しに来た信者らに対しては、まず用件を聞いてから、的確且つ厳粛に、その出来事への対応を指導したり、助けたりしていると答えた。)これは安住そのものだ。相手の方に、無常・無我・空ということを教えるべきであって、こびへつらったりする為に、喜ばれそうな話をしてはならない。実は、私は多くの人の機嫌を損なっているから、我が道場では高級官僚や大功徳主がいない。何故なら、私はややもすれば彼らに「苦」について言っているが、彼等は自分はお金持ちだと思っている。私は彼らに「無常」について言っていると、また彼等は変わりたくないと思っている。私からさらに「無我」を言い及ぶと、彼等はなおさら聞き入れないようにしているからだ。

以前、私はこの段落を拝読したことがないが、ちゃんと成し得ている。大勢の貴婦人を私の前に連れてきても、私は変わらずこれらのことを言っている。私には相を見極めることができないのか。何か機嫌を取るような話でも言ってあげて、寺院建立への寄附をさせることもできるが、仏法以外のことを私は一切言わないようにしている。こんなにも多くの信者らが会いに来ているが、私は寺院建立への寄附を勧めたことがない。仏典にも書いてあるように、在家衆にしろ、衆生に仏法を言い聞かせる以上、三威儀を為し遂げる必要があるという。

よって、もし男衆の出家衆は他の男衆の出家衆が歯を見せながら笑い、婦人と俗塵に塗れた事などを言っているところを見かけたら、その人を遠ざけるといい。女衆の出家弟子もそうだ。もし、男衆の出家衆が婦人に向かって歯を見せて笑い、この婦人の相を見た上、「苦」・「無常」などのことを言い聞かせなければ、いくら彼が有名な和尚であろうと、遠ざけるべきだ。これはちゃんと仏典の内容を引用しているのだ。不動仏がこうして修めた以上、出家衆らもそう修めるべきだ。完璧まで出来なくとも、我々はそれを目指してやらなければならない。在家衆としての私すらそうしているのに、況してや出家衆をや。

無常・因果を信じない信者が来れば、私は相手を無視するか、叱るか、出家弟子に相談しろかで対応している。何故なら、彼らは出家衆を叱れず、在家行者の私は叱られるからだ。

経典:「世尊、若し我れ此の一切智心を發して、安住して阿耨多羅三藐三菩提に迴向するに、説法の時に於て顧指・輕躁し、或は餘の菩薩を見て大師の想を生せずは、則ち無數の諸佛を欺誑すと為さん。」

説法の際に於いて「顧指・輕躁」することとは、仏法を言い聞かせる時、仏法を説法の中心にするのではなく、自分の思想を中心にしている分、言い出された話もより軽薄でせっかちに聞こえ、ゆっくりと説明する根性がないことだ。いわゆるゆっくりとは、スピード上のゆっくりではなく、一歩一歩着実に衆生に言い聞かせていないことだ。「或は餘の菩薩を見て大師の想を生せず」とは、他の菩薩を見れば、自分は先方とは同輩だと思うことだ。こんなのは間違っている。

全ての菩薩道を修める人を見れば、大師の想を生ずるべきだ。菩薩道を修める以上、未来仏に決まっているからだ。私も菩薩道を修めているが、八地菩薩を証するまでは退転する可能性がある。先方も菩薩道を修めているのであれば、どの地まで修めたか判断できなくとも、先方は菩薩道修行中と感じられただけで、先方を大師の想にするべきだ。登地菩薩のみであっても、大師だ。もしこう思っていなければ、仏典でいう無数の諸仏を欺誑することになる。

この行者は菩薩道を修めて広大なる衆生を利益するものであれば、大師の想をすることになるのだ。ここでは仏典の中でも説明しているが、どうして在家衆は法座に上がって修法していられるのか、それは私は菩薩道を修め、実践していて、大師の想として思われることができるからだ。もし、私は菩薩道を修めて実践しなければ、法王は私を升坐させることがあろうか。自分が無理やり升坐したくても、護法は安穏にさせることはないだろう。これ等はすべて仏典で解説してあることで、菩薩道を修める以上、在家やら出家やらの区分けがない。

これは不動菩薩が説かれた話で、将来の仏道修行者にこの点を留意するよう教えてもいる。相手の方が菩薩である以上、そなたは大師の想を生じるべきであって、先方がよく修めていないやら、この法門を知らないやらと言ってはならない。菩薩にはそれぞれの決まった法門があり、全ての法門を使うことにならないとし、どれか一つの法門さえ分からなければ、それは大師ではないと思ってはならない。チベット仏教ではリンポチェと呼ばれ、認証された者が、たとえ修行の面でそんなに円満になっていなくとも、大師だ。一般の行者ではないのだ。

経典:「世尊、我れ今此の一切智心を乃至、阿耨多羅三藐三菩提に發すに、若し坐ら法を聽き、及び外道・沙門婆羅門——唯、諸佛の沙門の弟子を除く——禮せば、則ち為一切諸佛を欺誑すと為さん。」

出家相を現した人だとしても口にしたことが仏法でない場合、もし私はそこいらに座って聞法をし続けていれば、全て一切の諸仏を欺誑することになる。それを踏まえて、自由気ままにあちらこちらに参列するべきではないことと分かった。これこそ大師だと一向に思いつつも、いったい本気で仏法を宣説しているかどうか見極めなくてはならない。仏典の中では、そなたらが留意すべき点がたくさんある。これらは戒律の中でもちょっと触れたりすることはあるが、こんなに深く、はっきりと説かれていない。これらは不動仏が出家相を現した際の修行の道程だったし、全部成し得ていたが、それに対して、そなたらは全部実践しているかと自分らに問うといい。もし、実践していなければ、そなたらの境地が遅れるのも、理にかなっているのだ。

台湾では、不動仏について解説する場所があまりない(出家弟子は以前聞いたことがないと述べた)ように感じている。それは説き始めると、(今までの)全部が違っていて多くの出家衆はいっそのこと還俗しようと思ってしまうからだ。「不食に再食す」との一説を例に取り上げると、そなたらの多くはこの問題を犯したことがあるようにだ。不動菩薩は菩薩道の際には、こうして修め得られたのだ。私はこれらの出家衆が何も手を加えずにそのとおりに修めることを望んでいる。これは仏典からの出典だから、間違いはない。他の人がどう説くか私は知らないが、私は仏典と不動仏のお教えを裏付けに言っているのだ。

そなたらが出家相を現している以上、これ等を離れてはならない。意地になって、他の人からこう教わったよと言うのなら、その人は仏なのかと聞きたいのだ。仏でない以上、教わったことを忘れるといいのだ。仏典でのお教えを裏付けにして実践するといい。もう一度言うが、そなたらは間違いなく「不食に再食す」ことを犯したことがある。例えば、ある人はさっきスープを飲まなかった場合は飲みに来いと、デザートを食べなかった場合は食べに来いと誘ったりした経験があるのだろう。いったん食卓を離れると、もう戻れないというルールを、出家衆でない私すら知っているのに、そなたらは知らないのか。人に呼ばれると、デザートを食べに戻るなんて、つまり三威儀がなく、出家衆らしくないのだ。いったん食卓を離れると、もう他人事だから、僧房に帰るといい。

だから、今後私の寺院へ行くようになったら、皆が腹七分になった時点で、もう鑼を打って僧房へ帰らせるようにしよう。ゆっくり食べていられるものか。私はこんなにも痩せているのに、そなたは太っているわけにはいかない。私に仕えると、ダイエットできるというメリットがある。何故なら、私は多くは食べていないからだ。今日、言った内容の多くは出家衆についてのことだが、我ら在家の者も気を配らなければならない。「不食に再食す」ことも、我ら在家の者にとっては重要だ。どうしてか。食べ終わって、立ち上がったら、もう立ち上がった。再び戻って食べると、自分が食べられる福を更に少し減らすようにさせているからだ。

今日一日、食べられる分はそなたの福だ。戻って食べると、明日の分の福まで食べてしまうわけだから、お腹を壊すのだ。ちゃんと食べ物に気を付けて食べているのに、なぜお腹を壊したか分からない状況こそ、そなたは自分の福を食べてしまっているからだ。今、教えているのはマナーではなく、この福をどう大切にするかということだ。席に着いて、自分のご飯は八分の場合、それこそそなたの福だ。食べ終わってから、足りないなと思ってお替わり欲しいと思うと、そなたの間違いだ。ご飯を盛る際に、多めにくださいと言ってもいいが、盛られたご飯が八分だった場合、それはそれで、それはそなたが今日食べられる量で、そなたの福になる。もちろん、持ち帰りは自由だ。実は、仏道修行することは結構楽しいことで、そんな苦痛なわけがないではないか。よって、そなたらはそれをわざと苦痛そうにする必要などない。

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2022 年 05 月 08 日 更新