尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年10月24日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』巻第十八「無量寿如来会第五之二」を開示された。

経典:「もし福徳ふくとくにおいてはじめよりしゅせざるは。つひにこの微妙みみょうほうかず」

帰依するやら、菜食するやら、法会に参列するやら、仏に頂礼するやらこそが修行だとよく思われている。ここで言う福と徳とは、『阿弥陀経』で説かれる「福徳因縁が欠かせない善男子善女人」に呼応する。「福」は有漏の福と無漏の福に分かれる。善を行うことは、人としてするべきことだ。そなたが今生に欠陥のない体を得られるのは、過去世に十善法を修めたことによるからだ。よって、今生にも善を行う心がある。だが、たとえこんな心を持っていたとしても、そなたに善を行わせる機会があるかどうかはまた別の話になる。世間で行う福には漏れが有るのだ。このような世間の福が生じたのは即ち善の業力で、三悪道に堕ちさせないとするだけで、依然輪廻を繰り返すものだ。今生に為した善の果報を享受しにそなたを輪廻させる。仮に未来世に善の果報を享受できたとしたら、それが権でなければ財なのだ。こんな人だったら、決して仏道修行をしないから、これも良い事とは言えない。

出世の福はまた違うのだ。仏道修行する為に世間の福を作らないというのではなく、因縁・機会が有ったら、なお作る必要があるとするが、もし、本当に仏道修行しようとすれば、取りも直さず仏法で福を修めるべきだ。簡単に言えば、仏法の福はどうやって積まれるのか。つまり、諸仏菩薩と上師に供養し、六道における一切の有情衆生に布施することだ。果物でも供え、お経でも唱え、お香でも焚き、灯りでも点し、口先でも仏に供養すると言うのではない。人が放生したところを見て自分も加わってすると、これが衆生救済だというのではない。少し誦経して衆生に廻向するのでもない。これ等は福を修める縁起となるに過ぎない。本当に出世の福が積もれるようにするには、毎日止まることなく実行する必要がある。仏道修行の福が起きなければ、仏法はそなたと無関係だ。

最近、弟子に不共四加行を請いに来たのが一部いるが、その多くの場合、私は伝授しないようにしている。何故かと言えば、(法を請う)理由を聞くと、障礙を取り払いたいやら、仏法を理解したいやらばかり言っているからだ。成仏する以前に、どうして完全に仏法を理解できようというのか。寶吉祥道場は菩薩道を広める場所で、行った全ての事はそなたに菩薩道を学ぶに足る福報を持たせる為であって、己の開悟の為ではない。私は何回も言い、そして『宝積経』の中でも何回も言及され、甚だしきに至って、『宝積経』には菩薩道を行うには禅定や涅槃を放棄するべきだとある。それなのに、そなたらは「私は仏法を理解し分かりたい、業障を取り払いたい、こうすれば私が更によく修められる」と言っている。いくら言っても、そなたらはなお話を聞かない。

台湾では、簡単に不共四加行を授ける場所もあれば、在家は色々な事に煩わされるから、大礼拝(五体投地)を11万遍やり通さなくていい、1万遍でも行けると言う道場もある。ところが、11万遍をやり通すというのは、古くから伝わった習わしだ。どうして11万遍かと言えば、本日、ここでは言わないようにする。何故なら、いくら言っても皆が分からないだろうからだ。

「徳」はどうやって現われるのか。持戒・入定智慧を開くことによるのだ。入定というのは、そなたらが想像するように、ひたすらそこいらに座り込み、何も事を考えず、何の念頭もないと定義されるというわけではない。定とは、完全にある情景の中に入り、仏法以外の念頭を持たないことだ。心を仏法に定めることだ。そなたらにとって、こうするのは不可能なことだ。そなたらにとっては、一秒間でも仏法に定められればもうすごいことだ。自分は自身をよく見つめていると自惚れてはならない。そなたらはまるで『地蔵経』で説かれた「起心動念は全て業であり罪である」のようだ。もし、福徳を修めなければ、こんな仏法が聞こえることがなく、ましてや密法を学ぶどころではない。密法はどうしてだんだんと伝承が途絶えていくのだろうか。それは福を持つ人が更に少なくなり、ひいては居なくなるからだ。金銭や権勢があったり、坊主になって袈裟を纏ったりすることこそ福だと思ってはならない。仏の福に対する定義は、そなたに大きなデータベース(つまり資糧のこと)を持ち、甚深の仏法を修習することができることだ。こんな仏法は決して字面を通じて分かるようなものではない。

『無量寿経』を開示した時のように、参列した出家弟子の多くは既にそれを唱えたことがあるが、どうして唱えたにもかかわらず、理解できないのか。今や、私のような経論を学んでない小さな行者の開示を通じ、そなたらに少し理解させ、通達(つうだつ)させた。どうやってこうなるのだろうか。それは、そなたらが少し福が積もれるまで修めた上、ある上師に出くわして開示してくれたから、そなたらの心に潜む多くの疑惑や疑情を解き明かしたのだ。この二節ははっきりと述べているが、福徳を修めなければ、永遠に微妙の法を聴くことができない。求めれば、必ず与えるものではない。求めても得られなく、言わない場合は言わない。特に、密法が最後になれば、なおさら言わないのだ。

先日、私はチベット語のできる弟子に「翻訳していると、翻訳したテキストの内容を分かってくるか」と聞いたところ、彼女は分からないと答えた。何故なら、テキストには書かれていない心法がたくさんあるからだ。それは上師だけしか分からないのだ。一人から一人へと伝授するもので、一人から二人へと伝授することはない。たとえ私がどう修めるかについて彼女に言っても、彼女にはできないのだ。それは福徳が足りないからだ。特に、密法で無上瑜伽タントラまで修めると、なおさらそうだ。ここにいる皆は誰でも中国語を分かっており、非識字なのは誰一人としていないが、どうして『宝積経』の内容を一人として理解できる人がいないのか。

不共四加行は、将来、菩薩道の修習に備える準備作業だ。そなたらは終日ご自身のことや自身の為を考えてばかりいるのなら、菩薩道はそなたらと無関係だ。チベット仏教では明瞭に言っているが、不共四加行を円満にさせると必ず瑞相が伴うそうだ。私がその例の一つだ。一座の面々の多くは、既に(不共四加行を)し切ったのに、どうして瑞相が伴わないのか。理由は簡単だ:自分を修め、専ら自分がよくなる為、自分の為に修めているからだ。「不共四加行をし切ったら、次のステップを教えてくれるだろう。私が多めに学べば、凄さも多めになる。」と思いきや、不共四加行は福慧資糧を蓄積する為で、多めに知ってから、凄さが多めになる為ではない。福慧資糧を蓄積するのは、「この微妙の法を聞く」の為だ。しかも、聴聞に留まるに過ぎないのだ。

阿弥陀仏は顕教で簡単だとよく思われるが、こう考えたら間違いだ。どうしてこの篇は『無量寿経』というのか。どうして直接『阿弥陀経』と呼ばないのか。阿弥陀というのは無量寿仏の真言で、そなたらがひたすら阿弥陀と唱えることは、即ち無量寿仏の真言を唱えていることなのだ。真言には長いのと短いのがあるが、阿弥陀仏済度法を修める際に唱えるのは長いほうで、普段は滅多に唱えないのだ。「阿彌爹哇啥」は無量寿仏の真言だが、それが中国本土に伝わると南無阿弥陀仏と変わったが、実は「阿彌爹哇啥」のはずだ。そのせいもあり、浄土へ行く人が次第に少なくなっている。

一部の人は『阿弥陀経』はてっきり阿弥陀仏をめぐるお経だと思っている。だが、この篇では一貫して無量寿仏と説かれている。無量寿仏は複数の名号を持ち、必ず無量寿仏と称されるとは限らず、別の名号も有る。『無量寿経』では阿弥陀仏について言及していない。我らが唱える六字大明呪は観世音菩薩の真言だが、多くの人は大悲呪のほうが長いし、翻訳された内容にも何とかの天神や、何とかの保護などがあると思っている。チベットにも大悲呪の長呪が存在するが、どうしてもっぱら六字大明呪を唱えようというのか。それは、この六つの字は六道における一切の衆生を含めると同時に、一切のあらゆる仏の智慧と功徳も中に含んでいるからだ。百字明呪という100文字は10万の仏の真言を代表する。多くの人は、業障を払うことができるから、金剛薩埵を学びたいと思っている。金剛薩埵は報身仏で、そなたが菩薩道を行うつもりがなく、衆生利益する為に菩薩果位を成就させると誓わなければ、何を裏付けに金剛薩埵が学べようというのか。顕教には金剛薩埵が無く、顕教は経論を読むものであって、まだ凡夫地にある。よって金剛薩埵の重要性に関しては、そなたらには理解できない。ポワ法を修める時すら、金剛薩埵が必要だ。

どうして金剛薩埵は業障を取り払えるのか。我らは累世にあれだけの善業・悪業を為して、仏道修行に差し障っているから、非常に強い本尊によるお助けが必要になる。報身仏でなければ、菩薩になるつもりの人の修行をどう助けようというのか。金剛薩埵は私の本尊で、金剛薩埵がそなたらを加持したから、そなたらがよくなったのを皆知っているにもかかわらず、法を請いに来た際にまたでたらめを言っている。多くの人は、百字明呪を求め得られれば、きっとあらゆる業障を取り払うし、凄くなり、更によくなり、健康状態が好転するやらと思っている。私はもう伝授するなんて億劫だ。10万遍を唱え切れば充分だと思っているのか。私は何遍唱えたかすら覚えていないぞ。

あの時、法王が私に大手印を伝授されるに際し、私は自分の善悪業が多すぎて聞き取れない、聞く福報がないのを心配したから、法王にどうか私に百字明呪を10万遍唱え終えてから法を頂くようにさせてくださいと求めた。私は殆ど寝ずに猛ダッシュで唱え、命を顧みないで唱えた結果、10日余りで唱え切った。これこそ勇猛だ。こうしていれば、金剛薩埵と相応するのかとそなたは問うだろう。もちろん相応する。

もし福徳において初めより修せざるは」。自分は既に福徳を修め得たと思ってはならない。そなたらは修めていない。ほんの少しだけの供養で、修めているつもりなのか。毎回法会が始まる前に七支供養を唱えるのは何故なのだろうか。これが福を修めるに当たるのだ。そなたらは専ら自分がよくなる、自分の開悟を求めていては、七支供養と何の関連性があろうか。七支供養の中には「今私が七支供養を唱えているから、一日も早く開悟ができるぞ」と書いてあるのか。いや、書いていない。書いていない以上、そなたらのこんな心持では、福報が上がらないに決まっている。この二節は、あらゆる仏道修行者にとって非常に重要だ。釈迦牟尼仏はこう特別にあらゆる仏道修行者に注意を促している:そなたは福徳を修め得なければ、いくら死んでも、何世も転生したとしても、微妙の法を聴くことができない。

経典:「勇猛ゆうみょうによくもろもろの善利ぜんりじょうぜるは。まさにかくのごときの甚深じんじんきょうくべし」

勇猛を成し得なければ、どうやって一切の善の利益が得られようというのか。ただ小さな人天の利益しか得られないのだ。誰しもがリンポチェに依存し、リンポチェに頼っている。こうしても効くのであれば、私はとっくに法王に依存しているはずだ。大手印を伝授するから関房から出てこいと法王が自ら言ったのに、私は先ず10万遍の百字大明呪を唱えてから、敢えて法を頂くと求めた。それでも、法王は承諾してくださった。何故なら、この弟子は抜き出ていて勇猛を成し得たと思うからだ。僅か一か月の閉関期間なのに、私には時間があるわけがない。けど、私は命も顧みないでやった。そなたらのように、自分を大切にし、可愛がっているのではない。そなたらだったら、きっととりあえず受けてから様子を見てみるようにするのだろう。どうして私はこうするのか。それは、高慢でなく謙虚で、いつも自分が仏法においては不備があったり、正しくしていないところがあると思っているからだ。もし、全部正しく仕上がったら、きっと成仏するだろう。よく出来上がっていないくせに、侃々諤々と自分自身の考え方を述べられようか。

前回、言及した私に帰依した母子の話だが、その娘はお手洗いで霊を見たと言ったところ、私はそれはその主人の方のはずだと言った。彼女らが帰って聞くと、主人の母方の祖母だそうだ。済度を申し込んだところを、私はその主人と息子に生涯に渡って菜食せよと命じた。結局、その主人と息子は二日間菜食したが、顔色が悪くて続けられなかったそうだ。

何故、その娘に霊を見せたのか。それは娘が見かけると家族全員が恐れるからだ。どうしてお手洗いで見せたのか。家の中に私とアキ護法の写真があって、霊が近づけずお手洗いの中でしか隠れられないからだ。お手洗いは共同で利用する場所で、その主人と息子はまだお肉を食べていて、霊はお肉を食べた後、排せつされた匂いがお好きだから、自ずと寄って来るのだ。皆は同じだ。自分だけは菜食するが、やっかいなことがやってこなければいいから家族には好きなようにさせている。このことも、この弟子が私とアキ護法に発願せず、ひたすら一家の無事を求め、彼女と娘が毎日唱えればいいことを表している。

昨日、例の母子は済度を求めに来なかった。これも彼女は福徳を修めていない証拠だ。主人側のことだから、彼女と無関係だと思っている。この霊は済度されたいのだ。中国大陸の弟子の東北地方に住んでいる叔父が亡くなったことのように、恐らく亡者に生前に善業を造ったことがあるから、彼は弟子の叔母に、姪が帰依した台湾のリンポチェなら助けられると言った。だが、この母方の祖母はこう言っていなかった。台湾語にリンポチェという名詞がないのだろうか。この霊に福報がないのだろうか。

まさにかくのごときの甚深の経を聞くべし」。これで、このお経が聞けるようになる。そなたらが勇猛ではなく、私が勇猛なのだ。そなたらの勇猛は帰依を求めたきりだ。訳が分からなく私に帰依しただけで、他に何もない。そなたらが私に帰依した際も、衝動的に帰依したのだ。そなたらの勇猛もこれ切りだ。

経典:「かのひとかつてもろもろの世尊せそんの。よく大光だいこうをなして濁世じょくせすくひたまふにまみえ」

此の人は過去世に一切の仏を見たはずだ。よって、このお経を聞き、このお経を修め、菩薩のように大光明を放ち、五濁悪世の衆生を救済することができるのだ。

経典:「多聞総持たもんそうじすること巨海こかいのごとくして。かれ聖賢喜愛しょうげんきあいしんん」

多聞」とはあちらこちらでお経を聞くやら、毎日テレビをつけて何の法話を言っているのかを聞くやらのではなく、ポイントはその聴聞は自分一人のこととして聴くのではなく、衆生を代表してお経を聞くことにあるのだ。

そなたが一心に微妙の法を聴聞してからは、我らが大礼拝(五体投地)をする際に、密宗にある金剛総持という原始仏が我らの目の前に居られることになる。というのは、仏典の中に一切の仏法の総持が居られる。前述した菩薩道の修め方について、別の仏典はこんなに言及していないようにだ。

こうしていれば、きっと諸仏菩薩からそなたを歓喜・保護する心が得られる。「聖賢」というのは、修行が生死解脱に達した者こそ聖人・聖賢になるが、世間の善事を成し得ただけで聖人とは言えないのだ。

経典:「懈怠けだい邪見じゃけん下劣げれつひと如来にょらいのこの正法しょうぼうしんぜず」

懈怠・怠け・動きたくない・邪見が有る・下機根・下劣な人等に対して言っても、彼等は我々を正しく生死解脱させる此の法を信じない。

経典:「もしかつてぶつにおいて衆善しゅぜんうるは、救世くせぎょうかれよくしゅせり」

かつて仏の教えの下で一切の善の法門を植え付けたことがあり、世間における衆生を救済できる者ならばこそ修められるのだ。仮に、そなたが一切の仏法において、善の機根を植え付けなければ、衆生を度する資格を持たない。ここの何節かは、修行の過程においては、福徳がなくては聞けないことをそなたらに教えている。充分な勇猛さがなければ、一切の善の利益を成就することができず、このお経を拝読することもできないのだ。かつて仏を見たことがなければ、今生に決して菩薩道まで修めることはない。もし、過去世に全く仏法を聴聞していなければ、諸仏菩薩からそなたを愛護・保護する心をとても得られない。懈怠・邪見・下劣な人は聞いても信じない。もし、かつて仏の教えの下にいたことがあれば、たとえ仏自らそなたを指導しなくとも、化身仏による教えを通じ、そなたは一切の善を植え付けられて、輪廻世間を出離する方法を修める資格があるのだ。

例えば、済度というのは決して誦経だけを頼りにしているわけではなく、口先だけで唱えれば済度できそうにないものだ。前述した条件を成し得てはじめて済度できるのだ。これ等の条件なしに、「救世の行かれよく修せり」できようか。密法はまさにこの一節だ。前述したことを成し得ないで、なお密法を学びたいというのか。上師すら敬わず、ご自身の考え方が山ほどある。上師がそなたにして欲しいことを、意地になってやらない。上師がしていることなのに、そなたは全くしない。実行せよと注意喚起したのに、そなたは実行しない。私に帰依しているとはいえ、信者に過ぎない。何故なら、そなたは全部進んでしようとしないからだ。

時には供養にも言及されたりして、仏道修行というのは面倒くさいとよく思われる。だが、そなたらはこの世間で、供養をして少し福報を蓄積する以外に、福を得られる他の能力があるのだろうか。単に持呪に頼ったら福が得られるのか。単に持呪に頼れば、衆生を済度させられるのだろうか。いや、できない。それができない以上、上師はそなたらに福徳をゆっくりと修め得させるために、他にはない、ただ唯一のこの方法を使うしかない。福徳が起きれば、そなたらは自ずと勇猛になり、次第に成し得るようになり、また成し得てはじめて「救世の行かれよく修せり」があり得ることになる。

仏は既に条件を言い出したが、ご自宅に帰ってから自分にこの条件が具わるかどうかを考えると良い。どうして中国語もチベット語もろくにできない私が、今仏法弘通・衆生済度することができるのだろうか。即ち、上述の条件を成し得たからだ。私は以前この段落を読んだことがないにもかかわらず、よく成し得たのは、過去世に実行したことがあるからだ。そなたらに出来ないのは、まず過去世に実行したことがない上、今生も話をよく聞かず、専らご自身の方法を以て暮らしているから、もちろん何も出来ず、死を待つしかないのだ。一つでも因縁が具足しなければ、リンポチェもそなたを済度させることができないわけだ。

ある弟子は弟が往生したから済度を求めに来たが、私は毎日500回の大礼拝(五体投地)せよと命じた。私が助けないのではなく、科学の角度から言えば、そなたらは遺伝子が似ていることから、彼を助けられるのだ。その弟は生前に私に会ったこともなければ、殺業が重く、怒りっぽかったからだ。もし、私が彼を引き寄せたところで、彼が怒って何で呼んだと問うと、怒った瞬間に堕ちてしまうのだ。そうだったら、彼に害を与えたのではないか。

先ほど自身の経験を語ったあの弟子(詳しくは衆生済度事跡第1103号を参考)だが、彼女は夢の中でその子供が自分が済度を待っている、自分と違って済度されない人がまだ多くいると言ったのを見た。きっとそなたらはこう聞くだろう。観世音菩薩が慈悲深いのに、何故まだそんなにも多くの人が病気になり、死亡しているのか。それは観世音菩薩が霊験あらたかではないのではなく、それは縁がないからだ。台北市を例に言おう。毎日そんなにも死者が出るのに、仏法によって済度される人は何人いると思うのか。何人も居ない。どうしてか。それは因縁・福報がないからだ。

福報はどうやって積めるのか。上師はそなたらにチャンスを作るから、そなたらはあとについて実行するべきだ。そなたらの健康の為、良い食品を食べろと言っているが、皆は聞き流している。そなたらが邪見とは言わないが、懈怠、動きたがらないというべきだ。

経典:「たとへば盲人もうじんのつねにやみしょして。他路たろ開導かいどうすることあたはざるがごとし」

もし、そなたらは前述した全てのことを成し得なければ、まるで盲人が永遠に闇の中にいるように、もう一本の道が見つからない。

経典:「声聞しょうもん仏智ぶっちにおけるもまたしかなり。いはんや有情うじょうにして悟解ごげせんや。如来にょらい功徳くどくぶつのみみづからろしめせり。ただ世尊せそんのみましましてよく開示かいじしたまふ。」

たとえ声聞縁覚に仏同様の智慧があったとしても、一部の有情衆らが悟りを開き、仏法を解説することができたとしても、如来の功徳は仏自身だけしか知らず、それについての開示は世尊だけしかできないのだ。というのは、仏・世尊の開示された仏法でなく、急に自分が仏だと自称するときっと問題があるということだ。例えば、リンポチェは自分がどのレベルまで修めたかというのは自分で知っているが、そなたらに教えてあげられるのだろうか。そなたらに言っても分からない。本日、私は釈迦牟尼仏を代表して仏典を開示することが出来たのは、私が即ち仏ではなく、上師と仏のお教えを聞き、仏典で説かれた内容に基づいて着実に一歩一歩修めてきたから、もちろん仏を代表して開示することが出来たのだ。もし、誰かが一か月でも閉じ込もったら、自分が通じた・何かが見えた・凄い・空を飛んだり地に潜ったりすることが出来たと言うのなら、これ等は全て問題があるのだ。この数節も、道を逸れないようにということを言ってくれている。

経典:「てんりゅう夜叉やしゃおよばざるところなり。二乗にじょうおのづから名言みょうごんつ。」

天龍・夜叉と仏は比べ物にならない。二乗とは声聞縁覚のことを指し、彼らは我ら凡夫よりずっと凄く、すで輪廻を断ち切らせるまで修めたにもかかわらず、まだ仏とは桁が違うのだ。

経典:「もしもろもろの有情うじょうまさに作仏さぶつして。行普賢ぎょうふげん彼岸ひがんのぼりて」

如何なる有情衆も将来成仏したいと思うなら、そなたがする全ての振る舞いは普賢菩薩を超えなければならない。普賢菩薩は非常に勇猛に修行する者とされるが、そなたが修行するという行いは普賢菩薩に倣うだけではなく、彼を超えなければならない。普賢菩薩は既に法身菩薩になり、既に成仏したとも言える。超えることとは、彼より凄いのではなく、彼から教わった修行の行いに関しては、我々は彼より劣ったり・少なかったりすべきではなく、我々はそれ以上に勇猛になるべきだ。こうして、彼岸に登って仏土に辿り着けるのだ。

経典:「一仏いちぶつ功徳くどく敷演ふえんせんに。時多劫ときたこう不思議ふしぎえん。この中間ちゅうげんにおいて滅度めつどすとも。ぶつ勝慧しょうえはよくはかることなけん」

一尊の仏の功徳を宣説するには、何劫をかけても完全に言い切れることはない。我々はその過程の中において、途絶えることなく輪廻し身が滅度するが、仏の殊勝なる智慧は世間でのあらゆる物で計り知れるものではない。

経典:「このゆゑに信聞しんもん。およびもろもろの善友ぜんぬ摂受しょうじゅ具足ぐそくして。」

仏道修行の者としては、完全に充実した信心のこころを具足して仏法を聴聞するべきだ。テキストによれば、善友とはつまりそなたの上師だ、一番密接な親友もそなたの上師だ、上師がそなたを摂受(しょうじゅ)してそなたを仏法を聞くようにさせられるのだという。いわゆる摂受とは、彼がそなたの帰依を承諾することができるかどうか、そしてそなたに仏道修行する際の方法について多くを助け、様々な方法でそなたが仏道修行するように摂受するということだ。

経典:「かくのごときの深妙じんみょうほうくことをば。まさにもろもろの聖尊しょうそん愛重あいじゅうすることをべし。如来にょらい勝智虚空しょうちこくうあまねし。くところの義言ぎごんはただぶつのみさとりたまへり」

そなたが上師から摂受し、深妙の法を教わったら、同じく諸仏による尊重と愛護が得られる。如来の殊勝なる智慧は虚空に遍満し、その説かれた一切の奥深い言葉は、ただ仏の覚悟・開悟に限って得られるものだ。

経典:「このゆゑにひろくもろもろの智士ちしきて。わがきょう如実にょじつごんしんずべし。人趣にんしゅ身得しんうることはなはだかたし。如来にょらい出世しゅっせふこともまたかたし。」

あらゆる一切の多聞を希望し智慧を修める学びの者らは、私(仏)が教えてあげたものが、リアルに存在し、真実不虚(しんじつふこ)と信じるべきだ。人身を得ることは難しく、一尊の仏の出世に遭うのはなおさら難しいのだ。

経典:「信慧多しんねおおときまさにすなはちん。このゆゑにしゅせんもの精進しょうじんすべし」

充分に信じ、止まらずに智慧を修め、非常に長い時間が経ってから、菩薩・仏に成る方法を得られるのだ。病気を含め、世間の事柄は何れも仏典の中で論じられないものだ。よって、どの法門を修めようと、精進するべきだ。

経典:「かくのごときの妙法みょうほうすでに聴聞ちょうもんし。つねに諸仏しょぶつねんじたてまつりてよろこびをしょうぜん。かの人往昔ひとむかしまことにわがともにして。よくぶつ菩提ぼだい楽欲ぎょうよくせりと」

そなたは既にこんなにも良い法を聴いた以上、きっとあらゆる仏から、そなたが此の法を聴聞したことでそなたに対し歓喜の心を起したと知っているはずだ。これ等の人々はかつて私の友達だったかもしれない。その心は非常に歓喜し、仏法が善で、仏によるお教えを得られて菩提を証することを知っている。

経典:「その時世尊ときせそん、このきょうきをはりたまふに、天人てんにん世間万二千那由他億せけんまんにせんなゆたおく衆生しゅじょうありて、じんとおざかりはなれて法眼浄ほうげんじょう、」

法眼とは、ある目を具備することではない。「法眼浄」とは、仏法に対する理解が清浄になったことだ。そなたらは今、塵垢(じんこう)に塗れており、塵垢を離れて仏道修行するのではないから、清浄なる法眼を得られない。そなたらが塵垢を離れない限り、仏法の清浄さと意義を弁える能力がつかない。上師が教えようとするのは、塵垢を遠ざけることだ。

経典:「 二十億にじゅうおく衆生阿那含果しゅじょうあなごんか六千八百そくせんはっぴゃく比丘びく諸漏しょろすでにきてこころ解脱げだつ、」

阿含果は三果だ。六千八百の比丘は一切の煩悩の心が尽き、解脱を得るという。

経典:「四十億しじゅうおく菩薩ぼさつ無上菩提むじょうぼだいより退転たいてんせざるにじゅうし、だいなる甲冑よろいかぶりてまさに正覚しょうがくじょうずべし。二十五億にじゅうごおく衆生しゅじょうありて不退忍ふたいにん、」

無上菩提は法身菩薩だ。「大なる甲冑」とは、仏法を以て自身の法身を守ることで、必ず仏果に成るのだ。「不退忍」とは、不退転の無生法忍(むしょうぼうにん)のことだ。

経典:「四万億那由他百千しまんおくなゆたひゃくせん衆生しゅじょうありて、無上菩提むじょうぼだいにおいていまだかつてこころおこさず、いまはじめておこしてもろもろの善根ぜんごんえ」

これまで菩提心を発したことがないが、本日、聴聞してから様々な善根を発し始めたということだ。

経典:「極楽世界ごくらくせかいしょうじて阿弥陀あみだまみえんとがんじて、みなまさにかの如来にょらい往生おうじょうすべし。おのおの異方いほうにおいて次第しだい成仏じょうぶつして、おなじく妙音みょうおんづけん。」

その身が阿弥陀仏浄土に居てからは、彼も他の所で次第を分けた上で一尊の仏の名号になる。

経典:「八万億那由他はちまんおくなゆた衆生しゅじょうありて、法忍ほうにん授記じゅきせらるることを無上菩提むじょうぼだいじょうず。」

仏による授記を受け、無生法忍・無上菩提を得られる。

経典:「かの無量寿仏むりょうじゅぶつ昔菩薩むかしぼさつどうぎょうぜるによりて、とき有情うじょう成熟じょうじゅくしたまふ。ことごとくみなまさに極楽世界ごくらくせかいしょうじ、もろもろの昔発むかしおこすところの思願しがん憶念おくねんし、みな成満じょうまんすることをたり。」

無量寿仏が菩薩道を行った際に、多くの衆生を成熟させたから、これ等の衆生も極楽世界に生まれるのだ。

経典:「その時三千大千世界ときさんぜんだいせんせかい六種ろくしゅ震動しんどうし、ならびに種々しゅじゅ希有けうなる神変じんぺんげんぜり。大光明だいこうみょうはなちてあまねく世界せかいらし、無量億那由他百千むりょうおくなゆたひゃくせんてんにん同時どうじ音楽おんがくするに、せざるにおのづからり、てん曼陀羅花まんだらけあめふらし、もっしてひざいたる。すなはち阿迦膩吒天あかにだてんいたるまで、みな種々殊妙しゅじゅしゅみょうなる供養くようをなす。」

ここで言う六種震動(ろくしゅしんどう)は地震ではない。リンポチェは出家弟子にどの六種の震動かを調べろと命じた。

経典:「ぶつきょうきをはりたまふに、弥勒菩薩等みろくぼさつとうおよび尊者阿難そんじゃあなん一切いっさい大衆だいしゅぶつ所説しょせつきてみなおおきに歓喜かんぎしき。」

『無量寿経』はこれで円満となった。お経の中に書いてある菩薩道を修めての浄土往生の条件を通して、皆も自分が為し始めたかどうかがよく分かったはずだ。此の条件があるかないかというのではなく、そなたが為し始めたかどうか、自分を変えようとするかどうかが重要だ。もし、そうでなかったら、中に書いてあるあらゆる事はそなたと無関係だ。聞いた事さえあれば効くと思ってはならない。聞いたことがあっても、それはただ此の法門を修める機会があるに過ぎず、聞いても修めなくては効果を発揮することにならない。

次の巻は不動如来である。不動如来は、顕教では滅多に修められないが、密教では金剛部の多くの頂戴が不動如来だ。不動如来は成仏する心が動じたことがないことと定義される。世間の様々な事柄だけでなく、彼自身の事も含めるが、彼の成仏する心が動じたことがない。私はこのお経を拝読したことがないが、次回お時間があれば開示しよう。


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2022 年 02 月 27 日 更新