尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年7月18日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて自ら殊勝な施身法法会を司られ、並びに貴重な仏法開示を賜られた。

リンポチェは修法を始め、受苦ただ中の亡者を済度させた。リンポチェは大手印禅定の中で殊勝な施身法を修められ、勝義菩提心を以て、自分自身の一切の血肉・骨を観想し、惜しげなく諸仏菩薩に供養し一切の六道衆生に布施される。並びに六字大明呪を長らく持呪し、慈悲なる法音が十方に遍満する。

修法が円満に終わり、リンポチェは開示された:

次の法会は土曜日の午後二時に変えよう。龍王への供養の法を修める予定だ。この法を修める日時は、決まった期日に限定され、月に一日・二日ぐらいこの法を修めるのに適した日がある。多くの人が病気を患うのには龍が関わっている。仏典によれば、龍は畜生道でありながら、福報が小さくなく神通が備わっているほか、瞋恚(しんい)が強く、龍に睨まれただけで病気になるという。また、仏典では、癌や皮膚病、そして病名の分からない奇病など今治らないと言われている病気は全て龍に関わっていると。現在、我々が生活している地球の環境は絶え間なく破壊され、龍は住めるところを失っており、衆生を傷つけるよう現れている。この法は、一般の人が修められるものではなく、かつてにない儀軌がこの法にたくさん含まれている。

持呪の働きについてまだ分からない人が多い。仏教の持呪と、仏教以外の外道の持呪とは概念が違う。仏教の呪文は、仏菩薩・本尊ごとのあらゆる功徳・事業・慈悲・願力が、この短い呪文の中に凝縮され、こうした呪文は宇宙共通の言葉だ。自分は天語が話せるという人がいるが、仏典では天語の記載がない。呪文は、一種類の音波であって、音のエネルギーだ。それは、宇宙の生成は音に関わっていて、音のエネルギーを通せば人体の業力などの問題も変え得るからだ。持呪する者は菜食すべきだ。仏菩薩は慈悲深く、衆生を傷つけるようなことや、衆生の肉を食べるようなことをするわけがないだろう。菜食を進めなければ、いくら持呪しても役に立たない。五戒十善を守らなければ、持呪しても相応を生じない。五戒十善とも成し遂げられてはじめて仏菩薩・本尊の呪文のエネルギーと相応するとされる。本尊と相応するのは、そんなに早く実現することではない。

密法の呪文は灌頂を必要とし、つまり授権するという意味だ。この呪文を修習したり、念誦(ねんじゅ)したりすることを授権するとされる。厳しく言えば、特許があるのだ。誰でも、やたらと唱えたら、効き目が出てくるというわけではない。上師が呪文の奥深さ・秘密を説き聞かせなければ、そなたらは何故ひたすら持呪すれば効果が出るのかというのが、本当に分からないのだ。

ドラブ・ワン・リンポチェは、晩年は説法も灌頂もせず、ひたすら六字大明呪を唱えよと教えてばかりおられ、他に伝授することは一切なかった。末法時代では、人の機根が不足しているということで、仏法を伝授したところを、自分が出来なければ、効かないとかダメだと言うし、時には仏への誹謗までするものもあるからだ。よって、それによる効果は何だとも言わずに、とにかく持呪せよと、年功を積んだドラブ・ワン・リンポチェが勧めている。メリットとして、ひたすら持呪すれば、人の念頭は次第に善へと変わり、善の念頭が増えるにつれて、悪いのが減っていくのだ。

仏道修行する多くの者は、目下何をしているのかをはっきりさせ、何をすると何が得られるかを知りたいと願っている。こうした考え方も正しくない。こうすればああなると、仏典で屡々取り上げられているとはいえ、ご自身の考え方ややり方などを持たずに、きちんとその通りに実行してはじめてこの果が得られるというのが真意だ。しかし、人は往々にして話を聞かず、もっぱら自分が自分のやり方でしたのが正しいと思い、仏典で説かれた全てのことを聞き入れようとしない。道端で聞きかじったことを他人に話したり、本筋から離れた正当でないやり方を聞いたりして、謬論を多く聞けば聞くほど正しく聞こえてきて、まさにそれは正しいと思いきや、実は間違いだらけだ。仏典によらなければ、全て間違っているし、行者が仏道修行を通じ、積み重ねた経験によって言い出した話でなければ、間違っているのだ。

例えば、何かが見えたらと願う人が多くいるが、菩薩果位まで修めていなかったり、五眼(ごげん)を開いていなかったりすれば、目に見た物は全て意識による作用だ。それは、かつてそなたが見た、聞いた、思ったことによって残された記憶なのであり、磁場と以前から残っている意識が相応しただけだ。実は、本格的に見えたというのは、意識で見たり、脳で思ったり、更に目で見たりするのではない。天眼(てんげん)、法眼(ほうげん)、智慧眼(ちえげん)で宇宙のことが見えた場合には、簡単に言えば、まるで目の前にテレビがあって、それを付けると映像が映ったように見えるのだ。目をつぶって眉をひそめて、見たりするなどのことではない。

差し当たって、仏道修行する者は、自分が感応するよう望む傾向があるが、これもまた間違いなのだ。そんな感応は本物ではなく、何れも意識による作用だ。だから、『金剛経』では、こうした邪見を持ってはならないと説かれている。感応が起ることはイコール自分が修め得られた、人と違って自分には使命があるなんて思ってはならない。これ等は危険を伴う。事切れた際に、こうした感応に慣れているそなたは、いざそなたの感応と違うようになると、阿弥陀仏について行けないというところに、危険がある。何故なら、ご自身の考え方があるからだ。自分には感応があったらとか、見えるようになりたいとか、ひたすら強調していれば、長い目でみた場合、そなたにとって不利になる。たまに、こうした体得があっても、強く非難することにはならないが、これを修行による成就と見なしてはならない。

体質が人と違うからだというものでもない。何れもまたでたらめだ。如何なる人も体の構造は同じだ。ただ、業力や機根が異なるだけで、別に特殊な体質なんてない。仏典になく、訳の分からない名詞があまりにも多すぎる。仏典にない名詞はみな間違っている。仏道修行する以上、仏典で説かれる内容に基づくべきだ。現代人の話し方は古代人のと違うなんて思ってはならない。仏典で説かれた話の多くは、今の時代では精密な機器を通さなければ分からないものだ。例えば、『宝積経』には、仏は妊婦が妊娠し始めてから、胎内にいる胎児の七日間ごとの変化について、はっきり仰せになっている部分が記載されている。これは天眼・法眼・智慧眼なくしては見えないものだ。仏の時代では、解剖はなかった。それなのに、何故はっきりと分かっているか。現代医学で言うのと全く一緒だ。

また、仏典には、人が生まれるととたんに、首・目・眉を含め、体に寄生虫が付いているとある。科学では、確かに寄生虫はいるが、それは我々にダメージをもたらさないと示している。彼等は我々が排出した油脂や死んだ皮膚を食べ物にしている。首に付着する寄生虫を石鹸とお湯で必死に洗っても依然存在し、しかも更に多く繁殖していく。

現在の世界がどうなるとか、多くの事は既に仏典に記載してある。だから、面白がって面白そうな名詞をわざと創る必要がない。仏道修行するからには、仏法や修行に関わる全ての話は、当たり前のように仏法用語を用いるべきだ。ふざけたような話し方では、良くない。ふざけた口調で、自分なりに名詞を創ると、妄語・破戒に相当する。特に密法を修習する場合、持呪を主にしているから、口にした話は清浄でなければならない。語が清浄になるにつれて、持された呪文も清浄になる。

持呪時に限って遅い人がいるが、それはどうしてだろうか。持呪の速さは、体の気が充分あるかどうかに関係なく、語業が重いかどうかに関わるのだ。というのは、過去世や今生で妄語の戒を破ったり、有ること無いことや、似て非なることを言ったりしたことがあれば、持呪する際に舌が回らず、唱えられず、舌が重たそうに続けられないようになるのだ。普段は話すのが早いのに、持呪となると早くない。持呪は、必ず声を出してすること。声を出さずに心だけで唱えてはならない。身口意について繰り返し言っているように、そなたが天人だったら別論だが、地球上の天人だったら意を以て意思疎通はできる。だが、そなたは地球の人類であって、天人・仙まで修めなければ、意だけに頼って衆生と意思疎通することはできない。修行を通すのなら別だが。密法にはいくつかの法門が畜生道との意思疎通に使われるが、この場合は、意による意思疎通になる。灌頂は身口意の灌頂であり、身口意とも清浄にさせてはじめて灌頂の福報・智慧を受け入れられて、この本尊を修められるとされる。語業が清まっていなければ、持呪しても役に立たない。日ごろからよく人を罵り、似て非なる話をしたりすると、そなたの持呪に差し障ることとなる。

持呪すると疲れてしまう人もいる。健康状態に左右される他、舌がそなたを疲れさせるというのもある。私が持呪する際に唇はあまり動かしていないように見えるが、舌は絶えずに動いている。どの字もどの音もはっきりと唱えている。舌が絶えず動けるのは、語業が絶えず清浄していることだから、自ずと音が出るようになる。そなたらに毎日持呪せよというのは、持呪したところですぐに良くなる意味ではなく、語の清浄への訓練だ。語が清浄になるにつれて、自ずと意が清浄になる。

持呪の際、背筋を伸ばして座るべきだ。背中が何かに寄り掛からない、腰を下ろして両足を重ねて組む姿勢を取らない、テレビを見ながら唱えるのを止めよう。持呪の際、敬うべきだ。たとえ結跏趺坐(けっかふざ)が出来なくても、座り心地が良いと思って、歪んだ姿勢で何かに寄り掛かった上で持呪をしてはならない。それに、猫背気味になるのもダメだ。何故なら、体が真っ直ぐでないにつれて、脈も真っ直ぐではなくなり、気脈が通じなくなると疲れやすいからだ。ちゃんと真っ直ぐ座ると、気脈も通じるのだ。びくともせずに座れというのでなく、長く座ったらちょっと動かして姿勢を調整してもいいが、落ち着きがなく絶えず体を動かしたりするのは止めよう。身口意とのことから、体が恭敬しないと、身が清浄にならない。それにつれて、意も清浄ではない。意が清浄でないと、語も清浄にならない。六字大明呪を成果が出るまで唱えられれば、きっと健康の助けにもなる。如何に唱えても、成し遂げられない場合には、そなたの唱え方や心構えに間違いがあったりするせいで、業力がまだ清浄になっていない。もっぱら持呪すれば、業力が清浄になれるわけではないが、最も大事なのは、話を聞くかどうかにある。話を聞かないのなら、終日唱えてばかりいても役に立たないだろう。

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2021 年 12 月 20 日 更新