尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年7月11日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』巻第十八「無量寿如来会第五之二」を解説された。
経典:「阿難、東方に恒沙のごとき界あり。一々の界中に恒沙のごとき仏あり。かの諸仏等、おのおの阿弥陀仏の無量の功徳を称歎したまへり。南西北方・四維・上下の諸仏の称讃したまふもまたかくのごとし。なにをもつてのゆゑに。他方の仏国のあらゆる衆生、無量寿如来の名号を聞きて乃至よく一念の浄信を発し、歓喜愛楽して、」
阿弥陀仏を修めて浄土往生するには、毎日のように唱えれば行かれるわけではない。ポイントは、無量寿仏の名号を聞いた途端、一つの念頭でその一刹那で浄信を起せるかにある。「淨」という字が大事だ。一部の弟子・一般の信者や仏道修行者を含め、仏道修行するのに淨念(じょうねん)が無く、何をするにも見返りを求めている。ひたすら阿弥陀仏を称名すれば健康になると思っているのなら、それは正念(しょうねん)ではない。仏を礼拝すること・大礼拝(五体投地)によった功徳を怨敵(おんてき)に廻向したところ、健康が回復するから、それで拝み続けると思っているのなら、それも正念ではない。
仏法に関する如何なる動きをし出す前に、正念を起すべきだ。業がすでに清浄であり、身口意が再び悪を為さないのなら、地球に生まれてないだろう。とっくに浄土に行っているはずだ。地球に来ていては、絶対に善より悪のほうが多い。自分が悪事をやっていないと思うべきではない。『地蔵経』に「起心動念はみな業であり罪である」とあるように、業や罪がないわけがない。そなたらに正念を起させることは、天に昇るより難しいことだ。「あの時、どんな理由で仏道修行へし向くようになったのか。」とご自身に問いかけよう。偉そうな理論はさておき、つまるところ、心は貪瞋痴だらけだ。功徳・開悟・成就を貪る。健康になりたいのも貪欲だ。瞋とは、私に危害を加えないように、仏道修行して怨敵に廻向し、これらの怨敵が私の言いなりになって欲しいということだ。痴とは、因果を信じないことだ。自分自身の福徳因縁が不足していれば、どうやって自身の業力を変えられようか。
「乃至よく一念の浄信を発し、歓喜愛楽して」。清浄な念を発することだ。簡単に言えば、「考え方や要求・欲望が混ざらず、自身の念が本来清浄な本性を回復したのをよく分かることこそ、正念と言える」ということだ。なかなか難しいことだ!簡単に成し遂げられることではない。何故、多くは阿弥陀仏の身許へ行けないのか。それは正念が成し遂げにくく、起心動念はみな業であり罪であるからだ。この話については、言うのが簡単だが、実行するのは難しい。毎日の持呪は健康や運気のためでなく、清浄な念と本性を少しずつ悪から善へ取り戻すためであり、こうして正の信念を起きるのだ。ねだることなく礼拝し念仏することこそ正念である。
所謂ねだることがないこととは、阿弥陀仏国土への往生すら求めてはならないのではない。世間の様々な事のために求める必要がないということだ。重要な弘法(ぐほう)師を除く。重要な弘法(ぐほう)師なら、世間のことを求めてもいい。凡夫だったら求めても手に入らない。素直に仏を礼拝すれば、きっと効き目が出るようになる。
先週も言ったように、現世で修めた一切の果報として阿弥陀仏の身許で報われるのであって、地球では成熟しないのだ。誰もが自ら仏を礼拝し持呪して健康状態が良くなったことで、善の果が成熟したと思っている。その実、単に善の蕾が咲いただけなのだ。善の蕾が咲くと、驕り高ぶり、懈怠し始めると、善の果が実らず、花も零れて消えてしまうのだ。
仏を礼拝する者が多い中、心を込めて懺悔したならば、ねだることはないはずだ。「どうして仏道修行し、こんなに修めたのか。」と以前聞かれたことがあるが、私は「仏道修行するのに、最も大事なのは死を恐れないことだ。死に向かって修めるからこそ、修め得られるのだ」と答えた。死を恐れないこととは、人と殴り合ったり自殺したりする意味ではない。人は例外なくいつか死ぬものであって、何歳まで生きようと亡くなる日がやってくることははっきりしている。我々が生涯でなした仏法事業は全て往生したその一秒のために備えているのだ。だが、誰もそれを聞き入れない。聞き入れられないのは心に正念がなく、貪瞋痴慢疑だらけだからだ。上辺のみの仏道修行で、内面では仏道修行せず修行もしない。
厄介事に見舞われた弟子の多くに、大礼拝(五体投地)をさせるよう命じるとはいえ、大礼拝(五体投地)をしたところで病気が治るわけではない。累世の悪業・今生で治らない病気を患っては大礼拝(五体投地)だけで治ると思っているつもりか。なら、因果がないのだ。それなのに、何のためにするのか。そなたらはまだ禅定・供養・布施・修行を通じて、現世で素早く福報を蓄積することができないからだ。それに、そなたらは出離するための心を下していず、子供の事や、あれやこれやと考えてばかりいるから、そなたが唱え・礼拝したのは、功徳ではなく福徳なのだ。大礼拝(五体投地)させるのは、苦労させ痛ませてから、仏道修行というのはご想像のような「聞法するなり、菜食するなり、僅かなお金でもリンポチェにあげたものを供養と言えて何もかも入手できるようになる」ものではないとわからせるためだ。そう簡単だったら、祖師は不共四加行の大礼拝(五体投地)を11万回と定めていないだろう。とっくに一万回でいいと言っていたはずだ。
何故大礼拝(五体投地)をするのか。簡単に言えば、苦労させることだ。苦労の中で育った我々と違って、そなたは今生で苦労したことがない。我々は体を必死に惜しむこともなく、方法を尽くして命を大切にすることもない。かえって、小さい頃から苦労し続け、生涯でたくさんの苦に遭遇した分、世間で財物・名誉・眷属・何でもあったとしても未練がましくする必要がないと分かり、大いなる決心をして、生死解脱ができるように修行している。それに対して、そなたらはこの世界が良すぎるとなお思っている。多くの事に執念があり、何年か多めに生きたいやら、子供が成人するのを見届けたいやら、子供の将来がどうなるか見たいやらと思うと、そなたが拝んだ大礼拝(五体投地)は作用が起こらないのだ。何故なら、そなたに正念がないからだ。正念がなければ、大礼拝(五体投地)による福徳が上がらない。
そもそも大礼拝(五体投地)がよく出来れば、少なくとも健康状態が次第によくなるとされる。もし、大懺悔心で大礼拝(五体投地)をすれば、業を転じさせることができる。大礼拝(五体投地)がよくできれば、福報の蓄積も早い。そなたらに大供養・大布施をさせるより、ご自身の肉を切ったほうが早上がりだ。そなたらは専ら自分自身の事を考え、出し渋っている。出し渋る以上、リンポチェも弟子ごとにひたすら修法するわけにはいかないだろう。私の生身にはまだ限りがある。最も簡単で、しかも効果が出る法門を教えるしかない。それなのに、言うことを聞かない弟子がいる。大礼拝(五体投地)するぐらいで、偉そうに、大変苦労していそうに、上師と仏菩薩と条件交渉している。「健康状態が良くなり、修行し続けられるように、大礼拝(五体投地)させてください」なんて、でたらめだ。
正念が起きなければ、そなたは無量寿仏に対して歓喜・愛楽を生じない。「無量寿如来会第五之二」において、釈迦牟尼仏が開示された「愛」は一回だけではない。仏法では愛というものを提唱しない。何故なら、愛は欲望の一つだからだ。凡夫にこうした欲望を完全に無くさせるのは確かに困難だ。愛と楽を正しい対象に置くことができれば、そなたは解脱が得られる。仮に、愛楽を仏菩薩に置くとして、仏菩薩に対する愛楽は独り占めするのではないし、仏はそなたに独り占めされることはないが、ただひたすらこの事がきっと自分に良いと思っていれば、自分を歓喜させて楽を生じることになるのだ。
仏典の中では、無量寿仏について説く場合に限って、釈迦牟尼仏は「愛」という字を衆生に使っている。これ以外の場合に使うのは、殆ど皆無だ。何故なら、阿弥陀仏の身許に行く者は、決して世間で輪廻解脱まで修めた人ではなく、これらの人は無量寿仏の国土へ行って、天界の中で修行を始めないといけないからだ。天界にいる天人は、人類と同様で欲望・情欲があるが、自分を制御する事ができ、しかも、その欲望は非常に軽い程度だ。だから、阿弥陀仏・無量寿仏の身許は天界と言いながらも、輪廻しない天人であって、そこで修行すればきっと成仏できる。
経典:「あらゆる善根を回向し、無量寿国に生ぜんと願ぜば、」
この話は大切だ。あらゆる善根とは、世間における善を除く、座禅・焼香・供養・礼拝・持呪・誦経等を含めた毎日一切の仏法の善によって植え付けられた根を指し、僅かたりとも自分に振り向けず、全て無量寿仏国土に廻向することだ。簡単に言えば、「私はひたすら大礼拝(五体投地)をして私の怨敵に廻向する」というのなら、そなたは阿弥陀仏の身許に行けなくなる。もし、全部を無量寿仏の身許に廻向すれば、そなたの怨敵は自ずと離れてしまうようになる。何故なら、そなたは未来仏で、地球での未来仏ではないからだ。
怨敵にばかり廻向すると、そなたがどんな器なのかか彼等に分からせてしまうのだ。そなたが唱えたり、拝んだりする分では、彼等を助ける功徳なんかあるわけないだろう。そなたは単に彼等を追い払いたいだけで、彼らが離れると、そなたは安穏に暮らせるようになると願っている。このままでは、寛恕されることはなかろう。釈迦牟尼仏ははっきりと言ったように、善根を少したりとも残さず、善根の全部を無量寿仏国土に廻向することだ。無量寿仏に差し上げると、そなたは行かれるに違いない。なぜかと言うと、仏菩薩は衆生に借りを作らないからだ。善根を向こうへ廻向すると、仏様もそなたの決心が分かるようになるから、間違いなくご来迎に来てくださるに違いない。仮に仏がそなたの決心がまだ下し切っていないふうに思った場合、まるで誰かが私に供養したが、自分用に振り向けたのち、他のを供養にしているように感じるのと同じだ。こうした場合、私は別に反対もしないが、仏だったら来迎引接してくださらなくなるのだ。
だから、地球には何故上師が現われるのだろうか。誰もが釈迦牟尼仏の説かれた方法で修めれば、上師の存在が要らなくなるわけだが、よりにもよって、そなたらには無理だから、上師が現われて様々な方法を以てそなたらの一切の執着を破っていこうとしている。執着が破られてはじめて正信が生起するのだ。そうでなければ、そなたらの信は真っ黒で汚い物だらけだ。
ここの数節は、阿弥陀仏国土へ行った上での修行の重要さについて説かれている。
経典:「願に随ひてみな生れて、不退転乃至無上正等菩提を得ればなり。」
そなたがこうすれば、そなたの発した願に従い浄土に生まれるに違いない。不退転とは、そなたが成仏するまで、決して輪廻する世間に戻ることはないことだ。そなたが発願した際に「私は法身菩薩になってから、また地球に戻って人類になる」という場合は除く。そういう場合、そなたはもちろん戻って来るが、もしこの一節を加えなければ、不退転になる。不退転にもう一通りの意味があるが、そなたが法身菩薩になるまで、そなたの菩提心は不退転するということだ。菩提心が不退転すれば、自ずと輪廻を繰り返さない。そなたの願力に輪廻を加える場合を除く。
経典:「五無間と誹毀正法および謗聖のものとをば除く。」
五無間罪は、父を殺すこと・母を殺すこと・阿羅漢を殺すこと・僧団の和合を破壊すること・仏身に血を出させることである。此の五無間罪を犯しては間違いなく五無間地獄に堕ち、永遠に出られない。仮にこの世界が滅びたとしても、五無間地獄は別の世界に移されて続けていくものだから、中にいる衆生は離れる機会がない。父母を殺す者はごくわずかだし、現在も阿羅漢がないという事で阿羅漢を殺す事はないとはいえ、戒律を守った出家衆を殺す場合も同じく(五無間地獄に)堕ちてしまうのだ。
破和合僧団(はわごうそうだん・僧団の和合を破壊すること)の場合はずっと多い。比丘・比丘尼・在家男衆・在家女衆が揃い、共同でとある上師に仕え、生死解脱させるよう修行するという共同の目標がある修行団体こそ、和合僧団そのものだ。いわゆる和合僧団は、和気あいあいで、いつもニコニコしていて、出くわす度にお互いに阿弥陀仏と言って会釈するイメージではない。和合とは、みんなが一つになって、支え合い、励まし合い、浄土往生を助け、生死解脱を遂げる僧団の事を指す。単に出家衆のことだけではなく、優婆塞・優婆夷(在家の男女衆)を含む。四衆が集った状態だが、一旦そなたがそれを破壊し、存在させなくなると、そなたは五無間地獄に堕ちる。
仏身に血を出させること。差し当たって仏の在世はない故、仏身に血を出させる事はないが、仏への誹謗や、仏像・仏塔を破壊するのも枠内だ。
私が法王に帰依したばかりの頃、ある日、友人と仏教文物流通センターへ行った時のことだった。あの時、夏だったので私は半袖シャツを着ていた。友人がセンターのオーナーと話をしていた時、私はセンター内を回っていたところを、急に腕が痒いと感じて、手で腕を掻いたら、血が流れてきた。とその時、私は一体の四臂観音の仏像を見かけた。それはまさに壇城に奉られている四臂観音ご聖像の仏像だ。その仏像の左腕に凹んだところがあり、ちょうど私の左腕の血が流れた所と同じだった。この仏像は私と縁があるとすぐ意識した。25年近く前のことだったが、この四臂観音の仏像を当時15万元で買い受けた。毎年のインフレを10%加えると、今はどれぐらいするか自分で計算してみよう。
もし因縁や機会があって、毀損した仏像を見かけたら、取り繕ってあげるといい。故意に誰かに言うようにするのではない。
「誹毀正法」。正法とは何だろうか。我々に輪廻を解脱させる法をひたすら教える上師がいるとして、我々は絶えずその上師を「彼が教えたのは、私が学びたいものではない。彼が教えたことを、他所ではそう言っていないから、でたらめではないか」と誹謗していると、「誹毀正法」の範疇内だ。私が言ったことは自分が発明したものではなく、仏典に記載されていることに基づいて話しているのであり、また法王について学んだことや自身の修行経験から会得したものも含まれるからだ。
「謗聖のもの」。仏典で言う聖者と、人類で言う聖者とは、まったく違う。人類で言う聖者とは、人々にその一切の行為を満足させることであって、我々に善に対する考え方を満足させるような人を指す。例えば、自分自身をたくさん犠牲にし、乃至すべてを犠牲にして、我々に満足させる状況、或いは我々にできない行いや言葉を彼らが遂げた場合こそ、公正で率直だと思われる人こそ、いわゆる聖者と思われる。仏典でいう聖者は、生死解脱を確実に遂げられる行者を指し、そして衆生に生死解脱という道を修習し、決心して歩むよう教えられる者を指し、終日仏法を以て他所の話をそなたに説き聞かせるような人ではない。これらの聖者を誹謗する者も、浄土へ行けない。
通常、仏典でいう聖者は、世間で思われるような聖者のようなイメージではない。つまり、表情や態度に威厳があって近寄りがたい様子やら、身だしなみが並ではないやら、浮世離れした人間のようなのではない。却って、仏法でいう聖者の外見は一般人と同様で、知る人ぞ知るその異なった相を具備している以外、彼らは一般人と同様に、一般人の生活をし生老病死していくものだ。何故なら、彼は人類の中で人類に生死解脱することを教えるから、仙人のように、機嫌がいい時だけちょっと現れたりすることはできないからだ。多くの人々は聖者の行いを誤解したりしている。
経典:「阿難、もし衆生ありて他の仏刹において菩提心を発して、もつぱら無量寿仏を念じ、およびつねに衆多の善根を種殖し、」
仮にある衆生がいて、無量寿仏の身許にいるとは限らないが、別の仏刹で菩提心を発し、無量寿仏を専念(もっぱら唱えること)し、常に善根を植え付けている。『阿弥陀経』にはっきりと、「福徳因縁を欠かせない善男子善女人」とあるが、これこそ善根そのものだ。永久とは、行かれるまではひたすらすることだ。ひたすら阿弥陀仏を称名することが善根を植え付けると思ってはならない。善根を植え付けるには様々な法門がある。自分が為したちょっとした事が善根を大いに植え付けたと思ってはならない。永久に・毎日・毎秒で機会があれば為すことであって、まるで呼吸するように、一回だけしなければ死んでしまうようなことだ。
疫病により、私はパルナシャバリを修め、更にそなたらに携帯電話の呼出音を『パルナシャバリ真言』(詳しくは関連記事を参考)にせよと命じた。パルナシャバリは特に畜生道の衆生に役立つ。以前私が放生(ほうじょう)した上、今飼育中の動物たちは真剣そうに(パルナシャバリの真言を)聞いている様子が伺えると思う。パルナシャバリの身に付けている物に、動物に関わるものは全くなく、本尊の衣服は葉っぱでできているし、法器には一つたりとも動物関連の物がない。動物がパルナシャバリの真言を聞けば、自ずと心が落ち着き、より清浄な境地に入る。畜生道の衆生は貪瞋痴だらけだが、この呪文だけで効果てきめんだ。
新型コロナウイルスは非常に小さい。肉眼で見えないし手でも触れない、こんなに小さな物を呼吸によって吸い込んでも何も感じないが、数十億という人類を騒がせて不安が募る毎日を送っている。これこそ、殺業(せつごう)による果報だ。人類の科学は発達していながらも、この疫病を根本的に途絶えさせられない。それは、人類が絶え間なく殺業を新たに作り、異なった動物の霊や恨みを出させている故、ウイルスが変異し続けている。しかも、弥が上にも猛威を振るっている。従来のを追い払ったところ、一方、新しいのがやってきている。その上、感染力がさらに強まる。人類が殺生し肉を食べ続ければ、この疫病は人類からなかなか離れないのだ。現時点では、この疫病で亡くなったのは400万人を超えている。これも、人類の業曝しだ。家族の中に殺業を生業にする人がいる場合、或いは殺業で儲かったり生計を立てているのがいれば、きっと情緒不安定になり、暴れたり衝動したりしやすいだろう。
阿弥陀仏を常に称名し、善根を常に植え付けることこそ、そなたの業を転じるに当たる。悪業を善業に転じてはじめて、浄土往生せんと発願できるのだ。業が転じられなく、悪のままでは行かれようがない。唱えたり、拝んだりすれば行かれると思ってはならない。行くのがそんなに簡単だったら、釈迦牟尼仏はとっくに説法を「ひたすら阿弥陀仏を称名していればいい。他にすることはなく、発願したところ行かれるよ」と簡単に済ませているはずだ。だが、ここに「つねに善根を種殖し」という一節を加えている。これが肝心かなめな上、発願を必要とする。
経典:「発心し回向してかの国に生れんと願ずれば、 この人命終の時に臨みて、無量寿仏、比丘衆のために前後に囲繞せられ、 その人の前に現じたまふ。」
業を返済し切っていない衆生には、自分が事切れてから怨敵が現われ、正念を起させないように差し障り、さらに三悪道へ連れて行くようにすることもある。こういう場合、具徳(ぐとく)の上師が彼を助けさせないと、きっと危険にさらされる。よって、無量寿仏と比丘衆が先に守りにきておいてくれている。あたかも、弟子が往生した際に、私はその神識(しんしき)を守っておくというようなことだ。概念はまさにこれに拠ったのだ。
経典:「すなはち如来に随ひてかの国に往生し、不退転を得てまさに無上正等菩提を証すべし。」
事切れるや否や、すぐ阿弥陀仏の身許へ引接されている。不退転とは、三善道を得生し、浄土往生した者としては、亡者の容貌は決して醜く、険しく真っ黒になることはないことだ。何故だろうか。これだけ多くの衆生を済度させたから、私にははっきりと分かっている。息を引き取られた・心拍が停止した・脳死したとしても、神識(しんしき)はなお存在している。浄土を修めた大善人が死んだらすぐ往生するやら、或いは大悪の者がすぐ三悪道に堕ちる場合やらを除き、一般の人では神識が少なくとも八時間かそれ以上留まっている。此の時、神識に知覚が存在し、世間の事への反応はまだある。ただ、我々はそれを知っておらず、亡者の神識反応に気づいていないだけなのだ。
例えば、私が衆生を済度させるに当たって、もしその眷属が周りでお墓の話をしていると、亡者の怒りを引き起こす場合もあれば、、別の宗教の者を招いてその身体の辺りで鈴を揺らしたりすることによって亡者が怒る場合もあり、また亡者の足を動かしたりしてそれが亡者の好んだ姿勢でなかったら怒ることもある。人は既に死んでいるのに、感覚があろうかと聞くだろうが、その実、感覚はある。
仮に在世の時に為した全てが、阿弥陀仏国土に生まれる為だったら、あらゆる事は間違いなく発生する。もし、世間の事のために、為した事の一部を残しておけば、こうした事は発生しないに違いない。私は保証できる。だが、ちょっとだけでも残さないというのは、そなた等にとって大変だし、難しいことだ。釈迦牟尼仏は多くの仏典を開示されたことがある。その中で言及された法門に、出家も在家も共に修められるのが多くある。出家衆が修めるとよりやり易く、在家だとより難しくなる。何故かと言えば、在家は業障に付き纏われているからだ。業障とは何だろうか。家庭内の事柄やら・事業やら・眷属やら・気になる人やら・愛する人やらで、全て身に付き纏っているから、修めにくいわけだ。だが、修めにくいからこそ、在家の人は人一倍の努力が必要だ。でなければ、そなたは阿弥陀仏の身許に行くことはなかろう。やたらに唱えたりすれば行かれると思ってはならない。
また、そなたは「そんなのだったらどうするのか。お仕事も結婚も何もかもしないのか」と反論するだろう。仏はそう仰せになっていない。仏は「常に善根を種殖す」と言っていて、機会に出くわしたら善根を蓄積するように為すべきだ。毎日のお勤めは何故だろうか。善根の蓄積だ。善根を進んで蓄積しなければ、善の因縁が起こらない。まるで疫病に見舞われた中で、人は無事に過ごせるのに対してそなたは紆余曲折だったようだ。それは、そなたが言うことを聞かず実行しないからだ。やたらと唱えてもすれば善根になると思ってはならない。そんな簡単なわけではない。
前段ではっきりと述べたように、そなたは「専念(専ら念じること)」すべきだ。六字大明呪を専念するのも役立つ。あれやこれやと唱えるのでもなく、大量に唱えるのでもなく、どうして専念するのだろうか。それはそなたらの心は元々散漫しているからだ。あれもこれもちょっとずつ唱えると、心が充分に集中しないし、力が現われないのだ。専念とは、最初は凡夫の身・眼耳鼻舌身意の神識(しんしき)を以て唱えているが、最後まで専念を貫くと、いわゆる自性念仏ということになる。自性念仏は自動仏性念仏ではなく、そなたが微塵たりとも他の物が混じらずに専念するから、本来の清浄なる仏性が現われ、また、その本来の清浄なる仏性が仏の名号の清浄なる本性と結びついたことから、自ずと自性念仏を生じるようになる。もし、そなたの念頭に他の考え方がたくさん混じっていれば、専念ではなくなる。
専念とは、「どうしてこの名号を称名するのか」をはっきりと知り、一途に私は阿弥陀仏国土へ往生するということで、それ以外の考え方が一切ない状態だ。「ひたすら唱えれば、健康が良くなるだろう。ひたすら唱えれば、仲睦まじい家族になり、金運がますますよくなるだろう。」だと、専念ではなくなってしまう。定義としては、そなたの念頭で絶えず唱えることではなく、そなたの念頭は単純で阿弥陀仏の事だけしかないことだ。例えば食事やら、睡眠やら、仕事やら、家庭内の問題を取り計らうなどの、毎日取り組むことは、ただ単に必要不可欠なだけであって、全て因縁法に過ぎないのだ。これらの問題で、そなたの念頭を塞ぐようなことではない。一旦、これ等のことを取り計らい終わって、念頭を取り戻すと、また阿弥陀仏ということのみになり、これ以外の事を一切考えていない。仮に、阿弥陀仏を称名するのが不慣れだったら、観世音菩薩を称名しても問題ない。
経典:「このゆゑに阿難、もし善男子・善女人ありて、極楽世界に生れんと願じ、無量寿仏を見たてまつらんと欲せば、無上菩提の心を発すべし。」
凡夫でも無量寿を見ることができるのではなく、必ず無上の菩提心を発さなければならない。
経典:「またまさにもつぱら極楽国土を念じ、善根を積集して、持ちて回向すべし。これによりて仏を見たてまつり、かの国中に生じて、不退転乃至無上菩提を得ん。」
再度言うが、全ての善根を廻向し自分に振り向けようとしないことだ。この念も念頭という意味だ。釈迦牟尼仏が無量寿如来会の第一会と第二会に、こんなにも無量寿仏国土の風景を紹介してくださっているのは、どうしてだろうか。我々の観想の為だ。密宗で阿弥陀仏を修めるには一連の観想法門がある。
経典:「阿難、 もし他国の衆生菩提心を発して、無量寿仏を念ぜずまたつねに衆多の善根を種うるにあらずといへども、おのが修行せる諸善の功徳に随ひて、 かの仏に回向して、願じて往生せんと欲せば、この人命終の時に臨みて、無量寿仏、すなはち化身の比丘衆のために前後囲繞されたるを遣はさん。その所化の仏の光明と相好とは、真と異なることなし。その人の前に現じて摂受し導引して、 すなはち化仏に随ひてその国に往生し、無上菩提より退転せざることを得ん。」
この部分はレベルがちょっと足りないことを指している。別の国土の衆生で、菩提心を発したが、その念頭が専ら無量寿仏を唱えているのでもなく、永久に様々な善根を植え付けてもいなくて、ただ彼自身が修行したあらゆる善功徳の廻向に従って、「願じて往生せんと欲す」。ポイントとしては、為したあらゆる善根を阿弥陀仏国土に廻向し、さらに発願してはじめて往生できる所にある。こうして、この人が往生する際に、化身仏が来迎してくださるのだ。化身仏の相と光は本物の仏と異なる所がない。
施身法の際にこそ、私は化身仏で衆生を引接して彼の国へ往生させるようにしている。
経典:「阿難、もし衆生ありて大乗に住するもの、清浄心をもつて無量寿如来に向かひ、乃至十念、無量寿仏を念じ、その国に生れんと願じて、」
この部分は、ちょっと足りなくて上機根でない者を指す。十念とは、十個の念頭だ。念とは、心念と、口による念誦(ねんじゅ)のことである。十個の念頭の間に、曇りがなく、心では阿弥陀仏の名号しかない。一つの念頭の中に、他の考え方が混じり込むと、もうこの念頭は数に入らない。釈迦牟尼仏ははっきりと十個の念頭と仰せになっているから、我々は常日頃からの練習が必要であって、即ち一呼一吸の間に、全くを以て一個の念頭に阿弥陀仏しかない。
経典:「甚深の法を聞きて、すなはち信解を生じ、心に疑惑なく、乃至一念の浄心を獲得せん。一念の心を発して無量寿仏を念ずれば、この人命終の時に臨みて、夢中にあるがごとく無量寿仏を見たてまつりて、定めてかの国に生れ、無上菩提より退転せざることを得ん。」
甚深の法を聴いていると、信心を起し戸惑いが解かれていく。「心に疑惑なく」。要するに、釈迦牟尼仏が説かれた阿弥陀仏の法門に対して、微塵たりとも懐疑・戸惑いを生じないことだ。懐疑とは何だろうか。「こうすればいいのかな。」戸惑いとは、「きっと来てくれるだろうな。来なければどうしよう。私はどんな法門を修めればいいのか」ということだ。
「夢中にあるがごとく」。これは実際に迎えに来ているわけではなく、夢を見ているように無量寿仏を見ることだ。
上機根の者に対し、仏は直接に来迎してくださる。中機根の場合には、化身仏が来迎してくださる。更に低い機根の者だったら、夢を見ているようにだが、何れも行かれるのだ。
経典:「阿難、この義利をもつてのゆゑに、無量無数不可思議無有等等無辺の世界の諸仏如来、みなともに無量寿仏のあらゆる功徳を称讃したまふと。」
仏は更に阿難に曰く、無量寿仏はこうした奥深い意義で、衆生を利益する故、数え切れないほどの世界の仏・如来に共同で無量寿仏のあらゆる功徳を褒め称えさせている。
経典:「仏、阿難に告げたまはく、東方に恒河沙のごとき界あり。一々の界中に恒沙のごとき菩薩ありて、無量寿仏およびもろもろの聖衆を瞻礼し供養せんと欲するがために、仏の所に来詣す。南西北方・四維・上下もまたかくのごとしと。」
この間、テレビで見た報道だが、宇宙には数多くの太陽系・銀河系があり、その数は数えきれないほどあると。現代科学は、数千年前に仏が仰せになった話をやっとのことで今になって証明できるようになった。仏がここで説かれた一個の仏刹土こそ、一個の銀河系、乃至太陽系に当たる。
経典:「その時世尊、しかうして頌を説きてのたまはく、東方のもろもろの仏刹 数恒河沙のごとし かくのごときの仏土中の 恒沙の菩薩衆 みな神通を現じ来りて 無量寿仏を礼したてまつる 三方のもろもろの聖衆も 礼覲してまた同じく帰したてまつる かれ沙界のなかにおいて 道光をもつてもろもろに弁論し 深禅定の楽 四無所畏の心に住す おのおのもろもろの妙花と 名香のみな悦ぶべきを齎し 」
仏土に行くには、単に観想を頼りにすればいいわけではない。神通の中の五神通まで修めなければ、阿弥陀仏国土に行けないとされる。
「おのおのもろもろの妙花を齎し」とは、前段で言った珍しい花のことだ。
経典:「ならびにもろもろの天楽 百千の和雅の音を奏して もつて天人師の 名十方に聞ゆるものに献じたてまつる 威神力を究竟して よくもろもろの法門を学び 種々に供養するなかに 勤修して懈倦なく 功徳智慧の景 よくもろもろの幽冥を破す ことごとく尊重の心をもつて もろもろの珍妙の供を奉る かれ殊勝の刹の 菩薩衆の無辺なるを観じて すみやかに菩提を成じ 浄界安楽のごとくならしめんと願ず 世尊欲楽の 広大不思議なるを知ろしめして 微笑を金容に現じ 成ぜんこと所願のごとくならんと告げたまふ 諸法は幻のごとく 仏国はなほ夢響のごとしと了るも つねに誓を発し荘厳して まさに微妙の土を成ずべし」
絶えず供養し、阿弥陀仏を褒め称えるのは、全て自分が無上菩提を証する為なのだ。
阿弥陀仏は喜ぶと微笑む。仏が微笑むことには大きな因縁が必要だ。仏が微笑むと、多くの菩薩が未来仏と授記(じゅき)される。「金容」とは、仏は黄金色の身で現われるということで、それ以外の色はないとはっきりと説かれている。
経典:「菩薩願力をもつて 勝菩提の行を修し 土は影像のごとしと知るも もろもろの弘誓の心を発す もしあまねく清浄にして 殊勝無辺の刹を求めば 仏の聖徳の名を聞き 安楽国に生ぜんと願ぜよ もし諸菩薩ありて 清浄の土を志求せば 法の無我を了知して 安楽国に生ぜんと願ぜよと」
此の偈(げ)は、十方世界では多くの菩薩は皆阿弥陀仏国土に往生せんと発願しているという意味だ。
経典:「また次に阿難、極楽世界のあらゆる菩薩、無上菩提においてみなことごとく一生補処に安住す。」
仏は引き続き何方が阿弥陀仏の所に住んでいるのかについて紹介される。菩薩がそこに辿り着くと、漏れなく無上菩提に安住することができる。「一生補処(いっしょうふしょ)」とは、この一生で法身菩薩の果位まで進め、乃至仏の境地に辿り着くということだ。
経典:「ただ大願ありてよく師子吼し、大なる甲冑を擐けたる摩訶薩衆の、群生を度せんがために大涅槃を修するものをば除く。」
衆生の為、大無畏し非常に多くの事を為している。
経典:「また次に阿難、かの仏刹中のもろもろの声聞衆、みな身光ありてよく一尋を照らす。菩薩の光照百千尋を極む。二菩薩の光明のつねに三千大千世界を照らすをば除くと。」
そこのあらゆる声聞衆(比丘)は一尋を照らすことができる。それに対し、菩薩の光は更に遠くまで、百千尋を照らすことができる。だが、二尊の菩薩の光だけ三千大千世界を照らし、即ち全宇宙に行き渡っている。
経典:「阿難仏にまうしてまうさく、世尊、 かの二菩薩の名をなんらとすると。仏、阿難に告げたまはく、なんぢいまあきらかに聴け、かの二菩薩、一りを観自在と名づけ、二りを大勢至と名づく。阿難、この二菩薩娑婆世界より寿量を捨てをはりてかの国に往生せりと。」
仏は此の事を非常に重視しているから、阿難によく聞けと特別に申し付けた。一尊は観自在(観世音菩薩)で、もう一尊は大勢至菩薩であり、二尊の菩薩とも娑婆世界から来ている。観世音菩薩は地球の衆生と縁がとりわけ深い。大勢至菩薩もそうだ。密教には大勢至菩薩忿怒尊の法がたくさんある。
経典:「阿難、かの極楽界に生ずるところの菩薩、みな三十二相を具せり。膚体柔軟にして、諸根聰利なり。智慧善巧にして、差別の法において了知せざることなし。禅定・神通ありて、よく遊戯す。みな薄徳・鈍根の流にあらず。かの菩薩のなかに初忍あるいは第二忍を得ることあるもの、無量無辺にして、あるいは無生法忍を証得するものあり。」
「諸根聡利なり」とは、目・耳ともにはっきりとクリアな状態である。「差別の法において了知せざることなし」。様々な現象を全部知り、彼に知らない事はない。「禅定・神通」というのは、衆生済度する際に用いられるのは禅定と神通だということだ。
「遊戯」とは遊んでいるということではない。かりに諸仏菩薩には神通がないなら、衆生のあらゆる業の因縁を見抜くことができないと同時に、将来、衆生の修行がどうなるかを見抜くこともできない。衆生が修行に取り組むように、仏菩薩は神通を使い、世間の衆生がいわゆる満足するような方法で、まず近づけてから、度するものであるが、その人について悪事を働くのではない。「遊戯」とは、固定不変の方法を使うことはない。遊ぶ時には思い切ってするが、遊び終わったらもうこれで終了だ。追っかけ次の遊戯が始まる。
「禅定・神通ありて、よく遊戯す。」には、もう一通りの定義がある:もし菩薩に我々の欲望・考え方を全部満足させたいのなら、不可能だというわけでもない。最初の頃はちょっとその可能性はあるとしても、その後、ご自身の修行に頼るしかない。この菩薩のした事や振る舞いが、そなたには気に入らないとか、受け入れられないかもしれないが、そなたが受け入れられないにしろ、気に入らないにしろ、この菩薩がした事はそなたを輪廻から解脱させるという因縁を植えたいからに違いない。そなたが冷静に考えると、自分自身が菩薩に助けられたかどうかが分かる。菩薩からのお助けとは、そなたの欲望や考え方を真に満足させるのではないこと。(そなたの欲望や考え方を)ぜんぶ満足させてはじめて慈悲と思われるようなら、こんな菩薩は間違いだ。
例えば、明らかにそなたの過去世の悪業を知っていながらも、その悪業の現状をしばらくそなたに見せるのだ。目で見るとは限らないがそなたがそれを見ると、こうした悪業をしたら将来がどうなるか感じさせるのだ。そなたに体得が出来たら、仏法に馴染み、仏法を受け入れられるようになり、そうしてはじめて、改め始め、救われるようになる。そなたに大変満足させるよう救うのではなく、輪廻の世界から離れるよう救うのだ。因果・因縁は非常に入り組んだものであって、決して一世・二世にして終わりようなことではないのだ。仏典は、ここでは一生補処と言う。阿弥陀仏の身許では、仮にそなたにまだ善の業や善の縁が少し残っているとしても、そなたに差し支えることはない。そこで仏に成るまで修める。輪廻させるように、善の因や縁によって引き連れられ、差し障ることがない。
「禅定・神通ありて、よく遊戯す。」禅定を通じ、ひたすら座るのではなく、心が寂静するようになってから、その神通を用いてある境地に留める。例えば、天眼通・他心通等。衆生の業がどうやって来たかを知った上、それに対処(その過去の悪業に対処、整理整頓する)する方法や、この悪業を今生で終わらせて善の業に転じられる方法を知る。これは一般人で為し得ることではなく、禅定の神通力が備わらないといけない。
経典:「阿難、かの国の菩薩、乃至菩提まで悪趣に堕せず、生々の処によく宿命を了る。ただ五濁の刹中に世に出現するをば除く。阿難、かの国の菩薩みな晨朝において他方の無量百千の諸仏を供養す。希求するところに随ひて、種々の花鬘・塗香・末香・幢幡・繒蓋およびもろもろの音楽、仏の神力をもつてみな手中に現じて諸仏を供養す。かくのごときの供具、広大にしてはなはだ多く、無数無辺不可思議なり。」
そこに生まれた菩薩は、同じように菩提が得られて悪趣に堕ちないとされる。どこに生まれようと、宿命が、要するに過去世と未来世が分かるのだ。五濁悪世(ごじょくあくせ)では宿命通(しゅくみょうつう)がない。よって、地球に生まれた人には何れも宿命通がなくて、修め直す必要があり、心が比較的に清浄になるまで修めてはじめて、宿命通が再び現れるようになる。他の世界では、この菩薩がそこに生まれると、すぐ自身の過去・未来世がどんなのかが分かる。だが、地球に生まれた場合だと、たとえ過去に菩薩道を修めたとしても、誕生して物心が付いてからでも、そなたは過去・未来の事を全て分からずにいる。何故かというと、五濁悪世にいるからだ。
五濁とは見濁(けんじょく)・煩悩濁(ぼんのうじょく)・衆生濁(しゅじょうじょく)・命濁(みょうじょく)・劫濁(こうじょく)である。感染が確認されたらすぐ亡くなることこそ、命濁そのものだ。人類にして最も深刻なのは見濁であって、仏法について説いているのに、先方の耳に入ると別の物に変わったりする。どうしてだろうか。それは、その「我見(がけん)」が強いからだ。非常に濁った池に、きれいな水を一杯入れても濁っているようにだ。きれいな水を濁った水の中に混ぜても、なお濁ったままだ。ただ、濁った水を先にきれいにしておく場合なら、きれいな水を加えるときれいな状態になるのだが。
濁った水はどうやったら清浄になるのか。仏様は簡単に説かれた。「信じる」ということだ。それは、迷信を指すのではなく、要するにそなたが聞いてからまず実践に移すことだ。質問もせず、仏法から何が得られると願ったりもしない。「聞き入れて、言いなりに事をすると損にならないか。もしかして、彼自身の為に、こうした話を説き聞かせるのではないか」と思ってはならない。違う。それは仏典で説かれた内容だ。我々が五濁悪世に生まれたのは、実に修め難いところだ。五濁悪世に生まれると、宿命通が全面的に消えるのは何故だろうか。それは、五濁悪世には見濁だらけだからだ。仮に、そなたは誰かに、自分自身が過去で何々だったと言ったとしたら、そなたは気違いと思われなければ、小さい頃から祭壇に置かれ、神様のように祭られているに違いない。
五濁悪世に生まれた我々は、劫濁(こうじょく)にも見舞われる。まさに今、この劫難に皆が遭っているところのようにだ。宿命通を持つ人なら、とっくにこの劫が現われると知り、早期に回避するようにしている。更に、人にまで回避するよう呼び掛けているはずだ。こうして、良いかどうかに至っては、上辺から見れば、一部の人の命を救っているから、良さそうに見える。だが、因果論から言えば、もし地球人が悪を行わなければ、劫も生まれないだろう。劫はどうやって現われたのか。それは、衆生が悪を行い、悪多き善少なきだから、劫がこうして生まれるのだ。
衆生濁とは、地球が人類・畜生と鬼道が共に生存する世界だから、衆生は濁っているということだ。畜生の濁りはともかく、人類だけでも充分濁っている。でたらめな考え方で埋め尽くされている。
言わずと知れた煩悩濁についてだが、誰に煩悩がないのか。目が覚めると煩悩だらけだ。命濁とは、非業の死であって、死ぬべきではない時に死ぬということだ。現在では、死ぬべきではない時の死は、どうやって発生しているのか。それは、そなたがちょっと病気にでもなると、家族にあまりにも愛されすぎてあれやこれやとやりまくったあげく、因果因縁から物事を判断せずに、知らないうちそなたの命がやられてしまうことこそ、命濁だ。
よって、五濁悪世に生まれたそなたに、宿命通は自然と消えてしまっているのだ。現在、誰一人も自分自身がどうやって来たか、前世が何だったか知らないでいる。仮に、誰かにそなたの前世は何だったと言われたら、それは嘘ばかりだ。その理由は後に述べてある。前世を知るというなら、仏は、前世の名前は何だったやら、眷属が誰だったやら、お好きな食べ物は何だったやらを全部知らなければ、前世が分かるという宿命通と言えないと仰せになっている。例えば、そなたの前世はお姫様で、ある人と結ばれたが、裏切られたなんて、千篇一律の物語なのに、こうした物語を聞くのが好きな人が多くいる。
宿命通を備えるには少なくとも阿羅漢からでなければならない、と仏様ははっきりと仰せになっている。そして、少なくとも二地以上の菩薩でなければ、宿命通は開かない。何故だろうか。菩薩は菩薩道を行って衆生利益すると決心したら、決して宿命通を利用して自身のための利益を図ることはなく、かえって宿命通をこの衆生の因はどこから生まれたかを知るために使っている。これで初めて、どう助けようかが分かるようになる。
例えば、私がこの人は生涯でなにかを好んで食べているから、この病を患ったとよく言うようにだ。これもちょっと宿命通を備えていると言える。その因を知らずにしては、助けようがないだろう。だから、私は多少なりとも知っている。だが、地球に生まれた途端に、こうした宿命通は消えてしまうのだ。修行を通じて、それを少しずつ啓蒙させていくのだ。
経典:「阿難、かの国の菩薩みな晨朝において他方の無量百千の諸仏を供養す。希求するところに随ひて、種々の花鬘・塗香・末香・幢幡・繒蓋およびもろもろの音楽、」
阿弥陀仏国土に生まれた全ての菩薩は、早朝から他方の無量百千諸仏を供養する。諸仏とは、十方三世過去現在未来一切の諸仏を指す。「希求するところに随ひて、」とは、仏が何かを強く願い求めるのではなく、仏は如何なる物事を希求することはない。福報は供養から来ると諸仏菩薩がよく分かっていることから、仏を供養することができるように希求するのだ。よって、阿弥陀仏浄土に生まれてはじめて大神通を得られ、早朝から神通力を使ってあらゆる仏を供養しに赴くことができる。多くの者は、仏前に花でも供え十方三世一切の諸仏を供養すればいいと思っているが、実は、それは単に我々に習慣付けさせるようにするだけなのだ。十方三世一切の諸仏を供養するためには、阿弥陀仏の身許に生まれて早朝から諸仏を供養しに行く他に、密法を修めるしか為し得ることができないのだ。
我々は壇城前に花や果物などを供養し、心では十方三世一切の諸仏を唱えている。顕教では、毎日の朝晩のお勤めにこれを唱えているが、なお役立っている。そなたの心をこうした事に馴染ませるよう訓練するに当たっている。菩薩はどうしてこんなことを希求するかに至っては、仏典では既にはっきりと説かれている。例えば、法王が翻訳された『アショーカ王経』には、アショーカ王はどうしてこんなに偉い国王になれたかと言えば、ある世、彼が子供だった頃に、釈迦牟尼仏が通りかかったのを見かけたら、砂浜の砂で塔を作って仏を供養したから、後世、アショーカ王になられた、とある。
皆は砂を以て私を供養しないでくれ。私は仏ではなく、ただのリンポチェだ。砂で供養してくれても、ここの空間に限りがあってしまいきれない。よって、仏を供養することは功徳無量のことだ。而して、菩薩が仏を供養するのは、自分自身の為にお布施するのではなく、修行する過程で遇うあらゆる差し障りを取り除く為なのだ。菩薩にも修行上の障碍があるのか、とそなたらに聞かれるだろうが、確かにそれはある。例えば、『宝積経』には、菩薩が見た夢によって、過去が初地・二地或いは三地以上の菩薩再来やら、何かの障碍が有ったり、何という法を修めるべきだったりのことを表す、という段落がある。
法身仏にならない限り、登地から八地までの菩薩には障碍がある。それは、人に関するにしろ、事に関するにしろ、何れも発生する。この宇宙にいる我々は、自分がどの世でどの仏刹にいたか分からないが、そなたが法身菩薩になる寸前に、何も感じなかった距離の離れた怨敵には、菩薩になったそなたが放った光によって、「こいつまだ私に借りがあるから、取り立てに行く」と感じさせる。だから、阿弥陀仏の身許に行く理由は何だろう。それは、阿弥陀経は大威徳力によって浄土全体を守っている。浄土に入られる衆生以外、他の衆生は入られないことから、そなたの怨敵は阿弥陀仏浄土に入ってそなたに差し支えることができない。よって、そなたは修め続けられる。
菩薩が供養を希求するのは、自身の福報は間違いなく供養・布施から生まれるとはっきり知っているからだ。『普門品』には、無尽意菩薩は観世音菩薩を供養する段落があり、自分が衆生を代表して観世音菩薩を供養することは功徳無量であって、更なる多くの衆生を救済できるようになると分かっているからだ。最初は、観世音菩薩はそれを受け入れなかったが、それは無尽意菩薩の供養する心が間違っていたからだ。最後は、釈迦牟尼仏が取り持つようにして、無尽意菩薩は衆生を代表してするから受け止めないかと言った。
観音菩薩に神通が無くて見えないのではなく、釈迦牟尼仏・観世音菩薩と無尽意菩薩が共同で芝居を演じて見せているのだ。そなたらの供養にねだることがあれば、仏菩薩は受け入れないのだ。まさに、私はよく弟子からの供養を受け入れないようにだ。心が間違っていれば受け入れない。どうしてだろうか。心が間違っているのに、福報を蓄積する機会を与えるものか。福報を蓄積させて、そなたに今後もっと多くの人たちと敵対させるのか。よって、受け入れないのだ。
この段でいう希求とは、仏が菩薩からの何かしらの供養や花を希求するのではなく、菩薩が自ら諸仏に会ったり、供養したりするチャンスを希求することだ。我々が現在地球で供養するのは仏像であって、法身仏ではない。我々は報身仏を供養することすらできない。灌頂を修法する際に限って、一部の手印・呪文・観想で法身報身仏を供養することはできるが、それ以外だったら不可能だ。
希求とは、仏を供養するのが最大の功徳だと菩薩道を修めるあらゆる者がはっきりと知っていることだ。この功徳は自分が素早く菩薩果位を証する為ではなく、更なる多くの衆生を利益できるように、自分に能力・大福徳・大威徳を持たせる為だ。よって、希求とは、これらの菩薩が、ありがたい阿弥陀仏の大神通力によって助けられる機会を得るため、早朝からあちこちに飛び交って十方一切の諸仏を供養し、華鬘・塗香・末香・幢幡・繒蓋及び諸音楽を供養している。
経典:「仏の神力をもつてみな手中に現じて諸仏を供養す。かくのごときの供具、広大にしてはなはだ多く、無数無辺不可思議なり。」
阿弥陀仏の神力では、供養は全部手に存在し、諸仏を供養し、供養する品物は不可思議なほどある。見てもどんなにあるか分からない。かつてチベットでは流行っていたが、上師や直貢噶舉梯寺を供養する場合を例に取り上げてみると、梯寺の上から供養の列を作っているが、列の最初の人は既に上がったが、最後尾の人は翌朝になってもまだ梯寺に上がっていない。これで、どれだけの人が供養に赴いたか知れるだろう。
経典:「もしまた種々の名花を求めんと楽へば、花に無量百千の光色ありて、 みな手中に現じて諸仏に奉散す。」
もし、この菩薩が喜んでいれば、様々な名花を求められる。この様々な名花とは世間の花を指すのではなく、前段で述べた各種の花を指すのだ。花には、無量百千の光色がある。故に、我々が修法時に撒いたお米は、様々な花で諸仏・本尊を供養することを表している。だいぶ前の事だが、どのリンポチェが修法なされたか覚えていないが、当時まだ信者だった私は前に座り、隣には二人が座っていた。修法が完了した時点でお米が撒かれたところを、一人はもう一人に「お米を撒いて何のためだ」と聞いたら、もう一人は「施食らしいよ」と言った。これは、まさに知ったかぶりだ。
チベット仏教なのに、どうしてお米を使うのか。青稞(ハダカムギ)を使わないのだろうか。お米は古代のチベットでは希有な食糧であり、チベットではお米が作れないから、もっぱら四川からの運送に頼っていた。よって、チベットでお米が食べられる家は貴族に違いない。しかも、大貴族だ。一般人では決して食べられない。他に、大リンポチェしかお米が食べられないから、お米は彼等にとって貴重なものだ。だから、お米を様々な花の代わりに、撒き散らして諸仏を供養するに当たっている。これは、私の感覚だ。
どうして一撮みの花を使わないのか。今や、花を買うのが便利だが、チベットの冬は花がない。こちらと違って冬になっても依然花があるわけではない。チベットでは、春の僅か二か月だけしか花がないから、チベットでは、花で供養する場合には、新鮮な花ではなく、乾燥した花をよく使っている。台湾では、我々は花を使っている。一年中花が生えていて非常に便利だから、花を使っている。
古代には、それが無くてどうしただろう。それでは、最も貴重な物を使おう。だが、山積みのダイアモンドを使うのは不可能だし、そんなにも持っていないから、お米にしている。これは施食ではなく、供養だ。色の異なったあらゆる花を代表して供養する。「花に無量百千の光色ありて、みな手中に現じて諸仏に奉散す。」散とは、撒き散らすことだ。よって、密宗には全てが包括されている。仏典にすべて書かれている。前述したのは八供に当たるが、全部書かれている。それなのに、密宗なんてないと批判する人がどうしているのか。皆が留意していないだけなのだ。仏典では、菩薩は「撒き散らす」と言っている。だから、仏典をしっかりと読まず、気ままに言ってはならないのだ。
経典:「阿難、その散ずるところの花、すなはち空中において変じて花蓋と成る。蓋の小なるものも十由旬に満てり。もしさらに新花をもつて重ねて散ぜずは、前に散ずるところの花つひに堕落せず。」
これが神通力だ。私にはできない。地球には、出来る人などいない。菩薩が撒き散らす花は、撒かれた途端に花の蓋になり、小さい花の蓋も十由旬に満ちる。新しい花を撒き散らさなければ、前に撒き散らした花は落ちないままで、そのままの状態で供養されている。
経典:「阿難、あるいは花蓋あり、二十由旬に満てり。かくのごとく三十・四十乃至千由旬、あるいは四洲に等しく、あるいは小千・中千乃至三千大千世界に遍す。この諸菩薩希有の心を生じて大喜愛を得、晨朝の時において無量百千億那由他の仏を奉事し供養し尊重し讃歎し、およびもろもろの善根を種えをはりて、すなはち晨朝において還りて本国に到る。」
菩薩は神通力を通じて花を非常に大きく、乃至四大洲(しだいしゅう)に満ちるまですることができる。四大洲とは、人類の住む所であって、我々は南瞻部洲(なんせんぶしゅう)に住んでいる。宇宙には、地球みたいに人類が住んでいる惑星が四つある。そのうち、地球だけしか仏法がなく、他の三つの洲にはない。現在では、一部の天文学者が次第に発見しているが、一部の惑星は地球にとても似ていながら距離がよほど離れており、時に見えたり、時に見えなかったりする。奇妙だ。説明しようがない。この段落では、菩薩が早朝出かけて、また早朝のうち戻ってきていることが説かれている。
経典:「これみな無量寿仏の本願の加威とおよびかつて如来を供せるによれり。」
阿弥陀仏本願力がこれだけの如来を供養したことがあるのでなければ、これらの菩薩は行かれそうにない。というのは、そなたが進んで阿弥陀仏の所へ行きたく、またそなたがやりたいことは仏がかつてしたことであれば、そなたは彼について実行すればいいのだ。簡単に言えば、上師の為した事について実践すればいいのだ。自分なりの発明は要らない。ここでは、はっきりと説かれているが、阿弥陀仏がしたし、これだけの仏を供養したから、その大威徳力・大功徳力・大神通力はまだ残っている。そなたはその国土に生まれた限り、この種の力はそなたが実践するように仕向けると助けてくれるから、ご自身の力を指すのではない。そなたは希求して実行すればいい。
経典:「善根相続して欠減なきがゆゑに、よく修習するがゆゑに、よく摂取するがゆゑに、よく成就するがゆゑなり。」
仏が修めた善根は、阿弥陀仏国土に住むあらゆる菩薩と声聞縁覚に広げることができる。欠けたり、少なくなったりすることなく、そなたは引き続き彼が為されたことを修習することができ、彼が為された事を摂取することができる。そなたがこうする故、同様にして成就が得られるようになる。これが、チベット仏教では、上師が重要だという所以だ。上師がした事のエネルギーは残るし、そなたが言いなりになって仕えて実践すれば、たとえ今生でリンポチェでなくても、未来のある一世は必ずリンポチェになる。だが、そなたらがリンポチェになるのを勧めない。リンポチェになるのが大変すぎるから、阿弥陀仏の所で菩薩に成ったほうが、こうした苦しみがないと勧める。
経典:「また次に阿難、かの極楽界のもろもろの菩薩衆の説くところの語言、一切智と相応せり。受用するところよりもみな摂取することなし。」
極楽世界にまします諸菩薩は、喋る言語が広東語であれ、閩南語であれ、英語やスペイン語であれ、如何なる言語も、彼らが説かれただけ、一切の智慧と相応する。如何なる言語を以て称名しようと、何れも一切知と相応する。特別に梵音を学んだりする必要がない。これも多くの人の社会通念を破っている。古代の梵音で読み上げなければならないと思う人もいるが、仏典では、そなたがそこで菩薩になると、口にした言葉は一切知と相応するようになると、はっきりと説かれている。というのは、そこで広東語でも、北京語でも「阿弥陀仏、助けてください」と言えば、相応するものだ。特別に現地の言語を学ばなくて済む。だから、阿弥陀仏の所はあまりにも便利過ぎて、何でも通用している。そなたが進んで行けばいい。
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2021 年 10 月 24 日 更新