尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2020年8月9日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北寶吉祥仏法センターにて自ら殊勝なる法会「瑪尼迴向速證大樂文」を主法なさった。リンポチェは灯をともし仏に捧げた後、法座に上がられ、参加者全員に貴重な仏法の開示を下された。
今日は観世音菩薩と慈悲について開示しよう。多くの人は自分には観世音菩薩や慈悲のことを分かっていると思い込んでいるが、それは実は間違っている。
観世音菩薩は釈迦牟尼仏より紹介された八大菩薩の一つだ。観世音菩薩に求めれば、欲しい物や助けてもらいたいことがすべて手に入ると思われているが、この観念は正確ではない。法会が始まる前に、弟子の語った自分自身の経験によれば(詳しくは衆生済度事跡1051号を参照)、彼女が観世音菩薩に求めた結果、リンチェンドルジェ・リンポチェが助けてくれたのだと言う。観世音菩薩に求めたからこそ、観音法門を修める上師に出会える因縁が現れたのだと。
観世音菩薩は慈悲の化身で虚空に遍満するがゆえに、求めれば必ず願いが叶うのではないか、と問う人が多かろうが、諸仏菩薩は衆生を救うにしても、因果に背いてはならない。そなたらの気根では、観世音菩薩はそなたらの夢に現れるはずがないし、そなたらの前ですべきことを告げるはずもない。それはそなたに福報がないからだ。ひたすら大量に大悲呪を唱えたり、菜食したり、拝んだりすれば、観世音菩薩が現れると思うか? 現れはしない。なぜ現れないのか? それはそなたが福徳資糧が出るほど修めてはいないからだ。
簡単に言えば、勢力のある人に助けてもらおうとしたとして、もし自身の身分が足りなければ、数多くのコネを使わないとその人には接触できないし、直接に会うことはできない。よって、自分が直接に観世音菩薩に会えると考えても、それは不可能だ。例えば、台湾である大臣に助けを求めたいと思っても、面識がない場合、いくらそなたがその大臣を道で止めて叩頭したところで、彼はまず周りの人に、あの人はどんな用があるのか、と尋ねるだろう。
諸仏菩薩も同様だ。観世音菩薩を安置し、ひたすら大悲水を飲み、大悲呪を唱え、そして観音懺法をすれば、観世音菩薩が現れると思うか? 現れはしない。「普門品」では観世音菩薩は何でもできると説かれているではないかと、そなたらは言うだろうが、それはそなたらの勘違いだ。それは釈迦牟尼仏がすべての菩薩に対して、観世音菩薩の大威徳力がどれだけあるかを知らしめるために説かれたものだ。よく見てみよ、「普門品」ではどう求めれば観世音菩薩に助けられるかを。簡単に「常念」としか述べていない。そなたの念頭に絶え間なく観世音菩薩を置き続けるのだ。
この経典に書かれた「一切心識伝化為慈悲」のように、そなたの心にいささかでも不慈悲を持てば、観世音菩薩はそなたとは相応しない。だが、観世音菩薩は慈悲深く、そなたら千人余りが観世音菩薩を求めたことがあるゆえに、この一生仏法を聴聞させ、仏法を学習させ、仏法を修行させるようにし、と、このように観世音菩薩はすでにそなたらを助けているのだ。
法身菩薩は一般凡夫を助けるためではなく、仏果を得る間際の存在だが、特に観世音菩薩は古仏再来、乗願再来である。釈迦牟尼仏の仰せの通り、菩薩道を修めようと発心したすべての行者は、諸天菩薩によって讃嘆され保護される。仏典では一切の凡夫が一切のことを求めれば、十方世界仏菩薩に保護されると説かれているだろうか? いや、説かれていない。「地蔵経」のみ、家の近くに仏法を護持する鬼王の到来をはっきりと講じている。
だが「地蔵経」では、そなたが毎日のように一万篇の地蔵王菩薩の名号を唱えれば、一年後に地蔵王菩薩がそなたを保護すると説かれているだろうか? いや、説かれてはいない。なぜだろう? それはそなたにまだ貪念があるからだ。なぜ近辺の善鬼が保護してくれるのか? それはそなたが彼らと同類だからだ。よって、自分に期待しすぎないことだ。自分が学仏、出家などしているから、観世音菩薩及び地蔵王菩薩がみな来てくれるはずだと思うだろうが、本当のことは、経典の中にはっきりと記載されているのだ。
昨日ある信者が会いに来て、私の著作を読み、私から慈悲をちょっと学んで身に付けたと言った。私でさえ未だに自分が法王の慈悲を少しでも身に付けたとまでは言えない。その信者がこう言ったのは傲慢、かつ知恵がないからだ。慈悲を学ぶのはさほど困難なことではないが、いざ自分の薫習と性格を捨てる段となるや難しくなる。よって、直貢噶舉の道場では通常、本尊が三体安置され、私の左手の厨子には、観世音菩薩が中央に、その右に文殊菩薩、その左に金剛手菩薩がある。それは、修行するには必ずこの三本尊を必要とするという意味なのだ。
慈悲ばかりあっても知恵がなければ、ただのお人好しになる。先週、私がある弟子に指摘した通り、彼は人助けだと思い、お金がなく銀行へ借金に行く人を見かけて、助けようと手を出した。その弟子は心の中では自分がいい事をした、もし彼がお金が借りられなかったら会社は潰れるだろうと思い込んでいた。それなら、会社を閉めればよかろう! やせ我慢の必要があろうか? なぜその弟子はこういうことをしたのか? それは自分が仏を学ぶ人で、人に求められた以上、しかも大した事でもないし、たまたま必要としている二人の人がいたため、問題を解決してあげようと思ったからだ。
彼にまた別の貪念があるか否かはともかく、少なくとも彼は二人が過ちを犯すのを助けた。私がひたすら繰り返してきたのは、慈悲だけがあって知恵がなければ、お人好しになるということだ。多くの人は、お人好しになるのはどうということもない、せいぜい叱られるぐらいのことだと思っている。これは私とも仏菩薩とも関係なく、そなたが地獄に陥ることだ。二人が悪事を行い、法を守らず、更に戒律を破るのを助けていて、それでまだ自分がいい人だと思えるのか? そなたらはみな同じだ。自分がよくできたから、人の問題を解決し、人に褒められると思うのだ。
それならば、毎週土曜日に求めに大勢でやって来る全員に、答えてやればよい! なんと慈悲深いことか! だが、多くの人に私は答えてやろうとはしない。彼らは因果を信じず、恭敬心を持たないから、助けようがない。例えば、昨日ある信者が拝謁に来て、自分の兄が病院で死にかけていると言った。兄の奥さんはなぜ来なかったのかと尋ねると、病院で兄に付き添っているのだと答えた。付き添っていて病状に効果があるのかと更に聞いたら、家族に付き添ってほしいのだと答えた。兄が病院に行った時、そなたと兄の奥さんと二人とも行っただろうが、仏菩薩に求めに来た時は、なんと一人来て一人来なかった! これで恭敬していると言えるのか?
彼は何故そんなに賢いのか? 慈悲も知恵もないからだ。知恵はどうやって生じるのか? 六字大明呪をたくさん唱えれば、観世音菩薩が知恵を開くのを助けてくれるのではない。我々は本来ならば清浄なる知恵が存在するが、貪瞋痴慢疑によって清浄なる知恵が遮られてしまうのだ。だから、よく修めなければならない。菩薩道を修めるには、一個目の資糧道は福を修め、知恵を修めることだ。仏の仰せになった一切のことを聞き、実践すべきだ。決して加減してはならない。
どうしてひたすら毎日大悲呪を唱えれば、観世音菩薩が来ることがあり得ると思えるのか? 「地蔵経」でははっきり講じている。来ないのだ。それなのに、自分を固く信じるそなたら。これらの出家衆も含めてみなそう思っている。全員が法を修めるべきなのに、どの人も自分を信じ、仏典や上師の説いた仏法を信じず、自分の凄さ、偉さしか信じない。
慈悲とは何だろう。人に優しく、良い事をなすからこそ慈悲なのか? 人に優しく、良い事をなすのは当たり前の事だ。人間として、そなたのなすべきことなのだ。畜生でさえ良い事をなす。テレビで、台湾のある犬が、市場の地面に落ちた魚に水を掛けたという報道を見たことがある。犬でさえ良い事をなすのであって、まして我々は人間なのだ。人に優しく、良い事をなすだけで慈悲を修めたなどと思ってはならない。知恵のほかに、我々は精進、勇猛を必要とする。一切の障礙、困難、挫折を恐れないで修めることだ。
人にますます慈悲深くなっていると言われていいと思ってはならない。慈悲深いと褒められれば褒められるほど、そなたは警戒を高める必要がある。なぜならそなたは空性の慈悲まで修めていないからだ。どの人も慈悲を口癖にするが、実際に実践した人は一人もいない。慈悲とは何だろう?「慈」とは自分の良い物と、衆生の悪い物とを取り換えることだ。それを敢えてする人があろうか? 良いとは何だろうか? 例えば、毎回、私が供養する際に、すべてを出して衆生に廻向するようなことだ。
我々金剛乗を修める者は最後まで修めると、すべての衆生を本尊と同様になるように加持し、すべての衆生が私の体内に入るようにする。そなたらならば、こう考える。この人には病気、あの人には問題があったりで、それらをすべて私の体内に入れたら、自分も病気にかかるのではないか? こう考えるだけで、みな勇気を失ってしまう。だから、金剛手菩薩のご加護によって、我々に実行の勇気を涌かせる必要があるのだ。よく考えてみよ。名利、家庭、仕事、事業に物事が関わると、そなたはいつも前言を翻すではないか!
「悲」とは、彼岸にまで衆生を済度する能力があることだ。そなたらにはできるのか? 済度する能力があるのか? 慈悲を学ぶとは表だけのお人好し、好印象の残るような言葉遣いをすることではない。観世音菩薩の慈悲を身に付けるまでには、今生だけでは足りない。だが、我々が絶えず蓄積し、自分の意識を慈悲に転じるよう薫陶すれば、いつかそなたには慈悲の力が出現しよう。
法王の仰せでは、私は何らかの仏法事業を念頭に置きさえすれば、すべて成功できると。どういう意味か? 仏法の重点は慈悲であるから、もし私の心に慈悲がなければ、諸仏菩薩も護法も決して助けに寄ってくることはないということだ。よって、慈悲を修めることが必須だ。当然、次第に従い五戒十善よりステップバイステップで修めていくべきだ。もし仏法に慈悲心がなければ、一切の仏法は空っぽになる。
慈悲の二字は中国語にはよく翻訳されているが、英語には訳せない。英語訳はmercyとcompassionになる。だが、この文字では慈悲を解釈することができない。よって、外国人が仏を学ぶのはより困難で、慈悲とは何かが分からないのだ。mercyとcompassionには多少「そなたに同情する」という概念が含まれるが、仏法での慈悲は同情するという意味ではない。慈悲は心を動かさないからだ。同情とは、そなたを可哀そうに思うが、それなら、もう片方は可哀そうに思わないのか?「可哀そうに」の定義は、国、都市によって違う。ある地域では食べ物がないから可哀そうに思い、豚や鶏を殺して食べさせるが、それが慈悲と言えるのか? そうではなかろう。
慈悲を学ぶには、必ず仏典、上師の教えに基づき、如実に実行することだ。でなければ、自分が過ちを犯しても気が付かず、人助けしていると思い込むようになる。慈悲を修めるには、戒律の支持が絶対に必要となる。でなければ、お人好しになり、人を逸らすのを恐れるようになる。慈悲なくしては、仏法は存在しない。どんな学仏者でも、自己の欲望のために学ぶのならば、慈悲の慈と永遠に無関係になる。もちろん最初はみな自分の欲望で行うにしても、多く聞き、薫陶されていく中でも、自身の思考モードを変えようとしないなら、どうしようもない。
観世音菩薩は慈悲の代表だ。学仏の初心者は誰でも観音法門を修めなければならない。観音法門を修めても早く観世音菩薩になれるわけではない。ただ観世音菩薩は我々地球の人類と特別の縁を持つから、誰でも祈れば多少の相応がある。この種の相応はそなたが考える相応とは違う。例えば、法会が始まる前に弟子が語った自分の経験のように、観世音菩薩に求めたら相応が現れ、一人の行者が来て彼女を助けたのだ。観世音菩薩は助けたものの、その様子を見せなかった。
私が開示した「普門品」を最初から詳しく読み直してほしい。くれぐれも自分は聞いている、知っている、分かっていると思ってはならない。もしそなたがすでに知って分かっているのなら、観世音菩薩の化身のはずだ。なぜ繰り返し過ちを犯しているのか?慈悲がないから過ちを犯したのだ。執着が重いということだ。観念は自分のためでいっぱいだ。六字大明呪を唱えても自分のためなら、何の慈悲があるのか?いくら唱えても役に立たない。
観音法門は一つの経典にすぎないから、修めるのは簡単だと多くの人が思っているだろう。勿論、簡単なのだ。一つの経典だけでも我々に成就を得させることになる。だが、衆生各々の因縁果報に依り、観音菩薩の儀軌には種類が特に多くある。私の手元にある観音経典は八種類と多い。観音法門を修めたいと思うか? リンポチェの果位まで修めなければ、すべての経典を使うわけにはいかない。だから、自分が観音法門を修めていると言ってはならない。自分が観音菩薩の修行の過程のみを学んでいると言えば良い。
多くの人は自分が観音法門を修めていると主張するが、観音法門とは何か? そなたは衆生済度できるのか? 自分の生死輪廻から解脱することができるのか? できないのであれば、そなたは観音法門を習得できていないのだ。観世音菩薩を手本に、絶えず学習するしかない。何度生まれ変わっても慈悲を習得できないにせよ、必ずある後世には身につくからだ。如法の教えに従って、自我の主観を最小限にし、ないし減少すれば、きっといつか観音法門の効き目が発揮される日が来るのだ。
観音法門を修める場合、顕教なら必ず大悲呪を、チベット仏教なら六字大明呪を唱えるものと思われている。大悲呪は効かないと誤解してはならない。チベット仏教にも大悲呪があるが、大悲呪は文字が多くあるため、無上瑜伽部まで修めなければ唱え続けられないからだ。せいぜい十数秒専念して唱えると、心が散ってしまい、集中が足りなくなるのだ。六字大明呪はわずか六文字しかないので、より心が集中して念じられる。集中して六字大明呪を一回唱えるほうが、集中しないで十万回唱えるよりも効き目がある。集中しない持呪は、口だけ動いているから効かないと経典にも記載してある。
いったい六字大明呪はどんな功徳を持つのか? 仏典では、仏の知恵で六字大明呪の内容と功徳を説くには、一小劫の時間でも語り切れないほどだと言われている。違うレベルに依って、六字大明呪に対する解釈、見方及び会得もそれぞれ違うことは推して知るべしだ。
簡単にまとめれば、六字大明呪を誦持する功徳は、諸魔障退治(魔による修行障礙)、諸損害退散、諸病気平癒、諸悪劫退散、諸悪難退散、諸願成就、六道生門断ち(六道を輪廻しない)、諸障礙浄化(すべて障礙を浄化する)、諸毒消滅、失敗誓言除去(実践できない誓いを口任せに立てた場合、誓いの力がそなたの学仏成就を阻害する)との類別がある。
例えば、台湾で百万人が出家するよう度すると宣言した話を聞いたことがあるが、これこそ失敗した誓言なのだ。だが、言い出したからには誓言の力が存在する。誓言の力とは何か? 彼女の言う度とは、彼女について出家することなので、彼女に従い出家する人が百万人に達するまで、彼女は輪廻を繰り返すようになること。だから、でたらめに誓いを立ててはならない。
自分だけの、自分が発明した誓言をでたらめに立てると、そなたの成就を阻害する。そなたの誓言が真に衆生利益のためならば、別とする。地蔵菩薩の誓言「地獄不空、誓不成仏」の如く、自分に成仏への障礙を与えるが、衆生が地獄の苦しみから離れるのを助けるためのものなのだ。この種の誓言は良い。後世は何々人に生まれ変わりたいというような誓言は、良くないのだ。もし、その組織が無くなったら、生まれ変わってどうする? 誦持の功徳には、また「能得次第道」という類別がある。六字大明呪を修めれば、修行次第が得られる。
誦持功徳概論:
「貧者得富。貧者欲富、此種持呪必能満願。」いわゆる貧者得富とは、宝くじでも十億元当たったりすることを指すのではなく、食事、家賃、日常生活に事足りることだ。大金持ちに成り上がることではない。六字大明呪を唱えたことで、家のローンを完済したり、商売が繁盛になったり、債務やカード債務を返済し切ったりなどができるというのはは有り得ない。みなでたらめだ。誰が借りたのか? そなたがだ。お金がないのに、なぜ家を購入したのか? ある人はこういった。「リンポチェ、私はローンを返済するお金がありません」。「売ればいい」と答えたら、「そうすると、住むところがなくなります」と言った。「台湾では空き家がまだたくさんあるよ。政府の統計によれば、台湾での空き家率がけっこう高いそうだ。借りればいい。」「でも、借り家では私自身の家ではありません。」だが、買った家だったら、そなたのものになり得るのか? そなたが死んでからまだそなたの物なのか? 多くの人は資金のやりくりがつかないのに、住宅だけ無理やり我慢する。仕方がない! 中華圏の人たちはこのように、どうしても家を買いたがるのだ。
「賤者得貴」。過去一切の業力に依り、そなたは人に卑しめられる。賤とは下賤な仕事を指すとは限らず、ただ自然と人に好かれないようになることだ。パルナシャバリ持呪に来なかった弟子らを大頂礼させたのは何故か? 私はもう十分慈悲深い。そなたは衆生と縁を結ばないで、人に好かれるわけがあるか?「パルナシャバリ持呪は私とは無関係だ。人に念じてあげるものだ。私は弟子だから、リンポチェは守ってくれるはず」と思うなら、そなたらは衆生と縁を結ぶことはない。この疫病は収まったと思うか? 私は何度も言っているが、肉食、殺生、海鮮を食べる人がいる限り、この疫病は必ず存在する。今みなは気を緩め始め、仏菩薩のご加護に頼れば疫病にかからないと思っているだろう。
今朝、私を迎えに来た四人はマスクを着用していなかった。ふざけていないか? 彼らは「急いでニンポチェを迎えに駆け付けたから」と言ったが、マスクをするなら10秒もかからないことだろう。彼らは「リンポチェが保護してくれるし、リンポチェとある程度距離を置いているから」と思っていた。今日は彼らを法会に参加させない理由は、道場と上師の立場を考慮しなかったからだ。この道場を保護するには人並に行ってはならない。今朝の四人は他の人と同様にマスクをしないで、一体何の慈悲を修めるのか? 慈悲を修めるどころか、道場や上師に対してさえよく接しない。この種の人は人好きがしない。何故人好きがしないのか? ひたすら人を相手にしないでいるからだ。今、そなたは別の方法を用い人を助ける能力がないが、仏法ならお金がかからず、そなたらが来ればいいのだ。そなたらがどう供養しようと、私は一向に拘泥しない。本来ならば、今日にはマンダの献上儀軌があったが、私はいいと言った。そなたらへのご褒美として、お金を浮かす。みな金欠状態だから、節約させてやろう。
リンポチェは三週間連続でマンダを受け入れず、そなたらを奨励し続けている。みなにはお金がないし、伝法するだけであれこれしろと言わせないためだ。私は絶えず人を奨励しているのだ。
「女身転男」。六字大明呪をひたすら唱え、絶えず発願すれば、後世は必ず男身に転じること。「数遍功徳、能浄百千億劫所集業障。」は、一遍から七遍まで唱えれば、果報を消去するのではなく、累世で為された悪業、累積した罪による障礙を払い、修行の障礙を浄化することを指すのだ。能浄とはこの障礙を消去するのではなく、この障礙を浄化し、悪から善に変わることだ。そなたらの多くにはこういう経験があるだろう。最初は家族に反対されながら、次第に反対されなくなることがこれだ。
「念百遍和千遍等於念一切経的功徳」。ここでの経は「大蔵経」を指す。言っておくが、ここでいう遍数は通常の唱え方ではなく、閉関修行の中でするのだ。「万遍功徳、念完万遍能夠断三悪道。」「念完百万遍能夠得不退転」は菩薩になってから退転しない意味だ。「千万遍功徳、当於法身、受用身、応身、自性身、証菩提身而得成仏。」これらは閉関修行で唱えるのだ。日頃自宅で三千遍、一万遍を唱えるのは、絶えず善の因縁を累積させるためだ。何故閉関修行が必要なのか?「宝積経」では多く説かれている。現在は閉関修行の状態ではないから、効き目がないというのか? 違う、効く。唱えないより効き目があるのだ。
何故仏寺を建てるのか? 寶吉祥道場には閉関センターがないからだ。私も、軽率に閉関センターを建てたくはない。直貢噶舉の慣らわしでは、閉関前には必ず法を修め、修め終わってからどう閉関するかをはっきりと言って初めて関房に入れる。いつ入関し、いつ出関するかに関してはすべて規則通りにする。成り遂げればいいのではない。「私は四時に入関しよう」「それでは、私は五時に。いつ出関するの?」「明後日は八時まで唱えよう」「では、私は九時まで」というようなことではない。閉関修行は試合ではなく、そなたの時間に都合がつくかどうかによるのでもない。何もかも管理され、好き勝手に籠るわけにはいかない。だが、無上瑜伽部まで修めれば許される。何故許されるのか? していい事、してはならない事を自分ではっきりと分かるからだ。そなたらのように、してはならないことをしていいと思ったり、ひたすら訳の分からない願を立てるような人ではない。
今日ははっきりと講じた。発願を間違えても障礙が生ずる。勝手に願を立ててはならない。発願のことを、食べることと同じように簡単なことに見なしてはならない。六字大明呪の功徳が分かった以上、今後六字大明呪を誦持する際には、求める必要がなく自然と得られるようになる。上師から灌頂、真言の口伝さえ与えられたことがあれば、そしてそなたの上師に対する信心、本尊に対する信心が足りれば、先ほど講じたすべてのことが発生し、求める必要は一切ない。そなたらが毎日求めた結果、それは得られたか? 何故得られないのか? 如法ではないからだ。
これは信じさせるがため、書き出したのではなく、仏の仰せなのだ。六字大明呪「嗡嘛呢唄美吽」のどの字も、そなたらが傷つけた衆生と対峙することができる。だから、寶吉祥道場では必ずアキ護法と六字大明呪を唱えるのだ。だが、唱えれば、マスクの着用が不要になるとは言わない。我々が信じても、人も信じるとは限らないし、そなたの誦持に効果があるか否かは、私にすら分からないからだ。
経典ではこう書かれている。「六字大明咒経過上師灌頂、對上師的信心足夠的,就算你唸不霊験,不代表上師不霊,是你不霊。」(訳:六字大明呪は上師による灌頂が与えられた後、上師に対する信心が足りれば、たとえそなたの誦持が効かなくとも、それは上師が効かないということを意味するのではなく、そなたが効かないのだ。)この場にいるみなの多くは、ひたすら唱え、求めても得られなくては、上師が効かない、上師がだめだと思われる。そう思わなかったか? 例えば、お経を唱える者の多くは、今日は「薬師経」を唱え、三か月唱えては無理だと思い、「地蔵経」に変えようとし、「地蔵経」を更に二か月を唱え、唱えれば唱えるほど背中から寒気を感じ、辞めようとする。「普門品」に改めたら、唱えているうち、大悲呪の水が苦くなったと思い、また辞める。他のを唱えようと、変えたりするようになる。
どういう意味か? そなたらは複雑な人間だから、簡易化しなくてはならない。それにもかかわらず、複雑にするならば、学仏は勧められない。複数の法門を学べば偉くなると思ってはならない。六字大明呪でさえ、そなたはそれに効果を発揮させられないのに、何を根拠に別の法門が学べるのか? 我々の宗派での大行者が私にこう言ったことがある。「そなたは嗡嘛呢唄美吽だけで衆生済度できる」。そなたらは? 何故私はできるのか? 法王がよく人に言うように「この弟子は三十年経っても変わらない。依然として私の弟子だ。」即ち、私の上師に対する心は一切変わったことがない故に、自然と歴代上師よりご加護をいただき、諸仏菩薩から護持されているということだ。
ほかはさておき、現在、浄土宗を修め阿弥陀仏浄土に往生するには三種類の福を修める必要がある。一個目の福は師長に崇敬することに当たる。親孝行すること。慈悲不殺生すること。師長に対し、礼儀作法を知らず、敬わないなら、何の福報があるのか?福報がなければ、この一生は修められない。古くから「一日為師終身為父」」(訳:一日師たれば、終身父たり)という。私はそなたらの父にならない。なんとしんどい事か! だが、崇敬さえできなければ、何に基いて阿弥陀仏浄土へ行けようか?
崇敬とは何か? 上師に教わった事を全部信じ、聞き入れ、実践することである。自分の考えた我流の方法を用いてはならない。自分の方法を使っては、師長を崇敬しなくなるし、自分の考え方を持てば、師長を崇敬することはない。二個目は言うまでもなく、大乗を修め、大乗仏経を読誦するなら、一個目は遂行できず、二個目も遂行できず、三個目まで遂行できなくては、どうやったら行けるというのか? 密宗だけしか上師に尊重する必要はないと思ってはならない。浄土宗三福の一個目に当たるのが師長を崇敬することだ。自分の考え方を持っては絶対に修められない。百世かかっても修められない。上師の言ったことがない話を、自分で考え出したら、何を意味するのか?上師を信じなくなるのだ!そなたは「私は上師より上手に修めたから、特別なところを抉った!」と言うだろうが、藍より青しというのか?
修行に対し大きな誤解を持つ者が大勢いる。例えば、ある人たちは「ひたすら仏法の録音テープを聞き流せば、ニンポチェのことが分かる」と思うだろう。この世で、真に私を理解するのは、私の根本上師 チェ・ツァン法王のみなのだ。仏法の録音テープを何回聞いたところで、修められるとは限らない。ただ常識が増えるだけなのだ。もし、教えに従わず、依然として「自分なりに修め、毎日帰宅後自分で修め、自分の方法で修める」なら、役に立たない。必ず上師の言った通りに修めなければならない。上師が言い間違えたとまで言う人もいる。言い間違えであっても清浄なる法なのだ。法王もよく今日はこう、明日は別のことを仰せになる。私は「法王、昨日仰せになったのはこうでしたが、何故今日は変わったのでしょうか?」とは言わない。法王は私の上師だ。伝えたのは仏法で、世間法ではない。世間法には正確と間違いがあるが、仏法にはないのだ。衆生に利益するために伝法するなら、正確や間違いがあるはずはないだろう。
法門は無量であり、衆生によって因縁が違う。もしかして近々そなたは気難しい衆生に遭遇するだろうと 法王が思われたために、その方法で言ってあげただけかもしれない。仏法は学問ではないのに、そなたらは意地になって学問として学ぶ。仏法には試験もなければ卒業もないし、課程なんかもない。外では、何回か受講すればどうこうなるというのが流行っているが、仏典にはそう書いてあるか? 書かれていない。仏典では、何回か受講すればOK、法が得られる、などと講じたことがあるか?「宝積経」について二年余り開示してきたが、そんなふうに言ったことがあるか? 座禅の修行を一日二日すれば、座禅が得られるのか? そうは書かれていない。仏典でそう書かれていないのに、なぜ現代ではこんなことが発生したのか? 私も不審に思う。仏は私に、弟子にそんなふうに教えろなどと仰せになってはいない。何の課程もなく、数日来るなりOKなわけがない。それでは簡単すぎる。数日来ればOKなら、お釈迦様は生生世世のうち、菩薩道を何世修められたのか? 観音菩薩も何世修められたのか? 彼らがそんなにバカで、我々現代人が賢いなどというはずがない。すべて間違いだ!
「根本誓句」とは、第一に身の誓言、第二に語の誓言、第三に意の誓言、第四に根本誓言である。身の誓言については、例えばある人たちは因果に従わず、後世は何に生まれ変わりたい、例えば国王やら、何やらになりたいというようなのが身の誓言だ。語、意、根本誓言。
「修道」とは、我々が空性の中で慈悲を修め続けることである。
「無学道」は、我々が空のことを真に分かった後の話だ。いわゆる「無学」は学ばないことではなく、学問がないことでもない。「無学道」とは、一切が空性で、因縁の生滅によるものと分かっているため、敢えてある法、ある法門、ある物事を追求しなくなり、自然と自在に仏法を運用し衆生を利益するようになるのである。
今日はみなと共に比較的簡単なものを修めよう-「瑪尼迴向速證大樂文」。リンポチェの手元にある経典は「伏蔵法」だ。この経典には、息、懐、増、誅があり、病気に罹った場合、この法を修めると役に立つ。また、家に霊が出た場合でも、この法を修めると役に立つ。誰かに嫌われても、修めると役に立つ。ここでは、恋愛のことを指すのではなく、そなたの上師や上司をあしらうためでもない。敵がいる場合、この法を修めると役に立つ。もし、そなたが不共四加行を修めるのに成功し、観音法門を閉関修行によって百万遍の誦持を完了したら、この経典を伝える。この経典を持てば、数多くの衆生を救える。この経典は直貢噶舉第十七世 法王が書いたもので、伏蔵の経典だ。「伏蔵」は、本尊が経典を岩に隠し、後世の人に見つけさせようとした物だ。この法も、我々の傲慢な心、意を解決してくれるのだ。そなたらとの結縁のために、比較的簡単なのを修めよう。
(リンポチェは修法し始めた)先ほど唱えた四句は、一切諸仏の法身と、六道衆生が観世音菩薩に変化し、虚空に十一面観音菩薩が遍満する如く、威容無量光の尊前に祈請するものだ。
続いて、リンポチェは持呪をし始め、開示を下された:「手中給予迴向祈請與」我々が手中給予迴向祈請することは、我々が祀る際に、置いた物や供えた物を廻向し祈請するという意味だ。「受取死者食物諸亡霊」というのは、先祖や亡者を祀る際に、お肉などを使っても、実は亡者はその供養を受けられず、その供養を受けるのは、その辺で亡くなった亡霊だということだ。そなたらが棺桶の前で、ポエ占い(擲筊)をし亡者に祈請しても、亡者が来るのではなく、通常は亡霊らが扱うのだ。人は亡くなってから、最初の七日間は神識が昏々するから、反応できない。七日間ごとに一回目覚めるものだから、ポエ占い(擲筊)は初七日、二七日、三七日にしなければ、ポエ占い(擲筊)の結果は嘘になるのだ。その周辺で目覚めた亡霊らが、こちらに食べ物もあれば、物事を聞く占いもやっているから、付き合って遊ぶだけなのだ。「〇〇さんでしょうか?」と聞くと、必ず「はい」と答えるし、「〇〇さんに祀りに来てもらいますか?」と更に聞けば、その人は知らないから、要らないと言う。そなたらがしてきたポエ占い(擲筊)に答えたのは、全部亡霊だ。多くの人々が好む祖先へのポエ占い(擲筊)も同じなのだ。
どこでだったか覚えていないが、私は昔ある信者を助けたことがある。彼は、夜中に冷蔵庫が自動的に開閉したり、付けたトイレの電気が自動的に消えたり、朝起きたら部屋の中に置いた靴も乱されたりするなどと言った。私が「裏側のベランダは墓場を向いていないか?」聞くと、彼ははいと答えた。「毎日午後に、裏側のベランダでお香を焚いたりしていないか?」と聞くと、焚いていると答えた。そこの幽霊がこうやってきていたわけだ。仏菩薩や護法に対してでなければ、好き勝手にお香を焚いてはならない。そなたらがあちらこちらにお参りするのが好きで、食べ物があるから東西南北にある霊が集まってくる。こういうお参りをしたことがある人は注意しなければならない。お参りはすればするほど霊験があると思われているが、霊験は霊験でも、霊ばかりが付き合って遊んでくれるだけだ。私が彼に修法し終わってからは、夜中にトイレに行っても電気が付くこともなくなった。それまでの自動的にではなく、自分で付けるようになった。幽霊というのは、時には面白いものだ。
鬼神や亡者に対して肉を供えたり、求められるだけ手に入れさえする事などが、その類だ。仏教では、何故我々は帰依後は外道に参拝しないのか。それは外道が悪いのではなく、問題はそなたらが幽霊を感召ばかりし、済度することができないからだ。自分の良い生活ばかりを享受しているだけなのだ。
先ほど解釈した六字大明呪嗡嘛呢唄美吽は我々が天、非天、人道などに生まれ変わるのを断つものだ。六道衆生は六道に生まれず、仏果の証しを得られるという意味だ。観音菩薩に懇切に祈れば、必ず西方極楽世界に往生できる。たとえ行けない場合でも、少なくとも観音菩薩の水晶国土には生まれられる。観音菩薩も道場を持つので、「六字大明呪」を唱え、功徳は無量に、果報、福報も無量にあるのだ。誦持は、上師に灌頂を与えられてはじめてすべきだ。日頃の誦持にはメリットがあるか? もちろんある。人を罵ったり、でたらめにくだらないことを言ったりするよりもいい。だから、今後は私の機嫌により継続的に奨励を与えるかどうかを決める。機嫌がよかったら更に奨励を与えるし、これ以上「リンポチェは伝法しない」などとは言うまい。如法ではなければ、どう伝法するというのか?
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参列者全員を率い、阿奇護法と廻向儀軌を修持してくださった。
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2020 年 10 月 03 日 更新