尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2020年7月12日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、参会者を率いて観音法門を修めた後、『寶積経』巻第八十二「郁伽長者会第十九」を開解くださった。

経典:「住在家地学出家戒。」

この言葉は、リンポチェが以前からひたすらみなに言ってきた「在家相を現しながら心は出家」を印証している。出家という、この表象を現すかどうかは一人一人の因縁だ、という意味だ。在家なら、ただ一つの方法、つまり菩薩道を修めるしかない。仏は前の方で「捨禅定」と仰せになった。非常に多くの禅宗を修める出家人にとっては、恐ろしく聞こえるだろうし、なぜ禅定を捨てなければならないのか、と理解に苦しむだろう。経典でも「要修習四禪,但以方便力不入正位,就是不不証阿羅漢果」と言っている。我々が入定すれば心は不動だ。心が不動なら、衆生に利益することはできない。そのため『宝積経』はひたすら空性の重要性を強調し続けているのだ。

もう一度強調する。空とは「ない」ということではない。そこいらに座ってひたすら頭を空っぽにしているのではないのだ。この観念は正しくない。すべて附仏外道だ。現在世間で言う「頭を空っぽにする」というのはすべて誤りだ。この種の禅を学んだことがある人が、捨ててしまわず、以前の学禅の経験をなお用い、自分の座禅は正しいと思っているなら、それは誤りだ。寶吉祥道場では今になっても学禅を正式に教えたことはない。法王は何度も仰せになってはいるが、法王の開示も方便法だ。真に修禅するなら、直貢噶舉派では、大手印を主とするので、大手印を修め、必ず不共四加行を修め終えなければならない。

なぜ我々は座禅を組むのか?入定のためではなく、この種の修法を通して、我々の狂乱の心をゆっくりと収斂し、ゆっくりと減らし、多くの妄念を消してしまうのだ。実は大手印は始めの頃は、心を集中するように、如何に集中するかを訓練し、その後にようやく修行果位に至る。釈迦牟尼仏が『宝積経』で仰せの禅と空性は、実は大手印の観念と同じなのだ。大手印は直貢噶舉が特別に発明したのではなく、一種の修行の法門だ。私は大手印まで学び、大手印まで修めたので、『宝積経』内で仏が仰せの禅の境界の多くが大手印の境界であると分かる。

なぜ以前釈迦牟尼仏は仰せでなかったのか?それは一人一人の縁、根器、福報が違うからだ。チベット仏教での修禅は、例えば紅教では大円満を修めなければならず、噶舉派では大手印を修めなければならない。修禅とは胡座をかいて座り目を閉じる、参話頭、数息(呼吸を数える)、呼吸法等さまざまな修法があるなどと思ってはならない。これは必ずすべての衆生に適しているという訳ではないのだ。『宝積経』中で仏は、世間の種々の事情の原理を理解するには、どこから始めればいいかをお教えくださる。仏はここで特に強調なさる。我々在家で菩薩道を修める者は、出家で菩薩道を修める者と必ず同じように、五つの戒を守らなければならない。前の方ですでに言ったので、ここでは繰り返さない。

つまり菩薩道修行は、拝み、線香をあげ、拝懺し、ボランティアし、毎日経典を見れば、仏法修行だというのでは絶対にない。菩薩道修行は別の修行法なのだ。だがこの種の修行法でもやはり仏陀の教えを離れることはない。よって菩薩道を学ぶなら、絕対に『宝積経』中の教えに基づかなければならない。

経典:「在家菩薩住在家地。応極精進学於智慧。」

「極精進」とは一切の生命、一切の時間を用い菩薩道修行に精進し、自分自身に決して妥協してはならないということだ。それは何らかの世間法により妥協し、仏法が聞き入れられなくなるなら、菩薩道から離れることになるからだ。例えば『宝積経』では、眷属を冤親債主、獄卒のように考えると言う。誰ができるだろうか?何人もいない。家族のことを言えば、どんな仏法だろうと全て忘れてしまう。

仏は家族の情を捨てよとはお教えでない。だが、家族の情は累世の恩と怨が、この一世で全て集まったものだ、とお伝えになる。仏法を理解しているなら、この種の恩怨を修行の推進力として利用することができる。仏法を理解していないなら、この種の恩怨を、自分にとって最も親しく、最も必要で、最も捨てがたいものだと思うだろう。そのためこれらいわゆる感覚の家族の情を捨て去ることができないなら、仏が仰せの「一切衆生以慈相応」を為すことは絶対にできない。

衆生に対して、慈を以って相応できないなら、どうして上師、三宝、仏法を尊重できるだろうか?欲望を以って学仏しているからだ。前回「不習欲」と言った。学仏とは学習ではなく、欲望を満たすのではない。上師が欲望を満たしてくれないなら、すぐに癇癪を起こし、急にそっぽを向き、そうしておきながら、自分でも抑えられないという。仏は気づかせてくださる。菩薩道を修めるなら、欲望を修習せず、学習しない。仏法とは、自分の欲望を満たすためのものではないと言うことだ。このように菩薩道を修めなければ、相応することはできない。

仏はさらに気づかせてくださる。衆生に対して慈を以って相応すれば、自然に無怨、無仇、無恨となり、そうでなければ人生を変えることはできない。こんなにたくさんの苦悩と煩悩があるのは、恩と怨のためだ。しかも仏法と言わずとも、儒家思想でも、子供が親不孝で悪いことをするのは父母の過ちだとはっきり言っている。経典でも言う。子供が過ちを犯し、父母が諭さないなら、地獄に堕ちる。

皈依弟子の子供の中には三宝と上師を尊重しないものがいる。誰がそのように育てたのだ?それは弟子がそのように育てたのだ。家族の情に関わったら、仏法はひとまず横に置いておき、どうと言うことはないと考え、さらには子供が三宝に対して不恭敬でも叱ったり諭したりせず、どうと言うことはないと考え、子供は最近機嫌が悪くて情緒が不安定で、そのため学仏する気がないなどと説明している。このようでは、仏が仰せの極精進を為すことはできず、非常に多くの人が自分は精進する必要はないと考え、自分は加護を求めるだけだと考えている。

私はひたすら一つのことを強調している。誰もが仏菩薩に加護を求めることに長けている。線香をあげ拝む時にこう言わない者がおろうか?だがなぜ毎日交通事故で人が死ぬのか?なぜ毎日こんなにもたくさんの事が起きるのか?仏菩薩は我々を加護くださっている。それなのになぜ起きるのか?それは仏が我々の業力を変えることはできず、衆生の果報を変えることはできず、善因縁を作り、業力を如何にして変えるか、転動させるかを手伝ってくださることしかできないからだ。与えてくださるのではないのだ。

私はしばしば強調しているし、何度も言っている。仏菩薩のすべてのものが与えられるなら、私は修めなくとも良い。毎日法王に求めるだけで良い。修め、念じる必要があるだろうか?法王は七世の転世であられるのだ!だがなぜこのようにできないのか?それはこれでは正しくなく、不習欲でなければならないからだ。みな仏菩薩と上師を利用し自分を助けさせている。もちろん最初に災難があった時には、乗り越えられるよう助けるが、その後は自分次第なのだ。

私は皈依した後にも災難に遭った。ガン、ビジネスの失敗、離婚、子供の親不孝、食に事欠くほどの貧乏。人世間のあらゆる悲惨なでき事はすべて私の身の上に起きた。だが私は修めるのはやめだ、全く効き目がない、思い通りにならないと言ったりしなかった。このような考えで多くの人が離れていく。皈依時に「皈依法離欲尊」と誓っているのにだ。だが誰も聞き入れないし、聞いても理解できないし、受け入れない!仏法が衰えているのは、このためだ。とても多くの人が、私のこのようなこだわりを嫌う。市場で流行している方法ではないからだ。

仏は人間仏法を説いてはおられない。仏はどのように生死を解脱し、菩薩道を修め、衆生を救うかについてだけ仰せだ。人間仏法についてなら、儒家思想で十分だ。別の宗教でも良い。だがそうなら、仏法と儒家思想、他の宗教との間の違いは何なのだ?こんなに苦労する必要はないではないか!必ず明確な違いがあるはずだ。未来の方向は絕対に違うのだ。

先ほど法会前に弟子が語ったように、彼女の父親は生前学仏したことがなく、拝仏したこともなかった。だが、彼女がひたすら施身法法会に参加していたので、父親は天界に生まれることができたのだ。彼女が語った情況は、経典にも記載がある。生前肉食し殺生していれば、どうして天界へ行けるだろうか?『地蔵経』で言うように、眷属は亡者のために広く仏事を行うことはできる。彼女は私を供養してはいなかった。彼女が供養していたかどうか私ははっきり分かっている。仏寺への寄付さえ渋っていた。車を買う金があり家があり、安定した収入があるのにだ。リンポチェは彼女にちまちま言ったりしない。それは「以慈相応」この言葉のためだ。

なぜ父親はこんなにもはっきりと、姉妹二人に見えたのか?それは、彼女ら姉妹に、自分たちがリンポチェにどのように対しているかを知らしめるためだ!「リンポチェは慈悲深い。父親を天界へ行かせてくださる」と誰もが思っている。だが何を以ってだ?リンポチェならば、そうしなければならないのか?『宝積経』は我々、菩薩道を修める者にとって非常に重要だ。「どうせ自分は菩薩道を修学しているのではないし、健康でいられるように、娘がいうことを聞くように、暮らしがうまくいくように願うだけなのだから」どうと言うことはないなどと思わないことだ。『宝積経』のこの段ではこれらについて説いていない。何を以ってなおここに留まっているのだ?

昨日一人の信衆が、夫の病について聞きに来た。彼女が口を開いた途端、私は叱責した。自分は私が主法した大法会に何度か参加したことがある、夫の病状は現在どうだ、私に決定してもらいたいと言う。幸運なことに、私は記憶力がとても良い。大法会の際に、当日大法会に参加した人がその後修行しなくても、この一生で阿彌陀仏と結縁させてやろう、とはっきり言っているが、大法会に参加すれば病を癒し、妻が娶れ、子供が生まれるようにしてやろうとは言っていない。大法会に参加すれば、金持ちになれるとも言っていない。

阿彌陀仏との結縁は非常に容易だと多くの人が考えている。阿彌陀仏を念じれば結縁できると考えている。実はそうではないのだ。念仏機器も毎日阿彌陀仏を念じるが、阿彌陀仏と結縁できるのか?これは口から出まかせか?そのため現在リンポチェでいるのは、非常に大変なのだ。経典の後ろの方で、なぜ大変なのかを説いている。

そなたらは、リンポチェはとてもいい暮らしをしていると思っているだろう。いい暮らしなど全くしていない。法王は休むようひたすら私に仰せになるが、私がどうして休息できよう?そなた達のこのような心持ちを目にし、そなた達が三悪道に堕ちようとしているのを目にし、そなた達のこの種の事情を目にしたなら、自分の命と思考の限りを尽くして、救える限りは救うしかない。そな達は幸せに暮らし、それが自身の修行のおかげだと思っている。私が前世でそなた達に借りがあったため、そなた達はこの一生で私の門下に皈依したに過ぎないのだ。

経典:「爾時郁伽長者白言。世尊。我在家中如世尊教。当如是住増広仏道。」

郁伽長者は我々を代表して仏に申し上げた。「我在家中如世尊教」。家の中では自分自身を放縦してもいいということではない。「教」とは何かを教えるのではなく、家での一切の思想は、世尊がお教えになったことのように必ず遵守しなければならないということだ。そなた達はどうだ?法会が終了し帰宅したら、テレビをつけて今日はどんな番組があるかと眺め、そのうち喧嘩を始める。誰と喧嘩するかの違いだけだ。もしそうなら、長者が言ったようではない。

帰宅し、家の中でも、仏がお教えくださったのを今聞いたように、同様の恭敬を維持しなければならない。非常に難しいか?家に帰れば、この人と喧嘩し、あの人と喧嘩し、息子と喧嘩し、誰かと喧嘩する。行うのは、本当にとても難しい。よって『優婆塞戒経』中でははっきり言う。在家で菩薩道を修めるのは非常に難しいと。それは悪業が纏わりつくからだ。出家人でもそうだが、在家よりは少ない。そのため出家はいくらか容易なのだ。

こんなにも難しいので、仏は極精進でなければならないと仰せなのだ。帰宅すれば大の字でベッドに横たわり、好きなように自分を甘やかし、様々なことに頭を働かせてもいいなどと思ってはならない。これでは上師と仏を常に憶念することにはならない。家では一種の生活で、道場に来てのこの2時間半はまた別の生活だ。そなた達は道場を離れると本性を回復し、ここに来れば猫をかぶっている。どうせマスクをつけているので、表情ははっきり分からない。帰宅してマスクを外せば、本性が現れ、凶悪な様が出現する。そのため『宝積経』にはいい話がないのだ。一言一言が叱責だ。

「当如是住増広仏道」の、いわゆる「住」とはここに住むと言うことではない。心がここに留まると言うことだ。このように行わなければ、成仏の道を長く広くすることはできない。成仏の道まで証したいなら、第一に生死を解脱し、第二に菩薩道まで証し、一地から十七地まで修めなければ、仏果を証することはできない。これらを行わず、リンポチェが天界へ済度させてくれると思っているなら、天界へ行ってもやはり輪迴する!天界へ行けば輪迴しないなどと思わないことだ。最高の非想非非想天へ行っても、やはり輪迴するのだ。しかも天界から輪迴すれば必ず先ずは地獄に堕ちる。それは福報を使い切ってしまい、過去世の悪業をすっかり除去できていないためだ。

そのためこの二言は非常に重要だ。在家にとっても出家にとっても非常に重要だ。出家弟子が道場を離れ宿舍に戻り本性を回復するなら、修めていないのと同じだ。「在家中如世尊教」して初めて、心が成仏の路に留まり、それを絶えず広げ延ばすことができるようになる。すぐに成仏すると言うことではない。論争好きな者がいる。『妙法蓮華経』中では「恭敬礼仏一拝已成仏道」と言うが、自分は少し拝んだだけで成仏したと言っている人がいる。実はそうではない。これはそなたにすでに成仏の路を歩む資格があると言うことだ。この路をどれだけ歩くのか、どこまで歩くのかは、衆生一人一人の業障と決心によって違う。

要するに、在家で菩薩道を修める者は、周りのあらゆる事情がそなたの修行を助けてくれるということだ。子供が親不孝で三宝を尊重しないなら、自分自身の業障が重くしっかり修められていないということが分かる。子供から突然食事に誘われたと言って大喜びしているなら、それはなお取り下ろせていないということだ。この世を去るその時、誤りに気づくだろう。子供は済度させてくれはしない。私のように、この種の果位まで修めない限りは。

経典:「諸出家戒我亦当学。」

私はこの一生で在家相を現しているが、すべての出家の戒を学び、行わなければならない、という意味だ。いわゆる出家戒とは、比丘戒または比丘尼戒を指すのではない。彼らは正式に受戒しなければならないからだ。ここで言う出家戒とは、出家、在家が受ける、同じ菩薩戒を指す。仏は『宝積経』の前の方で仰せだ。出家が多くの戒を受け、在家は少ない、と言う訳ではない。

菩薩道だけが出家も在家もいっしょに修めることができる。在家は小乗を修めることはできない。禅定を修めるには、必ず淫欲を断たなければならないからだ。在家は結婚し子供を設ける。どうやって断つのだ?不可能だ。それではこの一生で修行できないのか?『宝積経』では前の方で講じる。在家菩薩は眷属を持ち、財富を蓄え、奴僕や馬車などを持っても良い。これら全てについて講じている。それはこれはそなたの縁と福だからだ。在家修行のために一切を捨て、求めても、欲しいと思ってもいけない、と言うことではない。そなたの福と縁は、来るなら来るのだ。だが執著しない。例えば、子供が今日突然電話をかけてきて、誕生日にいっしょに食事しようと言う。もし、大喜びしたなら、執著だ。ここではとてもはっきり説いている。帰宅すれば、気をつけることなど何もないなどと思ってはならない。釈迦牟尼仏は本当にすごい。末法時代の衆生がこのようだとご存知だ。道場を離れれば本性を回復する。そのため帰宅しても、やはりこうであるようにご注意くださる。

経典:「爾時世尊。即便微笑。諸仏常法。若微笑時。種種色光。青黄赤白。従面門出。遍照無量無辺世界上過梵世蔽日月光。」

仏は適当に笑ったりなさらない。仏が笑っても、そなたが好きだと言うことではなく、そなたの修行がうまく行っていると言うことではなく、そなたがどれだけ供養したと言うことではなく、とても荘厳に修められているとか、読経が良いとか言うことでもない。そなたが言ったことが、衆生にとって助けになるかどうかということだ。長者が言ったのは、我々在家は必ずそうでなければならないという告誡だ。長者は我々を代表して言ったのだ。そのため仏は歓喜された。長者は仏法を明確に理解し、徹底的に暮らしの中に用いているからだ。

なぜリンポチェは、仏法を暮らしに用いると言うのか?それがこれなのだ。仏を学んだので、家で一日中胡座をかき、持咒し、人に対してニコニコする、と言うのではない。そうではない。家でも、仏がお教えの教法を忘れてはならないと言うことだ!家でも、仏が我々にお教えくださった出家菩薩道修行の戒を忘てはならない。しっかりと堅持し守って行かなければならないのだ!そのため、いかなる事情があろうと、皈依戒を捨ててはならないとひたすら言っている。例えば、誰かが、肉スープを飲んだら一千万元やろうと言ったとする。飲んだ後で仏菩薩に懺悔しよう、などと考えてはならない。以前一人の弟子が、岳母にチキンスープを勧められ飲んでしまった。なぜ飲んだのか?飲んでも誰にも知られないし、飲んだところで何ともないし、飲んだところで大したことなく懺悔するぐらいのことだと考えたからだ。だがこれでは守戒できていない。どうと言うことはない、わざと行ったのだと考えるなら、それこそ不信だ!そのためここでみなに言う。帰宅すれば好きなようにしていいと思ってはならない。

そのため、世尊は長者がこのように言ったのを聞かれて微笑されたのだ。「諸仏常法。若微笑時。種種色光。青黄赤白。従面門出。遍照無量無辺世界上過梵世蔽日月光。」仏が微笑された時、青、黄、赤、白の光が仏のお顔から放たれ、無量無辺世界、つまり十方法界を遍く照らした、と言うことだ。有情衆生がいるあらゆる場所に光は遍く及び、しかも梵天を超えた。外道にとって梵天は最高の天だ。「蔽日月光」の「蔽」とは、それを遮ったと言うのではなく、日月の光は我々にとって眩しいものではなく、害を及ぼすものでもなく、とても柔和に見えるものだと言うことだ。

仏がこの種の光を放たれたとは、長者が言った一切が衆生にとって利益となるため、仏はその供養を受け入れられた、と言うことだ。長者の供養を受け入れられたので、仏はその光を用いて世間を遍く照らされたのだ。法本中では言う。持咒で成就を得た人が持咒すると、仏像が輝き、壇城が輝き、持咒している人も輝くのを目にするだろう、と言うのはこう言うことだ。それは密法持咒を修める時には、そなた達、わずかこの千人余りのことを考えるのではないからだ。この光は六道衆生まで放たれる。そのため諸仏菩薩は歓喜なさるのだ。これは適当に言っているのではない。経典が説かないことを作り出せば、ありえないほど奇妙だ。

この段では、念咒語で成就を得たならどのような現象が起きると、リンポチェがしばしば言うことを認証している。仏はなぜこのように仰せなのか?それは郁伽長者が口に出したのは言葉だが、実は一種の咒語、つまり衆生の修行を助ける語だからだ。すべての咒語は衆生の修行を助ける語だ。そのためこの種の語を口から一旦出せば、一種の光が広大衆生を利益するのだ。

実は持咒の方法が正しいなら健康に良い。私は先ほど持咒したが、全身が暖かくなり汗が出た。そなた達が言うように、念じれば念じるほど背中から涼しくなると言うのではない。なぜ涼しくなるのか?それは心がとても寒々しく、仏法を受け入れず聞き入れず、持咒を滅茶苦茶に念じ、上師の教えを聞き入れず、それだけでなく何かの梵音まで発明しているからだ。従った上師がそのように教えれば、そのように聞く。持咒は、必ずとてもいい声でなければならないと言う訳ではない。慈悲と空性を証したかが重要なのだ。証しているなら、適当に発した一つの音であろうと持咒となる。

チベット仏教ではなぜこんなにも六字大明咒を重視するのか?それは我々と阿彌陀仏との縁がそれほど深くないからだ。だが観世音菩薩と娑婆世界との縁は特別に深い。娑婆世界の有情衆生が観音菩薩に求めさえすれば、観音菩薩は必ず度してくださる。観世音菩薩は再来仏であられ、古仏が乗願で再来されたのだ。しかも阿彌陀仏のお側の弟子だ。阿彌陀仏が涅槃された後は観世音菩薩が西方浄土を継承なされる。

何か特別な法門を修めなければ済度できないと思っている人がいる。チベット密教では、観音法門で成就を修めていないなら、すべての法門を修めても成就を得ることはできない。以前、竹旺リンポチェは、六字大明咒を一億遍念じることを提唱された。それはこのためなのだ。直貢梯寺では每年年末に45日間六字大明咒を念じている。それもこのためだ。

つまり六字大明咒をうまく念じれば、身体は自然にゆっくりと良くなっていく。それは六字大明咒が、我々の身体の中の六つの脈輪に対して震動力を有しているためだ。「嗡」と念じる時は頂輪に対し、「瑪尼」は喉輪に対し、「唄美」は心輪に対し、「吽」は臍輪に対する。六つの音が正しく念じられていれば、いわゆる正しくとは発音のことではなく、心が正しくなければならないのだ(慈悲心)。正しく念じられていれば、この音により生死を解脱できるばかりか、健康にも益がある。

六つの音を適当に念じ、音を引っ張って念じるなら、例えばある出家弟子はこの種の念じ方を好むが、それは役には立たない。それは吽と言うこの音は短く切る必要があるからだ。次の音まで伸ばすのは正しくない。なぜ正しくないのか?それは音が別の音に変わってしまうからだ。そのため、私が六字大明咒を念じるのを聞けば、必ず一つ一つの文字がとてもはっきり聞こえるだろう。私はたくさん念じるが、とてもはっきり念じている。吽をたくさん念じるので、息は十分だ。吽を間違って念じるなら、長く伸ばすなら、出て行ってしまう。

我々の先天的な呼吸はどこから来るのか?母の胎内にいた時、我々は丹田、臍輪を用いて呼吸していた。臍の緒は腹につながり、空気はそこから入ってくる。生まれた時、なぜお尻を叩くのか?それは肺を用いて呼吸するためだ。そして肺を用いて呼吸するようになった後、我々の気は散じ始める。丹田を用いて呼吸しなければ、気は集まらない。そのため吽と言うこの音は我々の丹田を動かし、気を集めてくれるのだ。そなた達は「吽と念じれば気は出ていくのではないか?」と言うだろう。そうではない。吽は我々の脈をいくらか通すのだ。そのため外道においては、彼らの音を用いて身体の気脈を鍛錬するものもある。

経典:「還遶身三匝入如来頂。」

これこそ密法だ。密法を修め外方面まで修め、この段まで講じる。非常にたくさんの人が密法はないと言う。だがここでは正に密法について説く。いかにして光を戻し、身体の周りを三周させた後に頂門から入らせるのか?そなた達は密法を学んでいないので、字面からだけ説明しよう。十方法界にはとても多くの仏がおられる。我々地球に仏がおられるだけではない。経典に基づけば、一切の世界には、銀河系がありさえすれば必ず仏がおられる。現在では科学も証明している。宇宙には非常に多くの銀河系があると。そのためとてもたくさんの仏がおられるのだ。

仏の光が放たれ十方法界の衆生を加持すると、諸仏も釈迦牟尼仏の光を受け取られる。そのためこれら仏の光は戻ってきて釈迦牟尼仏のこちらも照らすのだ。なぜ戻ってきて照らすのか?それは借りがないからだ。諸仏はみなに借りがない。加持を受けたなら加持を返し、みなの功力がひたすら増長し続ける。つまり念仏を自分自身のため、家人のために念仏する者たちには、功徳も加持もない。

密法を修める時には、自分自身のために念じるのではなく、衆生のために念じ、諸仏菩薩と上師を供養するからだ。ここでは密法について言う。現在そなた達はやり遂げられないから、学んではならない。この光がどのように来るのか、頂門からどのように入るのか、入った後にどうなるのか、そなた達には分からない。宇宙のエネルギーが頂門から下りてきて、その後どうなると考えるよう教える外道もある。これらはすべて口からでまかせだ。宇宙のエネルギーを吸収したなら、そなたは爆発してしまう。不注意で、よくないエネルギーを吸収しても、爆発してしまう。

ここで仏は密法について仰せになる。だが光が入った後にどこへ行くかは仰せでない。入った後に何をするかは仰せでない。なぜ仰せでないのか?それは密法は広伝ではないからだ。題目はこうだと提示するだけなのだ。出ていく、戻ってくる、戻ってきて身体に入る。観音菩薩簡軌を伝えられた人はこれを知っている。だが他人に聞かせてはならない。顕教を学んだたくさんの人が密法はないと罵倒する。ここがそうだ。これは事部と行部にある。密法はないと言うなら、なぜ光は出て行き、戻ってきて、如来頂に入るのだ。これはどう言う観念だ?どうやって入るのだ?梵穴はどこにあるのだ?

経典︰「爾時阿難。見仏微笑。従坐而起。整於衣服。偏袒右肩。右膝著地。而白仏言。」

阿難尊者は仏の侍者だ。聞いた途端に理解した。仏は微笑なさったことがなかった。阿難尊者は仏が微笑なさるのを目にし、もともとは座っていたが、すぐに立ち上がり、自分の衣服を整え、つまり儀容を整えた。そなた達とは大違いだ。以前短パンを履いて道場に来た信衆もいた。これこそ不尊重だ。

経典︰「大徳世尊以何縁笑。諸仏世尊非無縁笑。」

阿難尊者は衆生を代表して「仏、なぜお笑いになるのですか?どんな因縁でお笑いになったのですか?」と訊ねた。諸仏世尊は因縁がなければ適当に笑ったりなさらないのだ。そなた達は私は非常に厳しいと言う。因縁もないのに笑ってどうするのだ。世間法だと思っているのか?経典を見たことがあるなら、知っているはずだ。欲界天では、男女に情欲があるなら、手を握っても和合と同じなのだ。さらに高いレベルの天では、微笑するだけでそう言うことだ。どうして適当に笑えようか?話を戻すと、そなた達は彼氏や彼女と付き合ったことがあり、結婚をしたこともある。だが好みの人に会い、その人に笑いかけたなら、何が起きるだろうか?相手が笑いかけてきて、その人が好きなタイプなら、何が起きるだろうか?欲望が起きる。そのため仏は適当にお笑いにならない。因縁がなければお笑いになられないのだ。

経典︰「仏告阿難。汝今見是郁伽長者供如来不。欲修行法作師子吼。」

仏は阿難尊者に「いま郁伽長者を目にしただろう。郁伽長者は如来を供養したか?」とお答えになった。郁伽長者は獅子吼を修行したいと言う。獅子吼は大声で叫ぶのではない。その人が言う衆生を救う事が、つまり獅子吼なのだ。獅子吼は大声で叱責することだと思っている人が非常に多い。そうではない。仏法が講じる真の内容が衆生にとって有益なら、それが獅子吼なのだ。

経典︰「阿難白言。已見世尊。已見善逝。」

阿難尊者は「見ました。世尊、私は見ました。長者が仏を供養するの見ましたし、善逝するのを見ました」と申し上げた。善逝とは死ぬことではない。その話が、我々、未来世で菩薩道を修める者に対して、種々の一切の悪因縁を善の方法の下で逝去してくれると言うことだ。つまり悪の因縁がそなたを束縛することはない。善逝とは、死ぬ時にとても良い、と言うことだと説明している人が非常に多い。そうではない。悪因縁がまだあるなら、どうして心地よく死ねるだろうか?それは不可能だ。よくない因縁をどうやって善の因縁に変えるのか?どのようにして善の方法を用いて悪因縁を消滅させてしまうのか?菩薩道の他にはない。毎日念じていればそれで良い、などと思ってはならない。長者が言うのは、在家がどのように行うかだ。菩薩道だ。菩薩道を修めずに善逝したいか?悪逝が訪れるだろう。

経典︰「阿難。是郁伽長者。住在家地。是賢劫中。如来応供正遍覚出現於世。」

仏は長者の過去について仰せになった。長者は今は在家相を現しているが、賢劫の頃、賢劫とはこの一世の仏ではなく、一つ前の一世だ。「如来応供正遍覚出現於世。」仏がおられた時に出現した。この一世で初めて来たのではない。長者がここまで修められたのは、絕対にこの一世で初めて来たのではなく、過去世、過去劫の仏がおられた時に、釈迦牟尼仏のこの一世だけではなく、一つ前の一世に、すでにこの世にいたということだ。

経典︰「常在家供養恭敬是諸如来護持正法。」

彼は生生世世に在家相を現していたが、恭敬に供養し、常に恭敬心を以って一切の仏を供養し正法を護持してきた。自身は身口意で戒を犯さず、戒を破らず、如法に日々を過ごし、いわゆる正法を護持してきた。人目を憚るような不正行為を働いたり、ちょっと間違ったことをすれば、後で懺悔しても、正法を護持していることにはならない。とてもたくさんの人がこのような心構えで、「そんなに怒ってなんなんだ?リンポチェに癇癪を起し、何かあるのか?」と思っている。私には何もない。そなたにも何もないだろう。だがこれは菩薩道を修めていないということだ。菩薩道を修めていないことの問題は何なのか?生生世世の悪業、品性、性格が転動することはない。

仏は特別に仰せだ。我々衆生にとっての相応は慈とすでに教えた。そなたの上師に対しても、を含むのだ。上師に対して嗔恨の心を持つのは、菩薩道を修めていないということだ。菩薩道を修めなくともどうということはない。仏菩薩も上師も怒りはしないし、罰したりもしない。加護しないということもない。前の方で言ったように、この一生で私から離れたとしても、私の願が「衆生が成仏しないなら、私も成仏しない」であるので、必ず未来のある一世で私はそなたを済度させるだろう。この一生で済度させることができないだけだ。済度させることができないなら、どうなのだ?どうということもない。そなた自身がひたすら輪迴し続けるだけだ。リンポチェはせっかちだ。この一生で私と有縁の衆生をすべて済度させ、再び輪迴させたくない。だがそれにはそなたが教えを聞き入れなければならない。教えを聞き入れず、したい放題で、自分の考え方があり、自分の決定があり、仏の教えに従い暮らすことをしない。私としてもどうしようもない。これ以上言ったところで無用だ。

「離れても何の問題もない!」という人がいる。私も言った。もちろん何の問題もない。道場にこんなに長くいたのだ。どうであろうと、毎週日曜日道場では必ず法会がある。しかも每年旧暦正月一日と二日はとても多くの法を修めているし、普段も非常にたくさんの法を修め、とても多くの善因縁をそなた達に植えつけてやっている。私から離れたとしても福報はまだある。この福報は功徳でないに過ぎない。修行に用いる功徳ではなく、日常を送らせる福報に過ぎないのだ。人世間の福報は非常に重要だと多くの人が考えている。だが修行人にとって、この種の福報はあっという間に使い終わってしまい、あっと言う間に無くなってしまうのだ。功徳だけが永遠に存在する。菩薩道を修めるのは功徳を修めるのだ。福報を修めるのではない。

私は今正式にみなにはっきり言おう。リンポチェはそなた達を害しないし、そなた達を懲らしめたりもしない。離れていっても、悪くなる、運が悪くなると言うわけではない。そんなことはない。それはこんなにも長い間、リンポチェはそなた達のために非常にたくさんの善因縁を作り、非常に多くの福報を植え付けてきたからだ。ただこの種の福報は、修行に使わせることはできないだけだ。人世間の福報に過ぎないのだ。そなたは「毎日とても幸せに暮らせている。何も問題はない」と言うだろう。もちろんそうだろう。それはリンポチェが怒らず、仏菩薩も怒らず、護法も怒っていないからだ。ただ菩薩道を学ばないなら、護法は自然にそなたを離れさせる。謗仏、謗法、謗上師することを回避するためだ。離れた後、私は敵になるとなどと思ってはならない。道場にいた時、そなたに害を与えたことがあったか?ないだろう。しかも私への供養でも、金額を提示したこともない。

法会に参加するにはいくら要るなどと言ったことはない。さらには今年の大法会までは、私自身が金を出して行い、そなた達に福報を起こさせる。これ以上私にどうしろと言うのだ?ひどすぎるではないか!常軌を逸しているのではないか!リンポチェは仏法を教える。そうではなく、友人であっても言葉の上で衝突し仲違いすることはあっても、後になって会って、敵だと言うことはない。どうして敵になるだろうか?このような考えは奇妙極まりない。今日『宝積経』は非常に多くの事をみなに伝える。どんな事だ?そなた達は間違いで、教えに従わないと言うことだ。

経典︰「常在家中住出家戒。広聞如来無上菩提。」

在家相を現してはいるが、その心は出家だ。つまり生死を解脱し、輪迴の家を出離しているのだ。頭を剃っただけで、それは比丘、比丘尼だということにはならない。仏が仰せの出家とは、輪迴の家の出離だ。輪迴の家を出離したいなら、仏のお教え通りに、出家菩薩が修める戒は当然守らなければならない。眷属に対する見方も変えなければならない。変えるべくことは、あの人は私の敵だ、恩人だ、と言うのではなく、因縁なのだ。今日このような子供を持つのは、すべてそなたの因縁だ。どんなに子供を愛し、子供に愛されようと、必ずいつか分かれなければならない。死ねば何もかもなくなってしまう。経典は非常にはっきり講じている。死ねば、諸仏菩薩と上師だけが救ってくださる。世間の何らかの方法、医療、金銭は命を救い、輪迴に堕ちないよう救ってくれることはない。仏法にしかできない。ここで再びみなに注意する。なぜ郁伽長者はこんなにもうまく修められたのか?彼は生生世世に在家だったが、心は出家だったからだ。

「広聞」とはとてもたくさん聞くことではなく、心を開き、如来の仰せを受け入れるということだ。心を狭くして「リンポチェが言うのは私を貶すことばかりだ。リンポチェが言うのは、私が聞きたくないものばかりで、私が聞きたいと思うことは全く言わない」とひたすら思っているのではない。心を開いていない。私が今日言うのは私の意見ではない。仏の仰せだ。そなた達にどのように言うべきか仏がお教えくださるのだ。心が開かれず、貪嗔痴の範囲内で聞いていれば、仏の慈悲、仏がお教えくださる菩提をどうして聞き、体得し、感じることができるだろうか?分かるはずがない。それは自分の個人的な欲望内にいるからだ。そなたの欲望が何であろうとそうだ。

リンポチェが皈依を退いても良いと言ったのを聞いて、退いた人がいる。だが皈依を退いても罰せられたりしない。無言の抗議でもない。皈依を退くとは、この一生で私と縁がなくなるということだ。だが少なくとも心の中に嗔念を持ってはならない。未来世でどうなるかわからないのだ!どれだけの期間か?私にも分からない。数千年では足りないかもしれない。この一生を掌握しないなら、次の一世は非常に難しい。

経典︰「爾時大徳阿難。語郁伽長者。汝見何利楽在家中有聖智不。」

阿難尊者は本当にすごい。さらに「長者、そなたは今は在家だが、在家の修行においてどんな利益があるか?」と訊ねられた。在家にどんな楽(これは永遠の楽)があるか?と仰せなのではない。在家修行は聖智-生死解脱の智慧を得ることはできるのか?阿難尊者さえもこのように訊ねた。なぜか?後世の人のために問うたのだ。それは現在とても多くの人が皆この疑問を抱いている。「在家でどのように修めるのだ?」と。現在非常に多くの台湾の出家衆が私の道場に来ない。これらの者達以外は。それは彼らの考えは「そなたは在家だ。どうやって修めるのだ?何を以って在家が利楽を修め、聖者の智慧を修めることができるのか?」だからだ。阿難尊者はそなた達のために問うた。現在非常にたくさんの世間人が疑惑の表情で「在家なのか?」と言う。それは『宝積経』を読んだことがないと言うことだ。『宝積経』について言う者もいない。

前回言ったように、私は法王の事を支持申し上げているので、500人の弟子を連れて舍衛城へ行く因縁があり、戻って来てこの段を開解する因縁があるのだ。この段はあまりにも絶妙だ。長者も500人を連れて仏が講じられる仏法を聞いた。どうだ絶妙ではないか?しかも私は適当に開いたのだ。リンポチェは嘘をつかない。こんなに厚い『宝積経』だ。なぜ別のは説かず、この篇を説くのか?それは我々は在家なので、私のこれら出家弟子も在家だからだ。在家相を現しているということではなく、その念頭を言うのだ。

阿難尊者は末法時代の人の観念を打ち破るために、特別に持ち出されたのだ。チベット仏教の観念では、在家の上師も出家の上師もいる。中国の顕教の観念では、必ず出家の師父だ。次第に誤解が形成されたのだ。

経典︰「答言。大徳。不成大悲不応自謂我是安楽。」

衆生を度するのは、法会に参加させ、経典を念じさせるのではない。彼岸まで済度させ、天界まで済度させると言うことだ。先ほど法会前に語った弟子は、私が彼女の父親を天道へ済度させたと証明した(『度衆事蹟第1045篇』参照)。私は自分が長者だとまでは言えないが、私はリンポチェだ。経典通りに、認証されてある。

「不成大悲不応自謂我是安楽。」とは、私に衆生を度する能力がないなら、学仏していてとてもうれしく、学仏していてとても楽しく、とても安全だと考えることはできない、ということだ。そなた達はすべてこの種の心持ちだ。みな「リンポチェが加護くださるので、自分たちは良い暮らしを送れている」と考えている。なぜ仏寺建立に関する時には渋るのか?それは「仏寺建立は私と何の関係があるのか?出家人を閉関させるためだろう。私は閉関するつもりはない。なぜ私がそんなに急いで金銭を寄付する必要があるのか?リンポチェが建立できるかどうか、どうして分かるだろうか?建立できないなら、この金は無駄ではないのか?」と、誰もこのように考えていないなら、私が口に出すことはない。急いでいない!そのため、こんなにたくさんの事が出てくるのだ。すべてはそなた達が自分自身で考え出したものだ。

上師が行うあらゆる事はすべて衆生を成就させ、衆生を度するためだ。仏法のためでなく、教派に種を残すためでないなら、将来どうするのだ?そなた達これら千人余りの者に頼るのか?はっきり言おう。私のような程度にまで修めれば、仏寺があるかどうかは重要でない。自分自身の仏寺を持つよう、法王が私にご命じになったのだ。私と言う、この在家修行の法脈を残すようにと言う意味だ。だがそなた達に残すのではない。そなた達はひたすら自分は良い暮らしを送っている、自分で修めていると考えている。では他の人はどうなのだ?他の人と言わずとも、自分の家族を済度させる能力もないではないか。なぜか?そなたは安楽な日々を送りたいと思っている。仏は非常にはっきり仰せだ。大悲心を成就していないなら、安楽な日々を送る資格はない。そなた達は誰もが安楽な日々を送りたいと願っている。面倒は要らない、煩悩も要らない、何事も起きて欲しくない。長者はそなた達を叱っているのだ。

リンポチェは安楽な日々を送っていない。毎日事を為している。私が行っている事をそなた達が目にできないとしても、私は止まったことはない。考えてみよ。私は千人余りの者を管理しているのだ。思想は最も管理が難しい。会社では150人を管理している。従業員が間違っているなら解雇できる。一ヶ月分多めの給与を与えるだけだ。だがそなた達これらの者達に、私はどうして一個ヶ月分多めの仏法を与えることができるだろうか?私はどのようにそなた達を管理するのか?私はそなた達を管理しない。すべて仏法を用いて諌める。身を以って手本を示す。在家の私でもできるのだ。なぜそなた達にできないのか?それは言いつけに従わないからだ。

経典︰「大徳阿難。菩薩摩訶薩。忍一切苦不捨衆生。」

そなた達は一切の苦を忍ぶつもりはなく、一切の楽を受け入れ、一切の苦は受け入れない。そなた達の学仏の心持ちはすべてこのようだ。一切の楽を楽しみたい。そなた達が修行で成就を得たいと願うのは、すべて楽のためだ。衆生について考えたことがあるか?なかろう。そなたは「私には能力がありません」と言うだろう。それでも良い。だが考えなければならない。私はしばしばみなに言う。我々が安楽だとしても、社会は不安楽、国家も不安楽、世界も不安楽なら、我々もやはり不安楽となるのだ。現在証明されている。たった一つのウィルスが世界中を大混乱に陥れている。信じないので、葉衣仏母心咒(パルナシャバリの真言)を念じる時に来ない者がいる。「私と何の関係があるのか?リンポチェが加護くださるので、私は感染しない。私は毎日護法を修めている。護法が加護くださるので、私は病に罹らない」と考え、来ないのだ。

後から懺悔しに来る人がいるが、私は必ずそなたの懺悔を受け入れる。だが「この一生で衆生に利益しないなら、心の中で衆生を救おうと思わないなら、生生世世で誰も救ってくれない」と開示もする。そんなに重大か?もちろんそうだ。「なぜリンポチェは最初にはっきり言ってくれなかったのだ?」そなたの縁による。我々は菩薩道を教えるとずっと言ってきた。菩薩道の「一切の苦を忍ぶ」というこの一言は非常にはっきり言っている。24時間の内の二時間来るよう言っても来ない。なぜ来ないのか?ご苦労なことだ!「勉強しなければならない。出勤しなければならない。時間がない。二時間、家にいる年寄りの世話をしなければならない。料理をしなければならない」それでもなお菩薩道を修めるのか?菩薩道を修めるとまで言わなくとも、そなたは人なのか?

葉衣仏母心咒(パルナシャバリの真言)を持し功徳があるかどうかに関わらず、少なくとも心思は衆生のためだ。あの日、法会に来ていくら供養せよと私が要求したか?そんなことはない。念じ終えたら、私はすぐに帰った。そなた達はどのように菩薩道を修めるのか?一回一回懺悔すればリンポチェは許してくれ、自分とは無関係だ、などと思ってはならない。そなた達の菩薩道修行と関係があるのだ。ここでは非常にはっきり講じている。一切の苦を忍び衆生を見捨てない。そなた達の家人、祖先はすべて衆生だ。念じに来ないのは、衆生を見捨てた不肖の子孫だと言うことだ。私を怒らせたと思っているのか?私を怒らせなどしていない。自分の祖先、自分の冤親債主を怒らせたのだ。これにより、そなたの未来世には貴人(救ってくれる人)はいなくなり、誰も助けてはくれない。それはそなたが他人を助けようと思ったことがないからだ。二時間念じに来ることさえしない。仏寺を建立するにも、なかなか腰を上げない。自分でよく考えてみよ。リンポチェが叱っているのではないのだ。

経典︰「説是語已仏告阿難。是郁伽長者。住在家地。是賢劫中多化衆生。」

仏は宿命通を用いて郁伽長者になぜこのようなのかを説明されたのだ。仏は阿難尊者にお伝えになった。とても多くの人が信じないからだ。私は800年余りで、直貢噶舉で唯一のこの生で証果した漢人の在家リンポチェだ。今になっても非常にたくさんの人が信じない。以前「あなたの中国語が上手だからでしょう」と言った人がいた。私の広東語訛りの中国語がどうして上手なはずがあろうか?と私は思った。閩南話は今でも分からない。『宝積経』のここに答えがある。自分は賢劫中で衆生を度化するとまでは、とても言えないが、少なくとも過去世で絕対に衆生を度化したことがある。

ここでは、長者は在家地に留め、在家相を現しているが、賢劫中で衆生を度化し、つまり絶えず行っていると言っている。

経典︰「非出家菩薩百劫百千劫。」

出家菩薩が100の劫、10万の劫なのではない。百千はヒンズー語では10万だ。出家菩薩は100の劫でも、さらには10万の劫でも、長者に敵わない。

経典︰「何以故。阿難。百千出家菩薩所有功徳。不如是郁伽長者所有功徳。」

ここで仏は非常にはっきり仰せだ。在家でも修められる。修められない訳ではない。修める気があるかどうかだ。「世尊。私は家でも世尊の教えの通りにしています。仏道を広めているように」と長者が言ったようにだ。そなた達はできていない。私はできている。私はできているので、この一生で苦しいのだ。一切の苦を忍んでいる。そなた達は今、一切の苦を忍んでいるか?ちょっと念じに来る、二時間の苦さえ受け入れようとしない。安楽で幸せな日々を過ごしたいのだ。

ここで仏は非常にはっきり仰せだ。これら出家菩薩が100劫、10万劫で修めた功徳、10万人の出家菩薩のすべての功徳も、郁伽長者のすべての功徳に及ばない。私は聞いたのだ。現在チベット仏教の仰せは正しいと証明された。「如法で具徳の一人の出家衆の功徳は、100人の在家衆の功徳に等しい」と以前ある年長者が言った。出家衆が如法で具徳なら、それが念じる咒語は、100人の在家衆が念じるに等しいと言うことだ。「一人のケンポス(教授和尚)の功徳は100人の具徳の出家衆に等しく、一人の出家のリンポチェの功徳は100人のケンポスに等しく、鞥阿巴(つまり在家のリンポチェ)の功徳は100人の出家のリンポチェに等しく、一人の伏蔵師の功徳は100人の鞥阿巴に等しい」。掛け算すると10万になるか?チベット仏教は言い間違っていない。ここで仏は仰せになる。

百千とは10万だ。経典を見て100と1000の解釈を間違っている人が非常に多い。仏はあっさり1000と言われればいいのだ。仏は仰せになれないのか?仏の雄弁さは疑いもない。前の方の「百劫百千劫」というあの言葉も、仏がくどいのではない。100劫、10万劫を指しているのだ。なぜリンポチェは知っているのか?私はインド人と接触したことがあるので、彼らが10万まで数える時は我々のように10個の1万とは言わず、百個の千を10万というと知っているからだ。実は10万を超えている。密宗には根拠はあるか?ある。仏が仰せなのだ。ここまで言って、みなびっくりして冷や汗が吹き出しただろう!実はこのような意味だったのだ。以前百千と念じたことがあった。100足す1000だと思っていただろうが、実はそうではなかったのだ。一千なら、仏は直接一千と仰せになるだろう。なぜ翻訳者は10万としなかったのか?それは仏が10万とは仰せでなかったからだ。つまり翻訳者は、非常によく訳しているのだ。

経典︰「大徳阿難。白仏言。世尊。此経何名。云何受持。仏告阿難。是経名郁伽長者所問。亦名在家出家菩薩戒。」

この経は在家出家の菩薩戒について説く。この段で仏は非常にはっきり仰せだ。在家も出家も菩薩戒が修められ、菩薩となることができる。

経典︰「亦名殷重給事師長品。」

殷重とは非常なる珍重、注重、留意だ。給事とは仕えることだ。何を持って師長に侍奉するのか?仏法だ。

経典︰「阿難。若有菩薩得聞是経。是大精進非下精進住於梵行。百千万倍所不能及也。」

この言葉は叱責だ。菩薩がこの経を聴聞するなら、聞くだけではなく、心を込めて受け入れなければならない。大精進だ。精進とは毎日どれだけ念じ、どれだけ拝むということではない。仏法の重点の面で進歩があるかどうかだ。「是大精進非下精進住於梵行。」清浄戒を守ったとしても、上精進とは言えないと言うことだ。この品を守って初めて精進と言うことができる。断淫し梵行を守ったとしても、この経を聞いたことに比較すれば、百千万倍(100万)及ばない。断淫し清浄戒、清浄法を守ったとしても、『宝積経』を聞いたことがないなら、そなたの精進は聞いたことがある人とは比べ物にならない。そなた達は誇りに思っていいとまで、私は今はとても言えないが、出家衆を含む他人と比べても良い。何を比べるのか?功徳、学位を比べるのではなく、精進を比べるのだ。我々は大精進を有している。

「『宝積経』を聞くことがそんなに重要なのか?」などと思ってはならない。仏が仰せなのだ。私が言っているのではない。私が自分を持ち上げているのではないし、仏はご自身を持ち上げたりなさらない。仏は「今日なにを得た?大精進だ」とお伝えくださっているのだ。そのため『宝積経』のこの段は十分に重要視しなければならない。

経典︰「是故阿難。欲自住進。欲勧他進。」

この段の経典内では、そなた自身が精進内に留まらなければならない、と仏は阿難尊者にお伝えになる。これを目標、標準として菩薩道を修行しなければならないのだ。

経典︰「欲自住於一切功徳。欲勧他住。応聴此経受持読誦。広為人説如説修行。阿難。我以是法付囑於汝。受持読誦。何以故。阿難。此法具足一切功徳。」

「このようにしなければならない」と他人を諌める。「欲」とはそなたの願力だ。そなたの願力をどんな功徳に留めるのだ?菩薩道の功徳だ。菩薩道の功徳とは、一切の人世間人天福報の功徳に留めるのではない。寶吉祥道場は人間仏法を説くのではなく、つかみどころがなく、できない事を説くのでもない。我々は『宝積経』のこの段に基づき、菩薩道を宣揚、宣導、宣伝するのだ。そのため言いつけに従わず、自分の考え方を持ち続けるなら、修めない方が良い。

経典︰「阿難。若有菩薩與是法相応。則不離與如来相応。」

なにを相応と言うのか?そなたの身口意とこの法が説くことが同じで、ひたすら行えば相応するということだ。相応の次の言葉は「法と相応すれば如来との相応を離れることはない」だ。そうなったら、加護を求める必要はあるのか?リンポチェに毎日加護してくれるよう求める必要はあるのか?ない。毎日この法に従って行えば、リンポチェが教え、そなたが聞き、行えば、法と相応し、如来と相応する。

経典︰「阿難。若有菩薩離於是法則為離仏。若有菩薩離於是法。離受持読誦如説修行。是離見於一切諸仏。」

離れていった人もいる。私から離れたのではなく、仏から離れたのだ。仏から離れたのだから、それ以上念じたところで役には立たない。そなた達への叱責で私をサポートくださることを法王に感謝し、釈迦牟尼仏に感謝申し上げたい。離れるとはどういう意味か?仏から離れるということだ。私は今『宝積経』を講じている。そなた達の学仏において、リンポチェはただの媒介に過ぎないのだ。私は仏の化身であり、仏ではない。私は仏に代わり、そなた達に語っているに過ぎない。離れるのは、『宝積経』から離れることで、仏から離れることなのだ。仏から離れたなら、なにを念じても仏と相応することはない。仏から離れたければ離れても良い。皈依を退いても良い。仏から離れることを決めたのはそなただから。

リンポチェの教え、言うことに従い改めないなら、仏を離れるということだ。皈依を退いていないとしても、すべて仏を離れている。それでもなお加持があるだろうか?なぜ皈依の時にはっきり講じるのか。上師に腹を立て、上師を罵るなら加持を得ることはできない。上師が加持しない、加持しようとしない、したくない、と言うのではない。前の方で言ったように、仏光はひたすら遍く照っている。リンポチェの加持はあらゆるところに届く。私の弟子でありさえすれば、私は必ずそなたを加持する。私から離れるのは、そなた達が要らないからだ!なぜ要らないのか?教えを聞き入れず、ひたすら自分の考え方で要求し、私がそなた達の欲望を満たすことができないからだ!みなしっかり聞くように。この言葉は非常に意義深い。仏はひたすら叱責しておられる。

経典︰「若有菩薩離於是法則為離仏。若有菩薩離於是法。離受持読誦如説修行。是離見於一切諸仏。」

『宝積経』のこの段を受け入れず、把持せず、読経せず、念じないなら、修行していると言えるのか、それなら、既に一切の諸仏から離れ、すべて偽物の修行を行い、偽物を弄んでいる、という意味だ。これは仏が仰せなのだ。なぜ私はこの段の経を開示するのか?釈迦牟尼仏は慈悲深い。私はお訪ねしたことがあるから、私の手を取ってこの段を開き、「リンポチェは間違っていない!そなた達の間違いだ!それはそなた達ができておらず、言いつけに背くからだ」」とそなた達にお伝えくださる。以前私は何度も言った。実はみなここから出てきているのだ。だが以前はそなた達に依拠を与えなかった。そなた達は「リンポチェが言い、リンポチェが罵る。ほんとうによく人を罵る。我々をコントロールしようとしている」と考えていた。今『宝積経』が言った。そなた達をコントロールしているか?そなた達に迫っているか?そなた達が私に迫っているのだ。退路を断つよう私に迫っている!そのため釈迦牟尼仏が私を哀れんでくださったのだ。この段を私の目に入れ、そなた達に開示して聞かせるように。釈迦牟尼仏は正信の仏法、正信の菩薩道を、台湾の寶吉祥道場で開示なさっていると言っても良い。

数十年来『宝積経』の開示を聞いたことがあるかこれら出家者たちに問うてみよ。(出家弟子は「初めて『宝積経』を聞きました」と答えた)私はこれまで一度も『宝積経』を念じたことがなかった。顕教に皈依し『大蔵経』を手にしてから、開いたことがなかった。つまりそなた達にはなお少しは余剰の福報があるということだ。そのため、そなた達にこの段について講じるよう、釈迦牟尼仏が私に教えてくださったのだ。そなた達が改めるかどうか、改る気があるかどうか、決定を下すかどうか。釈迦牟尼仏は私の口を通してそなた達に伝える。諸仏菩薩と上師はそなた達を騙したことは一度もない。そなた達が行おうとしないだけだ。

なぜ彼ら出家者は数十年来『宝積経』を聞いたことがなかったのか?それは講じれば、たくさんの人が逃げ出してしまうからだ。それはこれもダメ、あれもダメ、しかもこの上師が菩薩道を修めていないなら、どうやって説くかがわからないからだ。先ほど一切の苦を忍ぶと言った。私はまだ足りないか?どれだけの苦を忍んでいることか!そなた達に苛まれているが、これでも足りないか?すべて苦だ!リンポチェが済度するのはとても簡単だと思っているだろう。そんなに簡単だろうか?私は苦しみ絞り出しているのだ。菩薩道を修めていないなら、どうして菩薩道をこのように説明できるだろうか?

やはり私利私欲のためで、自分自身の修行のために聞きに来ているなら、自分の今後の修行のためなら、離れるように勧める。それはここでは衆生を見捨てないと言うからだ。この経典を受け入れず、この経を持せず、この経を読まず、この経を念じないで、修行していると言うなら、「離見於一切諸仏」だ。つまりそなたの見解はすべて一切の諸仏とは違うということだ。この段のすべての一切の見、正確な見解を、菩薩道を学ぶ我々は知らなければならない。そなたの行為、思想がこのようでないなら、この見解を離れており、菩薩道を修めているのではない。菩薩道を修めているのではないと言うなら、それでもどうと言うことはない。リンポチェは追い出さない。だが重要な点は教えに従うかどうかだ。リンポチェはそなたを助け、そなたに善因縁を与えるのだ。そなたは聞かなければならない!従って行わなければならない!命を捧げろというのではなく、財産を差し出せと言うのではない。なぜ従って行わず、なおもこんなにたくさんの自分の考え方があるのか?ここを拝拝教だと思っているのか?

はっきり考えるように。ようやくこの経を得ることができたのだ。リンポチェが法王に寄付して支持しておらず、教派を支持していなかったなら、この縁は絕対に出現しなかった。これら出家して数十年の弟子さえも聞いたことがなかったのだ。そなた達にはなお幾らかの福報があるので、皈依して十数年、二十年で『宝積経』を聞くことができたのだ。これら出家衆に聞いてみよ。すべて出家して三十年、四十年だが、彼らは聞いたことがなかったのだ!彼らは一生苦労し、そうして今ようやく聞けるようになったのだ。法王さえ私に何度も仰せになった。ドイツへ行っても必ず『宝積経』を説く。私の講話が間違っているなら、言い間違ったなら、法王が私に講じるよう仰せになるだろうか?『宝積経』を説くのがすごいと言うのではないが、これはジッテン・サムゴンの教法であり、釈迦牟尼仏の教法であり、私の教法ではないのだ。そなた達は聞き入れなければならない!

経典︰「何以故。阿難。仏出世事皆於此経而顕示之。」

仏は「なぜこのように言うのか?阿難、仏出世(仏がこの世間に出てきて)すべての一切の事は皆この経に顕示されている」と仰せだ。仏は何に基づき、この世間に来て我々に仏法をお教えくださるのか?すべてこの経に基づき、明顕する、つまり道理を指す。そのため菩薩道、顕教の道理はすべてここにあり、そなた達に示しているのだ。よく聞くように。仏の仰せは非常に明確だ。我々を騙してはいない。仏はなぜ出世されたのか?なぜこの世間に来られたのか?このためだ!それなら、以前仏が仰せになったあれらは意味があるのか?ある。それは因縁が異なる人は異なる仏法を聞くことになるからだ。小乗は仏の仰せか?間違いなく仏の仰せだ。十二因縁法、四聖諦法は、仏の仰せか?仏の仰せだ。だが自分自身がなぜこの世間に来たのかを仏は特に強調されている。この経典を宣説するためだ。この段ではそなた達に見本を示しておられる。そうでなければ誰が菩薩道を伝えるのだ?仏が自ら来られなければ、伝えることはできない。そのため非常にはっきり、なぜこうしなければならないかを阿難にお伝えになるのだ。

経典︰「阿難。假令三千大千世界満中大火。応従中過為正覚故。往聴此経受持読誦如説修行。」

いかなる世界であろうと成、壊、住、空から円満に至る時期がある。その間には大火がある。大火とは焼き尽くしてしまうと言う意味ではない。この満とは、一切の大千世界仏法が円満を具備された時、間に火の如く顕現すると言うことだ。大火とはなんだ?智慧の火だ。人世間で言う火ではない。例えば、我々は火供を行うが、あの火は火ではなく、智慧の火だ。

中間を通すべくことは、つまりこの仏法が円満していく中間を通過することで、いわゆる正覚なり。それはこの種の仏法を経過せず、自分の方法で修めるなら、正覚、つまり真の覚悟の方法を得ることはできないからだ。三千大千世界一切の円満の中の智慧の火において、中間を通過しなければならないと言うことだ。中間を通過するとはどう言う意味だ?自分の考え方、別の考え方、別のやり方を用いるのではない。正覚を得るには、必ずこの方法に基づき修めなければならない。別の方法はない。私がしばしば言うように、自分で新しい方法を作り出し、自分で修めたと考えてはならないと言うことだ。

経典︰「阿難。若令三千大千世界。満中七宝恭敬奉施。為聞此法受持読誦如説修行。」

三千大千世界の最高の七宝を非常に恭敬に奉施する。ただこの法を聴聞し、受持読誦如説修行のために。「三千大千世界」については今後機会があれば説明しよう。この言葉は、宇宙全体で最も素晴らしい七種の宝を非常に恭敬に諸仏に奉施したと言うことだ。なぜか?この法を聞き、受持読誦如説修行のためだ。だがリンポチェはそなた達に、三千大千世界の七宝を求めてはいない。この言葉で仏は非常にはっきりと仰せだ。行わなくともどうと言うことはない。教えに従え!恭敬であれ!何のためにだ?この法を聞くためにだ。何のためにだ?この法を読誦するためにだ。

仏は金儲けができると仰せか?仏は健康になれると仰せか?なぜこの法は修行に有用なのか?当然有用だ。リンポチェはこのように修めたのだ。修めた結果、健康を回復し、修めた結果、73歲に見えない、と人から思われる。どうやって為したのか?ここに基づき行ったのだ。過去世で私は『宝積経』を修めたことがあったのかもしれない。そのためこの一世でも継続しているのかもしれない。私はどちらかと言うと菩薩道に集中している。どこに集中しているのか?『宝積経』にだ。どこに集中しているのか?祖師の教え、上師の教えにだ。私は特別に、ある一個の法を以って、自分はどんなにすごいかなどと言ったりしない。なぜ私は修法で成就が得られるのか。それはすべてこれに基づくのだ。これに基づかないなら、どうして仏法と相応でき、上師と相応できるだろうか?不可能だ。相応できないなら、どうして修行で成就が得られるだろうか?

経典︰「阿難。若為過去一切諸仏起七宝塔。以一切供而供養之。阿難。若現在仏及声聞僧。以諸楽具盡寿供養。阿難。」

一切の最高の音楽により、盡寿供養する。つまり一生で絶えず供養する。

経典︰「未来諸仏及諸菩薩。悉為奴僕及為弟子而供養之。」

これは諸仏菩薩は我々の奴僕だと言うのではない。この仏法を聞いた後、未来の一切の諸仏と諸菩薩に対して、謙卑で謙虚に、その侍者となり、その弟子として供養しなければならない、という意味だ。今日菩薩果位まで証したとしても、それはこの仏法を聞いたためなので、この仏法を宣導したすべての上師、諸仏菩薩に、我々は生生世世でその眷属として、その弟子として、供養しなければならない、と言う意味だ。

仏はまた叱責されている。「ああ、こんなにたくさん使わなければならない。もういい!学ぶのはやめだ」と考えている人がいる。リンポチェはそなた達に金について言ったか?能力がある人がたくさん供養し、そなたの供養が少なくとも、リンポチェは不要と言うことはない!この言葉は非常に明確に言う。今日この法を聞けば、未来の諸仏と諸菩薩に対し、悉く奴僕及び弟子を為して供養する。私は、自分は未来仏だとはとても言えないが、自分は未来菩薩だと言うことができる。そのため生生世世に供養しなければならないのだ。

経典︰「不聞是経。不受不持。不読不誦。不転不住。離是等法。不名供養諸仏如来。」

よく聞くように。金や財があり供養したとしても、供養したことがある、と言うことにはならない。ここで仏は仰せだ。この経を聞いたことがない、受け入れておらず、自分自身を把持せず、不読不誦、不転について言う。転とは人を教え、人に聞かせるということだ。「不住」とは、心がこの経内に留まっていないということだ。「離是等法(菩薩となるよう教える一切の方法),不名供養諸仏如来」供養していたとしても、この経典を通して学び、聞き、行わなければならないという意味だ。なぜリンポチェが諸仏菩薩と法王を供養する福報はこんなにも早く起きるのか?法王はかつて「リンポチェが行おうとする仏法事業は必ず成就する」と仰せになったが、その根拠はこの段なのだ。

現在私はリンポチェだ。私は法王に対してどのような態度で接しているか?私はやはり弟子であり、やはり恭敬で、驕ったりせず、忠心を尽くしている!『宝積経』では前の方で説いている。少しでも慢心を起こせば、すべての功徳は無くなってしまう。菩薩道を修めたすべての功徳はすぐに消えてしまう。知っていたら、リンポチェの弟子になどならなかったのに、とそなたは必ず言うだろう。生生世世ですべて弟子だ。法王がなお修行なさっているなら、私は必ず法王の弟子だ。観音菩薩の成仏は阿彌陀仏より早い。だが観音菩薩は弟子だ。区別があるだろうか?なぜ観音菩薩は阿彌陀仏の弟子となることを受け入れておられるのか?それは衆生を代表して供養しているのだ。

『普門品』では、菩薩は仏を供養し、菩薩を供養し、観音菩薩は受け取られない。「受け取るように!受け取れば、また衆生を代表し、仏、仏塔を供養すれば良い」と仏は仰せだ。そのため弟子になるのは、自分自身を抑えるのではない。菩薩道で成就するには必ず絶えず広大衆生に利益するため、一切の動作はすべて衆生のために行うのだ。弟子であるなら、自然に供養すべき上師がおり、供養すべき仏がいる。福報がなくては、どうやって衆生を救うのだ?この種の関係を明確に理解したか?

卑屈になれと言っているのではない。「どうしたってお前の弟子になんかならない。お前はほんとうにすごいよ!」と考えよと言うことではない。本当にすごいと言うことではない。経典が教えるのだ。どうすれば素早く功徳、福報を累積できるのか?そなた達のこれら少額の金に頼るのではない。リンポチェはしばしば言う。そなた達は私に供養した分、私は転じて大金を出しているのだ。例えば、そなたが一万元供養したとし、私は大金を寄付するので、そなたはこの大金の一部の功徳を得ることができる。

経典︰「阿難。若有菩薩聞於是経。受持読誦為他広説如説修行。而是菩薩已為供養三世仏已。何以故。阿難。如説修行則是如来調伏之法。」

簡単に言えば、そなた達が行った一切の供養、上師に供養した一切のことだ。仏はお仰せになったが、この種の修行法は如来調伏の法だ。何を調伏するのか?我々の貪、嗔、痴、慢、疑を調伏する方法だ。供養さえ惜しむなら、何か惜しまないと言うことがあろうか?六波羅蜜の第一はなんだ?(参加弟子が「布施です」とお答え申し上げた)リンポチェは続いて開示くださった︰なぜだ?そなた達の貪念を調伏するからだ。貪をさえ調伏できなければ、後ろの方はできているか?そのため仏はここでも慈悲深く再び仰せなのだ。仏が功徳を貪るのではなく、上師が供養を貪るのではない。そなた達を調伏する方法を語り、捨てることを教えるのだ。そなたは眷属を捨てられない。財産も捨てられない。これも捨てられない。あれも捨てられない。それならどうして菩薩道が学べるだろうか?菩薩道が学べないとしても、観念をさえ聞き入れることができない。それなら、上師そして、諸仏菩薩が修めた菩薩道とは不相応だ。不相応なら、努力して拝んでも、すべて不相応だ。拝んでどうするのだ?次の一世でルビーをつけたペットの猫になる。ニュースになったことがある。その猫の飼い主は十数億の財産を猫に残した。猫に生まれれば、第一に短寿だ。第二に非常に幸せなように見える。何一つしなくて良い。寝て、食べるだけだ。畜生道の衆生の苦はそなた達には分からない。彼らは考えても話せない。自由もない。ペットなら閉じ込められている。

経典︰「説是語已。大徳阿難。郁伽長者。乾闥婆。世間天人。阿修羅等。聞仏所説。皆大歓喜。」

最後に結論として、仏の仰せに基づき行うのなら、この経では、肝心なところについて、自己の修行について非常にはっきりと言った。大徳阿難(阿難尊者)、郁伽長者、乾闥婆、世間天人、つまり天龍八部の一つだ。何を世間天人と言うのか?世間とは、一切の天界の人を指す。輪迴をまだ解脱していない天人はすべて世間だ。阿修羅等、つまり阿修羅もこの法を聞きに来た。「聞仏所説,皆大歓喜。」彼らはそれを聞いた後、我々が衆生を救い、生死を解脱させ成仏させてやれる法門があると知ったのだ。

今日はここまで講じて円満とする。私はここ数年『宝積経』について講じている。みなが初めから見ることを願う!初めから見よ!初めから見よ!自分ができていないことを見つめてみよ。見ないなら、私に言いに来い。私は追い出したりしないし、罰したりしない。だがなぜ私に言う必要があるのか?それはこれから次第に金剛乗の伝授を始めるからだ。金剛乗は菩薩道を修めなければならない。そなたがその器でないなら、私は伝えない。なぜ伝えないのか?学んでも吸収できないなら、その時になってそなたは仏を誹謗し、法を誹謗し、上師を誹謗し、上師が教えてくれないと言うからだ。上師は毎日教えている。そなた達が受け入れないだけだ。そなた達にはなお非常に多くの自身の考え方がある。

今年はこんなにも不安定な一年だ。我々が今(七月中)まで維持できたのは、そなた達がすごいのではなく、私がすごいのでもなく、仏菩薩と歷代上師がひたすら正法をこの道場で弘揚くださったからだ。正法を弘揚する道場は、当然諸仏菩薩、上師、護法が護持してくださる。護持とは、面倒を少なくしてくださるのだ。なぜ道場で幾らかの事件が発生するのか?それはすべての弟子が同心でないからだ。菩薩道を教えているのに、聞き入れず、行わず、言わず、なおも上師を誹謗している。こんな状態でこの道場が盛んになるだろうか?

我々は聞いた聴聞した後、自分にはとてもたくさんの欠点があると気づく。自分で正さなければならない。リンポチェは毎日見張ってなどいられない。私は生命をかけて講じた。行うかどうかは、そなたが決める。行わなくとも、私は怒らない。行わなくとも、私は追い出さない。だが自分で本当にしっかり見極めなければならない。「私は修行人ではないし、根器もない」などと思ってはならない。最初から根器がある人などいるだろうか?今リンポチェは種を播いてやった。この根器を植え付けてやった。受け入れないなら、もちろん根器はない。そなた達自身が決定するのだ。

菩薩道を修めればどんないいことがあるのか?いいことはたくさんある。累世の悪業を必ず転動でき、この一生で転動でき、清算してしまえる。他の法門ではない。たくさん念咒しても、菩薩道の方法によらず念咒しているなら、どうしようもない。そのためよく聞くように。!

尊いリンチェンドルジェリンポチェは弟子を率い、アキ護法と迴向儀軌を修持くださった。

修法終了後、リンポチェが開示を続けられた:

我々は『宝積経』のこの段を開示する。聞きたければいつでも聞けるなどと思ってはならない。先ほど出家弟子に訊ねたが、彼は出家して数十年になるのに、聞いたことがなかった。リンポチェは一人の出家弟子に「そなたの仏寺には『大蔵経』はあるか?」とお訊ねになったところ、「『大蔵経』はあります」と答えた。リンポチェはさらに仏学院で学んだ出家弟子に「『大蔵経』はあったか?」とお訊ねになった。この出家弟子も「あります」と答えた。

リンポチェは開示を続けられた:『大蔵経』はどちらにもあった。それなのになぜ目にせず、開かなかったのか?因縁がなかったのだ!経典のとても特別なところは、縁がなければ、目の前に置かれても開こうとしないことだ。縁がなければ、読むように毎日言ったとしても読むことはない。これこそ仏法の特別な点だ。「仏度有縁人」(先ず有縁を度すべき)とはどう言う意味だろうか?縁がなければ、仏は済度させられないということだ。

ジッテン・サムゴンは菩薩道を弘揚なされた。法王も菩薩道、金剛乗を弘揚されている。そなたの上師も菩薩道を弘揚している。そのため、極く自然にこの段の『宝積経』が出現したのだ。見たければ見られる、と言うのではなく、縁がなく福報がないなら、目にしたとしても、説いてくれる人はいないだろう。簡単に言えば、「寶吉祥」の弟子であるなら、この機会を大切にしなければならないということだ。この段を私は二年半も講じているのだ。容易なことではない!なぜ容易なことではないのか?第一に一人の上師がずっと講じている。私が経を講じるのは、経論を学ぶのとは違う。私は事前に準備しない。開いてすぐに講じる。なぜ開いてすぐに講じるのか?第一に、自分自身は菩薩道を修めたことがあるので、仏が仰せの境界を体得しているからだ。第二には、仏と上師の加持があるからだ。

聞き終わったら、それでおしまいだ、などと思ってはならない。聞き終われば受持があるか?私は字が読めないという人がいる。字が読めないと言っても、できないということではない。広欽老和尚は文盲であられ、ミラレパ尊者も文盲であられ、六祖慧能も文盲であられた。つまり、これら字が読めないという弟子に修めない理由はない。「私は字が読めないので読むことができません。分かりません」というのを次に私が耳にしたなら、それはそなたに修める気がないということだ。当然そなた達はミラレパ尊者ではなく、広欽老和尚ではなく、六祖慧能でもない。だが少なくともこの心は持たなければならない。いつまでも待ち続けて、リンポチェの加持を待ち、リンポチェの済度を待っていてはならない。行おうとする心はあるのか?経典内のこの長者は絕対に60歲を超えている。この年齢に至っていないなら、どうしてこんなにたくさんの人を伴るだろうか?誰が彼のいうことを聞く?つまり長者は修行で果位があり、少なくとも金銭と権力がある。

「寶吉祥」の皈依弟子の毎日の務めは、この二年半に私が開示した『宝積経』を改めて見返すことだ。そなた達は全部忘れてしまっていると、私は確信している。そなたは自分とは関係がないと思っているからだ。見る気がないならそれでも良い。どうと言うことはない。ここで無駄な時間を過ごせば良い。「私は字が読めない。知りたくない。誰も教えてくれない。広東語訛りの中国語が分からない。私は閩南語を話す」と言ってすべてが言い訳にすぎない。法王がチベット語で伝法なさる時、なぜ後ろの方で私はすべて理解できるようになったのか?それは上師を信じたからだ。上師の伝法は清浄だ。上師の言葉は一種の道具に過ぎない。最も大切なのは、私の心が上師と相応しているかどうかだ!そなた達の心は私と相応しているか?していない!相応とは好きか嫌いかということではない。受け入れず、受持しないためだ。仏は非常にはっきり仰せだ。不読不誦だとしても、少なくとも受け入れ、持し、しっかりつかまなければならない。だがそなた達はそうしているか?そなた達の理由は「私は字が読めません。中国語が分かりません」だ。私もチベット語はわからない。どうやってチベット密教を学んだのか?すべては心が災いしているのだ。

『宝積経』が開示するこの段は、菩薩道を修める者にとって十分に重要だし、しかも唯一重要だ。繰り返し見ないなら、あっという間に懈怠してしまう。そのためこの二年半、私に対するそなた達の供養に、リンポチェは報いたと言える。それは私が大法を説いてそなた達に聞かせたからだ。何が大なのか?大精進だ。経典では、これは最上等、最高級の精進方法だという。そなた達の供養に報いているのではないか?報いている!それなら、そなた達が不受で不持で不読で不誦でも、それはそなたの事だ。私とは無関係だ。私はすでに行った。非常に明確に詳細に行った。二年半にわたり一段の経を講じた人は何人もいない。しかも二年半聞いた人が持続的にこれだけの数いたのも容易ではない。それはそなた達が私を恐れたのではなく、そなた達の冤親債主が聞くように迫ったのだ!聞かない訳にはいかなかったのだ。

リンポチェはもう一度言おう。菩薩道を修めないなら、累世の悪業はこの一生で転動しない。その気が無く、能力がないとしても、少なくともこの路を歩くと決心しなければならない。いつ歩き始めるか、いつ実際に歩くか、いつ行うかは時間ではなく、現在の決定だ。私は初めて学仏した日、自分がリンポチェになるなどとは考えてみもしなかった。修行の決心を下し、自分自身にとって良く、衆生にとって良ければ、修めるだけだ。今のこの有様まで修めている。苦しいことだ!毎日そなた達に苛まれている。

そのためよく聞くように。あれら男衆が、仕事のため、ビジネスのため、家庭のため、自分はとても忙しいとなおも言うなら、修めない方が良い。私にも家庭がありビジネスもある。そなた達は私より忙しいか?そうではなかろう!私は家庭、ビジネスの他に、そなた達千人余りの面倒を見なければならないのだ。さらに法王の方の事もある。現在は仏寺の建立もある。私は止まったことはない!仏法は暮らしの中に用いるのだ。菩薩道でなければ、暮らしの中に用いることはできない。仏はここで非常にはっきり仰せだ。長者も非常にはっきりお教えくださる。帰宅したとしても、仏の教えを、聞かず、要らないと言うことはない。帰宅したとしても、ひたすら継続して行わなければならない。帰宅し服を着替えたら、ベッドに大の字に寝転んでいいと言うのではない。寝かせないと言うのではなく、自分を振り返らなければならないのだ。今日聞いたことを、自分は受け入れるかどうか。受け入れないなら、福報はなく、供養もない。仏が仰せなのだ。私が言っているのではない。


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2020 年 08 月 16 日 更新