尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2020年8月16日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北寶吉祥仏法センターにて御自ら殊勝なる「観世音菩薩灌頂法会」を主法なさった。リンポチェは灯を点し仏に奉げ、法座に上がられた。後ほどマンダの献上を用意するようにと言い、弟子によるマンダ献上のための供養金は不要だと指示なさった。続いて、仏法の開示を下された。

今日修める経典は「授権五十本尊観世音菩薩六字真言殊勝成就灌頂法」である。直貢噶舉派には五十の本尊灌頂がある。一般弟子や信者なら、五十の本尊を修められるはずはないが、五十の本尊があるのは、衆生各々の業力や縁がそれぞれ違うため、五十の基本本尊の灌頂が設けられたのだ。観世音菩薩は、そのうちの重要な本尊の一つである。先週も言ったように、仏法は慈悲を重んじる。観世音菩薩は慈悲の代表なのだ。

仏法は中国本土では八つの宗派に分かれている:華厳宗、唯識宗、律宗、浄土宗、禅宗、阿含宗、天台宗と真言宗。こうした分け方は唐の時代からだろう。真言宗以外は、みな顕教を主に修持する。天台宗を天台密と呼ぶ人もいれば、華厳宗にも密法があると言われるが、いずれも顕教の理論に基づくものだ。

真言宗の特徴に、本尊の呪を必ず誦持するということがある。本尊の呪は、本尊の生生世世にわたる修行による功徳、願力、事業及び慈悲がすべてその中に含まれる。末法時代においては、禅宗で開悟まで修めるのは決して容易な事ではなかろう。もし、それ以外の宗で修めるなら、寝る時間以外の終日を、一切の聴聞し唱えた仏典を思惟に使う出家衆でなければならない。真言宗はいわゆる密法であり、末法時代の行者にとって比較的かなめだ。だが、呪は聞いたり、唱えたりしたことがあるだけで成就するわけではない。チベット仏教においては、すべての呪、一句一偈の仏法すら、上師からの口伝があってはじめて修められるのだ。

この伝統は釈迦牟尼仏の時代から始まった。釈迦牟尼仏が伝法の際は、ノートをとったり、録音、録画したりなどがなく、すべてが口伝であった。直貢噶舉の「噶舉」の二字はまさに口伝の意味だ。「阿弥陀仏」でさえ口伝が必要なのかと聞かれそうだが、厳しく言えば、「阿弥陀」との三字こそ呪で、三蔵法師の翻訳では阿弥陀仏ではなく、無量寿仏となった。「阿弥陀」は本当は阿弥陀仏の真言であるが、ただ、後世の人によって阿弥陀仏と唱えられ、馴染むようになっただけだ。そのため、「無量寿」、「無量光」という二つの名詞が忘れられてきている。

厳しく言えば、浄土宗も呪を修める。浄土宗なら、ひたすら阿弥陀仏を唱えればいいなどと思ってはならない。実は、「ア・ミ・デェ・ワ・スィ」こそが阿弥陀仏の真言なのだ。阿弥陀仏は観世音菩薩と同じく、長い呪も持つ。だが、呪を修めるには必ず上師による口伝を必要とし、そのうえ、口伝を授けた上師は必ず灌頂の方法を身に付けなければならない。灌頂とは、この法門を修める権利を授与することだ。

何故こうしなければいけないのか?仏法を学ぶことは、学びたいなら学べるのではないか?「宝積経」にも記載されているが、釈迦牟尼仏の仰せでは、該当する機根でなければ、仏典すら見せられないのだ。呪は仏菩薩の真言である。もし、その機根を持っていないなら、授けはしないのだ。学びたいから学べるというわけには行かず、毎日のように唱えれば成就できるわけでもない。系統的かつ次第のある伝授を通さなければならない。

何故授与の権利を必要とするのか?仏教を学びたいと言い出した際は、ほぼ百パーセントの人が凡夫の欲望で来ているが、それはそなたが本来具備した清浄なる本性とはまったく違うのだ。凡夫の欲望の心では、呪のご加護が授からない。そのため、灌頂を通じてそなたを修習させるのだ。意地で信じない人もいるが、灌頂がなくては唱えられないのか?唱えられるが、効果が出るまでに何世かがかかるのだ。何週間か前(7月26日)、三本尊法会の時にも開示した通り、金剛総持は、「上師による伝授、次第を生起し、圓満にして修行すれば、この一生は必ず成就が得られる。成就が得られないなら、そなたに間違いがあるか、金剛総持が嘘つきかだ」とはっきり講じた。

故に、世界中の人が「オム・マニ・ペメ・フム」を唱えているからといって、自分も唱えていいと思ってはならない。いけないのだ。それは上師による灌頂を授けていないからだ。この場にいる一部の弟子は、昔灌頂を授かったことがありながら、今再び灌頂を授ける。以前、灌頂を授けた時には、そなたらは信じず、灌頂はただの儀式だとしか思わなかったからだ。決して一つの儀式に過ぎないのではなく、中に八宗の意義が含まれるが故に、授権灌頂を通って初めて、そなたには行部、事部の観想法門を学ぶ資格が得られるのだ。灌頂がなければ、観想にも効果が出がたい。

観想ぐらいなら、仏像を見つめ想像すればいいと、多くの人が思うが、実はそうではなく、次第があるのだ。菩薩の姿や、そして菩薩をどう観るかなどは、今後はっきりと教える。観想をしなくては、いけないのか?行ける。ただ、浄土宗で説かれた「昼夜六時」でなければならない。この場にいる何ぴともできないから、観想を通さなければならないのだ。観想とは、そなたが思いつくものではなく、伝承によって指導されないと、観想の方法は分からない。観てから持呪し、持呪の後、圓満次第を修めなければならない。これも上師による口伝を必要とする。

簡単に言えば、上師による口伝がないままで呪を修めたり、上師を敬わなかったり、上師に教わったことを聞き入れなかったりしたら、たとえ授けたとしても、そなたは観想できないし、成就も得られないのだ。そのため、チベット仏教では上師を特別に敬うのだ。上師が偉いとか特別なわけではなく、上師は如法に学んできているから、伝授した法も清浄なのだ(名利のためではない)。どの上師でも灌頂できるわけではない。系列的かつ絶え間なく修行と閉関修行を重ねていく必要があり、そのうえ、本尊の呪も成就が得られて、はじめて灌頂を授けられるのだ。

「観世音菩薩が灌頂しに来るのか?」と思われるだろう。いや、私が灌頂するのだ。また、「観世音菩薩を召さないのか?」とも思われよう。違う、そなたらはまだ凡夫地にあり、観世音菩薩の最低限は化身だから、まだ生死輪廻の解脱を覚悟していないそなたらに対し、観世音菩薩の化身でさえ来てくれないのだ。浄土宗を修める場合でも、はっきりと講じており、弥陀讃の中で、阿弥陀仏の化身が迎えに来てくれて往生すると言及している。これこそ、そなたが死ぬと覚悟し、何もかも要らず、去ることを決心した時、化身仏が来てくれるということだ。ひたすら唱えるだけで来てくれるわけではない。

絶対に行くと宣言しただけで発願と言えるのではない。発願を、行きたいという宣言、又は、必死にリンポチェを見つけ、自分が行くのを助けてもらうこと、と多くの人が思っている。これは発願どころか、怠けである。発願とは何か?福徳因縁が欠かせないことだ。呪を授けたのは、病気平癒や金運上昇などのためではない。これらのことが全部発生すると、経典の最後には書いてあるが、成就が得られるまで修めてからの話だから、成就が得られるまで、これらのことはないのだ。

発願とは、阿弥陀仏と観世音菩薩のその種の願力を学習し、着々と実行して初めて浄土へ往生できることを言うのだ。アキ護法で、「アキよ!私が死んだ時、必ずリンポチェを見つけてください、リンポチェが私にポワ法を修めてくださいますように」と言ってばかりいることではない。待ってみなさい。こちらから、私を見つけないでおいてくれと、アキ護法に前もって伝えておくから。そなたには発願がないからだ。往生する時でさえ、だらけている。終日、ベッドで横になり、千、二千遍しか持呪しないし、わずかな供養だけで、自分が修めていると思うからだ。

「発願」の二字を勘違いしている人が多い。繰り返し言うが、発願は諸仏菩薩と上師の願を見習い、従って実行することで、自分が行きたいと発願することではない。皆に聞いてみよう。アメリカに行くとすれば、お金がなくてはどう行けるのか?発願とは何だろうか?そこの大学で勉強したくて留学に行きたいと言っても、入学試験さえ合格できなくては、どうして行かれる?できもしないではないか。発願は口ばかりのことではなく、先週言ったように、願を立て間違えても問題が発生する。

発願について、こうした解釈を耳にしたことはなかろう。そなたらは誰でも多くの願をかけただろう。こちらの出家衆らはどれだけの願を起こしたことか。にも拘わらず、これ以外の願は、どれも成就が得られない。その願とは、過去世にそなたらに借りのあった上師を見つけ、この世でそなたらを導くことだ。そなたは浄土へ往生すると自分で発願したが、何を理由に?理不尽ではないか?これまで明確に言ってきたが、福徳因縁に事欠くことのできない善男子善女人が対象なのだ。

今日授ける観世音菩薩の灌頂は、前に述べたとおり、観世音菩薩が灌頂に来ると思ってはならない。上師は、本尊と相応するまで修めたから、上師が自身の心続で菩薩を感動させ、ご加持いただくことにより、そなたらに灌頂を授けるのだ。理解しやすく言えば、上師の功徳、福報そして精気神とを、そなたらにちょっと分けることだ。供養したのだから上師から分けられるべきだと思う人も多いだろうが、本当は当たり前のことなどではないのだ。もし、経文に書かれているような上師に対する恭敬を実践していれば、上師は分け与えるし、そなたも授かる。それに対し、実践できない人は授からないのだ。ただ、この一生の結縁だけでは授からないのだ。

むかし、チベットでは、しょっちゅう灌頂を授けていた上師は、ある程度灌頂を与えると、閉関修行をし直す必要があった。自分の福報と能力を蓄積しなおしてはじめて、衆生を助けることができるようになるのだった。灌頂だけ受けて、自ら修めなくても役に立てるのか、と考えてはならない。役に立つ。後世には、この法門を修める機会が再びあるからだ。灌頂を授からなくては、どうにもならないが、本尊の呪を一生ひたすら唱えるだけでは、最後はどう行っていいか分からないままでいるばかりだ。こういう状況をたくさん見てきたが、生涯、阿弥陀仏を唱えていても、去るところまではちんぷんかんぷんでいる人もいる。彼が仮死状態にいることではなく、何故阿弥陀仏が迎えに来てくれるのかが分からないでいることを言うのだ。

弁えた後は、灌頂の重要性が分かるようになる。灌頂はたくさんの種類に分かれているが、今日は三灌(身口意)を授けよう。授権とは、そなたに灌頂を与えて、はじめてそなたが本尊と因縁が生じるようになることだ。因縁が生じてから、またそなたが上師を敬っていれば、上師が本尊法門を修めた分の功徳に、そなたは関連が持てるようになる。そうでなければ、有り得ないし、かつ不可能だ。密法が伝えられながら、修めるのに成功した人が多くない理由として、彼自身の機根のほかに、因縁福報、そして一番肝心なのは何もかも降伏するか否かにある。

世の中には、このような人は多くない。今さっき法会の前に自分の経験を語った董という弟子によれば(詳しくは度衆事跡第1052号を参照)、私が地面に伏して大頂礼したことを見て、大した事ではないと思ったそうだ。「地蔵経」で説かれたように、地球の人類は剛強で、調伏しがたくているが、そなたらがこの種の人だ。写真でみれば大したことではないと思われるが、実際は、その地面は氷、泥そして砂利だらけで、そこに私みたいに綺麗好きな人が、なぜ伏せたか?上師が私の閉関修行を護持してくださったご恩徳に対し、私は命を尽くしても報じられない程だからだ。

だから、傲慢な人は仏を学べないというのだ。独り善がりな人も修められない。このキーポイントが肝心だ。以前、灌頂を授けた後、私は必ず次第を生起し円満にするのを講じ、経典も配ったが、ここ数年観察してきて、やはり役に立たないと思った。与えて当たり前だ、教えて当たり前だと、皆が思っている。だが、皆は知らないかもしれないが、私は多くの観想や口訣を講じなかった。経典通り唱えてさえいれば、観想していると思うか?講じなかったことは多々ある。

法王がおっしゃったように、この経典が唱えれられるリンポチェはたくさんいるが、中には彼らの知らないこともたくさん含まれている。たとえ目にしたとしても、それが何かは分からないのだ。今回の灌頂は、帰依して三年未満の人には、絶対経典を与えないが、六字大明呪を毎日唱えることはできる。帰依して五年経った人は、もし特に戒律でも犯していなければ、時間や機会を見て口伝を授けよう。口伝の後、仏寺が竣工してから、口伝されたことのある弟子は閉関修行の中で六字大明呪を百万篇を唱えるべきだ。そなたらならば、少なくとも一か月はかかるだろう。

何故仏寺を建てるのか?それは、閉関修行の経験がなければ、日頃唱える呪はただの結縁で、そなたに過ちを犯させないようにするだけだ。成就を得ることは難しかろう。成就とは何か?少なくとも、この一生で輪廻を繰り返さないことを成就という。もちろん、上々機根の人であれば、その場で開悟する人もいる。先々週、三本尊の法を伝えた際にもはっきりと言ったが、上機根の人にだけ、生起圓満次第の観想を伝えるが、下機根の人ならば、上師を敬わなければならない。

上機根の人なら上師を敬う必要がないということではなく、反っていっそうそれが必要で、もっと重視すべきだ。三本尊の法を修め終わって再び考え直すと、如何にそなたらに優しくしてあげても、何の役にも立たないと思った。そなたらは経典を大切にしないからだ。手に入った経典は一冊の本に過ぎない、自分の物だと思われている。ここを離れた弟子で、呪には特許があるかとまで言った人もいる。自分には経典の内容、呪が暗記できているというだけで、唱えられると思い込んでいる。確かに特許はある。私がはっきりと言ったように、それが授権であって、授権は取り返すこともできるのだ。

例えば、「寶吉祥」の場合、私の授権を得ず勝手に使う人がいれば、私は法律に訴えてやることができる。私の授権があれば、それを使ってもいいが、どれぐらい使えるかは私次第だ。この呪がどれぐらい唱えられるかは私次第ではなく、観世音菩薩でもなく、そなた自身次第なのだ。そなたが言う通りに従わなくなったら、この授権は消えてしまう。だから、特許があるというわけだ。世間の法で考えず、上師がいったん授けたら、自分はずっと唱えられるなどと思わないでほしい。これらの出家衆はどれほど多く呪を唱えてきたか。出家衆には、自分だけが正しく唱え、自分は上手に唱えていると誇りに思っている人もいる。それにもかかわらず、彼女は私について学ばなければならないのだ。

これらの出家衆は少なくとも多少分かっている。このリンポチェはよく人を叱るが、リンポチェが余りにも凄すぎるから、出家衆は離れようとしない。私が肥えない理由には、背中に大勢の弟子を背負っていて、皆が私を押しているからということがある。

道場を前もって保護しておくために、今朝私は前行法を修めておいた。灌頂の際に、もしそなたに福報が良くなく、業障が重い場合、累世の冤親債主及び魔衆の類が、灌頂が授けられないように、そなたを邪魔しに来るからだ。そのため、灌頂の際に上師が観想すべきことは、一切の本尊、勇夫、空行母及び憤怒尊が道場を守りにいらっしゃり、弟子や信者に灌頂を受けさせるようにすることだ。

暫く法を修められると、マンダ献上の儀軌に入った。寶吉祥の出家弟子等が、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩に、マンダを奉げ伝法を祈請した。

続いて、リンポチェはこう開示なされた。今日、皆が法会に参列したのは、自分自身のためではなく、果てしない衆生を度するためである。そのため、殊勝なる菩提心を発し、上学仏法、下度衆生(上に向かって仏法を学び、下に向かって衆生を度す)するべきだ。もちろん、現時点では、そなたらはこうした能力を持たず、仏法を学びさえしていないが、このような考え方を必ず持つが良い。また道理に沿って如法に、深甚無上の密法灌頂を諦聴すべきだ。

「釋明論」に「傲慢無正信、於法不希求、外散及内収、疲厭皆聞垢。」とある。もし傲慢に思えば、今日法会に参列したのは自分が分からないから、単に法会に参列しただけで、法会に参列して分かるようになったら、今後は上師のことを相手にするまい、などと考えるだろう。「無正信」については以前開解したことがあるから、今日は講じない。「於法不希求」とは、今日ここに来たのは無駄だった、法に対して大事に扱わず、法を求め得ようとしないで、被祐を求めるがために法会に参列したなどのことを指す。「外散」とは、心が集中しないで散乱したり、外のことばかり考えていることを指す。「内収」は心に力がなく、聞き入れないこと。「疲厭」は、例えば「退屈、うんざり、まだ終わらないのか」というのがその枠内に含まれる。以上のことを、みな聞垢と言う。

開示を聴聞する際は、必ず六種類の垢染を断つべきである。

たとえ今法を伝えたとしても、そなたはまだ世間の法の中にいる。世間の法とは何か?最初は、すべて意識を用いて修行しているから、意識こそが世間の法だ。如何に上手に唱えようが、うまく拝もうが、空性を証するまでは、世間の法でしか修められない。世間の法とは何か?輪廻の機会があることだ。何故修法の完了する間際に、圓満次第を修めるのか?そなたが、ある呪、ある本尊に執着し、再び輪廻に戻るのを恐れるためだ。これは実に微妙で奥深いことなのだ。本尊に求めながら、執着してはいけない。如何すればいいのか?そなたらはみなやり遂げられない。なぜなら誰もが執着するし、修持したどの呪も、自分自身の役に立ってほしいと願うからだ。

これまでは簡単に説明してきたが、そなたに加持するのは何のためか?いつか成仏するのを願いながら、殊勝密呪の次第を授ける。次第とは成就のことで、清浄で、且つ戒律を犯さない修行方式を固め、事業円満を祈願することだ。ここでいう事業とは世間的な事業ではなく、仏法事業を指すものだ。

上師に教わった一切の言語は殊勝で、且つ恒久不動なものだ。上師の言葉は動かないということではなく、二通りの解釈がある。一つは、上師が口にした一切の言語、教えた一切の事は殊勝で、不変な物だ。いかなる状況によっても、教え方が左右されることはない。もう一つは、そなたは聞いたら、心を動かせないということだ。「こうだろうか?こうだとは信じられない。私はやり遂げれない」という考え方を持ったら、どうにもならなくなる。成就まで修めた後には、自然と三界(欲界天、色界天、無色界天)に名声を轟かすようになり、人に奉げられるようになるから、そなたらならばまだまだ早かろう。天と人による献上、慈悲、祥和正法賢聖僧、すべてが円満吉祥になることを祈願する。

今から、語に関して、累積したあらゆる垢障の薫習を清める権利を授けよう。語の灌頂を授かってから持呪を始め、本尊の生起圓満聞空双運の次第を経てはじめて、報身仏を証悟する因縁を具備できるようになる。語の灌頂授権を祈請する。

清浄に持呪すべきだという意味だ。よく唱えられなかったり、自分が正しいと思い込んだり、言い出すと問題だらけなどのことは、累世で自身の口業によって犯された障礙、及びそなたの薫習に起因する。そのため、「語」の灌頂を得てはじめて持呪ができ、更に、本尊の生起圓満次第双運の後、証悟が得られるようになる。

すでにはっきりと講じたことだが、正しく発音し唱えれば証悟が得られるというわけではない。経典でこう説かれているので、私が発明したものではない。上師が生起圓満次第の方法をどう双運するか教えなければ、そなたは持呪して証悟することはあり得ない。それは、証悟するための条件がまだ実践されていないからだ。

続いて、報身仏の因縁に関しては、意の灌頂授権を祈請するから、上師に従って唱えるように。

何故金剛乗は広めにくいのだろうか?人類はエゴの観念が重いからだ。「上師が教えるのは当然だ!あなたが修めるから、我々は来た。私を助けて、救ってくれるべきだ。私はもらうだけで、与えられるものはない。」今、はっきりと言おう。自身が為した善根、財産を以って上師及び本尊壇城を供養する。だが、諸菩薩は慈悲深く、供養された善根、財産を悉地のほうに転換してくれるように感じる。つまり、供養に出してから、善根、財産を以って供養した分が、成就に転換し、自分の受用に戻って授けてくれると感じれば良い。そなたにうるさく言われないように、ちょっと残して使わせるのだ。どういう意味か?我々が修行によって得た功徳は、一部自分用にするだけでも、生涯使いきれない程なのだ。

リンポチェは閉関修行の際、毎度一回り唱え終え、座を降りる前に、必ず一切を本尊、上師に供養し、自分のためには何も残さない。そなたらは出し惜しむ。それをたまらなく恐れ、両足が震えるほど怖がっている。明日払う家賃がないとか、明日はどうなるだろう、などと、あれもこれも恐怖だ。恐れるなら、仏を学んだりなどしないほうが良い。本当だ。観音菩薩もはっきりと仰せになったが、「仏を学ぶ人なら、菩薩は助けて、飢え死にさせないし、住まいも無くさず、着る服がなくなることもない」と。出し惜しめば、何もかもが無くなる。

これらの言葉は恐喝、威嚇、強要するためではなく、経典に書いてあることだ。何故こう書かれているのか?仏菩薩、上師なくしては、何を修めようが善根は生じない。善根はどうやって現れるのか?仏菩薩から、伝承上師から、そなたの上師までやってくる。上師が種を植え付けるのを助けてくれるから、そなたの善根が現れるのだ。一人の農夫が種を播き、一本の木に成長すると、誰がその実った果実を楽しめるのか。その木ではない。その木が実ったのは、再び大地に播くがためだ。誰が食べるのか?農夫だ。そなたが木だったら、果実を食べられるか?そなたはその果実を誰かが食べ、また種を大地に播いてほしいと願い、引き続き誰かが、その種を一本の木にまで成長させることを願うのみだ。こういう観念ではないか?仏を学ぶこともそうだ。そなたらには播く能力がないが、上師と仏菩薩にはあり、絶え間なく植え続けている。そなたらは、自身をしっかりと取り締まれば良い。この木を成長させ、果実を実らせ、またその果実を以って供養すれば良い。このロジックを分かってほしい。お金の段となるや、そなたらに真に頭を悩ませる。そなたらは悲痛でたまらないからだ。「悲痛」は、私が滅多に使わない言葉なのだ。

仏法はまったく理不尽な事を為すのではなく、前も言ったように、そなたが供養した善根、財産を悉地に転換し、自分自身の受用にさせるのである。成就が得られるほど修行するようになると、その受用は偉いことになる。チェ・ツァン法王も何度も仰せになったように、「私のこの弟子は何らかの仏法事業を念頭に置きさえすれば、すべてやり遂げられるし、受用される」と。何故念頭に置きさえすればやり遂げられるのか?悉地、成就があるからだ。この成就を更に全部供養すれば、仏菩薩はその一部を私に分け、このわずか一部だけで充分足りるのだ。

以前、私の母親もしょっちゅう言っていたが、そんなに苦労してどうするのだ?食べても多く食べられないし、寝ても長く寝れないなら、そんなに苦労する必要はなかろう。言い換えるなら、この言葉も皆に送ろう。そなたらはたくさん食べられるか?横になる場合は、どこでもベッド一台だけだ。お金は全部私にくれと言うのではないが、経典にはそう書かれているから、教えないわけにはいかない。私がそうしているから、自分が私の弟子だと思えば、そなたはそうすべきだ。しないなら、私がいくら教えようが、役に立たないのではないか?

客観的に考えてみよ。これはお金の話ではない。経典にこう書かれている以上、私は教えないわけには行かない。これが修行の方法だからだ。するか否かはそなた次第だ。強要、恐喝、威嚇はしない。そうしないことで、リンポチェの機嫌を損なうのではないか。いや、私は大喜びだ。今日なんかそなたらからマンダ献上の供養金をもらわないで喜んでいる。私は少しでも負担は減らしている。にも拘わらず、仏の図像をあげて、奨励し続けている。
 
この数句は既に唱えた。そなたが唱えたのだ。私に仕えなくても構わないし、生生世世弟子を為さなくてもいい。菩薩はすべて聞いているのだから。この世で、私を相手にしないでいようが、離れていようが、私は構わない。そなたはこの文を口にしたことがあるのだから、後世、必ずある世、そなたを見つける。私には聞こえる。観音菩薩にも聞こえる。生生世世がいつなのか、私はわからないけれども、逃げようはない。そなたらが唱えた。功徳があると思って唱えたくて唱えた。「生生世世弟子と為る」と唱えただけで、縛られる。法王が私を加持してくださってから、私が縛られるようになったのと一緒だ。

密宗は上師が威張っていて横暴で、理不尽にそなたらの考え方を気にしないのではないということを分かって欲しい。実は、上師はどうやってそなたを助けてあげるかということで頭がいっぱいだ。そなたの、弁えていないこと、汚い考え方を如何に清浄なる修行の考え方にするかに、手間をかけ苦労している。73歳の年寄りとして、本来は孫と楽しい時間を過ごす歳のはずだが、私は苦労しているのは何のためだ!本当のところ、今日は灌頂を授けるだけで多くを語る必要はなかったし、灌頂し終わったらおしまいのはずだった。多くの人が他の灌頂法会に参列し、終わってから何をすべきかすら分からないでいる。説かないからだ。何故説かれないのか?そなたらは器ではないから、結縁だけでいいぐらいなのだ。だが、私はそなたの帰依を許したから、説かないわけにはいかない。そなたらは、聞いても聞かなくても、自分次第だが。

最後に、短マンダ供養の儀軌に入り、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率い、アキ護法と廻向儀軌を修持なさった。


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2020 年 12 月 21 日 更新