尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2020年5月17日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、参会者を率いて観音法門を修めた後、『寶積経』巻第八十二「郁伽長者会第十九」を開解くださった。
経典:「解因縁法。長者。是名四浄戒。」
「解因縁法」は上師が知る必要があるだけでなく、あらゆる学仏人はみな因縁の重要性を理解する必要がある。因を重視しなければ、縁は生まれないし、果報も出現しない。幸せな暮らしを送りたいと誰もが願っている。幸せな暮らしはどうして訪れるのか?仏菩薩、天から賜るのではないし、祖先や神明が賜与くださるのでもない。自分自身で作り出すのだ。仏菩薩と上師は、如何にして善の因縁を植え付けるかを衆生に教導する責任を負う。上師が、衆生に善の因縁を植え付ける時は衆生の因縁に応じて行う。過去世で衆生にあった因に応じて、適した方法で対治する。
善の因縁を累積するまでは、予期の通りでないことがあるかもしれない。だが世人はみな、上師が自分の考え方、必要、欲望を完全に行ってくれることを願っている。上師はすべての衆生欲望の必要を行うことはできない。『寶積経』が説くように、一人の阿闍黎(上師)はそなた達に「受持読誦一四句偈」させることしかできない。。六波羅蜜を用いて、仏法と相応させ、菩提道を行わせる。それなら、この上師が行う一切の事に対して恭敬でなければならない。簡単に言えば、上師の個人的な生活に関する事を見るのではないということだ。
経典の仰せに基づけば、一人の上師が伝法できるのは、非常に多くの世の因縁と善根を絕対に累積しているからなのだ。この世で因縁が成熟したので、法座に上り説法している。特に私のこの一生は転生のリンポチェではない。出家でもない。なぜ法座に上っているのか?法王が特別に可愛がってくださっているからではない。私が、法王と仏の教導に基づき如法修行し、善根が成熟したので、自然に法座に上り説法できるようになったのだ。仏は『寶積経』内でこの一段について特別に仰せだ。信衆弟子と上師の関係を如何にして維持していくかについてだ。実は上師が弟子を必要としているのではない。上師は仏法を教導するので、どこへ行っても教えることができるのだ。
二年前日本で弘法した際、ある寺を初めて訪問し、千年の歴史を有する木彫りの千手観音像を供奉した。私が六字大明咒を唱えた時、千手観音像は前後に揺れ動き始めた。これは神話ではない。日本人を含め近くにいた人はみな、その時その目で見たのだ。経典には記載がある。持咒で成就を得たなら、ある現象が出現する。例えば、長く供奉すると仏像が揺れ動くなどだ。日本のこの木彫りの仏像はなぜ揺れ動いたのか?それはその場所が、私と特別な因縁があるからだ。それを目にした、あれらの人たちは信心を起こす。それのために、私を招いて法会を開催させたのだ。今日私が持咒で成就を得ていなかったなら、私が行った事に何らかの錯誤があると観音菩薩がお考えになったなら、仏像が前後に揺れることはない。
経典には、持咒で成就を得た人が長く供奉した仏像は揺れ動くと記載がある彼仏像が輝くとも記載されている。前回私達がラダックへ行った際、千年余りの歴史があるアキの仏殿で、入ったばかりの時には仏龕は輝いていなかったが、六字大明咒を唱え始めると、仏龕が徐々に輝き始めたのを目にした人たちがいる。また道場で私が六字大明咒を唱えると、香りを感じる人がいる。これも経典に記載がある。なぜ香りを感じる人と感じない人がいるのか?香りを感じない人は上師を信じていないのだ。『華厳経』は非常に多種の香りについて講じている。これら香りを感じられさえすれば、必ず加持がある。出家衆が「経典には記載があります。それは一種の善境界です。仏と気持ちが通じたのです。修行人には真の持戒、修定、智慧があります。戒定慧の基礎がなければ、この種の相応の善境界は出現しません」と報告申し上げた。
非常に多くの弟子が上師に対して要求する欲望は尽きることがない。要求を満たせない時には、上師は間違っている、上師は良くないと考える。上師が真に正しくないなら、先ほど言った種々の現象が出現することはない。これらは私が故意に作り出したのではない。この種の香りはどうしてあるのか?これはこの世の香りではない。経典の形容によれば、花の香り等の非常に多種の香りがある。感じる香りは毎回異なる。誰が加持に訪れたのか?本尊と相応したなら、本尊が来られる。本尊は自然に福徳の香りを修められる。
この段では、釈迦牟尼仏は特別にお教えくださる。この上師から幾らかの経典を学んだことがあるなら、生生世世に報恩し、生生世世に供養し、生生世世に使われなければならない。なぜこんなにも厳格なのか?幾らか習っただけで、なぜこんなにも多くの借りができるのか?それは仏が仰せの経典のおかげで、私達は必ずどの一世かで生死解脱でき、どの一世かで成仏できるからだ。この種の恩徳はどこへ探しにいくのか?私は『寶積経』を説かないこともできる。たくさんの人が伝法を好む。法を伝えた。だが上師に対して報恩の心がなく、仏がお伝えくださった法を尊重しない。それなら修めても相応はない。そして、この法は自分が求めているものではないのかもしれない、上師はこの法に対して優れているのではないのかもしれない、と考える。
仏は特別に『寶積経』のこの段で非常にはっきり仰せだ。一人の上師は、まだ成仏していないが、もちろん成仏しているなら、そなた達の心の中では百%完璧な境界だ。だが上師が、そなた達とは異なる所、行っている事を、そなた達が好きであろうとなかろうと、衆生への利益を止めたことはない。名と利のためではなく、絶えず仏法を弘揚しているのだ。
前の方では「不信於我不敬愛我」と言う。この言葉は反対の意味だ。自分は上師を供養したことがあるので、上師は、自分が言うことをすべて信じ、自分が必ず修法すると信じると思ってはならない。供養したことがあるので、上師は自分に恭敬で、自分を愛してくれると言うことではない。上師が誰かを愛するなら、上師である資格はない。それは愛とは主観であり、独占だからだ。上師は、誰かを愛してはならない、と教える。無慈悲であれと教えるのではなく、離婚せよ、または異性と交際するな、と教えるのではない。これは因縁法だ。後ろの方では、因縁法を理解しなければならないと言う。今日そなたは結婚し、離婚し、異性と交際する。相手はそなたを愛し、そなたは相手を愛する。これらはすべて因縁だ。特に珍しいことではない。最もも珍しいもの、それこそ仏法だ。それは殊勝であり、全宇宙で仏法より殊勝なものは一つもないからだ。宇宙におけるあらゆる学問、あらゆる方法で、私達の未来の人生を変えられるものは一つもない。博士号をいくつ持っていようと、医者であろうと、人の一生、寿命、健康に対して明確な答えを出すことはできない。なぜできないのか?それは一人一人の因縁が異なるからだ。
なぜ今回のコロナウィルス感染症では、有効な薬がなかなか見つからないのか?それはウィルスが変化しているからだ。私は言った。コロナウィルス感染症は私達に食べられた動物の霊魂が内部にあると。ニワトリ、アヒル、ヒツジ等だ。どんなに研究しようと解明することはできない。最も近あるニュースが指摘している。欧米で、食肉処理場を再開すれば、付近の住民数百人が病を得るが、再開しなければ何ともない。この病はいつになったら無くなるのか?と聞かれたことがある。誰かが肉食している限り、この病は存在している。強いか弱いかの違いだけだ、と私は答えた。
パルナシャバリ法会の際に、非常に多くの動物の霊魂が来たのを目にした、とも私は言った。その場にいたたくさんの弟子も耳にしたと言うのに、潘という姓の弟子は信じず、自分は無意識に言ったので、おしゃべりしただけだと考えている。言葉は心の声だ。なぜ彼女はこのように言ったのか?それは報恩の心がないからだ。あれは、私が法王に求めたからこそ、24時間の修法を求めることができたのだ。なぜこんなにも多くの弟子が私に求めないのか?千人余りの弟子で「リンポチェ、修法してください。衆生に恐れを抱かせないでください」と祈求しにきた弟子がいただろうか?いない。なぜいないのか?衆生に対して感恩の心がなく、上師に対して報恩の心がないからだ。報恩心とはどう言う意味だろうか?上師に衆生を救うよう求める、それを報恩心という。そなた達はどうだ?自分のことしか考えていない。そのためこの病が現れると、非常に多くの弟子が政府の政策のために来られなくなった。それは自分のことしか考えていないだからだ。暇さえあれば、上師に問題がないか、欠点がないかと見張っている。私に欠点があったとしても、絕対にそなた達より優れている。
この病から、弟子が上師に対して報恩心があるかを見て取れる。上師に対して報恩心がないなら、諸仏菩薩に対してどうして報恩心があるだろうか?諸仏菩薩はどのような恩を報いることを求めておいでなのか?衆生のためだ。『寶積経』では講じる。一人の上師は衆生のために生命を惜しまない。当時私は「パルナシャバリの法会に参加しようとしまいとどちらでも良い」と言った。その結果、六百人余りしか来なかった。他の人はどこへ行ったのか?彼らは来ないで、「私には関係ない。リンポチェが加護してくれればそれで良い」と思っている。今そなた達に言おう。そなた達は、この病は台湾内では特別に少ないと感じているだろう。
みなも知っておろう。オーストラリアのあの外国人は、私がパルナシャバリ心咒を持するビデオを見て聞いて、本来失っていた嗅覚と味覚がすぐに回復したのだ。奇跡だと言われている。翻って、そなた達には報恩心があるか?そなた達は平安な日々を過ごし、幸せに暮らしている時、「当たり前だ。私は非常に恭敬だし、供養したことがあるし、拝んだことがあるんだから。他の人が修法に行ったって、私には関係がない」と思っている。24時間の法会には六百人余りが来なかった。六百人余りは、現在感染症の規定で来られないのか?(担当している弟子が「およそ3分の2が来られません」と報告申し上げた)
リンポチェは開示くださった︰なぜ上師の修法に来ないのか?それは不報恩だからだ。上師が行う事は、経典には非常にはっきりと書いてあるが、上師に使われなければならない。上師が法会を行う。海外のもの、高齢者、動けないもの、余り歩けないもの、子供を除いた後、六百人余りもが来ないのだ。『寶積経』はひたすら講じる。この一世で報恩しなければならないだけでなく、無量世でも報恩しなければならないと。そうでなければ、無量の福報、功徳はない。
「リンポチェは皈依を退いても良いという。それなら退いてしまえ!」という人がいる。退いても良い。そなた達が退けば、私には心残りが一つ少なくなる。退かないで離れて行った、あれらの者たちを、私は気にかけているか?当然気にかけている。彼らも衆生の一人だ。私は同じように彼らに迴向する。皈依を退いた人に、私は迴向するのか?やはり迴向する。それは彼らも衆生の一人だからだ。だが違いはどこにあるのか?それはその人の成仏の機会が非常に少ないということだ。「成仏するかどうかなど気にしていない。自分が好みならそれで良い。私が言ったことをやってくれれば、それで良い」と言う人がいる。それは誤りだ。それは因縁を理解していないからだ。
学仏の困難はどこにあるのか?すべて自分自身の欲望を用いて学仏に来て、学仏は副業だ、最も重要な事ではない、誰かが拝めばそれで良い、誰かが念じればそれで良い、誰かが申し込めばそれで良い、それで同じように加護が得られればそれで良いと思っている。この種の人はどうだ?どうと言うことはない。生死を解脱し、未来世で善が増え悪が減る機会が、それに連れて減少するだけだ。この一生で行った如何なる事も未来世、さらには晚年に影響する。1997年に法座に上り仏法を弘揚し始めてから、言いつけに従わない、如実に修めない、そんな弟子をあまりにも多く見てきた。非常に多くが、最後の二、三年で非常に苦しみ、病苦に苛まれていた。言いつけに従うとは、私の言いつけに従うのではない。仏の教えに従うのだ。言いつけに従えば、自然にそなたの善根は絶えず増長し、悪の根は芽吹く機会がなくなる。みなちょっと幸せな暮らしを送ればすぐにうっかりしてしまう。上師に対する報恩について、みなの心は十分に確実でない。仏はここで非常に謙虚に仰せだ。釈迦牟尼仏に対する生生世世の報恩は求めず、上師に対して報恩するよう求めておられる。上師がいなければ絕対に仏法を学ぶことはできない。経典を手に入れ、ひたすら念じれば念じられるなどと思ってはならない。それは幾らかの重点は言葉に出していないからだ。
この二週間講じてきたこの段では、弟子として、上師に対しての心が非常に重要だ。さらには一切の供養でまったく偽装がなく、恩に報いる心が必要だ。この種の供養でなければ功徳に変わることはない。仏はさらに仰せだ。生生世世無量劫でひたすら供養し、上師に使われ、上師に仕えたとしても、上師の恩に報いるにはまだ十分ではない。仏果まで修め、生死を解脱しなければ真の報恩とは言えない。供養し、上師に使われるのは、因縁法、助縁に過ぎない。それにより、そなたは修行の路で障礙が減り、さらには障礙がなくなる。この一点は非常に重要だ。ここ数十年、私の弘法の過程ではしばしば障礙がある。これは累世の業だ。だが修行の路における障礙は非常に小さい。なぜか?私が特別にすごく、特別に良いからではなく、仏がお教えの方法を行い、上師に対して絕対的な報恩の心を抱いているからだ。報恩の心がないなら、自然に恭敬にはならず、恭敬だとしても、すべては偽物で、私を怖がっているに過ぎない。
報恩の心がないなら、自然に自分自身の心を甘やかし、訳がわからないことを言い、訳がわからないことを行う。子供は母親に、自分の思い通りにするよう要求し、母親ができなければ怒る。因果論からいえば、父母に対して怒るのはすべてよくない。果報は非常に重い。一人の伝法の上師に対してはなおさらだ。ここでは非常にはっきり言う。密法を伝えるとまではまだ言わない。上師が一文の仏偈、四文の仏偈を伝えたなら、大乗仏法を伝えたなら、報恩しなければならない。仏の条件からすれば、そなた達は一つもできていない。生生世世と言わずとも、この一世でさえ行おうとしない。
簡単に言えば、上師が行うあらゆる事が、因果、法律に背いていないなら、そなた達は必ず支持しなければならないと言うことだ。そなた達は皆そうではない。粗探しをする。私がこんなにも多くのビジネスを行なっているのは、たくさんの弟子を養うためだと法王でさえご存知だ。そなた達は私の弟子でありながら、知らないのか?みな自分の考え方に固執している。なぜ非常に多くの弟子が自己の悪業を転動できないのか?何度も言ったことがある。上師は加持できるが、業を転動させてやることはできない。自分自身で転動させるのだ。何度も言った。法王の加持に頼って修められるなら、私は修める必要はない。加持とは私を支持し、私が障礙を越えられるよう助けてくれるだけなのだ。だが自分自身で歩み、動き、乗り越えなければならない。そなた達はどうだ?すべて上師に頼っている。それでもいい。私は苦労する運命なのだ。だが上師に対してはどうだ?上師が与えるよう望み、与えられないなら怒り、与えないなら態度を一変させる。それでも仏弟子か?
法王は公の場で、私がどれだけ供養しているか仰せになったことがある。だがそれは、法王が必ず私に良くしなければならないということではない。私は金銭と仏法を交換したりしない。そなた達には無理だ。それなら何を用いるのか?報恩心、報恩の動作だ。報恩の心がなければ、言葉で誤る。そうでなければ、潘という姓の弟子のように言葉を誤るだろう。それは彼女が弛んでいるからだ。誰であろうと学仏するなら、ひたすら絶えず仏菩薩、歷代伝承上師、根本上師の保護の下にいなければならない。自分で修められるなどと思ってはならない。毎日三十分念じ、一時間念じれば、修められるだろうか?何を以ってそういうのか?一時間、三十分念じても助縁を増やし、菩薩道を修める資糧を累積できるだけだ。報恩心がないなら、これ以上仏法を聞き、これ以上法会に参加しても役には立たない。
あの日の24時間修法に数百人が来なかった。なぜ来なかったのか?報恩心がないからだ。「上師がやるよう教えることは、やりたければやるし、やりたくなければやらない。必ず来いと言わないのだから。これを念じてどんな良いことがあるのか?良いことがないなら行かない」と考えている。誰が損するのか?私は損しない。そなた達だ。広大衆生と結縁する機会を与えているのに、そなた達は要らないという。生生世世にこんなにも多くの衆生の肉を食べている。一ヶ月に一度の施身法法会に参加すれば、すべてすっきりと済度させてしまえると思っているのか?私はこんなにもたくさんの施身法を修めているのだから、この感染症の流行はないはずだ!なぜあり、なぜなおパルナシャバリを修めなければならないのか?必ず原因がある。こんなにも多くの肉を食べながら、皈依して十数年ですっきり完済してしまったと思っているのか?私は35歲から菜食し、2007年に閉関して初めてガンが良くなったのだ。自分は何をしたか問うてみよ。何を以って転業できるのか!
釈迦牟尼仏は私達にある重点をお教えくださる。それは報恩しなければならない、生生世世無量に報恩しなければ無量の功徳はないということだ。無量の功徳がないなら、当然無量の成就もない。成就がないなら、何を以って衆生を済度させるのか?いくつかの咒語を持でき、非常に何遍も念じれば衆生を済度させられるのか?なぜリンポチェは毎回閉関を終えると、持咒のすべての功徳を法王に供養申し上げるのか?それこそ報恩だ。そなた達のように、念じ終えれば自分のものだと思ったりしない。密法修行で閉関する時、すべての功徳は本尊、護法、上師に供養しなければならない。そなた達のように自分で用いるために残すということはない。そうだから、24時間の法会に数百人が来ないのももっともだ。それは自分とは関係がないと思っているからだ。私はこの数百人を追い出すことはしない。だがこれからは、来たいと思っても来られない。
この病は、真面目に努力しないならどうなるかを、そなた達にはっきり理解させた。私が故意にそなた達を懲らしめているのではない。今心の中で「なぜ不共四加行まで修めなければ、毎週法会に来ることができないのだ。供養しているのに来てはならないとは」と面白く思っていない者もいるだろう。前の方で言った。供養では一切の要求をすることはできない。供養したことがあるから、リンポチェは特別に自分に留意しなければならない、特別に自分に良くしなければならない、ということはない。私はそなたに功徳があるかどうかを見ているのだ。少なくとも不共四加行を修めようとするなら、少しは言うことを聞き、そなた達より少しはマシだろう。
実は仏の仰せは非常に簡単だ。そなた達にも必ずできる。なぜできないのか?報恩心がないからだ。感謝しています、などと言いに来なくとも良い。非常に多くの人が私に助けられた後、リンポチェに感謝しています、と言いに来る。私は、感謝などしなくとも良い、と言う。それは本来私がすべきことなのだ。諸仏菩薩の恩に報いるため必ずすべき事なのだ。そなた達が感謝しようがしまいが関係ない。そなた達と友達になろうと言うのではないからだ。そなた達は私の弟子だ。経典の仰せに基づけば、必ず報恩しなければならないのだ。そなた達は上師の恩徳に借りがあるので、世間の何らかのもので報いられるのではない。世間の最も基本的な事さえ行おうとしない。言うことを聞いて報恩できるか?絕対できない。できないなら、これより後ろはすべて、そなた達とは関係がない。
なぜ法王は、この弟子は数十年変わっていない、とひたすら私について仰せなのか。それは私がひたすら感謝報恩の心で法王に従い、それは一度たりとも変化したことがないからだ。在家であろうと出家であろうと、学仏の定位はとても重要だ。『寶積経』によれば、報恩心がなければ、どれだけ見事な咒語を念じたとしても役には立たない。
リンポチェは「そなたは何を以ってあの四人の出家弟子の赤い法衣を批判するのか?この法衣が誰のものであるか知っているのか?如来の法衣だ。彼らはチベット仏教のものを着て、そなたは漢伝仏教のものを着ているに過ぎない。そなたはこんなにも大きな悪業を犯した。法衣でさえ批判する。このように重い口業を犯した。この点から見て取れる。そなたには少しの慈悲心、懺悔心さえもない。彼らは私に言わなかったが、私は知っている。私はすでにそなたに機会を与えた。そなたはまだどうと言うことはないと思っている。出家男衆はそなたに言ったが、そなたはどうと言うことはないと考え、彼に言い返した。彼ら四人にそなたに言うように言ったのに、そなたはまだどうと言うことはないと思っている。私が彼らにそなたに言うように言わなければ、彼ら四人がそなたに言う勇気があるだろうか?法衣を批判するとは、仏法僧はそなたの心中で高い地位を占めているのか?
そなたが外でこのように他人を罵ったなら、他人はどのように対処するだろうか?言ってもどうということはないと思うのか?そなたは彼らを罵った。私は怒らない。だが私はそなたを非常に心配している。このように出家衆を罵り、法衣を罵れるだろうか?常軌を逸している。因縁法を理解せず、自分で修めていると考えている。どこが修めているのか?」と一人の出家弟子を叱責された。
経典︰「復次長者。出家菩薩聞浄戒已。応如是学於四浄戒。何等四。謂陰無所有。」
陰とは鬼ではない。陰陽の陰でもない。五蘊─眼耳鼻舌身のことだ。「無所有」とは、ないと言うことではない。それは一定で不変ではないと言うことだ。成仏の道具なのだ。私達は暮らし、身体の必要のため、眼耳鼻舌身意で色声香触法を生じる。これにより肉体は生きられ、学仏を支えている。現在学仏で最も解決が難しい矛盾こそ、私達がすでに眼耳鼻舌身意六蘊の作動に慣れてしまっていることだ。ここで、この眼耳鼻舌身意は六賊だと突然告げる。顕教では六つの賊と言っている。眼耳鼻舌身意と言うこの六蘊は、ひたすらそなたを惑わし、自分自身の清浄な本性を見えなくしてしまう。
どうすれば眼耳鼻舌身意が自分の心に影響を及ぼさないようにできるのか?当然次第の修行を通して、上師の教法を聞き絶えず努力すれば、いつか必ず体得できる。眼耳鼻舌身意は私達の外在の道具に過ぎない。私達の内在の修行に対してはほんの少しの助けにしかならない。だが人はみな眼耳鼻舌身意に執着し、目で見たもの、鼻で嗅いだもの、考えたものはすべて重要だと思っている。葉という姓の博士である弟子は脳を研究している。眼耳鼻舌身と言うこの五つの感覚が意識に伝わった時にはどのように操作するのかをひたすら研究している。仏法では、眼耳鼻舌身意は「無所有」、と言う。今日生じた眼耳鼻舌身意は因縁があって生じたので、因縁が滅すればなくなってしまうからだ。例えば人が死ねば、眼耳鼻舌身もなくなり、意だけが残る。この意はどうして来るのか?在生の際に何に執著しているかによる。
例えば、潘という姓の弟子は、法王、リンポチェが慈悲深くこの法を修めるので、私達の感染者数が低下するとは考えない。彼女はこのようには言わない。それは仏法を軽んじ、報恩の心がないからだ。報恩心がない人は自然にこのようなことをいう。そなた達は仏法の存在を抹消することはできない。彼らが信じないのは彼らの勝手だ。だが学仏人、仏弟子であるなら、なぜ信じないのか?非常に奇妙なことだ。信じていないなら、どうして来るのか?眼耳鼻舌身意が聞いたもの、見たもの、感じたものに、非常に執著する。みなこのように言う。世界中がこのように言う。当然自分もこのように言う。そのため今日私は彼女に聞き返した。中国に対して入国を禁止した、第一の国はどこだ?アメリカ、イタリアだ。私達は遅めだった。彼らは早めに入国を禁止したのに、なぜこんなにも多くの感染者が出たのか?そして私達はなぜ少ないのか?彼女は深く追求していない。報恩心がなく、リンポチェが法王に対して求めたこの法が衆生を救ったとは信じない。自分の心の中がどれだけ汚れているか、今分かったのではないか?
眼耳鼻舌身意と言うこの六蘊は「無所有」なので、一定で不変ではない。生まれてから死ぬまで、ひたすら変化し、一定ではない。私達が息をひきとるとき、眼耳鼻舌身はすぐに作用を無くし、意だけが残る。この意は投胎に用いられる。この意でさえ、降伏して不動とできれば、自然に輪迴しない。そのため在生の時に何かに執着しているなら、この意はそなた達を輪迴させる。潘という姓の弟子は、自分は適当に言っただけだと言う。だが学仏人が適当に言うだろうか?私は今日彼女を叱責する。二人のリンポチェに皈依したことがある。以前に一人、現在も一人。それなのになぜ自分自身の業を転じられないのか?私は彼女の命を十年分救ってやった。だが彼女の性格がひたすら変わらないため、この病はまたやって来ている。どこが変わっていないのか?因果を深く信じず、仏法を深く信じず、報恩心がなく、眼耳鼻舌身意が「無所有」と深く信じないのだ。
経典︰「界如法界。」
ある境界、ある地域を見ても、それに確定した分水嶺を与えてはならない。この言葉は非常に説明しにくい。例えば自分はすごいと思っていれば、それは境界だ。この四人の赤い法衣を着た出家衆を見下し罵る。それは境界だ。仮にないなら、境界はどうなるのか?如法界だ。仏は、法界には辺境がなく、境界がないと仰せだ。現在では科学が証明している。宇宙は絶えず外へと広がっている。拡張は止まったことはない。つまり境界がないのだ。自分自身に対して境界を設定するなら、そなたの心は広大ではなく、広大な仏法を収容することはできない。当然広大な慈悲心もなく、一日中過ちを犯しながら、自分は正しいと思っている。それは偏見があるからだ。
例えば「私が望む通りにリンポチェにはやってもらいたい」と言う。これこそ境界だ。だが人がこの世界に生きていて、境界がないと言うことはあり得ない。潘という姓の弟子の心の中にはすでに境界があり「彼らは良くない、私達が良い」と思っている。この境界とはどう言う意味だろうか?慈悲心がない。『地蔵経』では非常にはっきりと説く。地獄へ堕ちるには、人種、宗教の別がない。悪を為しさえすれば地獄に堕ちる可能性がある。反対に善を行うにも人種、宗教、国家の別はない。生死解脱の可能性があるのだ。
今日潘という姓の弟子は口に出して言った。それは「あちら側は悪い。私達こちら側は良い」と境界を区切ったのだ。つまり慈悲心がないのだ。私はそれを目にして残念に思った。それは誰も彼らに仏法を教えず。惻隱の心が起きていないからだ。アメリカではこのように遺体を運んでいるのを目にし、非常に悲しく感じる。門戸を閉じて自分は平和な暮らしを送り、世界中の人に難があろうと、自分とは関係がないなどと思ってはならない。必ず私達とも関係がある。
この言葉は本当に非常に重要だ。学仏人が自分自身で境界を区切るなら、空性の慈悲心を修めることなど永遠に不可能だ。境界を区切るとはどう言うことだろうか?一日中自分は持咒している、他人が念じるのは自分より劣ると考える。持咒が最も素晴らしいのは誰か?本尊だ。いつになったらそなたに回ってくるだろうか?少しの成就もないのに、他人が念じる音は自分のように良くないと批判するとは!何が弾音だ?ここまで口から出任せをいうとは。
この言葉は非常に重要だ。今日小さな部屋で閉関していたとしても、非常にはっきり境界がある。だが観想を通して、この境界を法界のように広大に変えることができる。ある年の五、六月、私はインドで閉関した。太陽が西から部屋に差し込んでくると、気温は少なくとも40度以上になり、暑くて衣服など着ていられなかったが、窓を開けることはできず、扇風機もない。持咒しながら扇ぐこともできない。どうしたら良いのか?自身が火地獄で、衆生に代わり苦を受けていると観想したところ、すぐに涼しくなった。太陽は変わらずやはり空にあった。これはなんだ?界如法界だ。私がその時感じた界は、観想を通して、虚空のように、法界のように大きい。私は自分自身を火地獄に堕とし、衆生に代わって火の苦を受けた。すると奇妙なことに、すぐに涼しくなった。その後の数日はひたすら修めた。一つの念頭だけだ。
学仏の念頭は非常に重要だ。このように考えたら問題があるか?などと思ってはならない。ある。私はつまり少し考え、少し観想したのだ。私にこの種の修行経験がなかったなら、そなた達に教えることはできない。インドへ行ったことがある人なら、インドの六月はすでにとてつもなく暑いと理解できるだろう。道に立っているだけで汗が出る。しかも西日がさす部屋は50度以上になる。こんがり焼けてしまうほどだ。その時、私はこの経典を見たことはなかった。現在目にし、自分が行ったのは前の方で言った「謂陰無所有」だとようやく知った。眼耳鼻舌身意を私はないものと考え、自分はかつて大悪業を犯したと考え、火地獄に堕ちて衆生に変わって苦を受けていると考えた。これこそ「ない」だ。自分にはやはりこの身体があると考えず、「界如法界」をやり遂げられれば転じることができる。
経典︰「入如空聚。」
いかなる境界に入ろうと、空性が集まったに過ぎず、この境界に至っても、大成就が得られるということではない。非常に多くの修行人にこの悪習がある。自分はある境界に至ったので成就だと考えている。ここで仏はそうではないと仰せだ。何らかの境界に入っても、すべて空性の集合と見なす。すべての修行の功徳を空に入れると言うことだ。空に入れるとは、ないと言うことではない。ないことを心配してはならない。今日の修行も因縁法だ。成就があるかどうかも因縁法だ。因縁は変化する。縁生縁滅なのだ。縁生縁滅とは空性だ。自性が動かないので、縁により生じなければ因縁を生じることはない。このようであるなら、自分の境界を追求するのは過ちだ。ある境界に入ることを希望するのは過ちだ。因縁を理解していないからだ。そのためこの出家弟子の過ちは常軌を逸している。自分の持咒は非常に良いと考え、とてつもない境界だと考えている。ここで仏はお教えくださる。この境界に入っても、空性を理解しないなら、役には立たない。
経典︰「不住仮名。」
心を一つの名の上に置かない。私はしばしばみなに注意する。今日自分自身の名前、年齢、どこで生まれたか、父母の名前は何かを忘れたなら、そなたの名は役に立つか?役には立たない。これは仮のものだ。簡単に言えば、一切の名相も仮のものなのだ。どんな名相か?経典には非常に多くの名詞がある。たくさんの人が名詞内で研究するのを好む。仏は、一切すべては仮のものだと仰せだ。どう言う意味だろうか?この境界が理解できない時、仏は一つの名を当てはめ、仏菩薩の頭脳でなく、人の頭脳でも体得できるようにしてくださる。修行を始め、ひたすら上っていく時、振り返って見れば、この名が仮のものであったと気づく。これは過程に過ぎず、真実の存在ではないのだ。非常に多くの人が、自分は必ずどのようにまで修め、どんな名になり、特別な名誉を得なければ、うまく修めたとは言えないと思っている。リンポチェはなぜ非常に控え目なのか?それは一切の名はすべて仮のものだからだ。死後、一切の名はすべて仮であると理解できたなら、どれだけの学問をしようと、どれだけの学位を有していようと、すべては仮のものだ。
なぜ仮のものなのか?それは、ある名詞をしっかり覚え、しっかり記憶し、理屈をうまくこねるからに過ぎない。だが、その根本がどうして来るのかを研究で導き出したか?根本を研究で導き出すことができないなら、仮のものではないか?簡単に言えば、この仮の名を用いて、自分の生活費を稼いでいるに過ぎないのだ。
なぜ仏はこれについて触れられるのか?それは修行者が自分の名と名誉に執着するのを恐れるからだ。一旦執著すれば、修行など不可能だ。在家衆にとっても警告だ。自分はどんな名があるので、他人より偉い、他人より一段高等だ、などと思ってはならない。自分には専門の肩書きがあるので、自分は専門家だなどと思ってはならない。専門家とは一分野の事だけを理解し、その他は全く分からないと言うことだ。この種の心構えで学仏し、日々を過ごしていないなら、煩悩が減ることはなく、しかも煩悩は起きるだろう。
なぜ煩悩が起き、一日中自分には悪念があると思うのか?それは名、感覚、眼耳鼻舌身意の快楽を追求するからだ。そのためひたすらたくさんの煩悩があり、ひたすら自分自身に多くの苦痛を与えるのだ。煩悩と苦痛は他人が与えるのではない。自分自身で作り出すものなのだ。そなたは必ず言うだろう。相手が自分に良くなく、自分を殴るのだと。そうだ!相手がそなたに良くなく、そなたを殴る。だが、これは因縁法だと考えたことはないのか?過去世で相手を殴ったことがないなら、相手がそなたを殴るだろうか?
例えば、リンポチェの修行過程では、過去世でこの人を殴ったことがないのに、その人が自分を殴ろうと考えているとしたら、護法がその人を弾いてくださるだろう。かつて二度発生したことがある。護法は相手を弾き飛ばしてくださった。これは神話ではない。真実だ。私は過去世で相手を殴ったことがなかったので、一つには護法が保護に来てくださり、もう一つには相手に悪因を作らせないよう押し除けたのだ。相手は押し除けられた後、何が起きたか理解できず、呆然と立ちすくんでいた。これこそリンポチェが心の中で因縁を理解し、一切すべては仮の名だと知っているからだ。「不住仮名」とは、この仮名に執著しないと言うことだ。他人が言った二言三言に大喜びしているなら、これも仮名だ。
経典:「長者。是名四浄戒。復次長者。出家菩薩聞浄戒已。応如是学於四浄戒。何等四。知我不得我。」
前の方で言った。そなたは自分の名を知っているが、そなたが知っているのは真の「我」なのか?すべてのものを捨ててしまい、この「我」がどこにあるのか分析してみよ。この言葉の意味は、「我」を知るなと言うことではない。「我」の存在を知らなければ、修行することはできない。だが真の「我」を得ただろうか?得ていない。医学的に言えば、人体の種々の骨、細胞の一切の元素が結合し、この身体が生じている。一切の元素をバラバラにしてしまえば、そなたは誰なのか?鉄か、銅か、マグネシウムか、カルシウムか?
謝と言う姓の西洋医である弟子が「実は人の身体はタンパク質、水、電解質などの元素の結合です。神識が身体を離れれば、この身体は肉の塊、皮だけです。何もありません」とお答え申し上げた。
リンポチェは「肉と皮も元素に過ぎない(謝と言う姓の西洋医である弟子は「そうです」と答えた)。そなた達のすべては元素だ。だが因縁がこれら元素を結び付け、この身体が生まれたのだ。そして父母がそなたに名を授けた。それが仮名だ。例えば、ある人がひたすら脳を研究し、脳の作動の各種原因を探っている。だが今になっても答えは出ていない。その人はこの脳があると知っているが、これは真の脳なのか?脳とはどんなものなのかと研究すれば、同じように異なる元素の結合だ。脳は思考することが必要なので、タンパク質がいくらか多いが、その他はどんな元素が多いのか?」と開示くださった。
葉という姓の脳の専門家である弟子が「神経ホルモン、タンパク質、アミノ酸が多めです」とお答え申し上げた。リンポチェは「これらを取り去ってしまったらどうだ?」とお訊ねになった。先ほどの謝と言う姓の西洋医である弟子は「話に出たそれら成分は、人と人との間では異なることはありません」とお答え申し上げた。
リンポチェは開示くださった:よって私達は非常にバカなのではないか?毎日あれこれ考え、何を考えているのだ?自分自身を喜ばせるため、ひたすら自分の喜びと満足を考えている。だが何が満足しているのか?そなたの元素だ。仏は、このものはすでに科学と医学に関わる、と仰せだ。この因縁結合の「我」は存在であり、この因縁の「我」の存在を否定できないと言うことだ。私達がこの因縁が存在する「我」があると知ったなら、私達は修行しなければならないということだ。
私達はこの「我」は因縁の結合だと知った。この身体が因縁結合による「我」なら、因縁が終われば、この身体の「我」も無くなってしまう。無くなってしまった後に何が残るのか?(謝と言う姓の西洋医である弟子が「「いくつかの元素が残ります」とお答え申し上げた)いくらかの化石が残る。毛髮でさえ非常によく保存される。仏が仰せのこの言葉は、仮の我の存在を否定してはいない。この「我」がないとひたすら観空するようにも求めていない。仏はこのように仰せでない。みな先ずはそこをはっきり認識するように。
仏は「我」がどうして来るのかを仰せだ。この「我」は如何にして結合したのかをはっきりさせる。「我」をはっきり定義している。「知我不得我」を完全に理解しなければ、真の我を得ていないと知ることはできない。真の我は清浄な本性、法性で、因縁結合ではない。本来ある、自性のものなのだ。だが私達の現在のこの「我」は因縁による。
自性と因縁の差はなんだ?すべての有情衆生が投胎すれば、この清浄な本性、自性の「我」は存在する。ネコであろうとイヌであろうと、アリのような小さなものまですべてにある。違いは、私達は仏法を聞き、仏法を学習し、仏法を修行して真の我を探せ、真の我を改めて開発できると言うことだ。これにより私達は現在のこの「我」は因縁が結合した仮のもので、永遠ではなく変化するものだと認識できる。この一生で何を追求しようとも、最後にはやはり変化し、やはり無くなってしまうのだ。
仏のこの言葉は非常に鋭い。「我」を知らなければならないと仰せだが、「我」を否定してはいないし、知ることはできないとも仰せでない。自分が有するビジネス、仕事、財や富、愛などをいっしょにし、これこそ「我」だと思ったとしても、これらのものがいっしょになった「我」は仮のものだと言うことだ。それは変化するからだ。永遠に楽しいと言うことはなく、永遠に辛いと言うこともない。「我」を明確にでき、この「我」がどうして来るのかが分からなければ、自分は真の「我」が得られていないと知ることはできない。
帰宅してこの問題についてよく考えてみよ。非常に多くの人が愛、子女、感覚、成就等に執著する。これはすべて「我」を知らないのだ。「我」を知らなければ、自分が真の「我」を得られていないと知ることはできない。学仏では、度衆する際に大神通を学ばなければならないが、そなた達には不要だ。私達に必要なのは、仏法の薫陶を通して「我」とはどんなものなのかを明確に認識することだ。明確に認識した後でなければ、人生数十年こんなにも苦労して得た「我」が仮のものであると知ることはできない。
未来世で仮の「我」を得ることがないよう、この一生で、この「我」はどのように来るのかを明確に知らなければならない。「我」がどうして来るのかが分かれば、再来する機会はなくなり、生死を断つことができる。この「我」は確実に存在していると考え、求めて得られなければ不機嫌になるなら、この「我」を知らないと言うことだ。
人生では求めても得られないのが100%だ。なぜだ?それは衆生願を満たしたことがないからだ。求めるものが得られるなどあり得るだろうか?得られなければどうなるのだ?悪いことをする。なぜ現代は子供の教育が難しいのか?それは幼い時から父母ができるだけ子供の願いに答えようとするからだ。大人になって求めが通らなければ、精神を病まないなら、悪いことを始める。昨日一人の24歲の女性が父母と会いに来た。この女性は人格が分裂し、二つの性格があると言う。私が「自分は病気だと思うか?」と訊ねると、彼女は「病気じゃありません」と言う。私が「それなら何か言いたいことがあるか?」と訊ねると、彼女は「私は父母が嫌いです。私は私が好きです」と答えた。
私は、父母が何かを管理しているに違いない、と考え、さらに「なぜ自分だけが好きで、父母が嫌いなのか?」と訊ねると、彼女の答えは、すべての若者と同じで、父母が「異性との交際を禁止し、スマホを禁止し、夜更かしを禁止し、勉強しなければならない、食事しなければならない」と強制すると言うものだった。すべて全く同じだ。父母は面倒に思い、彼女を医者に任せたのだ。もし人格が分裂しているなら、昨日、こんなにもはっきりと私に語れるはずがない。
なぜこの女性はこうなったのか?それは「我」が因縁から来ていると信じず、しかも父母も、子供はこうしなければならないと強く執着しているからだ。私がたくさん言った後でも、母親はなお、娘は彼氏と付き合っていると言う。私が、何歳で結婚したいか訊ねると、彼女は26歲と答えた。そこで私は、娘は24歲で男性と交際している。母が正しく娘が誤りなのか?と言った。
人はこの悪習を犯す。「我」を知らないくせに「我」を得ていると思っている。「不知我而得我」だ。だが仏法は「知我而不得我」と言う。だが私たち人は反対に言う。私達は一日中意識に操られている。だが意識内の反応はどこから来るのか?眼耳鼻舌身の感覚から来る。眼耳鼻舌身と言うこの五種の感覚は私達の心に影響する。心が動けば意も動き、意が動けば、行動が始まる。葉と言う姓の医学博士である弟子は、分からないのではないか?(「自分はほんとうにわかりません」とお答え申し上げた)
それは西洋科学は、脳は行動の総司令官だと考えているからだ。だが仏法の分析によれば、脳は身口意が動作を開始する命令指揮官なのだ。だが意識が脳を操っている。意識はどこにあるのか?私達の両の乳房の間にある。みな経験があるだろう。怒り心頭に発すれば、ここが熱くなる。嬉しい時には、ここが心地よくなる。
なぜ脳ではないのか?そなたの説明では、脳が化学物質を分泌し感覚を生み出している。そうだろう?(葉と言う姓の医学博士である弟子は「そうです。現在の医学、科学では脳がすべての中心だと考えます。ですが、リンポチェの開示によれば心が一切の中心です」とお答え申し上げた)私の開示ではない。仏の開示だ。(葉と言う姓の医学博士である弟子が「そうです。リンポチェは先週、帰宅してから考えるなと仰せになりました。それは私が心を見つけられないからです」とお答え申し上げた)
心は探す必要はない。一人一人みなに存在する。だが私達はなぜ心に対して知覚がないのか?それは私達がこの「我」に執着し、この仮の「我」に執着し、自分はこの「我」についてはっきりしていると思っているためだ。そのため清浄の本我が出現しないのだ。それは私達がそれを覆い隠しているからだ。なぜリンポチェの修法に衆生は感動するのか?それは私がすごいからではなく、私がこの「仮我」を忘れ、この「我」がなく、私の本性(法性)が完全に出現しているからだ。
現代医学の最も大きな矛盾点は、脳が命令指揮官だと言っていることだ。私はかつて言ったことがある。そうなら、脳細胞を一個取り出しても命令を発令できるはずだ。だが現在科学は一個の脳細胞では役に立たないと証明している。必ず非常に多くの脳細胞を集める必要がある。だが誰が命令を下し細胞たちを集め、電信を通し、電信をつなげているのか?答えはない?(葉と言う姓の医学博士である弟子が「今のところ全く答えはありません。科学で現在できるのは、脳細胞に動作がある時、機器で測定することですが、脳細胞が不動なら、科学界はどうすることもできません」とお答え申し上げた。)
現在禅定を研究している人がおり、人が深定に入ると、脳の動作は停止し、生命の維持に必要な最も基本的な活動を残して、他はすべて停止すると分かっている。だが誰が停止させるのか?かつて言ったことがある。私には二度の経験がある。禅定時に音は聞こえず、何も見えず、身体の感覚がまったくなくなる。つまり眼耳鼻舌身が作用を停止するのだ。外のシグナルを受信しなくなり、意が不動で脳も不動となると言うことだ。
これは非常に神秘的だ。さらに深く研究すれば、ゆっくり体得できるだろう。現在医学では、人が喜んだり怒ったりするのは、脳が何かの化学物質を出し、感情が喜びや怒りを感じるからだという。如何にして刺激し、この種の化学物質を分泌させるのか?必ず出所がある。神経が動けば、この種の化学物質が分泌され、私たちを喜んだり怒ったりさせると考えている人もいる。脳が支配していると考えるなら、脳は每分、化学物質を分泌し、私達を喜ばせるはずだ。このロジックは正しいか?(葉と言う姓の医学博士である弟子は「脳細胞がいわゆる快楽ホルモンを分泌するなら、必ず好きな人を目にしたり、好きな食べ物を食べたり等の外から刺激を受けます」とお答え申し上げた。)
話は元に戻るが、目にして初めて好きになるなら、それは仏が仰せの眼耳鼻舌身だ。眼耳鼻舌身にこの意がインプットされ、意は脳に行うように伝える。脳は身を代表する。そのため私達は身口意というのだ。合掌時には身を眉間に置く。胸に置くのではない。それは脳は身だからだ。身体のすべての動作は脳から命令が発せられる。だが最も重要なのは、どのようにするか伝えることだ。意が不動なら、脳も不動だ。
脳が外の良いものを受け取り、これが好きだ、あれが嫌いだ、と考えるなら、私達はビデオを見せて脳をひたすら喜ばせることができるはずだ。喜びに慣れてしまえば、永遠に喜んでいられる。だがこれはできない。葉博士も無理だとはっきり分かっている。なぜか?それは意がひたすら変化しているからだ。生生世世に受け取ったシグナルに基づき、ひたすら変化しているのだ。みな考えてみよ。自分が幼い頃に好きだったものが、今では好きでないこともある。子供の頃に嫌いだったものが、後に突然好きなることもある。この種の事は確かにある。例えば、子供の頃に嫌いだった男の子と、大人になって結婚する。この種の事はたくさん発生している。
確かに葉博士が言うようなら、目がそれを見たことで、脳が好きを生じ始めたと言うことになる。ではなぜ目がそれを見れば、脳が好きを生じるのか?このシグナルは誰が与えたのか?脳はこんなにも多くの経験を累積しているのか?そうではないはずだ!私達の意の中に累積しているのだ。つまり私達が言う阿賴耶識、末那識だ。これこそ私達の意識田中に残るシグナルだ。例えば、子供の頃から、ひたすら教えられる。そなたの白馬の王子は色黒だ、たくましいタイプだ、背が低い人だ、とひたすら言われ続ける。そなたの意識田中では、全世界が要らないそれを、そなたは要ると言うことになる。そなたの意識田中にあるからだ。
目で見ると、先ず意識田中でこの資料を探す。見つかったのが良い資料なら、「ポン」と一気に出てくる。その後、脳に至り、脳が目を刺激して「ああ!私はこれが好きだ」と感じる。そのため人にとって「知我不得我」はとても重要だ。修行の路で「我」とはどうなのかを知らないなら、真の「我」を得ることはできない。真の「我」が得られないなら、そなたは仏法に対してズブの素人だ。一般の信衆になってしまう。
仏は、考えるよう、ひたすらお教えになる。意識を訓練し変えるのだ。たくさん考えたなら、仏がお教えくださったことは、私達の意識田を占め、そなたの身口意の反応は自然に仏法となる。仏法を自分の意識田に入れさせず、ひたすら拒否し、自分の考え方、人生経験法、正しいか誤りかで拒否するなら、そなたの意識田中には永遠に仏法はない。仏法がないなら、この仮の「我」を気にしているだけで、「我」は傷ついてはならない、「我」は苦しんではならない、「我」が欲しいものはすべて与えられなければならない、と考えるなら、それなら永遠に「我」を知ることはない。「我」を知らなければ真の「我」は得られない。真の「我」はどこにあるのか?『心経』には説明がある。『心経』全体は、真の「我」とは何か──空性だとお教えくださる。
リンポチェは出家弟子に『心経』を唱えるよう指示なされた:
「観自在菩薩,行深般若波羅蜜多時,照見五蘊皆空,度一切苦厄。舍利子!色不異空,空不異色;色即是空,空即是色,受想行識亦復如是。舍利子!是諸法空相,不生不滅,不垢不浄,不増不減。是故,空中無色,無受想行識;無眼耳鼻舌身意;無色声香触法;無眼界,乃至無意識界;無無明,亦無無明盡,乃至無老死,亦無老死盡;無苦集滅道;無智亦無得。以無所得故,菩提薩埵,依般若波羅蜜多故,心無罣礙;無罣礙故,無有恐怖,遠離顛倒夢想,究竟涅槃。三世諸仏,依般若波羅蜜多故,得阿耨多羅三藐三菩提。故知:般若波羅蜜多是大神咒,是大明咒,是無上咒,是無等等咒,能除一切苦,真実不虚。故説般若波羅蜜多咒,即説咒曰:揭諦揭諦,波羅揭諦,波羅僧揭諦,菩提薩婆訶。」
リンポチェは開示くださった:つまり『心経』は「知我不得我」を説くのだ。眼耳鼻舌身意はすべて空だと非常にはっきり言う。空とはないと言うことではない。一切すべては因縁法だと言うことだ。因縁が具備すれば、眼耳鼻舌身意も具備する。因縁が滅すれば、眼耳鼻舌身意も滅する。なぜ空性を理解すれば苦がなくなるのか?それはこの種の感覚に執着しないなら、この種の苦はなくなってしまうからだ。苦はどうやって来るのか?それは自分の感覚、反応、経験に執著するからだ。この種のものはすべて苦を生み出す。
すべては一時的で変化すると理解し、この一生に私達が生まれて来たのは、因縁法によりこの「我」が生じたのだと理解したなら、仏法を通してゆっくりと真の「我」が開発される。真の「我」を開発した後でなければ、仏が仰せの「諸法皆空」を悟ることはできない。仏は、現在生きている世間のこの「我」を否定せよとはお教えでない。仏がこのように仰せなら、非常に多くの人が消極的になり、現在の「我」を放棄してしまうだろう。
仏は「知我」と仰せだ。この「我」を放棄せよと言うのではない。リンポチェは学仏を説くが、現在の生活スタイルを捨て去れと言うのではないのと同じだ。だが仏法の薫陶を通して、執著する「我」はなんなのか?どうして来るのか?どのように行くのか?どのように生じたのか?この仮の「我」は自分に対してどんな助けがあるのか?この仮の「我」がないなら、自分の修行に役に立つのか?これらをはっきり認識する。これこそ修行学仏人が用いるべき法門だ。
『心経』はつまりこれを説く。現在一切の有情衆生が執著する「我」こそ苦の出所だとはっきりと説く。ひたすら絶えず仏法の薫陶を通して、後得智を累積し、本来智を開発するなら、この「我」は仮のもので、永遠ではなく、一切の苦の根源だとはっきりさせることができる。これらを知った後でなければ、衆生の欲望を満たすのではなく、衆生の苦を体感し、衆生の解苦を助けることはできない。どれだけ欲望を満たしてやったところで、必ずいつか満足しなくなる。経典では「以欲勾之」と言う。つまり欲望を先ずいくらか満足させてやり、それで引き寄せて、仏法で救う。だがすべての欲望を満足させてやるのではない。
はっきりさせた後でなければ、学仏で道をそれ、過ちを犯してしまう。自分が修めている、自分は非常によく修めているとひたすら考えているなら、それも誤りだ。どこが誤りなのか?そなたはやはり自分自身のためだ。この仮の自分のために、ひたすら絶えず工夫している。いつか、この仮の自分は人世間数十年で借金を返した後に過ぎないとはっきり分かったなら、なぜ自分は学仏しなければならないのかが初めて分かるだろう。学仏は、幸せな暮らしを送るためだ、上師に私に対してよくさせるためだと考えているなら、学仏しないほうがよっぽどマシだ。
経典:「聞覚於他令心清浄。」
この言葉は非常に説明しにくい。「聞」とは聴聞だ。仏法を聴聞した後、私達は覚悟しなければならない。「於他」、なぜ「於我」でないのか?私が先に聴聞し、先に覚悟しなければ、衆生の覚悟を助けることはできない!この言葉は、菩薩道を行う人は、必ず仏法で衆生を教化しなければならないと言う意味だ。菩薩道を修める人は、「知我不得我」の問題を理解し、仏法を聴聞し覚悟した後でなければ一切の衆生を救うことはできない。「令他的心清浄(彼の心を清浄にする)」は、今日私がひたすら言っているように、誰のための清浄なのか?そなた達の心が清浄を得るためで、私が仏法を聴聞し、私が仏法を覚悟したため、「私の心を清浄にする」のではない。「彼の心」なのは、今は菩薩道を講じているので、法座で説法している阿闍黎の仏語の一言一言はすべて「令他心得清浄(彼の心を清浄にする)」のだ。法座で説法する行者が講じる一切すべてが、そなたの欲望を満たすためなら、法座を下りてもそなたの欲望を満たすためなら、これは正しいものではない。
経典:「心不楽住一切法等。」
これは修行人を叱責している。そなたの心は、ある快楽を得るために、一切の法等、一切の現象にあるのではない。仏法であっても止まって、ひたすら離さないのではない。『金剛経』は非常にはっきり仰せだ。私達が開悟成就した後、「法尚応捨,何況非法?」菩薩道修行の最後の一個は無修道のようだ。大手印の最後の一個も無修だ。修める必要がないと言うのではなく、修行の過程ですでに修めているので、後ろの方では、はっきり明確に認識でき、如如不動で、何も加えず何も減じない。このようなのだ。ひたすら修法すれば、たくさんのものを与えてもらえるなどと思ってはならない。そうではない!私達はこんなにもたくさんのものを学び、こんなにもたくさんの法を修める。それは、何かを加えるのではなく、令心清浄のためなのだ。心が清浄になり、仏法の真諦を体悟し、宇宙の真理を理解したなら、非常にはっきりこの心は如如不動となり、全く動かなくなる!
私達はなぜ修法するのか?それは衆生が、この私の存在があることに慣れており、自分が行なっている、自分が念じている、自分が読んでいる、自分が覚えている、自分が座禅を組んでいると考えることに慣れているからだ!これは過程に過ぎない。聞覚できたなら、これら法は道具に過ぎないとはっきり分かり、修行の際に心は清浄となる。この道具をしっかり持って手放さない、と言うのではない。死の際にも強硬に手放そうとしない。強硬に手放さないなら、再び輪迴する。
経典:「無有動搖。」
一切の戒律、一切の仏の仰せ、上師の仰せに対して、心が揺れ動かない。私達はなぜ揺れ動くのか?「我」の観念がまた出て来る。「得られなければ面白くない。気分が悪い……」来た来た!心が揺れ動けば悪を為し、悪いことを言う。上師が加持してくれないのではなく、上師がよくしてくれないのではなく、そなたの心が揺れ動いているのだ。なぜ心が揺れ動くのか?それは満足が得られていないからだ。
ここでは出家菩薩について言っているが、在家学仏人にとってもとても重要だ。上師に対する態度、一切の修行に対する態度を調整できないなら、学仏の路では困難が多い。学べないと言うのではなく、修められないと言うのでもなく、ほんとうに障礙が発生するのだ。それは仏法が講じる意義と違い、衝突し、背くからだ。そうなれば自分が正しいと思い込んでいるのだ。
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは《仏子三十七頌》を口伝され、参会者を率いてアキ護法と迴向儀軌を修持くださった。
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2020 年 06 月 08 日 更新