尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2020年4月12日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、参会者を率いて観音法門を修めた後、『寶積経』巻第八十二「郁伽長者会第十九」を開解くださった。

今日我々は政府の法令に従い、法会参加人数を規定し、政府の法令範囲内で仏法を弘揚する。この点から世間の無常がみなはっきりと分かっただろう。リンポチェが生きているとしても、会うのは、今は非常に難しい。たくさんの人が、リンポチェはまだ生きているので、土曜日に来れば会えると思っている。昨日ある人の息子が用があり会いにきたが、私はすでに法座を下りていた。縁も福報もない。助けようと思っても、どうしようもないのだ。

なぜ寶吉祥道場は管理面の決まりを定めるのか?そなた達を管理するためでは決してない。人が多過ぎるからだ。人が多く雑多だからだ。毎回言う。みなお山の大将になりたがり、権利を握りたがる。そのため事態が起きやすいのだ。制度によって管理するのがいちばん良い。私が管理するのではなく、制度が管理するのだ。過った考えを抱いている人が多い。「学仏は私の自由な願いだ」それはそうだ。だがいかなる宗教団体であろうと法律の規制を受ける。制度がなければ事を誤りやすい。すべての弟子が制度に従う習慣を養うことができれば、当然事を誤ることはなくなり、自然に非常に容易にリンポチェが言うことを聞き入れるようになる。如実に物事を行い、功徳を貪ることもなくなる。

経典:「何以故。住阿練児処。不惜身命。」

いわゆる閉死関とは、死ぬまで閉関すると言うことではなく、閉関の前に、上師がそなたに一定の期限を与えると言うのかもしれず、そなたが上師にどれだけの間閉関したいということかもしれない。この期間がまだ至っていないのなら、古代の見方では、一ヶ月と言ったなら一ヶ月だ。一分でも一時間でも足りないと言うことは許されない。早めに出てきても良いと上師が言わない限りはそうだ。言い換えれば、この一ヶ月の間は、病気になっても死んでも、ここで死ぬということだ。だが現在この通り行うのは難しい。そなたが信じたとしても、家人が信じるとは限らない。その時になったら、この仏寺は無慈悲だと言うだろう。閉関時に病気になっても構ってくれない。

そのため以後私は選択する。家族がおらず、子供もいない人を優先して考慮する。それは眷属がその時になってあれこれ言う恐れがあるからだ。仕方がない。末法時代はこうなのだ。一人っきり人を優先的に考慮する。それは眷属、子供がいないとしても、親戚や友人がいるからだ。なぜこのように言うのか?経典の後ろの方で言う。なぜチベット仏教はこの種の方法を行うのか?チベット仏教が発明したのではなく、仏が「不惜身命(自分の身体、生命を顧みず閉関する)」と仰せになったからだ。誰ができるだろうか?

私は2007年に3ヶ月閉関した時、自分のバイタルサインが停止したのが分かったが、いかなる悲哀の心も起きず、いかなる悲しみの心も起きず、自分はやり残したことがたくさんあるとも思わなかった。これこそ不惜身命だ。法王は私の閉関時、最初の二ヶ月はその関房から出て来られなかった。後になって、法王が侍者に、私が食事しているか、トイレへ行っているか、とひたすら問うておられた、と知った。もし食事もせずトイレへも行かないなら死んでいるからだ。中に入って遺体を収容しなければならないかもしれない。あの日、私が死ねず生き返った後、法王は出てこられるようになった。それまではずっとお出にならなかったのだ。

なぜ法王は前もって仰せにならなかったのか?それは言ったなら、私が罣礙心と執著心を抱いたかもしれないからだ。言わずに、私がどのように通過するかをご覧になった。つまり法王は、私が通過できるとご存知だったのだ。もし私が仏が仰せの方法—不惜身命をできているのなら。私は閉関時に毎日4時に起床し、夜は早くとも10時過ぎに寝ていた。しかもすぐに眠れるとは限らない。あちらは非常に寒いからだ。毎日つまり「不惜身命」で修め、念じた。それは法王がお伝えくださった咒語が非常に長く、念じたこともなかったため、念じ始めたばかりの頃は正しく念じるのが非常に難しかったからだ。

不惜身命とは死ぬつもりだ、命が要らない、身体が要らないと言う意味ではない。自分は今日、この肉体を借りて修行しているだけだと理解することだ。そのため自分の身体と生命を少しでも大切に思うなら、輪迴解脱はそなたとは無関係だ。昨日一人の弟子が母親を連れて、生死を解脱したいと求めて来た。私は何をもってだ?と訊ねた。生死解脱はスローガンを唱えるのではない。行えなければならないのだ。閉関を経験せず、簡単にリンポチェに済度を求めればそれでいいのか!だが彼は自分にとって都合が良いと思われる話を山のようにした!なぜこの弟子は生死を解脱したいのか?それは彼の一生が非常に苦しく、苦しみたくないからだ。

これは間違いだ。私は現在菩薩道を教えている。菩薩道では、生死を解脱すれば再来しないとは言わない。生死解脱は、以後この宇宙において弘法する必要がないと言うことではない。いわゆる生死解脱とは生死自在のことだ。縁、業力がなければ再来しない。業力をきれいさっぱりと清められても、再来する必要はない。だがもし目にした衆生に縁があるなら再来するだろう。

観世音菩薩は古仏であられる。なぜ倒駕慈航来度衆生(自分が成仏まで修めてから六道を済度しに再び戻る)なさるのか?それは娑婆世界の衆生と有縁だからだ。そのため法身菩薩に転じて衆生を済度させに来られたのだ。なぜ古仏の姿で済度に来ないのか?それは仏はすでに無漏の涅槃まで証されており、済度させるも済度させないも、そのような考えがないからだ。菩薩だけにある。そのため菩薩果位を修める人が、自分は自分のために修め、自分は生死を解脱したいと考えるなら、それは菩薩道修行ではない。自分自身の安楽を求めているだけだ。

法本では、本尊と無二無別になることを祈求すると言うが、そなたが本尊になるのは不可能だ。ただ心と願は本尊を学ばなければならない。本尊を学ばず、一日中自分の身体と生命を惜しんでいるなら、先ほど述べた姚と言う姓の弟子のように、一日中息子のことを思い、息子が改めないのではないか心配しているなら、生死を解脱できるだろうか?生死自在とできるだろうか?

なぜ『寶積経』は眷属に対する見方をひたすら教えるのか?口に出すように教えるのではなく、あるべき見方と考え方を教えるのだ。もう一度言う。『寶積経』は口に出すようには教えていない。考えるように教えている。考えたか?考えていない。なぜ考えないのか?それは自分はまだ死なないと思っているからだ。死を迎える前に改めて考えても間に合うと思っているからだ。間に合わない。それはその時にはリンポチェはいないからだ。リンポチェは守ってくれない。なぜか?それは私が在生の際に私を信じなかったものが、私の死後に私を信じるとは思えないからだ。私が生きている時、まったく言うことを聞かないのに、死ねば聞くだろうか?それではあまりに奇妙だ。論理的でない。

自分自身で修められると思っている人が多い。修められない。身命を惜しむなら修められない。経典の仰せは不惜身命であり、私の閉関は命を惜しまない。ほんとうに要らない。すべての縁を捨て去る。外の世界も会社も台湾も道場も、何が起きようとどうでも良い。私とは少しの関係もない。それは縁だからだ。私が閉関することで道場や会社が閉まってしまっても、それは私の縁だ。私が閉関することで、子供が死んでしまっても、私の縁だ。念頭を起こさず、身命を惜しまない。そうでなければ閉関できない。そなた達のようであるはずがあろうか?

現在みな法会をオンラインで見ている。たくさんの弟子がオンラインで見ながら、目は子供を追い、耳は夫が帰ってきたかどうかと聞いている。それならビデオなど見る必要はない。見ても加持はない。聞いて行わなければ加持はない!中国のたくさんの弟子もこうだ。オンラインビデオを見ても言いつけに従わず、自分が好きなことをしている。それで役に立つだろうか?ほんとうに役には立たない。

経典はここで非常にはっきり説いている。六波羅蜜を修めるにはたくさんの事を行う必要はない。閉関時に身命を惜しまなければ、それで良い。誰ができようか?身命を惜しまず、とは、自分が死ぬまで、と言う意味ではない。はっきり聞くように。仏陀は苦行に賛成しておられず、提案もせず、支持もしておられない。苦行とは自分を死に追い込むことだ。仏は思想、方法を、上師の教えに照らして行うよう提案しておられるだけだ。自分自身の考え方があってはならず、自分自身のやり方があってもいけない。上師は何をすべきかを明らかに教えている。だがそなたは自分が正しいと考える方法をいくらか加える。それでは役に立たない。もし身命を惜しまず六波羅蜜を修めるなら、たくさんの事を行わなくとも成就できる。

経典:「是名出家菩薩住阿練児処修習満於檀波羅蜜。」

なぜなら閉関時に身命を惜しまないからだ。閉関は自分自身のためではなく、阿弥陀仏のお側へ行くためでもなく、自分が修められ弟子を取れるようになる等のためでもなく、衆生のためなのだ。衆生に代わり閉関する。衆生のためなら布施供養だ。そなた達が今念じるのは一言一句すべて自分自身のためだ。自分のことしか考えていない。もし布施供養しないなら、何によるのだ?念じて、念じて、来世で講演者、有名な歌手になるくらいだろう。持咒をたくさん唱えれば、話が自然に上手くなるからだ。だが生死解脱はできない。

この一世で歌がうまく、それを人が喜んで聞くなら、それは過去世で持咒したことがあるからだ。過去世で持咒したことがなかったなら、この一生で他人がそなたの歌を喜んで聞くと言うことはない。歌がうまかったとしても、誰もそなたのCDを買わず、そなたの歌を聞きたいとは思わない。身命を惜しまず衆生のために修行しなければ、布施供養を円満とすることはできない。布施供養を円満とできれば、この波羅蜜を成し遂げることができる。

経典:「長者。出家菩薩住頭陀戒。身口意戒。是名出家菩薩住阿練児処修習満於尸波羅蜜。」

この言葉は、閉関時には必ず持戒しなければならず、いかなる小さな戒であろうと破ってはならない、と言うことだ。破れば、波羅蜜持戒修行ではない。身口意のすべてで守戒しなければならない。身体は破らず、口も何も話さず、思っただけだなどと思ってはならない。それでも駄目だ。考えるだけで破戒だ。閉関時には姿勢を端正に、口で念じ、意識は自分自身に留意し、放縦してはならない。普段から自分の考え方を放縦し、好きでないが言っていない、リンポチェも知らない、と思っているなら、供養はなく、持戒もない。意が動きさえすれば、遅かれ早かれ身と口も行う。時間差があるだけだ。

しばしばたくさんの人が、自分はリンポチェに対して、いくらか不敬な考えがあると言う。それは不守戒だ。布施供養ができていないので、自然に守戒の福報はなく、自然に悪念が出てくる。それはそなた達がもともと悪念を抱いているからだ。修行を通して善念と善の力が成長し、悪念を押さえつけたに過ぎない。これによって初めて悪を善に変え、純善の力が累世の悪の習性を押さえつけることができるのだ。そうでないなら不可能だ。閉関時に守戒しないなら。閉関には閉関の戒がある。閉死関は非常に厳格だ。厳格過ぎて、そなた達は信じられないだろう。持咒では咳にも、くしゃみにも、あくびにも、すべてに戒律がある。腰を伸ばしても、膝を折っても伸ばしても、座り疲れて座布団を引っ張ってもいけない。家で過ごすように快適だなどと言うことがあるはずがあろうか?

そなた達、これら出家人はどこが修められているのか?我々金剛乗閉関の戒を知れば、びっくり仰天するに違いない。まったくできないだろう。奇妙に思う人が多い。なぜリンポチェは法座で2時間ひたすら修め続けることができるのか?それは閉関で修めたのだ。一日でこのような成就を得たのではない。当然以前顕教を修めていた時、私は毎日少なくとも2時間を修行にあてていた。そのため後に、この基礎を身につけることができたのだ。

経典:「長者。云何出家菩薩住阿練児。修習満於忍波羅蜜。於諸衆生無嗔恚心忍一切智。」

智慧が開けるのは、いかなる衆生に対しても嗔恨の心がなく、忌妒貪婪の心がないからだ。この忍が出てくれば、清浄な本智が出現する。閉関で自分の冤親債主にひたすら迴向するなら、それはやはり嗔恨心があると言うことだ。それはそなたが相手を憎んでおり、相手が懲らしめに来るのではないかと恐れ、暮らしがわるくなるのではないかと恐れているので、嗔恨心が起き、一切の智が起きることは不可能だからだ。

この言葉は、一切の智慧を忍耐しろと言うのではない。衆生に対する嗔恨心がなくなれば、この忍耐力、忍ぶ力は、一切の智を開いてくれるということだ。閉関を円満に終了すれば、智慧が開け慈悲心がますます広大になるのは、このためだ。求めて得られたのでは決してない。六波羅蜜は六度万行をたくさん行うのではない。仏はここではっきりと仰せだ。いくらか、だ。たくさんとは仰せでない。そなたの心持ち、方法、方式が正しいかどうかだ。

閉関で功徳を冤親債主に迴向し続けるなら、やはり嗔恨心があるということで、やはり自分が良い暮らしを送りたいと願っていると言うことだ。相手を恨んでいないなら、相手が懲らしめに来ることを恐れるだろうか?相手を恨まないなら、はっきり分かるはずだ。そなたの円満な智慧と功徳により、相手の嗔恨心を減らすことが絶対にできる。この観念は非常に簡単だ。絕対に複雑ではない。だがなぜ人は行えないのか?それは人が傷つくのを恐れ、自分の欲望を満たすことを望んでいるからだ。そのため非常に行い難いのだ。

経典:「長者。是名出家菩薩住阿練児処修習満於忍波羅蜜。」

満とは忍波羅蜜を円満とすることだ。普段他人に罵られても怒らない、ということではない。

経典:「長者。云何出家菩薩住阿練児処修習満於進波羅蜜。而是菩薩応如是学。我不離是処。要当得於無生法忍。長者。是名出家菩薩住阿練児処。修習満於進波羅蜜。」

進とは精進の意味だ。我々は前の方で供養、持戒、忍の波羅蜜を修めた。仏がここで仰せなのは、我々が普段言っているのと同じだ。いかにして精進するのか?精進とは必ず毎日何回念じるとということではない。進とは重点だ。この重点をつかまなければ精進できない。今日、何かを精製しなければならないとする。当然精華を精製できれば最も良い。だが一つの良いものを精製するには、過程、時間、忍耐が必要だ。変わりたいと思えば変われる、というものではない。精進とは非常に勤勉にたくさんのものを念じるというのでは絶対にない。その中で最も重要な法門を作り出さなければならない。

作り出すとはどういうことだろうか?前の方で言った身命を惜しまず、嗔恨心を持たないと言うことだ。一切すべてが布施なら、後に精進の心が起きてくる。現在行うことは、個人のためでは絶対になく、虚空内の一切の有情衆生のためだと明確に理解していれば、このように行うことでしか精進というこの法門を得ることはできない。

「而是菩薩応如是学。我不離是処。」とは前の方で言った通りだ。果位を証するまでは、一ヶ月閉関すると言うなら一ヶ月、二ヶ月というなら二ヶ月、離れることはできない。前の方で言った身命を惜しまずにつながる。関房を離れられる理由は一切ない。上師がOKと言い、自分が成就を得ない限りそうだ。そうでないなら離れることはできない。

チベット古制では、一般の出家衆の三年の閉関は、死関とまでは言えない。ある範囲内で離れることができないだけだ。そのため、髮を非常に長く伸ばしているラマを見たことがあるだろう。それは三年間髮を切らないからだ。三年経ってまだ成就が得られなくても、基本の共と不共四加行は円満に修めたなら、密法の学習を始めることができる。密法学習には必ず閉関しなければならない。咒語と法本を伝えれば密法を学べるというものではない。必ず閉関が必要だ。

閉関時に成就が得られないなら離れることはできない。つまり「不離是処」だ。ミラレパ尊者は、マルパ尊者から山を離れて修行してはならないと指示されたため、ラプチ雪山を離れられなかった。修行を始めてから世間を離れるまで、その地方を離れることは決してなかった。国王が招いても決して離れなかった。それは上師に指示されたからだ。上師がいなくとも、やはり言いつけに従ったのだ。

精進とは「要当得於無生法忍」だ。我々はみな忍の法門を修めることを知っている。最高は「無生法忍」だ。どうやって精進まで関連させられるだろうか?それは不精進なら、極めて自然に、一切の縁生縁滅に対して適応できず、変えようと試み、さらには自分自身でいくらか新しいものを作り出そうと試みるからだ。「無生法忍」とは法がないという意味ではなく、生がないという意味でもなく、一切の法は自然に生まれるのではないという意味だ。必ず因縁があり生まれるのだ。因縁がなければ、いかなる法も生まれない。

一切の法はすべて因縁により生まれ、因縁により滅すると明確に理解したなら、この生を断たなければならないと分かる。そうでなければこの滅を断つことはできない。つまり何らかの煩悩、悪念を起こさないなら、悪の因縁と果報は自然にない。ひたすら絶えず悪念を起こすなら、悪の因縁と果報は自然に出現する。二度と悪念を起こさないように、どうやって自分を訓練するのか?当然五戒十善と守戒を学ばなければならない。すべての念頭を善念とするなら、悪念は自然に生起しなくなる。簡単に言えば、因縁を作らないなら、この法は生起しないと言うことだ。因縁がなければ法も生じない。

今日我々が閉関し、たくさんの真言などを持するなら、すべてはある一つの事—縁生縁滅の空性を理解することのためであるべきで、閉関中に自分の開悟を求め、証できた果位を探し、自分の明心見性を求めるのではなく、空性を体悟しなければならない。無生法忍こそが空性なのだ。もし空性の存在を理解しないなら、修めた法は執著に変わってしまう。執著の法が善の果を生じても、やはり輪迴しなければならない。この法に執著せず、この法は因縁生滅法だと知っているだけで、我々が本尊を修める際に後ろの方では観空を修め、一切すべては因縁であると自分で理解し、法を修め終えれば空性内に入定しなければならない。そうでなければ法に執著しないことはない。

『金剛経』中では非常に明確だ。菩薩が修行過程で成就したなら法をすべて捨てることができる。非法ならなおさらだ。いわゆる非法とは、我々を輪迴させる一切の事だ。法をさえ捨てられる、とはどんな意味だろうか?前回言った。海や河を渡る時には船や筏が必要だ。上師も必要だ。上師は舵取りなのだ。海や河を渡り終えたら、これら船や筏は要らない。当然成仏するまでは、この舵取りは必要だ。だが舵取りはその時には、もう一つの方法で出現する。この船や筏は海を渡った後は不要だ。それはそれらは乗り物に過ぎないからだ。

仏法とは一種の乗り物だ。『妙法蓮華経』中で言う鹿、牛、羊の車のように、これらすべては乗り物だ。車内にはたくさんの玩具がある。これら玩具は仏法だ。念咒を好む者には、この玩具を与え遊ばせる。出家を好むなら、この玩具を与え遊ばせる。遊んだ後に上車させ、生死解脱の道へと伴うのだ。目的地に着いたら、この玩具は不要なので捨て去る。振り返って見れば、自分はこの玩具が不要だと分かる。

みな玩具で遊んだことがあろう。幼い頃の玩具を今も取ってあるか?愛着があるのでない限り、遊ばなくなったら処分してしまうだろう。簡単に言えば、世間法はすべて玩具だ。玩具でないものはない。だが帰宅しても口に出してはならない。夫に、あなたは私の玩具だと言ったなら、絕対に痛い目にあわされるだろう。

「要当得於無生法忍」で言うのは、一切の功徳は、どれだけ念じたか、どれだけ拝んだかで来るのではない。功徳と福徳は異なる。功徳は我々の業力を変えられ、転動させられ、我々の衆生への利益、自分自身への利益を助けることができる。「無生法忍」はたくさんのレベルに分けられる。証すればそれだ、というのではない。そのレベルは、経典で言う一つの微塵世界に一つの微塵世界があるように細かい。かつては原子、分子を説明できる科学的な名詞がなかったからだ。原子内にはたくさんの分子があり、分子内にはたくさんのクォークがある。つまりすべての物質内には、さらにたくさんの根本的に存在しているものがあるのだ。ひたすら変化している。変化したことがないものなどない。

無生法忍まで証するには段階がある。一日で証できるというものではない。無生とは生がないのではない。一切の出現の方法はすべて自然に生じたのではなく、因縁により生じたと言うことだ。そのためいかなる因縁が生じようと忍耐しなければならないのだ。悪の因縁が生じても忍耐し、悪を以って悪に対してはならない。そうすればこの事はいつか必ず消滅してしまう。善の因縁が生じても、大喜びし自分はうまく修行していると考えてはならない。こうすれば善の福報、果報は出現する。そうなら、次の一世は人天福報により再来し、生死解脱して阿弥陀仏のお側へ行くのではない。

経典:「長者。云何出家菩薩住阿練児処。修習満於禅波羅蜜。長者。出家菩薩住阿練児処。捨於禅定衆生教化修諸善根。長者。是名出家菩薩住阿練児処。」

菩薩道修行と阿羅漢道修行とは異なる。阿羅漢道は、自分自身が入定するまで修め、世間のすべての事情について執著罣礙しない。だが我々菩薩道修行者が禅波羅蜜を円満まで修めるなら、出家菩薩は、ひたすら入定し世間事に構わないのではない。「捨於禅定」つまり禅定を捨て去らなければならないのだ。私は閉関時にかつてこの種の経験をしたことがある。もう少しで阿羅漢の定に入るところだった。

「捨於禅定」とは一禅、二禅、三禅、四禅を指す。我々が一般に言う禅定ではない。菩薩道修行で言う禅定は空性の定だからだ。空性の定を文字で説明するのは非常に難しい。両者は一本の線だけで隔てられている。ほんの少しの不注意で一二三四禅に入ってしまう。一二三四禅に入れば、最高の境界は「非想非非想天」でしかない。自分では考えていないと思っているが、実はやはり自分自身が入定していると考えているのだ。この種の念頭は非常に細微だ。細微過ぎて自分自身でも気づけない。我々は普段ほんとうに気づけない。閉関時に上師諸仏菩薩の加持を通さなければ、この種の定が間違いだと気づくことはできない。

いわゆる禅定を修めるとは、どれだけの時間定できると言うのではなく、完全に妄念がないまで定できる、と言うのでもない。これも違う。念がないなら、衆生を済度しに行かない。なぜ菩薩道を修めるのか?それは衆生済度のためだ。経典の後ろの方では「捨於禅定衆生教化修諸善根」と言う。自了漢だと指摘するのではなく、自分自身のために学仏修行し、入定すれば世間は自分とは無関係だと考えるのではない。禅悦為食、山のようなそなた達の出鱈目、または禅定は非常に心地よいと感じるなど、これらはすべては間違いだ。

なぜ間違いなのか?それは菩薩道修行は衆生を済度させ、衆生に絶えず善根を植え付ける手助けをすることだからだ。今日自分が楽しいと感じ衆生の苦を忘れたなら、それは菩薩道修行者ではない。経典中で言うこの言葉を体感できる人は絶対に多くない。それはそなた達が入定したことがないからだ。入定したことがないなら、菩薩の禅定、阿羅漢修行の禅定、世俗人が修める禅定との違いを区別することはできない。違いは一つの念頭にあるのだ。この念頭は我々に種々の果報を生じさせる。

そのためここで、捨てなければならない、とはっきり言っている。自分はすでに一二三四禅に入ったので自了漢だと考え、自分はどんどんすごくなっている、座禅を三時間しても出定しない、などと考えてはならない。これでは禅定への執著であり、少しの執著、少しの無明がなおある。我々菩薩道修行の禅定は、我々の慈悲心と菩提心をそれ自身の清浄な法性内に定め、清浄な法性内で衆生を教化し、諸善根を修める。

昨日くしゃみをしたあの信衆は、もし私が禅定していなかったなら、母親が彼を叱っていることがどうして分かっただろうか?鬼が叱りに来たのではない。鬼は私の道場に入って来られない。それは私のこの弟子が天界におり、ある種の神通が来て話したからだ。これこそ禅定から来たのだ。この種の禅定は、自分自身のためだけだ。多くの人の禅定修行は自分の身体と心の健康のため、情緒を安定させるため等を望んでのことだ。これらはみな禅定ではない。世間禅、世俗禅だ。

菩薩道の定で上師の教導がないなら、非常に容易に道を誤る。ちょっとの不注意で一二三四禅に入ってしまう。当然たくさんの出家衆が初禅、二禅、三禅、四禅へ入るのを好む。だがこの禅は悲惨だ。なぜならやはり再来しなければならないからだ。非想非非想天ですべての福報を使い切り、執著心が出てくれば、あっという間に三悪道に堕ちる。それは自分はこんなにもうまく修行したのに、どうして堕ちるだろうか?と思っているからだ。あっという間に堕ちてしまう。

なぜ私は禅を伝えないのか?それはそなた達は菩薩禅を修められないからだ。菩薩禅を修められないなら、自分が定できるとどうして分かるだろうか?二つの方法がある。一つ目の方法は上師を信じ、自分自身の福報を累積すること。二つ目の方法は、リンポチェがいつも教える『仏子行三十七頌』だ。『仏子行三十七頌』に従い事を行うなら、禅定力はゆっくりと出て来て、心にたくさんの妄念を起こすことはなく、いわゆる心無旁騖(精一)となり、持咒するとなれば持咒し、食事するとなれば食事し、自然に訓練されてきて、毎日坐禅を組む必要はない。そなた達には坐禅を組む資格はない。みな15分坐禅を組むので、自分も15分坐禅を組むなどと思ってはならない。そなた達などが胡座をかいて座って何をすると言うのか。足が痛くならないように訓練するのか?そなたは禅定まで修められていない!

私がしばしば言うように、法座を毎日ここに置く、それも定だし、思想もないし、禅定でもあるのか?そうではない。たくさんの人が、心を空っぽにして、そこに座り何事も考えないのが、いわゆる入禅定だと思っている。誤りだ!禅定ではない。それは私はこの種の境界を経たことがあるからだ。私はかつて禅定修行し、そばで何かが発生しても何も聞こえず、覚めると二時間経っていた、と言うことがあった。運が良いことに、アキ護法は慈悲深く、私を出定させてくださった。この定を出ることがなく、ひたすら内部に座っていれば、それは実に心地よい。外の音は聞こえず、目の前のものも見えず、ひたすらそこに座り痺れず、痛まず、疲れない。アキ護法は特別に私の耳元で笑われた。その瞬間「トン!」と私は覚めた。二時間が経っていた。つまり禅定を追求してはならない。特に我々在家衆はそうだ。

何に頼り禅定するのか?持戒、五戒十善修行、絶えまない持咒、毎日の護法修行、上師に対する十分な信心。これで禅定は出てくる。どんな時に出てくるのか?息をひきとる前の数秒間だ。普段入定するのではない。入定すればよく定まるのか?そう言うことはない。空性まで証さない限り、拙火定まで証さない限りはそうだ。私が先ほど持咒した時、前の方の弟子は私の口を非常に注意深く見ていた。彼は心の中で「なぜ口が全く動いていないのに、六字大明咒がこんなにもはっきりと念じられるのか?」と考えていたのだ。出家弟子は「リンポチェが持咒なさる時、口は全く動きませんが、声は一字一句非常にはっきりし、また非常に速いので、私たちはみな追いつけません」と報告申し上げた。

リンポチェは開示くださった:これこそ禅定だ。学びたいか?いいだろう。問題はそなたに密法を学ぶ資格がないことだ。上師に対して懐疑心を抱き信じないなら学べない。これは腹話術ではない。完全に中脈から出てくるのだ。清浄な本性、いわゆる自性念仏だ。自性念仏とは、清浄な本性が念じているのだ。私がわざとらしく念じるのではない。ある出家衆は念じるのが非常にゆっくりだ。ゆっくりと念じれば慈悲深い、優しい、と思っているようだ。私は非常に速く念じる。それなら優しくなく慈悲もないのか?ある。大切なのは心だ。

今日は六波羅蜜を講じ、そなた達が普段学んでいる観念を打破する。私が打破するのではなく、仏が打破するのだ。仏は「そなた達は修行を誤っている」と仰せだ。修行を誤っているとまでは私は言えない。それは誰も『寶積経』を開示できないからだ。禅宗を修める人に、禅定を捨てよ、と言うなら、言われた人は飛び上がってそなたを叩き、「私は明らかに禅を修めているのに、捨てよと言う。それなら私は何のために修めているのか?修めるのを辞めた」と言うだろう。仏は非常にはっきり仰せだ。なぜ衆生を教化しなければならないのか?そなたにどうして衆生を教化する資格があるのか?そなたは一切の善の根を修めなければならない。誰がそなたのために種を播くのか?上師だ。善根がないなら、どうして善果を生み出し、善の果報を、他人に食べさせることができるのか?菩薩果位まで修めるのは、我々が菩薩ではないからではなく、善果を修めて衆生に食べさせるためだ。衆生は善果を食べて初めてそれが非常に甘いと知り、植え付けたいと思う。生えてくる果が苦いなら、衆生は食べない。なぜ私はこんなにも多くの衆生を助けるのか?済度にしろ病気のものにしろ、私はみな助けている。それはそなた達に甘くて美味しいものを食べさせるためだ。甘くておいしいものがあると思わなければ、そなた達は学仏に来ないからだ!そうしなければそなた達を済度する機会はない。

「そなた達に一切の有情衆生を教化するよう教える。そなた達に諸善根を修めるよう教える」とここでは非常にはっきり言う。すぐに菩薩に成れとは言っていない。私はそなた達に善根を修めるだけで、すでに非常に苦しいのだ。苦しくてたまらない。一日中人に罵られる。なぜ人に罵られるのか?それは過去世で私が人を罵ったことがあるからだ。今回人に罵られるのは当たり前だ。

私は以前顕教を修め、禅定に住する境界まで修め、世事に構わないようになり、もう少しで出家する決心を下すところだった。毎日少なくとも45分坐禅を組み、普門品、往生咒、観世音菩薩聖号を毎日少なくとも二、三時間修めていた。そなた達はこんなにも多くの時間を用いてはいまい。この事は以前言ったことがある。ある日突然夢を見た。夢のなかの私は長い箪笥の片側に立っていて、非常にうれしそうだった。前の方にはもう一人の、私と全く同じ人が見えた。市場のようなところで衆生に仏法を教え、衆生は非常に喜んでいた。この夢から覚めた後、自分は修行を誤っていたと理解し、振り返って改めて菩薩道修行を始めた。

私は非常にきれい好きなので、衆生、そなたもきれい好きでない訳にはいられない。衆生を救うには、必ず彼らの生活方式に融け入るようにしなければならない。彼らの生活方式に交われないなら、どうやって衆生を教化するのか?そのため私のこの一生は苦なのだ。子供がおり、ビジネスで失敗し、結婚でも失敗した。そなた達よりずっと苦しい。もし私が交わらないなら、この種の苦をどうやって知ることができるだろうか?この種の苦を知っているため、誰かが離婚問題で私に聞きに来ても、私は「ぴったりのところに来た。私にも経験がある」と言い、子供が言うことを聞かないと言うなら、私は「ぴったりのところに来た。私にも経験がある」と言い、「ビジネスで失敗した」と言うなら、私は「ぴったりのところに来た。私も失敗したことがある」と言う。これがいわゆる衆生教化だ。菩薩は苦を恐れない。苦しいところに飛び込んで行かれる。つまり台湾は幸せではないのだ。非常に苦しいところなのだ。仏法は存在するが、問題がこんなにも多い。

仏は禅定を捨てよと仰せなのではない。そなたを捨てよと仰せなのだ。どう言うことだろうか?修行に執著しなければ禅定だ。なぜ自分は菩薩道を修めるのかを知らなければならない。禅定も一つの道具だ。これにより衆生を教化する。なぜ衆生を教化するのか?昨日のあの信衆は二回くしゃみをして、私は彼に問題があることが分かった。それは私はすぐに入定して、もう一度見たからだ。母親が彼を罵ったのだ。良いだろう!この母親は、かつては私の弟子だった。成仏するまではやはり私の弟子だ。彼女が私にひどいことをしたのを私は知っている。だから少しは叱責しよう。

皈依していない信衆を叱責するのは、私にとってどんな良いことがあるのか?何も良いことはない。私が昨日もし「とても親孝行だ。しっかり学仏せよ。母親が学仏にくるように言ったのだろう」と言ったなら、彼は絕対に来ないだろう。なぜ来ないのか?彼は「母はこのように15年修めたのに病気になった。私が信じる方がおかしい」と思っただろう。反対に私は彼を叱責した。彼はこの人はすごいと考えた。少なくとも彼は仏教に失礼を働くことはできなかった。つまり禅定の功夫がなく、智慧がなかったなら、どうやってするのだ?行うのは非常に難しい。たくさんの人が「しっかり学仏せよ。母親もしっかり学仏することを望んでいる」と言うだろう。彼は心の中で「母は15年皈依したのにガンになった。あんなに苦しんで死んだ。学仏は私にとってどんな良いことがあるのか?」と呟く。実は仏法が役には立たないのではない。彼の母親が言いつけに従わなかったのだ。

六波羅蜜は、そなた達が以前聞いたのとは完全に違う。

経典︰「長者。云何出家菩薩住阿練児処。修習満於般若波羅蜜。長者。是出家菩薩住阿練児処。応如是学。如我此身空処亦爾。如我此身菩提亦爾。如如無妄想。如空無妄想。長者。是名出家菩薩住阿練児処。」

この段で仏は、般若智慧を詳細に説明しておられる。別の文章ではこのように説明することはできない。なぜ釈迦牟尼仏はひたすら長者にお伝えになるのか?それは長者が請法にうかがったからだ。弟子がたくさん請法に来ても、私が伝法しないのは、恭敬を行えず、「絶対に伝法しなければならない。私はあなたの弟子なのだから、私が仏法を学びたいなら、伝法しなければならない」と考えているからだ。長者はどうやって行ったのか?500人の自分の弟子を連れて、一切の供養品を準備してから、ようやく向かい、一切の衆生を代表して請法した。だからこそ仏はこんなにも多く講じてくださっているのだ。

「云何出家菩薩住阿練児処。応如是学。如我此身空処亦爾。」出家菩薩は閉関の地に暮らし、このように学ぶべきだ。「空処」つまり私と言うこの身体は空性まで証したと言うことだ。聞いたことがないかもしれない。以前チベット密教では上師が虹光身まで証した。つまりなお生きていながら、目にされる上師の身体が虹色に変わっているのだ。ガムポパ尊者も修められた。ある時ガムポパ尊者が入定しておられた折、入って来た人が辺りが浅い水に覆われているのを目にした。それはガムポパ尊者が入水定しておられたからだ。ある時は火に変わっておられるのを見た。火定を修めておられたのだ。これは神話ではない。必ず為せることだ。

ここで仏は我々にお伝えになる。身体が空性まで修め、身体の元素の配列がすべて変わり人の目には見えない肉体に変わったとしても、特別なことではない。仏が仰せの「亦爾」とは、特別なことではない、と言うことだ。それは外道もこれを修められるからだ。これは生死解脱、衆生の成仏を助けることとは少しの関係もない。そのため仏は先に「亦爾」特別なことではないと言われたのだ。ある特定の法門を非常に集中して修めたに過ぎない。以前私のチベットにおられた上師、その方の一人の弟子は、飲食が不要なまで修めた。だが法王は彼にたくさん講じてはおられないし、彼はすごいとも仰せでなかった。水を飲まなければ胃が粘着してしまうと、水を飲むよう勧められただけだ。法王は、その人が私の何人かの上師の内の一人の弟子であるとご存知だったので、私とおしゃべりした際にお話しになったのだ。現在この人は直貢梯寺で閉関の導師をしておられる。

この身体が菩提果位まで修めたとしても、どうと言うことはない。「如如無妄想。如空無妄想。長者。是名出家菩薩住阿練児処。」空性まで修めたなら、少しの妄想もない。これはどう言う観念だろうか?妄想が起きないところまで修めたならだ。ないのではない。いかにして妄想を起きないようにするのか?二つの方法がある。一つはそなたの善念、一つは禅定だ。例えば、私が持咒すると、みなの妄念は大幅に少なくなる。そなた達の持咒時の妄念はたくさんだ。それは私にたくさんの妄念がなく、さらには妄念が全くないからだ。そのため私の加持力はそなた達を押さえつけ、そなた達の妄念もなくなるのだ。つまり上師を信じなければならないと言うことだ。みなもはっきり分かっておろう。道場で私が持咒する時、今日は何も考えがないと感じるだろう。それは私が厳しいため、そなた達が私を恐れているからではない。そなた達が私を恐れているなら、そなた達はこのようではないだろう。

これはこう言うことだ。身が空になるまで修めたなら、修めた身はすべて菩提だ。だが「如如無妄想」完全に空性に入る。どんな意味だろうか?そなたと言う人がいなくなってしまうのではなく、心が広大になって空性に入り、いかなる妄想もなくなるのだ。禅宗には「心包太虚」と言う言い方がある。心が空性まで証する。「太虚」とは宇宙のことだ。宇宙がどれだけ大きくなろうとも、彼の心は宇宙を包み込んでしまえる、と言う意味だ。現在、科学はすでに証明している。宇宙は絶えず膨張を続けている。

2007年に閉関を終えて出て来た後、法王とこの言葉について話し合ったことがあった。「心包太虚」なら、やはり辺際がある。つまり心に形状がなければ太虚を包むことはできない。そのため「心容太虚」であるべきだと私は言った。虚空がどのように変化したとしても、私の心はそれを収容できる。つまり私の心は無辺無際なのだ。これこそ空性まで証したと言うことだ。これは私が出関時に言ったのだ。出関する前は、毎日「心包太虚」と覚えていた。「心包太虚」なら形状があり際があり、決まった容量がある。「心容太虚」ならそうではない。虚空はひたすら変化していると我々は知っている。拡大し、或いは縮小している。みな知っている。私の心は不動だ。虚空は動いている。虚空は動いている。私の心は動かない。相手がどんなに動いても、やはり収容することができる。こんなにも多くの人が私を罵るが、私はやはりやり過ごすことができる。もし他人に罵られて、私がそれを受け入れられないなら、どうして心容太虚であることができようか?この言葉は非常に深奧だ。学んだことがない人はぶっ倒れてしまうだろう。

リンポチェは出家弟子に「なぜそなたはこんなにもはっきり『心容太虚』を覚えているのか?」と訊ねられた。弟子は「私はこちらの方が好きだからです。空はすべての修行人にとって非常に重要です。我々は空性を解開し、空性を解釈し、空性を理解しているだけです。リンポチェのようにすでに証量で空性まで証し、顕現で空性を出し、空性内で衆生を度化しているのではありません。空性内に入っていないのです。それは無二のものです。それはリンポチェの境界です。我々に真似できるものではありません。ですが、少しの空性を理解すれば非常にうれしく思います」とお答え申し上げた。

リンポチェは開示くださった:釈迦牟尼仏は非常に慈悲深くていらっしゃる。般若波羅蜜の「般若」とは単純に智慧を言うのではない。空性、法性を内部に含むのだ。なぜ唐三藏法師は「般若」を翻訳しなかったのか?それはこの二文字があまりにも多くの意義を含むからだ。この段の意味は、ある特別の法門を修習し人とは異なるとしても、どうと言うことはない、と言う意味だ。それはなお妄想があり、できることを望んでいるからで、これこそ妄想だからだ。身体が菩提のように修められたとしても、仏は、どうと言うことはないと仰せだ。どんな意味だろうか?そなたの身体は肉体、法身を含む。法身と肉体が修めて菩提となる。菩提とはどんな意味だろうか?あなたは非常に慈悲深い、非常によく修習している、と他人に言われ、得意になって大喜びするようなものではない。

「如如不動」なぜ我々は仏を如来とお呼びするのか?それは仏が如如不動であられるからだ。何を「如如」と呼ぶのか?どんな事でも、その心はまったく動かない。善であろうと悪であろうと全て不動だ。ここでは不動とは言わない。自分の何かの事のために妄念を生じ、考えを生じ、何らかの行動を取ることはない。「如」とは「のようだ」だ。その心は妄想がないようだ、と言うことだ。なぜ仏には妄想がないのか?その考え、少しの無明はすべて衆生を済度するためだ。自分のためではない。自分自身のためではないなら、彼が空性の身体まで、菩提の身体まで証するより役に立つ。菩薩道修行は衆生を救うのであって、自分が何かを得たり、何かに変わったり、何かを獲得したりするのではないからだ。全て違う。

「如空無妄想。」虚空内に進入し妄想がないようだ。これも非常に説明しにくい。かつて宇宙へ行ったことがあるなら分かるだろう。宇宙内で星が行ったり来たりしていないなら、虚空内は動くことはない。忿怒本尊はすべて黒く、青黒い色をしておられる。虚空内に星の光も太陽の光もないなら、虚空の色は深い青色だ。虚空内では一切すべてが動かない。いくらかの因縁法が生じない限り、因縁が至って、いくらかの星を生じ、いくらかの運動エネルギー、運動量を生じない限りはそうだ。

「如空無妄想。」我々はやはり人なので、どんな考えも全くないと言うのは不可能だからだ。空性まで証した人は考えがあるとしても妄想はない。例えば「腹が減った。何かを食べたい」としても、私の考えでは、自分が好きなものを食べたい、と言うことではない。私の「腹が減った。何かが食べたい」は基本的な生存の欲望に過ぎない。

昼間は何が何だか訳がわからない事を考えず、やはり普通の人の生活を送り、だがやはりいくらかの事は行う。だが白昼夢を見ることはなく、いくらかの荒唐無稽な、できるはずがない念頭を起こすことはなく、いくらかの事を追いかけることもない。その人は「如空無妄想」のようで、心が空性に入っており、妄想がないようだ。だが衆生が助けを求めれば、その心は動く。衆生が助けを求めないなら、その心は不動だ。昨日くしゃみをしたあの信衆は、くしゃみをしなかったなら、私の心は動かなかった。彼がくしゃみをしたので、私の心は動き、禅定に入り、空性に入り、こうして何があったのかを知ることができた。

リンポチェは一人の出家弟子に発言させた。出家弟子は「もうすぐ分からなくなりそうです」とご報告申し上げた。リンポチェは開示くださった:彼を助けた時に私に妄念がなく、私に対して恭敬でなければならないとは思わず、どのようにして私を供養しなければならないとは思わず、彼が以後どうなるとも思わなかったからだ。なぜ私は突然この念頭を起こしたのか?それは因縁があったからだ。

出家弟子が「それはリンポチェが菩薩であられるからです。菩薩は衆生を助け、動念不動念のすべてが空性と相応するのです」とご報告申し上げた。

リンポチェは開示くださった:そのため私は苦しいのだ。彼がくしゃみをしたので縁が起きた。彼の縁起は、私をして彼に注意を払わせ、私は彼に注意した。彼がやって来て、私は非常に素早く空性に入った。私の念頭は全くなく、私の妄想も全くなく、「どうやって彼を助けようか?」と言う一つの妄想しかなかった。この念頭が起きたので、彼の母親と自然に念頭が相印したのだ。私が空性に入っていないなら、すべては私の妄念だ。例えば「親孝行して学仏せよ」これが私の妄念だ。それは私は、彼の学仏を願っているからだ。私にこの妄念がないなら、私はこの信号を受け取るのだ。

彼の母親の信号は非常に弱かったが、私は受け取った。それは私が空性内にいたからだ。どんな意味だろうか?私は動かず、私の心の中も動かなかった。そのためいかなる信号が入ってきても受け取ったのだ。私の心が動いており、「この男をどうしたらいいだろうか?私の弟子にできるだろうか?」と考えていたなら、このようなら信号を受け取ることはなかった。受け取らなかったなら、彼を助けることはできない。仏が用いられる字は非常に愉快だ。「如空無妄想」私は昨日彼を助けた。自分自身は空っぽで何も考えていないようだった。だが彼の母親の信号を受け取ったので、私の念頭が起きたのだ。心が動き、母親のために息子を叱ってやった。再来して私を頼ってくることがないように、これにより母親は天界でしっかり修められる。息子は言いつけに従い、娘はより強く私を信じるようになる。このようなのが呼応、前の方で言ったのではないか?「度化衆生修諸善根。」この六波羅蜜は非常に講釈しにくい。出家衆が「非常に不可思議です。禅定功夫は衆生を救え、衆生の困難を解決でき、輪迴から解脱させられるのです」とご報告申し上げた。

リンポチェは開示くださった:みな分かっただろう。いつか私の弟子となったことがありさえすれば、私に対して何らかの考えがありさえすれば、私は必ずそなたを助けるのだ。そなたが死んでしまっても助ける。その母親は明らかに死んでしまっている。私は彼女を天界に送った。だが彼女には、罣礙がまだあるので、私はやはり彼女を助けたのだ。この罣礙を解決してやらなかったなら、彼女の天界における果位が昇格することはない。施身法を修めてやったとしても、浄土へ行くことはなかった。それはこの罣礙を持っていたためだ。

今日は、リンポチェにどんな大神通、大力量があると自慢するのではない。経典内の六波羅蜜を修めた人であれば、このようにでき、そうでなければ絶えず衆生に利益することはできない。彼女の家庭のことに構わないこともできた。彼女の子供に金があろうがなかろうが、私と何の関係があるのだ?だが私の弟子なので、彼女がすでに死んでしまっていても、やはり私の弟子なのだ。私がしばしば言うように、私の道場を離れても、かつて皈依したことがあるなら、私をその者が上師だと認めないとしても、私の心はやはりその者を弟子と考えている。ただこの弟子は扱いに難く、いつこの者を度化できるか分からないだけだ。仏が在世の頃も言いつけに従わない弟子はいたし、仏を誹謗する弟子さえいた。そのため誹謗されるのは正常なのだ。それは経典で説くからだ。魔は一切の力を用いて仏法を邪魔する。

寶吉祥道場が1997年から現在まで続いているのは、私、リンチェンドルジェ・リンポチェがすごいからではない。法王、歷代の上師、護法がひたすら絶えず護持してくださっているからだ。そのため毎日アキ護法を修めなければならない。怠けたり、別の法を欲張ったりしてはならない。なぜならアキ護法の法本は、我々の修行を助けると非常にはっきり仰せだからだ。直接助けてくださる。『地藏経』が講じるように、何遍と決めた回数、地藏菩薩の聖号を念じ終えなければ、善の鬼神が保護にきてくださることはない。アキ護法の願力は直接そなたを助け、加持くださる。ポイントはどこだ?上師の話しを信じなければならない。上師に対して一切の悪念を起こしてはならない。そなたが悪念を起こし、耳障りの悪いことを言うのを恐れているのではない。

私が今年で73歲まで生きたのはオマケと言える。私の命は45歲で尽きるはずだった。73歲まで生きられたのは、諸仏菩薩がお守りくださったからだ。私が生き続けていられるのも諸仏菩薩がお守りくださっているからだ。それはあまりにも多くの衆生を済度させなければならないからだ。今日誰かが私を誹謗し、誰かが私に対してどうかしようとしたとしても、どうでも良い。それは私の因縁だ。相手が不満でもどうと言うことはない。百世、二百世、成仏するまでは、やはり済度してやるだろう。それは私の誓いが「衆生が成仏するまで私は成仏しない」だからだ。どうやって衆生を成仏させるのか?私が苦労して死んでしまうまでは、その者も成仏する機会がある。それはその者は自分の怨恨をすべて発散してしまったからだ。

今日は六波羅蜜を説明する。あらゆる菩薩道修行者にとって絕対に知らなければならないものであり、しかもとても重要だ。今日私が波羅蜜を行わないなら、この六波羅蜜を説明することはできない。字面からは説明できない。それはこの経験がないからだ。私は六波羅蜜を行ない、その経験があるので、説明することができるのだ。

先ほどのあの言葉「如空無妄想」も非常に説明しにくい。考えは空で妄想がない、とはいかに考えるのか?どのように説明するのか?字面からは説明できない。ちょうど昨日ある事があった。このように用いるのだと説明して聞かせよう。自分はしばしば空性内におり妄想がないようだが、何かが発生したら、この衆生は助けが必要で、念頭が動念を起こす。仏の境界からいえば、これも妄念だ。だが菩薩道を行うなら、これは妄念ではなく、相手への利益だ。菩薩と仏の違いは仏は容易には動かない。この衆生が懇切に求め、ひたすら求めない限り、仏の心は動かない。この動とは仏がおいでになると言うことではない。前世で仏と縁があった可能性があると言うことだ。そなたが行なった願が仏と有縁だったのだ。仏は我々に仏法をお教えくださり、我々を救ってくれるのは菩薩、護法、上師だ。仏に助けに来てくださるよう求めるなら、当然菩薩は仏に求める。

経典は非常にはっきりいう。一人の凡夫が直接仏に請示したと聞いたことがあるか?ない。つまりこの長者も、経典から見れば、絕対に菩薩果位まで証している。そうでないなら福報もなく自ら仏にお目にかかり、しかも自ら仏法に求める資格はない。私にはこの福はないので、仏にお目にかかることはできない。我々は末法時代にいる。仏に会えないどころか、疫病が流行している。上師に会いたいと思っても難しい。上師が会いたがらないのではなく、法律が許さないのだ。そのため我々は次善の策としてオンラインでビデオ伝法しているのだ。オンラインビデオ伝法は違いはあるのか?当然ない。やはり加持がある。違いはどこか?そなた達の感じ方に違いがある。そなた達は、本尊を目にできなければ加持があるとは感じられない。実は私に会えなくとも、私に対して信心を抱いていさえすれば、同じように加持を得ることができる。

あの日、姚と言う姓の弟子のために何かをすると、私は口では応じなかった。ただ娘に大礼拝をするよう言っただけだ。だが私は彼女を助けなかったのか?当然助けた。私は彼女の神識を保護したので、火葬後に頭頂の梵穴に二個の洞が出現した。洞の一つは娘に大礼拝を指示したので、力が出てきたのだ。娘が拝んだので出てきたのではなく、私の加持だ。二つ目の洞は、私が彼女の神識を保護した時に、もう一つの洞が開けられたのだ。

今日は円満に六波羅蜜を講釈し終わった。オンラインビデオを見ている者も、会場にいる者も、寶吉祥道場が菩薩道を弘揚すると理解してくれるよう願う。菩薩道を弘揚するのだから、我々のやり方のいくらかは他とは異なる。異端ではないが、精神が異なる。菩薩道修行の第一歩は捨だ。これも捨てられない、あれも捨てられない。姚と言う姓の弟子のように、一日中息子のことが頭から離れない。息子が会いにくると、私が母の言葉を伝える。これこそ不捨だ。姚と言う姓の弟子は捨てられなかったため、在生時には菩薩道を学べず、死んでも、やはり菩薩道が修められず、未だに上師を煩わせている。私は彼女を叱っているのではない。これは彼女の因縁だ。もう一人は万縁を捨て去ったので、上師は彼女を助けた。

そなた達はいつも私に対して良いことを言うが、表面的に良くし、表面的に恭敬でも役には立たない。大切なのは言いつけに従うかどうかだ。なぜ林という姓、朱という姓、それからあの出家衆は言いつけに従わないのか?非常に簡単だ。彼らは「我々はリンポチェに近い者だ。リンポチェは先週はこのようだった。来週は必ずこのようだ」と考えているからだ。法無定法だ。私は随時変化する。なぜか?この土曜日の衆生は重要な事があって会いに来ていると感じるからだ。この姚という姓の弟子だ。彼女は非常に重要だと思っている。私は彼女の罣礙を解決してやったので、彼女は天界でしっかり修められる。そうでないなら修められない。一日中ひたすら思い続けるだろう。

林という姓と朱と言う姓の弟子は、なぜ言いつけに従わないのか?それは彼らは、自分はリンポチェのお気に入りで、リンポチェの事は必ず知っていると思っているからだ。私の事は法王、仏菩薩、護法だけがご存知だ。私が何をしようとしているか誰もわからない。行菩薩道は一つの事のためだけだからだ。どんな方法を用いて衆生を助けられるかだ。今日彼をひどく叱責したので、明日は叱責しないかもしれない。色々様々に変化するのだ。「リンポチェに叱責された」という人がいる。私は当然叱責する。誤っても叱責しない、ということがあるだろうか?

我々は六波羅蜜を自在に用いる。だがそなた達は今は無理だ。空性まで証していないからだ。空性まで証するまでは心配しなくとも良い。上師に対して、三宝に対して完全に恭敬であるだけで良い。つまり布施供養だ。不恭敬なら、金を供養されても、私は受け取らない。なぜ恭敬なのか?後ろの方で修める他の五個のためだ。

今日法王が仏法をお伝え下さるのは、私が大金を供養したからではない。私が上師に対して徹底的に恭敬だからだ。何を恭敬というのか?それこそ言いつけに従うことだ。法王の仰せを私はすべて受け入れて行う。困難にぶつかれば、上師に相談するが、諦めることはしない。相談し、方法を変えても良い。言うことが全て正しいとは限らない。現在私のこれら弟子はなぜこのようなのか?それは「間違いなくこうだ。先週はこうだった。今週は必ずこうだ」と自分は間違っていないと思っているからだ。だが衆生の因縁は種々雑多であまりにも複雑だ。私がコントロールできるものではない。每土曜日の因縁はすべて異なるのだ。この土曜日私は最初から最後まで叱責していた。それは叱責せずにはいられなかったからだ。非常に恭敬な様子を装って請法する者もいるが、私は全く伝えない。

「末法時代だ。状況は良くない。たくさん修法することで我々が無事でいられるよう、リンポチェはなるべくたくさん伝法すべきだ」などと思わないことだ。護法をしっかり修めればそれで良いのに、なおもっと多くを修めたがる。そなた達は菩薩道まで証したのか?それなのにあれもこれも修める。アキ護法法本は「アキ護法を信じるなら、死後はアキがお迎えに来て、アキの浄土へ連れて行ってくださる」とはっきり言っている。そなた達はアキ護法を見下しているのか?リンポチェはこんなにも多くの法を修めなければならない。それは衆生があまりにも複雑なので、こんなにも多くの法を修めなければならないのだ。だがやはり本尊が最も重要だ。

昨日私は出家弟子に、あれら信衆に火供の重要性について説明するよう言った。どのような人が火供を修めることができるだろうか?第一の最大の条件は禅定が良いことだ。もう一つは本尊を成就まで修めなければならない。何を成就というのか?私は衆生を救度する時相応する。私が修行の末に四臂観音に変化してそなた達に見せるというのではない。私が四臂観音に変化し新たに両手が二本出て来れば、すぐにテレビに取り上げられ、すぐに有名になるだろう。今日は何を六波羅蜜というのか、はっきり理解しなければならない。そうでなければ道を誤る。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率い、アキ護法と迴向儀軌を修持くださった。

修法の終了後、リンポチェは継続に開示なされた。

アキ護法の法本には「アキは仏陀の教授を護持する」という一文がある。アキが法身の菩薩、つまり出世間の護法まで証したという意味だ。だがアキの願力は仏陀の教授を保護把持する。簡単にいえば、釈迦牟尼仏の教授でないなら、アキは一切護持しないということだ。アキに別のことを求めたなら、アキとは無関係だという意味だ。この言葉は「仏理に基づき衆生の願を満たす」と非常にはっきりと言う。どんな願だ?修行の願だ。世間の願ではない。仏理に基づくとは、絶対に因果に背かないということだ。そなたが明らかにこの一生で菩薩となる資格がないなら、この一生で菩薩になれるとアキは決しておっしゃらない。次第に修行していないなら、どうして菩薩となれるだろうか?仏の仰せの一切の理論、経典が教える一切の理論に基づき、アキは修行の願望を満たしてくださる。この理論を超過するなら、満たすことはできないし、満たすこともない。自分が要るものは、なんでも与えられなければならないなどと思ってはならない。自分はポワ法まで学びたいと言う人がいる。それならアキ護法に求めてみるが良い。アキは伝えてくださるだろうか?絕対に伝えてはくださらない。

仏理に基づくとはどんな意味だろうか?菩薩道を修習するつもりがあり、以後仏果となるつもりがあると言うことだ。在生の時には、菩薩道修行をしようと思ったことはなく、自分が苦しみたくないとだけ考え、将来楽に暮らしたいと考えている。そんなことがあり得るだろうか?アキ護法がどうして手伝ってくださるだろうか?「アキ護法に求めてみよ!応じたとしても、必ずポワ法を修めてやるということではない」と私はしばしば言う。それはこの言葉から出てくるのだ。仏理に基づかず求めてきた願は絕対に叶えられない。明らかに自分自身はっきり知っているのに、上師に不恭敬で三宝に不恭敬なら、何を以ってポワ法が得られるのか?何を以ってポワ法が教われるのか?そなた達はポワ法をあまりにも見下している。「私が求めるなら、私に与え、私に教えなければならない」と考えている。自己の内心世界に問うてみよ。「菩薩となるつもりがあるのか?自分自身一切の享楽を犠牲にして衆生を救うつもりがあるのか?」現在の、この感染症の蔓延だ。私だって好きなだけ幸せを享受することができるのだ。こんなに大変な思いをして、土曜日と日曜日になお衆生に利益する必要はない。良いことがあるか?何もない。

昨日も私は火供を修めに行った。良いことがあるか?ない。一度の食事さえせずに、急いで戻ってきて衆生を助けた。このようにするつもりがないのに、ポワ法が得たいと言うのは、どんな道理に基づくのか?道理はない。ここでは非常にはっきりと仰せだ。アキ護法に、自分の願-修行の願を満たしてもらいたいと願う。それなら仏理を離れることはできない。アキ護法は仏陀の教導を護持される。仏の教えでないなら、助けてくださることはない。

なぜ私は『寶積経』を説くのか?それは『寶積経』がどのように菩薩道修行を行うべきかを教え、心をどのように改めるべきかを教え、思想がどうあるべきかをひたすら教えてくださるからだ。この種の思想さえないなら、どうやって菩薩道を修行するのか?この二人の弟子から非常にはっきり見て取れる。一人は捨て去れず、もう一人は捨て去り、捨て去れない者は天界へ行った。私がどのように保護し、娘がどのように拝もうと、やはり天界へ行ったのだ。それは15年皈依し、少なくとも15年菜食したからだ。もう一人は捨て去れた。仏理に基づけば、阿弥陀仏のお側へ行けるはずだ。二人とも私の弟子だが同じようにまったく私を供養しておらず、共に金がない。なぜこんなにも大きな違いがあるのか?一人は毎週私に会うことができ、もう一人は7、8年会っていなかった。それは彼女は仏理に基づかず修習し、法会に参加すればそれが修法だと思っていたからだ。

法会参加は先ず道理を講じ、先に仏理を講じる。顕教は最も重要だ。顕教がなければ、密法を学ぶ資格はない。何が顕教なのか?仏が仰せの道理、仏が我々にくださった教授だ。仏の仰せをまったく聞かないなら、誰の言うことを聞くのだ?一日中過った観念を持ち、法会に参加すれば加護が得られ、この病気も起きず、あの事も発生しないと思っている。経典ではこのように講じない。経典は如実学習と説く。そなた達はみな言いつけに従わず、この方法に基づいて学ばず、一日中自分自身の考え方で学んでいる。

末法時代に正法を弘揚する上師はどちらかといえば大変だ。それはみなこの種の方法を嫌うからだ。来るや否や跪き、供養金をポンっと渡し「すべて与え、叶えなければならない」と言うのをみな好む。だがこれは仏が仰せの道理ではない。菩薩道修行には菩薩道修行の方法がある。六波羅蜜をまったく行わないなら、どうして可能だろうか?菩薩道を弘揚するすべての経典、咒語、法本は菩薩道の方法だ。この一生で菩薩道を行うつもりがないとしても良いだろう。少なくとも言いつけに従わなければならない。言いつけに従わないなら、どうしたら良いのだ?今のところ私はまだ生きているので救ってやる機会はまだある。だが以後、私が不在の時は誰がそなたを救いに来るのだ?私の在生時、そなた達はまったく私を信じない。私が死ねば信じるようになるとは、考えられない。

みなしっかり考えてみよ。オンラインでビデオを見ている者もしっかり考えてみよ。このように『寶積経』を開示する道場は非常に少ない。それはこのように講じるなら、学ばなくなる人がたくさんいるかもしれないからだ。あまりにも大変なのだ。出家弟子が「もうすぐ分からなくなりそうだ」と言うように。もちろん分からないだろう。菩薩の果位まで証していないのだから。人は誰でも理解したいと強く思っている。そなたが理解できるのを待てば、菩薩だ。そなたは現在理解できることを要求しているのではない。自分が行えるか、改められるかを要求しているのだ。行いもせず、改めもしない。何を以って少しの金で、何もかも求めるのか?これは不可能な事だ。みなはっきり覚えておくように。

なぜ仏寺を護持するといくらかの良い事が起きるのか?それはこの寺は建立後、私のものではないからだ。名称は私が変え、以後は私が管理するが、これは衆生のために建てた修行の道場だ。誰かのものではない。直貢噶舉派のものだ。法脈を伝えていける寺を私が持つよう、法王が望んでおられるだけだ。私の修行の方法は、他の人とは異なる。私が修める法門はより大変で、より猛々しい法門だ。そのため衆生の生死解脱を助けるにも、より猛々しいのだ。

はっきり見ただろう。信じる者も信じない者も、私は両方助けた。その内の一人は私に会ったこともないのに、私はやはり助けた。その者が私を信じさえすれば、私は助ける。「会った事もないのに、何をするのか?」と当然そなたは言うだろう。実は私が何かを行う必要はない。経典で講じるように心が動けばそれであるのだ。何かを行う必要はない。我々は現在なおたくさんの事を行う必要があるのか?経典では言う。六波羅蜜を修め、「少し」の事を行えば、円満となる。何を「少し」と言うのか?見たところ絕対に少しではない。仏の仰せはあまりにも遠慮深い。そなた達が驚いて逃げ出してしまうのを心配されているのだ。

経典は非常にはっきり言う。閉関の際に、六波羅蜜はどのように修めるのか?毎回私が講じる仏法をもう一度見ない人が多い。そなた達は再び見ない。ゆっくりと淘汰される。こんなにも多くの弟子が法を聞きに来るよう持続しようとしているが、どうしようもない。一旦無常が来れば何もかも変わってしまう。あって当然だなどと思ってはならない。私はしばしば言う。あって当然だなどと思ってはならない。我々は宇宙の中の非常に小さな非常に小さな一個の個体に過ぎないのだ。「あって当然だ。我々はみな非常に恭敬なのだ。この道場は必ず存在する」などと思ってはならない。そうとは限らないのだ。衆生の力--上師、護法、仏菩薩に対する衆生の信心と恭敬心に頼らなければ、この力が起きることはない。

法会は円満となり、参会者達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法及び殊勝な開示を賜り、無量無辺衆生を利益する事を感謝し、、立ち上がって恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りられるのを見送った。



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2020 年 05 月 17 日 更新