尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2020年6月7日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、参会者を率いて観音法門を修めた後、『寶積経』巻第八十二「郁伽長者会第十九」を開解くださった。

経典:「不住心界見心如幻。」

大手印で離戲瑜伽の果位まで証できていなければ、この言葉の真の意義を体得することはできない。字面から説明しようとしても、顕教の観念では体悟できない。経典は我々の意識と心について説くのではないか?それなのに「不住心界見心如幻」という。それは「一切法生,一法不生一法不滅,法生心之動也。心不動就不産生任何現象」だからだ。先ほどの数語は、私が『華厳経』中から体得した後に書き出した言葉だ。心が不動なら如何なる現象であろうと生じることはない。

六祖慧能が広州へ行き講法を聞いた時、二人の出家衆が、風が幡に吹き付けることについて議論しているのを聞いた。一人が「風が吹き幡が動く」というと、もう一人は「そうではない。幡は風に従い動くのだ」という。六祖慧能は「そうではない。そなた達の心が動くのだ」と言った。心が不動なら、一切の事について動いたことがないと感じる。この見解を体得するのは非常に難しいし、文字でも説明できない。そのため金剛乗を事部、行部、瑜伽部、無上瑜伽部に分けているのだ。例えば『観音簡軌』の最後の方では観空について触れる。観空の方法は、我々に「不住心界見心如幻」を訓練させるのだ。なぜこのようにするのか?体得できないなら、「不住心界見心如幻」がない人は空性まで証することはできない。空性まで証していないなら、広大な衆生に利益することはできない。

例えば最近往生した褚という姓の弟子だ。私は家で修法し、彼は病院にいた。空性まで証していないなら、こんなにも離れていて、彼の頭頂の梵穴に穴を開けることがどうしてできただろうか?しかも私は家で、彼のためにどの程度まで修法できたかが分かり、彼の頭髮が立ち上がって来たことが分かっていた。これこそ空性までの証悟だ。前回言った「界如法界」の定義を誰も理解できない。「界」は我々が心で界定するのだ。心がある範囲を界定しないなら、この範囲は虚空と同様に無限だ。

みな今でははっきり分かっている。科学も証明している。宇宙は絶えず外へと拡散している。無界だということだ。我々は範囲を設定する。それは我々の心が作用を起こし、この界(範囲)の内は自分のものだ、あれは自分のものではないと考えるからだ。そのため国どうしの争いが絶えず、奪い合いが起きるのだ。行者が「界如法界」でいられず、「不住心界見心如幻」でいられないなら、衆生を済度させてやることなどできない。私は褚という姓の弟子にポワ法を修めてやった。私が自分の心を、彼に修法してやろうという心持ちに留めておらず、空性の心に入り込んでいないなら、彼の心が何で動いているのかを理解できない。それは一つの幻象(現象)の出現はひたすら変化し、無常だからだ。停止し、不変ということはない。衆生を済度させてやる人が心界におり、何かに執著しているなら、衆生の心を理解することなど不可能だ。衆生の心は夢幻のようにひたすら変化する。夜寝ている時に夢を見ているかのようなものだ。たくさんの夢を見ても、起きたら無くなってしまう。夢はどこから来るのか?昼間なにを行えば、夜必ずこの種の事が発生するというのではない。我々はたくさんの世を輪迴しているので、意識内には種々の記録が存在する。寝ている時に、この種の記録は放たれて出てくるのだ。加えて、この一生で学んだもの見たもの聞いたものもある。こうしてとてもたくさんの夢が生まれるのだ。

夢のようであり、幻のようでもある。実は世間でもこのようなものだ。褚という姓の弟子は、騙して手に入れたものも無くなってしまった、と言っていた。夢、幻のようではないか?何か一つのことを必ずやり遂げなければならないと自分自身の心を集中させるなら、主観性が非常に強くなり、問題がどこにあるのか返って見つけられなくなる。そのため科学を研究している人の多くが最後には、袋小路に入り込んでしまうのだ。それは一つのことに集中しすぎているからだ。一つのことに集中するのは良いことか?ある程度なら良いと言えるだろう。それは非常に努力して一つのことを行うからだ。だがある程度では、主観が強くなり過ぎる。そなた達の言い方によれば、主観が強過ぎる状態で事を行えば客観性が乏しくなる。だが修行においては主観も客観もない。因果、業力、空性により、衆生を救うのだ。

「不住心界見心如幻」を理解できる修行人でなければ、衆生を済度させることはできない。毎日一万遍念じ、衆生や祖先に迴向しているので彼らを済度させられるなどと思ってはならない。この種の観念は正しいだろうか?正しいと言える。だが「不住心界見心如幻」でいられるだろうか?そなたが自分の意識を心の中に止めれば、絕対に心は動く。少しでも動けば十分に定ではない。十分に定心でないなら不清浄だ。そなたが持する咒は役には立たない。なぜ持咒時に、一周108個の仏珠で、私は多くとも四回息継ぎするだけで念じ終えられるのか?そなた達は何回息継ぎが必要か?(一人の出家弟子が「16回です」とお答え申し上げた)そんなものではあるまい!なぜ彼女は16回も息継ぎが必要なのか?それは心が動いているからだ。心の中で、自分はとても心を込めて念じていると考え、衆生について思っていない。二つ目には、密法を学んでおらず、気が中脈に入っていないので、気が長くないのだ。気が長くなければ、ひたすら呼吸内だ。とても矛盾している。人は呼吸しなければすぐに死んでしまう。だが呼吸が動けば、すぐに念頭もそれに従い動き、心もそれに従い動く。息を止めてみよ。どんな考え方も念頭も出てこないのを感じるだろう。だが呼吸を開始すると、念頭は次々に現れてくる。

持咒はそなた達が想像するように「自分の健康のため、誰かのため、自分はどうなりたい⋯⋯」というのではない。持咒は「不住心界見心如幻」となれるよう我々を訓練するのだ。心がひどく乱れているなら、彼女のように16回も息継ぎしなければならない。少なくとも私の4倍だ。彼女は今年57歲だ。私は73歲だから、私より16歲若い。密法においては、人が60歲を過ぎると、吸い込む気が短くなり、吐き出す気は長くなるという。気をつけてみるがよい。夜間睡眠時の年寄りの呼吸の気は、若者とは異なる。若者は吸い込む気が長く、吐き出す気が短い。医学的な観点から言えば、肺活量が十分でとてもたくさんの酸素を吸収できるということだ。酸素が取り込まれた後は身体が吸收する。そのため吐き出される気が少ないのだ。年寄りは反対だ。自分の呼吸がどんどん短くなっていると感じたなら、年齢的にそろそろだということだ。

密法とは自分自身の肉体、意識、心が相互に干渉し合わないように訓練するのだ。そなた達の現在の学仏は、一日中、自分で自分に干渉し、山のようにたくさんの念頭が出てきている。なぜ寶吉祥道場は適当に伝法しないのか?なぜそなた達は一日中叱責されているのか?それは、そなた達が定まることなどないと、私がはっきり分かっているので、叱る方法を用いて、仏法は非常に得難いと感じさせるしかないからだ。この出家衆は皈依してこんなにも長くなるのに、なぜなおも口答えするのか?それは自分は間違っていないと考えているからだ。だが彼女は勘違いしている。いかなる場所であろうと守戒しなければならない。道場であろうとなかろうとだ。道場で守戒しないなら、道場は滅茶苦茶になる。彼女は率先して造反し、さらに口答えする。上師に口答えしたってどうということはないと考えている人が多い。だが皈依の時に言っている。これこそ争いだ。加持は無くなってしまう。

禇という姓の弟子はなぜこのようなのか?供養していたのにだ!法会前に語った弟子が「禇という姓の弟子は非常に恭敬だった。リンポチェに言われれば、必ずそうですと言っていた(衆生済度の事跡第1040篇参照)」と言っていた。だが彼の心の中には争いがあった。争いがあるなら、加持力は無くなってしまう。古人は、学仏する人、真に修行する人は三つの呆を持たなければならないと言った。つまりそなたは馬鹿にならなければならないのだ。頭が良過ぎれば学仏できない。なぜか?それは変わってばかりだからだ。人の心は不定だ。変わってばかりいる。自分の問題がどこにあるのか、見極めることは永遠に不可能だ。

「不住心界見心如幻」真の修行人は、内心のあらゆるものはすべて無常で、清浄な本性ではなく、我々の欲望がひたすら絶えず累積し、自分の一種の考え方を生じるに過ぎない、とはっきり知っている。我々は心の中で、この種の考え方は正しい、「自分は誤っていない。自分のためにするののどこが誤っているのか?」とひたすら考える。なぜ科学者は人類の脳を研究しても、明らかにすることができないのか?問題はどこだ?分からない人の原動力はどこから来るのだ?脳細胞から来るのではない。かつて言ったことがある。人の原動力、推進力が脳細胞から来るなら、なぜ人の死後脳を取り出しても、脳は作用を生じないのか?脳細胞が有用なら、脳細胞を取り出しても、なお有用で、なお思想があり、あれこれしろとなお指図するはずではないか?だがなぜそうしないのか?それは脳は主役ではないからだ。主役は我々の意識、我々の心だ。我々の心が不動なら、どんなことであっても動かない。しかし心が動けば、一切のいわゆる「法」(現象)が生じる。学仏もそうなのだ。

「不住心界見心如幻」密法を学んでおらず、法本の最後の観空の法門を学んでいないなら、この言葉がなにを言っているかを体得することは永遠にできない。密法はない、釈迦牟尼仏は密法を講じたことがない、という人が非常に多い。『宝積経』の前の方では、菩薩道を修めるには五通を学んで修めなければならない、と言う。ある種の経典に背いているようにも見える。釈迦牟尼仏は「神通は修行を代表せず、学仏の成就を代表しない。我々は神通を盲信し執着してはならない」と仰せになったことがある。だがここでは、学習し、五通を修習しなければならないという。つまり菩薩道の法門は異なるのだ。釈迦牟尼仏は神通を盲信してはならないと仰せだ。それは信衆が騙されるのを心配しておられるからだ。そのためこのように仰せなのだ。だが『宝積経』のこの段では、菩薩道を学ぶ人は何をしなければならないと教える。菩薩道を学ぶ気がないなら、この経内で講じる一切の涵義を理解することなど不可能だ。

それから懺悔しても役には立たない。懺悔はただ、改めて学ぶ機会を与えてくれるだけだ。懺悔したので、「不共四加行」を伝えてもらえるなどと思わないことだ。それはそなた達が根本から始めたのに、菩薩道を学ぶと決定せず、今私の門下に入ったのに、学ぼうとしていないからだ。鄭という姓の弟子が「準備ができていないのに、学ぶ勇気がありません」と言っていたようなものだ。これは懈怠だ。私は準備ができていたことなどないのに、なぜ学べたのか?それは馬鹿だからだ。なぜそなた達は学べないのか?それはそなた達が頭が良いからだ。鄭という姓の弟子は非常に頭が良かった。ちょっと聞いてみると、非常に謙虚でもあったようだ。自分には能力がないので学ばない方が良いと考える。だが仏は、どんな人が菩薩道を学べると仰せだったか?仰せでない。学仏は、我々世間法とは異なる。何かのdegree(学位)も、博士の資格も必要ない。字が読めなくとも菩薩道を修めることができる。ミラレパ尊者は文盲であられた。なぜこれほどよく修められたのか?教えを守ったからだ!つまり鄭という姓の弟子は教えを守らなかったのだ。退縮し始め、「リンポチェはどんどん厳しくなる。それなら学ぶのはやめよう。これ以上学べばもっと厳しくなる」と考えた。厳しくするのは当たり前だ。これは『宝積経』に基づくのだ。嫌なら、聞きに来なくとも良い。

私はかつて言ったことがある。菩薩道を学ぶ気がなく、菩薩道を修める気がないなら、信衆弟子だと。だが信衆弟子らしくさえない。禇という姓の弟子は、とてもたくさんの戒を破った。唯一破らなかったのは供養だ。彼の死後、私は山のようにたくさんの事を解決してやった。彼は頭が良かったか?間違いなく頭が良かった。だが、馬鹿だったか?と言われれば、そうだったとも言える。どこが馬鹿だったのか?自分はとても頭が良いと思っていたところがだ。なぜこのような状況が生まれるのか?それは心界に止まっているからだ。自分の考えが正しいと考える。彼は、自分は非常に優れている、努力するだけで良いと思っていたのだ。

現在道場には非常にたくさんの異なる学仏の心持ちがある。鄭という姓の弟子は典型だ。畏懼。『宝積経』は講じる。「菩薩道を学ぶ、菩薩道を修めれば、証果菩薩に畏懼はない」と。畏懼がないのだ。天を恐れないほど大胆だと言うのではない。衆生のため、学仏の心が退縮することはなく、一切の困難、一切の艱困を恐れず、ただ前進し、絶えず前進する。そなた達とは違う。「不住心界見心如幻」この言葉は、『観音簡軌』を伝えられたなら、ゆっくりと修められ、いつか必ず、後ろの方の観空、この段について、釈迦牟尼仏の仰せの意味が体得できる。

経典︰「観一切法等如法界。」

これは「不住心界見心如幻」を再び説明している。我々は目で見るのではなく、心で見るのだ。内と外を見る。一切の法とは仏法を言うのではなく、一切の現象だ。眼耳鼻舌身意が触れる、知る、感じる等如法界を含む。「法界」とは、たくさんの人が考えるような仏法の境界ではない。仏は宇宙を虚空、法界とお呼びになった。十方法界とは、すべての虚空の十の方向だ。我々が法界と呼ぶものも含む。法界の定義とは空だ。虚空内では変わったことはない。宇宙へ行く機会があったなら、目にするものは、深い藍色だ。宇宙の深いところには星がなく、恒星も運行していない。自分がどこにいるのか全く分からない。それは目にするものすべてがこのようだからだ。なぜたくさんの本尊の色はすべて深い藍色なのか?それは虚空を表し、空性を表し、不動を表しているからだ。虚空は動いたことがなく、縁により一切の相を生じる。この相も時に従い滅する。星が数十億年、数百億年存在できようと、絕対にいつか必ず消失する。それが存在しないとしても、虚空に変化があると言うことではなく、虚空に何らかの損失があると言うことではない。新しい星が出てきても、虚空では何も増えない。

「観一切法等如法界」の意味は、そなたの身に起きた何らかの事は虚空のようだと言うことだ。本来は空であり、何もないのだ。それはある動作が生じ、次に星が生まれ、続いて星が動くからだ。我々人が生じる煩悩はどこから来るのか?好き嫌いからだ。執著心がとても重く、自分が苦痛を受け、何かを忍耐できないのではないかと恐れているのだ。だがそなたが理解していないのは、どれほど痛みどれほど不快であっても、すべては我々の肉体のことであり、我々の清浄な本性には害を及ぼさないと言うことだ。肉体が感じる不快はどこから来るのか?それは自分が過去に為した業からだ。どのような業を為したのか?例えば物を食べるのも一種の業だ。経典は講じる。暴飲暴食する人は地獄に堕ちると。なぜか?それは自分自身の福報を損耗し、この肉体を大切にし、しっかり学仏しないからだ。自分自身を殺しているに等しい。そのため地獄に堕ちるのだ。反対にダイエットしている人も同様だ。それは自分自身の身体を傷つけているからだ。肥満ならもちろんダイエットしなければならない。だが適した体重は必要だ。

経典︰「無行無住。又亦無起不得内外。」

この数語は一体だ。何かが動くと思っても、実は動いていない。心が動いているのだ。私はしばしば例を挙げる。車に乗って車が走行している時、何かを目にすると、外のものは動いていると感じるが、実は動いておらず、車が動いている。そなたは車内に座っている。そなたは動いたか?動いていない。なぜ車のそばのすべてが動いていると感じるのか?それは心が動いているからだ。そのため目にしたものが動いていると感じるのだ。心が動いていないなら、何かを目にしても、動いていると感じることは絶対にない。

六道内での我々の動作、その速いか遅いかも、我々の心の動きと関係がある。天界では、人の目で見ると、非常にゆっくり動いているように見える。それは心の動きがゆっくりで、反応がゆっくりだからだ。いわゆる反応とは、神経の反応を言うのではなく、動きがゆっくりなのだ。そのためある天界では、一日の時間が、地球時間の100年、1000年にもなる。それはそこでの動きがゆっくりだからだ。そこでのゆっくりは、我々と比較してのものだ。そこではゆっくりだとは感じない。同じ道理で、我々人は心がひたすら動くのに慣れている。そのため我々は天界が非常にゆっくりだと感じる。だが実はそうではない。虚空内、宇宙内では、腕時計を身につけないし、時計というものがない。つまり時間の概念がないのだ。体内時計の感覚がある他は、目に見えるものは動かない。

どういう意味だ?一切の事情の変化は動いたことがなく、移動したことがなく、停止して不動でもないということだ。完全に我々の心のために、とてもたくさんの作用を生じるのだ。『華厳経』では「心は絵師(絵画の先生)のようだ」という。我々の心は非常に多くの様々なものを描き出せると言うことだ。しばしば例として取り挙げるように、それぞれの家の内装はみな異なる。なぜ異なるのか?それは我々の心が動いているからだ。今後関房が出来上がるが、関房内の家具、インテリアはすべて同じだ。だが少しすれば、一つ一つの部屋は違ってくる。必ず違ってくる。枕をこちらに置くものもいれば、あちらに置くものもいる。どの部屋も必ず違ってくる。それは一人一人の心の動き方が異なるからだ。すでにこのように設置していたとしても、誰かが必ず移動させる。それは我々が動かさずにはいられないからだ。それに慣れているのだ。

学仏で後ろの方まで修めての最大の矛盾は何だ?我々は習慣的に心を動かす。動かさないようにどのように訓練するのか?これは大問題だ。どれだけ念じ、どれだけ拝めば役に立つなどと思ってはならない。三昧を証できず、定の中でひたすら動く心を用いて念じているなら、いくらかの人天福報が得られるだけで、功徳はない。なぜダルマ祖師は「梁武帝に功徳はない」と仰せになったのか?ダルマ祖師は「不妄語」を守戒なさった。普通の人は皇帝に問われたら、「そうです!あなたには功徳があります」と答えるだろう。非常に多くの人がこの言葉を口に出したことがある。だが、明らかに功徳がないのに、なぜ功徳があると言うのか?ダルマ祖師はこのように言ったので、面壁九年(長い間わき目もふらずに努力を続ける)なさった。もし梁武帝を持ち上げていたなら、梁武帝は大喜びして褒美を与え、ダルマ祖師は国師となっていただろう。だがダルマ祖師は破戒できなかった。妄語できなかったのだ。そのため功徳がないと仰せになった。なぜ功徳がないと言ったのか?それは梁武帝が、自分は有行、有住と考え、自分は非常に多くを行なったと考え、自分は功徳大海に暮らしていると考えていたからだ。実際上、功徳とはどう言う意味だろうか?自分がないと言うことだ。

私は褚という姓の弟子に修法してやった。自分はない。そうでなければ彼を連れて来ることはできない。私はその場にも行っていない。どうやって彼の神識を連れて来たのか?この人はこんなにも腕白なのだ。どうして言うことを聞くだろうか?在世でも言うことを聞かなかったのだ。往生して初めて言うことを聞く。ようやくすごいと知る。そなた達は生きている時には仏菩薩と上師がどれだけすごいか理解しない。そなた達の眼中では、私はそなた達と同じ凡夫俗子だ。そなた達の心中では、私はそなた達と同じで眠り、食事する。だが私はできている。そなた達はできているか?できているなら批判しても良い。できていないなら、みな口を固く閉じ、適当なことを言わないように。私にとって良くないからではなく、そなた自身に悪業を植え付けるからだ。私とは無関係だ。

私は以前言ったことがある。祖師ジッテン・サムゴンも仰せになったことがある。すべての上師はそなた達の病を停止させることができる。だがそなたは精進しなければならない。精進とは何だ?教えを守り、修行し、改めるのだ。誰もが毎日金儲けしようと忙しい。だが正直に言えば、多くの人にはもともとその運命がないのだ。そなたを生かすのは、金儲けをさせるためではなく、修行させるためなのだ。修行しようとしないなら、業力はまたもとに戻ってしまう。褚という姓の弟子は突然亡くなったと多くの人が言う。実は少しも突然ではなかった。かつては一日中飲酒し喫煙していたのだ。ガンにならないことなどあろうか?ただ彼はとっくに皈依していたので、リンポチェの慈悲力が彼の病を押さえつけ、さらに彼は雑務を進んでしたので、業力が押さえつけられていたのだ。だが言いつけに従わなかったので、悪念が少しでも起きると、上師に対して悪念を起こし、上師の加持力が断たれてしまった。私が与えなかったのではない。そなた達を加持しないなどあり得ない。私の毎日の迴向はすべてそなた達と関係がある。だがなぜ役に立つ人もいるし、役に立たない人もいるのか?それはそなた達の心と関係があるのだ。私とは関係はない。

みな、はっきりさせよ。学仏は、誰かがそなた達に迫ったのではない。諸仏菩薩と上師が自分の欲望を満たしてくれることを望んでいるなら、入口さえない。なぜか?学仏が欲望の満足を望むなら、法王、本尊に私が先ず求めよう。いつになったらそなた達の番になるのか?そなた達の方が多く行なっているか、私の方が多く行なっているか?そなた達の供養の方が多いか、私の供養の方が多いか?そなた達は私より多くない。いつになったらそなた達の番になり、そなた達の全部の欲望を満足させられるのか?それは不可能な事だ。不可能な事なら、まじめに学仏することだ!おかしなことをせずに、あれこれ頭を働かせずに、少しは馬鹿になれ。仏菩薩と上師の前で少し馬鹿になってもどうと言うことはない。だが外の社会では馬鹿ではいられない。他人に侮られる恐れがある。そのため頭脳明晰で能力があるところを見せなければならない。だが学仏では不要だ。

「又亦無起不得内外」これは非常に説明しにくい。我々は「縁起」と言うのに、ここでは「無起」と言う。この言葉をどう説明したらいいのか?理解しなければならない。菩薩道を修める人は、非常に多くの因縁を衆生に作ったとしても、衆生に因縁を起こしてやることはしない。「こちらにおいで。いいことがあるから」とは言わないし、「言うことを聞かないなら地獄に堕ちる」とも言わない。それはそなたが決定しないなら、始めることはないからだ。私の口癖が「一切はそなたが決める」であるようにだ。そなたが決定しないなら、諸仏菩薩と上師が非常にたくさんの機会を作ってやったとしても、この機会は散逸して無くなってしまう。菩薩道を修める人は「こんなにもたくさんの善の因縁を与えてやったのに、決定せず、行わないなら、私は立腹する」とは考えない。そう言うことはない。「立腹しないと言うのに、なぜ罰するのか?」とそなた達は言うだろう。罰ではない。学びたくないなら、教えてどうするのだ?鄭という姓の弟子は「ついていけないのではないか心配だ」と言っていた。非常に遠慮深く聞こえる。

ここの「無起」とは縁起がないと言うのではない。続いては「無形無住」と言う。菩薩道を修める人は自分のたくさんの行為が衆生を救っているとは考えない。それは縁があるので心が動き、そのため衆生を救っただけだからだ。縁がないなら、動くことはないし、自分は毎日衆生を救っているとも言わないし、自分のために、この縁をわざわざ探したりもしない。それは菩薩道を修める人ははっきり知っているからだ。自分の福報が十分でありさえすれば、自然に衆生を済度させられ、福報がないなら、どんなに求めても得られないと。連れ戻されて来ても、やはり逃げて行ってしまう。わざわざチベットで大リンポチェに会おうとしても役には立たない。それはそなたが修められないからだ。

「又亦無起不得内外」と「不住心界見心如幻」。一切すべては因縁法で、縁起縁滅、縁生縁滅なのだ。上師と弟子の関係もこのようだ。弟子自身の願力と誓いの他は。灌頂の最後に毎回言うが、そなた達は本尊の加持を求める。これによりそなた達は「悅意生生世世侍奉上師」だ。なぜこの言葉があるのか?そなた達の心が堅固に定まらないのを予防するためだ。上師にとって、誰かが自分を侍奉するかどうかはどうでも良い。だが上師を侍奉するなら、上師は非常に厳格だ。それは正しくない、誤り、誤った方法を用いて侍奉するなら、その縁はそなたにとって良くないからだ。

今日のこの数語を、そなた達に感じさせるのは真に難しい。だがはっきりと言おう。これも空性について講じているのだ。「不得内外」我々は学仏する際に、外在の相に基づき、自分が良くなったと感じるのではなく、「あなたはとても荘厳です」と人に言われ、自分は良くなったと感じ、最近怒ることがなくなり、自分は改められたと考えるのではない。内なら、「今日はとても心地よく感じる。電流が通じたようだ」とは考えない。これはすべて誤りだ。身体のあらゆる感覚はすべて仮相だ。永遠ではなく、変化する。自分の身体に何かの感覚があるのは、非常によく修められているからだ、などと思わないことだ。例えば私が信衆弟子にポワ法を修める際、自身の身体の存在を私が感じたなら、彼らにポワ法を修めてやることはできない。私が自分の内在外在がすべて観音菩薩だと感じたなら、やはり彼らに修めてやることはできない。完全にすべては空性内なのだ。空性内でなければ、衆生の心を完全に理解することはできない。私の面前に跪き、山のようにたくさんのことを語る。それは本当か嘘か、私にははっきり分かる。私の心が動くかどうかだけだ。心が不動なら、そなたが何を言っても私は関わらない。心が動けば、一言で、その真贋がわかる。

出家弟子が一言言えば、私を信じているかどうかが分かるようなものだ。なぜ一言で分かるのか?上師の話しに口答えする。それは上師が間違っており、自分が正しいと思っていると言うことだ。私が戒律を理解していないと思っており、私が言い間違えたと思っており、自分は修行人で私は違うと思っているということだ。私は小器ではない。なぜ面倒を引き起こす必要があるのか?適当に「そうだ!とてもよい。実にまじめにやっている」ということもできる。だが、ダルマ祖師の「不妄語」を学んでいるのに、破戒している人を叱責せず、懲らしめず、関門を突破させてもいいのか?そなた達もこうだ。そなたが破戒していると知っているのに、関門を突破させてやるのか?このようにすれば、間違いであり、破戒だ。そのため私は絕対に引っ張り出す。学仏に来るのを恐れる人が多い。それは厳格過ぎるからだ。なぜ厳格にしなければならないのか?それはそなた達に輪迴を継続させたくないからだ。厳格にして当たり前だ。経典の仰せに基づき教えない訳にはいかない。

経典︰「三昧同等住。如是法說名三昧。」

上記のこの言葉をやり遂げられるなら、体悟して理解できるなら、真の三昧、つまり身口意の定は初めて同等住となる。どこに住するのか?清浄な法性に住するのだ。わざとらしい意識ではなく、考え出したのではない。釈迦牟尼仏は非常にはっきり仰せだ。自分で自分がすごいと言うなら、「不住心界見心如幻。観一切法等如法界。無行無住。又亦無起不得内外。」だ。この数語をやり遂げられたか?全部やり遂げ、悟ったなら、「三昧同等住」であり、こうして初めて身口意の大定同等が清浄な本性に住する。非常に難しい。学仏はお遊びではなく、適当で良いと言うのではなく、この数語をやりとげなければならないのだと今分かっただろう。どれだけの世の功夫が必要だろうか?

なぜ私には法座に上る資格があるのか?それは私が雄弁だからではなく、この数語のためなのだ。私はひたすら絶えず行なっている。止まったことがない。そのため身口意の入定を得ることができているのだ。変わってばかりおり、信用を守れず、言ったことをすぐに変える人。この種の人は修行できない。私は変わったが人を害していない、と言う人もいるが、これもそうだ。私は子供に、できない事を請け合ってはならない、請け合ったなら必ず行わなければならないと教えている。このような習慣を養わなければならない。日常生活で、我々はしばしば変わる。そなたの念頭も変わってばかりだ。どうして空性を修めることができるだろうか?空性を悟ることができるだろうか?執著が強すぎる人も不可能だ。

釈迦牟尼仏が『宝積経』で仰せなのはすべて中観だ。以前私は法王に「中観論を学ぶ必要はありますか?」と請示したことがある。法王は「不要だ。大手印を修めたのだから、そなたはそれで良い」と仰せだった。今ほんとうにそれで良いと分かった。中観論を理解せず、少しの空性も証せず、大手印まで学んでいないなら、私はこの数語について講じることはできない。これが何を言っているのか分からなかっただろう。またそなたに動くことを禁じ、そなたに住することを禁じていただろう。仏は我々に縁起性空をお教えくださるのに、ここでまた無起と講じる。ここには完全に問題はない。それは仏が仰せのすべての境界は菩薩の境界だからだ。そなたが菩薩道を修めるのに修める必要がある境界だからだ。行うのはそなたの動作が行うのではなく、そなたの心がこの境界を証できるのだ。この境界まで証できなければ、三昧と同等住にはなれない。証できなければ、すべての定はすべて偽りだ。いわゆる偽りとは、しばらく静かにすれば、心は安定するが、三昧定を得ていないため、修めた仏法は人天福報に過ぎないということだ。「私は今とてもよく念じられているので、嫁は妊娠して子供を産むだろう。観音菩薩は私によくしてくださるから」などと思わないことだ。

なぜそなた達に口答えを許さないのか?それは、少しでも口答えするなら、リンポチェが間違っていると考えていると言うことだからだ。私が間違っていると思うなら、私が講じる仏法も間違いだ。私が講じる仏法が間違いなら、そなた達が功徳の端っこに触れることができるだろうか?『宝積経』と言えば、自分がどれだけのことを誤っているかがどんどん分かって来るだろう。『地藏経』は「起心動念皆是業,皆是罪」と言う。我々の念頭が起きれば、仏の仰せとは少しの関係もなく、我々の心動と仏が仰せの慈悲心とは少しの関係もないと言うことだ。つまり彼女には慈悲がなく、そのため口答えするのだ。自分は慈悲を修められたなどと思ってはならない。出家して多年になるが、ある境界が現れれば、すぐに原形を現す。彼女は出家人だ。そなた達よりは良く、そなた達より煩悩は極めて少ないが、やはり破戒する。そなた達ならなおさらだ!毎日少し念じれば守戒していると思っているのか?

そなた達は必ず言うだろう。「学仏は本当にとても大変だ」と。だがなぜ私は大変だと感じないのか?私はそなた達の上師だ。私は少しも大変だとは感じない。そなた達は誰もが、とても大変でとてもストレスがかかると思っているだろう?道理は非常に簡単だ。そなた達は変えようとせず、変える気もなく、自分自身の考え方で学仏している。そなたの考え方は仏と何か関係があるのか?仏が仰せのことを、そなたは聞かず、自分の方法を用いている。皈依していると言うのか?学仏していると言うのか?していない。これがいわゆる、教えを守らないと言うことだ。

経典︰「如是長者。是名出家菩薩観浄定聚。」

上で言ったすべてのこれら境界を体悟でき、悟れ、出家菩薩道を修めたなら、ようやく清浄な定を観想でき、ようやく定の力量を集めることができ、ようやく智慧を開くことができる。集めるとはどう言うことだろうか?私はそこで一時間定し、念頭がないので、定が集まったなどと思ってはならない。凡夫俗子の定は、法身菩薩のように入定するとすぐに完全に定と言うことはあり得ず、大阿羅漢のように入定するとすぐに完全に不動と言うこともない。大迦葉尊者は現在鶏足山で入定なさり弥勒菩薩が来られるのをお待ちになっている。これは定境だ。この定はあっという間に現れるのか?そうではない。大迦葉尊者は阿羅漢を修め、少なくとも7回行ったり来たりなさった。7回の輪迴の後、この一生で釈迦牟尼仏に従われた。各一世の定の力が集まり、それがある時になり、定の力がすごいことになると言うことだ。

仏法は、ある日突然、我々を全く違う人間に変えてくれるというのではなく、時間をかけて、ゆっくりと累積する必要があるのだ。あっという間にすごくなるというのではない。それは不可能だ。ここでは非常にはっきり言う。前の方のすべての境界を証できなければ、自分自身の清浄な定を観する資格はない。清浄な定とは、何かの果位のためではなく、とても自然な入定なのだ。すべての念頭が停止して不動になり、すべての心が不動になれば、とても自然に清浄な本性に定する。これは、自分は入定する、とわざわざ、故意に意識するのではない。どう考えても、必ず一つの考え方がある。このようでなければ、清浄な定とは呼べず、そうでなければ集まることはない。

経典︰「復次長者。出家菩薩聞浄慧聚。」

上記で講じるのはすべて、我々の清浄な智慧を開くことだ。簡単に言えば、我々は本来この種の条件を具備している。だが各一世の輪迴により、我々の清浄な智慧は覆い隠されてしまっているのだ。仏法の薰陶、仏の教導を通して、ひたすら絶えず精進修行し、仏法を聞いた後、初めて清浄な慧はゆっくりと集まる。これこそ「後得智」だ。

「後得智」が集まった後でなければ、本来の清浄な根本智を開くことはできない。そのため「リンポチェが加持して、私の智慧を開いてくれた」等ではないのだ。仏は集めなければならないと仰せなのだ。どうして加持するだけで、すぐに智慧が開けるだろうか?こんなにもたくさんの悪業を背負っているのに。不可能だ!非常に多くの人が智慧を開くことを求めて来る。「智慧を開いてどうするのか?」と訊ねると、「同僚とうまく付き合います」と答える。全く驚くばかりだ。同僚とうまく付き合うために智慧が必要なのか?しっかり学問し、自身の品性を養えば、それで良いではないか。多くの人が智慧について勘違いしている。

経典︰「聞已応観。」

仏法を聞いた後、我々は静かに内観しなければならない。「内観する」とはどう言うことだろうか?上師、仏が仰せの仏法と同じかどうか?自己の心中の念頭をはっきり見きわめると言うことだ。同じでないなら、修められていないと言うことだ。「聞思修」とは、仏法を聞いた後に、自分自身の身、口、意が仏法に背いていないかどうかを思惟すると言うことだ。背いているなら、改めなければならない。背いていないなら、努力を続け、絶えず精進して修めて行かなければならない。退縮してはならない。鄭という姓の弟子の退縮を真似してはならない。退縮すればすぐに精進ではなくなり、精進がないなら、どこに六波羅蜜があるだろうか?六波羅蜜がないなら、どんな道を修めるのか?凡夫俗子道か?上師の願力は、衆生が輪迴しないよう救うことなのに、上師の歩みに従い学ぼうとせず、歩もうとしない。それで加持力があると思うか?

私のこの論理は非常に明確だ。「学びたくない、私はついて行けない、リンポチェのようにはできない」などと思ってはならない。私のようにするのはもちろん無理だ。だがそれでもやはり行い、受け入れ、後ろについて行わなければならない。長々と道理を語り謙虚ぶった君子を演じるのではなく。これではすでに破戒している。妄語だ。学びたくないなら、学ばないことだ。離れていってもどうと言うことはない。罰することはない。つまり聞くことがないのだ。聞いた後に思考がなく、考えることもなく、自分自身の欠点についてひたすら考えることもなく、「リンポチェが叱責する。何を怒っているのか?私は間違っていない!」とだけ考えている。間違っていないのが、間違いなのだ!

出家人であっても容易に戒を犯す。在家ならなおさらだ。自分自身で決定しなければならない、自己の信心を固めなければならない、となぜひたすらそなた達に伝えるのか。褚という姓の弟子は一生ボーッとして、口から出まかせばかり言っていた。だが彼はそれでも、リンポチェが救ってくれると固く信じていた。この点で彼は変わっていない。そなた達はこれさえ変わってしまっている。因果論から言えば、人がこの世を去る時、吐血すれば、絕対に三悪道に堕ちる。なぜ三悪道に堕ちるのか?それは「信はすべての功徳の母だからだ」。彼は上師に対して十分な信心を持っていたので、この功徳がすぐに起きた。仮に彼が夜中に死んでいたなら、数時間余分に苦しんだだろう。だが朝死んだので、私に連絡することができ、当然すぐに修法してやることができた!一切すべてはそなた達が行っているのだ。上師はすべての人を差別せず同じように救い、分別しない。そなた達の業力、福報に基づき、助けるだけだ。一旦そなたが拒絕すれば、もちろん拒絕する。

この言葉は明確に言っている。すべては「聞已応観」なのだ。自分自身で観しなければならない。観とは想うことではなく、しっかり見極め、言い訳してはならない。現在我々が犯す悪習はすべて、自分のために言い訳を探すことだ。「私は間違っていない。相手が間違っている」だが相手が間違っており、そなたが間違っていない、それこそが間違いなのだ。どこが間違いなのか?自我が重過ぎるのだ。今日学仏していようがいまいが、この複雑な社会で、いつか頭角を現すことを望むなら、客観的でなければならない。そうでなければ、たくさんの事を見極め、過ちを犯す機会が人より少ないと言うことはない。何かを学ぶためと言うように、仏法はこんなに簡単なものでは絕対にない。事実は我々の人生に非常に大きな助けになるのだ。

経典︰「何等名為清浄慧聚。是菩薩応如是修学。」

上記の仏の仰せの方法に従い修行し仏法を学習する。自分自身の考え方、学問、経験、観感を用いるのではない。仏法、仏が仰せの方法に基づくのでないなら、自分自身の方法を用いるなら、絕対に過ちだ。この女性出家弟子は私の門下に皈依しているので、私はとても厳しい。だが私は戒律から彼女を見る。この事から見るのではない。この戒を守るなら、このようにすべきではない。なぜなおも発生するのか?上師を尊重せず、三宝を尊重せず、戒律を尊重しないので、自然に犯戒するのだ。彼女はまだ破戒まで至っていない。犯戒と破戒とは異なる。「犯」とは、この戒を行なってはならないのに行うと言うことだ。だがまだ破ってはいない。

経典︰「知於縁法分別智。」

この言葉は非常におもしろい。菩薩道で分別心があってはならないのに、なぜここでは分別智について言うのか?それは菩薩道を修める人は、一切は縁に従い来て縁に従い去るとはっきりと知っているからだ。縁はどうやって来て、どうやって去るのか、非常にはっきりと分別する。この分別智でなければ、この智をどんな時に多めに用い、どんな時に少なめに用い、さらには不動、不用の時もあると、理解することはできない。

その人が決定を下さないなら、私は知っていても言わない。ただ先ずその人のために何かを整えるだけだ。分別智とは、智慧を用いて、誰を先に救い、誰を先に助けると分別するのではない。その人の縁では、どのような方法を用いれば、その人にとって便利なのかを分別するのだ。だが適当なのではなく、その人が比較的受け入れられるものなのだ。そのため我々はその人の縁がどこなのかを必ず知らなければならない。例えば褚という姓の弟子は元々はひたすら死を受け入れようとしなかった。娘のことを心配していたからだ。私が、娘の面倒は見ると言ったところ、少し早くこの世を去った。ガンの苦しみを受ける必要もなかった。彼は全く何の苦しみも受けなかった。ただ少し身体に不快を感じていただけだ。ベッドの上で痛みに苦しみのたうちまわっているのとは比べものにならない。二人目の弟子は自分の二番目の兄のことを言った。何を泣くことがあろうか?彼ら家族は私を全く信じず、私を神明のように拝んでいた。二人の弟子は二人ともガンだ。褚という姓の弟子のガンは、彼女の二番目の兄より深刻だった。彼は今年になって病になるはずではなかった。一昨年から不快を感じ始めていた。

この分別智は上師、菩薩がそなた達を分別するのではない。そなた達の縁法に基づき、そなたに違う程度の救い、教授を与えるのだ。非常にたくさんの人がポワ法を求めるが、私は教えない。それはそなた達の程度がまだ至っていないからだ。どうしてポワ法が教えられるだろうか?そなたの縁に基づき、生じたものに基づき、そなたの縁法をどのように分別するか、この智慧でどのようにそなたを助けるか。程度がまだ至っていないのに、無理に仏法を教え、救おうとしても役には立たず、反対にそなたは謗仏してしまう。「なぜ修められないのか?私心があり、全てを教えてくれていないのではないか?」と思うだろう。分別智は不公平な見方で衆生を見るのではなく、この縁を分別し、この智慧を用いて彼を救うのだ。

経典︰「弁智。」

弁智とは人と仏法について論じるのではなく、仏法を説く時のことだ。この弁論とは言い負かすのではなく、仏が仰せの仏法の真の涵義を説明して衆生に知らせることだ。

経典︰「疾智。」

衆生が問うた問題について、非常に速くすぐに反応する必要がある。然もなくば言い負かされてしまう。例えば、昨日来た人が娘がうつ病になったと言った。相手が話し終わった後、「医者に掛かるのに、本人は行く必要があるか?」と私が訊ねると、「必要があります」と言う。私は「それなら仏菩薩に御目に掛かるのには不要なのか?」と訊ねた。これこそ疾智だ。私は非常に素早い智慧で彼に対処し、三宝に対するその不恭敬の心を打破した。たくさんの人が、来るだけで良い、リンポチェは神通があるので問題を解決してくれる、と思っている。これこそ不恭敬だ。自分が思うことを、リンポチェはできなければならない、と考えている。例えば、その人のために念じるなど望み通りにしてやった結果、望むものが得られなければ、「知っていれば従わなかったのに。時間と移動の無駄だった」と言い始める。私にこの種の疾智がないなら、その人に言い負かされるだろう。例えば、以前ある勉強嫌いの子供が精神病を装っていたが、私の面前に出た時、私が大きな声を出したところ彼は目を見開いたので、私は「これ以上フリをするな!」と言った。彼は本当に病気のフリをしていただけだった。その後は正常になった。これも疾智だ。

例えば、以前ある人が実家の家族を連れて訊ねに来た。本当のように泣き、夫が浮気している等とひたすら言い、実家の家族も彼女のためにあれこれ言っていた。私は彼女を見て「そなたには彼氏がいる」と言ったところ、彼女は「いない」と言う。私はさらに「そなたには彼氏がいる」と言うと、彼女はやはり「いない」と言う。私はまたさらに「そなたには彼氏がいる」と言うと、彼女はようやく「いる」と言った。この種の智慧がなく、同情し彼女を助けていたなら、どうだっただろう?これはどこから来るのか?縁法に基づき分別智、弁智、疾智が生まれるのだ。そのためそなた達出家人は、仏学院で学んだことがあるので度衆でき、人に仏法が講じられるなどと思ってはならない。この種の程度まで修めていないなら、不可能だ。

衆生には八万四千種の煩悩がある。種々様々だ。一つ一つのことについて解決してやらなければならない。そんなに簡単なことだと思うか?これら出家衆は每週土曜日私の側で、私が一人一人を救う方法は異なることを知っている。叱責することもあるし、おだてることもあるし、追い出すこともある。種々様々だ。この智慧がなければ、本当に言い負かされてしまう。神がかりなど全くしていないのに、やって来て、自分は霊感があると言うものもいる。本当に霊感があるなら、それでも道場に入って来られるだろうか?

経典:「衆生智。」

衆生の智慧を言うのではなく、衆生の智慧を理解するのだ。六道衆生にはこの種の智慧がないことを理解しないなら、どのように六道衆生を救うのだ?こんなにもたくさんの人が会いに来る。一人一人の考え方と要求はみな異なる。昨日の家族は山のようにたくさんの要求をしていた。他の人なら、ガンに罹っているのだから、先に加持しようと思うだろう。だが私は加持せずに、先ずは叱責する。あれこれ面倒を言ってくる人もいるが、そんな人に構っている時間は私にはない。そのため弟子とおしゃべりさせる。これも疾智だ。ある出家弟子はよくしゃべる。とても上手だ。普通はおしゃべりすれば、再び会いにくることはない。

経典:「攝外衆生智。」

本来は外道を信じていた門外漢で学仏していなかった人は、この種の智慧を用いて摂受する、と言うことだ。そのため私に叱責されたことがある人はみな戻って来る。叱責されたことがないものは、返って戻って来ない。それは私はその人の問題を叱っているからだ。これこそ前の方で言った衆生智、弁智、疾智だ。これらを合わせなければ、彼を摂受することはできない。

経典:「如是長者。出家菩薩観浄慧聚。復次長者。出家菩薩応如是学。」
有了這些條件,菩薩才能夠觀到清淨的智慧,能聚起來。如果沒有學到這些東西,就沒資格出來度眾。度眾不是靠一本佛經講到底,看他生病就叫他唸《藥師經》、最近有特殊體質就唸《地藏經》,這都是信口開河、亂講話,很不好。經典講得很清楚,你都有做到了才會得到清淨的慧聚起來,才能夠用這個方法去學習菩薩道。
これら条件がないなら、菩薩は清浄な智慧を見て、集めることはできない。これらものを学んでいないなら、度衆する資格はない。度衆とは、一冊の経典に頼って講じるのではなく、相手が病気なら『薬師経』を念じるよう言い、最近特殊な体質があるなら『地藏経』を念じる。これはすべて適当で、無茶苦茶言っており、非常に良くない。経典はとても明確に講じている。すべてやり遂げたなら、清浄な慧を集めることができ、そうでなければこの方法を用いて菩薩道を学ぶことはできない。

経典:「所謂慧者名無繫縛。」

真に智慧がある人は世間の種々の事情に縛られ、牽制されることはない。私は仏法弘揚を始めてから現在まで、弟子でないものの供養は固く断っている。私は有名になるのを好まない。今に到るまでそうだ。私が開発した智慧は衆生に利益するためで、名と利のためではない。私は縛られないということだ。それは縛られないなら、空性の智慧は絶えず累積し、そうでなければ衆生を広く済度することはできないからだ。ほんの少しの人ではない。いかにして衆生を済度する能力が得られるのか?仏の仰せのこれら条件をクリアしなければならない。できているだろうか?と自分に問うてみよ。できていないなら、おとなしく、言うことを聞くのだ。

経典:「以無身故無所執持。」

これは我々の肉体が無くなると言うことではない。我々がなおこの世界にいさえすれば、この肉体は存在する。だが仏はなぜ、この身体はない、と仰せなのか?これは我々のこの身体も業力により生まれ、無常で変動するものだと言うことだ。そのためこの身体に執著する必要はないということだ。例えば、自分はとてもよく念じているので、老いるはずはないと思っており、自分は非常にたくさん念じているので、病気になるはずがない、または自分の相は良くなるはずだと思っているとする。これはすべて自分の身体のある部分に執著していると言うことだ。

簡単に言えば、菩薩道を修める人は自分の身体の変化は縁生縁滅だとはっきり知っており、福と智の累積、集積は自分の身体に変化を生じさせるとはっきり知っていると言うことだ。この種の変化は必ず良いとは限らないし、必ず悪いとも限らない。一切すべては縁なのだ。一切すべては縁なのだから、煩悩心を起こさない方が身体には良い。人はなぜ健康を害するのか?それは山のようにたくさんの煩悩があるからだ。煩悩が起きれば、病はあっという間にやって来る。褚という姓の弟子は、ひたすら人を騙していたが、最後の方では騙せなくなり、一日中イライラしていた。そのためガンの毒素があっという間に非常にたくさん増えたのだ。医者もこう言っていた。精神的に落ち着いているなら、ガンの毒素は減少し、精神的に不安定なら、毒素は増える。

謝という西洋医である弟子は「確かにそうです。非常に多くの精神と身体の内分泌と構造は反応しています。そのため医学における、いわゆる身心症とは、身体と精神が相互に影響しあっている状態です。もちろんガンもこの面での問題です。ガン患者はしばしば精神的に不安定で、または何かが発生した時には状況は急転直下に変化します。非常にたくさんの状況があります」とご報告申し上げた。

リンポチェは開示くださった:私は以前皮膚ガンになった時も、平常な精神状態で日々を過ごしたので、ガンは悪化しなかった。ガンに罹るとびっくりしてしまい、ガンによって死んでもいないのに、自分はすでに死ぬほど怖がっている人がいる。これはどこから来るのか?縁と因果を信じるかどうかだ。受け入れる、または共に生存するというのではない。このようなあやふやなことを言うのではない。これは本来そなたの業力なのだ。振り払おうとしても振り払えない。

仏は何度も仰せだし、私も何度も言ったことがある。仏はそなた達の業力を直接転動させてやることはできない。加持できるだけだ。それにより、そなたは福報を累積する非常にたくさんの機会を得て、仏法を学習するとてもたくさんの機会を得ることができる。教えを受けた後は自分で行わなければならない。そうでなければ、自分自身の業力を転動することはできない。教えられたのに、従わず行わないなら、どうして転動するだろうか?仏は因果に背くことはできない。上師もそうだ。そなた達は必ず言うだろう。それならなぜ褚という姓の弟子にポワ法を修めてやったのだ?と。それは彼は仏寺で雑務を行い、それが大変だったからだ。これこそ彼の福だ。

なぜ法本中では上師を侍奉しなければならないと言うのか?それこそこれだ。そなた達は自分はとても忙しい、とてもたくさんの事があると言う。それなら私にも分からない。そなたが最も私を必要とする時、私は突然いなくなり、見つからないだろう。信でも良い、不信でも良い。そなた達次第だ。

経典:「無動無住。無形無相。」

菩薩道を修める人の心は動かないし、そこに住することもない。唯一動くのは衆生が祈求する時だ。衆生が祈求しないなら、助けてやろうと思っても、どうしようもない。無住とは、心がある境界に住していて出て来ないと言うことだ。釈迦牟尼仏はかつて「禅定を捨てなければならない」と仰せになったことがある。それはそなたの心が禅定に住しているなら、衆生利益に来ることは当然あり得ないからだ。例えばポワ法を修める。有形有相が必要なら、衆生を救ってやることなどできないし、こんなにも遠く離れているのに、いつもと同じように頭頂梵穴に穴を開けてやることなどできはしない。この力は当然慈悲の力だ。だがポイントはこれら段階まで修めることだ。この程度に至れば、一切の相は観想を通して来ているのであって、観想が終われば無くなってしまうと言うことがはっきり分かり、ひたすら追究することはなくなる。

無形無相のもう一つの解釈は、我々が目にする一切の現象の形状と様子はすべて我々が考え出したものだということだ。例えば、外国のある地方では、男は非常に太った女性を好む。100キロ以上が好ましい。彼らはこの相を好むのだ。台湾ではみなダイエットする。だがあちらでは体重をひたすら増やす。18世紀欧州のある有名な女性は、とてもたくさんの男性に追い求められていた。ある時私はその人の写真を見たが、現在の我々が好むタイプでは絕対になかった。それはその女性は髭を生やし、しかも体型も非常にふくよかだからだ。だがその時代の男性はこのタイプを好むのだ。つまりこの種の相、形に執著するということだ。

押し戻すとの意味は、どのような形相を好むかは、すべて自分自身で考え出したもので、どんな形相を好まないかも、自分自身で考え出したものだということだ。私はしばしばいう。菩薩道を修める人は良い悪い、貧富を分別しない。衆生が求め因果に背かないなら、必ず助ける。それはここから来ているのだ。私がこの相に拘り、金持ちなら多めに助ける、というなら、それは誤りだ。この種の形に拘り、この人は学仏人らしいので多めに助けよう、というなら、それも誤りだ。その人の形は学仏人らしくないかもしれないが、実は学仏人だということもある。

観音菩薩はマハーカーラを済度させた。マハーカーラの相はとても恐ろしい。だが観音菩薩は彼を済度させるために、彼が最も好む女性の相を現し、彼を降伏させた。そのためマハーカーラは現在チベット仏教四大教派の最も主要な護法となっている。中国語では大黒天という。観音菩薩が形相、身体に執著していたなら、いかにして変身して見せただろうか?観音菩薩は衆生の心を知っておられたからこそ、変身して見せることができたのだ。彼が求めるものを知っておられたのだ。

仏法では「以欲勾之」と言う。これは欲望を満たすことではなく、一時的にそなたに与えるのだ。私がキャンディを与えるようなものだ。キャンディを食べれば甘く感じる。続いては棍棒が出て来る。ひたすら欲望を満たすのではないのだ。ひたすら欲望を満たすのも、正しくない。

経典:「無生無行。如虚空故。」

一切の現象について、生じた、動いたようだと感じるが、そうではなく、虚空のようだ。虚空は動いたことがなく、変わったこともない。突然星が増えるのは因縁法だ。星が消えるのも因縁法だ。人が病に罹るのも因縁法だ。簡単に言えば、菩薩道を学ぶ人の心が、もし非常に複雑で、煩悩が非常に多く、自分自身の念頭が非常に重いなら、非常に修め難い。それはそなたの観念一つ一つがすべて自分自身のためだからだ。それでは非常に修め難い。それは自分にとってとても重要だと考える事を捨て去ることができないからだ。ある面で、自分の利益と衝突すると感じたなら、すぐに仏法を捨て去り、約束を守らない。

経典:「長者。若如是観名為菩薩住於出家。」

上記の一切が講じる通りに一切の行為、身口意を観しないなら、「菩薩住於出家」と言うことはできない。出家相を現せば出家衆、出家菩薩だと言うのではないと言うことだ。在家相を現す人であっても、仏が教える心の境界をできているなら、中観内では出家菩薩ということができる。できていないなら、出家相を現していても出家菩薩ではなく、できているなら、在家相を現していても出家菩薩だと言うことだ。そのためそなた達はみな出家菩薩ではなく、出家の凡夫俗子だ。それは中観、大手印、空性まで証していないからだ。そのため一般の凡夫俗子なのだ。

一般の凡夫俗子であっても構わない。教えを守れば、いつか必ずできるようになる。仏は一気に天に登るとは仰せでない。ゆっくりと累積し、集めると仰せだ。ひたすら絶えず行うのだ。ここでは非常にはっきり言う。菩薩道は出家でなければ修められないと言うものではなく、在家でなければ修められないと言うものでもない。心の境界でできており、悟れているなら、それは菩薩道なのだ。非常に簡単だろう?どうだ?阿羅漢修行より簡単だ。だがこの簡単が最も困難なのだ。それは我々が認識する世界と衝突するからだ。

我々は持つことに慣れている。捨てられない。自分が知っている、擁している、分かっていると考えている事を捨て去れない。捨てられないなら、空性まで体悟することは永遠にできない。空性とはいかにして来るのか?リンポチェがひたすら加持すれば空性があるというのではない。菩薩道修行の第一歩は資糧累積だ。福徳資糧が十分でなければ、加行道(共と不共四加行)してやることはない。加行道を修めれば、ようやくゆっくりと空性が見えるようになる。空性が見えて初めて修道(成仏の道)だ。

そなた達は現在なお資糧累積の段階だ。不共四加行をたくさんの人が求めて来るが、私は簡単には授けない。自分が学んだものを簡単には与えない、と言うのではなく、菩薩道修行では、福慧資糧を修めなければならないとはっきり言うからだ。福慧資糧を修めなければ、加行道を学ぶ資格はない。特に不共四加行は、如法に修行を満了すれば必ず瑞相があると非常にはっきり言う。必ず瑞相を得るためには、福慧資糧は必ず十分でなければならない。共の四加行は必ず聞かなければならないのだ。

今では多くの人がみな、共の四加行を私がかつて開示したことがあると忘れており、すぐに不共四加行を求める。自分はすごい、不共四加行を理解したと思っているのだ。昨日ある弟子が不共四加行を求めてきたので、私は一ヶ月以内に、共の四加行の開示を聞くように要求した。私は共の四加行を開示するのに9ヶ月を費やした。一週間にたったの2時間、計56時間の開示だ。一ヶ月で聞き終えられる。なぜなら一日は24時間あり、一ヶ月は720時間あるからだ。余裕綽々のはずだ。聞き終えられないなら、学びに来てはならない。

なぜ共の四加行を聞かなければならない?それは共の四加行は顕教の基礎だからだ。顕教の基礎がしっかりできていないなら、何を以って不共四加行を修学するのか?何を以って密法を学ぶのか?私は本当に適当ではない。それは私が、自分はどのように学んだかが明確で、そなた達がどのような方法を用いて学ばなければ得力できないとはっきり分かっているからだ。拝み、念じ、行えば不共四加行と言うのではない。

あの出家弟子はなぜ口答えするのか?それは不共四加行を見下しているからだ。ただの懺悔だと思っているのだ。不共四加行の懺悔は、そなたのためではなく、自分がなぜまだ菩薩道を修められないのか、なぜまだ衆生を救えないのかを懺悔させるものだ!十万遍拝めば良くなると思っているのか?うまく修めているのか?こんなに長く学んでいるのに、まだ衆生を救えないと慚愧を感じなければならないのだ。四加行はこれを説くのだ!福徳資糧がないなら、何を以って菩薩道を修めるのか?いくらかの金を供養すれば福があると思っているのか?

リンポチェは開示くださった:学び、菩薩道を修めるなら、この一生で成就が得られるかどうかに拘ってはならない。だが釈迦牟尼仏の教えを重視し、心に刻み、始めなければならない。自分はできないと考えてはならない。自分はできないと言うなら、できない。それはそなたが考え、そなたが決定するからだ。どの仏もすべて、菩薩から修め仏果まで証されたのだ。飛び級した方はおられない。絕対に一地一地菩薩と言うように修めて行かれたのだ。仏は『宝積経』で菩薩道を修める心と条件を非常にはっきり仰せで、我々にお伝えくださっている。仏は、できるか?とは仰せでない。如是学でなければ出家の菩薩ではないと、仏は非常にはっきり仰せだ。如是学でないなら、手の上に百個の火傷の跡を作ったところで、やはり菩薩ではない。

どうやって如是学するのか?言いつけに従い、一歩一歩次第に従い行い、少しずつ絶えず止まることなく行わなければ、出家菩薩まで証することはできない。こうして初めて、自分の転業ができ、自分を生死解脱させ、衆生を生死解脱させてやることができるのだ。そなたが菩薩道というこの道を歩いていないなら、なおも加護を求め、あれもこれも求めるなら、仏法は少しの小さな欲望を満たしてやることしかできない。絕対にこの一生でそなたの業力を変えることはできない。なぜ変えることができないのか?それは教えを守らず、行わないからだ。行わないで、絶えず人天福報を累積するだけなら、次の一世でなければ用いることはできない。この一世では用いることはできないのだ。みなしっかり聞くように。仏が仰せなのだ。

これはもうすぐ講釈が終えられるだろう。あと二週間ぐらいで終えられる。これはとても、極めて重要だ。菩薩道を修学する人はすべて、仏がお教えの方法を心中に固く記憶し、自分自身を甘やかしてはならない。自分を甘やかしても、リンポチェは追い出さないが、この後の法はおそらく伝えないだろう。だが法会に参加することはできる。この一生で菩薩道というこの道を歩まないなら、そなたの業力が転動することはあり得ない。菩薩道を修めなければ、この一生の業を転じ、無量の功徳を累積することはできない。

そのためこの一生で在家相を現していようが、出家相を現していようが、『宝積経』内の釈迦牟尼仏の教えに基づき学び、行い、聞き入れ、思惟しなければならない。そうすればいつか必ず菩薩果位を修めることができる。この一生でやり遂げられると保証することは私にはできないが、そなたがこのように行うなら、少なくともそなたは補位菩薩だ。阿弥陀仏のお側に行く機会は必ずある。あちらに行かなければ、真に菩薩道を修めることはできない。

自分はこの一生でとても敬虔で恭敬なので、阿弥陀仏のお側へ行けるなどと思ってはならない。先ほど二人の弟子が出てきて語ったが、一人に私はポワ法を修めてやり、もう一人には修めてやらなかった。違いは供養の多寡ではない。上師に対して恭敬心があるかどうか、または加護として上師をひたすら利用していたのかだ。私ははっきり分かっており、しっかり理解している。生まれる果報と福報はそなた達が作り出したのだ。私が作り出したのではない。そなた達の果報を変えてやることは私にはできない。だがそなた達の果報を軽くしてやることはできる。これは絕対にできる。

学仏は間違いなく、我々が生生世世に多くの心力を投入しなければならないことだ。適当に過ごす日常生活に関することではなく、気分良く過ごすため、または特定の目的のために仏法を聞きに来るのではない。現在この種の社会で、『宝積経』正信仏法を講釈できるのは、ほとんど聞いたことがないし、ほとんど行おうという人もいない。困難だとか、大変だとかではない。信衆が逃げ出してしまうのを恐れるのだ。経典に基づき厳格に執行するなら、そなた達はみな逃げ出してしまう。そのためリンポチェは方便の門を開けているのだ。

菩薩道を修める気がないのに、それでも来るなら、ただの信衆弟子となるしかない。菩薩道を修める気があるなら、もちろん弟子だ。信衆というこの二文字はなくなる。上師から離れない限り、生生世世で上師はそなたを救ってくれる。信衆弟子であるだけなら、この種の関係が存在しないのだから、この一生が終われば、さようならだ。絕対に私を見つけることはできない。私が虚空中にいれば、どうして見つけられるだろうか?みなしっかり考えるように。仏法を戯れのように扱い、娛楽だと考えて、自分でしっかり聞き取り、理解してから行おうと考えてはならない。

信衆となったばかりの頃、私も分からなかったし、分かるかどうかを深く考えることもしなかった。ただ、教えを守り行えば、それでいいのだ。そうしているなら、こんなにもたくさんの滅茶苦茶な事が起きるだろうか?滅茶苦茶な事はすべてそなた達が作り出し、考え出したのだ。寶吉祥は清浄な道場だ。それは容易に作り上げられるものではないし、維持していくのも容易ではない。なぜか?非常に複雑だ。上師の心は、このような方法を継続して維持していく必要はあるか?弟子はこの方法を認めて受け入れているか?私の心が継続して維持されているとしても、弟子に心がないなら、維持していくことはできない。双方向のものなのだ。

リンポチェが厳しいのは、それはそれだ。そなた達が決めないなら、私がどんなに厳しくとも役には立たない。だが私はとてもはっきりとこの種の方法を用いる。我々のこの一生のすべての運命と業力はそうでなければ転動させられない。別の方法はないのだ。自分は毎日非常に真面目にひたすら念じているなどと思ってはならない。心が正しくないなら、どれだけ念じたところで役には立たない。仏の教えに基づき学び、念じなければ、ゆっくりと作用を生じ、学仏の業力を転動させることはできない。そうでなければ再び過ちを犯すだろう。そなた達、先ずは自分でしっかり理解し、仏法上で再び過ちを犯してはならない。少なくとも言いつけに従うように。言いつけに従わなければ、過ちを犯さず、進歩することはない。一日中リンポチェに求めるのではないのだ。

当然私に求めても良い。だが間違っても、大したことはない、懺悔すればいい、などと思ってはならない。当然そなたの懺悔は受け入れる。だが問題はそなた自身にあるのだ。なぜ学仏しても一日中過ちを犯すのか?過ちを犯すべきではない。それは仏法を娯楽だと思っているからだ。聞きたければ聞き、聞きたくなければ聞かない。みなしっかりと聞くように。私が叱っているのではない。経典が説くのだ。経典が講じる一切、仏がいかにして行えとお教えくださったかを私は必ずそなた達に伝える。そのため私も同様に、いかにして行えとそなた達に教える。

できなくとも大丈夫だ。だが心は変えず、改めず、努力して行わなければならない。自分で言い訳を探してはならない。鄭という姓の弟子は言い訳を探していた。退縮してはならない。自分はできないというなら、それならできない。それは懈怠だ。私は大変だとは思わないのに、なぜそなた達はこんなに大変で、こんなに難しいと思うのか?それはそなた達がなおコソコソしており、このように行うことが、自分自身にとって良いことがあると思わず、自分の今の状態はとても良いのに、なぜ改めなければならないのか?結局のところ自分にとってどんな良いことがあるのか?と思っているからだ。

私は36歲から学仏を始めたが、将来どうなるかは分からなかった。本当に分からなかった。嘘をついていない。かつて何度も言ったことがある。いつか必ずリンポチェになれるとは考えたこともなく、いつか必ずこんなにもたくさんの人を済度させられるとは考えたこともなかった。学仏を始めたばかりで、どうして分かるだろうか?私は神通がなく、自身の将来がどうなるかなど分からなかった。正にそなた達が「学びに来てどうするのだ?何も見えない!せいぜい私を済度させるくらいだろう!」と言うようなものだ。

如法に行うなら、必ず見えるだろう。自分のカードを持ってはならない。世間にはとても多くの付仏外道の方法がある。みな捨て去らなければならない。いわゆる正信仏法とは、一字一句すべてが経典から出ているものだ。そうでなければ正信仏法とは言えない。その人が講じる内容が、経典から出て来たものではないなら、受け入れることができるかどうか、みなよく考えてみよ。経典では付仏外道—表面は仏法だが実際は外道(我々の生死解脱を助けることはできない)と言う。釈迦牟尼仏がお教えの方法に基づき、思想の面から先ず改め、ひたすら絶えず行うなら、必ず生死を解脱することができる。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率いてアキ護法と迴向儀軌を修持くださった。

リンポチェは開示くださった:6月25日は祖師ジッテン・サムゴンの紀念日だ。6月14日、我々は尊勝なる直貢チェ・ツァン法王に道場において主法くださるよう恭請申し上げる。

« 昔の法会開示法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »


2020 年 07 月 26 日 更新