尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年8月1日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて自ら殊勝な長寿仏法会を挙行された。灯を点して仏に捧げた後、参加者全員に貴重な仏法の開示を下された。
本日、尊勝なるチェ・ツァン法王の御誕生日により、我々は長寿仏を修めて法王に差し上げる。法王のご健康・ご長寿・ご幸福をお祈り申し上げる。1982年、当時私がまだ顕教を学んでいた時に、法王との縁が結ばれた。私の親友からあるチベット人の法王が仏教寺院の建設のため募金活動をしていると聞いて、私は10万元を寄附すると友達に頼んだことが、きっかけとなった。当時、その友達は私を法王と会わせようと手配してくれていたが、最初、私は「供養だけでいいから、会わないようにしよう」と言ったが、友達は諦めずに勧めた結果、私は法王を自宅に来ていただくよう招くことに至った。
あの日、法王が特別な加持を授けて下さったと、私は覚えている。普通、密宗の行者は自分が使っている数珠を人に触らせないようにしている。あの日、法王は特別に私に、法王自身の数珠を持つよう要求してきた。片方を法王が持ち、もう片方を私に持たせながら、法王が呪文を唱えていた。熱い気が数珠を通じて私の全身に伝わってきたと感じた。それ以来私は離れられず、今まで法王に仕え仏道修行している。あっという間に、数十年が経ってしまった。
法王に於いては生涯でたくさんの段階があって、衝撃的な出来事や波乱万丈な人生を経験してきたが、法王は教派の為に揺るぎない決心を持ち、衆生の為に仏法を広め続けている。今は76歳という御高齢でも、テキストや仏典などの整理に忙しい毎日で、法脈が続いていくよう努めている。我々の直貢噶舉は、この度その法脈が再び隆盛になれたのは、チョン・ツァン法王の他、チェ・ツァン法王が絶えず海外で仏法を広め続ける努力を欠かせなかったからである。こうして、より多くの人々に直貢噶舉の存在が知られるようになった。法王の弟子としての私は、迷わず仏法を広め続けるに違いない。世間で何があろうと、私は決して仏法を広めることを止めない。どんなことが私に降りかかったとしても、仏法を広めるという願いは、途切れたりしない。
今生で直貢噶舉という法脈に帰依できたことは、宿世の因縁があることによる。帰依しても、今生で成就が得られるとは限らない。1997年、私が弟子を受け入れることを、法王より許可してくださって以来、上師からリンポチェになった過程では、ひたすら私に仕え仏道修行する弟子もいれば、様々な原因で離れた弟子もいる。留まろうと離れようと、今生で直貢噶舉や私と法縁を生じたことがあれば、このようなご縁は生生世世に存在する。離れた人が仏法を破壊するなり、上師を誹謗するなりしたら別論だが、こんな場合に限ってご縁は切れているのだ。
仏法を広める道では、順風満帆なわけではなく浮いたり沈んだりするものだ。様々な妨げや挑戦に臨んだものだが、幸いなことに諸仏菩薩・歴代伝承上師・護法と上師からご加護されたお蔭で、歩み続けられるのだ。
数年前に、法王は私に自分自身の修行による法脈のために寺院を建てよと要求した。仏教寺院を建てることに対して、最初は私には大した意欲がなかった。何故なら、今生この世間でやってきたのは、返すべき恩・怨・仇・恨を返済する他、これ以上業力を引っ張ることのないようにするつもりだからだ。だが、我が根本上師のチェ・ツァン法王が諦めずに勧めた結果、私は寺院を建てる責任をになうようになった。よって、この寺院は当然直貢噶舉教派に属する寺院の一つだが、法王自ら私に言い付けたこととして、ある意味では、私が創った法脈のものにも属されるはずだ。
法王が私に施した様々な恩情は、世間一般の事物で返す程度のものではなく、仏法だけでしかこの恩情を返せない。寺院を建てるには、既に多くの方々に応援されながらも、将来寺院の住職として、私自身も出来る限り、この事自体と金銭面で、絶えず支えたいと考えている。
本日修めた此の法はいわゆる長寿だが、人の壽にはなお限りがある。長寿という事の最も大事な意味としては、この法脈を長らく世間に留め広大なる衆生を利益するということだ。そのため、教派を更に発展させていくようと願って、法王のご健康・ご延命を祈りますように、長寿仏を修めたいと思う。寶吉祥の弟子として、あとで長寿仏真言を誦持(じゅじ)するが、少なくとも一人1000遍唱えるようにしよう。更に、これを全部法王に供養する。
(リンポチェは修法され、並びに参列者全員を率い長寿仏本尊呪を唱えられた。続いて、薈供と供茶の儀軌が進行され、参列者全員はリンポチェに加持された供え物を一人一袋頂くと共に、法会中に上師・仏菩薩と共に食するという得難く殊勝な因縁を得られた。)
(修法が円満に終わり、アキ護法と廻向儀軌を修めた)
リンポチェは引率の男性出家衆を面詰した:声が響き渡るからと言って、唱えると仏菩薩が感動すると思ってはならない。上師を尊重しなければ、いくら唱えても役に立たないだろう。空性慈悲心まで修めなければ、声が如何に響き渡ったとしても役には立たないだろう。
引率の出家衆を顕教では「維那(いな)」と呼ばれるが、即ち「唯々諾々」で、言いなりになることだ。住職が唱えよと言えば唱えよう、止めろと言ったら止めるということだ。代わって、チベット仏教では、リンポチェが唱えよと言えば唱えることで、止めろと言えば止めることだ。そなたが他の弟子に確認しても構わないが、そなたが率いて唱えると彼等はイライラする感じがあるが、私が率いて唱えると涙が零れるという。
リンポチェは引き続き開示された:末法時代では、自分がよくしたからと言って正しいと思ってはならない。実は、如何なる妨げも現れるのだ。リンポチェがまだ生きているとはいえ、皆が私に会うのはなかなかできないことだ。疫病の発生によって、会えなくなったからだ!ほら、前々から、リンポチェが生きているからきっと会えると思ってはならないと屡々勧告しているようにだ。きっと誰も信じなかっただろう。誰もが独り善がりで、自分の方法で仏道修行している。人道にいるリンポチェに会うことすら難しいのに、況や仏菩薩のことをや。
私は1982年に法王に出会ってから、長らく法王に観察されてから、伝法を続けざまにされるようになった。理由は私がいくら供養したかにあるのではなく、私の修行方法が仏典の内容に符合し、仏典の教えを実践しているかどうかを見てから、伝法されているからだ。実践していなければ、どう伝法されるというのか。目上の人がいるのに、目下の人は話す余地があるのか。上師と競争するように、発声するのを先に争っている。唱えれば唱えるほど、病みつきになるのか。それでは、一般信者とどう違うのか。
かつて私は数多くの仏教寺院を訪れだが、信者には競争しているように大声を出して唱えているのもいた。私もよく言うように、大声だから仏菩薩が聞こえるとは限らないと。何故、唱えれば唱えるほど大声になるのか。それは、自分が集中していると思い、人が声が聞こえられないように人の声を凌駕するとは、自分がよく唱えている表れのつもりか。驕り高ぶる心ではないか。こんなにも長年修めてきたのは無駄になっている。なのに、自分のこの癖に気づいていない。声が大きいだけでよく唱えるということなのか。テキストにはっきりと書いてあるが、声が大きすぎても小さすぎても間違っている!それは何を基準に。上師が唱えた声を基準にだ!
そなたは私の声を上回りたいのか。次回、施身法の時に、そなた一人だけに六字大明呪を唱えさせようか。私は唱えないようにする!私が法器を吹き終わったら修めないようにしよう。そなたに唱えさせてみると、済度する能力があるかどうかが判明するからだ。ちょっとした言い訳に我を忘れたほど唱えたとは言えるが、我を忘れるにも甚だしい!
仏道修行するのは、自分が如何に信仰深いか、如何に多くの事をしたかではなく、心が大事なのだ。そそっかしくて不注意だと、永遠に修め得られない。心には自我しかなく、自分自身のことばかり考えるのも修め得られない。『華厳経』で説かれた内容によれば、今の出家弟子は全員不合格だ。『華厳経』には、出家者が朝目覚めてから、全ての念頭が衆生でいっぱいで、如何なる動作も衆生が為なのだとある。だが、そなたらは如何なる動作も自分の為で、独り善がりばかりだ!どの考え方も、自分が正しい!そうだったら、何を修めようか。自分が正しく衆生が正しくないと思うのなら、衆生が正しくない以上、修める必要がないのではないか。
衆生が何もかも正しいのであれば、とっくに阿弥陀仏浄土に行っているはずだから、地球に留まっているのは何のためなのか。パンデミックの最中で、出家者は更に心を配るべきだ。これもあれも良くないと思うのなら、そなたが良いのか。こうした思想行為によれば、『宝積経』で説かれた阿弥陀仏浄土へ行く三つの次第の何れもそなたにはない。自分で正しいと思うことだけ正しいと考えてはならない。そなたらは二か月ぶりに法会に参列したら、怒られてばかりいる。
そなたらは出家相を既に現している。まだ虚仮の我があろうか。今でもこの身体の状態を保っているのは、阿弥陀仏浄土へ往生できるよう修める時間を与えているだけなのだ。ひたすら人と悶着を引き起こしたりする為の身体ではない!同じ僧房(そうぼう)の人といざこざを起してはならないことを、比丘尼戒を受けたそなたらは知っているはずだ。なぜ皆は出来ないのか。
パンデミックの最中に、私ははっきりと言おう。今生も含め累世で、悪を為した者なら、この疫病に感染する確率があると断言する。善を行ずることに、善を為すことに努力せず、エゴによって暮らしていれば、いくら修めても役に立たないのだ。そなたらはここ二か月仏菩薩からのご加護によって安穏に生活できているが、リンポチェはこの二か月で多くの事をし、多くの衆生を助けている。そちらはどう。
そなたらには衆生救済する因縁がない以上、修行に励むのも衆生救済に繋がる。ご自身の考え方で修めるのではない。前回開示した『宝積経』で説かれた三種類の人なら阿弥陀仏浄土へ行けるとされる。ご自身の条件が符合するかどうか確かめよう。符合しなくてはどう行けようか。釈迦牟尼仏は条件を明白に言っている。もし釈迦牟尼仏の仰せになった方法で修行せず、専ら自分なりの方法を用いていれば、どう修めようか。
そなたらに率直に言おう。仏典や上師の言ったとおりに修めなければ、たとえ毎日六字大明呪を百万回唱えても行かれようがない。阿弥陀仏の所に行くのは複雑ではない。複雑なのはそなたらの心なのだ。出家相を現したのは煩悩を少なくする為なのだ。出家して煩悩が増える一方のようだったら、出家は何のためだ。在家の我らは累世の業をまだ完済していないことから、今生は在家相を現している。それなのに、業の重くない出家衆らは、今生は出家相を現しながらも、煩悩だらけなのだろうか。女衆は一回還俗(げんぞく)すれば、もうそこまでだが、男衆は七回の機会がある。
今回のパンデミックに我々は巻き込まれてはいないが、少しではあるが引っ張られているだろう。明らかに、過去世で我々もこのような悪業を為したことの表れだ。よって、今生も妨げられている。それにしても、自分自身を戒めず、リンポチェが守っているから無事だと思ってばかりいるだろう。どうして私はひたすら『宝積経』を開示しているのだろうか。どんな人が阿弥陀仏の所に行けるかと、見極めて欲しいからだ。三種類の人が行かれるとはっきり説かれている。仏の報身・化身を見たことと、夢で見たことだ。そなたはどれに符合したか、自分自身に問うと良い。符合しなくともいいから、せめて上師への恭敬が要る。だが、これもできない!言い付けられたことを空嘯いたり、これ以上悶着を引き起こさないよう言い付けているだろう。
法会がないから、気楽でいいではないかと思ってはならない。オンライン法会は道場での法会と違うから、少しリラックスできると思ってはならない。全てが悪業に付き纏われているということなのに、上師と仏菩薩に自ら会えないことを懺悔せず、逆に安逸な生活を楽しんでいる。
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2021 年 10 月 24 日 更新