尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年8月8日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』巻第十八「無量寿如来会第五之二」を解説された。

『宝積経』のこの段落は非常に重要であって、どういった三種類の人間が無量寿仏浄土に行かれるかとはっきりと説かれている。今日は、それについて再び開示しよう。

経典:「他方たほう仏国ぶっこくのあらゆる衆生しゅじょう無量寿如来むりょうじゅにょらい名号みょうごうきて乃至ないしよく一念いちねん浄信じょうしんおこし、歓喜愛楽かんぎあいぎょうして、あらゆる善根ぜんごん回向えこうし、無量寿国むりょうじゅこくしょうぜんとがんぜば、がんしたがひてみなうまれて不退転乃至無上正等菩提ふたいてんないしむじょうしょうとうぼだいればなり。五無間ごむけん誹毀正法ひきしょうぼうおよび謗聖ほうしょうのものとをばのぞく。」

「衆生」とは、六道の一切衆生を指すのではない。「乃至よく一念の淨信を発し、歓喜愛楽して」とは、非常に清浄な念頭を発すことだ。阿弥陀仏の名号を聞く時、全ての妄念・雑念はやめるべきだ。悟りを開きたいなどの念頭すらやめ、この名号に対する清浄・かつ「歓喜愛楽」の念だけしかない状態を指す。この一節によれば、畜生道・餓鬼道・地獄道の衆生は何れも為し得られないし、阿修羅も天人もできないが、宿世で修めた事がある場合を除く。本当の事を言うと、それは人道の人だけしかできないことだ。だから、ペットの為に阿弥陀仏を称名して浄土へ行かせるなんてありえないことだ。

「一念の淨信を発し」は決して簡単なことではない。五分間でも静かにすれば、自身の念頭がどれだけ複雑なのかが分かると思う。多くの念頭が頭から離れない上、念頭のどれも清浄のではない。我々が仏に求め礼拝するのは仏菩薩によって守られる為ではなく、我々に綺麗で清浄な念頭を起させるよう仏菩薩に加持されるのを求めるのだ。六道衆生の念は無始よりこのかた清浄であったが、累世の貪瞋痴慢疑によって、念頭が次第に清浄ではなくなり、どの念頭も自分の為になってきた。『地蔵経』には、凡夫の起心動念はみな罪である、とある。

「一念の淨信を発し」を為し得るのは、簡単な事ではなく、大修行者でなければならない。つまり、一般の凡夫・出家者・在家居士ではないのだ。そなたらはこんなにも阿弥陀仏の名号を聞いてきたが、「淨信を発し、歓喜愛楽」を起したことがあるのだろうか。そなたらには歓喜はなく、ひたすら「死んだらどうしよう。死んだら阿弥陀仏は来迎してくださるのかな。阿弥陀仏の所はどんなのだろうか。」と心配しているだけだ。いわゆる「淨信を発し、歓喜愛楽」とは、完全に信じ、他に考え方がないことだ。即ち、これは間違いなく良い事だと知っていることだ。これが一個目の条件だ。

「あらゆる善根を回向し、無量寿国に生ぜんと願ぜば」。そなたらが修めたのは何に廻向したのか。ご自身が健康になるよう廻向するやら、妻や子供に廻向するやら、悟りを開きたいやらで、阿弥陀仏の所に全て廻向しているわけではないから、当然行けなくなる。また、「五無間と誹毀正法および謗聖のもの」を犯したものも行かれない。

経典:「阿難あなん、もし衆生しゅじょうありて仏刹ぶっせつにおいて菩提心ぼだいしんおこして、もつぱら無量寿仏むりょうじゅぶつねんじ、およびつねに衆多しゅた善根ぜんごん種殖しゅじきし、発心ほっしん回向えこうしてかのくにうまれんとがんずれば、この人命終ひとみょうじゅうときのぞみて、無量寿仏むりょうじゅぶつ比丘衆びくしゅのために前後ぜんご囲繞いにょうせられ、そのひとまえげんじたまふ。すなはち如来にょらいしたがひてかのくに往生おうじょうし、不退転ふたいてんてまさに無上正等菩提むじょうしょうとうぼだいしょうすべし。」

これが第二類だ。「もつぱら念じ」とは、もっぱら阿弥陀仏を称名し、他の名号を称名しない意味ではない。そなたの起こしたあらゆる念頭は、無量寿仏のみであって、あらゆる念頭に、誰かが私に危害を加えるなどではない。朝晩のお勤め・座禅や持呪などを課するのは、我々は24時間のうちで起した念頭が全て阿弥陀仏のわけがないからだ。釈迦牟尼仏は、慈悲深く数多くの法門を開示され、我々に毎日ある時間帯で浄信・清浄な念頭を起して仏の名号を称名・持呪させるのだ。

菩提心を起す事は何だろうか。上に対し仏法を修習し、下に対し衆生を済度する以外、決して仇討ちや復讐などの事はないことだ。

「およびつねに衆多の善根を種殖し」「つねに」とは、永遠に止まらず、機会に出くわすと、ひたすら様々な善根を作ることだ。

「この人命終の時に臨みて」。このような人たちは死後ではなく、事切れる前に時を予知することができ、自分自身がいつ去るか分かるし、必ず事切れる前から阿弥陀仏の報身とあらゆる比丘が来迎引接してくださるのを見るのだ。これは、修行の中で最も有力の一種だ。

経典:「このゆゑに阿難あなん、もし善男子ぜんなんし善女人ぜんにょにんありて、極楽世界ごくらくせかいうまれんとがんじ、無量寿仏むりょうじゅぶつたてまつらんとほっせば、無上菩提むじょうぼだいしんおこすべし。またまさにもつぱら極楽国土ごくらくこくどねんじ、善根ぜんごん積集しゃくじゅうして、たもちて回向えこうすべし。これによりてぶつたてまつり、かの国中こくちゅうしょうじて、不退転乃至無上菩提ふたいてんないしむじょうぼだいん。」

もう一種類は「善男子善女人」であって、もし十善法を修めていなければ、とても行けないのだ。ここでも、阿弥陀仏の所へ行くには、ひたすら十善法を修める以外何もない上、極楽世界に生まれんと発願し、無量寿仏に会うと願い、無上菩提心を起せば行かれる、と説いている。ここでは、菩提を行うことができると言わず、無上菩提心を発すといい、そなたの如何なる振る舞い・身口意の全てが仏法に関連し、広大なる衆生を利益する為なのだ。

成し遂げる能力がなくとも、そなたの願はやり遂げなければならない。仮に、そなたの願ができれば、俗世間にある様々ないざこざが減る。行者としてそれなりの業力が尚あり、いざこざや悶着も起こるだろう。直貢噶舉歴代の祖師は、どの代にも多少なりともトラブルが発生し、様々な事が起きたが、何れも累世の業力によるものだ。行者にこうした業力が現われた場合、行者は恨みの心で業力に対抗することではなく、菩提心を起すのだ。自分自身の修行には効果が出来くるとしても、まだ累世で借りた業を完済できているわけではないから、累世の業をこの一生で完済できるよう、更に精進すべきだと分かっている。

返済している過程の中で、当事者は必ず傷つけられ、中傷・誹謗される。「無上菩提の心を発すべし」。そなたは無上菩提の心を発して仏道修行することだ。ここでは、成し遂げるべきだと要求はしていないが、菩提心を発するべきだという。エゴで、ちょっとしたことで不快になる人なら、無上菩提の心が発せないだろう。無上菩提の心を発すことができない人なら、いくら専ら極楽浄土を唱え、善根を蓄積し、廻向したとしても、とてもそこには生まれない。

経典:「阿難あなん、もし他国たこく衆生菩提心しゅじょうぼだいしんおこして、もつぱら無量寿仏むりょうじゅぶつねんぜずまたつねに衆多しゅた善根ぜんごんうるにあらずといへども、おのが修行しゅぎょうせる諸善しょぜん功徳くどくしたがひて、かのぶつ回向えこうして、がんじて往生おうじょうせんとほっせば、この人命終ひとみょうじゅうときのぞみて、無量寿仏むりょうじゅぶつ、すなはち化身けしん比丘衆びくしゅのために前後囲繞ぜんごいにょうされたるをつかはさん。その所化しょけぶつ光明こうみょう相好そうごうとは、しんことなることなし。そのひとまえげんじて摂受しょうじゅ導引どういんして、すなはち化仏けぶつしたがひてそのくに往生おうじょうし、無上菩提むじょうぼだいより退転たいてんせざることをん。」

前述した第一種が出来なくとも、第二種がある。廻向とは、差し出すと自分に何もなくなるわけではなく、戻って来る意味なのだ。廻向すればするほど、多く戻ってくる。

たとえ無量寿仏を専ら唱えなくとも、菩提心を発せば、善根を多く植え付けたような人でなくても、如何なる善の功徳の事をして如何なる功徳を全て阿弥陀仏に廻向すれば、往生する際に無量寿仏は化身を遣わして来迎引接してくださる。

経典:「阿難あなん、もし衆生しゅじょうありて大乗だいじょうじゅうするもの、清浄心しょうじょうしんをもつて無量寿如来むりょうじゅにょらいかひ、乃至十念ないしじゅうねん無量寿仏むりょうじゅぶつねんじ、そのくにうまれんとがんじて、甚深じんじんほうきて、すなはち信解しんげしょうじ、こころ疑惑ぎわくなく、乃至一念ないしいちねん浄心じょうしん獲得ぎゃくとくせん。一念いちねんしんおこして無量寿仏むりょうじゅぶつねんずれば、 この人命終ひとみょうじゅうときのぞみて、夢中むちゅうにあるがごとく無量寿仏むりょうじゅぶつたてまつりて、さだめてかのくにうまれ、無上菩提むじょうぼだいより退転たいてんせざることをん。」

最後の一種は大乗を修める人を指す。大乗とは、単に大乗の仏典を唱えたり、称名・持呪したりすれば大乗を修めているわけではなく、ポイントはそなたの心が大か小かにある。終日細かく計算し、何事にもはっきりさせたかったり、自身の利益を着眼点にする者なら、阿弥陀仏を唱えても大乗を修める者ではない。『妙法蓮華経』に、仏は鹿車や羊車など大小の異なった様々な車で衆生を載せて火宅を離れるとある。大乗・小乗の主な違いは心の大小にあり、大乗なら載せられる衆生の数が多くいる。心が狭く、何事も思いきれない者が、如何に毎日のように大乗仏典を唱えようと、称名しようと、大乗を修めていることにはならない。

大乗の特徴は心の器が大きいことにある。どんな事が身にふりかかろうと、一笑に付す。教派と上師に影響するほど深刻でない限り、行動を取らない。仮に、それが単に個人に対するものなら、感覚がないというよりも、心が動じないということだ。それは、この衆生と自分自身との間の業だと思い知るからだ。大乗を修める者は、あらゆる事を受け入れられ、気にしないのだ。そなたらは往々にしてたった一言のことで大喧嘩になりがちだし、ちょっとした動きでも数日間互いに相手にしない。いくら毎日のように大乗仏典を唱えようと、自分で自身を騙しているにすぎない。

「清浄心をもつて無量寿如来に向かひ」。そなたの心が無量寿如来に向かうのは、俗世間の苦しさから逃げようとし、早く死んで早く浄土へ往生することを願うのではない。現在では、阿弥陀仏を称名する多くの人は清浄な心・清浄な念を用いるのではなく、世間や命が苦しいから、早く死ねば早く生まれ変わるし、阿弥陀仏の所に生まれると安逸だろうと思っているが、こうした考え方は間違っている。女性は恋愛・婚姻・子供や健康の問題をめぐり、出家さえすれば、これで世間の苦しみが終わりになり、阿弥陀仏の所に行けると思うのは、間違いなのだ。現世で受けたあらゆる苦楽はご自身の福報によるものだ。出家したからといって苦楽の業が消失するとは限らなく、ただ単に新しい苦楽の因縁を少なく作るだけでしかなく、過去にやったことが消えるわけではない。リンポチェがここまで修めてきたとはいえ、なお事が多く発生している。そなたらには出家でもすれば全て悟るし、全てOKになるという道理があろうか。そうだったら、過去に借りた分は誰が返すというのか。

「清浄心」とは、人類の考え方を持たないことだ。現在、仏法の方法で物事を思案すれば、これが修行だと思ってはならない。それは違う。それはまだ人類の考え方なのだ。例えば、仏典を拝読した上、(仏典の)中にある名相や名詞を以て、自分自身の修行を検証するのも間違いだ。文字般若というのは、釈迦牟尼仏がやむを得ない中で、伝法がし易いように、あえて文字を利用するようになったのだ。歴史上、チベットであろうと、中国であろうと、非識字の行者の多くは、悟りを開き、浄土往生している。彼等は清浄な心を頼りにしており、俗世間の苦しみから逃げようとして、幸せかつ安逸で気掛かりのないと思われる所に生まれたいのではない。

『阿弥陀経』には、悪業を帯びての往生は不可だと、はっきりと説かれている。よって、そなたのあらゆる悪業は今生で返済し切らないとならないが、今生で蓄積した善業の力は持っていかれるという。善業の力は、阿弥陀仏の所でも、そなたに影響を及ぼす。そなたには多くの善を行ったからこそ、福を享受すべきだと思っているからだ。だから、『阿弥陀経』には、鳥が飛んできてそなたを起す、風が吹き出し幡に当たると美しい音が出るなどして、そなたをよく修行するよう入定させるとあるが、それは、こうした善業がよくないとヒントを与えてくださっているのだ。

この一生で善を行わなくていいというのではなく、我々が行った善に廻向がなければ、つまり空性の中で善を行うのではなくなり、いずれもねだる所があるようになるのだ。阿弥陀仏の所へ行ってからも修行をし続けるものだ。現世で修行を怠ける者も阿弥陀仏の所に行かれない。一日に1000遍・2000遍の六字大明呪を唱えただけで、行きようがあろうか。そんないいことはあるのか。一念清浄になるほど訓練するのは、さほど容易なことではない。試しに、五分間でも静座してみれば、ご自身の念頭がどれほど複雑なのかが分かる。ご自身をびっくりさせるほど多いのではないか。

「乃至十念、無量寿仏を念じ、その国に生まれんと願じて」。念とは、声を出して読み上げることではない。念頭は呼吸の間から来るのだ。一回の呼と一回の吸の間に、心には僅か短く、ちっとも動かない時間がある。もし、吸う事と吐く事にだけ集中すれば、突然に何の考え方もないように感じることになり、これぞ一念だ。一個の念頭や考え方が現われると、もう一つの念になる。座禅するのは悟りを開く為ではなく、仏菩薩が現前するのを見る為ではなく、感覚があったり健康がよくなったりする為でもない。専ら我々の呼吸を訓練する為なのだ。呼吸を綿々と長く続けさせる。綿々とは途切れないことで、長くとは急促しないことだ。小動物の寿命がより短いのは、その呼吸が早いからだ。数か月・数年にして死んでしまうのがある。医学の角度から言えば、新陳代謝が早いということだ。如何なる衆生も生涯での呼吸数は同じぐらいであって、差があるとしても高々1000、2000回ぐらいだけしか違わないという研究がある。呼吸をどう遅くさせるのか。わざとするのではなく、絶えず訓練すれば遅くなるものだ。妄念・雑念・瞋恚の心・貪念が減ると、呼吸が遅くなる。新陳代謝が正常な範囲内に稼働するにつれて、健康状態もよくなる。

私個人の話だが、冬や夏に関係なく、座禅を10分から15分ぐらいすれば、発熱し発汗するようになる。道理に基づけば、座りっぱなしでは発汗するわけないだろう。そなたらにしてみれば、座れば座るほど寒く感じるだろう。「そこいらに座ると背中から寒気を感じたから、お化けが近づいたのかな」という人もいる。それは、そなたの心にお化けが潜んでいるのだろう。寒気を感じるのは血の巡りが良くない、呼吸が良くないせいだ。一呼一吸の間にある定を伸ばせるのか。伸ばせるものだ。定力が足りれば、妄念が少なくなる。長期にわたって静座を訓練する者なら、普段五分間座って遅く感じるところを、そなたの呼吸は遅くなるにつれて、念頭も遅く出てくるから、時間が経つのが早く、あっという間に時間になってしまうように感じる。

ここでの「十念」は、十の念頭には念が一つだけしかなく、つまり無量寿仏を唱え、別の念がない。阿弥陀仏を唱える際には、途中に一個の念が紛れると、もう駄目になる。例えば、阿弥陀仏を途中まで唱えていると、自分がよく唱えているのかなと思うと、この念は駄目になってしまう。よく修める者なら、往生の際にこの10個の念を頼りにして、浄土往生する。大した学問や、大禅定・大入定がない。この十念をよく修める者は、最低でも吉祥臥という横臥を取り、よりレベル良いほうなら結跏趺坐はする。何故なら、その念はその生身を支え、死に際にしても、崩れることなく、ちゃんと座ったままに留まるからだ。

釈迦牟尼仏は修行の密法を言い出された。即ち十念だ。それを成し遂げるのは、容易なわけではない。試しに、一呼一吸の間に六字大明呪を唱え、その間、どれほど念頭が出たか見てみよう。念頭が出たら、この六字大明呪はもう清浄ではなくなる。十念というのもそなたへの保証として、前の念が清浄でなくても、最後の一個の念が清浄であれば、依然に行かれるのだ。自分自身が人よりよく唱えると思う人もいるが、自分が人よりよくて、音を曲げるのが人より得意だと思った時点で、また一つの念になるから、これでもう行かれなくなってしまうのだ。

この十念に凝る人はいない。それは10回念じるのではなく、一呼一吸の間に起きた念頭が念という。だが、一呼一吸の間に起きる念頭は多数ある。仏典によれば、弾指の間に起きた念頭の数は万という単位で数えられるそうだ。よって、一念の中で、阿弥陀仏の名号で以て、他の妄念を抑え付けるのだ。報身まで修めるまでは、念頭がないことはありえない。生身ではとても法身を修め得られないが、密宗で虹化(こうか)まで修め得た場合を除く。体を虹の光にすれば、それはできる。報身まで修めたいのであれば、密宗でいう気脈明点の何れも修め得られないと無理だ。

そなたらみたいな毎日一万やら二万やら唱えている状態では、悟りを開くのはとても無理だ。自分がよく修めていると思ってはならない。どれか一節をはっきりさせるときっと悟りを開くことができると思い込んで、ひたすら私に質問している。自分自身の念頭を訓練することさえできないのに、開悟する道理があろうか。自分で自身を騙してはならない。念頭はご自身の物だから、リンポチェや仏菩薩のご加護に頼るのではなく、ご自身で訓練しなければならないのだ。我らのそなたらへの加持は、あってはならない差し障りを少しでも減少させるためであるが、訓練そのものはご自身でするものだ。そうだったら、私はひたすら十念など唱えればいいと言う人もいる。もし、そなたにはできればとの話だが、実はできないことだ。そなたらに、毎日多く持呪せよと命じるのは何故だろうか。絶えずに唱えているうち、次第に呼吸が整い、知らないうち当たるようになるだろう。定の中に当たるようになる。

多く持呪すると、最低でも語業を綺麗にすることができるし、罵りを少なくし多く唱えれば、善業が積めると、自ずとこの口は人を罵らなくなる。ひたすら罵る者は、必ず持呪が足らず、徹底していないのだ。心に悪がある者だけ、終日喧嘩を売っている。在家の人は、たまには商売のことで人と揉めたりすることはあろうが、出家の人に関しては、まだ喧嘩の種があるのか。思いきれないところがあるのか。そうだったら、そなたは一念すらできないことを表しているのだ。

「甚深の法を聞きて、すなはち信解を生じ」。甚深の仏法を聴聞していると、きっとこれから疑惑は解かれると、信じることになる。それに対して、そなたらの場合は、如何なる事も話も尋ねる。それは事をはっきりさせたいがためだ。私は法王に仕え仏道修行しているが、一部の儀軌に関して法王に指示を請わなければならない以外、多くのことについては私は聞いていない。私は信じないのではなく、私は法王を信じているから聞かないのだ。法王を信じている以上、まだ聞く必要があろうか。つまり従って実行すればいい。まだ聞くのであれば、それはまださ迷っていることを表しているのだ。そなたにできないのは、仏典の間違いや、上師による開示の間違いなどを意味するのではない。ただそなたにはできないだけなのだ。

「信解」とは、そなたに淨信ができると、疑惑は遅かれ早かれ解かれるという意味だ。清浄なる信心を起すと、心の雑念や妄念が減るに連れて、疑惑は自然に解かれてしまい、はっと悟って気が晴れるようになるから、もう説明が要らなくなる。それなのに、そなたらはよりにもよってあれこれと説明したりする。『宝積経』の一篇を開示するのにこんなに時間がかかった。釈迦牟尼仏のやり方では、仏は既に言ったことを二度と言わないとされている。末法時代の人は疑い深く、自分に出来ないことならつい疑ってしまうようになる。そなたに出来ないのは、仏法が正確ではないという意味ではなく、出来ない理由として、そなたは信心を起していないからだ。

「心に疑惑なく、乃至一念の淨心を獲得せん」。心には疑惑がないことだ。「どうしてこうするのか。こうしていいのか。こうなのか。」などを問わない。これ等は何れも疑惑だ。そなたの心に疑惑がなければ、一念清浄な心が得られる。

ここでははっきりと説いている。先ず十念を修め、十念の中に仏土に生まれんと願うべきだ。甚深の仏法を聴聞し、心に疑惑を持たず、一念浄心を得よう。疑惑がない限り、そなたの仏法に対する浄心が起こる。その反面、何か疑惑があってはっきりさせたいと思うと、清浄なる心がないのだ。何故なら、仏法自体ははっきりと解説できるものではないし、衆生の機根によって方便法門を教え、衆生を助けているものだからだ。どうしてもはっきりさせたいそなたには、仏の境地を分かることができるのだろうか。仏や菩薩の境地はさておき、リンポチェの境地をそなたに分かる余地があろうか。分かる余地がない。いくら言っても、そなたは疑惑を持っている。何故なら、レベルの違った人だからだ。

先ほど言った十念だが、そなたらはこうも簡単なのかと思うだろう。これは仏が仰せになったことで、私が言ったのではないが、私にも確かにそんなに簡単なものだと証明することができる。また、そなたらは心では「そうも簡単だったら、こんなにも学んで何なんだ」と思うだろうが、これこそ疑惑だ。実は、一つの念頭に雑念を伴わないという訓練をするのは簡単なことではない。こんなにたくさん聞いていると、事は簡単であればあるほど難しいと気づくだろう。

リンポチェから出家衆に、「出家数十年にして、こういうふうに十念を開示されたのを聞いたことがあるか」と聞いたところ、出家衆の一人は、十念法は聞いたことがあるが、リンポチェのように開示されたのを聞いたことがないと答えた。もう一人の出家衆は、数息観(すそくかん)だけしか聞いたことがないと答えた。

仏典の中には顕教の部分だけしかないとよく思われるが、実は仏典には密法も説かれている。密法で最も凄いのは呼吸を訓練する部分なのだ。我々は呼吸が止まると死んでしまうから、絶えず自分自身の呼吸を訓練しなければならない。呼吸は命の源に当たるからだ。顕教では、この核心を訓練していない。

数息観(すそくかん)は呼吸を訓練していない。数息観(すそくかん)とは、釈迦牟尼仏がそなたらの妄念が多すぎることに鑑み、そなたらに念頭を呼吸に留めさせるようにしてもらいたい為のものなのだ。呼吸に留めさせることは、イコール呼吸の訓練ではない。心を呼吸に留めてもらい、一回の呼と一回の吸の間に1から10まで数字を数えて、そなたの肺活量を訓練するのが主だ。そなたらの中に、1から10まで数え、そして10から1まで数えられるのは何人いるだろうか。何故できないのか。それは密法だから、仏はどう実践するかについては言わなかった。1から10まで数え、また10から1まで数えるとなると、往々にしてどこまで数えたか覚えられないし、その上、呼吸もそんなに長くないから出来ないのだ。

一念と数息観(すそくかん)とは違う。この念は自然で無作為なことだ。何故なら、呼吸は必要不可欠なものであり、日頃の呼吸は数えないもので、非常に自然な呼吸だからだ。釈迦牟尼仏はここでは数息観(すそくかん)について説かずにいたが、数息観(すそくかん)というのは比較的小乗を修める者に適しているからだ。小乗には、初禅・二禅・三禅・四禅定がある。この前にも触れたが、大乗仏法を修める者は禅定を捨てるべきだと言った。禅定を捨てる以上、数息観(すそくかん)を以て修めようものなら、清浄なる念になるまで修め得られない。数息(すそく)は有為法であって、有為法を以て無為法を修め得られようか。不可能だ。以前も教えたことがあるように、数息観(すそくかん)には正確や不正確などの問題ではなく、ただ学ぶ法門が違うということで、数息(すそく)という方法でそなたらの心に妄念を持たないように訓練しているだけなのだ。

十念の念そのものは無意識なものである。何故なら、呼吸は生きるには必要不可欠なものであって、生命の最後の一秒まで呼吸をし続けているから、我々は自然でしなければならない動作を以て訓練して、意識せずに、自然に作用を行わせよう。数息観(すそくかん)というのは、故意にこうした事をしているものである。釈迦牟尼仏には言い間違いがないが、それはただある特定の人達を対象に説かれているだけなのだ。小乗禅定を修習する者なら、まずこの段階を経るとされ、そなたの心が乱れずに、数字を置くよう訓練していると、次第にそなたはこの数字を数えられるようになる。だが、十念という法門は直入し、自分で自身の念頭がどうなっているのかをじっくりと察することだ。仮に、察した念頭が凄く乱れているとすれば、阿弥陀仏を以てその念頭を替えると良い。一呼一吸の間に阿弥陀仏だけしかいないのであれば、清浄なる念が現われてくる。

かつて私はある出家衆を助けたことがある。彼は死に際でも寝ようとはしなかった。いったん眠りについて目をつぶってしまうと、仏の来迎引接が見られなくなる恐れがあって、見られないと行かれないだろうと彼は言った。

この段落の経文は、我々に修行の境地によって違う方式でそなたを迎えに来てくれることを教えている。最低でも、夢の中で迎えることもできる。事切れた際は、まるで眠りにつきそうになる時のように知覚がないのだ。毎日就寝する時に自分が死んだつもりになるのだと教えた道理がここにある。つまり、事切れた感覚は眠りについたのと一緒で知覚がないのを分かって欲しいからだ。眠りにつくと眼耳鼻舌身を感じ取らず、体は動けず、目は見えず、耳は聞こえず、話せずとされるが、意以外のあらゆる感覚は全て停止している。人が死んだ際も、意しか残らない。多数の修行していない者が死んだ際に、口が開いているのは何故だろうか。それは、彼自身は自分が死んだと思わず、最後の一息を吸いたかったからだ。よって、日頃から訓練が必要であって、いったん呼吸が停止したら眠りついたつもりにしよう。

そなたらに十念を修めろというのは何故か。それは如何なる念、念と念との間は止まる事ができるからだ。一呼一吸の後に2・3・4秒止まるようにする訓練をしよう。よく訓練して止まることができるようになれば、つまり事切れた際もこうなのだ。常日頃から、善根を多くする者なら、四大分解による苦は軽くて済む。地風水火の分解はあるものの、それによる痛みは軽くて済むし、あっという間に過ぎてしまうのだ。平常から、自分で十念を以て念仏し呼吸を訓練し、急いで唱えたり回数だけを考えて唱えたりするのでなければ、往生する確信ができる。

阿弥陀仏が引接してくださるかどうかと心配する必要などない。これ等の条件を成し遂げれば来迎引接してくださるに違いない。そなたが決められることではなく、阿弥陀仏が決められることだからだ。その神通力を以て、自分自身が迎えに来るか、化身を遣わして迎えに来るか、あるいは夢の中で迎えるかを知っている。阿弥陀仏を信じる以上、ご自身の考え方が尚必要なのか。自分の目で見てはじめて阿弥陀仏だと信じてついて行くのに意地になっているのか。釈迦牟尼仏は慈悲深く、あらゆる状況をはっきりと教えて下さっている。これ以上、あれこれ言わず、自分自身がどうのこうのレベルに成し遂げていると自惚れてはならない。これ等のレベルにすら達せなく、清浄なる心さえ起きれないなら、どう悟りを開こうというのか。

『無量寿経』の此の段落は非常に重要であって、この一生の修行方向や結論、そして阿弥陀仏のみもとへ行けるかどうかに関わる。全てはこの一段落でよく説かれている。常に寝る事を死んだ事と見なすべきだが、多くの人にとって死という話題はタブーのように思っている。多く言うと、死んでしまうだろうと思われている。その実、それを口にしなくても、誰も最終的には死ぬし、ただ早く死ぬか遅く死ぬかの違いだけなのだ。逆に、多く言えば言うほど、閻魔王が来なくなる可能性もあろう。何故なら、死を恐れないなら、面白くないし、そんなに早く迎えに来ていてはどうするのかと思われるからだろう。

多く唱えれば、長生きできると勘違いしないように。長寿というのは、福報によるものであり、福報は修行によるものである。

次は、前回の開示を続けよう。以下の内容は、菩薩の心はどういうふうなものかについて説かれている。

経典:「受用じゅゆうするところよりもみな摂取せっしゅすることなし。」

菩薩の大福報では、自然に全ての良い物事を受用するとされるが、菩薩はわざとそれを自分が使うように摂取することはない。菩薩には受用する福報があることから、世間にある良い物事がすべて自然に現われるようになる。例えば、この前、阿弥陀仏国土にどれだけ美しい物があるかを述べたように、受用することはいいが、摂取することは必要がなく、何故ならそれはご自身で築き上げた物ではないからだ。人々は往々にして、私が努力して入手したやら、私が築き上げてきたやらと、この物は私のだと思いがちなのに対して、菩薩はこれはただ修行の福報による副作用に過ぎず、本物の果報を証果しているわけではないとはっきりと分かっている。仮に、これら福報による副作用を摂取し、福や楽を享受するのであれば、修行に差し支えるようになる。修行に差支えがあるほか、福報自体も衆生利益にすることができないのだ。

前に触れたが、『宝積経』には、在家菩薩は財物・高級車・仕事してくれるメイド・眷属を持つことができるが、執着する心を持ってはならないとある。つまり、摂取しないという意味だ。有ってもいいし、無くても悲しむことなく、失われたとも思わない。こうしてけじめをつけることは容易なことではない。何故なら、人は誰も貪念があるからだ。ここで特別に言及されたのが、そなたは修行によって人に恭敬されるにしろ、支持されるにしろ、何れも福報によった作用だということだ。だが、自分がよく修めたから、こうされるようになったと思い込むことを摂取という。つまり、そなたは福報を自分の物にし、使うべきだ、福があることによって有名になるのだと思うようになる。実はそうではなく、それはこの福があっての因であって、まだ果報ではない。仮に、そなたはこの因を果報と見なすよう摂取するとなると、この福で修行しても、仏や菩薩に成る果報が現われず、人天福報となるのだ。けじめをつける際の力加減に要注意だ。

仏典には出家衆は財物を集めることができないとあるが、出家衆は金を持ってはならないのではなく、厳格的戒律によれば、お金を数えることさえ許されないとする。そのポイントは、自分自身が出家者であって如来の衣をまとっているから供養を受けても当たり前だろうと、気軽に摂取するのを防ぐことにある。これが摂取だ。摂取すると、修行に差し障りが出来、仏果と菩薩の果位を証するのに障碍が現われるようになるから、この一節は非常に重要だ。

経典:「あまねく仏刹ぶっせつあそびて、あいすることなくいとふことなし。また希求けぐ不希求ふけぐそうなく、自想じそうなく、煩悩想ぼんのうそうなく、我想がそうなく、闘諍相違怨瞋とうじょうそういおんしんそうなし。」

生涯で、名山・名勝・名刹に参拝できれば、きっと自分に良い福報が積めるだろうと思う人がいるが、菩薩道を修める者は全てが縁起性空であると貫き、この縁が起きては、きっと何か特別な縁が待ってくれているに違いないと信じている。わざわざ見に行ったら、修行に大いに役立つというのではない。

「希求なし」。多くの人が私にブッダガヤの話をする。インドへは私は何回も行ったことがある。もうちょっと足を運ぶとブッダガヤに着きそうだが、ブッダガヤへ行くような特別な因縁がないから、私はわざわざ行くようにしてはいない。私が舎衛城に行ったのは、法王がそこに修行する所を建てたからだった。それで、釈迦牟尼仏が当時悟りを開いた菩提樹のその後世の樹下に行った機会があったのだ。愛することもなく、希うこともない。こんなにも多くの人が私についていて、あれこれとしなければならないと、嫌だなと思う人もいる。つまり、修行する過程の中で、行く機会があってもいいし、行く機会がなくてもいいという意味だ。決まった目的の修行法門が、とある場所へ行くように規定し、行かなければならない場合を除くが、もしこういう決まりがなければ、縁に従うと良い。修行者として、五大名山のどれにも参拝しなければ、修行とは言えないと思ってはならない。こうした考え方は、あまり正確ではない。

「闘諍相違怨瞋の想なし」。相違とは人が何をしようも、そなたは気に入らないことだ。こんなことがあっては、阿弥陀仏のみもとへは行けない。

経典:「かの諸菩薩一切しょぼさついっさい衆生しゅじょうにおいて大慈悲だいじひをもつて利益りやくするしんあるがゆゑなり。柔軟無障礙心にゅうなんむしょうげしん不濁心ふじょくしん無忿恨心むふんごんしんあり、平等調伏寂静びょうどうじょうぶくじゃくじょうしん忍心にんしん忍調伏心にんじょうぶくしんあり、等引澄浄無散乱心とういんちょうじょうむさんらんしん無覆蔽心むふへいしん・」

菩薩道を修めるには、これ等の心を備えなければならない。衆生からそなたの身に押し付けられたあらゆる事に対してそなたには恨みがなく、ただ単に先方の心を調伏するだけだ。修法というのは、相手にどうして欲しいというのではない時もあり、その心を調伏し、その心にある悪念を消去し、これ以上悪をしないようにして欲しいのだ。悪をすると、三悪道に堕ちるに他ならない。

経典:「浄心じょうしん極浄心ごくじょうしん照曜心しょうようしん無塵心むじんしん大威徳心だいいとくしん善心ぜんしん広大心こうだいしん無比心むひしん甚深心じんじんしん愛法心あいほうしん喜法心きほうしん善意心ぜんいしん一切いっさい執著しゅうじゃく捨離しゃりするしん一切いっさい衆生しゅじょう煩悩ぼんのうだんずるしん一切いっさい悪趣あくしゅづるしんあるがゆゑなり。」

衆生の心は皆平等であり、仏性を備えている。私の心のほうが大きい、そなたのほうが小さいのように比べるに使うものではない。同様ではない修行方向や、異なった業力・果報の出現は、全て因縁法だ。何れも自分自身で作ったものであって、その心が違うから差異が現われたわけではない。心は清浄なるものであって、心の器の大きさや、サイズで決まることではない。

「甚深心」。心は深いものだ。我々にはその底を知れず、そしてそれは何をしているか分からないことを指す。この人は忍耐の他、修行方向を簡単に諦めない心がある。甚深の心は、累世の修行によったものであって、心法の深さは測れないのだ。何故なら、彼は絶えず修め続けているから、心が深く、仏法の精要やポイントがたくさん詰め込まれている。いつ現れるのか。因縁に遇えば現われるものとし、因縁が起きなければ、ひけらかさないし、わざわざ言い出すこともない。

「一切の衆生の煩悩を断ずる心」。衆生は皆に煩悩がある。どう断ち切ろうか。菩薩は様々な方便善巧の法門を用いている。まさに、そなたらが嫌がっている事を私はわざとらしく見せているし、そなたらが好んだのを私はわざとしないようにして、そなたらの煩悩心を断ち切ろうとしている。我々は自分自身に煩悩があると認めず、もっぱら自分が正しい、他人が正しくないと思っている。菩薩道を行うのは、衆生の煩悩心を断ち切る為の場合もある。多種多様な法門を用いたり、更に自分自身が傷つく、誹謗される方法までを採ったりする。先方の煩悩心を断ち切るには、菩薩はこうした方法を進んで使う。

「一切の悪趣を閉づる心あるがゆゑなり」。衆生に三悪道に堕ちる心を閉じさせるよう助けることである。

経典:「智慧ちえぎょうぎょうじをはりて無量むりょう功徳くどく成就じょうじゅし、禅定覚分ぜんじょうかくぶんにおいてよく演説えんぜつし、しかもつねに無上菩提むじょうぼだい遊戯ゆげし、勤修ごんしゅ敷演ふえんす。」

菩薩が為される全ての事は、智慧を根拠にしているのだ。智慧とはどれだけ仏法や世間の事が分かっているかに非ず、空性を証悟することだ。そなたに空性を証悟したかどうかはどうやって分かり得るかと聞く人も多いだろう。空性を証悟することとは、ないと思われることを空性というのではない。智慧とは、菩薩が仏法を行う際の方向として、全てを縁起法・縁生縁滅という方針で進めていく。縁があれば進め、縁が滅びても進める。

例えば、私は寺院を建立するに際して、何かの団体を作ったりカーニバルを催したりして、募金をかけたこともないし、仏法関連の品物を売って募金を募ることもなかった。最近、私はまた一棟の家屋を売ったが、これからは私の収蔵品を売り出そうとしているが、これで得たお金を全額寺院へ寄附する予定なのだ。

法王から寺院を建てろと命じられたが、寺院の大きさや形、そしてどう建てるのかを教えていない上、私を手伝うよう誰かを遣わしてくれていない、必要な資金も教えていない、お金も一銭としてくれない。全て私がしている。そなたらだと、法王が言い付けた以上、取り持つようにしてくだされば早く済むのだと思うだろう。だが、法王は、私の因縁・福報が足りるかどうかを見ているのだ。因縁・福報が足りれば、物事は自然に順調に運ぶようになる。

寺院建立のドキュメンタリーを撮影したかったが、因縁が成熟していなかった。最近、ある人が進んで撮影する話を持ち掛けてきた。此の人は20数年前の弟子だったが、彼の妻は彼が出家するのを恐れていた故、彼の仏道修行に反対をした。彼はコマーシャルを撮る監督だ。ドキュメンタリーの撮影も優れているが、コロナの影響で、仕事がなく、無料で撮影すると話を持ち掛けた。これが因縁だ。もし、20数年前、彼が離れた際に、私は彼を叱ったり、無視したりしていたら、今のような因縁がなかった。私も常に、喜びの気持ちを持って来たり離れたりすればいいと言っている。私は皆に後ろめたい事をしていないし、そなたらを傷つけることもしない。自分自身が傷ついたと思うのなら、きっと何かをしてリンポチェを傷つけようとしたから、自分自身が傷ついたと思うのだ。リンポチェがそなたの望んだような事を為し得ないから、そなたが傷ついたと思ったのだろう。

菩薩道を行う行者として、智慧を以て修行するからこそ、無量の功徳が生み出される。全てが有為法であれば、功徳が現われないままだ。これは紙一重の差だから、間違いやすいのだ。

法王から寺院を建てろと命じられたが、私は取り付きからそれは困難なことだと知っていた。私は大企業家のような大金持ちではないし、台湾生まれ台湾育ちの由緒ある家柄を持つ人でもない。もっぱら弟子らと私一人の力で力を尽くしてやっているが、あらゆる縁法がこうして生まれた。というのは、寶吉祥仏寺は諸仏菩薩及び法王から私への試験であって、私に修行による功徳があるかどうかを試しているのだ。そうなら、寺院を建立することは、即ち功徳があるというわけなのか。いや、そうではない。寺院を建立してから修行する人が誰もいないなら、功徳のないこととなる。もし、寺院を建立して、衆生を修行させるよう助ける為であれば、自然に功徳となるのだ。

この寺院を建てるのは、将来弟子らと縁のある衆生の為に閉関修行できる場所を用意することが目的だ。直貢噶舉のあらゆる修行法門は、必ず閉関修行を経なければ成就することができない。現段階では、台湾では湿気が多すぎるか、偏僻すぎるかで、閉関修行に適した土地がない。それに加えて、感染症が流行っている現在では、どこへも行けない。今、そなたは、敢えてネパールへ閉関修行しに行くことはできようか。2019年に法王は私を連れてネパールへ閉関修行しに行く予定だったが、あいにく感染症の発生に相まって、それは見送ることになった。

だから、これも諸仏菩薩の采配だ。もし、無量の功徳を修め得られなければ、この事は決してできっこない。どうして、法王から私に此の事をするよう言い付けられたのか。きっと、少し福報・功徳が出るまで修め得たし、そろそろ此の事が出来るだろうと見えただろう。よって、私が寺院を建て始めてから、法王は「リンポチェは今お金を必要としているから、これ以上彼からお金をもらわないように」と言って、たくさんの事を手前で止めてくださっているお陰で、一気に事が少なくなっている。

教派そして上師として、ある行者の功徳について判断する場合、単に彼はどれぐらいの衆生を済度したかによるものではなく、単に彼は衆生を全員満足させた事を何件したかによるものでもない。衆生を全員満足させられることは先ずない。行者として、そなたらが思ったような完璧な聖人ほどに為し得られるかに至っては、それも不可能だ。何故なら、彼にもそれなりの業力があるからだ。その業力が善にしろ、悪にしろ、この一生で完済するべきだ。いいだの、悪いだのの事が現われても、間違いなく完済するのだ。

後半の部分の境地まで修めれば修めるほど、私の理解では、問題が弥が上にも出てくるのだ。どうしてだろうか。釈迦牟尼仏の成仏にさえ魔が現われて差し障ったのに、況や我ら一歩ずつ前進するような小さな行者をや。魔に差し支えられるとは言えないが、少なくとも私自身の業力により差し支えるだろう。行者に対して大きな誤解を持つ人が多くいる。行者なら、そなたにとっての理想的な道徳のイメージに符合しなければならないと思われがちだ。しかし、仏典によれば、理想的な道徳というイメージは書かれておらず、その心という話だけ言及された。その心を見るのなら、そなたらにしては見られないものだ。それでは、どうしようか。つまり、長期にわたって、この上師の人や物事への対応を見よう。一日・二日や、一年・二年で見るのではなく、長期にわたって観察するものだ。

前には「忍心」について言及したが、ある事について、私はすでに当事者に明かしたから、ここでは公開してもいい。今、ドキュメンタリーの撮影をしてくれている人の話だが、20数年前に、私は彼ともう一人を青海へ連れて行った。当時は、また別に一部の弟子を連れていたから、ドキュメンタリーを撮るよう彼に任せた。必要な費用そして報酬は私から出していたところを、彼は青海でドキュメンタリーの他に、自分自身のカメラで多数の写真を撮って、帰ってきたら本にして出版した。しかも、私に見せてくれた。

彼が青海へ行く費用は全額を私が出していたから、道理から言えば、彼が青海にいた時に発生した全ての動きは私の所有になるはずだった。写真を撮るようなら、前もって私に断るべきだったが、彼は事前に言わないだけではなく、出版した後でも依然言わなかった。私は我慢強く、彼が言わない(これが因縁)以上、私も言わない(これが果報)。20数年後になった今、私から言うようになった。

皆だったら、できるのか。「こんなにもお金をかけて青海へ連れていって、報酬の他に、宿泊・食事まで付いているのに、あなたは写真を撮っても、私へ利益を与えない」と言って、とっくに大喧嘩になっていただろう。ここ20数年間、私は一字として言わなかった。彼の親友も、私の親友だが、私は一切口にしていない。何故なら、因縁法だからだ。忍耐力があるだろう。

今言うようになったのはどうしてか。それは、彼が戻って仕事してくれているから、言うようになった。今は、こうしてはならないと教えている。著作権という厳しい問題に抵触している故、法に触れないように、念のため言っているのだ。20数年前に言わない代わりに、今になって彼の間違いだと指摘するのではなく、二の舞を踏まないよう注意を喚起しているだけなのだ。

私はお金を出し報酬を与えた上、私が連れて行ったからこそ、彼は途中でこんな写真が撮られた。本当はやってはいけないことだが、彼個人の行為に限るものだから、もう構わないし、彼はちょっと儲けたいのなら、儲けさせようと思う。これぞ、菩薩の心だ。

まったくそなたらのことが理解できないが、最も簡単な忍心・忍調伏心すら持っていないのに、菩薩道を修めたいと言えようか。恥ずかしがるべきだ。そなたらはこの僧衣を裏切っている。

ここまで『宝積経』を説いてくると、さぞそなたらは聞けば聞くほど恐ろしく思うだろう。そなたらは何を修めているのか。三悪道を修めているのだ!耳障りよく言えば、自分自身は修めて理解しているというが、仏典の記載に照らしてみれば、どの部分が出来ているというのか。20数年前に、私は既に出来ている。それは、利益・お金に関わる上、私は商売をする者として、彼を出張に連れていったのであって、お金の計算をしないわけはないだろう!だが、私は耐えている。どうしてか。それは因縁法だからだ。それが出来なければ、それより後のことも私は出来ていなかった。

前段に述べた「一切の執著を捨離する心、一切の衆生の煩悩を断ずる心、一切の悪趣を閉づる心あるがゆゑなり」との一節は、随分重い内容だ。そなたらは執着から離れず、執着をしっかり掴んで手放そうとしない。そんなに必死に掴んでいては、運が良くなることはないだろう。このままでは、人の運には変わることはないのではないか。この段落では、つまり、自ら修行していると自惚れている者を対象に言っているのだ。まったく何も為し得ていない。

「一切の悪趣を閉づる心あるがゆゑなり」。だから、先ほど三悪道へ行くと罵った。ヤジの応酬で、三悪道へ行かないわけがないだろう。

ここの何人かは毎日会っていて、家族より親しい関係なのに、尚いざこざを引き起こしている。そなたは、それはきっと累世の怨敵だと理由を付けるだろうが、恨みなどがなくては会うことや、一緒に住むことはないだろう。台湾は、大きいと言えば大きくないが、小さいと言えば小さくもない。それなのに、台湾の他のところへ行かずに、よりによって私の所に来て会うのは、まさに怨敵だ!怨敵である以上、よく修めるしかないだろう!

そなたらには善意心がない。如何なる意も悪だから、他人が何をしようと悪に見える。とにかく、他人が良くない、正しくないと思っている。善意心がある者なら、人が何をしようとも、そなたは全部正しくないなど思わない。その人が写真を撮ったが、私には悪の念頭がなく、たぶん彼はそれが綺麗だと思って撮っているだろうと、そうだったら撮れよと私は思っている。ただ私が告知されていないだけだった。それでもいいやと。もし、私に悪意の心があれば、「でたらめをしたな!私がお金を払ったのに、よく出版して売っている。しかも私に言っていない」なんて言うが、これこそ悪意の心だ。私は20数年我慢してきたのは何故だろうか。つまり、善意の心だ。

そなたらは一緒に住んでいるのに、終日喧嘩しているのは何故か。それは善意の心がないのだ。いつも自分が修めていると言っているのに、いったい何を修めているというのか。そなたらは「悪趣を閉づる心」ではなく、悪趣の心を開くのだ。

「智慧の行を行じをはりて無量の功徳を成就し、禅定覚分においてよく演説し」。菩薩は智慧を以て修行するからこそ、無量の功徳を成就してから、禅定覚分においてよく演説するようになる。まるで私がひたすら皆に禅定や呼吸の分け方を教え続けているように、もし智慧を以て修行しなく、自分自身でちょっとした功徳を成就していなければ、言い出せなくなる。「演説」とは、一般に想像されるような講演ではなく、もっぱら自分が為し遂げてはじめて言えるようになることを指す。自分に出来ていなければ、人の前で披露できようか。うまく披露することができなければ、何を根拠に言い聞かせるよう見せられるのだろうか。結跏趺坐して15分、20分にして足が痺れてしまっては、敢えて人に禅定の事が言えようか。それは、でたらめではないか。演説とは、自分に出来ているからこそ、人に言えるようになることだ。

「しかもつねに遊戯し」とは、終日遊んでばかりいることではない。菩薩は遊ばないのだ。私は上師になると覚悟した時から、もう映画を見ない、カラオケに行かないことを決めた。数十年行っていない。上師になるからには、これらのことをして遊ぶのを止めるべきだ。「無上菩提に遊戯し」とは、彼がした全ては自分の為ではなく、まるで俗世間を遊戯するようにだ。彼のした事や言った事は、そなたらの目から見れば、全部可笑しげに見える。人に可笑しいと思われることだが、菩薩はそれを可笑しく思わない。何故かと言えば、俗塵の物事はまる遊戯のように、行ったり来たりで、固定不変ではなく、変化し続けているものだからだ。それは、まさに我々が子供の頃よく遊んだが、遊び終わるとお終いのように、彼はこうして世間の事を見ているのだ。

彼がこうして世間の事を見ているからこそ、煩悩が減り、更に断ち切るようになるのだ。彼がこうして世間の事を見ているからこそ、如何なる衆生に対して用いた方法は、決して世間の方法で進めているのではない。必ずこの衆生に未来に煩悩を断ち切らせるような方法を採る。この衆生に未来に煩悩を断ち切らせるように、菩薩は先ず欲を以て引き付けるようにしている。いわゆる「欲を以て引き付ける」ことは、彼の欲望をぜんぶ満足させるのではなく、現在彼の欲しい物をちょっとずつ、釣りの時に魚に餌をあげるように、与えたりする。餌をあげなければ、魚は釣られないだろう。釣った後、それを食べてしまうのではなく、仏法で度するのだ。

全部が全部「無上菩提に、勤修し敷演す」だ。菩薩は立ち止まって修めないことはなく、ひたすら修めている。ほら、リンポチェは毎日少なくとも二時間は修めているだろ。それは、衆生は面倒くさすぎて、どの衆生も悩み事で溢れているからだ。毎日のように、新しい話題を私に見せている。人からの謁見を受けなくなった今でも、まだ煩悩がある。

経典:「肉眼発生にくげんはっしょうしてよく簡択けんちゃくあり、天眼出現てんげんしゅつげんしてもろもろの仏土ぶつどかんがみ、法眼清浄ほうげんしょうじょうにしてよく諸著しょじゃくはなれ、」

この一節は面白い。「肉眼発生してよく簡択あり」とは、我々の目に見えたのを、簡単にし選択することだ。というのは、菩薩の目はとある物事に執着することなく、見終わると雲烟過眼のように未練がましくなどしない。だが、選択はする。この事を選択して、衆生利益することになれば、進んで選択するのだ。例えば、寺院の建立を例に取り上げよう。その出来栄えに関しては肉眼を以て見るものに当たり、寺院が今後いかに荘厳なのかを衆生に見せるものだからだ。衆生に荘厳だと思われるような方式を選択させるよう助けるが、大げさすぎず、素朴ながら荘厳、派手ではないものが良い。これこそ、肉眼を以て見るのだ。

「天眼出現してもろもろの仏土を鑑み」。天眼が現われるのは、他人の過去や未来を見させる為ではない。でたらめを言う人が多くいる中、もし、天眼を以て見極めるのでなければ、この仏土で正しいか嘘か断定できない。自分が見たのが本当なのだと思う人が多いが、いったい彼に天眼があるというのか。天眼は、単に座禅するやら、人に開けてもらうことやらで現われるものではない。

仏典にある話が記載されている。釈迦牟尼仏の弟子に目が見えなくなった人がいるが、釈迦牟尼仏はその人にある法門を授けて目を一つ開けてあげるようにしたところで、彼は見えるようになったという。それは天眼のはずだ。どう開けるかに至っては、仏は仰せになっていないが、密宗にはこうした天眼を開く法門がある。天眼が開いたらどうするかと言えば、はっきり見る為だ!そうすると、ぼんやりしなくなる。肉眼と天眼との差異は、肉眼には神経や膨大な条件を必要とすることにある。私の右目は神経が良くないが、よく見えなくなっている。天眼だったら、それらが必要なく、自分自身の気脈明点をはっきりさせるだけで見えるようになるのだ。

天眼が見たのと肉眼が見たのは違うものだ。それについて、ここでは触れないようにしよう。何故なら、そなたらにはこうした経験がない。「法眼清浄にしてよく諸著を離れ」。法眼が清浄になれば、宇宙での全ての執着から離れられる。執着は多種多様である。法眼はどうやってできたのか。清浄なる本性が露わになり、開くと、法眼が自然と開くようになる。法眼は清浄する必要があり、即ちこの法眼が開いたのは、自分自身の修行や何かの為ではない。最も大事なのは、法眼を以て俗世間で執着した様々な因縁と因果を見極めてから、全ての執着から離れるようになる。恋愛関係なども含め、執着はとても複雑である。

経典:「慧眼通達えげんつうだつして彼岸ひがんいたり、仏眼成就ぶつげんじょうじゅして覚悟かくご開示かいじして、」

智慧眼が開くことができれば、彼岸(仏土)に生まれるようになる。仏眼が開ければ成就を得られ、覚悟し仏法を開示することができる。そなたらは問題を一つでも聞きにくれば、悟りを開けると思っているつもりか。まだまだ早い。仏眼の成就を先にしなければならない。仏眼が成就したのは、そなたの相が必ず変わる意味ではなく、全ては仏性の表れなのだ。実は、宇宙の中で、欲界天・色界天にはまだイメージはあるが、欲界天・色界天を離れた無色界天の衆生にはイメージがなく、体すらない、唯一残ったのはエネルギーのみだ。このエネルギーは目に見えないもので、肉眼・法眼・天眼の何れも見えないが、慧眼なら少しそれを感じ取られるかもしれないが、仏眼になれば真に見えるようになる。

仏眼が開けなければ、とても覚悟できないだろう。仏眼が開くとは何だろうか。それは、そなたは仏の境地や仏の説かれたことを体得できる時だ。仏は我々に何を教えているのだろうか。我々は何を為し得なければならないのか。眼という字で説明はしているが、その実、本物の目を与えるのではなく、ただ単にある境地を指すのであって、そなたに内面から仏の智慧における真実の奥深さ及びその意義を体得させ、見させるのだ。体得できてはじめて悟りを開くことができる。そうでなければ、慧眼・法眼という所に留まるしかない。

慧眼と法眼が有ってはじめて、そなたは輪廻苦海から解脱させられて阿弥陀仏のみもとへ行けるようになる。しかし、菩薩道を修める者に限り、阿弥陀仏のみもとへは、必ず五眼とも具備しなければならないわけではない。菩薩道を修めた者の場合、そなたの肉眼は判断し簡単に選択することが出来れれば、往生した際に天眼が現われ、阿弥陀仏の本物の仏土が見られたら、行かれるのだ。どうして死んだ時に限って天眼が現われるのか。それは、死ななければ、身に付き纏われた複雑な業力に縛られた故に、本来清浄なる本性が現われないようになるから、見えないのだ。


« 昔の法会開示 法会開示へ戻る 新しい法会開示 »

2021 年 11 月 17 日 更新