尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年05月10日

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは法座にお上がり、『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十三「禅定波羅蜜多品第十之三」及びジッテン・サムゴン著『一意』のご開示

リンポチェは法座にお上がりになった後、しばらくの間六字大明呪を唱誦された。尊き御身および壇城からはまばゆい黄金色の光が放たれ、会場には妙なる香りが満ち、大地は震動した。参会者一同は全身が熱くなるのを感じ、あらゆる雑念が瞬時に止息し、リンポチェの殊勝にして清浄なる仏法の教えを受けることができた。

リンポチェは貴重なる仏法の開示を賜った:

仏典曰く:「菩薩神通達漏盡智。觀時分已而無超越。」

この「漏」とは、あなたたちが考えるような「有漏」のことではなく、「無」のことである。「」とは智慧、「」とは通達を意味する。つまり、菩薩が神通を用いる時、その智慧は無漏なのである。「有漏」であれば、輪廻する機会が生じる。例えば、私たちが多くの本を読み、多くの試験を受け、学位を得て、もっとお金を稼ぎたい、人からもっと尊重されたいと望む。これが有漏である。菩薩が衆生を助ける時には、神通力によって衆生のさまざまな因縁や業力を観察し、それぞれ異なる法門を用いて助けるのであって、自分が何らかの利益を得るためではない。すべては衆生を利益するためである。自分自身の名利や声誉について計らわず、しかも計らわないだけではなく、さらに求めもしない。これで初めて、「無漏の智慧」と称することができるのである。

智慧とは、すなわち空性の意味である。菩薩が空性に入っていなければ、衆生を助けることはできない。なぜなら、衆生は千差万別であり、一人ひとり求めるものも、心性も異なるからである。菩薩は、衆生の悪念や悪業に従って、それを満たしてやることはできない。ちょうど仏経に説かれているように、ただの「お人好し」をしていても地獄に堕ちるのである。例えば大象財神は、ある世において非常に裕福な王子であった。誰が求めに来ても財を与え、その相手が何に使うのかも問わなかった。これは有漏である。なぜなら、そのように「お人好し」を続けることで、相手に将来地獄へ堕ちる因を作らせてしまったからである。そのため、マハーカーラは彼を殺した。それによって、彼がこうした有漏の行為を続けることを止めさせたのである。

だから、よく観察してみれば分かるが、菩薩が衆生を助ける時には、名や利を非常に淡泊に見ており、さらには追い求めもせず、要求もしない。このような菩薩であってこそ、無漏の智慧に通達することができるのである。もし無漏の智慧をもって衆生を利益しているのでなければ、衆生に利益がないだけでなく、その智慧を用いて衆生を助けている本人にも害が及ぶ。その害とは、肉体面だけではなく、修行の面にも及ぶのである。だから、もし智慧がないのであれば、まずは言うことを聞くことである。上師が言うことをそのまま実行し、自分勝手な考えを持ってはならない。

最近、仏寺では一匹の蛇がずっと観音殿の前後に現れている。通路のところに配管があり、その蛇は突然その中へ入り込んだ。私は人に、「中にいるかどうか見てきなさい。もし中にいるなら、外へ誘導して、その後で配管を塞ぎなさい」と言った。この蛇はとても賢く、なんと事前に察して、自分から外へ出て行ってしまった。そこで私は仏寺の行政担当に命じて、段ボール箱を用意し、穴を開けて、蛇が住めるようにしてやった。すると蛇は出て来た後、なんとその箱の中へ入り込み、今ではそこに住んでいる。あなたたちは、衆生に感覚があると思うか。あるのである。蛇が配管の中に住んでいたとして、普通の人ならわざわざ気にかけるだろうか。(大衆答:気にしません。)しかし、そこには時々廃水が流されるので、私は蛇を傷つけることを心配し、人に手配させたのである。すると蛇は、なんと私の考えを察して、自分から出てきた。さらに巣を作ってやると、また自分からそこへ入って住み着いた。だから、もし菩薩の智慧が有漏であるなら、こうした畜生道の衆生たちは感じ取ることができず、またあなたの言うことを聞くこともないのである。

多くの人は法を求めに来ると、「自分は法を求めに来たのだから、必ず修行が成就する」と思っている。しかし、もし上師の言うことを聞かなければ、私は断言するが、絶対に修行は成就しない。なぜ成就しないのか。私自身のことは言わず、マルパ大師のことを話そう。マルパ大師は前後三度インドへ法を求めに行ったが、そのたびに馬やヤクに大量の黄金を積み、供養布施として持参した。そのため、彼は大いなる福報を起こし、無上瑜伽部の最も秘密なる密法のすべてを得たのである。あらゆる法本も彼の手に渡った。マルパは供養によって大福報を積み、チベットの各大教派すべてから尊崇される翻訳大師となった。今日に至るまで、四大教派はいずれも彼を「マルパ大師」と称している。これこそが供養なのである。しかし、彼の供養は、自分自身をより良くするためではなく、衆生のために法を求めるためであった。多くの人は、長年帰依して法を求めに来ているのだから、上師は当然与えるべきだと思っている。しかし私は与えない。仏法について話すことはできても、その他の法や密法は軽々しく与えない。他の道場では簡単に与えることがあるかもしれないが、私の道場ではそうしない。なぜなら、私は密法がどのように行われ、どのように修めれば成就できるかを非常によく知っているからである。もしあなたが私の修行方法に従わず、自分勝手な方法で修めようとするなら、私は伝授しない。あなたたちは他の道場へ行ってもよいのである。

私は以前にも話したことがある。かつて直貢噶舉の最初の道場には、家賃を払うお金がなかった。本来なら私自身が家賃を払うために用意していたお金だったが、先に道場の家賃として供養したのである。私は自分にお金がなくても、まず供養を優先した。昔、私は貧しくて食事をするお金すらない時もあった。しかし、仏前の花や果物だけは欠かしたことがなかった。法を求めるためであれば、一日食事を抜いても構わなかったが、供養だけは欠かすことができなかったのである。あなたたちはお金をとても重く見ている。もちろん、お金がなければ生活はできない。しかし、本当に殊勝で、この一生において成就させ、生死を解脱させる法を得ようとするなら、どうして供養がなくてよいということがあるだろうか。それは上師があなたたちのお金を欲しがっているという意味ではない。私は今、仏寺へ寄付している金額のほうが、あなたたちよりずっと多い。弟子たちは皆知っているが、私は仏寺にすでに三億元近くを寄付している。法王も公の場でおっしゃった。直貢噶舉全体に対して、私は一千七百万ドルを寄付していると。だから、なぜ法王が絶えず多くの法本を私に授けてくださるのか。それは私がお金を出したからではなく、私が一つの教派を成就させているからである。これは法王が公に話されたことである。直貢噶舉の多くの仏寺に、私は供養してきた。中には自分が知らない寺院もある。しかし、私はそこに自分の名前を書いてほしいと求めたことは一度もない。そうして、ごく自然に法を得たのであり、ごく自然に修行の福報も起こってきたのである。

字が読めるとか、何らかの身分があるとか、自分は賢いとか、そういうことで仏法を学べると思ってはならない。もしそのような考えがあるなら、それは仏経で説かれる「所知障」である。つまり、自分は分かっていると思い込み、その知識がかえって仏法を学ぶ妨げになっているのである。例えば昨日、ある弟子が法を求めて授かった後、立ち上がるとすぐに背を向けて立ち去った。あなたたちは皆、学校で学び、社会で働いた経験があるだろう。では聞くが、もし上司から何かを渡された時、すぐに背を向けて去るだろうか。(大衆答:しません。)つまり彼は、法を軽んじているのである。自分はすでに得た、受け取った、これで修行を始められると思っている。しかし、法を尊重していないのである。

帰依の時にも、あなたたちにははっきり話している。法を尊重しなければ、法を得ることはできないのである。ここでいう「法」とは、仏が説かれた修行の方法であり、上師があなたたちに教える方法のことである。それを尊重しないで、どうやって修行できるというのか。彼は気づいていなかった。私はとても細かいところまで見ているのである。だから私は法本を回収し、供養も彼に投げ返した。彼自身はきっと、「後ろに人が上がって来るから、急いで立ち去ったのだ」と理由をつけるだろう。しかし、私は非常に厳格である。まさにこのように厳格だからこそ、今日ようやく少しばかりの成就があり、絶えず衆生を利益することができているのである。例えば月曜日、本来であれば政府が市長との面会を手配していたが、私は行かなかった。なぜなら、彼らは私が多くの善事を行っていることを表彰しようとしていたからである。私はこう言った。「私は修行しているのだから、それは自分が当然やるべきことです。」その表彰金額は七桁だった。あなたたちが私に供養する額には七桁などない。それほど多くのお金を寄付していても、誰が私に会いたいと言ってきても、私は「会わない」と言う。なぜ会わないのか。人の公務の時間を占有したくないからである。私たちが善事を行うのは当然のことであり、それは本来やるべきことなのである。どうしてわざわざ名を求める必要があるのか。だから、そういうものは必要ないのである。

リンポチェは、質素に暮らし、節約して生きている人間である。あなたたちが私に供養したお金の大部分は、すでに外へ出て行っている。しかし、多くの人は、いつも私と計算ばかりしている。何を計算しているのか。殊勝なる法を求めに来ながら、供養するお金はないと言い、住宅ローンにはお金を払うのである。以前にも開示したことがある。釈迦牟尼仏は、ある大菩薩に六字大明呪を学ぶよう命じられた。その菩薩は、多くの供物や贈り物を携えて、在家の居士のもとへ六字大明呪を学びに行った。話したことがあるだろう?(大衆答:あります。)昨日も、二人の弟子が、ぺらぺらの薄い金封を持って来た。彼らには金がないわけではない。しかし彼らは、供養より住宅ローンのほうが大事だと思っているのである。リンポチェが金を見ているのか。違う。かつて二千万元の現金を供養しようとした人がいたが、私は断った。昨日も、多くの供養を返した。私はあなたたちのその程度の金が欲しいのか。それほど住宅ローンが大事なら、仏法など学ばなければよい。私は、自分の事務所の家賃を払わず、大家に叱られようが、追い出されようが、それでも仏法を成就したいのである。これが、あなたたちと私との違いである。私は命を惜しまない。しかし、あなたたちは命を惜しんでいるのである。

だから、これほど仏経を説いても、あなたたちにはまるで神話や物語を聞いているように感じられるのである。なぜなら、あなたたちはそのように実践しようとしていないからである。例えば、今私が話した「無漏の智慧」という一句である。私は実際に行っているから、一目で分かるのである。しかも、上には「無漏」とは書かれておらず、「通達漏盡智」と書かれている。もし実際に行っていなければ、この一句を説明することは非常に難しい。文字の上だけでは、決して説明しきれないのである。

觀時分已而無超越」。「觀」とはどういう意味か。『心経』で言えば、「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空」である。何によって「」するのか。智慧によってである。智慧の光によって見ているので、ここでは「觀」と書かれているのである。では、「般若」とは何か。智慧である。智慧を用いて「分已而無超越」をするのである。この「分」は、分けるという意味ではない。菩薩はその智慧を用いて観ずる時、絶対に因果を超えることはないという意味である。菩薩が衆生を助ける時には、因果の法則に背くことはできず、常に因果に従って物事を行うのである。

 
例えば、非常に悪い因を作ったなら、その悪い果報は遅かれ早かれ必ず現れる。菩薩は、その果報がまだ現れる前に、その人が悪を止めるよう助け、絶えず善を積ませるのである。そうすれば、悪果が現れた時、その傷害の力が軽減されることもあり、さらには善の力があまりにも大きければ、その悪果を押さえ込んで動かなくすることさえある。しかし、菩薩は因果に背くことはできない。「因果などない。ただ仏を拝めば、すべて良くなる」などと言うことはできないのである。リンポチェがこの程度まで修行していても、時には指先の皮が少し破れることがある。なぜなら、生々世々に殺生があるからである。たとえ虫を一匹殺したとしても、必ず返さなければならない。時にはどうしようもなく殺してしまうこともある。しかし、殺した時には私はその衆生を済度する。それでもなお、報いは受けなければならないのである。あなたたちは、自分がずっと法会に参加し続ければ、すべてのことが良くなると思っているのか。

釈迦牟尼仏でさえ成仏において、なお難があったのである。ましてや、あなたたちなどなおさらである。ただし、釈迦牟尼仏は成仏された後、その難が自身を傷つけることはなかった。しかし、業報そのものは必ず現れるのである。釈迦牟尼仏はしばしば頭痛に悩まれていた。弟子たちは仏に尋ねた。「なぜ薬を飲まないのですか。なぜ神通で病を治されないのですか。」すると釈迦牟尼仏は言われた。「この病はどうにもならない。因果だからである。」昔、釈迦族はある生において、一族全体で一つの村に住み、池の水をすべて抜いて、中の魚を捕まえたことがあった。その中に非常に大きな魚がいた。釈迦牟尼仏はその魚を食べはしなかったが、棒でその魚の頭を叩いたのである。そのため、この生で頭痛の果報を受けたのである。そして、その大魚は今生では一人の国王となり、軍隊を率いて釈迦族を滅ぼした。釈迦牟尼仏の神通はすごかったか。もちろんすごかった。釈迦牟尼仏は三日三晩、道の真ん中に座って軍隊が攻め込むのを阻止された。しかし最後には、この果報は変えられないと悟り、わずかに数名の釈迦族だけを生き残らせたのである。あなたたちは皆、この話を聞いたことがあるだろう。それなのに、どうしてただ拝んだり、少し唱えたりするだけで、すべて良くなると思うのか。

あなたたちが仏法を聞きに来るのは、考え方を改めるためである。自分が悪を止め、善を行い、帰依し、修行しなければならないと知るためであって、加護を求めるためではない。もし加護を与えるだけなら、多くのお金を取らなければならない。しかし、私は仏法に背くことはできない。私は因果を恐れているからである。あなたたちは恐れていない。一日中、上師に対して失礼なことばかりしている。明らかに自分には金があるのに、住宅ローンが払えなくなるのを心配し、ぺらぺらの薄い金封の供養だけを持って来る。そして、「上師は慈悲深いのだから、きっと法を伝えてくれるだろう。伝えないなら、もう構わない」と思っている。もちろん、私を相手にしなくてもよい。私は六字大明呪が何をできるかを非常によく分かっている。あなたたちもよく分かっているだろう。私は六字大明呪を唱えるだけで済度ができるのである。なぜ六字大明呪が存在するのか。もし六字大明呪がそれほど殊勝で特別なものでなければ、釈迦牟尼仏は、あの菩薩に対して、あれほど多くの供養品を持って六字大明呪を求めに行けとは命じなかったであろう。しかし、仏経には詳しく書かれておらず、多くの法本にも説かれていない。今、私の手元には五種類の六字大明呪の法本がある。しかし私は伝授していない。なぜなら、あなたたちはその器ではないからである。

私がずっと仏経を説いているのは、あなたたちの考え方を正したいからである。仏法を学ぶ考え方は正しくなければならない。これ以上、間違っていてはならない。世間には誤った考え方があまりにも多く、仏法に対する誤解も非常に多い。さらに、自分こそ正しいと思い込んでいる人も多い。だから私は今日、『宝積経』を説いているのである。なぜなら、『宝積経』とは、菩薩道を修める者が必ず読み、必ず学ばなければならない経典だからである。仏経はあなたたちを加護するためのものではない。しかし、菩薩道を学べば、自然と加護は生じる。なぜなら、それは未来の菩薩、未来の仏となる道だからである。だから、一絲一毫たりとも間違ってはならない。法を求める時に恭敬がなければ、それ自体が間違いなのである。仏経にははっきり説かれているではないか。どのように法を求めるべきか、説かれているか、いないか。(大衆答:説かれています。)それなのに、なぜあなたたちはこのように私を軽んじるのか。私は軽く扱ってよい存在なのか。私が弟子を必要としているからか。あなたたちの供養が必要だからか。もし仏経に説かれていないことを私がやっているなら、それは間違いである。しかし私は、仏経に説かれている通りに行っているのである。 

釈迦牟尼仏は、一日中弟子たちを叱っておられた。あなたたちは、釈迦牟尼仏がいつもにこにこ笑っていたと思っているのか。そんなことはない。間違っていれば、きちんと叱り、必要なら打つことさえあった。だから、仏法を誤解してはならない。仏法は慈悲である。しかし、慈悲とは、あなたたちに対していつも優しい顔をしていることではない。もし私が毎日にこにこしていたら、私が見ているのは何か。あなたたちの金を見ているのである。毎日にこにこしているのが、どれほど疲れるか。いつも口角を上げていなければならない。疲れ死んでしまうではないか。そうだろう?私ももう年を取った。そんな体力はないのである。「無超越」とは、いかなる因果も超える、という意味なのである。

仏典曰く:「勝出世間決擇諸法。」

菩薩の智慧は、あらゆる世間の方法を超えている。そして「決擇諸法」とは、どの方法がその衆生にとって本当に役立つかを見極め、選び取る能力があるという意味である。例えば、弟子が求めに来た時、ある弟子には大礼拝をさせ、ある弟子には仏経を読ませるなど、さまざまである。一人ひとり因縁が異なるからである。なぜそのようにするのか。過去にきちんと修行せず、学ばなかったからであり、それで何かを求めようとするなら、必ず福報が必要になるのである。お金で福報を積むこともせず、普段から修行もしない。そうなれば、もうどうにもならない。だから大礼拝をしたり、仏経を読んだりして、自分に少しでも福報を積ませるのである。福報があってこそ、リンポチェもあなたを助けることができる。例えば今、諸仏菩薩や上師の助けを必要としているとしても、福報がなければ助けることはできない。助けようと思っても、なぜか分からないうちに、その縁自体が消えてしまうのである。だから皆、言うことを聞かなければならない。なぜそんなに頑固なのか。本当にあなたたちのことが理解できないのである。

仏典曰く:「所有一切聲聞緣覺之所難測。」

菩薩のあらゆる方法というものは、声聞・縁覚、あるいは一般に小乗を修める者たちには、測り知ることのできないものである。声聞や縁覚を修める者の中にも、神通を持つ者はいる。例えば現在のタイには、声聞・縁覚や小乗を修めている者の中に、神通を持つ人が多くいる。彼らはあなたにさまざまなことを話し、それが非常によく当たることもある。しかし、無漏の智慧には到達できないのである。そのため、彼らには菩薩の智慧がどのようなものか理解できず、また、なぜ菩薩が今このように行っているのかも理解することができないのである。

例えば、私たちの仏寺に蛇が現れたことがある。その蛇には少し毒もあった。普通の人なら追い払ったり、脅して逃がそうとするだろう。しかし私は、「だめだ」と言った。私は、自分の慈悲の願力によって、その蛇は人を傷つけないようにすることができると深く信じているからである。私の仏寺には、台湾に生息する二メートルほどもある非常に毒の強いコブラがよく現れる。しかし、来るたびにただ自分の道を通り過ぎていくだけで、人を噛むこともなければ、人を恐れることもない。ただ自分の道を行くだけである。スタッフたちもまた、それぞれ自分の道を歩いている。互いに干渉しないのである。あなたが蛇を刺激しなければ、蛇も凶暴な態度を見せることはない。あなたが慈悲の心で蛇を見るなら、蛇もあなたに対して凶暴にはならない。彼らは畜生道に堕ちているだけでも十分に哀れである。どうしてさらに苦しめなければならないのか。もし本当にあなたを傷つけようとしてきたなら、私たちは自分の身を守ればよい。しかし、向こうがあなたを傷つけていないなら、少し空間を与えてやればよい。仏寺はこれほど広いのだから、大殿に入り込まない限り、好きにさせておけばよいのである。もしかしたら、彼らも参拝に来ているのかもしれない。誰に分かるだろうか。(大衆笑)

仏典曰く:「菩薩神通其義甚深。懾壞群魔制伏外道。」

「菩薩神通」の意義は非常に深い。「」とはどういう意味か。前にも相対的に説明したように、たとえ出家して声聞・縁覚まで修めた者であっても、菩薩が用いる神通の本当の意味を理解することはできないのである。そこでいう「懾・壞」とは、衆生を摂受し、懐柔し、群魔を制伏し、外道を降伏するという意味である。ここでいう「魔」の定義は、必ずしも悪事を働く存在という意味ではない。ただ、その教える方法によって輪廻を解脱できないのであれば、それは仏経の立場から見れば「魔」なのである。例えば、天界へ行けたとしても、それはまだ輪廻を解脱したことにはならない。したがって、厳密に言えば、外道とは「魔」に属する。なぜなら、彼らが到達できる最高の境地は天界に過ぎないからである。しかし仏経によれば、天界に至ったとしても、なお輪廻は続くのである。

 釈迦牟尼仏は『宝積経』の中で、このように説かれている。仏の実弟は、この一生において非常に裕福で、多くの善行も行っていた。しかし、真剣に出家して修行しようとはしていなかった。そこで釈迦牟尼仏は、彼を天界へ連れて行って見せられた。天界には、彼のための席がすでに用意されており、そのそばには多くの美女たちもいた。しかし、天堂を見終えた後、さらに自分が地獄へ堕ちる姿も見たのである。それを見て、彼は初めて決心して修行しようと思った。つまり、彼は天界であらゆる福を享受した後、最後には地獄へ堕ちるということである。なぜ地獄へ堕ちるのか。福を使い果たしてしまうからである。なくなってしまえば、それで終わりなのである。

なぜリンポチェは、あなたたちの学仏や修行をずっと厳しく見ているのか。それは、あなたたちが今、本来は功徳となるべきものを福徳へと変えてしまい、その福ばかりを享受しているからである。福を使い果たせば、その後は堕ちていくだけなのである。あなたたちは、「自分は悪いことをしていない」と思っている。しかし、天界にいる天人たちも、悪事をしているわけではない。彼らも多くの善事を行っている。だが、過去世で修めた福報を使い尽くしてしまえば、残っているわずかな悪業だけでも、彼らを地獄へ堕とすには十分なのである。私たちは、生々世々どれほど多くの悪業を作ってきたことか。だからこそ、釈迦牟尼仏は皆に阿弥陀仏のもとへ往生することを勧められたのである。それは、悪業の果報をすべて受け終えてから往生するという意味ではない。悪業の業力がすでに浄められ、清浄になっているということである。清浄とは何か。それは、修行の妨げとならず、また阿弥陀仏のもとへ往生する障害にもならない、という意味である。

だから、来週の日曜日、仏寺において私は金剛手菩薩の修法を行う。金剛手菩薩とは、顕教で説かれる大勢至菩薩の忿怒相である。金剛手菩薩がなければ、阿弥陀仏のもとへ往生したいなどと思っても、待っているだけである。なぜなら、累世にわたって、自分の身・口・意によってあまりにも多くの悪業を作ってきたからである。一念を起こすたびに、それは業であり、罪である。「自分はもう十分に善良だ」などと思ってはならない。ほんの少し思っただけでも、それがすでに罪であり、業なのである。これは『地蔵経』に説かれていることであり、私が勝手に言っているのではない。「制伏外道」。ここでいう外道とは、必ずしも一般にいう外道だけを指すのではない。仏法に寄りかかる「附佛外道」もある。今は、仏教の看板を掲げながら、実際に行っていることは外道そのもの、というものが非常に多い。だから、「附佛外道」もまた外道に含まれるのである。

仏典曰く:「於菩提場而能總持一切佛法。」

「於菩提場」とは、菩提心と菩提行の中にあるその境地を指している。そこにおいてこそ、「能總持一切佛法」ができるのである。私たちは菩提心を用い、菩提心を修め、さらに菩提を証得した後に、初めて一切の仏が説かれた法を総持することができる。すべてそこに含まれているのである。なぜなら、仏法の最も根本となるものは「菩提」だからである。慈悲は「用」であり、菩提は「体」である。菩提心を修めていない者が用いる慈悲というものは、前にも述べたように、結局は「お人よし」になってしまい、自分が間違ったことをしていても、それに気づかないのである。
 
仏典曰く:「志求正覺。隨其種類轉正法輪。」

彼の志願とは、何を求めることなのか。「正覺」である。「正覺」とは、単に「正当」という意味ではない。正式であり、清浄なる覚悟、すなわち成仏の果位を得ることを意味している。「隨其種類轉正法輪」「隨其種類」には二つの意味がある。一つは、ある衆生が、ある菩薩・ある仏・ある上師と特別な縁を持っているということであり、その縁に応じて正法輪が転じられるという意味である。「正法輪」とは、釈迦牟尼仏が説かれた、一切の生死を解脱し、成仏へ至る方法のことである。もう一つの意味は、異なる種類の衆生、すなわち六道の衆生それぞれに応じて、正法輪によって助け導くということである。例えば、仏寺にいるあの蛇もそうである。もしそこに正法輪がなければ、動物たちが感応することはない。今になって私は少しずつ分かってきた。どうやら私たちの仏寺は、動物園のような場所になっているようで、いろいろな動物が集まって来るのである。(大衆笑)
 
仏典曰く:「而善調伏一切有情。至灌頂位得法自在。」

「而善調伏一切有情」とは、仏法を用いて一切の有情衆生を調伏するという意味である。そして、「至灌頂位得法自在」というこの一句は非常に重要である。なぜなら、釈迦牟尼仏ご自身が、密法の存在を説かれているからである。多くの人は、「釈迦牟尼仏は密法など説いていない」と言う。しかし、灌頂というものは、密法にしか存在しない。仏経を読むだけで灌頂はあるか。(出家衆答:ありません)あなたたちは三壇大戒を受けに行っても、灌頂はなかった。朝から晩まで、何十日もかけて行っただろう。そうだろう? 何日間だったか。(出家衆答:45日です)45日間あっても、灌頂はあったか。(出家衆答:ありません)なぜか。あなたには、まだ灌頂を受ける資格がないからである。顕教には灌頂は存在しないのである。 

「至灌頂位得法自在」「灌頂位」とは何を意味するのか。それは「準菩薩」、すなわち菩薩となる準備段階を意味している。リンポチェがあなたに灌頂を授けるということは、あなたを菩薩として育てる準備を始めるということである。「正法位」とは何か。正しく菩薩道を修行する方法の位置、境地のことである。あなたたちは勉強するために、どれだけのお金を使ってきたのか。それなのに、灌頂を受けるという正法を求める時、ぺらぺらの薄い金封だけ持って来て求めることができるのか。金がないのではない。仏法を軽んじているのである。この一句について、私は本当に拍手したい。釈迦牟尼仏が、はっきり説かれているからである。灌頂をそんなに簡単なものだと思ってはならない。菩薩道を修めていない者には、完全に灌頂は授けないのである。多くの道場は灌頂を与えるのが好きだが、私は非常に慎重である。なぜなら、あなたたちにはまだ資格がないからである。あなたたちが灌頂を受けても、一つだけ利益がある。それは福報を得ることである。しかし、修行そのものには、ほとんど関係がない。だから、日曜日に私が金剛手菩薩を修する時も、灌頂は授けない。ただこの法を修して、あなたたちを助け、修行における障礙を少しでも減らすためである。なぜなら、これは忿怒尊だからである。あなたたちはまだ灌頂を受けられない。慈悲心すら実践できていないのに、どうして灌頂を受けられるというのか。
 
この一句、「至灌頂位」という言葉は、他の経典ではあまり説かれていない。だからこそ、なぜある弟子には「永遠に密法は伝授しない」と言うのか。それは、灌頂を授けないという意味なのである。私がしていることには、すべて根拠がある。私が勝手に作り出したものではない。怒っているからでも、腹を立てているからでも、わざとあなたたちを困らせようとして言っているのでもない。この一句には、すでにはっきり説かれている。「至灌頂位」である。あなたたちに、灌頂位へ至るどんな資格があるというのか。帰依した後でさえ、帰依戒を破っているではないか。多くの人は、信者をもっと増やしたいがために、多くのことを緩めてしまっている。「緩める」というのは、「とにかく仏法を学びに来ればそれでよい」という考え方である。また、多くの人は、他の宗教に何万人、何十万人、何億人もの信者がいるのを羨ましがる。そして、「仏教にはそれほど多くの人がいない」と言う。もし私が商業型の仏教をやろうと思えば、弟子はたくさん集まるだろう。しかし、『宝積経』に基づいて修行するなら、それは不可能なのである。
 
だから、「自分はこういう教えは学びたくない」と思うなら、どうぞ自由にしなさい。去りたければ去ってよい。しかし、もしこの道を学びたいのであれば、たとえ今はできなくても、まず聞かなければならない。そして受け入れなければならない。できないこと自体は構わない。だが、聞きもせず、受け入れもしないなら、阿弥陀仏のもとへ往生する機会はないのである。もし菩薩道を修めるという考え方そのものを、まったく受け入れず、聞こうともせず、「なぜ自分はただこれだけしか学ばず、阿弥陀仏のもとへ行けないのか」と思っているなら、それは大きな誤解である。あなたたちは皆、「阿弥陀仏」と唱え続けさえすれば往生できると思っている。しかし、経典をきちんと研究していない。経典には明確に説かれている。「三不退」である。阿弥陀仏の国土へ往生するということは、「三不退」に入るということである。一つは退転しないこと。もう一つは、二度と輪廻しないことである。では、何を根拠に、「この一生で阿弥陀仏をたくさん唱えた」「少し善事をした」「帰依したことがある」「菜食している」だけで往生できると思うのか。『阿弥陀経』にははっきり説かれている。「不得少福德因緣」である。

この段には、非常にはっきりと説かれている。一人の凡夫が菩薩道を修め、灌頂位にまで至ってこそ、「法自在」を得るのである。どういう意味か。例えば、先ほどリンポチェが六字大明呪を唱えた時、あなたたちはとても熱く感じたであろう。感じたか。(大衆答:はい)とても香り高く感じたか。(大衆答:はい)これが「法自在」である。私は、その法に実際の作用を生じさせ、あなたたちに感じさせることができるのである。あなたたちも六字大明呪を唱えている。私も唱えている。あなたたちは七百人以上で仏寺の大殿で唱えているが、熱くなるか。むしろ、唱えれば唱えるほど寒くなり、疲れてくる。そうだろう。それは「法自在」がないからである。では、「法自在」はどうやって得るのか。それは、灌頂を非常に尊重し、灌頂を受け入れることから始まる。そして灌頂を受けた後、上師を深く尊重し、一つ一つの法をすべて尊重することである。「自分が修行している」「自分が唱えている」などと思ってはならないのである。

私は以前から、あなたたちにずっと言っている。密教においては、あらゆる修行は、本尊に供養し、上師に供養するところから始まるのである。しかし、あなたたちは違う。あなたたちは、すべて自分の冤親債主に回向している。しかし『宝積経』には、私たちは「阿耨多羅三藐三菩提心」に回向すると説かれているのであり、冤親債主に回向するとは説かれていない。あなたたちの修行の仕方は、『宝積経』に説かれている内容と完全に逆行しているのである。だから、永遠に「得法」することはできない。法が得られなくても、それ自体は構わない。しかし、せめて言うことは聞かなければならない。ところが、言うことも聞かず、自分勝手に、自分の考えでやっている。それなら、私がこれほど多くを説いている意味がどこにあるのか。ただ「唱えなさい、唱えなさい」とだけ言っていれば、それで済むではないか。

あなたたちは、灌頂というものがそんなに簡単に得られると思っているのか。もし一人の上師が閉関修行を行ったこともなく、自ら「法自在」を得ていないなら、その人には灌頂を授ける資格はない。例えば、チベット仏教においては、リンポチェの位にある者でなければ灌頂はできない。正式なリンポチェでなければ、灌頂を授けることはできないのである。少しでも戒律を守っているラマであれば、皆このことを知っている。だから、軽々しく人に灌頂を与えたりはしない。「それはしてはいけない」と分かっているからである。なぜいけないのか。灌頂とは何を意味するのか。それは、上師の福報をあなたたちに与え、その修行功徳をあなたたちに与えるということなのである。あなたたちは、「瓶を持っていれば灌頂だ」と思っているのか。そんなに簡単なものなら、私は瓶を持って、あなたたちの頭をずっと叩いていれば、それで灌頂ということになってしまうではないか。

今日説いたこの段について、皆は帰ってからよく思惟しなければならない。たとえ今はできなくても、できないとしても、あるいは「このようにやろう」という願をまだ起こせなくてもよい。しかし、釈迦牟尼仏が説かれた考え方だけは、完全に受け入れなければならない。受け入れ、しっかり聞き入れなければならないのである。もう自分勝手な考え方をしてはならない。「仏法を学びに来るのは、こういうためではない。すべての問題が起こらなくなるためだ」と思っている。もちろん、菩薩となれば、多くの問題は起こらなくなる。しかし、「私はここへ来てあなたの説法を聞き続ければ、それだけで良くなる」と思っているなら、それは違う。そんなことはない。「あなたの法会に参加すれば、自分は良くなる」とも思っている。あなたが修行者でないなら、私の法会に来て何をするのか。今日、仏寺で法会を行っているのは、多くの信衆が、以前に仏寺建設のために供養をしてくれたからである。だから私は、仏法によってその恩に報いているのである。一度も供養したことのない者は、たとえ申し込んできても、私は法会への参加を許可しない。

私は「世界中で」とまでは言わない。しかし少なくとも、突然銀行口座を閉じて、寄付を受け付けなくなった仏寺など、他に聞いたことがない。聞いたことがあるか。(大衆答:ありません)
リンポチェは出家衆に尋ねた。「あなたたちも聞いたことがないだろう?」(出家衆答:ありません)

なぜ受け付けないのか。あまり多くを背負いたくないからである。十分あれば、それでよい。もし私がずっとこの口座を開いたままにしていれば、ずっとお金が入ってくる。どれほど楽しいことか。あなたたちは、本当に帰依する相手を間違えたのである。なぜなら、このリンポチェはあまりにも厳しすぎるからである。私は妥協しない。私はもう79歳まで生きてきたのに、今さらあなたたちに妥協してどうするのか。だから、もしあなたたちが法に対して恭敬を持たず、跪いて涙を二滴流せば、私が法を伝えてくれると思っているなら、それは大きな間違いである。なぜなら、私は自分がどのように法を求めてきたかを、自分自身ではっきり知っているからである。あなたたちは、どうやって法を求めているのか。昔、法王がどこへ行かれる時も、法王が一声かければ、私はすぐについて行った。あなたたちに、それがあるか。「どこへ行くか」以前の問題である。……もう、これ以上は言いたくない。

とにかく、この段は、修行するあなたたちにとって非常に重要である。また、顕教と密教の違いがどこにあるのかも理解させてくれる。たった一句、「至灌頂位」。灌頂位に至ってこそ、初めて密教を学ぶのである。たとえ灌頂を受けたとしても、上師が法を伝授しなければ、それはまだ密教を学んだことにはならない。では、私が灌頂を授けるとはどういう意味か。まず、あなたにその因縁を作ってあげるということである。その後、あなたが変わるかどうかを見る。もし変わったなら、私は一度の灌頂を省けたことになる。しかし、変わらなければ伝授しない。本当に伝授しない。あなたたちは、「それなら今、お金をたくさん差し上げれば、伝えてくださるでしょう」と言うかもしれない。伝えない。なぜか。あなたたちは私を尊重していないからである。ここでいう「尊重」とは、私という人間を尊重することではない。私は、この一生で修行してきた人間であり、自分がどのように修してきたかを知っている。どうすれば正法を得られるか、その方法も知っている。あなたたちが言うことを聞かないということは、すなわち尊重していないということである。あなたたちがどんな人間であろうと、どれほど学歴があろうと、どんな身分であろうと、関係ない。皆同じなのである。

今日はまず、ここまでにしておく。あなたたち自身が、菩薩道に対してどのような考えを持っているのかを、よく理解してほしい。そして、はっきり分かっておかなければならない。「仏は密法を説いていない」などと言ってはならない。「至灌頂位」という一句こそ、その証拠なのである。仏経には、はっきりと説かれている。八地以上の菩薩にまで修行が至れば、すべての仏と大菩薩が現れて、密法を学ぶよう勧めるのである。しかし、あなたたちは勧めてもらう必要はない。なぜなら、初地にすら達していないからである。あなたたちにあるのは、叱られることだけである。それでも叱って目を覚まさないなら、私にもどうしようもない。私が修行していた頃は、仏経を読んでいたわけではない。ただ上師の話を聞き、上師が「これをやれ」と言えば、それをやった。ひたすら、ずっとやり続けたのである。今になって振り返って仏経を読むと、自分が実際にその通りに修していることが分かる。これは、「私の上師が正しかった」と証明したいのではない。私が上師の言葉を聞き、その通りに従ったからこそ、正しい道を歩めた、という意味である。あなたたちは、言うことを聞かないのに、どうして正しい道を歩めるというのか。いつも自分の損得ばかり計算しているのではないか。

私が直貢梯寺の金頂を造った時には、お金がなかった。だから、自分の物を安く売ったのである。本来一千万の価値がある物を、百万円で売った。その時、頼姓の弟子が「お金はどこから来るのですか」と私に尋ねた。私は、「私にも分からない」と答えた。分からなくても、お金は自然に来るのである。なぜなら、私は直貢梯寺の金頂を造るためにやっていたのであり、自分のためではなかったからである。金頂を完成させても、そこに私の名前を刻んだりはしなかった。冗談ではない。もし自分の名前を刻んだら、毎日人に拝まれることになる。それでは大変なことになるではないか。だから私は、自分の修行の経験をこうして全部あなたたちに話しているのである。それなのに、あなたたちは聞かず、自分のやり方でやろうとする。そんなやり方では、絶対に法を求め得ることはできない。私は、あなたたちに「私のように泥の地面に伏して法王に頂礼しなさい」と教えているのではない。そんな機会は今はないし、私も道場にわざわざ泥の地面を作って、あなたたちに礼拝させるつもりもない。しかし、最低限の恭敬くらいは、態度として示すべきではないか。昨日、法を求め終わった瞬間に、すぐ走って行った弟子がいた。まるで表彰式で賞を受け取ったように、「あっ、もらえた!」という感じである。自分は運が良かった、うまく得られたと思っていたのであろう。ところが、私の目に入ってしまった。だから、すぐに法本を取り返したのである。

寶吉祥の道場で仏法を学ぶことは、とても良いことである。しかし、とても苦しい。なぜなら、あなたたちがこれまで人として生き、物事を行ってきたやり方を、完全に覆さなければならないからである。だが、それでも良いことなのである。私はすでに約束している。私に帰依した弟子であり、この道場を離れない弟子であるなら、私がこの一生に存在している限り、あなたが死んだ時、私は必ずあなたを三悪道に堕とさないよう助ける。これは私の誓いである。しかし、成仏できるかどうかは、あなたたち自身の修行にかかっている。そこまでは、私は約束することはできない。私はただ、あなたたちを助けると発願しているだけなのである。
 
祖師ジッテン・サムゴン著『一意』
 

先週、少しジッテン・サムゴンの『一意』について話した。第二の一句はこうである。「萬有輪滅,所攝的一切法,皆為自心。」(つまり、あなたが輪廻していようと、涅槃していようと、あらゆる法として現れているものは、すべて自らの心によるという意味である。)すべてはあなたの心が動いているのであり、すべてはあなたの心によって決定されているのである。ちょうど以前、私が書いた一句のように、「一法不生,一法不滅,法生心之動也。(一つの法も本来は生じず、一つの法も本来は滅しない。法が生じるのは、心が動くからである。)あなたの心が動くからこそ、法が現れ、また法が消滅するのである。「雖然有如是主張,各種外相之顯現與內心無關。但本宗則主張,萬有輪涅所攝一切法皆為自心。」(世の中には、「外に現れるあらゆる現象は因縁法であり、自分の心とは関係ない」と主張する人もいる。しかし、我々の教派では、「輪廻であれ涅槃であれ、そこに含まれる一切の法は、すべて自心によると説いている。)もちろん、外の現象は因縁法だと考える人もいる。しかし、私たちの伝承では、あらゆる出来事は、すべてあなたの心と関係していると考えるのである。

「一切顯現為紅白分明的外相,必然是成立於外在,與內心完全無關聯。自心感受各種苦、樂、高低情緒時,外相的他人無法感受;他人所感受到的各種苦樂,自己也無法感受。」(つまり、はっきりと区別されて外に現れているあらゆる現象は、外界に成立しているものであり、自分の内心とはまったく関係がない、と考える人がいるということである。自分の心が苦しみや喜び、感情の高低を感じている時、その感覚は他人には分からない。逆に、他人が感じている苦しみや喜びも、自分には感じることができない。だから、多くの人は、「外に現れているものは、自分の心とは完全に無関係だ」と考えるのである。)この一句は何を説明しているのか。ある人たちは、自分の外側で起きていること、つまり自分と関係ないように見える出来事について、「これは自分の心とは関係ない。ただ相手自身がやったことだ」と考えている、ということである。だから、自分の苦しみや喜びは自分だけが知っているし、相手の苦しみや喜びは、自分には分からないのである。
 
これに対して、ジッテン・サムゴンは次のように説かれている。「萬有輪涅所攝一切法皆為自心。」つまり、輪廻であれ涅槃であれ、その中に含まれる一切の法は、すべて自らの心によるのである。『覺巴甚深法類』には、「輪廻與涅槃所攝一切法皆為自心」と説かれている。
声聞の毘婆沙宗では、「外に現れる相は他によって成立するものであり、自分とは関係ない」と説く。しかし本宗では、「一切の外相は、すべて自心である」と説くのである。また、「妄念習氣惑,人前顯外境,外境顯不存,由心顯各種。」とある。妄念や習気、迷いによって、人の前に外境が現れる。しかし、その外境そのものが独立して存在しているわけではなく、すべては心によってさまざまに現れているのである。また、「從緣生諸相,妄念作分別,見外事乃邪,無事是唯心。」とも説かれている。あらゆる相は因縁によって生じるが、妄念によって分別を起こし、「外に実体がある」と見るのは邪見であり、本来はすべて唯心なのである。仏陀は、「万象は自心である」と説かれた。ただし、それは因果の立場から説かれているのであり、他のどこかから突然生じるという意味ではない。煩悩・三毒の心に従って起こる業の果報、それが三界輪廻である。そして、その煩悩・三毒を断つ心に依るならば、すなわち、
・貪を断つ殊勝なる戒学
・瞋を断つ殊勝なる定学
・癡を断つ殊勝なる慧学
この三学によって、その結果として涅槃を成就するのである。では、この八万四千の煩悩は、何を基盤として存在しているのか。顕教では、「阿頼耶識の中にある煩悩習気の心」に存在すると説く。密乗では、「金剛身の中」に存在すると説くのである。例えば、種子が水や土などの縁に出会えば芽を出すように、前述の三学によって煩悩習気を養い転換していけば、一切の過失を滅し、ついには仏身の果位を成就できるのである。このことについては、外・内・密のさまざまな説明があるが、ここでは少しだけ述べた。仏陀は菩提樹の下で成仏された。その樹の根は黄金のようであり、幹は瑠璃のような青色をしていた。枝葉もまた、無数の宝石が集まったようであった。これは外相としての説明である。しかし、その密義とは何か。この菩提樹とは「中脈」を表しているのである。その色は純金のようであり、心気が中脈に入ることによって、金剛座の上で成仏するのである。……このように、さらに深い意味が数多くある。詳しくは『甚深法』および『ジッテン・サムゴン教言集』を参照しなさい。

また、パモ・ドゥパに関する一つの逸話がある。パモ・ドゥパが董上師を訪ねた時、こう質問した。「万象はすべて自心なのでしょうか。」董上師は答えた。「そうである。」すると、さらにこう尋ねた。「それならば、仏陀はすでに一切法が空性であると証悟されているのに、なぜ菩提樹はいまなお金剛座に存在しているのですか。」董上師は答えず、ただ叱って言った。
「修行しに行け!」ジッテン・サムゴンはこれについて、こう述べている。「もしその時、『菩提樹が存在しているということは、あなたの心を表しているのであり、空性の中で成仏するのもまた、あなた自身の心なのだ』と答えていたなら、董上師は必ず彼の根本上師となっていたであろう。」先ほど述べたように、色から一切智に至るまで、あらゆる法はすべて縁起である。この重要なポイントによってのみ、心の中に現れるのである。ただそれだけのことであり、実際には、その自性はゴマ粒ほどたりとも成立していない。『喜金剛續』には次のように説かれている。「根與境種種,完全無分別。色等諸外相,唯是自心顯。」つまり、感官と対象のさまざまな現れには、本来なんの分別もない。色などのあらゆる外相は、ただ自心によって現れているにすぎないのである。

この一段を読み終えた。簡単に要約して言えば、あなたが目にしているあらゆる外の現象は、「自分とは無関係」なのでもなければ、「誰とも無関係」なのでもない。絶対に、自分自身の業力と関係しているのである。もし累世の業力が善であるなら、決して混乱した場所に生まれることはない。もし累世の福報が十分にあるなら、いわゆる壊れた家庭に生まれることもない。だから、一切の外相は、すべて生生世世において自分が作ってきた業と因果に関係しているのである。昔、六祖慧能が有名な一句を説かれた。「幡沒有動,只是你心在動。(旗が動いているのではない。ただ、あなたの心が動いているだけである。)つまり、あなたが見ている「動いているもの」も「静かなもの」も、すべてはあなたの心が動いているのである。心が動かなければ、外に現れているすべての現象は、ただ一つの過程にすぎない。それは因縁法であり、固定されたものではなく、常に変化し続けているのである。

ちょうど私がよく例に挙げるように、あなたたちは今、私の法座を見て「とても堅固だ」と思っている。しかし実際には、それも絶えず変化しているのである。木の内部にある原子や分子も常に変化しており、いつかは粉々に崩れる。これが、いわゆる「空性」である。もちろん、空性とは「どれくらい時間が経てば壊れるか」という意味ではない。しかし、根本的にはそのようなことである。だから、今日もし私たちが、「外に起きていることは自分とは無関係だ」と考えているなら、自然に空性の慈悲心を修めることはできない。もし、外の人々の喜びや苦しみが自分とは関係ないと思うなら、やはり空性の慈悲心を修めることはできない。また、すべての出来事は「他人が自分を傷つけるためにやっているのだ」と思っているなら、それも因縁の法則を理解していないのである。さらに、自分の心だけが存在し、他人の心とは関係ないと思うなら、それもまた間違いである。

もし仏陀が説かれたように、「心は虚空の如し」と理解するなら、心とは虚空のように広大なものなのである。だから、衆生の心も本来は同じである。ただし、衆生の心は貪・瞋・癡・慢・疑によって覆われているため、その心はある狭い範囲に閉じ込められてしまい、本来の働きを用いることができないのである。例えば、私がポワ法を修する時、もし私の心が虚空のようでなければ、もし私の心に空性がなければ、どうして数千キロ離れた場所にいる亡くなった人のために修法し、しかも成就させることができるだろうか。なぜ可能なのか。それは、私の心が動けば、その出来事もまた動くからである。もし私の心が動かなければ、その出来事も動かない。だから、一切の喜びも苦しみも、すべてはあなたの心が動いているのである。

ジッテン・サムゴンのこの金剛語の重点は何かというと、ジッテン・サムゴン自身が顕教・密教の両方において大成就を得ていたため、この一句は顕教の方法によって私たちに説明されているということである。例えば、彼はパモ・ドゥパの話や、菩提樹の話を挙げている。空性の立場から見れば、この菩提樹もただの因縁法にすぎない。しかし、空性によらず世間の見方で見れば、それは固定された一本の樹である。だが、この菩提樹がどれほど存在し続けるかは分からない。なぜなら、因縁は常に変化しているからであり、絶えず変わり続けているからである。だから、もし自分を仏法を学ぶ者だと思うなら、今日自分が受けている苦しみや喜び、そして衆生が受けている苦しみや喜びは、本来同じであり、平等であるということを、はっきり理解しなければならない。

あなたが、「私はあの人より苦しい。あの人は私ほど苦しくない。」「私はあの人より幸せだ。あの人は私ほど幸せではない。」と思っていたとしても、それはあなた自身の考えであり、あなたの心の作用にすぎない。もしかすると、相手のほうがあなたより幸せだと感じているかもしれない。例えば、一人の乞食が何日も空腹だったとする。そこへ突然、誰かがパンを一つ施したなら、彼はとても幸せを感じる。しかし、あなたが毎日お腹いっぱい食べている状態で、さらにパンを一つ渡されたら、苦しく感じるであろう。同じ一つの物ではないか。試してみるか。一人を一週間食べさせずにいて、突然パンを一つ与えれば、その人はとても喜ぶ。逆に、毎日たくさん食べている人に、さらにパンを一つ与えたら、きっとこう言うであろう。「頭がおかしいのか?もう苦しいほど満腹なのに、まだ食べさせるのか!」つまり、作用しているのは「心」なのである。空腹だからでも、満腹だからでもない。その人の心が決めているのである。

この一句の意味は何か。あなたたちは、「私は仏法を聞きに来ているのだから、自然に分かるようになる」と思っている。それは間違いである。どこが間違っているのか。あなたはただ耳で聞いているだけだからである。耳で聞いたもの、つまり聴覚というものは、変わってしまう。もし「聞けば理解できる」と思っているなら、私は逆に感心する。なぜなら、釈迦牟尼仏はそのようには説かれていないからである。釈迦牟尼仏は常に、「聞・思・修」が必要だと説かれ、また常に「帰依しなさい」と説かれている。あなたが帰依しなければ、いくら法会に参加しても役に立たない。大学で言えば、あなたは永遠に「聴講生」にすぎないのである。聴講生に卒業証書はあるか。学位はあるか。仏法も同じである。仏法は、学位や卒業証書を与えるためのものではない。しかし、あなたが帰依しないなら、仏菩薩はあなたの存在を知らないのである。私は以前から話している。私が毎日観音菩薩を念じる時、帰依している者と、帰依していない者では、磁場が違うのである。だから、私たちが帰依した上で念誦していると、すべての護法や天龍八部は、「ここにこういう人がいる」と分かるのである。

例えば、『地藏経』には非常にはっきりと説かれている。もし毎日一万遍、地藏菩薩の聖号を唱え続ければ、三年後には、その周囲の善神たちがその家を守護するようになる、と。昔の私は、「これは物語のような話ではないか」と思っていた。しかし、実際に自分でやってみて、それが本当だと分かった。今では、私がどこへ行って修法しても、どの方向に宮や廟や仏寺があるか分かる。なぜなら、彼らがやって来るからである。これは何を証明しているのか。私が三年以上唱え続けたからこそ、彼らがこの場所を守護しに来るのである。仏経は間違ったことを説いていない。仏経は神話物語を語っているのでもない。ただ、あなたたちが言うことを聞かず、自分勝手な考えで仏法を学んでいるだけである。そのまま努力し続ければよい。だが、保証する。あなたたちは永遠に法を得ることはできない。

 
だから私は、一度に一句ずつ金剛語を説いているのである。この金剛語は、名相に執着している者たちにとって、とても役に立つ。リンポチェは、出家して三十年以上になる弟子に向かって言った。「お前はもう修行しなくていいと思う。お前は名相ばかり理解して、そんなに多くのことを覚えて、一体何になるのだ?」「一切皆為自心作。」すべては自らの心が作り出しているのである。ちょうど昔話した「推敲」(忖度)の故事のようなものだ。「門を“押す”のが良いのか、“叩く”のが良いのか。」お前はまさにそういう類の人間なのだ。この一句の意味をしっかり理解しなければ、あと十生修行しても、結局は同じ有様のままである。
 
私たちが仏法を学ぶというのは、この「心」を修めるということである。では、私たちが他を「外道」と呼ぶ時、それはどういう意味なのか。外道は外側ばかりを修める。しかし仏法は、内へ向かって修めるのである。自分自身の心をはっきり見つめ、その心を本来の姿へと戻していくのである。いわゆる「」とは、心の形を別のものに変えてしまうことではない。ただ、不必要なものをすべて取り除いていくのである。そうして清浄なる本性を回復すれば、自然に物事が他人よりもはっきり見えるようになるのである。

リンポチェは弟子たちを率いて、アキ護法の修持および回向儀軌を修された。

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2026 年 05 月 14 日 更新