尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年05月03日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座にお上がりになった後、しばらくの間六字大明呪を唱誦された。尊き御身および壇城からはまばゆい黄金色の光が放たれ、会場には妙なる香りが満ち、大地は震動した。参会者一同は全身が熱くなるのを感じ、あらゆる雑念が瞬時に止息し、リンポチェの殊勝にして清浄なる仏法の教えを受けることができた。
リンポチェは貴重なる仏法の開示を賜った:
本日は引き続き『宝積経』「禅定波羅蜜多品第十之三」を開示する。ここで説かれている内容は、すでに八地菩薩以上を証し、法身菩薩に至ろうとする境地についてである。あなたたちにとっては、現時点では実践できず、人生経験からも理解し難いであろう。しかし、仏経に説かれている以上、必ず開示しなければならない。それによって、修行の方向がどこにあるのかを理解できるようになるのである。
私は常々、寶吉祥は菩薩道を伝える道場であると強調している。ただ真言を唱え、仏を拝むだけで菩薩道を修めているのではない。自分の心が菩薩のようであるかを知らなければならず、もしそうでなければ、菩薩道を修めていることにはならない。だからこそ、釈迦牟尼仏は『宝積経』の中で、菩薩道を修める際の行為、思想、能力、成就について説かれているのである。経典には多くの境地が説かれているが、あなたたちは今生では修め得ることができない。では、なぜ釈迦牟尼仏は西方極楽世界や不動仏の仏土を紹介されたのか。第一に、あなたたちが一生のうちに修めきれないことを案じられたからであり、第二に、この一生で密法を学べないことを案じられたからである。密法を学ばなければ、輪廻の過程の中で自ら生まれ変わる場所を選ぶことは絶対にできない。それができるのは密法の中にのみある。したがって、最も確かな保障となるのは、西方極楽世界への往生を発願することである。
不動仏の境地も、一般の人が修められるものではない。生きている間はまだ凡夫であり、まだ生死輪廻から解脱していない時には、ただ発願しさえすれば西方極楽世界へ行くことができる。しかし、不動仏の浄土へは、この一生で少なくとも菩薩の果位を証得して初めて行くことができるのであり、その違いはここにある。多くの人は、阿弥陀仏を一声念じれば行けると思っているが、そうではない。たとえ阿弥陀仏を一声念じるとしても、それはすでに菩薩道を修める準備を始めているのである。『阿弥陀経』、『無量寿経』にもはっきりと説かれているように、阿弥陀仏のもとへ行く者は、すなわち菩薩の予備位にある者であり、凡夫から菩薩を修めようと準備している修行者なのである。したがって、この一生において菩薩道について何の観念もなく、自分がなぜ仏を学ぶのかをまったく知らず、ただ加護を求め、身体の健康を求め、自分が理解し分かることだけを求めている人は、この一生で絶対に阿弥陀仏のもとへ行くことはできない。たとえどれほど多く念じたとしても、行くことは不可能である。
『阿弥陀経』には「不得少福徳因縁」と説かれている。「福」とは何か。この一生において、阿弥陀仏のもとへ行くことのできる多くの福を修めることである。なぜなら、菩薩の福は非常に大きいからである。「徳」とは何か。戒律や禅定など、すべてを成し遂げて功徳を生じさせ、因縁のある人だけが行くことができるのである。多くの人は、仏経を聞き、仏法を聞き、ひたすら阿弥陀仏に自分は行きたいと言い続ければ行けると思っている。しかし、行けないのである。最も簡単な例を挙げよう。たとえば大学を卒業して、さらに海外で修士や博士の勉強へ行こうと思っても、準備ができておらず、条件を満たしていなければ、向こうはあなたを行かせてくれない。お金があっても行けないし、英語やドイツ語が話せても行けない。必ず学校が求める条件に適合しなければならない。そして、阿弥陀仏の浄土が求める条件とは、この一生において菩薩道を修めようと発願しているかどうかである。もしこの一生で、ただ個人的な理由のためだけに仏を学んでいるのであれば、輪廻を続けることになる。
多くの人は、不共四加行を修め終えれば輪廻から解脱できると思っているが、そうではない。なぜなら、自分自身を修めているのであって、菩薩道を修めているのではないからである。菩薩道とは何か。それは自我がないことである。自我がないとは何か。あまり複雑なことを話しても、あなたたちには理解できない。たとえば最近、私の中華レストランが開店して数日後、一匹のネズミが入ってきた。私はその日のうちにすぐ営業を停止した。多くの人がどうやって捕まえるか提案してきた。粘着式のネズミ捕りを使うとか。しかし私は駄目だと言った。そのネズミを傷つけてしまうからである。毒薬などはもちろんさらに許されない。餌を与えてネズミ籠に入ったところを捕まえようとしたが、そのネズミは非常に賢く、7日間ずっと籠の外を見回るだけであった。私たちは5つのネズミ籠を置いたが、5つすべてを見回るだけで、決して入らなかった。このネズミには絶対に経験があった。最後に私は、ネズミ籠を偽装しようと言った。包んでネズミ籠に見えないようにして、そこに置き、その夜に「私が出馬した。お前を捕まえるぞ」と言った。すると、その夜そのネズミは、その偽装したネズミ籠に入ったのである。
この話の意味は、リンポチェはどんな生命も傷つけるに忍びず、8日間の売上を犠牲にしてでも営業をしないことを選び、しかも今もなおそのネズミを飼っているということである。私は少し検査に連れて行こうと言ったが、多くの獣医やペットショップは引き受けることを恐れ、「連れて来ないでください」と言った(大衆笑)。これこそが、仏法を学んでいる者と学んでいない者との違いである。だから、慈悲心を学んでいなければ、簡単に過ちを犯してしまうのである。私はこれほど大きな店を開いていて、一匹のネズミがいるだけで営業をしない。毎日どれだけ損失があるか。あなたたちであれば、もう心が切り裂かれるような思いになるだろう。今こうして捕まえたが、菩薩道を行うというのは、やりたいと思えばできるものではなく、多くの因縁が必要なのである。だからこそ、私はいつもあなたたちに、人と悪縁を結んではならない、とりわけ上師に対しては絶対にしてはならないと教えているのである。道理はここにある。福がなく、善がなければ、善縁を結びたいと思っても、その機会すらないのである。
最近、仏寺でもとても不思議な現象がある。一匹の蛇が昼間に観音殿の入口まで這って来て、そこで眠るのである。蛇は昼間に眠ることはなく、必ず涼しい場所や茂みの中に隠れているものである。ところが、その蛇は夜になると茂みへ戻り、昼になるとまた観音殿の近くへ来て眠る。動物に霊性があると思うか。あるのである。なぜなら、そこでは自分が傷つけられないと分かっているからである。なぜ動物は感じ取れるのか。それは、そこに観音菩薩がおられるからではなく、住職に慈悲の心があり、衆生を傷つけないからである。仏寺にはよく大きな毒蛇が現れるが、私は警備員に対して、殺してはならない、叩いてはならない、追い払ってはならないと厳しく警告している。蛇は自分で去っていくのである。あそこに毒蛇が多いのは、カエルが多いからである。カエルがいれば、必ず毒蛇もいる。蛇たちはカエルを食べるためである。
口先で仏を学びたいと言うのではなく、慈悲を学ばなければならない。慈悲とは、自分の苦しみや損失に耐えて、衆生を助けることである。最も簡単な例であなたたちに説明しよう。私は8日間営業をしなかったが、家賃や水道光熱費、給料を払う必要があるかないか。もちろん払わなければならない。それだけでなく、その間に人を呼んで消毒もしてもらった。消毒一回で二万元以上かかる。なぜこのようにするのか。第一に、衆生を傷つけないため。第二に、食事に来る客に衛生と安全を提供するためである。私だって、構わないということもできる。ネズミは昼間は天井裏に隠れ、夜に出てきて食べる。それが私に何の関係があるのか、と。しかし、商売をする者は、そのように良心を欠いていてはいけない。だから私はいつもあなたたちに言っている。私のところへ食事に来るのは、料理がおいしいからではなく、衛生と安全をとてもきちんとしているからだと。最近、外で食事をして病気になった弟子がいて、私のところへ来て話した。私は何度も言っているが、あなたたちのお金を稼ぎたいのではなく、安心のためである。しかし、あなたたちはそうではない。あの男性たちはあまり食べに来ないから、一人ひとり私より老けて、白髪だらけになっている。食べるのを惜しんで、節約したお金も結局は見ることができないのである。
今日はあなたたちのお金を稼ぎたいのではない。私は店を一軒経営するのにとても苦労している。なぜなら、私は衛生条件に非常にこだわっているからである。したがって、菩薩道を修めるというのは、スローガンを叫んだり、いくつかの名詞を学んだり、何かを聞いたことがあるだけで菩薩になるのではない。さらには、菩薩戒を受けたからといって菩薩であることを意味するわけでもない。あなたの思想、行為、動作が菩薩を学ぶものであってこそ、それが菩薩なのである。もしそのようであれば、阿弥陀仏のもとへ往生できる機会は非常に高い。そうでなければ、機会はない。ある人は、『阿弥陀経』にはただひたすら念じればよいと書かれているのではないかと尋ねる。しかし皆は一句を忘れている。「不得少福德因緣的善男子善女人」という一句である。この一句が最も重要であり、この一句がなければ、他はすべて役に立たない。この一句を実践してこそ、その後で釈迦牟尼仏はさらに「若一日、若二日」といったことをあなたたちに説かれたのである。
多くの人は『阿弥陀経』はとても簡単で、唱えれば行けると思っている。しかし、行けないのである。阿弥陀仏のもとというのは、そんなに簡単なものではない。あなたたちは密法を修めたことがないので分からないが、顕教では浄土五経によって浄土を説明している。しかし、本当の意味での仏土全体というものは、あなたたちには本当に見ることができないのである。
仏典曰く:「復次舍利子。菩薩摩訶薩得不退轉神通。或以意想。或以事業。皆是所作遊戲神通。」
この段から「禅定波羅蜜多」について説かれている。「波羅蜜多」は一般の凡夫が修める方法ではなく、菩薩が修めるものである。したがって、その中には顕教と密法の両方が含まれている。しかし、密法は公の場で説かれるものでも、公開して伝授されるものでもない。必ず上師が、その弟子に密法を学ぶ資格があるかどうかを見極めた上で伝授するのである。そのため、顕教で説かれているのは文字上の説明であり、それを見たあなたたちは、「そんなことはできるはずがない。どうしてこのように説くのか」と感じる。しかし実際には、できるのである。
最初の一句「復次舍利子」。釈迦牟尼仏は弟子の舎利子に向かって、「菩薩摩訶薩得不退轉神通」と説かれている。「菩薩摩訶薩」とは大菩薩のことであり、八地以上の菩薩を指す。初地、二地、三地の菩薩ではない。なぜ仏はこれほど高い境地について説かれるのか。初地、二地、三地については説かず、最初から菩薩摩訶薩について説かれるのか。それは、八地菩薩以前、すなわち初地から七地までの菩薩は、再び来世において衆生を救済すると発願しているため、なお輪廻する機会があり、この法門を必ずしも修められるとは限らないからである。私たちが衆生を度する過程において、衆生が度されることもあれば、ある衆生は不敬の心、さらには瞋恨の心を起こすこともある。その場合、その菩薩は再び来てその者を度すのである。しかし、八地菩薩を過ぎると、すべてが完全に清らかになり、一生において負っていたものはすべて返し終えているのである。
たとえば、以前、我が直貢噶舉には百二十数歳の老アニ(高齢の比丘尼)がおられた。リンポチェの果位を持つ方である。私がその方にお会いした時、彼女は自ら、「このリンポチェは今生を去れば、もう再び来ることはない。なぜなら、この一生ですべて返し終えたからだ」と話された(詳しくは「大修行者と尊きリンチェンドルジェ・リンポチェとの殊勝なる法縁――尊き任責卡結文毛リンポチェ・老アニ」を参照)。したがって、返し終えていなければ、必ず輪廻するのである。多くの人は、不共四加行を修め終えれば輪廻しなくなると思っているが、それは不可能である。不共四加行は、ただ私たちの基礎を築き、後のさらに深奥な法門を学ぶための福報を得させるものである。しかし、不共四加行だけで輪廻から解脱できることを意味するわけではない。輪廻から解脱するまで修めるには、必ず無上瑜伽部まで修めなければならない。そして、無上瑜伽部の上師であれば、必ずあなたを輪廻から連れ出す能力を持っているのである。
顕教ではこの部分まで修めていないため、あなたたちに説明するのは非常に難しい。だから私はずっと、仏法の多くの基礎理論をあなたたちに説いているのであり、あなたたちは聞かなければならず、聞いた後には、自分がどのように実行するかを考えなければならない。思考を通して、私たちは「聞」、つまり聞法し、「思」、つまり考える。そしてその後、自分の凡夫の行為を修正しなければならない。「今日は怒りを起こしたから、今後は少し怒るのを控えようにする」というだけでは、それは人としての一種の品徳にすぎない。重要なのは、私たちに輪廻する機会を生じさせる行為を修正することである。最後まで修めていけば、この輪廻する行為は減少し、さらに発願していれば、必ず阿弥陀仏のもとへ行くことができる。もしこのように修めず、ただ長年帰依しているから、毎回の法会でリンポチェの加持と加護があり、自分がずっと安穏に過ごせ、子どもが成長して学業を終えるのを見届けられることだけを望んでいるなら、それは修行ではない。
たとえあなたが私に帰依していても、私は、私に帰依した弟子であり、この道場を離れず、帰依戒を離れない限り、この一生が終わる時には、必ずあなたが三悪道を離れるのを助けると約束している。これは私の誓いである。「私から離れない」という意味ではない。そのようには言わない。しかし、阿弥陀仏のもとへ行けるかどうかについては、私は約束することはできない。なぜなら、あなたに修行があるかどうかを見なければならないからである。多くの人は、リンポチェの済度はとてもすごい、ポワ法の修法もとてもすごいと思っている。しかし私は今、ポワ法を修めることを減らしている。なぜなら、過去世で私が負っていた衆生に対しては、すでに彼らのためにポワ法を修め終えたからである。これから先、まだ因縁があって私にポワ法を修めさせるかどうかは、福徳と修行の過程次第である。私は今、あなたたちのために軽々しくポワ法を修めることはしない。それはリンポチェに分別心があるからではなく、あなたたちに福徳と修行があるかどうかを見るからである。リンポチェが以前たくさん修めていたのは、前世で彼らと何らかの因縁があることを知っていたためであり、だから今生で彼らを助けたのである。
「得不退轉神通」。法身菩薩を証得した時、その神通は退転することがない。しかし、すべての外道の神通は退転する。さらには、私たちが仏法を学んで生じたわずかな神通でさえも退転するのである。いわゆる「退」とは、その心が散乱した時、また功徳が減少した時、その神通も退き、減少するということである。法身菩薩、すなわち八地以上の菩薩を証得して初めて、「得不退轉神通」不退転の神通を得ることができる。つまり、その時にはもはや修める必要がないのである。したがって、菩薩を修める道の最後にある「無修道」とは、このような境地であり、もはや修める必要がない。なぜなら、修めるべきものをすべて修め終えているからである。修め終えた後には、あらゆる菩薩の条件をすべて具えており、考える必要もなく、さらに何かを行う必要もないのである。
「或以意想」。つまり、彼の意念がひとたび動き、ひとたび想えば、神通力が現れるという意味である。例えばリンポチェが衆生のためにポワ法を修する時、亡者は二千数百キロ離れた場所にあり、冷凍庫の中に置かれ、これほど厚い鋼板を隔てていても、私は同じように彼の頭頂に穴を開けることができる。これを神通というのか。神通である。では誰がやっているのか。それは私の「意」がやっているのである。私がひとたび「彼を助ける」と思えば、神通が現れるのである。
だから弟子が常に上師のことを憶念していれば、上師の意はその弟子と相応するのである。あなたたちに一日中私のことを考えさせ、考え過ぎて私が夜眠れなくなる、という意味ではない。そういう考え方ではない。むしろ、あなたたちははっきり理解しなければならない。この一生において後に得られるものは、すべて上師があなたに仏法を教え、あなたの運命を転じ、あなたの未来を変えたことによるのであり、一切は上師が授け与えたものなのである。だから上師を憶念しなければならない。
「或以事業」。つまり仏法における事業のことである。例えばリンポチェが仏寺を建てるように、私の神通はそこにあり、周囲の多くの有情衆生が度される。鷹でさえも知っていて、私が行きさえすれば、私の屋根の上に来る。これが事業の神通力の現れであり、これらの有情衆生を感動させ、自然に彼らはあなたを守り、あなたを傷つけないのである。「皆是所作遊戲神通」。何を「遊戲神通」というのか。菩薩摩訶薩にとって、この種の神通は誇示するに値する事ではない。何気なく思い、事を処理し終えれば、もう考えない。まるで一つの遊びのようなものである。私たちは遊びをしても、ずっと遊び続けることはなく、必ず止める。そしてその遊びは仮のものである。あなたたちも子どもの頃、ままごとをして、自分が何かであるふりをしたであろう。それはすべて遊びである。神通もまたこのようなものであり、菩薩摩訶薩にとってはただ一場の遊びにすぎない。もっとも、あなたたちにとってはそうではない。なぜなら世間のさまざまな因縁法は絶えず変化しているため、大菩薩の果位を証得した者にとっては、世間のあらゆる事はすべて一場の遊びとして見えるのである。
仏典曰く:「復於處處廣大安住現諸所作。」
しかも、この菩薩摩訶薩は、あらゆる場所において「廣大安住」している。まるで彼がある場所にいるように見える。しかし実際には、彼と縁のあるあらゆる場所に、彼は現れるのである。例えば仏寺へ行くと、必ず香りを嗅ぐ。この香りは、皆も道場で嗅いだことがあるが、それは私もそこに安住しているということである。私はその場に行っていなくても、私の意識、考え、神通はそこにある。なぜなら私は常に、仏寺がより多くの衆生を導き入れることができるようにと念じているからであり、この神通はそこに存在するのである。さらには、一部の弟子や信者が危難に遭った時、私を見ることがある。なぜなら私は常に衆生を守ろうとしているからであり、あなたたちが見るこの法身であれ、分身であれ、すべて神通から来ているのである。神通とは、必ずしもあなたを別の人に変えることではない。それはまた別の法門である。
つまり、菩薩摩訶薩がこの果位まで修行した修行者は、遍く存在しており、彼と縁のある場所には必ず存在するという意味である。ちょうど法王が私に書いてくださった長寿文の中に、「縁のあるところなら、私はどこへでも行く」という一句がある。仏寺は私と縁があるか。(大衆答:あります)だから私はそこにいるのである。例えば、私の弟子は私と縁があるか。ある。だから危難が起きた時に私を見るのであり、子どもたちも私を見ることがある。なぜなら私は遍く存在しているからである。私が何百、何千もの分身を作り出しているのではなく、私の思想が常に存在しているのである。なぜなら私は毎日、衆生のため、弟子たちのために修しているからである。あなたたちはこう言うかもしれない。「それなら、リンポチェが私たちのために修してくださるのだから、自分は修行しなくてもよいですね。」そんな都合よく考えるな!(大衆笑)私が修しているのは、あなたたちを三悪道に堕とさないためだけである。しかし、もしあなた自身が悪業を作ったなら、私にもどうすることもできない。そんなに自惚れてはいけない。だが、これが私の願力であるからこそ、このようにできるのである。
だから『宝積経』を説くのはとても難しいのである。こうした経験がなければ語ることはできず、このようなことが実際に起こらなければ、説明することもできない。例えば「處處廣大安住」などは、説明のしようがないのである。今、あなたたちが仏寺へ行くと、とてもよい香りを感じるが、それは私が言っているのではなく、あなたたち自身が言っていることであり、あなたたちの親戚や友人も言っていることである。(大衆答:はい。)鼻はその人自身についているのだから、その人が嗅ぎ、あなたたち自身も嗅いでいる。それは私の思想や神通がそこにあるからである。この種の神通というのは、私が空を飛んで行くというものではない。空を飛ぶ神通は別の修行法門であり、私はまだその法門を修めていない。今はミサイルがこれほど発達していて、飛び上がったらすぐ撃ち落とされてしまうので、私は飛ばないのである。現在のチベットでは飛べる者はもうほとんどいない。昔は本当にたくさんいたが、今はミサイルがあまりにも発達し、レーダーもこれほど優れているからである。
「現諸所作」とは、修行におけるあらゆる行いを現すという意味である。仏寺で香りを感じるのは、私が戒を守っているからであり、この面において多くのことを行っているため、自然に戒香が現れ、あなたたちに感じられるのである。
経典曰く「彼有所作。神通智力世間最上。」
このように行っているからこそ、その神通の智慧は世間において最上なのである。だから仏が経典を説かれる時、私たちはそれを読んで悟りを得なければならない。なぜなら、「神通智力」について説かれているのは、修行によって神通を得た後、その智慧の力を広げて衆生を利益するためであり、ただ自分自身のためだけではないからである。
以前、仏寺で有情衆生が死んでいることがあり、スタッフが適当に掃いて片づけていた。私はこう言った。「だめだ。もし君が死んだら、私は適当にどこかへ掃いて埋めてもいいのか? 君が嫌なら、彼らだって同じである。」そのため今では、彼らは毎日報告しなければならない。蚊が一匹、カエルが何匹、ヤモリが何匹……と、たくさん報告してくる。私は「きちんと集めて箱に入れ、外に埋めなさい。まず私の真言を聞かせてから埋めるのだ」と言っている。とても不思議なことである。普通なら昆虫やカエルは必ず茂みの中で死ぬはずなのに、皆わざわざ出て来て、大殿の前か観音殿の近くで死に、スタッフに見つけてもらい、拾ってもらうのである。もし私にこのような慈悲の神通力がなければ、これらの畜生たちはそんなことを知るはずがないのである。
以前は、タカが池の魚を捕まえに来ていたが、今では捕まえに来ず、上空を飛ぶだけである。あなたたちも火供の時に見たであろう。何十羽ものタカが上を飛んでいたが、一羽も生態池へ突っ込んで魚を捕まえなかった。私たちには見えないが、彼らには絶対に見えている。では、なぜ来ないのか。それは慈悲の力が、「ここで殺生してはならない」と伝えているからである。ただ一度だけ、仏寺が完成して私が火供を修した時、その日は誅法を修していた。誅法とは殺の意味である。その時、一羽のタカが鳩を捕まえ、殺して、私の法座のそばの池に投げ入れたのである。これは、私の誅法が相応したことを示している。なぜなら、誅法には必ず「殺」の現象が現れるからである。そのタカはとても不思議であった。鳩を殺したのに食べず、私に投げ与えたのである。つまり、それは私への供養であった。顕教では、これは殺生だと考えるかもしれない。しかし、あなたには分からない。そのタカは護法であった可能性があり、その鳩を供養したことによって、その鳩が済度されたのかもしれないのである。
仏法は、あなたたちが考えるようなA、B、Cや、One、Two、Threeのように単純なものではない。その中の因縁は非常に複雑なのである。徳を具えた上師だけが、あらゆる因縁の来歴と経緯をはっきり見通すことができる。だからこそ、前回話したように、何が破戒であり、何が開戒であり、何が犯戒なのかを理解できるのである。しかし、あなたたちはぼんやりしていて、いつも何も分かっていない。今日『宝積経』について話しているが、あなたたちは本当に心の中で一つのことを理解しなければならない。『宝積経』を聞く機会を持てる人はほとんどおらず、『宝積経』を見る機会を持つ人もほとんどいない。さらに、『宝積経』を説ける人はなおさら少ないのである。信じないなら、インターネットで五大名山で調べてみなさい。『宝積経』を講じている人がいるかどうか。なぜ講じないのか。それは文章が難解で説明しづらいからではない。ここで説かれている内容を、多くの人が実際には行っていないため、あえて説こうとしないのである。第二に、聞く人のほうも、聞いていてぼんやりしてしまう。例えば「處處廣大安住」とは、どういうことなのか。広大に安住するとは何なのか。修行があり、実際の経験を持つ人でなければ、仏の真実の意味をあなたたちに伝えることはできないのである。
経典曰く「於所作事雖具諸相。善能決擇而復現證世出世間第一之法。」
つまり、菩薩は六道の衆生に対してさまざまな姿を現すことができ、しかも、どの衆生にどの姿を見せるかを自ら決めることができるのである。例えば、私は忿怒尊を修する時、非常に忿怒の相を現す。それは、言うことを聞かず、頑迷な者たちを降伏するためであるから、忿怒相を現すのである。また、施身法を修する時には、あなたたちは「今日のリンポチェはとても慈悲深い」と感じたり、「今日はとても厳しい」と感じたりする。それは、来ている衆生がそれぞれ異なるためであり、私は自分で、どのような姿を現して彼らに見せるかを選んでいるのである。なぜかというと、「同類」でなければならないからである。私たちは彼らと「同事」しなければならない。「同僚」の意味ではなく、彼らと同じような行をするということであり、そうしてこそ彼らを済度できるのである。例えば、私が忿怒相を現すのは、彼ら自身もまた忿怒しているからである。私は彼ら以上に忿怒を現す。すると彼らは「同類だ」と感じ、しかも自分より凄まじいので、従うようになるのである。実際、私は日本でも神社の鬼を済度したことがある。その鬼は非常に忿怒していたので、私はプルパを修して、彼以上に忿怒を現した。さあ、どちらが強いか勝負だ、というわけである。(大衆笑)
なぜ密教では「息・懐・増・誅」の四種法を説くのか。それは選択があるからである。「息」は鎮めること、「増」は増益、「懐」は懐柔、「誅」は誅法である。つまり、上師は自分がどのような相を現し、どの法を用いて衆生を助けるべきかを判断しなければならないのである。法本にはしばしば、「本尊よ、我に清浄なる四法を成就せしめたまえ」と説かれているが、この「清浄なる四法」とは、息・懐・増・誅のことである。何が「清浄」なのか。それは、この法を用いるのが自分自身のためではなく、すべて衆生を助けるためであるということである。衆生を助けるには、相手が受け入れられる相を選ばなければならない。もし相手が受け入れられないなら、こちらがどのような相を現しても、相手は聞き入れないのである。だから今日、仏法を学ぶにあたり、「毎週ここへ来て聞いていれば、いつか分かるようになる」と思ってはならない。待っていなさい。あと百生待っても分からないのである。今日これを開示するのは、我らの祖師ジッテン・サムゴンの成就が『宝積経』から現れたものであるからである。したがって、私が『宝積経』を説くということは、同時にジッテン・サムゴンの修行功徳についても語っているのである。
「而復現證世出世間第一之法」。しかも彼は繰り返しあなたたちに現して見せる。彼はこの果位を証したのである。「世出世間」。だから「世出」とは輪廻を離れた世界を指し、「世間」とは私たち凡夫俗子のこの世間を指す。菩薩摩訶薩は、輪廻を離れた世界の法においても、この世間の法においても、第一なのである。ある弟子がベルギーに住んでいて、昨日、娘を連れて私に会いに来た。私はその娘に、「学校で同級生があなたの菜食を笑っても、きちんと自分は菜食主義だと話し、少しはあなたを尊重するよう言いなさい」と話した。私もなぜ突然そんなことを言ったのか分からなかった。帰ってから彼女は言った。実際に、ある男子生徒がいつも彼女の菜食を笑っていたのだと。もしこのような世間法がなければ、どうやってこの子に将来仏法を信じさせることができるだろうか。リンポチェがこれらを示すのは、供養をもっと増やしてほしいとか、あなたたちにもっと私によくしてほしいと思っているからではない。私は絶対にそんなものは必要としていない。重点は、彼らを助けたいということなのである。
仏典曰く「菩薩神通示無盡相。猶若虛空遍一切處。菩薩神通現一切相色無色等。復能隨順入一切聲。然於前際音聲平等。」
「菩薩神通示無盡相」。菩薩の神通は「無尽相」を現すことができる。「相」とは、外見の姿だけを指すのではなく、さまざまな方法を用いる姿も含まれる。例えば、私は叩くこともあれば、叱ることもあり、笑うこともあり、蹴ることもある。「猶若虛空遍一切處。菩薩神通現一切相色無色等」。菩薩の神通は無尽を示現することができる。つまり、その相は、六道のあらゆる有情衆生が必要とする助けに応じて変化するのである。「猶若虛空遍一切處」とは、その相が虚空のように、あまねく一切の場所に遍満し、尽きることがないという意味である。
「菩薩神通現一切相色無色等」。菩薩の神通は、あなたに見え、触れることのできるあらゆる相を現すことができる。しかし同時に、まったく見えず、触れることもできない相を現すこともできる。例えば、時には突然、リンポチェに叱られているように感じることがある。これが「無色」である。私はいつも叱っているので、あなたたちは慣れてしまっている。あなたたちが言うことを聞かない時、「自分が叱られている」と感じるのである。これが「無色」である。有色とは、夢の中でリンポチェを見ること、危難の時にリンポチェを見ること、道場に来て私に叱られることなどであり、これは外に形として現れた有色の相である。しかし、「無色」の相も同じように存在する。私は施身法を修し、自分のすべてを衆生に食べさせると観想する。それは一切の相を含み、有色と無色が同時に現れるのである。どういう意味か。衆生は、私が彼らの食べたい肉、飲みたい血、食べたい骨へと変わるのを見る。私の肉体は食べられている。しかし現場では、あなたたちは私のこの肉体が依然として存在しているのを見る。助けや済度を必要とするそれらの衆生にとって、彼らが見る私は無色であり、彼らにはただ肉の山、内臓の山、骨の山、さまざまな相が見え、それを食べているのである。これ以上説明したら、あなたたちは絶対に気を失うだろう。なぜなら、あなたたちはまだ実際に行っていないので、神話や物語を話しているように感じるからである。しかし決してそうではない。これは現実に実行できることなのである。
「復能隨順入一切聲」。つまり、菩薩は衆生の因縁に随順して、あらゆる声の中に入ることができるのである。この声は、あなたが理解できる声かもしれないし、あなたが恐れる声かもしれない。黄姓の弟子のように、以前、昏睡状態で今にも死にそうだった時、彼は私が大声で彼を叱るのを聞いた。「まだ戻って来ないのか!」(度衆事蹟第508篇、第1097篇、第1192篇)つまり、彼が死にかけている因縁に随順して、私の声が現れたのである。しかも非常に激しく叱った。彼は私を恐れていたので、戻って来たのである。今、あなたたちの中で私を恐れない者は、事故などに遭って死にそうになっても、私は現れない。なぜなら、あなたたちは私を恐れていないからである。あなたが私を恐れていれば、私は現れて、あなたを引き戻す。もしかすると、まだ寿命が残っているので、まず死なせず、その後しっかり修行させるのである。いわゆる「恐れる」とは、私という人間を恐れることでも、私に対して恐怖を抱くことでもない。敬畏の心を持つという意味である。私たちは仏菩薩や上師に対して、ある程度の敬畏の心を持たなければならない。一人の人間が修行を成就できるというのは、決してあなたたちが想像するように、仏経を一冊持って読めば修行できるというものではない。それは不可能である。必ず多くの生を経ており、この一生においても、非常に長い時間をかけて実践してきたのである。決して一瞬のうちに、自分をまったく別の存在へと変えることなどできないのである。
数日前、私はあなたたちのことを少し考えてみた。あなたたちは本当に『宝積経』に説かれている通りであり、在家衆が菩薩道を修めるのはとても難しい。なぜなら、悪業にまとわりつかれているからである。なぜか。一日は24時間ある。8時間寝て、8時間働けば、もう16時間である。通勤の往復に最低1時間かかり、17時間。三食の食事を合わせれば最低1時間で、18時間。残り6時間のうち、風呂やトイレにも少なくとも1時間必要で、残りは5時間となる。その5時間の中でも、あれこれ付き合いがあり、多くの眷属との付き合いに時間を使う。結局、自分に残る時間はせいぜい1〜2時間しかない。しかし、その1〜2時間もスマートフォンをいじっているうちに終わってしまう。だから、あなたたちは修行が成就しないのである。
なぜ私の仏寺には閉関センターがあるのか。それは、あなたたちを24時間そこに閉じ込め、睡眠・食事・トイレ以外の時間をすべて修行に使わせるためである。そうしてこそ、修行は成就するのである。家の中にいて修行できると思ってはならない。恭敬していれば修行できると思ってもならない。それは不可能である。考えてみなさい。私の言っていることは間違っているだろうか。皆、家に帰って一日の時間割を作ってみなさい。24時間をどう配分しているのか見てみるのである。時間を捻出できるか。できる。あなたが本気でやる気さえあれば。私の見積もりでは、一日に2時間を捻出して修行することは絶対に可能である。しかし、あなたたちは時間を作り出せない。皆、自分に「時間がない」「忙しい」と言い聞かせているのである。
だから、私の物事のやり方は子どもの頃からずっとこうなのである。できる限り最短の時間で物事を終わらせ、引き延ばさない。もしうまくできなければ、すぐに人に教えを請い、すぐに自分を落ち着かせて、どう処理すべきかを考え直すのであり、ずるずる先延ばしにはしない。だから、もし修行したいのであれば、在家であろうと出家であろうと同じである。今では出家者もとても忙しく、皆ネットを見たり、スマートフォンをいじったりしている。このスマートフォンというものは、本当に私たちが修行できなくなる原因となっている。したがって、今日このような果位まで修行できるというのは、決して簡単に、適当に少し唱えればよいというものではない。多くの弟子にさまざまな出来事が起こったからこそ、私は初めて「なるほど、こういうことなのだ」と分かったのである。「隨順入一切聲」。つまり、もし神通を修得していなければ、あなたの声によって相手を変えることはできないのである。
「然於前際音聲平等」。しかも、前に「音声平等」はなのである。例えば、私が六字大明呪を唱える時、前の一句も後の一句も、その声はすべて平等である。何が平等なのか。つまり、この一句は誰かのために強く唱え、あの一句は誰かのために軽く唱える、という区別がないのである。すべて平等であり、一つの慈悲心、一つの菩提心によって、絶えずこの真言を唱えているのである。また、「この部分だけ特別にこう唱えよう」などと考えることもない。ただ平等心なのである。これは前に説いた「復能隨順入一切聲」に呼応している。なぜなら、ある衆生はゆっくりした声を好み、ある者は速い声を好み、ある者は力強い声を好むなど、さまざまで同じではないからである。だからまた話を戻すと、毎回施身法を修する時、私の持呪の声はすべて異なる。なぜなら、衆生が異なるからであり、私はそれを感応できるので、唱える声も変わるのである。彼らが受け入れられる声で唱えているからである。「必ずこの節回し、この音でなければ六字大明呪ではない」と固執してはならない。ある一群の人はその音を好むかもしれないが、別の人は好まないかもしれない。あなたには分からないのである。だから、すべての声は平等なのである。「前際音聲平等」。前の音も、今唱えている音も、たとえ異なる音であっても、すべて「平等」なのである。何が平等なのか。平等の智慧によって衆生を利益し、衆生を済度するということである。「この言葉は強く言ったから彼には役立つが、この言葉は軽く言ったから彼には役立たない」という意味では決してないのである。
経典曰く「菩薩神通觀察一切有情心行。於其體性隨緣顯現。」
菩薩のこの大神通は、一切有情の心行を見ることができる。つまり、その心の中において、その行為の中において、究竟いかなる存在であるかを理解するのであり、すなわちその因縁法を理解するのである。「於其體性隨緣顯現」の「體」とは、この有情衆生の身体や外見を指すのではなく、また何らかの果位を証得したことを指すのでもない。「於其體性隨緣顯現」とは、菩薩道を修めたために、その「體」が慈悲となっているという意味である。慈悲心によって一切を顕現し、衆生の縁に随順して、外に現れる相や声を示し、衆生を助け導くのである。例えば、釈迦牟尼仏は、ある生では鹿の王となり、ある生では孔雀となり、また熊となったこともある。畜生道において、さまざまな動物となったのである。釈迦牟尼仏は、それらの衆生の縁に随い、その「體性」は慈悲と菩提心であり、その相を現して、助けを必要とする衆生を救っていたのである。
経典曰く「於諸劫中隨其思念。前際後際無有間斷。一切唯現神境變化。決定現前無別行相。」
「隨其思念」には二つの解釈がある。一つは、菩薩が衆生を思い、衆生を助けようとする思念である。もう一つは、一切衆生が仏菩薩による救済を願う心である。「於諸劫中」とは、この菩薩が衆生を助けることにおいて、「劫」とは非常に長い長い時間を意味し、その長い時間の中で絶えず、「隨其思念,前際後際無有間斷」である。前であろうと後であろうと、衆生を思う心が途切れたことは一度もないのである。「一切唯現神境變化」。だから、一切は変化として現れる。この「変化」とは、衆生を助けるための「変化」であり、自分が好き勝手に姿を変えて遊ぶという意味ではない。例えば、観世音菩薩には千手観音があり、四臂観音もあるが、これらはすべて衆生のさまざまな因縁に応じて示現しているのである。今日はここまでとする。
祖師ジッテン・サムゴン著『一意』
今日は少しジッテン・サムゴンが著した『一意』について開示する。その中では、仏法におけるいくつかの問題について、簡潔に説明されている。この『一意』は、チェツァン法王によって再編集され、翻訳されたものである。この書が私たちにもたらす利益はどこにあるのか。『正法一意』は、私たちの修行に非常に大きな助けとなる。この百五十句の金剛語のすべて、一句一句が、修行経験の総括であり要点なのである。いわゆる「金剛語」とは、壊れることのない言葉、正しい言葉という意味である。
以前、俄普巴は、ジッテン・サムゴンによる「一切法揭示法性實相」についての開示を聞いた後、こう言った。「私はジッテン・サムゴンのそばにいたが、この一句を聞けただけで、それだけの価値があった。」一つ一つの金剛語は、異なる段階の修行者に対して、重要な助けを与えることができる。例えば、第123句の金剛語には、「私たちの心には同時に二つの念頭は現れない」と説かれている。これは、現代において観心や内観などの禅修を学ぶ人々への一つの注意である。私たちの心に、「ああ、自分はいま禅修している」とか、「ああ、自分が禅修していることを覚知している」といった念が生じた時、実はその瞬間、心はすでに禅修に入っていないのである。なぜなら、本当に禅修している心には、絶対にさらに第二の心が生じて、自分自身を観察することはないからである。自分が自分の念頭を観照できている時点で、すでにその瞬間の心は禅修の所縁から離れてしまっているのである。なぜなら、一つの心は同時に二つのことを行えないからである。これは、『正法一意』が私たちの修行に利益をもたらすことを、一つの観点から説明した例である。
次に、全体的な観点から言えば、一人の修行者が修行の道をどこまで歩めるかの鍵は、その修行が体系化されているか、完全なシステムを備えているかにある。体系的な教育を完全に受けていない修行者は、ある方面では非常に優れた才能を持っているかもしれない。しかし、ある段階まで修行が進むと、必ず限界に突き当たる。なぜなら、体系を成していないからである。『正法一意』の百五十句の金剛語で説かれているのは、完全な修行体系である。凡夫がどのように修行を始めるのかから、成仏後の境地がどのようなものかに至るまで、『正法一意』の中にはすべて完全な教授が含まれている。これを読んで理解することによって、私たちは全面的な修行体系を形成することができ、道を誤ることがなくなる。これこそが、ジッテン・サムゴンが私たちに与えてくださった、最も遠くまで歩むことのできる近道なのである。
この話の意味はとても簡単である。もし上師から体系的な修行方法を伝授されなければ、人は道を誤るということである。たとえ過去世の特別な因縁によって、この一生で何か特別なものを修められたとしても、それでもなお道を誤るのである。例えば、この一生において、私はずっとチェツァン法王の教えに従い、絶えず体系的な修行を続けてきた。だからこそ、今日ようやく少しばかりの成就があるのである。もし、「話を聞いた後、家に帰って部屋にこもり、毎日お経を唱えていれば修行できる」と思っているなら、私ははっきり言うが、それは絶対に不可能である。「いくつか真言を学んだから、家で毎日唱えれば修行できる」などと思ってはならない。それも絶対に不可能である。なぜなら、あなたには完全な修行体系がないからである。
私はいつも皆に注意している。あなたたちは凡夫であり、凡夫がすぐに菩薩へ変わることなど不可能である。必ず次第があり、体系的な修行があり、そのように少しずつ修めて上がっていくのである。突然変わるなどということは、決して起こらない。私自身の修行経験から見ても、歴代上師たちの修行経験から見ても、さらに私の根本上師の修行経験から見ても、そのようなことは不可能である。私の根本上師であるチェツァン法王は、今生ですでに第八世目の転生であり、八世以前からずっと法王であった。それなら、今生ではもう修行する必要がないはずだろう。しかし、それでもなお、体系的に最初から修行を始めているのである。突然石の中から大修行者が飛び出してくることなどない。また、少し真言を学び、それを唱えたから突然大修行者になる、ということもない。必ず体系があるのである。ちょうど法王が私を訓練したように、「第一にこうする、第二にこうする」と、一歩一歩導いてくださった。通常、上師は次に何をするかを弟子に教えない。例えば、法王は私に喜金剛を伝授したが、一度も「喜金剛を伝授する」とは言わなかった。しかし、一歩一歩与え続け、最後になってカードを開けば、それが喜金剛だったのである。だから、あなたたちが法を求めに来ても、私が伝授しないのは、まだその段階に達していないからである。上師は見極め、アレンジするのである。例えば、毎週日曜日の法会において、私はずっとあなたたちに一つの体系を与え、修行させている。もちろん、あなたたちが聞かなければ、どうしようもないのである。
あなたたちは、自分が賢いとか、字が読めるからといって、必ず修行できると思ってはならない。この段の内容から見れば、あなたたちは皆、言うことを聞いていないのである。何が「体系」なのか。どの教派にも、どの伝承にも、一つの体系がある。それはちょうど勉強と同じである。幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、大学院、博士課程と、一段階ずつ進んでいくのである。なぜあなたたちは、仏法を学ぶことだけは一足飛びに成し遂げられると思うのか。そんなことはない。私たちがこの世に転生してきたということは、間違いなく悪業に深くまとわりつかれた存在だからである。私たちは決して、大きな因縁や善い因縁によって修行してきた人間ではない。だからこそ、必ず次第が必要なのである。もし今日、私たちに体系も次第もないまま修行したなら、絶対に成就しない。だから私はずっとあなたたちに勧めている。たとえ阿弥陀仏のもとへ往生することを願っているとしても、この一生で最低限、菩薩道を修める方法を少しは学ばなければならない。学ばずに、どうやって行けるというのか。体系がないではないか。明らかに、阿弥陀仏の体系では、往生した者は補処菩薩となるのである。あなたは何ものでもないのに、あちらへ行って何をするというのか。
だから、阿弥陀仏の国土の外には「疑城」というものがあるのである。それは阿弥陀仏を疑うということだけではない。生きている時に、阿弥陀仏の説かれたことを聞かず、上師の教えを聞かず、自分を凡夫の心から菩薩道を学ぶ心へと転じようとしない、その「疑」のためである。そのため往生できず、阿弥陀仏の国土の外にある疑城という場所に留まり、五百世もの間、仏を見ることができない。仏に会えないのである。仏のほうも、あなたに会おうとはされない。なぜなら、あなたは疑い、言うことを聞かないからである。宋代から現在に至るまで、仏法は誤って伝えられ、誤って説かれてきたことがあまりにも多いため、人々はすでに「それこそ正しいのだ」と深く思い込んでしまっている。しかし、リンポチェのあらゆることは、すべて法本や仏経に基づき、さらに歴代上師の修行経験をもとに語っている。そして、それに私自身の修行経験を加え、少しずつ積み重ねながら、「このように進まなければならない」とあなたたちに伝えているのである。だから、これは私にとって不利なのである。弟子をたくさん失うからである。私の外見、弁舌、その他あらゆる条件をもってすれば、何千人もの弟子を集めることもできる。しかし、私はそれをしない。なぜなら、そのようでは仏法を正しく伝えたことにならないからであり、私はそのようなことをすることもできないし、決してしようとも思わない。だから皆、よく考え、自らを慎んで行いなさい。
吉天頌恭は1143年に生まれ、1217年に涅槃された。第一の金剛の言葉について解説する。ジッテン・サムゴンは次のように述べている。「伝承を持たない法、すなわち地法・天法・伏藏法などがより深遠で稀有であると主張する者がいる。しかし本宗は、伝承によって伝えられた法こそが、より深遠で稀有であると主張する。この道理について説明すると、チベットには上師の伝承を受けずに勝手に仏門に入った結果として、異なる経験や理解を得て、これは無伝承の法であると言う人々がいる。突然、甘珠爾にも存在せず、仏語とも一致しない法が現れるのである」。台湾でも多くの人が、伝承は必要なく、自分だけでも修行によって悟りを得られると考えている。また禅宗など様々なものを語る人も多い。ここでいう甘珠爾とは『大蔵経』のことである。つまり、その人が語っている内容が『大蔵経』の中に説かれていないなら、それはもはや正法ではない。たとえば、先ほどリンポチェが『大蔵経』に説かれている菩薩の事柄について述べたように、その一部を実際に行えているのであれば、それこそが正しい法である。そうでなければすべて偽物の仏法であり、仏語とも一致しない法である。「人々はこのような根拠のない法を、かえって稀有で尊いものとしてしまう。地法・木法・天法などと呼ばれるものも、チベットでは稀有で深遠なものとして扱われることがある」とある。しかし実際には、チベットにおける地法・木法・天法などは仏法ではない。それらはある理論や呪文を語り、「これは地に属する」「これは木に属する」「これは天に属する」と説明し、最も優れた法であると扱われる。さらにその内容は非常に深遠だとされるが、その「深遠さ」とは実際には解釈できないというだけである。なぜなら仏法ではないため説明ができず、彼ら自身だけが理解しているとされているからである。
したがって、今日ではチベットにもこのようなことがあり、台湾ではさらに多く、数え切れないほど存在している。少し知識を得ただけで「霊修」などと言い、無数の用語を作り出している。これに対してジッテン・サムゴンは、「すべての法には必ず根拠があり、その根拠には必ず要点があり、要点には必ず伝承があり、伝承には必ず加持がある」と述べている。すなわち、すべての法は必ず由来を持っており、無から生じるものではない。元となる起源がある以上、その途中には必ず口伝の教えや核心となる要点が存在する。たとえば法王が私に法を授けたときも、口訣や要点を教えてくださった。あるとき、法本を伝授された後、読誦が終わると法王はこう言われた。「この数句は多くのリンポチェも知らないが、今日はあなたに教える」と。これこそが口訣である。もし伝承がなければ、このようなものは存在しない。要点は必ず伝承に依り、伝承には必ず加持が伴う。そしてその伝承を受け入れる限り、必ず加持がある。ただし修行に関して誤解してはならない。この加持がすぐに悟りを開かせるという意味ではない。それとは異なる。修行の過程において働くものである。たとえば今回、私は二十数名の弟子を率いて閉関修行を行ったが、何事も起こらなかったのは、伝承の加持があるからである。伝承の加持が私にあり、私が弟子たちに加持を与えるため、閉関は無事に進んだのである。もし弟子たちが私の指示するような次第と体系に従わずに修行すれば、問題が生じる可能性がある。
それで、なぜこれほど長い間、閉関修行を許可しなかったのかというと、私が自分の伝えた体系、直貢の体系に基づいて、彼らがきちんと段階を踏んで実践できるかどうかを見ていたからである。もしできる者がいれば閉関を許可するが、できない者には許可しない。たとえ出家して数十年であっても許さないことがある。なぜなら従わないからである。ここでいう「従う」とは、我々が至高で他は劣るという意味ではない。そのような意味ではない。そうではなく、すでにこの伝承に入った以上、この伝承における修行の段階と手順に従うべきだということである。この手順はこの伝承が勝手に発明したものではない。ただ仏が説かれた教えの一部を取り出し、それを用いて、この伝承と縁のある衆生を助けているにすぎない。だから「従う」ということである。しかし、これらの男性たちは誰も従わない。それぞれが自分の方法で修行し、自分のやり方で成就を得ようとする。しかし断言するが、そのようなやり方では成就することはできない。必ず保証する。もしこの伝承に従って修行しなければ、成就することはできない。
これに対してジッテン・サムゴンは、直貢噶舉の由来について説明している。それは二つの部分に分けられる。一つは顕教の系譜であり、アティーシャ尊者の後からガムポパに至るまでである。ガムポパはまたマルパの伝承も受けており、そのためガムポパは顕教と密教の二大伝承を統合したのである。ガムポパはさらにパモ・ドゥパに伝え、そこからパモ・ドゥパを起点として噶舉派が生まれた。噶舉派はさらに「四大八小」に分かれるが、これは大きい・小さいという意味ではなく、単に帰依の時期が早いか遅いか、あるいは修行の開始が先か後かという違いにすぎない。いずれにせよ、すべては噶舉の伝承に属するものである。
この説明からすると、噶舉の伝承は釈迦牟尼仏からインドを経て伝わってきた顕教の系統の一支であり、もう一つの密法の伝承は、インドからマルパ尊者へと伝わる一つの系統である。この二つが結合したものが直貢噶舉である。そのためジッテン・サムゴンは、「この伝承の中には、すべてが完全に具わっている」と述べている。つまり顕教と密教の両方が完全に備わっており、どちらかを選別する必要はないということである。したがってリンポチェの説法を見ると、顕教を基礎とし、なぜなら顕教はすべて理論であるからであり、密法を中心として実践する。これが顕密二修である。しかし、多くの人は密法を学びたくても学べない。それは顕教の基礎が理解できていないからである。ここでいう顕教の基礎とは、仏が説かれたすべての言葉をよく思惟し、実際に実行し、用い、学ぶことであり、そうして初めて密法を用いることができるようになる。密法は実践においては、すぐに衆生利益へとつながらなければならず、決して威勢を示すためのものではない。より多く学ぶことによって、生死解脱に至るのである。ただし菩薩乗の修行という観点から見れば、生死から解脱すること自体が最も重要なのではない。なぜなら彼らは輪廻に戻って衆生を助けるからである。たとえば法王も再び戻ってくるであろうし、私自身は地球には来ないが、他の世界へ行く。それは法王が書かれたものであり、「縁のあるところへ行く」ということである。私が作ったものではない。
だからこそ第一の金剛の言葉では、まず「伝承によって伝えられる正法こそが、より深く、より稀有である」ということが説かれているのである。今日、あなたたちが直貢噶舉・寶吉祥・リンチェンドルジェ・リンポチェの門下に帰依できたことは、非常に得難く稀有なことである。(大衆:リンポチェに感謝申し上げます。)当たり前だと思ってはいけない。上師があなたたちを必要としているなどと思ってはいけない。私はあなたたちを必要としていない。あなたたちがいなくても、私は同じように修行を続けている。ただ、この因縁によって、あなたたちがここに来たのである。台湾には仏教の道場、寺院、センターなどが数多く存在しているのに、なぜあなたたちはここに来たのか。私は性格も厳しく、広東訛りの国語も標準的ではなく、突然英語も交えて話すので、何を言っているのか分からないこともあるであろう。だから今日はまずこの点だけを説明する。これで十分である。
リンポチェは弟子を率いてアキ護法の修持を円満に行った後、入定し忿怒の相を現した。その両眼は大きく見開かれ、視線は炎のように鋭く、非常に力強く、慈悲をもって一切衆生を加持された。
2026 年 05 月 08 日 更新