尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年05月17日

2026年5月17日、開山住持上師である尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺において、自ら殊勝なる「金剛手菩薩」法会を主法された。法会の円満成就と、一切衆生への広大なる利益のため、リンポチェは法会前日より、疲れもいとわず自ら仏寺に赴き、一日を通して修法を行われた。法会の開始に際し、晴れ渡る大空には鷹が旋回しながら見守るように飛び、大地はかすかに震動した。参会者一同は、敬虔な心で静かに法会の始まりを待ち受けた。
 
リンポチェが法座に昇り修法を行われる中、その尊身と壇城は黄金の光を放ち、虚空には雷鳴のような低い轟きが響き渡った。リンポチェは忿怒尊の金剛相を顕され、眉は鋭く立ち上がり、両眼は大きく見開かれて宝石のような青い光を放ち、その周囲には橙赤色の光が現れた。その法相は極めて威猛であり、まさに金剛手菩薩と無二無別であった。さらにリンポチェは、尊勝なる直貢チョンツァン法王より親授された金剛手菩薩の聖像を手に取り、参会者一同を加持された。その際、強大な加持力が全身に注ぎ込まれ、多くの参会者はチャクラの震動や身体の熱感を覚えた。また大地はたびたび震動し、会場には殊勝な香気が満ちあふれた。
 
法会円満後、晴れ渡る空には次々と殊勝なる瑞相が現れた。雲はあたかも金剛手菩薩の壇城のような姿を示し、その中央には金剛手菩薩が顕現されたかのように見えた。智慧の火と智慧の光に囲まれながら加持の光を放ち、その光明は十方世界を遍く照らした。光輪の外側には、幾重にも重なる祥雲が取り巻き、まるで帰依境における歴代伝承上師方が虚空に安住しているかのようであった。さらにその後、円満なる光輪が現れ、あたかも諸仏・諸菩薩ならびに歴代伝承上師方がともに来臨し、リンポチェの殊勝円満なる修行の成就と、衆生を利益する広大なる悲願および功徳を讃嘆しているかのようであった。
 
午前9時35分、幡・幢・出家衆・八供女・宝傘・楽器・薫香による先導と迎請のもと、リンポチェは、鮮花が撒かれた八吉祥の白い絨毯の上を進み、仏寺大殿へと入られた。参会者一同は、迎請の荘厳な楽音が響く中、恭しく合掌して起立し、リンポチェの法座へのご登壇をお迎えした。リンポチェは壇城に上がられると、まず諸仏・諸菩薩に頂礼され、続いて金剛手菩薩の聖像の前で献灯し、深く一礼された。その瞬間、金剛手菩薩の聖像は光明を放ち、リンポチェの衆生済度の慈悲の力が本尊と完全に相応していることを示すかのようであった。
 
リンポチェは法座にお昇りになると、出家衆に指示して参会者一同を導き、帰依発心、四無量心、七支供養、短マンダラ、伝法祈請ならびに『随念三宝経』を唱誦された。その後、リンポチェは慈悲をもって貴重なる仏法の開示を賜った。
 
本日は降魔金剛手菩薩の法を修する。「魔」とは、皆が想像するような悪魔のことではない。仏法における定義では、仏法の学びや修行を妨げるもの、あるいは輪廻の苦海から脱することを妨げるあらゆる人・事・物を総称して「魔」という。釈迦牟尼仏がこの世に来られて法を説かれたのは、私たちに加護を求めるための法を伝えるためではなく、どのように仏法を学び、生死を解脱し、成仏に至るかを教えるためであった。したがって、この道を妨げる一切の人・事・物は、すべて「魔」と呼ばれるのである。
 
魔はまた、内魔と外魔に分けられる。内魔とは自らの心である。有情衆生である以上、誰もが貪・瞋・痴・慢・疑という五毒を備えている。外魔とは、過去世および今生において自らが造った悪業である。最も簡単に言えば、この一生で肉を食べ、殺生し、酒を飲んできた者には、輪廻からの解脱を妨げる衆生が必ず現れるのである。そのため『地蔵経』には、修行していない衆生が臨終を迎える際、累世の冤親債主が皆やって来て借りを取り立て、その人が三悪道や輪廻から離れられないようにすると説かれている。その取り立ての現れ方はさまざまである。一つは、病気が絶えず続き、死ぬこともできず、生きることもままならない状態にすることである。もう一つは、臨終の数年前から手術を繰り返し受けるようになることである。あちこちを切開し、次々と手術を行うことになる。皆は、病気になれば手術を受けるのは当然だと思うだろう。しかし、手術とは何を意味するのか。地獄には、刀や斧で毎日のように身体を切り刻まれる苦しみがある。さらに別の現れ方として、記憶障害がある。現在よく見られるパーキンソン病などの病も、法本の中では「失憶鬼」と呼ばれている。つまり、人の記憶を失わせる鬼である。記憶を失った人は、当然ながら臨終の前に仏法を聞き、学び、仏の名号を称えることができない。その結果は、絶対に地獄・畜生・餓鬼の三悪道へ堕ちることになるのである。

ある人は、「自分の両親は人を殺したことなどないのに、なぜ地獄へ堕ちるのか」と言う。しかし『地蔵経』には、ある世において地蔵菩薩の母が鱉(すっぽん)の卵を好んで食べ、三宝を軽んじたため、死後に地獄へ堕ちたと説かれている。では、「三宝を軽んじる」とは何を意味するのか。それは、仏菩薩に対して誓ったことや約束したことを守らないことである。法会を開催するたびに、皆には参加の申し込みをしてもらい、また申し込んだ以上は必ず参加するよう繰り返し伝えている。しかし今日も、申し込んでおきながら来なかった人がいる。どのような理由であれ、約束しておきながら来ないという因を作れば、将来仏法を学ぶうえで多くの障碍を招くことになる。第一に、仏菩薩に対して法会に参加すると約束しながら、それを果たさなかったことである。第二に、法会に参加すれば、累世の冤親債主も利益を受けることができるが、参加しなければ彼らは利益を得られず、そのために怒りを抱くことになる。では、障碍はどこから来るのか。それは自らが作り出したものなのである。
 
私のこの道場は、ほかの仏寺とは異なる。なぜなら、私は仏典と自身の修行経験、そして上師から教わったことに基づいて仏法を弘めているからである。仏が説かれたことは、私は必ずありのままに皆に伝える。仏が説かれなかったことは、私は決して皆に話さない。例えば、仏は「一度礼拝に来れば、あらゆることが解決し、すべての問題がなくなる」とは説いていない。仏が説かれたのは、仏を礼拝することによって仏法を学ぶ機会を得られるということであって、「一度来れば何もかも解決する」とは説いていない。もし法会に一度参加しただけで、あらゆることがすべて片づくというのであれば、私は真っ先に手を挙げて法王に申し上げるだろう。「私はもう修行しません」と。あなたたちのほうが私より多く修行しているのか、それとも私のほうが多く修行しているのか。
 
今日のこの法会を準備し、皆を助けるために、私は昨日一日中この法を修していた。実のところ、金剛手菩薩についてはすでに閉関修行を行い、心咒も十万遍満じている。それなのに、なぜさらに一日かけて修法するのか。それは、衆生の業があまりにも重いためである。私はなお金剛手菩薩の加護をいただき、今日この法を皆のために修することで、皆に利益をもたらせるようにしなければならないのである。ただし、それは皆の身体を健康にしたり、すべてのことを順調にしたり、望むことを何でも実現させたりするためではない。しかし、仏法を学びたいと願う者であれば、必ず学ぶことができる。したがって、いまだに仏門に帰依しようとせず、菜食を実践しようとしない者が今日ここに来たとしても、それは善縁を結ぶために過ぎず、未来世において仏法を学ぶ機会を得るためである。もちろん、今生において決意を固めなければ、その先には依然として多くの障碍があり、仏法を学ぶ機会を失うことになる。
 
例えば今日、十数名の人が法会に来なかった。申し込みをした時から、ほぼ毎週のように来るかどうかを確認し、繰り返し注意を促してきた。これは皆が必ず来なければならないという意味ではない。皆がいなくても、私は同じように修行している。私が皆に注意を促すのは、戒律を守らず、自らの仏法修学の妨げとなるようなことをしてしまうのを心配しているからである。中には、「自分は仏法を学びたいわけではなく、ただ法会に参加して礼拝し、加護を求めているだけだ」と言う人もいる。しかし、その加護があなたに100%与えられることがあるだろうか。絶対にない。皆は、どこか別の場所へ行って儀式に参加し、人についてひと回り走れば加護が得られると思っている。だが、もし本当にそのような加護があるのであれば、釈迦牟尼仏は49年もの間にわたって仏法を説かれる必要はなかったはずである。仏はそのようなことを説かれなかった。

もし今生において三悪道に堕ちることを望まず、輪廻から解脱したいのであれば、ただ釈迦牟尼仏が教えられた方法に従い、一歩一歩着実に実践していくしかない。このように仏法を弘めることは、弘法する者である私にとって非常に大変なことである。なぜなら、今の世の中にはそのような要求がないからである。世間が求めているのは、加護を求め、礼拝をし、そうすれば何でも与えてもらえるということである。与えられなければ、「霊験がない」「慈悲がない」「修行者ではない」と言う。もう一度言う。もし先ほど述べたようなことが正しいのであれば、私は修行をやめる。今年の初めにも閉関を行ったばかりだが、その後もまた閉関する予定である。なぜ絶えず閉関を続けるのか。それは、自らの修行を絶えず向上させるためである。皆は、自分は忙しくて閉関する時間などないと思うだろう。閉関しなくても構わない。しかし、まず仏門に帰依するということは実行しなければならない。それすらしようとせず、ただ加護ばかりを求めている。仏菩薩や上師は確かに皆を加護する。しかし、その加護とは、一日も早く仏法を学ぶ道へ入れるよう助けることであって、一日も早く楽な暮らしができるようにしたり、住宅ローンを払ってくれたり、借金を返済してくれたりすることではない。借金をしたのであれば、それは仏菩薩とは関係のないことであり、自分自身で責任を負わなければならないのである。

なぜ今日、特に金剛手菩薩の修法を行うのか。顕教であれ密教であれ、金剛手菩薩は八大菩薩の一尊である。「大」とは、この菩薩のほうが大きく、あの菩薩のほうが小さいという意味ではなく、その「果位」によるものである。いわゆる大菩薩とは、十地以上に達した菩薩を指す。初地、登地してから修行を重ね、第十六地に至り、さらに第十六地を超えて成仏するのである。したがって、大菩薩とは十地を超えた菩薩のことであり、別の呼び方では法身菩薩ともいう。このような菩薩は、成仏まであとわずかの段階にあるのである。
 
釈迦牟尼仏は『大蔵経』所収の『宝積経』の中で金剛手菩薩について説かれている。金剛手菩薩は釈迦牟尼仏より授記を受けられた。「授記」とは、将来どのようになるかを予言し、その成就を保証することである。金剛手菩薩が未来に仏となり、その仏号を「金剛歩如来」、すなわち「金剛歩仏」となることを授記された。また、金剛手菩薩にはご自身の浄土があり、「普浄国土」と称される。その仏国土には菩薩衆のみが存在し、声聞や縁覚はいない。声聞・縁覚とは小乗仏教の修行者を指す。簡単に言えば、金剛手菩薩の未来の浄土は、在家・出家を問わず、菩薩道を修める者だけが往生することのできる浄土なのである。

仏典の中で、釈迦牟尼仏は金剛手菩薩を「秘密主」と呼んでいる。ここでも説明されているように、この本尊を外側から見れば、修行者の外見として現れているのは釈迦牟尼仏である。内側から見れば、それは金剛手菩薩であり、その内心、本質は金剛手菩薩である。そして秘密の面から言えば、それは大金剛持である。秘密とは何か。菩薩となる方法、仏となる方法が秘密なのである。たとえば大学教授が理解していることは、小学生にとっては一種の秘密であり、どのように説明しても理解できない。今私があなた方に説いている仏法も、あなた方にとっては理解できない。なぜなら、あなた方は学ぶ準備ができていないからであり、その意味であなた方にとっては秘密なのである。つまり、金剛手菩薩は成仏の方法を掌握し、明確に知っているということである。もし今生で金剛手菩薩を専ら修するなら、成仏の機会は比較的早い。「持有三世一切諸佛的祕密藏(三世一切諸仏の秘密蔵を持する)」とは、彼がそれを保持しているという意味である。たとえば今、私がこの法本を持っているが、これが金剛手菩薩の秘密蔵である。この法本は外部には伝えられず、たとえ手に入れても修成することはできない。なぜなら、その中には多くの口伝があり、書き記されていないからである。
 
多くの人は、密教を学ぶにはチベット人の師を見つけて帰依し、灌頂を受ければ学べると思っている。しかし、それだけでは学ぶことはできない。なぜなら口伝が必要だからである。どこに注意すべきか、どのように実践すべきか、いわばその要訣がどこにあるのかを明確に理解しなければならない。したがって、金剛手菩薩は一切諸仏の成仏の方法を保持しているのである。ここでいう諸仏とは釈迦牟尼仏だけではなく、十方三世の一切諸仏を指す。『文殊真実名経』には、「金剛手菩薩與諸佛的祕藏,由此乃為我所成因(金剛手菩薩と諸仏の秘密蔵は、これによって私が成就する因となる)」と説かれている。つまり、文殊菩薩が成就し、大菩薩となることができたのは、怙主金剛手菩薩が一切諸仏の成仏の方法を掌握しているからである。ゆえに、今日私に成就があるのも、この因によるのである。「於眾生所需而進行調伏的所有密咒本尊,我及本尊實相本質相同(衆生の必要に応じて調伏を行うあらゆる密呪本尊は、私と本尊の実相・本質が同一である)」とは、衆生それぞれの必要に応じて調伏を行うという意味である。すなわち、あなた方の貪・瞋・痴・慢・疑、不信や傲慢の心を、真言(マントラ)によって調伏するのである。そして、その働きをなす本尊は、その実相と本質において私と同一なのである。
 
身の化身は勝楽金剛である。つまり、その身体の現れは勝楽金剛なのである。秘密の化身はマハーマーヤー(瑪哈瑪雅)、意の化身は喜金剛である。私は喜金剛を修持しているので、その意、すなわちその思想は喜金剛である。功徳の化身は密集金剛、事業の化身は時輪金剛である。先ほど述べたこれらすべての金剛は、無上瑜伽タントラにおいて最も重要な本尊である。無上瑜伽タントラとは、たとえるなら学問で博士課程を修了し、さらにポスドク(博士研究員)の段階へ進むようなもので、最高レベルの修行体系である。したがって、一般の人が修められるものではない。そして、これらの本尊はすべて、この尊格と本質において同一なのである。
 
密教の経典に「若見我之身,眾生即是佛;若聞我之語,輪迴亦獲樂;若悟我之意,有情自為佛。(もし我が身を見れば、衆生はすなわち仏である。もし我が語を聞けば、輪廻の中にあってもまた安楽を得る。もし我が意を悟れば、有情は自ら仏となる。)」とある。「若見我之身(もし我が身を見れば)」とは、私たちが単に本尊の仏像を見れば、その身を見得ることを意味するのではない。ここでいう「身」とは、法身・報身・化身の三身すべてを見得ることを指している。これは皆さんが見られるものではなく、必ず修行を積み、入定し、閉関を行い、さらに絶えず閉関を重ねていくことで、はじめて本尊の法身を見ることができるのである。「眾生即是佛(衆生はすなわち仏である)」とは、法身・報身・化身の三身を見ることができたなら、その衆生も仏と同様に成仏の本質を具えているという意味である。「若聞我之語(もし我が語を聞けば)」とは、金剛手菩薩の真言を聞くことを指す。「輪迴亦獲樂(輪廻の中にあってもまた安楽を得る)」とはどういう意味か。それは、この真言が衆生を輪廻から離れさせ、菩薩道を修して成仏へと導くためのものだからである。菩薩道を修する衆生にとって、輪廻は苦しみではない。なぜなら、彼らは衆生を救済するためにあえて輪廻に戻ってくるからである。
 
したがって、この一句の意味は、「私の密呪を聞けば、たとえ輪廻の中にあっても快楽を得ることができる」ということである。なぜなら、あなたは菩薩道を実践しているからである。「若悟我之意,有情自為佛。(もし我が意を悟れば、有情は自ら仏となる)」とは、もし金剛手菩薩のあらゆる思想や意趣を悟ることができれば、すべての有情衆生は仏と無二無別の境地に至るという意味である。ここでいう「無二無別」とは、証得するという意味ではなく、本来具わっている清浄なる仏性が顕現するということである。もし金剛手菩薩の灌頂を受け、この尊格を本尊として修持するならば、いかなる天龍八部からも害を受けることはない。私たちの多くの病は、天龍八部による障りが原因である。たとえば龍族である。過去世において八部衆に属する衆生を傷つけたために、その因果によって今生で彼らから害を受けることがある。しかし、この本尊を修持すれば、天龍八部もあなたを害することはできなくなるのである。
 
『金剛手続』には次のように説かれている。「若恒精進修其尊,八部無疑如僕役(もし常に精進してこの本尊を修するならば、八部の衆生は疑いなく僕役のように従う。)」つまり、この本尊の修法を絶えず続けていると、八部の衆生はあたかも自分の配下のようになり、何かを命じればそれに従うということである。「最終與佛陀的意金剛無二無別(最終的には、仏陀の意金剛と無二無別となる)」。すなわち、最後には仏の意金剛と一体となるのである。仏の意は金剛のように不壊であり、それと無二無別となる。そして、事タントラ、続タントラ、金剛タントラへと入っていく。金剛部とは、金剛のようにあらゆるものを打ち砕くことができ、またいかなるものによっても破壊されることのない境地をいう。
 
したがって、チベット仏教には必ず金剛タントラがある。なぜなら、衆生の頑なで扱い難い性質には、金剛部の教えによって対治する必要があるからである。「此成就法的修法上師作為三界的金剛(この成就法において、修法を行う上師は三界の金剛となる。)」すなわち、この法門を修する上師は、三界(欲界・色界・無色界)におけるあらゆる金剛の首座となるのである。この法本には灌頂があるが、今日は皆に灌頂を授けない。第一に、多くの人はまだ仏門に帰依していないので授けない。なぜ授けないのかについては、後ほど説明する。第二に、すでに仏門に帰依していても戒律を守っていない者には授けない。第三に、菩薩道を学ぶ準備ができていない者にも授けない。ほかの道場では灌頂を気軽に授けることがあるが、私はむやみに灌頂を授けることはしない。なぜなら、灌頂の中には本尊に対する誓願を立てる部分があるからである。しかし、帰依もしておらず、いまだに肉を食べ、真剣に仏法を学ぶ準備もできていないのであれば、本尊や上師に対して誓ったことを必ず守れない。守れないのであれば、私は無理に勧めることはしない。したがって、今日はただ皆のためにこの法を修し、金剛手菩薩との縁を結んでもらうだけである。そして、皆がどの生においてか、あるいは今生において機会を得て、この法門を修学できることを願うのである。

金剛手菩薩の法本は、この一冊だけではない。私の手元には4種類の法本があり、それぞれ内容が異なっている。今日は、皆が受け止めることのできる法を修したのである。金剛手菩薩には、もう一つ『威猛金剛手成就』と呼ばれる法本がある。今回の法本は降魔を主とするものであるが、二つ目の法本は「威猛」の法であり、これを修すると、自らも金剛手菩薩のような威猛な力を具えることになる。しかし、皆にはまだこの法を受け止めることはできない。なぜなら、福報が十分ではないからである。
 
自分は法会に参加し、たくさん善行もしているから福報がある、と思わないことである。ここで、釈迦牟尼仏が金剛手菩薩について説かれた経文の一節を紹介しよう。私が皆のためにこの法門を修することを決めた日、何気なく『宝積経』を開いたところ、ちょうど金剛手菩薩について説かれている箇所に当たったのである。その中に、金剛手菩薩が七日間にわたり絶えず仏に供養を行ったと記されている。この七日間、金剛手菩薩は休むことなく修法を続け、供養を続けた。また、自分の言葉に従う多くの人々を集め、ともに供養を行わせた。そのため、仏は大いに歓喜されたのである。しかし、それは供養そのものによって歓喜されたのではない。仏は、供養を行ってこそ修行のための福報が得られることをよくご存じであったから、そのことを喜ばれたのである。供養とは、必ずしもどれだけ多くのお金を差し出すかということではない。大切なのは、供養しようとする心と、その準備ができているかどうかなのである。
 
私たちが密教で行う供養の方法は、皆にはまだ実践できないであろうし、私もあえて詳しくは話したくない。話せば、おそらく皆は驚いてしまうだろう。なぜ供養をするのか。それは、私たちの福報があまりにも浅く、あまりにも少ないからである。『阿弥陀経』にも明確に説かれているように、「不可少福德因緣的善男子善女人(少なからざる福徳因縁を具えた善男子・善女人でなければ)」、浄土への往生を願うことはできない。自分自身に問いかけてみなさい。この一生でどれほどの善行を積んできただろうか。何を根拠に、自分は必ず阿弥陀仏の浄土へ往生できると思うのか。ただ阿弥陀仏の名を称えれば往生できるのだろうか。『阿弥陀経』にははっきりと「不可少(少なからざる)」と説かれている。「不可少(少なからざる)」とは、数えきれないほど多くの福徳因縁を意味するのである。金剛手菩薩のような大菩薩でさえ、なお供養を行われた。それなのに、私たちのような凡夫が、ただ何となく礼拝するだけで供養をしたことになると思うのは、どういうことだろうか。今日は供養について深く論じるつもりはない。供養の話になると、どうしても人の感情に触れてしまうからである。ただ、修行の一つの法門として伝えているのである。金剛手菩薩についての経文には、特に七日間連続して供養を行い、さらに多くの人々を率いて共に供養したことが説かれている。これこそが大菩薩の行いなのである。
 
本日、皆のためにこの法門を修する主な目的は、この修法を通じて、皆が今生において仏門に帰依する際の障碍をいくらか取り除き、また輪廻して三悪道に堕ちる悪因をいくらか消滅させることにある。もし法会に参加した後、仏門に帰依し、仏法を学ぶことを決意するならば、現代の言葉で言えば、この法のエネルギーはそのまま継続していくのである。しかし、法会が終わって外へ出るや否や、「今夜はどの店で食事をしようか」「何の肉を食べようか」「どの魚を食べようか」などと考え始めるのであれば、この加持はたちまち途切れてしまう。今日行うことは、ただ皆の心に一つの種を植えることにすぎない。その種によって、来世に再びこの法門を学ぶ機会を得るかもしれないが、今生においてはその力を活かせないのである。それほど深刻なのかと思うかもしれない。深刻かどうかは分からない。しかし、1995年から衆生を助けるために活動してきた今日に至るまで、皆が見せるさまざまな振る舞いについては、私はよく承知している。厳密に言えば、仏法を学ぶことは決して難しいことではない。問題は決意である。ひとたび決意すれば、どのようなことであっても成し遂げることができるのである。経典には、ある人が発心して修行し、仏法を学び、そして修行を続けていくならば、諸仏・諸菩薩はこれを讃嘆し、歓喜し、その人を護持すると説かれている。求めなくとも自然に護持は与えられるのである。皆は毎日のように多くのことを願い求めているが、それだけでは意味がない。肝心なのは実際に行うかどうかである。行ってこそ意味があるのである。それでは、これより修法を始める。
 
(このとき侍者がマンダラ供養をお許しくださるよう祈請した。)私の弟子はよくやっている。皆のためにマンダラ供養をお願いしてくれたのである。マンダラ供養とは供養のことである。しかし私は、あまりにも煩わしいと思う。あなたたちに私への供養心がないくせに、私に供養していてどうするつもり。
 
リンポチェは修法を開始された。
 
先ほどまず仏の聖号を唱え、続いて命を奪う鬼衆に対してトルマを供養された。これには山中に住む衆生も含まれ、仏法を学び修行する衆生を害さないようにとの願いが込められていた。また、私たちがあらゆる刀剣や武器による害を受けず、疫病や災厄がすべて消滅し、彼らがそれぞれ帰るべき場所へ戻ることを願われた。
リンポチェが修法されると、その刹那、本尊と無二無別の忿怒尊の金剛相が顕現した。法相は極めて威猛で、両眼は大きく見開かれて光を放ち、その殊勝さはまことに不可思議であった。このとき、ガンリン、法鼓、シンバルの音が鳴り響いた。リンポチェが太鼓の打ち方を指導された後、たちまち会場には壮大な楽音が轟き渡り、その迫力は人々の心を深く揺さぶった。

リンポチェは修法を終えた後、参会者に合掌し、リンポチェに従って法本を唱誦するよう指示された。 

続いてリンポチェは修法を続けられた。修法中、虚空から雷鳴のような低い轟音が響き渡り、リンポチェは本尊と無二無別の忿怒金剛の相を顕現された。眉は逆立ち、両眼は大きく見開かれて宝石のような青い光を放ち、その周囲には橙赤色の光が現れた。法相は極めて威猛であり、金剛手菩薩と無二無別で、その殊勝さは不可思議であった。刹那のうちに、リンポチェの尊身と壇城から黄金色の光が放たれ、勝れた妙なる香りが会場一帯に満ちあふれた。
 
リンポチェは修法後、次のように開示された。「直貢噶舉には二人の法王がおられる。一人は私の根本上師である第37代チェツァン法王である。三十年前、法王はすでに私に一尊の金剛手菩薩像を授けてくださった。しかし、その金剛手菩薩像は比較的大きいため、加持に用いるにはあまり適していない。昨年、私が成都で第36代チョンツァン法王にお目にかかった際、法王は私の手にあるこの金剛手菩薩像を授けてくださった。おそらく法王は、私が今年この法を修することをご存じだったのであろう。この像は手に持って皆に加持を授けるのにちょうどよい大きさである。これは非常に古い仏像である。どれほど古いのか私にも分からないし、法王もおっしゃらなかった。私たちは二人で推測しただけだが、かなり古いものであるはずだ。皆、今は背筋を伸ばして座りなさい。」
 
リンポチェが金剛手菩薩の聖像を手にして参会者に加持を授けられると、銅色であった仏像は黄金色を帯びるように変化した。また、大地はたびたび震動し、参会者は皆、チャクラの震動や全身に広がる熱感を深く体感した。
 
リンポチェは次のように開示された。「この金剛手菩薩像は、チョンツァン法王がご自宅の壇城から取り出して私に授けてくださったものである。また、現在私がお祀りしているもう一尊の金剛手菩薩像も、チェツァン法王がご自宅の壇城から取り出して私に授けてくださったものである。これは、金剛手菩薩の伝承が私の身に受け継がれていることを示している。皆、合掌して私に続いて真言を三遍唱えなさい。」

続いてリンポチェは参会者を導き、真言を三遍唱誦された。

皆の唱え方は大声で叫んでいるだけで、丹田から声が出ていない。だから普段は唱えてはいけない。なぜなら、皆はまだ灌頂を受けていないからである。実のところ、今日は皆と縁を結ぶために行ったのであって、リンポチェが今日真言を伝えたからといって、唱えればすぐに効果があると思ってはならない。先ほど加持を受けたとき、熱くなったか?(参会者:『熱くなりました』)男性のほうは返事がないが、熱くなかったのか?(男性参会者:『熱くなりました』)もっと大きな声を出しなさい。まるで男らしくないではないか。本当に!もう年を取ったのか? 私は80歳だが、声は皆より大きい。会場に80歳を超えている人はいるか? いないだろう!皆は私が若く見えると思うだろうが、実際には皆より年上であり、しかも身体も皆より健康である。これは何を意味するのか?皆は修行していないということである。そこに座っているだけで足が絶えず動いている。リンポチェはまったく動いていないではないか。修行しなさい! 自分は忙しいと思っていても、誰一人として私より忙しい者はいないのである。
 
リンポチェは修法を続けられると、再び忿怒金剛の相を顕現された。
 
先ほどトルマを供養したのは、「瑜伽我等」(すなわち上師)とその「眷属」(すなわち本日法会に参加した人々)のためである。したがって、申し込みをしておきながら参加しなかった人は、後になって後悔することになるだろう。続く一節は、「無病長壽得福報(無病長寿にして福報を得る)」という意味である。「無病」とはどう定義するのか。まったく病気にならないという意味ではない。無病とは、過去世や今生で積んだ悪業によって生じる不治の病にかからないということである。このような法会に参加すれば、たとえ病気になったとしても治療によって回復することができる。「長寿」とは、非時の死を迎えないという意味である。すなわち、事故によって命を落としたり、突然脳卒中で亡くなったりすることがなく、そのような福報を得るのである。「具有名譽及賢福(名誉と賢福を具える)」という功徳は、皆には得られない。なぜなら修行していないからである。「廣大財富皆擁有(広大な財富をことごとく有する)」という功徳も、皆には得られない。修行していないからである。また、「息及增等(息災や増益など)」の功徳も、皆には得られない。「事業成就賜予我(事業成就を私に授けたまえ)」という場合の事業とは、世間の仕事や事業ではなく、仏法における利生の事業の成就を意味する。その成就を私に授けたまえ、ということである。「誓言保護我等者(誓言によって我らを守護したまえ」とは、私たちが灌頂を受けた後に本尊と上師に対して立てた誓い、そして本尊と上師が私たちに対して立てた誓いによって守護されるという意味である。「一切悉地賜恩德(一切の悉地を授け、恩徳を垂れたまえ)」とは、あらゆる成就を得ることができるという意味である。
 
「非時死亡及病境,消除無餘邪魔障(非時の死および病苦、一切の邪魔障を余すところなく消滅する)」とは、皆が非時の死を遂げたり、あらゆる病を患ったりすることの大部分、ほぼ百パーセントが魔障によるという意味である。魔障とは、皆の冤親債主や、この一生で食べてきた肉などであり、それらはすべて皆を病気にするのである。「惡夢凶兆及詛咒(悪夢、凶兆および呪詛)」とは、悪夢を見ることや、不吉な兆し、他人から呪いをかけられることを指す。「消除一切外道咒(一切の外道の呪法を消滅する)」とは、例えば台湾の多くの地域で行われている、符を描いたり呪文を唱えたりして人に害を与えるような術も、すべて消滅させるということである。「世界安樂皆富盛(世界は安楽にして皆豊かに栄える)」とは、私たちの住む場所が安楽を得て、あらゆるものが比較的豊かになることを意味する。「國內豐收正法廣大(国内は豊作となり、正法が広まる)」とは、さまざまな農作物が豊作となることを願うということである。一切の「正法」とはすなわち仏法であり、衆生を助け、教え導き、輪廻からの解脱を学ぶよう勧める法を「正法」という。「圓滿善樂皆吉祥,祈願心想事成就(善と安楽が円満に具わり、すべてが吉祥となる)」とは、願ったことが成就するよう祈願するという意味である。したがって、仏法を学ぶことには多くの利益がある。皆が学ばないのであれば、それも仕方がないことである。

リンポチェは引き続き修法を行われた。

先ほど修した内容は、すべて法会に参加した人々が仏法を学ぼうとする際の障碍や業障を取り除き、減少させるためのものである。障碍とは必ずしもお金がないことではなく、病気になることでもない。大変裕福であることも障碍となるし、妻や夫、子どもがとても自分を愛していることも障碍となる。何に対する障碍なのか。それは、情愛を手放せなければ修行はできないということである。清浄になるというのは、家族がいなくなることでも、姿を消すことでも、離婚することでも、あなたを無視することでもない。誤解してはならない。ただ、彼らがあなたの学仏を認め、支持し、問題を起こさなくなるということである。例えば、菜食をすると聞いただけで、まるで犯罪でも犯すかのように受け取り、「なぜ菜食をするのか」と責め続ける人がいる。これが障碍であり、多くの家庭にこうしたことがある。
 
私のこの仏寺には、厳格に実行していることがいくつかある。第一に、外部の車両の乗り入れを禁止している。なぜなら、車が入れば空気を汚染し、この一帯に住む動物や植物を傷つけるからである。第二に、すべての樹木について、もし病気になったとしても化学薬品の使用を許可せず、化学肥料の使用も認めない。ここでは殺生を禁じている。私たちの警備を担当する者も、敷地内で肉を食べることは許されない。食べるのであれば外で食べなければならない。また、目にしたいかなる動物も追い払ったり殺したりしてはならない。厳密に言えば、今ここに仏寺を建てていること自体が、もともとこれらの衆生の住む場所を占有しているのである。したがって、私たちは彼らを傷つけるべきではないのである。
 
およそ二週間ほど前、一匹の蛇が観音殿の正門前まで這って来た。昼間からそこに横たわっていたが、通常、蛇は昼間にはあまり姿を現さない。その蛇は観音殿の四つの門をあちらこちらと巡っていた。私は彼らに、「この蛇はここへ死を待ちに来たのだろう」と話した。その後、その蛇は観音殿の脇にある池の配管を見つけ、そこへ入り込んでいった。彼らが「蛇がいなくなりました」と私に知らせたので、私は「必ず管の中へ入ったのだ。外へ誘導してごらんなさい」と言った。すると不思議なことに、彼らが蛇を外へ誘導しようとすると、蛇は自ら這い出てきた。そして再び観音殿の正門前まで来て、そこに留まったのである。私は「段ボール箱を用意して、その中に住まわせてあげなさい」と言った。最初に小さな段ボール箱を与えたところ、一日で出ていってしまった。そこで、もう少し大きな段ボール箱を用意すると、そこに住み着いたのである。蛇でさえ住む家を選ぶのだ。(会場笑)その蛇は二、三日そこに住んだ後、観音殿の正門前で、頭を私の法照に向けたまま息を引き取った。

この話は、私がどれほど偉大であるかを語るためのものではない。この話が伝えているのは、動物にも皆、霊性があり、仏法が自分たちにとって役立つかどうかを知っているということである。ましてや、皆は人間ではないか。よく考えてみなさい。皆は人間なのか、それとも動物なのか。仏法を拒んではならない。また、仏法を利用してもならない。私は毎日ここへ来ているわけではないが、私の願力はこの場所にある。そのため、動物でさえ何かを感じ取ってやって来るのである。この敷地には、二メートルを超える毒蛇がよく現れる。しかし、ここに住み着くことはなく、ただ通り過ぎるだけである。こちらからあちらへ這って行くのは、餌を探しているからである。それらの蛇はこれまで人を脅かしたことも、人を咬んだこともない。人を見れば向かって行くということもない。私のところには多くの野生動物がいるが、私はそのことを話さない。話せば、捕まえに来る人が出てくるからである。したがって、仏法は極めて偉大であり、皆の想像の及ぶものではない。
 
私が法会を行うたびに、上空では多くの鷹が飛び交っている。本来であれば、鷹は魚を捕るものであり、私の二つの池には魚がいるので、上空から見えているはずである。以前、この場所はため池であり、鷹が舞い降りて魚を捕っていた。しかし、私がここで活動を始めて以来、鷹は池の魚を捕ったことがない。このように、仏法はあらゆる有情衆生の心を動かすのである。皆は万物の霊長であると自負し、自分は頭が良いと思っている。しかし、仏法を学びなさいと言われると、まるで命を取られるかのような反応をする。その理由は決まって「忙しい」である。法会に申し込んでおきながら来ない人と同じである。事前に何度も「本当に来るのですか」と確認している。なぜ確認するのか。それは、キャンセル待ちをしている人がいるからである。突然来なくなれば、キャンセル待ちの人も参加できなくなってしまうのである。
 
(この時、リンポチェは白い服を着たある信者を叱責された。その信者が頭をあちらこちらに向け、こちらを見たりあちらを見たりしていたためである。「聞く気がないのであれば、今すぐ出て行ってよい」と言われた。)私はここで話をしているのに、君の心はどこへ飛んでいっているのか分からない。君には忍耐力がない。今すぐ出て行ってもよい。ここではお金を取っているわけではないのだから、何か損をするのではないかと心配する必要もない。私はもう80歳である。あと何年、皆を叱ることができるか分からない。私はあえて言うが、台湾にはこれほど清浄な仏寺はない。灯明供養も設けていないし、皆がどうしようと勝手である。ただし、私の言うことを聞いて、この仏寺の周囲を清潔で清浄に保ち、殺生をしないこと。これが私の求めることである。皆がここへ来られるのは皆自身の福報であり、私が何かを得るわけではない。だから皆、言うことを聞きなさい。
 
なぜ皆に灌頂を授けないのか。それは、この後にあるいくつかの言葉を、皆は絶対に実践できないからである。たとえ実践できたとしても、私は怖い。なぜなら、「生々世々、私の弟子となる」という一節があるからである。私はそれを聞くとぞっとする。皆のような者たちが生々世々私の弟子になるなど、私は大変ではないか。ずっと生まれ変わって皆を探し続けなければならない。私がここで仏法を説いているのに、頭をこちらへ向けたりあちらへ向けたりしている。これは不敬である。敬意を払うことは、人としての基本である。相手は何の見返りも求めず、不平も言わず、これほど多くのことをしてくれているのに、少しは敬意を払えないのか。私がリンポチェだからではない。私は80歳である。80歳の人間として、それだけでも尊重するに値するだろう。皆の中で、80歳まで生きて病気もない人はほとんどいない。この一点だけでも、私は間違いなく皆より優れている。何かを私と比べる必要はない。この一点だけを見ればよい。私は今でも歩くことができ、拳法もでき、あちこち動き回っている。これだけでも、私に修行があることの証明である。だから皆、少しは敬意を払いなさい。それは私に対してではない。私の後ろには数え切れないほどの仏がおられ、一尊一尊の仏が皆を見ているのである。私はただ、その仏方を代表して仏法を弘めているにすぎない。皆には仏の説法を直接聞く資格がない。なぜなら、皆は仏法を学んでいないからである。

私だけが苦労して、皆に「ああしなさい」「こうしなさい」と言い続けている。なぜ言うことを聞かないのか。私の言うことを聞いたら、肉が一枚減るのか。私は皆に「私の言うことを聞け。その代わりにいくら払え」などと言ったことはない。それなのに、なぜこのように敬意を払わないのか。それは、我慢ができないからである。なぜ皆に灌頂を授けないのか。灌頂の前の条件の中に、「根気がなければ、いかなる法も得られない」というものがあるからである。だから灌頂を授けない。本来であれば、この後に灌頂が続くはずであった。末法時代に生きる上師は大変なのである。皆が想像するほど容易なことではない。皆は何でも欲しがる。しかし、言うことだけは聞かない。
 
本来であれば、今日はさらに別の法も皆のために修するつもりであった。しかし、皆が私を尊重しないのを見て、これ以上修しても意味がないと思った。だから、一人のせいで皆が別の法を受けられなくなったのである。私は厳しい。なぜなら、私も皆と同じように一人の信者から修行してここまで来たからである。転世リンポチェではなく、私も在家の身である。では、なぜ私は今生において多少の成就を得て、一人の力だけで仏寺を建立することができたのか。それは仏法の上で成就があるからである。私が言うことを聞き、敬意を払ってきたからである。そして、仏法がなければ、自分には何もないことを知っているからである。「何もない」とは、物がないという意味ではない。生命そのものが成り立たないということである。皆が今日まで生きてこられたのは、私ははっきりと言えるが、過去世で必ず仏法を学んだことがあるからである。ただし、しっかり学ばなかった。そのため今生でも再びやって来たのである。私は本当に業障が深重である。なぜか分からないが、皆が私を見つけ出してきた。それだけは、皆もなかなかのものである。
 
リンポチェは弟子たちを率いてアキ護法の儀軌を修持された後、続いて武のアキ護法儀軌を修持された。同時に、出家弟子に指示して大衆を導き、回向文、尊勝なる直貢チェツァン法王長寿祈請文、尊勝なるチョンツァン法王長寿祈請文、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ長寿祈請文、および『極楽浄土往生祈請文』を唱誦させられた。
 
リンポチェは開示された。
 
この『極楽浄土往生祈請文』は、単なる文字として唱えてはならない。実は第一句目から、すでにどのように修行すべきかが説かれているのである。「奇妙哉」とは、十方の仏界・仏土の中において、阿弥陀仏の浄土だけが特別であるという意味である。たとえ今生において何の果位も証得していなくても、帰依し、菜食を守り、師長を礼敬し、仏菩薩を恭敬し、大乗経典を読誦し、仏号を称え、五戒を守り、十善を修し、願を発していれば、往生する機会がある。
 
他の法門には、これほど容易なものはない。阿弥陀仏は、「業を帯びたまま往生できる」と説かれている。ここでいう業とは悪業ではなく、今生で積んだ善業の果報がまだ尽きていない状態であっても往生できるという意味である。多くの人は、善業の果報があると仏土へ行けないと言う。例えば、善行をして見返りを求めたり、何かを得ることを期待したりする場合である。たとえば、野良犬を助けるのが好きな人がいる。犬たちが苦しんでいないのを見て嬉しくなり、感動して涙を流す。このような心もまた業であり、輪廻の原因となる。なぜなら、その犬たちはその人に借りがあるからである。多くの人はそのようである。善いことをして、自分は善人だと思い、感動する。あるいは誰かの学費を援助し、その人が立派に勉強して成功したなどのを見て喜ぶ。これは仏法でいう善行ではない。
 
仏法における善行とは、いかなる見返りも求めず、いかなる感情的満足も求めないことである。例えば少し前に、私は市政府の社会局に非常に大きな金額を寄付した。生まれつき病気を持つ乳児を支援するためである。補助の対象外となるケースが多く、担当者たちは病気を持つ乳児を十分に助けられないことをずっと心苦しく思っていた。そこで私は多額の寄付をしたのである。彼らは市長から表彰を受ける式典への出席を求めた。その様子はニュースにもなる予定であった。しかし私は断った。しかも私は寄付額が最も多く、表彰者の筆頭の立場であった。なぜ行かなかったのか。市長は非常に忙しい人であり、その時間を私のために使わせたくなかったからである。市長はもっと多くの市民のために働くべきである。それでも出席を求められたが、私は「こうしたことをするのは当然のことである。なぜなら私は修行者だからだ」と答えた。なぜこの話を皆にするのか。これは一つのたとえである。善行を行うことは、人としての基本である。それを何か特別なことだと思ってはならない。皆が今生で人間として生まれることができたのは、過去世に善行を積み、十善法を修したからである。その果報として今生に人間として生まれたのである。しかし人間として生まれた後、その善行を忘れ、自らを放縦し、十善業を修せず、十悪業を積むようになる。そのため、輪廻を繰り返し続けるのである。

『極楽浄土往生祈請文』の第一句には、すでに非常にはっきりと説かれている。「稀有難得無量光佛尊(稀有難得なる無量光仏尊)」。「稀有」とは、この広大な虚空の中で、これほど容易に往生できる仏土を見つけることができるのは、阿弥陀仏の浄土だけであるという意味である。このようなことが可能なのは、阿弥陀仏の広大な願力があるからにほかならない。皆は簡単だと思うか。簡単ではない。五戒十善を行っているか。師長を礼敬しているか。父母に孝養しているか。殺生をしていないか。十善法を修しているか。家に帰って自分自身に問いかけてみなさい。これは仏典に説かれていることであって、私が勝手に条件を出しているのではない。そのことを理解してほしい。今日リンポチェが話していることは、すべて仏典や法本に説かれている内容である。私は仏典に基づいて話しているのであり、皆はそれを実践しなければならない。「無量光仏尊」とは、阿弥陀仏の別の名号である。阿弥陀仏は無量光であり、無量寿である。その光は十方法界を照らし、果てしなく広がり、照らし届かないところはない。阿弥陀仏の傍らには観世音菩薩がおられる。観世音菩薩は阿弥陀仏の事業を継承される方である。なぜ私たちは自然に観世音菩薩の修行へと導かれるのか。それは、浄土宗を修するのであれば、観世音菩薩が必ず助けてくださるからである。また、「大勢至菩薩」もおられる。金剛手菩薩は、大勢至菩薩の忿怒尊である。
 
「四周無量佛菩薩圍繞(その周囲には無量の仏菩薩が取り囲んでいる)」。仏様の浄土に、阿弥陀仏の浄土に数え切れないほど多くの仏菩薩がおられる。つまり、今日皆が浄土の修行を堅く決意したとしても、修行しているのは皆自身だけではないのである。自分が念仏しているのだと思ってはならない。諸仏菩薩が皆の願いを見て、その願いを成就させ、助けてくださるのである。しかし、その条件として、完全に善でなければ往生することはできない。一ミリたりとも悪業を持ち込むことはできない。そのため、二十年間菜食を続けてきた人であっても、臨終の際に突然子どもへ「肉が食べたいから作ってくれ」と頼むことがある。多くの子どもは親孝行のつもりで肉を調理して食べさせる。すると、その人は下へ落ちてしまう。なぜか。仏号を称える修行が十分に清浄ではなかったからである。
 
顕教の立場から言えば、浄土宗を修する者は昼夜六時、すなわち二十四時間、一心不乱でなければならない。では、「不乱」とは何か。それは、阿弥陀仏以外の念が一切ないということである。皆にできるか。できない。それができるのは、私たちチベット仏教、密教だけである。なぜなら、私たちは上師の加持と灌頂を受けることによって、心を清浄にするからである。そのため、私のところでは閉関修行を重視しているのである。
 
続いて、「彼即無量稀有妙安樂(彼はすなわち無量の稀有なる妙安楽なり)」と説かれている。「無量」とは、数字では数え切れないという意味である。「妙安楽」とは、人間世界における安楽ではない。なぜなら、阿弥陀仏の浄土へ往生すれば、不退転となるからである。つまり、二度と輪廻しないということである。阿弥陀仏の浄土へ往生すると、すでに準菩薩の果位に入ることが決まっている。したがって、この一生において菩薩道を学ばず、菩薩道を修行せず、自分個人の利益のためだけに仏法を学んでいるのであれば、たとえどれほど阿弥陀仏の名号を唱えても往生することはできない。皆は私がでたらめを言っていると思うかもしれない。外ではそのようには説いていないからである。しかし、私はでたらめを言っているのではない。なぜなら、私は済度の専門家だからである。誰もが私の済度の力が優れていることを知っている。もし私の説く仏法に誤りがあり、戒律の理解も間違っているのであれば、衆生を済度することなどできるはずがない。

少しでも私のことを知っている人なら分かるだろうが、私は二万人以上が参加する阿弥陀仏大法会を十六年間続けてきた。広告も出さず、テレビにも宣伝していない。それなのに、なぜこれほど多くの人が集まったのか。それはすべて諸仏菩薩が彼らを連れて来られたからである。したがって、もし私の修行が正しくなければ、これほどの人々が集まることはあり得ない。「名為極樂世界之淨土。(極楽世界という名の浄土)」とは、「極楽」とは人間世界で求めている欲望の満足や感覚的な楽しみではないということである。極楽とは、それ以後、輪廻の苦しみがなくなることである。皆はまだ死んでいないから、輪廻がどれほど苦しいか分からない。当然、過去世で輪廻した苦しみも忘れている。しかし、私たち修行者は、輪廻の苦海の中にいる衆生の苦しみをこの目で見ている。先ほど話したあの蛇を例に取れば、あの蛇は苦しくなかっただろうか。畜生道に堕ちていたのである。しかし幸いにも、過去世による霊性が少し残っていた。そしてちょうど私がここに仏寺を建立したために、今生で畜生道から解脱する機会を得たのである。もしそのような因縁がなければ、輪廻を繰り返し続けることになる。今生で人間として生まれたからといって、来世も必ず人間になれると思ってはならない。地獄へ堕ちる可能性も高いし、畜生道へ堕ちる可能性も高い。
 
「自他從此命終之當下(自他はこの命終の当下より)」とは、「自」は自分自身、「他」は一切の有情衆生を指す。この一生が終わった後、「当下」とは直ちに、という意味である。実際のところ、浄土宗を正しく修行できていれば、息を引き取った瞬間に往生する。私が密教のポワ(頗瓦)法によって衆生を助ける場合も同じである。息を引き取った瞬間に往生し、四十九日を待つ必要はない。「不為他生居中所阻斷(他生して中有に居することに阻断されず)」とは、往生した後、再び輪廻することがないという意味である。再び生まれてくることはない。阿弥陀仏の浄土へ生まれると、「願見彌陀佛(願わくは阿弥陀仏にお目にかかりたい)」と願うのである。なぜなら、往生した際にはまず一輪の蓮華の中に生まれ、その蓮華は一小劫を経てようやく開花するため、そのときになって初めて仏にお会いすることができるからである。その間、蓮華は毎日少しずつ開き、仏菩薩が説かれる仏法を聞くことができる。非常に多くの仏法を聞くことができるが、まだ仏そのものにはお会いしていない。ここでいう仏とは化身仏ではなく、法身仏である。
 
「我今如是發此誓願已(我今、かくのごとくこの誓願を発し終わりて)」とは、今まさにこの誓い、この願を発するという意味である。したがって、今日ただ歌を歌うように唱えて、帰宅したらすべて忘れ、再び肉を食べ、人を罵り、人を責め、仏法を尊重せず、悪業を積み始めるのであれば、今日これを唱えたこと自体が無意味になってしまう。この一節はわずか数行しかないように見えるが、実際には浄土宗の修行全体がその中に含まれているのである。「十方一切諸佛及菩薩(十方の一切の諸仏および菩薩)」は、皆が浄土往生を目指して修行しているのを聞き、見れば、必ずあらゆる障碍を取り除き、その人を成就させ、浄土へ往生できるよう助けてくださる。あらゆる法門の中で、最も容易なのは浄土法門である。しかし、それでも決して簡単ではない。皆から見れば、きっと非常に難しいだろう。菜食を守り、五戒を守れと言われれば、天に昇るより難しいと思う。三宝を尊重しなさいと言われても、それすら難しいのである。
 
先ほど頭をあちこちに動かしていた信者は、まさに退屈し始めていたのである。なぜなら、自分の聞きたい話が語られていなかったからである。仏法を学ぶ上で大切なのは、一心である。つまり、自分の心である。私がどれだけ話したとしても、自分の心が決まっていなければ何の役にも立たない。決めるのは自分自身なのである。仏法には一つの特徴がある。それは、「信じなければ地獄に堕ちる」と脅すことがないということである。そのようなことは一度も説いていない。しかし、仏法を生活の中で用いなければ、自らに地獄へ堕ちる機会を作ることになるとは教えている。それは仏法を信じないからではない。仏法は迷信ではない。仏法とは、自らの内なる世界をどのように変えていくかを教え、新しい未来を生み出すためのものである。今持っているものを放棄しなさいということではない。すでに結婚しているのであれば、そのまま結婚生活を続ければよい。仏典にも、在家者に対して「仏法を学ぶなら妻と一緒にいてはならない」「夫と一緒にいてはならない」とは説かれていない。そのような教えはない。それは出家者についての話である。混同してはならない。また、商売をしてはならないとも説いていない。維摩詰居士は大変裕福で、多くの事業を営んでいた。
 
したがって、私たちは仏法が何のためにあるのか、なぜ仏法を説くのか、それが何のためなのかを正しく理解しなければならない。そして、自分自身がその方向へ進み、学んでいこうと決意しているかどうかが重要なのである。皆はいつも仏菩薩や上師に加護してもらいたいと願っている。私は皆を加護することはできる。しかし、一度しか加護できない。仏菩薩も同じく、一度しか加護しない。なぜなら、皆は言うことを聞かないからである。『妙法蓮華経』にも説かれている。救い出しても、振り返ればまた元の場所へ戻ってしまう。皆もまさにそのようである。「一度くらいなら大丈夫ではないか」と思ってはならない。私は大丈夫でも、皆は大丈夫ではない。なぜなら、私はそうした例をあまりにも多く見てきたからである。
 
リンポチェが他の修行者と異なる点は、多くのことを見てきたということである。そのため、因果が確かに存在することを知っている。今日どのようなことを行ったとしても、必ず結果がある。したがって、今日法会に参加したことは善なる因であり、必ず善なる果がある。もし今日法会に参加した動機が修行のため、菩薩道を修めるためであれば、得られる加持は非常に大きい。しかし、ただ好奇心から、加護を求めて、あるいは自分の状況を少し良くしたいというだけで来たのであれば、その結果も少し良くなる程度であり、それ以上ではない。私は率直なことを言っているのであって、皆を騙しているのではない。一度法会に参加しただけで、すべてが良くなると思ってはならない。そのようなことは起こり得ない。もしそうであれば、「因果」という二文字は存在しなくなってしまうのである。

皆、年を重ねるごとに成長している。皆のことを年老いたとは言わないが、自分については年を取ったと言える。皆は一年一年成熟し、一人前の大人として自分の将来の人生に責任を持たなければならない。そのためには人生設計が必要である。それは、どれだけお金を貯めて老後に少しずつ使うかという話ではない。そのようなことではない。私は皆に一つだけ質問したい。家に帰ってよく考えてみなさい。皆は死ぬか?(大衆答:死にます)では、どのように死ぬのか準備はできているか。死んだ後、どこへ行くのか知っているか。今どれほど英雄であろうと、どれほど威勢がよかろうと、どれほど優秀で有能であろうと、どれほど学識があろうと、誰もが必ずこの段階を通らなければならない。
 
皆が何歳であろうと関係ない。私が年を取ったからこの話をしているのではない。私はずっとこのことを説いてきた。私は三十代で仏法を学び始めたが、それもこのためであった。なぜなら、人生は無常であることを見たからである。私は父が亡くなる時、突然この世を去るのを目の当たりにした。そして、この世には死に際して私たちを助けられるものはないと知った。そのため、仏法に触れ、仏法を学んだ時、この人生が終わる時にどのように乗り越えるべきかを助けてくれるのは、ただ仏法だけであると知ったのである。この方法を知ってから、私は自分の人生に対して不安や恐怖を抱かなくなった。なぜなら、最も苦しく、最も危険な出来事についてすでに理解しているからである。そして、それにどう向き合うかを知った以上、人生の些細なことなどはすでに問題ではない。
 
だから今日、心を込めて皆に話しているのであって、皆を叱っているのではない。もし私が皆を叱っていると思うのであれば、今後は来なくてもよい。よろしいか。寶吉祥仏寺は、正統な仏法を弘める仏寺である。私は甘い言葉やお世辞によって信者を集めることはしない。皆が来なくても、私は気が楽である。皆が来れば、私はさらに苦労する。八十歳の老人である私は、昨日の朝九時半から修法を始め、午後四時まで修法を続けた。それはただ、今日皆が来るためである。(大衆一同「リンポチェ、ありがとうございます」)昨日の修法では誰からも供養を受けていない。私は無償で奉仕している人間なのである。だから今日、仏法を尊重せず、この場を尊重しなかった人は、よく三宝に懺悔しなさい。皆は、お金を取らずに自分たちのために尽くしてくれる人に会ったことがあるか。ないだろう。だから今日私が話したことが、皆の人生の助けになることを願っている。ありがとう。(大衆は拍手し、一同「リンポチェ、ありがとうございます。リンポチェに感謝いたします」と述べた。)

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法会が円満に終了した後、晴れ渡った空に次々と殊勝な瑞相が現れた。雲はあたかも金剛手菩薩の壇城のような姿を示し、その中央には金剛手菩薩が化現された。智慧の火と智慧の光に囲まれながら加持の光を放ち、十方世界を遍く照らした。光輪の外側には、幾重にも重なる瑞雲が取り巻き、まるで帰依境における歴代伝承上師方が虚空に安住しているかのようであった。その後、円満なる光輪が現れ、あたかも諸仏菩薩および歴代伝承上師方がともに来臨し、リンポチェの殊勝円満なる修行の成就と、衆生を利益する広大な悲願および功徳を称賛しているかのようであった。

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2026 年 05 月 20 日 更新