尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2026年1月25日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に昇り、極めて殊勝なる施身法の法会を主宰し、あわせて参会した大衆に貴重な仏法の開示を授けた。

リンポチェは法座に昇った後、久しく六字大明呪を持誦した。その慈悲に満ちた法音は虚空に遍満し、香気が立ちこめ、地はたびたび揺れ動いた。持呪の後、リンポチェは直ちに施身法を修し、苦しみにある衆生を済度なされた。

リンポチェは大衆に対し、助けたいと願う生者および亡者の名前を三遍念想するよう指示した。続いて腿骨の法器を吹奏した。法器の音は悲愴にして深長であり、平等なる慈悲心をもって衆生を招き寄せ、済度を受けさせた。リンポチェは大手印の禅定に入り、勝義の菩提心をもって、自身の一切の血肉および骨が甘露へと化すと観想し、何ら惜しむことなく諸仏菩薩に供養し、また平等に六道一切の衆生へ布施した。修法の最中、リンポチェは六字大明呪を持誦し、その梵音は直ちに心田に入り、慈悲の願力は温かな流れとなって衆生の内なる苦痛を抜き去り、煩悩と執着を鎮めた。そのため、会場の大衆は感動して涙を流した。

修法が円満に終わると、リンポチェ御身ならびに仏像・壇城よりまばゆい金色の光明が放たれた。衆等は、リンポチェが衆生を輪廻の苦海より切に救い抜こうとする大悲心に深く感恩し、思わず涙が頬を伝え落ちた。続いてリンポチェは弟子たちを導いてアキ護法の儀軌を修し、その後、出家弟子に命じて大衆を導き、回向文を念誦させた。

リンポチェによる貴重なるご開示:

リンポチェは、一年前にある者が仏寺にて除草のボランティアに参加した際、不注意により溜池へ滑落した出来事があったと述べられた。幸いにもいかなる負傷もなかったが、この件が発生した時点で、本来であれば仏寺の職員が直ちに報告すべきであったにもかかわらず、昨日になって初めて明らかにされたという。

あなた方は専門家ではなく、植物の知識もなく、除草の方法も理解しないままボランティアに行き、手当たり次第に作業をしても、それ自体は大きな問題ではない。しかし、私が最も心配しているのは、あなた方の安全である。あの場所には草が多く、草むらの中には必ず蛇やその他の動物がいる。そのような危険を顧みず、ボランティアたちは自分の分際もわきまえず、すべてはアキ護法が守ってくださると思い込んでいる。しかし、アキ護法が守護するのは、自ら身を守ることを理解している者である。ゆえに、今後、除草のボランティアは二度と行ってはならない。資格を有し、専門的な訓練を受け、この分野を職業としている者でない限り、決して行ってはならない。

あなた方は行楽や運動に行くつもりで仏寺に来ているのであり、実際、私が仏寺に行くたびに見ると、除草はされておらず、一面の芝生を枯れさせてしまっている。これは弟子たちの責任である。どうか仏寺に害を及ぼさないように願う。理解のない弟子が、種をまけばすぐに草が生えると他人に言っているのも問題である。本来、今日は話すつもりはなかった。しかし、先ほど施身法の法本を見た。これは2003年に印刷され私に授けられたもので、今は2026年初めである。22年が経過し、あなた方は本当に変わっていないと私は感じる。私は毎月1回施身法を修し、1年に10回以上修する。22年間で200回以上になる。台湾中のどの道場でもこれほど多く施身法を修するところはない。調べれば分かるはずである。

仏法の理論に基づけば、このような殊勝な密法に継続して参加していれば、修行面での進歩が見られるはずである。しかし、現実はそうではなく、依然として自己中心の心にとらわれている。今日、除草の件で分かったことは、仏寺のすべての職員が応急処置訓練を受けるべきだという提案が誰からも出ていないことである。私たちの医療チームは、法会があるときのみ必要と考え、平常時は不要としている。しかし平常時にも多くの人が仏寺を訪れるので、事故が発生する可能性は十分にある。

医療チームの王姓の弟子は、長年看護職に従事してきたにもかかわらず、このような法規をまだ理解していないのか。もしボランティアとして手伝うつもりなら、きちんと行うべきである。医療チームのチーフとしての責務を果たさずに事がうまく進まなかったのは問題である。皆、自分勝手に振る舞わないようにしてほしい。

もともと私は法務チームを解散しようと思っていた。彼らは日常的に間違いを繰り返していたからである。しかし、あなた方弟子全員は、リンポチェが彼らを叱ったことで、自分には関係ないと思っている。私は施身法を修する際、法務チームを必要としない。自宅で喜金剛を修する際も法務チームは不要である。リンポチェがこれらを必要とするのではなく、必要なのはあなた方である。なぜ道場にはこのように多くの自利的な者が存在するのか。昨年発生した溜池への転落事故も、昨日になって初めて私に知らされた。溜池に入った本人が自発的に報告しなかったため、次の人も同じ危険にさらされる可能性がある。本人は自分は無事で大したことはないと思ったため、報告の必要はないと考えたのである。

法律上、仏寺は公開場所であり、多くの法的責任を負う必要がある。協会とは異なり、協会は閉ざされた場所であり、外部の人々とは直接関係がない。あなた方は読書や新聞を見たことがあるのか。私はすでに79歳であり、あらゆることを私が取り仕切らねばならず、あなた方と過ごせる時間も長くはない。どうか協会と仏寺を大切にし、心を込めて世話をしてほしい。あの十数名の水やパンを仏寺に持参した人たちを思い出すと……。以前の私であれば、間違いなく彼らを追い返したであろう。彼らは皆、自利的である。私がこれほど苦労して働くのは何のためなのか。あなた方一人ひとりは過去20年を平安に過ごしてきた。リンポチェは以前、道場を離れなければ三悪道に堕ちることは絶対にないと約束した。私の約束は守られる。しかし、あなた方は何を私に示したのか。

仏寺や協会において、あなた方は個人として存在するのではなく、何か事が起これば仏寺・協会全体に関わる。発生した事実を正直に報告できるか。79歳の老人である私が昨日になって初めて知るようなやり方を、やめてくれないか。溜池に入った者はそれを小さな出来事と思い、『リンポチェを煩わせる必要はない』と考えた。しかしその者には常識がなく、問題ないと思っても、他の人が同じことをすれば、なぜ防護措置を取らなかったのかと私に問われることになるのだ。

仏法はこれほど殊勝であり、私は長年にわたりあなた方に教え続けてきた。施身法を二十年以上修してきたが、私が法を弘め始めて以来、弟子の中で事故死した者は一人もいない。亡くなった者はすべて病死である。法本に記されている『非時死亡はない』ということを、私はすでに実現してきた。道場を離れない弟子であれば、誰一人として三悪道に堕ちることはなく、亡くなった時の様子を見ればそれがわかる。それにもかかわらず、なぜあなた方はこれほどまでに感情がなく冷淡なのか。断言する。私が死んだ後、少なくともこれから100年の間、私のような者は現れない。これを当然のことと思ってはいけない。私の時間は限られており、あなた方と過ごせる年数もわずかである。しかし、あなた方のこのありさまを見ると、ますます心配になる。

王姓の弟子は私や道場に対して非常に献身的であり、また経験豊富な看護職である。それにもかかわらず、仏寺のすべての職員が応急処置訓練を受けていないことを全く知らなかった。これは彼女自身の責任ではない。なぜなら彼女はボランティアだからである。ゆえに、ボランティアとして参加する者は、資格や経験がない場合、仏寺に観光気分で訪れることをやめて欲しい。あなた方ができることは、すべてお金を使って専門家に依頼すれば十分であり、あなた方が行う必要はない。仏寺の建設に携わった多くの業者は、口々にリンポチェに感謝し、後の多くの作業では利益を求めず、コスト分のみ請求して手伝ってくれた。彼らは私の弟子ではないにもかかわらず、私の行動や人となりを見てそのようにしてくれたのである。外では誰も見たことも聞いたこともない方法である。それにもかかわらず、あなた方は20年も私に付き従いながら、なぜこのような行いを私に見せるのか。人としての心はあるのか。これは些細なことで見せかけの批判をするための話ではなく、小さな事柄からあなた方の心のあり方が見えたのである。

仏寺は絶えず向上し進歩している。あなた方のエゴによって仏寺が損なわれることを、私は決して望まない。ここで改めて強く告げる。今後、再び食べ物や水を仏寺に持ち込む者がいれば、その者は以後、仏寺に来てはならない。それは私の仏寺を顧みない行為だからである。この場にいる者の中で、私より年長の者はほとんどいないであろう。見た目はそう見えないかもしれないが、私は本当に79歳である。あなた方は、いったいどこまで一人の老人を踏みにじるつもりなのか。あなた方の心はどこにあるのか。あなた方は修行をしようとせず、リンポチェは常にあなた方を助けてきた。少なくとも、人としての最低限の道徳観を持つべきである。それすらないのであれば、どうすればよいのか。

釈迦牟尼仏は、末法の時代には衆生の業障が重いと常に説かれてきたが、まさにそのとおりである。人の言うことを聞かず、我が道を行く。そのため、法本を見て感慨を覚え、二十数年にわたりこの法を修してあなた方を助けてきたが、あなた方は少しも心を動かさない。毎月施身法を修し、しかも見返りも求めずに続けている道場が他にあるかどうか、調べてみるがよい。生き続けることは、あなた方に安楽な生活を与えるためではない。真に修行をするためである。さもなければ、この一生が終わればすべては終わりである。リンポチェは死なないなどと期待してはならない。どれほど長寿の祈願文を唱えようとも、私は必ず死ぬのである。

除草のボランティアは、今後二度と行ってはならない。私は二名の弟子が植物に精通し、職業として関わっていることを知っている。では、その二名とは誰か。(弟子の報告:唐姓の弟子は名門大学の修士である。)官位がそんなに高いのか。(弟子の報告:邱姓の弟子は園芸・植栽の資格取得講座を受講している。)邱姓の弟子は手伝いに行ったのか。(弟子の答え:はい、二人ともボランティアとして手伝いに行った。) リンポチェは続けて、私は見たところ、手伝いはしていないと。涂姓弟子の従妹が行くと、すぐに多くの樹木が病んでいることに気づいた。しかし、あなた方二人は報告をしたことがない。手伝いに行ったとしても、終日樹木を伐採しているだけで、心がこもっていない。あなた方二名の高学歴の弟子は、もう仏寺のボランティアに行く必要はない。私は追い出すつもりはない、まだ弟子だからだ。私は植物の専門知識はないが、涂姓弟子の従妹にその部分を任せたところ、すぐに二本の樹木が病んでいることを発見した。あなた方二人は頻繁に行っていながら気づかず、仏寺の芝生一面が枯れていることも知らなかった。これは、あなた方二人のいわゆるボランティアは、単に功徳を手に入れるためのものでしかなかったことを示している。周姓の担当弟子に伝えよ。二人はボランティアとして行ってはならない。法会への参加は許す。

私はむしろお金を払って人を雇って作業をさせたい。金を払って行わせれば、やり方が間違っていれば叱ることができる。しかし、あなた方二人がボランティアとして行うと、私には叱ることもできない。私は本当に苦しい。弟子であるあなた方にこのように振り回されているのだ。それでも、本尊が常に支えてくださり、私は今日まで生きてこられた。「気づかなかった」などと言わないでほしい。私は自分の目で、二本の樹木が枯れているのを見た。あなた方二人は専門家を自称しながら、それに気づかなかった。ところが、涂姓弟子の従妹は一度行っただけで気づき、すぐに何本の樹木が問題を抱えているかを私に報告した。どこに差があるのか。それは、心を用いているかどうか、リンポチェを尊重しているかどうか、その違いである。リンポチェは、担当の弟子に次のように指示した。「ゆえに、この二人の大物には、今後、道場および仏寺におけるいかなるボランティアもさせてはならない。もし彼らが何らかのボランティアを行った場合、その責任はすべてあなたに問う」と。(担当弟子の返答:「はい。」)誰であれ彼らをボランティアに招いた者がいれば、その者を退かせる。

続いてリンポチェは、この二名の弟子が出席しているかを確認し、彼らに対して次のように開示された。「あなた方二人の大物よ。あなた方についてこれほど長く話しているのに、まだ平然と座っていられるのか。立たせるのも気が引ける。今後、ボランティアにあなた方の出番はない。どうか私に害を及ぼさないでほしい。仏寺の芝生一面が禿げてしまっているのに、あなた方二人は気づかなかった。私の樹木が枯れているのにも気づかなかった。それを見つけてくれたのは他人であり、そして私自身であった。

皆さん、理にかなっているかどうか考えてほしい。もしリンポチェに誤りがあれば、私を叱っても構わない。だが、あなた方二人が何かを正しく行っていない場合は、手を貸してほしい。二人には今後、いかなるボランティアもさせてはならない。いつまた私に害を及ぼすか分からないからである。毎回、樹木を伐採しなければならないとき、私は非常に心が痛む。なぜか分かるか。(大衆の答え:「樹木に衆生が住んでいるからです。」)しかし、この二人の高学歴者は何も感じず、「枯れたものは枯れた」、「山には樹がたくさんある、また植えればよい」、「仏寺にはお金があるから買えばよい」と考えている。観音殿の門前にある樹木の瘤も、二人は報告していないが、涂姓弟子の従妹は行ったとたんに気づき、すぐ私に知らせてくれた。では、この二名の弟子は帰依してどれくらいになるか。(答え:「もうすぐ15年です。」)15年もの間、多くの施身法に参加してきた。私はあなた方に多くを与えてきた。お願いである、二名の男性、もし学仏する気持ちがあるなら、それは素晴らしい。私は讃歎する。しかし、私の仏寺を利用して仕事経験を積んだり、論文の材料にするのはやめてほしい。私はあなた方二人が何をしているのか理解できないわけがない。これほど広大な場所があり、利用しようと思えば十分可能であるのに、それさえ活かせていないではないか。

リンポチェは、涂姓弟子の従妹である呉姓弟子に問いかけられた。「この専攻分野では、論文を書くために、場所を探して実地で状況を判断することが頻繁に必要であり、多くの実践的経験が求められるのではないか。」(呉姓弟子の答え:「はい、そのとおりです。」)リンポチェは続けて述べられ、それならば、この二人は、私のあの土地を利用して論文を書いているということになると。あなた方は必ず、「そのようなつもりはなく、純粋に手伝いに来ただけだ」と否定するであろう。しかし、もし本当に私を手伝っていたのであれば、山一面の草が枯れていたことを、なぜ報告しなかったのか。これほど多くの樹木が枯死していたにもかかわらず、なぜ一切報告しなかったのか。それで何のボランティアと言えるのか。あなた方はあの場所で、トイレを使い、水を流し、寺務所で水を一杯飲むなど、それらすべてに、私は費用を支払っている。つまり、あなた方はボランティアをしているのではなく、私の資源を消耗しているだけである。今後、いかなる場所においても、この二人にボランティアをさせる必要はない。彼らは学問に秀でた人材であり、学問に専念する時間が必要である。我々のような小さな場所で彼らを使うことはできない。もしあなた方が今後もこのようにエゴであり続けるならば、私は一人ひとりを見極め、順に抓み出していくであろう。

私は先週、本来であれば法務チームを解散し、一人も残さないつもりであった。陳姓の弟子が、繰り返し間違いを犯していたからである。私が日頃、彼が邪気に当たったのかのようだと叱っているのを、あなた方は聞いているか。(大衆の答え:「聞いています。」)最近の誤りはあまりにもひどい。手鼓一つ、鈴杵一組、宝瓶一つ、ドルマ三つ、そして法本まで、それらをすべて寶吉祥の紙袋一つに入れて私に渡した。あなた方、それでよいと思うか。(大衆の答え:「いけません。」)案の定、私が持ち上げた途端、その紙袋は破れてしまった。その日の午後、彼は会社に来て、それらの物を持ち帰った。その時は非常に賢く、きちんと手提げ鞄を持ってきた。つまり、彼にはそれができるということだ。それにもかかわらず、彼は私を軽んじた。「大したことはない、せいぜいリンポチェに叱られるだけだ」と思っていたのではないか。これは私を欺いているのではないか。もし午後も紙袋を持って来て物を持ち帰っていたなら、彼は愚かだということになる。しかし午後には鞄を持って来た。それは、鞄を使うべきだと分かっていたという証拠である。この論理的推論は正しいか。では、なぜ朝は紙袋だったのか。その理由は私には分からない。ただ、一人の老人としての率直な受け止めは、彼が私を軽く見ていたということである。なぜなら、リンポチェは話が通じ、強く出ない人間だと思われているからである。

なぜ法務チームを解散するのか。彼らがこれまでたびたび誤りを犯してきたからである。日本の法会においても多くの過ちを犯した。そのような法会は何度も行われているものであり、本来誤りがあってはならない。それは「心不在馬」であることを示している。もっとも、来年は午年であるから、心は馬にあってもよいであろう。(焉と馬は字形が似ていることから、「心不在焉(心ここにあらず)」をもじって「心不在馬」と言うことがある。ここではその言葉遊びを踏まえ、ユーモアを交えて述べたものである。)仏を学ぶにあたり、自らの福報と智慧を積み重ねる方法は数多くある。しかし、何よりも心を込めて行わなければならない。自分はボランティアをしているが、何の収穫もなく、ただ時間を費やしているだけだ、試しにやっているだけだなどと思ってはならない。六波羅蜜の第一は布施である。財布施は十分にできていないとしても、それでも構わない。法布施を行うことができる。仏法を説くことはもちろん、その他あらゆる方法を含め、衆生に奉仕するすべての行いは法布施と呼ぶことができる。この点においては誰にでも実践可能である。道場に来ること、寺院でボランティアをすることは、すなわち衆生に奉仕することである。布施をしなければ、どうして功徳や福報が得られようか。ゆえに多くの人は、自らの考えに固執したまま仏を学んでいるのである。

リンポチェがあなたたちに仕事を割り当てるのは、決して私の便宜のためではない。私は法務チームを必要としていない。以前、小さな道場にいた頃は、太鼓もなく、鈸もなく、ドルマもなく、何一つなかった。それでも何も必要としなかったが、それでも数百人の弟子を受け入れてきた。必ず何かが必要であると思ってはならない。私は本当に必要としていないのである。私は無上瑜伽部まで修めている。ただ一念を動かすだけで、物事は成就する。私がポワ法を修するのに、法務チームの助けが必要であろうか。(大衆答えて言う、「必要ありません。」)ゆえに、若い者たちは、私がどうしてもあなたたちを必要としていると思ってはならない。私は過度に華美にすることを好まない。今日このような場を設けるのは、私のためではない。信衆に仏法への恭敬の心を起こさせ、修行者に対する恭敬を生じさせるためである。私は歩くのが速いが、彼らはのろのろと歩いている。もう少しでぶつかりそうになるほどである。仕方がない。場を整え、儀式を儀式らしく見せるためには、あたかも本物であるかのように、ゆっくりと進めなければならないからである。

今、リンポチェがこれほど多くのことを語っているが、あなたたちはそれを仏法ではないと思っているかもしれない。しかし、私にとっては一切が仏法である。手に任せて取り上げるものすべてが仏法なのである。例えば傅家の姉妹の性格からすれば、本来ならばとっくに私の道場にはいなかったであろう。しかし彼女はドルマチームをよく管理し、実によく務めている。ゆえにリンポチェは彼女の多くの欠点を容認しているのである。なぜリンポチェは彼女の欠点を容認するのか。それは彼女が私のためにドルマを作っているからではない。彼女に残ってほしいからでもない。少なくとも彼女はこの仕事に心を込めて取り組んでいる。ゆえに、いつの日かその欠点も改まるであろうと私は信じているのである。実のところ、ドルマがあるかないかは重要ではない。ただ信衆や弟子に恭敬の心を起こさせるために、多くの儀軌を行っているにすぎない。しかしそれらの儀軌は、真に修行する者にとっては、実はさほど重要なものではない。もしあなたたちが、それによって私の首根っこを押さえ、私と条件交渉ができると思っているならば、私は人と条件を談じることを最も好む人間である。条件を持ち出した瞬間に、何が起こるかが分かるであろう。私自身も何が起こるかは分からないが、必ず何かが起こるのである。

今日は今年最後の施身法の修法である。来年は、皆が修行にも落ち着いて取り組み、これ以上自分勝手な行動をしないことを願う。施身法とは何か。それは自らの身をことごとく衆生に布施し、食として与えるという意味である。もし依然としてこれほど自己中心的であるならば、私の歩みに付いてくることはできない。彼らのさまざまな行いを見ていると、実に心が痛む。どうしてこれほど自己中心的であり得るのか。誰もが自分のためだけに計算している。最も愚かなのは私である。これほど多くの心血と資金を費やして寺院を建立したが、私は毎日そこに住んでいるわけではない。かえって数名の職員がその恩恵を受け、毎日空気も良く、何もかも恵まれた環境にいる。ゆえに各自注意すべきである。能力がないならば、むやみにボランティアをしてはならない。寺院に何らかの問題を生じさせてはならない。今後、ボランティアはすべて私の審査を経てから許可する。道場のほうは多少緩やかでもよい。あちらは基金会であり、財団法人である。しかしこれほど大きな寺院である以上、世間の目が常に注がれている。わずかな出来事でもすぐにニュースになるのである。ゆえに善意があればよいと思ってはならない。各法会ごとに指定されたボランティアは別として、法会以外の時間においては、すべてのボランティアは必ず登録し、審査を受けたうえで活動しなければならない。勝手にグループを作り、この組は全員が草取りのボランティアであるなどと決めて、勝手に行うことは許されないのである。

どうやら、最初のころは月に一度、皆が集まる機会を設けて、外部の講師を招き知識を学ぶ場を作っていた。しかし最近、その集まりに参加する人がどんどん減っているようである。実のところ、なぜ私がこの活動を行っているか、皆は知らないであろう。これは私のコーヒーショップのためではない。法律により、私たちの基金会は毎年、公益に関わる活動を行わなければならないからである。公益活動を行うには多くの費用がかかる。そのため、唯一の方法として皆の組の集まりを利用しているのである。集まりの際には、基金会はあらゆる手段を尽くして専門家を招き、講演を行わせ、皆の知識を高めてきた。しかし最近は参加者が減少している。もし参加費や食事代がなくて参加できないのであれば、それでも構わない。話を聞くだけでもよい。無理に食事をとる必要はない。講師もすべて無償で来てくれているのである。家に帰って、自分の行動をよく振り返ってください。とりわけ、ほとんど参加していない男性の方々は。

あなたたちは皆、専門家であるのか。それとも忙しいのか。私たちが招いた専門家を軽んじているのか。いずれにせよ、誰も行かないではないか。魏姓の弟子の組であろう?(弟子答える:「第三組と第七組です。第三組の組長は魏姓と史姓の弟子、第七組の組長は洪姓の弟子です。」)男子諸君、行きたくないのであれば構わない。今ここで手を挙げ、今後組の集まりに参加しない者は誰か、すぐに記録するようにせよ。恐れることはない。私は追い出したりはしない。あなたたちは依然として私の弟子である。行きたくない者は手を挙げよ。ただし、私のように年を取った者は除く。何百人もの男子弟子がいるから、順番を待つ場合、必ずしもあなたたちが参加できる番に回って来るわけではない。これは、私が行っていることに対し、あなたたち全員が支持していないことを意味するのである。

基金会は一年に何回公益活動を行うのか。(弟子答える:「基金会は年に12回です。」)もし食事代がなくても、組長に伝えれば、この公益活動だけに参加すればよい。食事代がなくても、リンポチェは怒らず、叱ったりもしない。これは私の店である。売上がなくても構わず、場合によっては水さえ無料で提供するのである。今呼んでいる専門家は私を知らない者ばかりである。それでも皆、無料で来てくださっている。しかも夜に来て、約1時間ほど講義してくださるのである。それなのに、男子諸君は一体どうしたことであろうか。皆、自分が専門家であり忙しいと思い込み、今手を挙げて行かないと言う勇気もない。後になって、「忙しい」「妻が行かせてくれない」など、さまざまな理由を並べ立てるのであろう。

現在、リンポチェには二つの基金会がある。一つは法王基金会、もう一つはリンチェンドルジェ・リンポチェ基金会である。合計すると一年で24回の公益活動がある。男子諸君はそのうち、多くても一年に二回しか順番が回ってこないのに、それでも参加できないというのか。皆、日々法を求め、修行を深めたいと思っている。しかし、これもやらず、あれも支持しないではないか。私が行うすべてのことは布施に関わっているのである。もし参加する時間がないと思うのであれば、それも仕方ない。しかし、政府の規定では、私たちの基金会は毎年公益活動を行わなければならない。その場合、唯一の方法は金を使うことである。男子諸君が行かなくても構わない。私はゆっくり考えをまとめ、支援が必要な優良な慈善団体に対しては、(参加者から)費用を徴取することにする。皆は私の弟子であり、選択は自由である。講義を聞くだけのために座っていることさえ、あなたたちは抵抗する。あなたたちには本当に他人を思う心がない。リンポチェがなぜこの活動を行うのか、問いかけたことがあるか。私が店の商売のため、何かを売るために行っているのではない。私はやむを得ず、政府の規定に従って基金会として一年に12回の公益活動を行っているのである。公益活動とは何か。それは金を出し、活動を行うことである。私は最も経済的な方法を模索しているのに、それでもあなたたちはこの態度である。

リンポチェは魏姓と洪姓の弟子に次のように指示した。「この男性たちは皆非常に恥ずかしがり屋で、今は公に手を挙げて行かないと表明できない。君たちは調査して、無理に行かせるな。行きたくない者は今後、一切呼ぶな。わかったか?」(弟子答える:「わかりました。」)行きたくない者を排除し、残った人数を把握している。彼らは金を出さず、参加もしたがらないならば、私が手配して対応する。男子諸君、無理に参加させはしない。組長に伝えれば、叱られることはない。リンポチェは魏姓・洪姓の弟子に対し、参加意思を尋ねる際、決して叱るなと指示した。あくまで丁寧に確認するだけである。組長には権威がなく、君たちには何の権威もない。もし彼らが行かないと言えば、「わかりました、ありがとうございます」と答えればよい。「考えてみませんか」などと返す必要はなく、絶対に言ってはならない。簡潔に言うと、彼らの態度は、すでに成長し社会で働く男性としてのものとは程遠いものである。

この報告書は、皆に三日間の猶予を与えて作成させる。改めて言うが、無理に彼らを参加させる必要はない。来たい者は来ればよいし、来たくなければ構わない。リンポチェは決して追い出したりはせず、法会も通常通り参加できる。ただし、現在私は人数を把握しておきたい。来年は一年で24回の公益活動がある。もし皆が参加しなければ、私が金を出して活動を手配することになる。例えば盲人協会に依頼して活動を行わせるなどである。私はその費用を負担する。皆が「リンポチェが金を出してくれるなら嬉しい」と思ってくれるなら、私は喜んで行うつもりである。したがって、参加したくなければ遠慮なく言えばよい。構わない。リンポチェは怒ったりしない。これはすべて自発的である。皆が仏門に帰依するのも自発的であり、修行するかどうかも自発的である。リンポチェが法門を開き、修行させるのも自発的である。参加を拒むことも許される。決して「リンポチェに多くのことを強いられている」と感じる必要はない。皆よく考えるがよい。もう一年が過ぎた。再度言う、リンポチェがあと何年皆に付き合えるかは分からない。しかし、生きている間に私が成し遂げたいことについて、皆が支持してくれるなら感謝する。支持してくれなくても、私は感謝する。悲しむ必要はない。各自それぞれの生活があり、それぞれの環境があるのだから、一概に論じることはできない。

今日は、私の話し方は非常に丁寧であり、人を叱ったりもせず、声も平穏であった。しかし、皆にとっては厳しい知らせである。なぜなら、こうした態度は「私が次の一手を決めた」という合図だからである。例えば陳姓の弟子のように、これまで私はずっと叱り続けたが、それは彼には改善の機会があった証である。しかし、突然叱らなくなり、穏やかに話すようになったとき、それは私が次に何をすべきかを決断した証拠である。これが私の性格である。なぜこのように決断するのか。それは、皆が頑固で、どんなに話しても聞こうとしないからである。仕方がない。ならば、私自身が決めて進めるのであり、むしろ繰り返し言う必要がなく、言っても無駄なだけである。

私の残された生涯においては、できる限り仏法に精進し、できる限り衆生を利益するつもりである。もし皆がリンポチェの行うことを支持しないのであれば、当然ながら私もあなたたちを支持しない。これは公には言わないが、心の中ではそうしているのである。私が今、心に決めて行おうとしていることを止められるのは、仏や菩薩だけである。私の心が動けば、必ず物事は成就する。これは脅しでも恐喝でもなく、私は正直に、真実を語っているだけである。リンポチェは念を動かしたり、皆に怒ったりすることは決してない。本当にしないので安心されたい。これまでずっと叱ってきたが、決して怒ったわけではない。叱ることで目を覚ますことを願ったのである。しかし叱っても目覚めない者には、別の形態を取ることにした。それが、皆に対して非常に丁寧に話す態度である。丁寧であればあるほど、かえって面白く感じるであろう。よいか、以上である。

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2026 年 01 月 28 日 更新