尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2026年1月18日

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェには法座に登られ、『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十二〈禅定波羅蜜多品第十・その二〉ならびに、ジッテン・サムゴンの著作『一意』について開示された。

リンポチェが升座された後、出家衆に指示し、参会した大衆とともに帰依発心、七支供養、『八聖吉祥祈祷文』、『随念三宝経』を読誦させた。その後、リンポチェは六字大明呪を持誦された。参会者の中には、全身が熱くなる感覚や、脈輪が震動する感覚を覚える者があり、また尊身および壇城より眩い金色の光が放たれるのを見た者もいた。妙香はあたりに満ち、大地は震動した。大衆の煩悩は瞬時に止息し、リンポチェによる殊勝なる仏法の開示を領受することができた。

経典曰く「又若普遍入解諸法如虚空等。此説名為三摩鉢那」

諸法如虚空等。『金剛経』に説かれているように、修行して果位を証した後には、正法でさえも捨てることができる。まして非法においてをや、なおさらである。ここで言う「非法」とは、法律に反するという意味ではなく、道理にかなわない事柄を指す。「捨」とは、投げ捨てるという意味ではない。多くの人は、自分が仏法を学び修行することで、何かを得ようとし、自分がどう変わるのかを知ろうと執着する。経典には、衆生を安心させるために、どのように修行すれば登地の菩薩、二地の菩薩となり、どの段階でどのような果位に至るかが説かれている。しかし、それらは学仏者が「必ず得なければならない姿」ではない。この一文は、『金剛経』に説かれる教えを証明するものである。すなわち、法界における一切の現象は、仏法を含め、すべて因縁によって生じ、因縁によって滅するということである。もし衆生がすべて輪廻の苦海を離れたならば、仏法は存在しなくなる。仏法によって衆生が輪廻の苦海を離れたならば、その時、仏法は滅するのである。仏法が生起するのは、衆生に苦があるからであり、仏菩薩が慈悲心によって方法を示し、衆生に生死を解脱する道を教えるためである。しかし、多くの人は「自分は悟りたい」「悟りを求めたい」と考える。そのような心では、菩薩乗を修行することも、空性を証することも、まったく不可能である。

虚空とは、宇宙全体において、あらゆる現象が絶えず生滅していることを指す。永遠に存在する惑星や太陽は存在しない。しかし、虚空そのものは変わらず、常に喜金剛の色――すなわち黒青色である。縁起によってエネルギーが生じ、エネルギーから熱が生じ、熱から虚空の光が生じる。しかし、その光もまた永遠不変ではない。科学においても、太陽の寿命があと何年残っているかが計算されている。はるか昔、仏はすでに経典の中で、地球が約どれほどの年数で滅するのか、また滅に至る前にどのような現象が起こるのかを予言している。
 
自分が学んだ仏法が他人より優れていると思ってはならない。また、仏法が永遠にお守りのようなものだと思ってもならない。仏法はあくまで一つの過渡的な方法に過ぎず、この一生において生死を解脱することを学ばせるためのものである。生死を解脱し、空性に入り、仏菩薩の境地に至れば、この法そのものも存在しなくなる。ちょうど菩薩道の最後に説かれる「無修瑜伽」のようなものであり、見道・修道を経た後は無修となる。無修とは、修行しなくてよいという意味ではない。毎日決まった形で何かを行う必要がないということである。菩薩は常に修法して衆生を利益するが、その心は虚空のようであり、虚空はどのような変化があっても変わることはない。

この言葉の意味は、一切の法が因縁によって生じ、因縁によって滅することを理解してこそ、初めて真に「空」の定の境地にあるということである。そうでなければ、すべては有為法に過ぎない。しかし、有為法がなければ衆生を助けることもできない。有為法とは、あくまで一つの道具にすぎず、使い終われば捨てればよいものである。一生その道具を握り続けていれば、ずっと自分を助けられると思ってはならない。もしこれらに対して少しも理解がなく、あるいは受け入れようとせず、自分が仏法を学ぶのはただ加護を求めるためだと思っているなら、それはジッテン・サムゴンが以前に述べたとおりである――仏菩薩を福神として拝んではならない。仏菩薩の福とは、我々が仏法を修行するために与えられるものであり、良い生活を送らせるためや、平安無事で病気をしないためのものではない。もしそうであるなら、因果の法は存在しなくなり、それならば仏法を学ぶ意味がどこにあるのか。
 
仏法を学び善因を植えれば、将来必ず善果がある。もし自分が作った悪因を否定し、悪果は存在しないと思い込み、仏菩薩に悪果を消してもらおうと求めるなら、それは存在しない話である。無上瑜伽部まで修行すれば、悪果を「消す」のではなく、「動かないように抑える」ことはできる。しかし、果報そのものは依然として存在している。もし果報が存在しないのであれば、誰も仏法を学ぶ必要はない。念じるだけで得られるなら、なぜ修行が必要なのか。最近、二人の弟子が帰依を退いた。理由は、私が彼らの供養を受け取らなかったからである。供養を受け取らなければ、福報を買って自分を守ることができないと恐れたのであろう。私が供養を受け取らなかったのは、彼らが本当に仏法を学び修行しに来ているのか、それとも金で福報を買いに来ているのかを試すためである。結果は一目瞭然であった。一度試しただけで、すぐに分かった。リンポチェは、自分を犠牲にしてあなた方を試している。供養を受け取らなくなった途端、福報が止まり、本性がそのまま現れたのである。供養を受け取らないのは、あなた方自身に警鐘を鳴らし、自分がどれほど間違っているかを自覚させるためである。私は以前にも言った。もし仏法を学ぶつもりがないのであれば、なぜ供養を受け取る必要があるのか。供養を受け取って福報を起こせば、かえってより多くの悪事を働くことになる。大悪人ほど福報を持っている。巨大な詐欺集団も、過去世に福報を修していなければ、この一生でこれほど多くの人を騙すことはできない。彼らもまた善事を行い、あちこちで焼香し、拝んで加護を求めている。それは正しいことだろうか。

 仏法を学ばないということは、善を行いたくない、良いことをしたくないということであり、ただ自分を守りたいだけで、他人の生死など構わないという心である。それでは、仏菩薩が説く慈悲とは何の関係もない。私は意図的に供養を受け取らなかった。すると彼らは来なくなった。それで私はむしろ嬉しかった。なぜなら、彼らが仏を謗り、菩薩を謗り、上師を謗る機会が減ったからである。福報を金で買おうとする者は、いつか買えなくなった時、「これだけ供養したのに霊験がない」と言い出す。もし私に霊験がないのなら、どうして人のためにポワ法を修し、済度の際に頭頂に穴を開けることができるのか。明らかに霊験がないのは、彼らの心なのである。
  
あなた方に仏経を聞かせているのは、あなた方がこの境地まで修行できるという意味ではない。あなた方はこの一生ではできない。ここにいる出家弟子たちも同様である。先日、仏寺で私は彼らを厳しく叱った。リンポチェが升座して修法しているにもかかわらず、秩序を維持しなかったからである。ここでもう一度、公に言っておく。八供女は八供女の衣を着てこそ前に座るのであり、今日は八供女の装束を着ていないのだから、前に座る資格はない。では、なぜ先週土曜日、前列に座っていた者たちは彼女たちに席を譲らなかったのか。簡単に言えば、席を占拠していたのである。前に座ってリンポチェを見たい、菩薩に自分を見てもらいたいという心である。しかし、仏の眼は全宇宙のあらゆる場所を見ることができる。前に座る必要があるのか。このような些細なことですら、これほど自己中心的でありながら、慈悲を学んでいるなどと言えるのか。私が定めた規矩を、前列に座る弟子たちが守らず、なおかつ維持しようともしなかったのである。

あなた方は、なぜ八供女に特別な待遇があるのかと思うだろう。それは、法会の中で彼女たちが八供女の装束を身に着けている時、身体は人間であっても、実際には人ではないからである。ここには八供婆も八供おばさんもいない。あなた方は彼女たちを羨ましがる必要はない。あの日、私に追い出された数名について、今は名指しもしないし、前に出させもしない。自分たちでよく考えなさい。なぜこれほど非常識で、これほど利己的なのかを。

先週の土曜日、警備員が仏寺の中に水とパンを持ち込んだ者を十人見つけた。公の場で、水や食べ物を仏寺に持ち込んではならないと話したことがあるか。(大衆答:ああります。)それにもかかわらず、「そのパンは高鉄駅で売っているものだ」「精進だ」と説明した者がいた。量産されたパンが本当に精進だと、誰が言えるのか。私は今ケーキ店を経営しており、パンがどのように作られているかをよく知っている。私が水や食べ物を仏寺に持ち込むことを禁じるのには、必ず理由がある。そこまで水を飲まなければならず、パンを食べなければ死ぬほど不安なら、どうか来ないでほしい。ルールを破ることは、すなわち戒を破ることだからである。あなた方は国家音楽庁に行ったことがあるだろう。そこでは飲食物を持ち込めるか。(大衆答:できません。)では、なぜ仏寺なら許されるのか。仏菩薩を侮っているのか。その十人は、その日はただ旅行に来ただけであり、念誦しても何の役にも立たない。あなた方はよく見ているはずだ。私が法座に上がってから下りるまで、途中でほとんど水を飲まないことを。飲んだとしても、修法が終わってから一口だけである。あなた方は、私ほど疲れているのか。なぜそこまでして、水やパンを仏寺に持ち込まなければならないのか。
 
私がその十人を調べられないと思わないことだ。入口には監視カメラがあり、入った時のカード記録もすべて残っている。しかし、私はあえて名指しで呼び出さない。今回だけは機会を与えるが、次に同じことがあれば退場してもらう。皆で考えてみなさい。もし七百人がそれぞれ水を一本ずつ持ち込めば、仏寺には何本のボトルが残ることになるのか。一人がパンを一つ持ち込めば、七百個の包装袋が出る。誰がそれを捨てるのか。結局、私が雇っている清掃員が処理することになる。あなた方が法会の後に帰ったあと、仏寺には汗の臭い、足の臭い、さまざまな悪臭が残る。それを清掃するには多くの人手が必要で、完全にきれいになるまで一か月かかる。あなた方は清掃をしたことがあるのか。場所を大切にするという気持ちはないのか。皆が寄付してこの仏寺を建てたのである。これほど自己中心的であってはならない。この十人には、よく懺悔してほしい。ただし、私のところに来て懺悔する必要はない。時には、もう門を閉めて何もせずにやめてしまいたいと思うこともある。どれほど叱っても、結局この有様だからだ。その十人は皆が知っている人たちである。なぜ互いにリンポチェの規定を注意し合わないのか。リンポチェが定めた規定には、必ず理由がある。言うことを聞かなければならない。この仏寺の土地は非常に原始的で、数十年間使われていなかった場所である。それを仏寺として使うことで、すでに多くの衆生は食べ物を探す場所を失っている。そこにさらに人工の食べ物を持ち込めば、あの場所の動物たちに害を与えることになる。そのことを、あなた方はまったく感じていない。現在、仏寺ではゴミを地面に落とさないようにしており、私は費用を払って村の役所に定期的にゴミを回収してもらっている。なぜ、そこまで自己中心的なのか。自分の行為がもたらす結果を、まったく考えていないのである。

さらに言っておく。今後、仏寺の中で「この席はボランティアの席だから座るな」などと言う者が一人でもいたら、その場にいる全員は二度と仏寺に来なくてよい。誰かがそのような発言を聞きながら報告しなかった場合も連帯責任とし、私は法会を中止する。誰が決めたのか。ボランティアは必ず良い席に座らなければならないのか。なぜボランティアのために席を占有する必要があるのか。少し手伝っただけで偉くなったつもりなのか。自分を大人物だと思っているのか。私があなた方が下で勝手なことをしているのを知らないと思うな。先週の土曜日、ボランティアが二人遅刻し、門の外に締め出された。自分はボランティアだから必ず入れると思い込んでいたからだ。私の規定を何度も試すな。リンポチェが年を取って見えなくなったと思うな。私の目はまだよく見えている。入門時、多くの人がゆっくり歩いて入ってくるのを見ただけで、必ず誰かが締め出されると分かる。結果として、二人が入れなかった。もしボランティアの仕事が多すぎて間に合わないと思うなら、やらなくてよい。皆、少し何かをするとすぐに偉くなった気になり、人から持ち上げられたがる。もう一度はっきり言う。誰であれ、「この席はボランティアの席だ」「誰それの席だ」と言うのを聞きながら私に報告しなかった場合、私は法会をやめる。教えても分からないのであれば、法会を続ける意味がない。私は姿を消すこともできる。実際に、一年以上姿を消したこともある。あなた方は本当に常軌を逸している。人が座りたいなら座らせればよい。指定席にしたいなら構わない。その代わり料金を高くすることだ。ボランティアが座る席も、料金を取ればよい。

 
ある者は「学仏してから、宝石のような身外物は買わなくなった」と言う。金がないから買わないと言えばよいし、供養のために残していると言えばそれで済む話である。なぜわざわざ仏教用語を使って、自分の心構えを飾り立てて隠そうとするのか。なぜ私の宝石店を傷つけるのか。それは、リンポチェは宝石店を開くべきではない、という意味なのか。では私が店を閉めたら、あなた方が四人の店員を養うのか。私は四十年間宝石店を営んできたが、どこであなた方に申し訳ないことをしたのか。なぜ私を害するのか。宝石業に携わってきたからこそ、私は釈迦牟尼仏と千手観音のあの宝石を見つけることができたのだ。できるものなら、同じものを探してみせよ。私は二十代から宝石の仕事をしてきた。それは、この数十年間、私が間違っていたということか。物欲を重んじていたということか。では、なぜあなたは私の弟子でいるのか。自分は清高で、口が達者だと思っているのか。

この一句まで開示すると、叱責せざるを得なくなる。すべては執着心である。本日、王という苗字の弟子は識別証を持参しなかったため、私は入場を許可しなかった。出国する際、必ずパスポートが必要なのと同じであり、誰しも出かける前には必ず何度も確認するはずである。それにもかかわらず、バッグを替えたから識別証を忘れたというのは、重視していない証拠である。私が人間関係を理由に一度でも通してしまえば、次は次々と例外を作らなければならなくなる。識別証は、寶吉祥の弟子であることを証明するだけでなく、最も重要なのは外部の者が混入するのを防ぎ、道場を守るためのものである。何か秘密があるからではない。今の社会は非常に混乱している。お社が理由もなく破壊されたり、盗難に遭ったりする事件が頻発している。あなた方が仏を学びながら、同じように軽率に振る舞えば、その混乱の中に巻き込まれることになるのである。
 
経典曰く「又若普遍平等入解無相無願無積集行。此説名為三摩鉢那。」
 
あなた方は、「平等入解」を成し遂げることが非常に難しい。「入解」とは、一切の仏法に対する疑惑を解き、修行に入る者を指す。「無相」とは対象がないことであり、仏法修行とは、有縁・無縁を問わず、一切の有情衆生のために行うものである。多くの人は、仏法は「信・願・行」が重要だと言う。では、なぜここでは「無願」と説くのか。それは、菩薩の果位に証入し、さらには仏果に至ったとき、一切の願はすでに円満に成就しているからである。私たちが発する願は、住宅ローンを完済して心を安定させ、落ち着いて学仏したいというようなものではない。また、子どもが良い大学に合格することを願うのでもない。これらはいずれも通じない願である。すべての願は修行のためのものであり、しかも情理にかなったものでなければならず、自分の能力の範囲内で実現可能なものでなければならない。ここでいう「能力の範囲内」とは、この一生において、上師の教えに従い、その方法を実践すれば、自分が必ず成し遂げられると確信できるものである。以前、ある出家者が「一生で百万人を出家させる」と発願したことがあったが、それは可能であろうか。このような願は、自分を欺き、仏菩薩を欺くものであり、正しい願ではない。
 
仏経の中には、多くの情節や多くの事例が説かれている。たとえば、三摩呬多を証得することを発願すれば、仏菩薩はそのような願を円満にしてくださる。しかし、「来世はリンポチェになる」と発願しても、その願は必ずしも円満にはならない。なぜか。私を見て、まだ苦しさが足りないのか。それでもリンポチェになりたいのか。リンポチェになるには、多くの因縁が総合的にそろわなければならず、なりたいと思えばなれるものではない。また、なりたくないと思っても、ならずに済むとは限らない。私自身、六十代のときに法王猊下に「引退したい」と申し出たが、猊下はそれを許さず、引き続き努力するように言われた。だからこそ、今日まで努力し続けているのである。
 
「無積集行」とは、一切の善行を累積・集中して衆生を利益するという行を、もはや行わないという意味である。ここで言う「無」とは、まったく行わないという意味ではなく、すでに円満に成就しており、増やす必要も減らす必要もないということである。ただ一念を起こせば、あらゆることが成し遂げられる境地である。この一句は、この菩薩が仏果を証得する直前の段階にあり、すでに法身菩薩を証していることを示している。あらゆる仏法の事業と功徳はすでに円満であり、特定の目的・対象・方向を求めて修行し続ける必要はない。この菩薩はすでに仏法と完全に融合しており、彼自身が仏法であり、仏法そのものが彼である。ゆえに、「誰のために修行する」という発想すら、もはや存在しないのである。
 
経典曰く「又若普遍入解諸法音聲。此説名為三摩鉢那。」

「諸法音聲」とは、このように理解することができる。すなわち、一切の密咒および上師が開示された仏法について、分別心を起こさずにそれに入り、迷いを解いていくということである。多くの人は、ある特定の真言が好きだと感じるが、それは平等心ではない。自分がその真言を学んでいないからといって、その真言が良いとか悪いとかいうことではない。それはただ、自分に縁があるか、縁がないかという違いに過ぎない。縁があっても、縁がなくても、すべてを平等心をもって受け止めるべきである。
 
経典曰く「又於一切饒益不饒益等処。心平等如地。」

一切の事柄において、利益があるかないかに関わらず、心が大地のように平坦であること――これを「心平等如地」という。修行者の心は、大地のように平坦であり、利益があるから多く行い、利益がないから行わない、ということはしない。すべてを平等に処するのである。例えば、今日もし王と言う苗字の弟子を中に入れたとしても、それを知るのは入口の人間だけであろう。しかし、もし私がそのようなことをすれば、私自身の心がすでに平等ではなくなる。だから私は彼を入れなかった。文句があるなら、私と決裂すればよい。決裂しないのであれば、そのまま努力を続ければよい。平等心を修するということは、四無量心の最後の一つであり、非常に重要である。あなた方はこれを学び、修さなければならない。そうして初めて、物事に対して平等な心が生じる。平等心が現れる利点は、偏った処理をしなくなることである。どちらか一方に偏って物事を処理すれば、必ず人に何か言われることになる。あなた方がボランティアのために席を占有したのと同じである。もしボランティアのために席を確保する必要があるのであれば、私がとっくにその規則を定めているはずだ。あなた方は「リンポチェは忙しくて、こうした細かいことには気づかないだろう」と思っているのだろう。先週の土曜日も、私が座布団の配置を指示しなかったら、すぐに滅茶苦茶になったではないか。あなた方は「ボランティアは大変だから、席を残してあげるのは良いことだ」「良い人になりたい」と思っているのか。それでは、私は良い人ではないということになるのか。あなた方が人に嫌われるようなことをすれば、当然、人は嫌がる。座ることを妨げられた人は、「ボランティアだから偉いのか」と思い、ボランティアを罵ることになる。ボランティアが席に座れば、周囲の人は「一体何者なのか」「なぜこの人は席を占領できるのか」と見るようになる。
 
仏寺および道場においては、すべての人は平等である。私は繰り返しここで述べているが、ここには檀家というものは存在しない。寄付金を多く出した者が前に座る場所ではない。出家者が前に座るのは、少なくとも一つの戒を守っているからである。それなのに、あなた方は座る位置まで奪い合うのか。『宝積経』には、座を奪う果報は非常に重いとはっきり説かれている。あなた方は日常的に、自分では大したことがないと思っている事柄の中で、知らず知らずのうちに過ちを犯している。例えば先週の土曜日、本来は八供女が前に座るべきであったにもかかわらず、前方数列が席を譲らなかった。さらに、出家者もそれを手伝わなかった。これは上師が決めたことである。この程度のことすら、あなた方は私の代わりにきちんと行えない。そのような状態で、私が説いている仏法を、あなた方が本当に聞くとは思えない。皆が表面上はとても恭敬しているように装っているが、それに何の意味があるのか。それはすべて虚偽の姿である。私が定めた規定を、あなた方は誰一人としてきちんと守ろうとせず、上師が安心して法座に昇り、仏法を説けるよう支えることもできず、かえって現場を混乱させている。この六人の出家者も、ただ私を見つめて恭敬しているふりをしているだけだ。そのような態度はやめなさい。

仏法は公平を説く。私はこの数十年、あなた方すべてに対して公平に接してきた。よく思い返してみなさい。供養の金額に関係なく、皆ずっと一緒に混ざって座ってきたではないか。それなのに、なぜ私の仏寺で座席を奪い合うのか。特に、ある高齢の者は座ったまま動こうとせず、私が口に出して追い出さなければならなかった。あなた方は、仏寺に来ると人が変わるのか。それとも、仏寺に寄付したから偉いと思っているのか。では聞く。あなた方と私と、どちらが多く寄付しているのか。(大衆:リンポチェ。)当然だ。寄付を最もしている者が発言する。いつから、あなた方が勝手に物を言う番になったのだ。

ますます様にならなくなっている。食べ物や水を仏寺に持ち込むなと明確に規定しているのに、わざわざ10人もこっそり持ち込んだ。あなた方の考えは単純だ。「今日はリンポチェは来ないだろう」と思ったのだろう。私が行く必要があるのか?あなた方は、真言を持誦する=休暇だと思っている。それなら、最初から来るな。その心構えは、まるで「猫がいなければ鼠が騒ぐ」ようなものだ。あなた方は全員、干支が子年か?土曜日にそんなふうに騒ぎ立てて、リンポチェは法会を修していて、下に降りてこないと思ったのか。人は、私がどこに行くかなど予測できない。私は行きたいところに行く。
 
経典曰く「心平等如水。心平等如火。心平等如風。心平等如空。高離掉舉。下無昏沈而善安住。」
 

これらの話は、あなた方にはとても説明しにくい。もし菩薩が法身菩薩に近づく段階まで修行すると、水火定を成就することができる。つまり、身体の半分が水、半分が火となって現れるのである。直貢噶舉では、ガムポパ大師がこれを成就した。その事績は記録として残っている。では、どうやって成し遂げたのか。それは、地・風・水・火・空のすべてに平等に対処するからである。風が多いからどうだ、火が少ないからどうだ、という分別が一切ない。すべてが平等である。言い換えれば、肉身の中にある地・風・水・火・空の五大を完全に調和させたということだ。そのため、大病を患う可能性は非常に低く、たとえ病にかかっても、すぐに回復する。もし地・風・水・火・空をすべて平等心で見ることができれば、自分の寿命すらコントロールできるようになり、どれだけ生きるかを自ら決めることができる。私は今のところ、そこまでの確信はまだない。そして、あなた方にはできない。

「高離掉舉、下無昏沈」とは何か。もし菩薩がある境地まで修行すると、心が過度に高ぶって定まらない状態から完全に離れる。同時に、下無昏沈(昏沈にも落ち込まない)、心も沈まない。ここで言う昏沈とは、眠っていることでも、気を失うことでもない。昏沈とは、心に力がなくなり、ある一点に定まったまま動けなくなる状態を指す。この状態は、私自身も体験したことがある。それは、定に入ったあと、そこから出られなくなる感覚である。その人は死ぬわけではない。ただ、その場に座ったまま、まったく動かなくなる。もしそのとき、善知識が来て助けなければ、非常に危険である。

掉舉(じょうこ)昏沈(こんじん)は、定を学ぶ者が最も陥りやすい問題である。なぜなら、禅定の修行がある程度うまく進むと、血気が盛んになりやすいからである。多くの人は、その状態になると「自分はすでにある境地に到達した」と思い込みやすく、そこで心を高めてしまいがちだ。心を高めすぎると、すぐに掉舉に陥る。心が定の境地から離れ、絶えず浮遊し、安定しなくなる状態である。掉舉の状態では心が非常に高揚し、たとえ再び定に入ったとしても、智慧は決して現れない。なぜなら、掉舉による亢奮がある限り、定の中にあっても智慧は開かれないからである。皆も、この感覚を体験したことがあるはずである。非常に興奮しているとき、物事を深く考えることができず、周囲のことにも注意が向かず、時には、重要なことすら気に留めなくなる。修行者の立場から言えば、もしこの段階に至るなら、一切の衆生の苦に心を向けることができなくなる。有情衆生の苦に注意を向けられなければ、菩提心も、慈悲心も修することはできないのである。
 
掉舉は比較的起こりにくいが、昏沈は非常に起こりやすい。その理由は、多くの人が入定する際に、「念を起こしてはならない」「何も考えないようにしよう」と意図的に念を抑え込み、念を一つの対象に固定しようとするからである。その結果、次第に心の力が低下し、さらに下がっていくと、突然、意識が薄れた状態に入ってしまう。私自身もかつて、耳には一切の音が聞こえず、身体の感覚もなくなり、それでも「自分は定の境地に入っている」と明確に分かる体験をしたことがある。掉舉昏沈の違いは次の点にある。掉舉のときには、光が見えることがある。一方、昏沈のときには、光は見えない。しかし、これらはいずれも心の変化にすぎず、どちらも取るべき境地ではない。だからこそ、禅定の修行には必ず上師の指導が必要なのである。直貢噶舉の大手印においても同様であり、必ず上師から灌頂と口伝を受けてからでなければ、修行を始めてはならない。禅定は確かに優れた法門であるが、同時に非常に危険でもある。特に在家者にとって、禅を修することは極めて困難である。

本来、禅宗の修行は出家者にのみ許されてきた。なぜなら、出家者は淫戒を破らないため、禅定に入った際、精・気・神がいかなる方向にも消耗されることがないからである。この条件が満たされなければ、禅定は成立しない。したがって、在家者が禅を修することは本来きわめて困難なのである。しかし、大手印はこれとは異なる。大手印は、精・気・神の操作を主軸とする修行ではなく、心の働きそのものから説き起こし、次第に「定」から「禅」の境地へと入っていく道を明らかにする法門である。ゆえに、ここで述べられていることは明確である。修行に入れば、必ず掉舉昏沈が生じる。ただし、これは一般の人には起こらない。あなた方にも起こらない。なぜなら、あなた方はまだ修行の段階に至っていないからである。これは修行者にのみ生じる現象である。では、なぜ上師の指導が不可欠なのか。それは、上師には実際の体験と経験があり、「この状態は行ってはならない」「これを続けると、どのような結果が生じるか」を正確に知っているからである。上師は、弟子が誤った方向へ進もうとしたとき、助言し、支え、時には止める。

経典曰く「而善安住。一切道行而得不動。」

而善安住」である。安住とは同一ではない。安住とは、清浄なる本性を、清浄なる法界の中に安らかに住せしめることであり、それは思考によって作り出されるものではない。「而善安住」とは、絶えず善法を修し続けることを指す。先ほど私が叱責した者たちは、善法を修していない。彼らは善を行っているのではなく、悪をなしている。そのような者が安住できるはずがない。なぜなら、学仏の過程においても、依然として貪・嗔・痴・慢・疑を用いているからであり、善法に修していないからである。上師が「食べ物や飲み物を持ち込んではならない」と明確に説いているにもかかわらず、それでも持ち込み、「少しぐらいなら」「混ぜてしまえば分からないだろう」と試す。あなた方は皆、飛行機に乗ったことがあるだろう。水のボトルを持ったまま搭乗できるか。できないはずだ。それなのに、なぜ仏寺に対しては、これほどまでに無礼で、軽視した態度を取るのか。これは仏寺を欺くことであり、リンポチェを欺くことでもある。それでも「リンポチェは慈悲深いから許してくれるだろう」と思っているのか。この一点だけを見ても、あなた方には「自分は学仏している」と語る資格はない。

一人が一本ずつ持ち込めば、七百人以上で七百本以上のゴミが出る。そのゴミは誰が処理するのか。仏寺にはゴミ箱はない。ではどうするのか。あなた方は「自分で持ち帰る」と言うだろう。しかし、仏寺の中で水を飲めば、水は床に落ちる。口の臭い唾液が飛び、パン屑が床に落ちる。それを誰が清掃するのか。これは完全に自己中心的な行為である。もし今日、あなた方が仏法に安住し、戒律に安住しているのであれば、このような行為をするはずがない。決してしない。私は断言する。この十人は、決して話を聞かない者たちである。平素から規定を守らず、こそこそと不正を働く者たちだ。病気で来られないのであれば、来なければよい。私はそれで叱ったり、追い出したりはしない。しかし、こそこそと規定を破る行為は別である。あなた方のせいで、入口の警備員は迷惑を被った。この十人の行為によって、後ろで並んでいる人々が待たされることになった。自分がパンを一つ食べ、水を一口飲むために、何百人もの人を待たせる。
 

なぜ仏寺や道場にこれほど多くの規定を定めるのか。それは、あなた方が日常生活において、常にごまかし、成り行き任せで生きているからである。その習慣を断ち切り、心がごまかしに走らないよう訓練するために、規定がある。戒を守り、規則を守り、方法を守ることで、初めて正しく仏法を学ぶことができる。あなた方は知らないのか。法会のたびに医療班が常駐している。もし本当に水が飲めず、食べ物がなくて倒れるような事態が起きれば、医療班が必ず対応する。それでも不安なら、何を恐れているのか。仮に本当に仏寺で事故が起きたとしても、私は必ず助ける。それなのに、なぜこれほど自己中心的になれるのか。この十人は、自分たちは利己的ではないと思っている。「水を一口飲み、パンを少し食べなければ体力がもたない」と考えているのだろう。はっきり言う。あなた方は話を聞かないからである。どれほど念誦しても、一千万遍唱えようとも、まったく意味はない。これほど規定を守らない集団を、私は見たことがない。台湾社会はすでに十分に混乱している。どうか仏寺まで来て、さらに乱さないでほしい。
 

あなた方に対して、私はあまりにも優しすぎる。仏寺のトイレには、清掃用具をすべて整えて用意している。トイレットペーパーを置かなくてもよいはずだ。なぜ置く必要があるのか。置けば費用がかかる。トイレを維持するにも金がかかる。私は皆が節度をもって使うと信じている。しかし同時に、節約させたいわけでもない。この問題は多くの事柄に関わるため、ここでは詳しく述べない。今日、リンポチェはあなた方にこれほど良い修行環境を与えている。それにもかかわらず、なぜ大切に守ろうとしないのか。なぜここまで自己中心的になれるのか。水一本、パン一つを持ち込んでも問題ないと思っているのだろう。しかし今日それを許せば、次は何を持ち込むのか。そのうち、大きなケーキを買って持ち込み、「皆で一緒に食べよう」と言い出す者が出ても不思議ではない。だから、三十年以上出家している弟子よ、師になることを本気で勧めない。見て分かるだろう。リンポチェでいるということが、どれほど大変か。何もかも話さねばならず、何もかも教えねばならない。
 
経典曰く「名三摩呬多。於道行自體而無分別。」

名三摩呬多。於道行自體而無分別。この一句は極めて重要である。修行者がこの境地に至ったとき、あらゆる修道の方法、あらゆる行為は、いかなる理由によっても揺らぐことがない。例えば、私はこの数十年、一貫して変えていないことがある。帰依していない者の供養は受け取らない。これは今も昔も同じであり、動かしたことは一度もない。私が定めた規定――水や食べ物を仏寺に持ち込ませないという規定――も同様である。そこには必ず理由があり、私の考えは動かない。あなた方が私の考えを変えようとする方法は、二つしかない。一つは、私が死ぬことだ。その後は、好きなものを持ち込み、好きなようにすればよい。もう一つは、あなた方が弟子であることをやめることだ。この二つから選べ。私が死ぬことを望む者は手を挙げよ。私はすぐにでも死んでみせる。(誰も手を挙げない。)では、弟子をやめるのか。(大衆:「やめません。」)それならば、あなた方はいったい何をしているのか。誰にも分からないと思い、こそこそと小さな違反をする。パンを買う時間はあるのに、なぜ家で十分に食べてから出てこないのか。私は法会の前には決して満腹にならない。理由は明確だ。満腹になれば消化に体力を奪われ、修法に必要な力が落ちるからである。法会の日は、普段より飲食を半分以下に抑える。すべては体力を保つためだ。それにもかかわらず、あなた方は飲み、食べ、「空腹で死ぬのが怖い」とでも言わんばかりである。本当に理解できない。あまりにも自己中心的である。

「於道行自體而無分別」とは、この人が『道』『行』を修しきった結果として、その自体から自然に現れるを指すのであり、意図的につくり出したものではないという意味である。本来、清浄なる本性には、すでに道と行が具わっている。本来は、探し求める必要などないのである。しかし、なぜ今それを探さねばならないのか。それは、貪・瞋・痴・慢・疑によって覆われているからである。覆われてしまった結果、自分の中に本来清浄なるものが具わっていることを理解できなくなっている。だからこそ、あなた方は日々叱られる。だからこそ、これほど多くの規定が設けられている。これらはすべて、あなた方の貪・瞋・痴・慢・疑を少しずつ、確実に減らすためである。そして、いつか必ず、自らの体験として悟る時が来る。――自分が過去世より、いかに自分本位な行いを重ねてきたかを。

経典曰く「名三摩鉢那。雖言辭充滿無口過失。無高無下亦無動亂。」

「雖言辭充滿無口過失」とは、言葉は多く発していても、口業の過失がないという意味であり、極めて重要な一句である。私たちは非常に容易に言葉の過ちを犯す。では、どのようにすれば言葉を誤らずに済むのか。それは、修行において戒律を厳密に守り、上師の教導に素直に従い、『仏子行三十七頌』によって日々自己を省察し、不断に慈悲心を培うことによってである。ジッテン・サムゴンは、菩提心を生起させるために最も重要な一点は、上師を尊重することであると明確に説かれている。この一点を確実に実行できたならば、次第に言葉の過失は自然と減っていく。すなわち、人に懊悩を起こさせず、煩悩を生じさせず、恐怖を与えない言葉となっていく。人の心に届く言葉とは、弁舌の巧みさや、読書量の多さによるものではない。その人自身に慈悲心が備わっているかどうかによって決まるのである。「無高無下亦無動亂」とは、先に述べた内容をそのままで、高下の分別がなく、上下に偏らず、心が動揺せず乱れない境地を指す。

経典曰く「相應順成一切世間法義時分。然於世間八法而能超越。

相応とは、相手がどのような要求や因縁を持っているかに基づいて、それに相応することである。いわゆる相応とは、相手の考えを満たすことではなく、相手の考え方や行いに応じて、仏法をもって相応することである。「順成一切世間法義時分」について、我々は修行しているのであり、世間法から離れることはできない。ゆえに、仏法を用いて世間法を順じ、世間法を成就させるのである。現在、私に従って仏法を学ぼうとする者に対して、私は常にこう言っている。「勉強しなさい。仕事をしなさい。」なぜか。それは世間法だからである。今日、修行しているからといって、仕事もせず、勉強もせず、毎日家にこもって念誦するだけであれば、世間の人は必ず「迷信だ」「仏法を学んで頭がおかしくなった」などと言うであろう。我々は人としてなすべきことを行わなければならないが、行き過ぎてはならない。それは後に説かれる内容に基づく。「然於世間八法而能超越」というのは、世間の事を行いながらも、世間八法の中に身を置きながらも、世間八法に染まって行動しているわけではなく、世間八法を基準として行っているのではない、という意味である。世間八法を超越するとは、慈悲心および『仏子行三十七頌』をもって行うことである。八法という用語について調べてほしい。これは貪・瞋・痴・慢・疑と関係している。

経典曰く「一切煩惱悉無所著。遠離憒閙尋伺境界。」 

「一切煩惱悉無所著」とは、生起するあらゆる煩悩に対して、それを握りしめて離さずにいることがないということである。「遠離憒閙尋伺境界」とは、騒がしく、遊ぶべきではない場所から離れるという意味である。酒を飲まないという戒を守る以上、そのような場所に行くべきではない。以前、一部の女子がナイトクラブに行き、「自分は酒を飲まず、コーラを飲むだけで、彼らが何をしているのかを見るだけだ」と言っていたことがあった。しかし、環境そのものが人を汚染するのである。

何度も行けばどうなるのか。遅かれ早かれ、必ず汚染される。道場の中にも若い者がいて、クラスメートが皆行くから、自分も一緒に行くと言う。クラスメートも彼が酒を飲まないことを知っており、「少し遊びに行くだけだ」と言うのである。仏法を学ぶとは、世間法と完全に切り離せということではない。しかし、世間の八法を超越しなければならない。では、自分が「ますます良くなる」ことを望むのであれば、どこが良くなるのか。それは、輪廻の苦海から離れることである。しかし修行の過程において、なお世間の八法に絡め取られているならば、永遠に輪廻の苦海を超えることはできない。他人に何か事があったとき、自分は仏法をもって、それを行うべきか行うべきでないかを判断しなければならない。もしあなたの能力が大きく、行った途端に音楽が止まり、酒の販売も止まるのであれば、その時は拍手を送ろう。しかし、あなたが行ったことで、かえってその場がより賑やかになるのであれば、あなたは何のために行くのか。

リンポチェはあなた方にこう話してきた。私が仏法を学び始め、弟子を教えるようになってから、台湾ではカラオケに行かず、映画も見に行かない。海外では行くことがあるが、それは遊びに行くためではない。私が行くと、本当にその場所の人を度することができ、さらにはその場所の鬼までも度することができるからである。この話が意味するのは、仏法は決してこのように硬直したものではなく、「これはしてはいけない、あれもしてはいけない」と一律に決めつけるものではない、ということである。しかし、仏法を用いて、自分自身を守り、このような環境による汚染や害を受けないようにすることを理解しなければならない。多くの良くない出来事は、まさにこのような環境の中で起こる。最初は何も起こらないが、次第に汚染され、汚染された後は彼らに従って行動するようになる。一度その流れに乗ってしまえば、引き返そうとしても、もはや戻ることはできない。

ときに、人はもう少し多く金を稼ぐために、因果に背くことを承知のうえで行うことがある。あなた方はどう思うか。正しいだろうか。正しくない。だから仏法は、あなた方を管理するものでも、縛るものでもない。仏法は私たちと対立するものではない。仏法とは、私たちを助け、何が自分にとって不利になるのか、何が自分を助けるのかをはっきりと見極めさせるものである。『仏子行三十七頌』を用いて照らし合わせれば、このことはもう行うべきではないと分かる。たとえ目の前にすぐ利益があることであっても、してはならないのであり、それを忍び、こらえなければならない。

特に若い者は、自分が若いから大丈夫だと思ってはならない。「人は若いときに軽狂しなければ若者ではない」と言われるが、私もかつて若かった。しかし、あなた方ほど軽狂ではなかった。なぜなら、それが自分の求めるものではないと思っていたからである。もしかすると私は多少潔癖症なところがあり、そのような事柄をとても嫌っていたのかもしれない。今日これらの話をしているのは、世間にはどうにもならない事柄が多く存在することをあなた方に伝えるためである。その選択肢がない中にあって、私たちは世間八法を超越することを学ばなければならない。そして、自分からわざわざ機会を探して、良くない場所や、あまりにも騒がしい場所へ行かないことを知るべきなのである。

例えば、私たちは不殺生を守っている。東南アジアの一部の国には闘鶏があり、旅行団体が見学に連れて行くこともあるが、あなた方は見るだろうか。見ないはずである。なぜなら、それが殺生の行為であると知っているからである。このような共業の中に入らなければ、自然と悪い共業に巻き込まれることはない。なぜ仏法を学ぶと「守られる」のか。それは、仏法が「巻き込まれない」ことを教えてくれるからである。距離を保ち、関わらないようにすることができる。場合によっては、状況を理解するために少し触れることはあっても、必ず離れ、深入りしない。不接触を保つことで、次第に自分がどのように行動すべきかがはっきりと分かってくるのである。今の時代、多くの人は「早く状況を把握しなければならない」「早く自分の立場を明確に示さなければならない」と考えている。このような行為自体が善いか悪いかという問題ではないが、出世間法とはやや距離のあるものである。

経典曰く「如是法行名三摩呬多。又於一切世間工巧造作悉能顯現。於彼事相亦不棄捨。而菩薩摩訶薩於禪定波羅蜜多平等入解。」

この一句は、仏を修し、仏法を学ぶ者は、「一切世間工巧造作悉能顯現」することができる、という意味である。すなわち、世間の事を行ってよいのであり、アルバイトをすること、勉学に励むこと、夫となること、妻となること、誰かの子として生きること――これら一切はすべて可能であり、否定されていない。では、要点はどこにあるのか。それが「於彼事相亦不棄捨」である。リンポチェは常にあなた方に語っている。仏法を学ぶとは、家を捨て子を捨てることではない。学業を禁じることでもなく、結婚を禁じることでもない。そのようなことは、仏経のどこにも説かれていない。だからこそ、行動において極端になってはならない。学仏するほど、常識を失い、周囲から見てますます混乱しているように見えないように。

「而菩薩摩訶薩於禪定波羅蜜多平等入解」。菩薩がこのような行いをなすのは、すべて禅の境地の中においてである。では、禅の境地とは何か。あなた方は通常、この禅の境地を持っていない。したがって、このような事を行うときには、その行為が自分の貪りの心を満たすためなのか、それとも捨てることができないがゆえなのかを、はっきりと見極めなければならない。たとえ捨てることができない場合であっても、『宝積経』にはすでに説かれている。あなたの命の中に眷属があるなら、それは簡単に捨てられるものではなく、債を返し終えてはじめて手放すことができるのである。学仏したからといって夫婦で別々に寝る、などとは『宝積経』には一切説かれていない。私は誰がこのような言葉を作り出したのか知らないが、それは明らかに不適切である。

前の一句はすでに明確に説いている。「不棄捨」ということである。ただし、仏法の観点をもって見る必要がある。すべては因縁法である。人を追うことも、他人から追われることも、すべて因縁法である。相手に追われて関係が生じたなら、それは縁があるということだ。追われなかったなら縁がなかっただけである。追われなかったからといって、自分が醜いからだと思ってはならない。追われたからといって、自分が美しいと思ってもならない。多くの場合、「痘痕も靨」と言うように、どれほど容姿が良くなくても好かれる人はいるし、どれほど出来の悪い男でも好かれることはある。それは文章がうまいからでもない。すべては因縁法である。したがって、今日仏法、特に菩薩乗の考え方とは、この一生、人として生きている以上、生活のために世間法を完全に捨てることはできないということである。必ず世間の事柄、すなわち工巧の面において行うべきことは行わなければならない。

あなたは働かずにいられるのか。誰があなたを養うのか。仕事をせずに生きられるのか。できない。だから必ず働かなければならない。しかし、世間の八法の中で物事をしてはならない。例えば、人と争う、人と揉める、人と駆け引きをする、これらはすべて世間の八法である。人に褒められれば喜び、人に罵られれば殴り合いになる。これはいけない。世間の八法を超えるための最も簡単な方法は、リンポチェがあなた方に教えているとおり、毎晩『仏子行三十七頌』を用いて、その日に自分が行ったことを省みることである。もし『仏子行三十七頌』に背く行為があれば、それはすでに世間の八法の中に入っており、出世法を修めていないということである。

出世法を修してこそ、この一生において、輪廻の苦海を離れる機会と能力を得ることができる。もし修行せず、それでも問題ないと思い、リンポチェが自分を救ってくれる、助けてくれる、供養しているから良い生活を送らせてくれるのだと思っているなら、それは仏経に説かれている内容とは一致しない。だから今日、はっきりと説いている。仏は、あなた方に仕事をするなとも、何もするなとも教えていない。勉強するなとも教えていない。だから年若い者たちは、家に帰って「仏を学ぶから勉強しない」と家族に言ってはならない。私たちは、仏が何を教えているのかをはっきり理解しなければならない。仏法を外道のようなものにしてはならない。仏法は、世間法の中から生じた法であることを、私たちはよく理解しているのである。

仏法は世間法を離れるものではない。私たちは世間法を用いて人を生死から解脱させるのではないが、この世間に生きている以上、世間法を通して「何をすべきか」「何をすべきでないか」を知るのである。もし世間法がなければ、多くの事柄について、それが為すべきことなのか、為してはならないことなのかを判断することができない。だからこそ、まず世間法があり、その上で仏法と照らし合わせる。仏法が「これはしてはならない」と説くなら、私たちはそれを行わない。仏法が「これは行ってよい」と説くなら、私たちはそれを行うのである。

だからもう一度言う。『仏子行三十七頌』は、あなた方の守護神である。毎晩必ず自分自身を省みなければならない。自分が間違いを犯したことを恐れてはならない。人は皆、自分が間違っていることを認めたがらない。だからこそ、毎日、自分がどの条文に背いたのかを点検しなければならない。もし背いたものがあるなら、その日のあなたはまだ世間の人であり、仏弟子ではない。どれほど念仏し、礼拝し、修行しても、それはすべて無意味である。なぜ私が多くの人が法を求めに来ても伝えないのか。それは、彼らがまだごまかし続けており、『仏子行三十七頌』を用いて自分を省みていないからである。自己を省みなければ、過ちを犯す可能性は永遠に高いままである。

若者が好奇心から夜店を少し覗いてみる、それは『仏子行三十七頌』を用いていないということである。一、二回行ったならそれで十分であり、二度と行ってはならない。再び行けば、必ず問題が起こる。中には「仕事で必要だから行かなければならない」「業務上避けられない」と言う者もいる。腹痛や生理痛というものを聞いたことがあるだろう。普段、上司に「今日は生理休暇です」と言って休めば、人は姿を消すではないか。私たちは「自分は仏教徒だから行けません」と言う必要はない。それでは人に非難されるからである。「すみません、生理痛です」と言えばよい。男なら、「妻管学科卒だから」(“企管qìguǎn”のしゃれ言葉、妻に厳しく取り締まる、恐妻家を意味する)と言えばよい。妻がいなければ彼女、彼女もいなければ母親。つまりマザコンであると言えばよい。

経典曰く「而菩薩摩訶薩於禪定波羅蜜多平等入解。」

ここでは繰り返し「禅定波羅蜜」について語られている。私たちが六波羅蜜を修し、禅定波羅蜜に至るとき、多くの人は禅定を「そこに座って如如不動となり、思考も観念も一切ない状態」だと誤解している。しかし実際には、禅定の最も重要な定義とは、「一つのことに集中し、他の考えや念を起こさず、他のことをしない」ことである。だから、仕事をするときは仕事に専念すべきであり、出勤してすぐに「嗡瑪尼貝美吽・嗡瑪尼貝美吽」と唱えても意味はない。観音菩薩には届かない。「嗡瑪尼貝美吽」を唱えるときは、明日昇給するかどうかを考えてはならない。これが禅定である。禅定は必ずしも脚を組んで座り、いかにも修行者らしい姿を装うことではない。禅定の定義とは、散乱した思考を集中させ、ある一つの境地に定めることである。仕事のときは仕事に集中し、勉強のときは勉強に集中し、仏法を学ぶときは仏法を学ぶことに専念する。仏法を利用して自分の貪欲を満たしたり、人情的な計算を達成しようとしてはならない。多くの人は仏法を利用することを好む。だからこそ理解すべきなのは、毎日何時間も座ることが禅定なのではない、ということである。この経典が説いているのは、生活の中の一秒一秒すべてに禅定が必要だ、ということである。それゆえ、なぜ私たちは持呪するのか。持呪とは、禅定の力を鍛えるための訓練なのである。

先ほどリンポチェが六字大明咒を唱えたとき、皆とても熱くなり、汗をかいただろうか。(大衆答:はい)なぜ汗をかいたのか。それは、リンポチェが禅定の中で唱えていたからである。私が禅定の中で唱えるとき、観音菩薩のエネルギーを「ドン」と放出するのである。実際、観音菩薩のエネルギーは、宇宙全体、虚空全体、六界すべてに遍満し、絶えず放たれている。しかし、禅定の力がなければ、観音菩薩の力を集中させて人に届けることはできない。これは、発電所が常に電力を発生させているのと同じである。もし中継所がなければ、電気は各家庭に届けられない。観音菩薩という発電所は、絶えず電力を生み出しているが、それを受け取る者が必要なのである。私は受け取る。受け取った後、それを皆に伝える。これで分かっただろうか。とても簡単な道理である。

皆、試してみなさい。千遍どころか、たとえ百万遍唱えても、唱えれば唱えるほど体は冷えていき、熱くなることはないだろう。本来、仏号を持し、真言を持するならば、熱くなるはずである。なぜなら、仏菩薩のエネルギーは非常に大きいからである。もしそのエネルギーがすべて直接あなたに与えられたなら、あなたは爆発してしまう。それはちょうど、発電所の電気が直接家庭に送られたら、家が爆発してしまうのと同じである。必ず途中で調整を経てから送られなければならない。私はその役割を担う者である。だから私は電力で満たされている。これもまた禅定の中で行われていることである。もし禅定がなければ、観音菩薩のエネルギーを集めることは決してできない。諸仏菩薩のエネルギーは、絶えず放たれている。それは誰かが願ったから放たれているのではない。では、どのようにしてそれを集めるのか。それが六波羅蜜である。一つでも欠けてはならない。供養、持戒……すべてを修し、最後に禅定波羅蜜によってそれを集め、再び衆生へと放つのである。

では、なぜ上師が必要なのか。もう分かっただろう。あなたが言うことを聞かなければ、どうやって私の電力(エネルギー)を受け取れるのか。私の言うことを聞かないなら、私の電力は届かない。なぜ届かないのか。それは、あなたが私のシグナルを受信できないからである。なぜあなたたちに必ず観音菩薩を信じなさいと言うのか。それは、あなたが観音菩薩のシグナルを受け取れていないからである。皆、土曜日に仏寺に座って何千遍も唱えて、熱くなったと感じたか。(大衆答:いいえ。)では、今日私は千遍しか唱えていないのに、なぜこれほど熱いのか。これでもまだ信じないのか。あなたたちは、自分たちが修行しているつもりでいる。今日は仏寺で唱え、仏像がたくさんあり、功徳が大きいと思っている。しかし、その仏像は誰が開光したのか。誰が装臓したのか。すべての仏像の中央にあるあの木の柱は、誰が開光したのか。私である。私がいなければ仏寺はあるのか。だから、あなたたちを愚かだとは言わない。ただ無知だと言うだけである。そんなに無知でいないでほしい。リンポチェは仏法をすでにこれほど明確に、これほど簡単に説いているのに、なお受け入れず、理解できない。それは本当に無知なのである。

祖師ジッテン・サムゴン著作《一意》。

今日は少し時間を取って、祖師ジッテン・サムゴンが説かれた『一意』について話す。私は特に選んだわけではなく、たまたま開いたところを、そのまま講じている。

總結大乘法可總結為基、道、果三階段之法。(大乗仏法は、まとめるなら「基・道・果」の三段階の法である)。基・道・果とは、基礎、修道、果報を指す。第一に、私たちが戒を修するのは、自分が良くなるためでも、福報を得るためでもない。障碍を断ち切るために律儀戒を修するのである。なぜなら、仏法を学ぶ過程では、必ず、そして確実に(Guarantee)障碍が現れるからである。しかし、最も基本である五戒をきちんと守るならば、障碍は必ず過ぎ去る。今は順調でなくても、必ず過ぎる。私はその最も良い見本である。私は多くの障碍を経験してきたし、あなたたちと同じように家庭があり、やるべきことも山ほどあった。しかし、私が堅固に戒を守ったからこそ、障碍はすべて乗り越えられたのである。では、なぜ戒を守るのか。それは、基礎の段階において、「發起成佛之因、菩提心之後」(成仏の因、すなわち菩提心を発した後の行い)だからである。なぜ仏法を学ぶのか。成仏の因は極めて重要だからである。もちろん、今この一生で成仏することは不可能だと、皆理解している。しかし、もし阿弥陀仏の国土に生まれるなら、必ず成仏できる。だからこそ、阿弥陀仏の浄土に往生するという願を立てるのである。これは、發起成佛之因、菩提心之後(成仏の因、すなわち菩提心を発した後の行い)である。もし阿弥陀仏の浄土への往生を願わず、ただ「リンポチェが守ってくれればいい」「死ななければいい」と思っているだけなら、それは修行とは無関係であり、第一段階すら達していない。このような心構えがなければ、自然と戒も守れなくなる。この二つから離れてしまえば、当然、戒を守ることもできなくなるのである。

戒を守り、障碍の力が消えたとき、そこから自利利他の能力が生じる。例えば、リンポチェが仏法を説き、修法を行い、衆生を済度できるのは、まさにこの能力である。では、この能力の基礎はどこから来るのか。それは戒を守ることから来る。なぜ私が、あなたたちが水やパンを仏寺に持ち込むことを繰り返し叱るのか。それは戒を守っていないからである。リンポチェが定めた規定こそが戒である。では、なぜ守らないのか。こそこそと抜け道を探し、自分は可哀想だと思い込み、どうしても水を一口飲み、パンを一口食べなければならないと思うからである。行かなくてもよい。私は「土曜日に来なければ二度と来るな」とは言っていない。あなたたちは功徳を貪っているだけなのである。戒を守らないのに、どうして能力が生じるだろうか。なぜあなたたちは、あそこでいくら念誦しても、体が熱くならず、香りも現れず、大地も震動しないのか。先ほど私が持呪したとき、激しく動いたではないか。(大衆答:はい。)

第二に、「為了供養諸佛而修攝善法戒」(諸仏を供養するために摂善法戒を修する)である。なぜなら、もし一切の仏菩薩を供養しなければ、衆生を助け続ける力が絶えず生じることは不可能だからである。ゆえに摂善法戒を修するのである。その意味するところは、菩薩戒とは一切の善法の頂であり、菩薩戒を修している者は、自然に行うすべてのことが仏菩薩への供養となるということである。例えば、あなたたちが法会に参加するとき、最初に行うことはすべて仏菩薩への供養であり、その後に持呪を行う。この第二段階については、あなたたちは今はまだ成し遂げていない。しかし、第一段階については、必ず行わなければならない。その次に、有情を饒益するために饒益有情戒を修する。金剛乗とは、まさに一切の有情衆生を饒益する戒である。一切の有情を饒益するためにこの戒を修するのであり、これが金剛乗の戒である。金剛乗の戒は、菩薩戒よりもさらに厳格である。

假設無法將有情安置於妙善白淨之道上,可視利他的情形,而做殺生等身語上的七不善業,別解脫戒中所遮止之事亦開許。(もし有情を妙善・白浄の道に安置することができない場合には、利他の状況を観察したうえで、殺生など身・語における七つの不善業を行うことがあっても、別解脱戒において遮止されている事柄であっても、これを開許することがある。)このような説き方は密教においてのみ見られるものであり、顕教では成り立たない。例えば、殺生等身語上的七不善業(殺生などの身・語における七不善業)について、私はかつてそれを聞いたことがあり、また、ある教派には動物を殺すことを専門とする法があることも知っている。なぜなら、私たちは毎日、三悪道の衆生の寿命が短くなり、速やかに三善道に生まれて仏法を修行できるよう願を立てているからである。そのため、その畜生を殺し、直ちに済度して善道に送るのであれば、それは行ってよいとされる。また、例えば釈迦牟尼仏は、ある前世において、船頭が財物を奪うために同船していた五百人の羅漢を殺そうとしていることを知り、その船頭を殺したことがある。これは開許である。なぜなら、船頭が五百羅漢を殺せば、五無間地獄に堕ちることになるため、それを防ぐためであった。ゆえに、これはその者を殺したのではなく、救ったのである。

これは、あなた方にできることではない。必ずリンポチェの果位以上に修行していなければならず、その境地に達した者であれば、いかなる方法を用いても衆生を度することができ、手に取ったものすべてをもって衆生を度することができる。あなた方の立場から見れば、それは不善業を行っているように見えるであろう。しかし、それはあくまであなた方の見方にすぎない。リンポチェの行いの基準はただ一つである。すなわち、「私がこの行為をすることで、その者が三悪道に堕ちることを免れるのであれば、私はそれを行う」ということである。数週間前に私が話した話と同じである。飛行機の中で、隣に座っていたキリスト教徒に対して、私は「あなたの主があなたを助ける」と伝えた。顕教の立場からすれば、このようなことを言うことはできない。なぜなら、それは外道に附することになるからである。しかし、私は金剛乗を修しているため、このようにすることができる。なぜなら、私の目的はただ一つ、その人を恐れさせず、安心させることであり、自己のためではないからである。衆生を饒益するためであるならば、それは許されるのである。船頭を殺したという話についても同様である。これはあなた方が行ってよいことではない。決して「リンポチェが殺戒を開いてよいと言った」などと受け取ってはならない。

彼はさらにいくつかの例を挙げている。寂天菩薩は、皆が知っている偉大な菩薩の一人である。彼はこう説いている――「もし深い悲心と遠見を具えた者であるならば、諸遮於彼開許(あらゆる遮止はその者に対して開許される)」。これは、その者がすでにこの衆生の未来がどこへ向かうのかを見通しているため、極めて強い手段を用いてでも、その衆生が今まさに行っている行為を止めさせ、新たな生命を始めさせることができる、という意味である。例えば、私たちが修している大象財神についてである。彼の前世は一人の王子であった。マハーカーラは、その王子が放逸に振る舞い、乱れた行為を重ねているのを見て、彼を殺した。本来であれば殺すべきではなかった。なぜなら、その王子は多くの善行を行っていたからである。しかし、彼が放逸に乱行していたため、マハーカーラは彼を殺し、大象財神として転生させたのである。これは許される行為である。また、「行非梵行(非梵行を行う)」とは、すなわち淫戒を守らないことであり、婆羅門の星童子の例がこれに当たる。「妄語に罪なし」というのは、例えば祖賜仙人の例であり、これも過失とはならない。これらの物語については、後日改めて調べたうえで、あなた方に伝えることにする。

ジッテン・サムゴンの解釈は非常に明確である。菩薩は衆生を利益するために行動するのであり、その行為が自分自身にとって不利に働く可能性があることを知っていても、菩薩は自己を捨てる。ただその行為が利他であるならば、たとえその反動が自分に返ってくるとしても、なおそれを行うのである。菩薩の心は極めて純粋であり、ただひたすら他者を利益するために精進する。その行為によって生じるかもしれない業報を理由として開許するのではなく、また、その行為によって三悪道に堕ちる可能性があるのではないかという苦しみを生じさせることもない。ゆえに、その菩提心が損なわれることは決してないのである。

是從堪安忍而做開許(これは「堪安忍」から開許を行うという意味)であり、すなわちその行者が忍辱の法門を修していることを示している。顕教ではこれを「空悲双運」と説くが、我々が修する金剛乗においては、必ず空性と悲心を証得するところまで修行しなければならない。空と悲の精髄がすでに成就され、しかもそれが極めて堅固であるならば、たとえ一部に非常に激しい行為が現れたとしても、その果報が悪趣として現れるとしても、結果として有情を成熟させ、解脱へと導くことが可能となる。ゆえに、この行者は、空性と悲心という根本がきわめて堅実なのである。

また次のようにも説かれている。「悲憫與慈故,心善則無過」(悲憫と慈とによるがゆえに、心が善であれば過失はない。)第一句は、慈悲の心をもって有情を摂受すべきである、という意味である。第二句の「心善則無過」とは、三毒に染まらない善なる心によって引き起こされた一切の行為には、過失がないということを示している。大悲商主は、短刀の悪人を殺したことによって、数千年にわたる地獄の苦を受けたが、その後に成仏した。さらに、成仏後であっても、足に刺し傷を受けるという果報が現れたのである。

金色王は、南瞻部洲にあるすべての財宝を自らの宝庫に収めたが、それは不与取(盗み)には当たらない。彼が一切の財を集めたのは、貧困にある者が飢えや渇きによって死ぬことがないようにするためであり、すべての人を守るためであり、衆生の利益のために財を集めたのである。そこには三毒に染まることのない、純粋な善がある。ちょうどリンポチェが常に多くのお金を寄付しているのと同じである。表面上は私が寄付しているように見えるが、実際にはあなた方を代表して寄付しているのである。なぜなら、あなた方一人一人が私に供養してきたからであり、その多くの供養金を、私は必要としている衆生のために寄付しているからである。

婆羅門星童子は、婆羅門女のために十二年間の梵行を捨てた。これは有情を饒益するために行われたものであり、この一点においてのみ言えば、二万劫の輪廻が減少したとされる。しかし、その行為に業果が全くないとは説かれていない。ゆえに、これは善巧方便としての行為である。祖賜仙人說,不曾見我,何況見賊?是從「我不成立」這個實相道理而說。其次因為意指的是「諸法甚深的法性難以得見」,因此不算妄語,而是善巧方便(祖賜仙人が「我を見たこともないのに、ましてや賊を見たことがあろうか」と語ったのは、「我は成立しない」という実相の道理に基づいて述べられたものである。さらにその意は、「諸法の甚深なる法性は見ることが難しい」ということを示しているため、これは妄語には当たらず、善巧方便である。)したがって、凡そ三毒――すなわち貪・嗔・痴――に染まらず、初・中・後の三段階すべてが善であり、自利利他に広大であるならば、過失とはならず、開許される。これに反すれば、誰であっても行えば必ず過失となる。因若先行,果則隨後起,這是萬法的本性與規律,瞭解此理之後,行持務必要相當謹慎地結合時機。(因が先に行われ、果が後に起こる。これは万法の本性であり、その規律である。この道理を理解した後は、行持において必ず時機を慎重に合わせなければならない。)最後のこの一句は極めて重要である。すなわち、行う際には非常に慎重でなければならず、軽々しく行ってはならないし、誰に対しても同じように行ってよいわけでもない。時機を合わせるとは、時が正しいか、因縁が正しいかを見ることであり、正しくなければ行わないということである。行わないことは慈悲心がないという意味ではなく、かえって衆生に悪い影響や逆効果を及ぼすことを恐れるからである。この段は、菩薩道に修行が至ったとき、このような開許、すなわち戒を開いて行うことが許される場合とは、必ず空性によってその衆生の未来がどのようになるかを見極め、その衆生を助けて未来の悪化を止めるために、自らを犠牲にする覚悟で行われるものである、ということを説いている。

あのとき、私は仏寺でマハーカーラの修法を行った。修法が終わった後、多くの人が私を称賛したが、私は「称賛してはならない」と言った。なぜなら、私は代価を支払わなければならないからである。なぜ代価を支払うのか。それは、このように誅法を修し、仏寺にこれほど多くの問題が起こらないようにしたからであり、修法を行う者は必ず代価を支払う必要があるからである。そのため、最近は少し体の不調を感じている。衆生を利益する以上、必ず代価を支払わなければならない。なぜなら、私たちはまだこの肉身を持っているからである。この肉身が代価を支払うのであって、あなた方が言うような金剛不壊の身ではない。私の法性は金剛不壊であるが、肉身は壊れ、肉身は死ぬ。だからこそ、今日これほど多くのことをあなた方に語ったのは、「リンポチェが何をしても正当な理由がある」と思わせるためではない。そうではない。私は時機を見て行い、因縁を見て行うのであり、決して軽々しく行うことはないし、誰に対しても同じように行うことは絶対にない。

したがって、ジッテン・サムゴンがこの一段を開示したのである。なぜなら、多くの人が密教に対して多くの誤解を持っているからである。その誤解はどこから来るのか。それは、人々が仏法に対する理解や見方を、すべて顕教の段階に留めており、それ以上に進んでいないからである。ゆえに、私たちがより高い段階に至り、ある行為を行うと、それが「してはならないこと」のように見えてしまうのである。今日、私はたまたまこの一節を開き、皆に説明した。これは私が正しいと弁解するためではなく、ジッテン・サムゴンがすでにこのように開示しているということを示すためである。彼は出家者であるにもかかわらず、なぜこの一段を説いたのか。それは、後の時代において、在家で仏法を学ぶ者の方が出家者よりも多くなるからであり、在家者に明確に理解させる必要があったからである。在家の学仏者には共通の問題がある。それは、「上師は必ず完璧に行わなければならない」と思い、それで初めて信じようとすることである。では、その「良い」の基準はどこにあるのか。あなた自身の道徳観を基準にしているのか。私たちの立場では、基準は道徳ではない。基準は慈悲心と空性である。私が行うあらゆる行為が、相手を三悪道に堕とさず、輪廻から離れさせるのであれば、それは正しいのである。しかし、あなた方の基準は道徳である。道徳とは、ある特定の地域や時代に存在する価値観であり、それは仏法ではない。ところが、現代において仏法を学ぶ人々は、皆この道徳を用いて修行者を判断する。だから私は非常に苦しい立場に置かれている。あなた方が道徳で私を見るから、私は逆に道徳であなた方を見ることになる。そうすると、すべて崩れてしまう。あなた方の中で、誰一人として小細工やごまかしをしていない者がいるだろうか。あなた方自身がその程度で崩れているのに、どうして私を批判できるのか。

リンポチェがこの数十年間、人として、また行為において、もしほんの少し、わずかでも誤りがあったならば、今日ここに座っていることはできない。絶対に不可能である。なぜ不可能なのか。それは、あなた方が来なくなるからではない。護法が私を処分するからである。護法は、私を生かしてはおかない。それでも私が今なお生きているのは、仏法にとって利益があるからにほかならない。仏法のために必要であるがゆえに、護法は私を生かしているのである。私はすでに一度死んでいる。2007年に一度死んだ。したがって、死は私にとって、ただの一つの過程にすぎない。アキ護法が、今に至るまで私を連れ去らず、生かし続けているのは、必ずまだ私が成就し、円満させなければならない事柄が残っているからであり、それを成し遂げた後でなければ、私は去ることができないのである。

今日、リンポチェがこれほどまでに心を砕き、苦言を呈してあなた方を諭しているのは、あなた方から供養を多く受け取るためではない。私は常に供養を受け取らないことも多い。ただ、あなた方があまりにも哀れだからである。これほど長い年月が経っても、相変わらずこの有様で、利己的で、自分のことしか考えていない。率直に言って、あなた方の行為や考え方は、仏法を学んでいない人と何が違うのか。違うのは、ただ菜食をしているという点だけである。席を奪い合い、リンポチェが語ったことをわざと聞かず、それでいったい何を学仏しているというのか。

アキ護法を修した後、リンポチェは引き続き次のように開示された。

来週は施身法を修する。

法会に一日参加して「腹が減るのが怖い」という者たちに一つ助言を与える。家を出る前、あるいは新幹線の中ででも、豆乳で元気を二本飲めば、午前中いっぱい腹が減ることはない。あの水を買って飲んでいた十人は、絶対に豆乳を飲んでいない。病院の患者たちは食事ができず、この豆乳だけで命をつないでいる。今、道場には多くの子どもがいるが、乳児のころからこの豆乳を飲んで育ってきた。それなのに、なぜあなた方は金を十トン、百トンもあるかのように重く考えるのか。豆乳を買って金がなくなり、私に供養できなくても、リンポチェは怒らない。身体が大事である。そんなに哀れな姿を私に見せるな。もしあなたが甲級の貧困世帯であれば、リンポチェに言いなさい。リンポチェは必ず面倒を見る。リンポチェはこれまで多くの弟子の面倒を見てきた。すでに往生した香港の年老いた弟子が一人いたが、住むところも、食べるものも、使うものもすべて私が与え、介護人も私が手配した。亡くなったときも費用は私が出した。彼は供養をしたか。していない。だから、あなた方は金をそこまで大きく考えるな。金は最後にはあなたのものではなくなる。だからといって使い切れと言っているのではない。使うべきところでは使いなさい。豆乳二本はいくらだ。今は物価が高騰しているが、百元で何が食べられるというのか。そんなにケチになるな。こそこそと水十本、パン十個を買って持ち込むようなことをするな。

私が学仏を始めて心が安定してから、量販店には一度も行っていない。なぜなら、そこに売られている物を食べると身体に良くないことを知っているからであり、だから行かないのである。誤解しないでほしい。人を見下しているのではない。人は金を稼がなければならず、金を稼ぐためには、良い食材をあなたに食べさせることは不可能だからである。私たちが病気になりやすいのは、良くない食材を食べているからである。今は多くの食材に問題がある。自分で慎重にならなければならない。少しの金を節約するために、後になって医者にかかり、その費用がそれ以上にかかることになる。たとえ健康保険が適用されても、交通費はかかる。今では多くの薬は病院が処方箋を書き、自分で買いに行かせる。頻繁に病院に行く人は知っているだろう。今は多くの病院で薬を売っていない。なぜ売らないのか。健康保険が良い薬を認めないからであり、病院は売ることができないのである。少しは頭を使って仏法を学びなさい。数か月に一度しか法会に来ないのに、豆乳二本の金さえ惜しむ。その金はどこへ持って行くのか。今は火葬が主流であり、金を棺の中に入れて持って行くことはできない。昔は土葬で棺に入れていたが、今はすべて焼かれてしまう。まったく意味が分からない。叱っても叱っても、あなた方はまるで頭が鉄で打たれているかのようである。

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2026 年 01 月 23 日 更新