尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2026年2月1日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが升座され、『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十二〈禅定波羅蜜多品第十・その二〉のご開示
経典曰く「又於一切世間工巧造作悉能顯現。於彼事相亦不棄捨」
この一段は前にも話したが、今日は少し補足して説明する。昔、チベットでは、一人のリンポチェになるためには五明学を理解していなければならなかった。五明学には数学、医学、天文(星象)、地理などが含まれる。これらを理解してこそ、一人のリンポチェになることができるのである。菩薩の仕事とは、絶えず一切の有情衆生を助けることである。しかし、有情衆生の業力やあらゆるものは多種多様であり、不可思議である。もし衆生を救う修行者が世間法にまったく触れていなければ、世間の人々を救うことは容易ではない。
ここで「工巧造作悉能顕現」と説かれているのは、その人が行う一切のことにおいて、何の欠点や不備も見られないということである。なぜリンポチェは、あなたたちのやることに対して非常に厳しく求めるのか。それは、あなたたちが道場や仏寺のために働いており、いわゆる法務チームも含めて、すべてが衆生に奉仕するためのものだからである。布施の観点から言えば、それは法布施の一種である。衆生がいなければ、法布施を行うことはできない。衆生がいるからこそ、法布施を行うことができるのである。したがって、ボランティアであることに誇るべきものはない。なぜなら、衆生がいなければ、誰に布施することができるのか、ということである。
第二に、自分がボランティアをしているからといって、偉いと思ってはならないし、福報が得られると思ってもならない。ボランティアをすることで得られる福報とは、身体が健康になることでも、家庭がすべて順調になることでも、子どもの学業が優秀になることでもない。修行するときに、修行できる福報があるということである。例えば、無上瑜伽部を修する際に閉関を行うとき、福報がなければ閉関することはできない。なぜなら、福報がなければ、食事の世話をしてくれる人もいないからである。また、福報がなければ、甚深なる法を得ることもできない。だから、もう「私たち学仏者は身外の物を重視しない」などという言葉を、私に言わせるな。それは阿羅漢道を修する考え方である。傅姓の弟子はよく聞きなさい。もし阿羅漢道を修するつもりなら、ここから離れなさい。
なぜそのような言い方をしてはいけないのか。それは、菩薩は世間の衆生を救う存在であり、世間の事柄にまったく触れず、あるいは受け入れようとしなければ、どうして衆生の問題がどこにあるのかを知ることができようか。例えば、昨日ある外国人が来て、自分は太極拳を学んでいると言った。私は彼に実際にやって見せるように言い、彼が動いたのを見ると、すぐにどこが間違っているかを指摘した。もし私が若い頃に武術を学んでいなかったら、どうして彼に説明することができただろうか。彼はまた、自分は瞑想もしていると言ったので、私は座って見せるように言った。そして私は「それは仏教ではなく、ヒンドゥー教だ」と指摘した。これが接触である。ここでいう接触とは、すべてを熟知している必要があるという意味ではなく、理解している必要があるということである。例えば、私が仏寺を建てるとき、多くの施工業者やいわゆる専門家が関わったが、最終的には彼らは私に論じ勝つことができなかった。なぜか。それは、私の物事の見方が彼らとは異なっているからである。私は問題点を見つけ出し、彼らにどのようにすべきかを指示することができるからである。
我々の仏寺は8年かけて建立した。長いとも言えるし、短いとも言えるが、これほど大規模な仏寺をこの期間で完成させることができたのは、施工業者が特別に努力したからではない。主導する者に、施工業者を納得させ、従わせて仕事をさせる力があったかどうかにかかっているのである。だから私は日々あなたたちに厳しく言うのである。ボランティアとして働く以上、ミスをする余地はない。ひとたび間違えれば、それは衆生に対して申し訳ないことになる。私に懺悔しに来る必要はない。なぜなら、あなたは私に対して申し訳ないのではなく、衆生に対して申し訳ないからである。間違いを犯して懺悔すれば、それで済むと思ってはならない。心の中の重荷を下ろして、「これで大丈夫だ」と思うのは誤りである。
善き因縁を得てボランティアをする機会があり、福報を積み、仏法を学ぶ機会も与えられているにもかかわらず、あなたたちはいい加減に行い、真剣に取り組まない。やりたくないのであれば、やらなくてもよい。かつて洪姓の弟子が翻訳チームを管理していたが、三年間、一編も翻訳していなかった。彼は衆生に対して大きな負い目があるにもかかわらず、それでも問題ないと思っている。翻訳しないことがそれほど重大ではないと思っているのか。非常に重大である。なぜなら、私が翻訳チームを管理するようになってから、日本の信者が何人か増えたからである。修行者である私にとって、一人増えることは一つの宝である。しかし、彼らはそれを軽く考え、間違えれば謝罪し、懺悔すればよいと思っている。ボランティアをしている者に言っておくが、一度でも重大な過ちを犯せば、即座に退いてもらう。私に謝罪しに来る必要はない。そのための時間はない。あなたたちは本来、間違えてはならない立場である。すべてのことはすでに明確に説明してある。
私ははっきりと、王姓の弟子を医療チームから外すと言ったのに、謝姓の弟子はそれでも彼女に別の仕事を手配してよいかと聞いてきた。リンポチェは謝姓の弟子にこう言った。「今、私をからかっているのか。それとも王姓の弟子がかわいそうだと思っているのか。そんなにかわいそうだと思うのなら、彼女がまだ過ちを犯す前に、なぜ教えなかったのか。あなたは医者で、彼女は看護師だろう。今になっていい人になろうとしているのか。」あなたたちは皆このようだ。問題が起きたときにはリンポチェを悪者にして、自分たちはいい人になる。もし何か問題が起きて衆生に被害が出たら、私は誰に責任を問えばいいのか。
なぜ私が法務チームを解散したのか。毎日びくびくしながら「自分が間違えました」と言うだけである。このもうすぐ退けられる弟子も、先ほどから手がずっと震えていた。何を震えているのか。リンポチェは呵責した。「何に震えているのか、私には分からない。私を欺いているのか。そんなに緊張するなら、やめてしまえ。私が自分でやればよいではないか。カタの持ち方さえ分からず、自分のやり方で渡してくる。あなたは私なのか。自分の好きなやり方で渡せばよいと思っているのか。もう二度目である。」
現代人は皆、自分中心に物事を考えるという過ちを犯している。上師に自分を合わせてもらおうとし、自分が上師に合わせようとはしない。灌頂の際にも、すでに明確に説いているではないか。本尊の加持を祈り、歓喜の心をもって上師に仕えるべきであると。そうであろうか。(大衆:はい。)それにもかかわらず、彼がずっと震えているのは、歓喜の心がないからである。喜びがないのだ。だから緊張しているのである。無理に続ける必要はない。やめればよい。そこに居座るべきではない。もし本当に喜んでいるのであれば、震えるはずがないではないか。私が法王に仕えていたとき、手がこのように震えたことは一度もなかった。私が法王に仕えるとき、手が震えたことがあったか。なかったであろう。なぜ緊張するのか。叱責されることを恐れているからである。なぜ叱責を恐れるのか。それはプライドが強すぎるからである。
これからは、仏寺では司会者は不要とする。なぜ不要なのか。「司儀(司会者)」とは中国語でどういう意味か、説明しなさい。(中国語の教授である弟子が答えた)「ご報告いたします。リンポチェ、司儀(司会者)とは上司の意向に従って、全体の進行を主導する人のことです。」彼女に主導する資格がどこにあるのか。(弟子が答えた)「上司の意向に従って、進行を説明する人です。」つまり司会者は脇役であり、単なる進行役にすぎないのだ。ところが今日のあの司会者はなかなか大したものだ。文章を書いて私に提出し、「これを書きます」「あれを書きます」と言って、リンポチェに「可・不可」をチェックさせようとしている。私は学生なのか。彼女は私に正誤問題を出しているのか。私はそれをすべて消したが、二度目に提出してきたものには、また別の内容が書かれていた。そこで今日、彼らに彼女へこう伝えるよう言った。もしあなたが教師で、校長から司会者を任されたとするなら、毎回話す前に自ら校長に確認し、今回の内容を増やすのか減らすのかを直接尋ねるはずであり、文章を書いて修正させるものではないのではないか、と。(大衆答えた)「はい。」では、このような人をまだ残しておけるのか。彼女は私を操ろうとしているのだ。もし私が一瞬でも見誤り、署名してチェックを入れてしまえば、彼女がそれをもとに話し、すべてが台無しになる。何が台無しになるのか。ある話は私はあなたたちにだけ話すのであって、一般の信者には話さない。あなたたちはよく分かっているはずだ。それを彼女はすべて持ち出してしまうのだ。
法会の日に皆が水を飲めるようにするため、私は龍昇村の村長に命じて水を引き上げさせた。私は彼女にこの仕事をさせてもよいと思っている。なぜなら、私は彼女に多くの収入を得させているからだ。ところが司会者はこう書いた。「リンポチェの慈悲により、村長に水を用意してもらいました。」それでは功績は誰のものになるのか。(大衆答えた)「村長です。」このような人がまだ司会者を務められるのか。あるいは、まだ私の弟子なのか。私はけちではない。リンポチェは決してけちな人間ではない。私は非常に大らかである。しかし、帰依のときに何を言ったのか。上師の功徳を讃嘆することだ。彼女はそれをしていない。こうした人たちはなぜ恐れるのか。それは上師の功徳を讃嘆しないからだ。例えば、あなたが震え上がって、「リンポチェに見られた、知られた、緊張していると分かれば叱られないだろう」と思っている。
経典のこの一句「工巧造作悉能顕現」とは、学仏、とりわけ菩薩道を学ぶ者は、世間から隔絶することではないという意味である。あなたはこの人間の世に生きている以上、学生であれば勉強をしなければならず、働く者であればしっかり働かなければならない。自分が何者であるかに応じて、その役割をきちんと果たすべきである。仏法という言葉を口実にして、本来やるべきことを回避してはならない。それは非常に良くないことである。責任を負うのが怖いからといって、いっそ何もせずに修行すればよい、そうしてこそ修行者らしいのだ、などと思ってはならない。そういうものではない。傅姓の弟子がそのように言うのであれば、なぜ落髪して出家しないのか。それも一つの選択である。これらの出家者はとても楽に暮らしている。住む場所も私のものであり、食事も私のものであり、病気になればその費用も私が払う。すべて私のもので成り立っている。あなたも出家を考えてよい。最近、ある女性の弟子たちが「自分たちは修行者だから、身外の物である宝石は必要ない、買いたくない」と言っていると聞いた。では、私の手に何が着いているかよく見なさい。(大衆:宝石。)菩薩の身に宝石は着いているか。(大衆:着いている。)なぜそのように勝手なことを言うのか。もし私が宝石を身に着けることが間違いであるならば、法王がすでに私に警告しているはずであるし、仏菩薩も必ず私に教えるはずである。
したがって、仏法を学ぶにあたっては迷信してはならない。お経の内容に基づいて語り、行動しなければならない。よろしいか。(大衆:はい。)お経に説かれていないことは行ってはならない。お経に説かれていることは実行しなければならない。この点は非常に明確である。菩薩道を修めるということは、世間の人々から離れて生きることではない。世間で行われていることで、法律に違反せず、因果にも背かないことであれば、たとえ自分がそれを行わなくても、少なくともそれを受け入れ、認めるべきである。「自分は修行者だからこれはしない、あれにも関わらない」といった態度を取ってはならない。例えば、昨日来たあの外国人の件である。私は自分がリンポチェであると名乗ることもできるし、彼に対してその技量が不足していると言わないこともできた。しかし、なぜリンポチェがわざわざ出てきて彼の技量が足りないと言ったのか。私は彼に自分の腕を触らせた。彼は「とても硬くて、つまむことができない」と言った。なぜそうしたのか。彼に納得させるためである。私は神通を示すこともできるが、神通は相手に必ずしも見えるものではない。だから、リンポチェを普通の人と同じだと思ってはならない。私は『宝積経』に基づいて修行しており、決してあなた方の想像しているようなものではない。これらの出家者たちは世間の事に関わらないのは、彼らが出家の身だからである。彼らは菩薩道を歩むところまで至っていない。彼らは出家の姿を現しているので、私はその姿を尊重し、彼らの面倒を見ているが、それがすなわち菩薩道を修めているということにはならない。
世間では在家と出家のどちらが多いのか。(大衆:在家。)出家が悪いとか間違っているということではない。多くのお経は皆に出家を勧めている。なぜか。あらゆる煩悩を断つためである。しかし、私たちには出家するだけの福徳因縁がない。在家のまま仏法を学ぶのであれば、菩薩道を学ばなければならない。菩薩道を学ぶ以上、『宝積経』に説かれている通りに、行うべきことを一歩一歩行わなければならない。自分で勝手に「名目」を作ったり、自分の考えで修行したりしてはならない。そうしても必ず修行は成就しない。例えば、仏寺を建てるとき、さまざまな工法があるが、彼らには思いつかないことでも、私には言い当てることができる。私は学んだことがないのに、なぜ言えるのか。それは私が菩薩道を修しているからである。衆生を利益しようとしているからこそ、諸仏菩薩が自然に私の智慧を開き、人が見えないことを見せてくださるのである。
皆は理解しなければならない。仏を学ぶということは、これほど単純に個人の利益のためのものではない。ちょうど祖師ジッテン・サムゴンが『一意』の中で説いているように、仏菩薩を福の神として拝んではならない。仏菩薩は、私たちを導き、教え、凡夫から生死を離れられる存在へ、さらに菩薩へと転じる道を示してくださるのである。もちろん、それには一定の時間が必要であり、すぐに成し遂げられるものではない。だからこそ、上師が警告することはしっかりと聞き入れなければならない。リンポチェが人を叱るのが好きだと思ってはならない。私が叱るのはすべて根拠があり、あなたたちが個人的にしていることを突然責めているのではない。仏法においては、まず自分が最終的に何をしようとしているのかをはっきりと弁えなければならない。いわゆる「世間法を捨てない」とは、世間において何をするにしても、八風に動じないことである。名誉や利益を争うことなく、因縁に従って物事を行い、名利のために他人を傷つけることはしない。したがって、今日私たちはこれらの「工巧」を理解しなければならない。行いが円満に顕現できるのは、衆生を利益するためなのである。
例えば私が仏寺を建てるときだ。設計図も描けないし、何もできない。しかし多くの工法は私が指示している。林という弟子は来ているか。(弟子:ご報告申し上げます。リンポチェ、本日は来ておらず、仏寺に行っております。)ではもう一人の林姓の弟子に言ってもらおう。この林姓の弟子は最初は(チームには)いたが、後に私が彼を外した。(林姓の弟子:施工の過程で多くの工法に困難が生じたが、会議の際、建築士の弟子がリンポチェに報告すると、すぐにやり方を指示され、その内容を建築士が職人たちに伝えた。現場の責任者も、「このような方法は誰も思いつかなかった」と言っていた。その後はすべて順調に進み、重檐の吊り上げを含め、多くの難しい工法もすべてリンポチェの加持と指導のもとで円滑に完成した。)なぜなら、この仏寺は衆生のために建立されたものであり、私個人のためでもなく、直貢噶舉派のためでもないからだ。これほど清浄な仏寺は、浄土とも言える。私は断言できるが、今の台湾中を見渡しても、これほど清浄な仏寺は存在しない。それなのに、あなたたちが拝観に連れてくる人はますます減っている。これは怠けている証拠だ。皆、国内旅行ばかり行っている。苗栗にも温泉などの名所があり、それも国内旅行だが、なぜ仏寺に来る人が減るのか。それは「友人はすでに行った」「もう聞いたことがある」と思っているからだ。時間があれば、この出家者たちに聞いてみなさい。台湾に、これほど清浄な仏寺があるかどうか。あなたたちは恵まれているのに、それを分かっていない。ただ当たり前だと思っているだけだ。
リンポチェは史姓の会計士の弟子に問うた。「今、仏寺にはいくら資金があるのか。」(報告:仏寺建設のためにはまだ)私は以前、仏寺建設のための費用は一定に達したら受け取らないと話した。現在、あと六百万元足りないのか。(報告:はい。)では私が出そう。来週の月曜日からこの口座は閉鎖する。すでに皆は寄付しなくなっているからだ。あなたたちはリンポチェが人を叱るのが好きだと思ってはならない。私はすべてを計算している。あなたたちに金があるかないかを計算しているのではない。あなたたちがどれだけ実行できるかを見ているのだ。リンポチェは史姓の弟子に言った。「私が六百万元を振り込んだら、この口座は閉鎖する。以後、誰も仏寺に寄付してはならない。ただし、仏寺を参訪した際の寄付のみ受け付ける。」なぜなら、仏法を学んでいない人までもが仏寺に寄付しており、私はそれが非常に不快だからである。しかし誰が誰であるか区別できない。私は以前から、一定に達したら口座を閉鎖すると言ってきた。それがここまで長く達しなかった。あなたたち弟子の忍耐には感心する。あなたたちがやらないのであれば、私がやる。私が出す。泣きながら「リンポチェは大変だ」などと言うな、掛け声を上げるな。実際に行動しなさい。
リンポチェは史姓の弟子に言った。「私が日本から戻り、六百万元を振り込んだ後、この口座を閉鎖する。ただし銀行には、月曜日から日曜日までこの口座での入金を受け付けないように伝える。」私は徹底している。たとえ私の一族が政治的な要因によって崩壊したとしても、我々は決して乞食ではない。この前帰って初めて知ったが、私の一族はかつて非常に裕福であった。
仏法でこれらのことを説くのは、仏が私たちを導くためであり、仏法を単に個人的な理由のために存在する教えだと迷信してはならない。仏法は一切の有情衆生のためにある。将来、衆生を助ける機会を持つためには、多くの準備が必要である。そのため、日常生活や仕事、またボランティアとしての活動の中で、人間社会のさまざまな経験を学ばなければならない。人との関わり方や物事の処し方もすべて学ぶ必要がある。これらの対人処世の方法は、あらゆる信者のさまざまな奇妙で多様な考え方や要求に対応するためのものである。もし仏法を学ぶことが自分のためだけだと考えるならば、決して進歩することはない。また、あなたたちに対してスマートフォンを見続けたり、インターネットでいろいろな情報を見ることを勧めているわけでもない。実際には、私たちの道場や仏寺の中で、外では学べない多くのことを学ぶことができる。しかし、あなたたちはそれを心に留めておらず、ただリンポチェが人を叱っているだけだと思っている。もしあなたたちが、この私のやり方を日常生活の中で用いるならば、必ず問題は起こらない。しかし、皆がそれを聞き入れなければ、どうすることもできない。
経典曰く「而菩薩摩訶薩於禪定波羅蜜多平等入解。而復出生智慧方便。不為大悲心緣之所隨縛。」
平等心はとても重要である。もし平等性智を開いていなければ、自分自身も衆生も助ける能力はない。なぜなら、人は良いことと悪いことをはっきり分ける習慣があり、自分に対する要求やプライドはよく分かっているが、衆生のことについては分かっていないからである。於禪定波羅蜜多平等入解というのは、もし禅定の中で平等性智を修得していなければ、絶対に衆生の煩悩を解く方法に入ることはできないという意味である。衆生に煩悩があるのは、不平等な心があるからであり、その不平等な心は我執から生じる。では、どのようにして我執を破るのか。それは「自分」という存在がなくなるということではなく、自分のこだわりや、自分の利益を考えることがすべて我執であるということである。自分が叱られたくないと思うこともまた我執である。なぜお香を一本差し出すだけで手が震えるのか。それは我執である。うまくやりたい、叱られたくないと思うから、自然に震えるのである。私が昔、武術を学んでいたときもはっきり分かっていた。緊張すると、拳を打っても力が出ない。なぜ緊張するのか。武術を学ぶ者が打たれるのを恐れるなら、そもそも学ぶべきではない。緊張するのは、打たれるのを恐れているからである。
リンポチェは、お香を持って手が震えている弟子に尋ねた。「お前、ここを離れることを考えたことはあるか?」(弟子は首を横に振る)「首を振るな。お前は変われないと私は見ている。何を緊張しているのだ?何歳だ?」(弟子報告:26歳です。)リンポチェは、謝姓の医師の弟子に尋ねた。「26歳でパーキンソン病の人を見たことがあるか?」(報告:見たことがありません。)リンポチェは、手が震えている弟子に言った。「26歳でどうして震えるのだ。謝先生のところへ行って診てもらいなさい。健康保険でカバーされる。」「美女を見て緊張して震えるならまだ分かるが、私はただの年寄りだ。何を震えることがある?」リンポチェは、謝姓の弟子に言った。
「もし彼が診察に来たら、しっかり検査しなさい。パーキンソン病なのか、それとも神経に問題があるのかを見なさい。」(答:はい。)リンポチェは、手が震えている弟子に言った。「行けと言ったら行きなさい。行かないなら追い出す。」「私は初めて見た。26歳で物を持つと震える人間を。ハタを差し出すときも、わざわざ回り込んで私に渡すのか。私がお前に合わせなければならないのか?」(弟子答:いいえ。)
平等性智が生じたとき、どのようにして衆生(自分自身も含む)の煩悩を解きほぐすかに入り、「而復出生智慧方便」。煩悩が重い者は、絶対に智慧を生み出すことはできない。煩悩が重い者は、自分に智慧があることを見ない。煩悩が重い者は、何が智慧であるかを理解しない。この震えている者は、まさに煩悩が重い。あの司会者をしている者も同様に、煩悩が重い。彼には平等心がない。これは彼を責めることではない。六波羅蜜を修めていないからであり、これは衆生の共通の病である。禅定の中で平等性智を生じることができたとき、智慧と方便は自然に現れる。智慧がないまま衆生を助けようとしても、方便の法門は現れない。例えば、仏寺を建てるとき、私がいくつかの工法を語ることができるのは、私が学んだわけではない。私は分からないし、図面も描けない。理由は平等性智にある。私は物事を見るとき、個人の得失や、どう儲けるか損をするかでは見ない。これらの工事の人たちはとても大変である。どうすれば彼らにいくらかの助言ができるか、そう考えると自然に出てくる。彼らがうまくできるかどうかを恐れているのではない。考え方は、どのように衆生の煩悩を解決するかにある。こちらの工事の人たちがなかなか上手くできなれば、彼らはとても悩むことになる。
だから菩薩道を修するには、この過程を必ず理解しなければならない。ある弟子がアキ護法の法照を求めに来た。私は彼に、どこに安置するのかと尋ねた。彼は「自宅の壇城に置きます」と答えた。私は言った。「あなたの父親が壇城の上にいくつかの物を置いている。帰ってきちんと確認しなさい。」彼は、法照を求めるときにリンポチェが彼の家の供卓の様子まで見ているとは思っていなかった。彼は言わなかったが、供卓の中に仏卓を掃除する道具を入れており、さらに花の咲かない植物の鉢も置いていた。私は言った。「その花は咲かないのに、なぜ仏卓に置くのか。」あなたたちは清掃用具を仏卓の中に入れているが、なぜ寝るときに箒や雑巾を抱えて寝ないのか。完全に仏菩薩を尊重していない。皆に聞くが、箒や掃除機を抱いて一緒に寝るだろうか?寝ないだろう。では、なぜ仏は清掃用具を引き出しの中に入れられてもよいのか。それは「作業のために便利だから」である。この一点から見ても、彼の家族全員が仏を信じておらず、因果も信じておらず、恭敬の心もない。ただ加護だけを求めているのである。
仏菩薩は、このような人を加護するだろうか。一鉢の花も咲かない植物を供卓に置いている。彼は言わなかったが、私には見えている。新しいものに替えるのが惜しいのである。私は昔、食べるお金もなかったが、それでも仏菩薩に供える花は必ず一番新鮮なものを買っていた。言ったことがあるだろう。(大衆答:ある)耳に問題があるのか、それとも記憶力に問題があるのか。リンポチェは謝姓の弟子に言った。「また一人、患者を紹介しよう。この者は記憶力に問題がある。」
リンポチェがこれらのことを言うと、あなた方は冗談だと思うかもしれないが、実際にはそうではない。すべてあなた方一人ひとりの問題である。自分にとって都合の悪いことは、すぐにきれいさっぱり忘れてしまう。だが、本当にあなた方にとって役に立つことは、すべて細かいところにあるのである。もし仕事に対して敬意を持たない習慣が身についているなら、仏法に対して敬意を持つはずがない。今回、清掃用具を置いたが、次は食べ物を置くようになるだろう。でたらめな態度で仏法を学んでいるのである。
「不為大悲心緣之所隨縛」とは、あなた方にとっては矛盾しているように聞こえるであろう。慈悲を修めよと言いながら、ここでは「不為大悲心緣之所隨縛」と説いているからである。その意味はこうである。慈悲は用いるものであるが、その慈悲をどのように用いるかを決めるのは智慧である。たとえ衆生が苦しんでいるのを見て助けたいと思っても、もしその果報がすでに定業となっているならば、助けることはできない。また、その人が改めないと分かっているならば、私は助けない。助ければかえって、その人がさらに悪事を重ねる原因となるからである。私たちは慈悲を必要とする。しかし、その慈悲の背後には必ず智慧がなければならない。すなわち、慈悲と智慧は双運でなければならないのである。六波羅蜜を修めていないまま、むやみに人を助ければ、誤って助けてしまっても、それに気づくことすらできない。お経には、ただの「お人好し」であっても同様に地獄に堕ちると説かれている。なぜなら、智慧がないからである。
智慧とは、相手の来歴や因果関係をはっきり見極めることである。ある人が済度を求めて来ても、私はわざと分からないふりをすることがある。それは縁があるかないかの問題ではなく、その人に済度を受ける福報がないからである。福報がないまま無理に助ければ、別の問題が生じる。その人の眷属が仏法を批判するようになりかねない。だから最初から行わないのである。例えば、以前ある弟子が現金二千万円を供養しようとしたことがあったが、私はずっと受け取らなかった。なぜなら、その人の父親が供養に反対しているのが見えていたからである。実際、その父親もかつて息子が私に供養することに反対していたと認めている。今、その父親はすでに亡くなっている。もし私に智慧がなく、ただ慈悲だけで「受け取れば彼に福報ができる」と考えて受け取っていたならば、その父親が口業を起こし、上師や仏法を批判することになる。それでは、かえって問題が大きくなるではないか。だから、私の出家弟子は供養を受け取ってはならないのである。なぜなら、彼らには供養を受け取ることで衆生に利益があるかどうかを判断する智慧がまだないからである。むやみに受け取れば、かえって問題が起こる。
この言葉は、慈悲を持つなと言っているのではない。慈悲はとても重要である。しかし、智慧を修していないのに、一日中仏の言葉ばかり口にし、自分が口業を犯していることにも気づかず、それでも自分は立派なことを言っている、修行している仏弟子だと思い込んでいる。例えば、ある弟子が「仏法を学んでいるから、珠宝のような身外の物は必要ない」と言ったが、これはまさにそういう人であり、結果的に私を批判していることになる。私は四十年以上も珠宝の事業に携わってきたが、それならば私が持っている宝石をすべて道路に投げて、あなたたちに拾わせればよいのか。私は腕に数珠をつけていないし、外に出ても誰も私がリンポチェであるとは分からない。それは控えめにするからではなく、縁のない人の中にわざわざ入り込む必要がないからである。見て、笑って、それで終わればよい。縁のある者にだけ、私は手を差し伸べる。もし六波羅蜜を修せず、慈悲だけあって智慧がなければ、必ずその慈悲に縛られることになる。「相手を助けなければならない、助けなければ慈悲がない」と思い込むが、本当にそうなのか。
ある人はポワ法を求め、極楽浄土への往生を願って来るが、私はそれを与えないことがある。それは、その人にその資格がないからである。もし私が無理に助けて浄土へ行かせようとすれば、その人は安心してしまい、「死ぬ前に修行しなくてもよい、ただ待てばよい」と思い込んでしまう。しかし、実際に死を迎えたとき、福報が足りなければ浄土へは行けない。そのとき中陰の身となってから、彼は文句を言い始めるであろう。それはかえって彼を地獄へ堕とす原因となる。だから、時にあなたたちは「リンポチェは冷酷だ」と思うかもしれない。人が死にかけていて浄土に行きたいと願っているのに、私は引き受けないからである。しかし、私は智慧をもってこのことを見ているのである。もしリンポチェに慈悲がなければ、どうして人のためにポワ法を修し、済度を行うことができようか。だが、何をするかは智慧によって決めなければならない。今は助けないからといって、今後も助けないという意味ではない。来世かもしれないし、十数世後かもしれない。法王猊下が私に授けてくださった長寿祈請文には、私は百劫この世に留まると書かれている。一劫とは、成・住・壊・空を一巡することであり、それを一回と数える。その一劫の往復は、およそ百億万年以上の時間である。したがって、この一生において私と縁を結んだ者は、必ずどこかの世において再び私と縁を結ぶ機会がある。いつの世かは分からないが、重要なのは、そのときあなたにその因縁と福報があって、私に会えるかどうかである。
経典曰く「觀察有情平等入解。方便寂靜極寂靜等。是名智慧。令佛智慧不現在前。是名方便。」
この一段は、私たちに慈悲を持つなと言っているのではない。しかし、慈悲に縛られて智慧を用いずに行動してはならない、という意味である。だからこそ、「觀察有情平等入解」である。すなわち、智慧によってこの衆生を観察し、平等の心でその苦しみを解きほぐしていくのであって、ただ頭を下げて「自分は慈悲の心で必ず助けなければならない」と思い込むことではない。また、「他人は慈悲がない、あの人は助けない、私を助けてくれない」と言うものでもない。以前、ある弟子が自分で過ちを犯しておきながら、なおも助けを求めに来たことがあった。私が助けなかったために、「リンポチェには慈悲がない」と言って去っていった。しかし、どうやって助けるのか。自ら法律を犯しておきながら、どうして助けられるのか。私は常に「貪ってはならない」と教えているのに、それを聞かず、罪を犯してから来て「何事も起きないようにしてほしい」「刑務所に入らないようにしてほしい」と願う――そのようなことは不可能である。
今日の要点は、仏法において慈悲をただ安易に用いるものではなく、その背後には必ず智慧の支えが必要であるということである。智慧によって衆生の因縁の来し方を見極め、どのように助けるべきかを理解し、正しい考え方を与えなければならない。もし相手が受け入れることができるなら、当然すぐに改めることができる。しかし受け入れられないのであれば、そのままにして待つしかない。それがいつの世になるかは分からない。あなた方がこの一生において浄土へ往生を確定できず、生死からの解脱を確定できないのであれば、何度輪廻することになるのか、私には知る条件はない。しかし、輪廻のたびに苦しみを受けることになる。ゆえに、仏法を学ぶのは表面的なことのためではなく、最も重要なのは輪廻から解脱するためである。また、解脱を学ぶ過程においても、世間のさまざまな事をすべて捨てて何もしないということではない。この「度合い」をどのように保つかが極めて重要であり、それは上師があなた方を導いてそのバランスを取らせるものである。何事も過度に行ってはならず、越えてはならない範囲を守り、自分の本分の中で行うべきである。分を守り、身のほどをわきまえることができれば、多くの災いは自然と自分の身に降りかからなくなるのである。
「方便寂静極寂静等。是名智慧」とは何か。ここでいう「寂静」という概念は、音が聞こえず静まり返っている状態や、何も存在しない状態を指すのではない。寂静とは、自分の煩悩が静まり、動かなくなることを意味する。では、どのようにして煩悩を定めて動かなくさせるのか。それは智慧によるのである。密教において言えば、無上瑜伽部の修行によって、その場で煩悩を定め、寂静不動の状態に至ることができる。煩悩が寂静となると、自然に智慧が現れる。なぜなら、煩悩が智慧の光を覆い隠しているからである。煩悩というエネルギーを定めて動かさなくしたとき、その内側から智慧の光が現れてくる。智慧の光が現れると、仏法の智慧と結びつき、例えば一つの真言を唱えるだけでも、他人が百万回唱えるよりも大きな力を持つようになる。したがって、「寂静」を修するとは、ただ静かに座って何もせずにいることではない。密教において寂静に至るためには、多くの法門を修し、気脈や明点などを修める必要がある。そうして初めて煩悩を静めることができ、智慧が現れるのである。智慧が現れれば、あらゆる物事を判断するとき、すべて因果と因縁に基づいて処理することができ、自分の私利のために物事を判断することはなくなるのである。
「令佛智慧不現在前。是名方便」とは何か。この一句は一見すると矛盾しているように見える。我々は仏の智慧を必要としているのではないのか。しかしここでは、あえて「不現在前。是名方便」と説き、なぜなら、仏の智慧が現前したとき、それはすでに一切が円融し、円満し、まさに仏果を証しようとする段階に至っているからである。しかし、衆生の中で仏果を証することができる者はごくわずかである。もし我々が仏の智慧そのものを用いて衆生を助けようとすれば、それは高圧の電流をそのまま相手に流し込むようなものであり、衆生はとても耐えられない。したがって、仏の智慧は「体」であって、「用」ではない。我々が用いるのは慈悲であり、また方便の智慧である。仏の智慧の「体」は確かに存在しているが、それをそのまま用いるものではない。「体」と「用」は別のものである。この点を理解しているのか。(出家弟子:理解しました。)リンポチェ:「どうだ?」(出家弟子:素晴らしいです。)リンポチェ:「どこが素晴らしいのだ?」(出家弟子:リンポチェが体と用について説かれ、体と用が同時でもあり、また分けられることを明らかにされた点です。)経典には「体用」という言葉は明記されていないが、私はそれを説くことができる。これもまた空性の中から現れる智慧である。今日はここまでとする。これ以上説けば、あなた方は頭がくらくらしてしまうだろう。
謝姓の弟子のように賢いのでありながら、王姓の弟子に「一枚噛めるか」とまで言うとはどういうことか。幸い、謝姓の弟子はすでに引退しているが、もし現役の頃であれば、彼の妻の性格からして間違いなく問題になっていただろう。リンポチェは謝姓の弟子に問いかけた。「王姓の弟子には夫がいるではないか。なぜそこまで彼女に親切にするのだ?私の言ったことを、まだ覆すつもりか?それほど彼女に良くしてやりたいのなら、今はもうあなたの妻もそれほど金を必要としていないのだから、毎月の収入を王姓の弟子の夫に渡したらどうだ?」(謝姓の弟子は沈黙する)「少しは反応しなさい。」(謝姓の弟子:感謝いたします、リンポチェ。この一言で弟子の愚かさに気づきました。)「愚かだなどと言うな。愚かで医師免許が取れるものか。あなたは十分に賢いのだ。愚かなのは我々の方である。我々は何の資格も持っていない。私はただ仏菩薩から授かった免許を持っているだけだ。あなた方のような賢い人間は、多くの資格を持っている。」
あなたは独りよがりで、自分は専門家だと思っているのだろう。「人が一人増えれば、使い勝手がよいではないか。彼女もこれまで長く道場に貢献してきたのだから、なぜこんなに情け容赦なく、もう不要だと言うのか。私が代わりに弁護してあげようか」と考えているのだろう。しかし、これは情けがないという話ではない。私自身も、道場も、これまで長年にわたり王姓の弟子を信じてきた。それにもかかわらず、彼女は医療チームをきちんと整えることができなかった。彼女は私に対して責任を果たしているのか?道場に対して責任を果たしているのか?それなのに、まだ彼女のために弁護するのか。私は今、あなたの上師として、公の場であなたの妻に伝えておく。あなたの夫と王姓の弟子の間には、絶対に何もない(大衆笑)。私はGuarantee(保証)する。では、なぜあなたの行いは人に誤解を与えるのか。私は今になってようやく分かった。なぜ以前、あなたの妻があなたをあれほど厳しく管理していたのか。それは、あなたが日頃から人に誤解されるような行動ばかりしているからだ。しかし本人にはその自覚がない。本当に感心する。もう自分を愚かだなどと言うな。もし愚かであれば、そのような妻を娶ることはできなかったはずだ。あなたの妻は非常に賢いのである。だからこそ、あなたも愚かではないから彼女と結婚できたのだ。護法を修しなさい。
リンポチェは、参会した大衆を導いてアキ護法の修法および回向の儀軌を修した後、開示された。
来週の土曜日、仏寺にて法会を開催する。午前9時30分から11時30分まで行い、その間に30分の休憩を挟み、その後は12時から2時まで修法を行う。だから少しお腹が空くかもしれないが、餓死することはないだろう。(大衆:ありがとうございます、リンポチェ。)私には関係ない。弁当を出すのも私ではない。今回の法会には合計で1800名が参加申込みをしており、さらに多くのキャンセル待ちがいる。何人いるのか?(担当の弟子:ご報告申し上げます、リンポチェ、まだ58名おります。)少し大げさに言ってもよいが、年末まで台湾のどの仏寺でも、1800人規模の法会が開催されることはまずないだろう。理由はいくつもあるが、最も重要なのは、寶吉祥仏寺にこれだけの人数を収容できる広さがあるという点である。実際には2000人以上収容可能だが、私は2000人にはしたくない。1800人でちょうどよい。2000人になると、交通やその他さまざまな面で対応が難しくなるからである。
多くの人は、「一回くらい法会に参加しなくても大丈夫でしょう?」と思っている。大丈夫だ、本当に大丈夫だ。ただし将来になってから問題が起こるだけだ。私は以前、皆にこう話したことがある。私は今79歳だ。たとえあと10年生きられたとしても、あなたたちはあと何回私に会えるだろうか。自分で計算してみなさい。一回くらい参加しなくても、あとで取り戻せばいいなどと思わないことだ。はっきり言うが、取り戻すことはできない。なぜか?それは仏法を軽んじているからだ。お経には明確に説かれているが、どのような理由があっても仏法を軽視してはならない。もし仏法を軽視すれば、『地蔵経』に説かれている通り、その果報は非常に悪い。帰って自分で読んでみなさい。リンポチェは、あなたたちに法会へ来てもらう必要があるわけではない。今でも五十数名のキャンセル待ちがいる。全員来てもいいと言うこともできるだろう?しかし、なぜ許さないのか?それは私の原則だからだ。1800人と言ったら1800人、それ以上は認めない。なぜ1800人に定めたのか?先ほども言ったように、多くの要因がある。交通手段や食事など、すべて私の考慮の範囲内にある。本来、法会に参加するのに食事など必要なのか?皆、まるで餓死するのを恐れているかのようだ。あなたたちは餓鬼道から生まれてきたのか?一食抜いたくらいでどうなるというのだ。何も起こらない。
来週の土曜日は緑度母の法会を行い、その翌日の日曜日は法会は行わず、あなたたちを休ませる。なぜなら、旧正月には多くの用事があるからだ。その次の最後の日曜日には、上師供養法を修する。そして、すでに帰依の申し込みをし、私が承認した者については、帰依儀式も行う。その後は旧正月に入る。つまり一年がまた過ぎてしまうのだ。私はもう何年もない。あなたたちも同じく、何年もあるわけではない。それでも法会に来ずに過ごし続けるのか。仏法は少しずつ積み重ねていくものであり、一日で身につくものではない。録音を聞いたり、経典を読んだりするだけで修行していると思うな。そんなものは全く修行ではない。いわゆる世俗的な仏法を、この道場に持ち込むな。私は実際に修行し、実際に証得している上師であり、その実修実証によってあなたたちを教えている上師である。私はこのようなことを決して許さない。信じないのであれば、ここを離れなさい。
リンポチェにとって、衆生の来るも去るもすべては縁である。私は気にしない。どのような身分や地位であっても同じである。なぜなら、私は縁というものをとても信じているからだ。縁が尽きたのであれば、去りなさい。無理に留まる必要はない。残っても、あなた自身が苦しいだけではないか。多くの人はお金を稼ぐことが大事だと思っている。そうだ、お金を稼ぐことは確かに重要だ。お金がなければ生活できない。しかし、問題はそこにある。福報がなければ、たとえお金を稼いでも、それを保つことはできないのである。
だから今日、リンポチェが行うすべてのことは、私にとっては世間法である。たとえば、私が口座を閉じると言えば、自分で600万元を出さなければならない。なぜそんなことをする必要があるのか。あなたたちに仏法を教えながら、さらにお金まで出す上師など、そんな愚かな上師はいない。だから、どうか余計なことを私に言ってくるな。私は決断するときは徹底している。これほど長く待っても、その金額に達しなかった。ならば、いい、私が出す。たとえ私にそのお金がなかったとしても、これ以上あなたたちから仏寺建設のための供養は受け取らない。なぜなら、あなたたちにはその福がないからだ。あなたたちはその福を望んでいないのである。
私はとても簡単に考えている。拝観に来る人はだんだん少なくなっているのに、法会には1800人も集まっている。これは何を意味するのか。法会に参加するほうが利益があるからだろうか。どうかこのように修行者を軽んじるのはやめてほしい。私がこのように清浄な仏寺を建立したのは、皆が参拝できるようにし、多くの衆生が常に仏菩薩と縁を結べるようにするためである。あなたたちはあの土地がどれほど清浄であるかを知らないし、私が毎日どれほどのことをしているかも知らない。最初、彼らが死んだ虫を乱雑に捨てたとき、私は彼らを叱った。今では毎日、多くの虫を回収している。十数匹、二十数匹にもなる。これを見れば、この世にどれほど多くの衆生が絶えず輪廻しているかが分かるだろう。この仏寺は、あらゆる衆生を救うためのものである。毎日、多くの昆虫が死んでいる。さまざまな虫が現れる。彼らは本来、森の中で死ぬこともできるのに、なぜわざわざ作業員の目に見える場所で死ぬのか。それは、これらの畜生や虫たちが、ここで死ぬことで、仏号を唱えてもらえる機会や、済度してもらえる機会があると知っているからである。
この仏寺を軽く見てはならない。現在の台湾において、建てる前に四つの火供を修し、建てた後にもさらに四つの火供を修した仏寺は一つもない。すなわち、息・懐・増・誅の四種の火供である。チベットにおいて火供を修ぶには、最低でも五年間の閉関修行が必要である。現在の台湾には、このように火供を修めることのできる者はいない。これほど素晴らしい土地であるにもかかわらず、あなたたちは自分の親族や友人に勧めて仏法の福報にあずからせようとせず、ただ自分が少しでも多く得ようとばかり考えている。本当に嘆かわしいことである。
旧暦の年が明けて、来年の午年には、私が閉関する時間が多くなる。そうなれば、あなたたちが私に会える時間も次第に減っていく。いずれは、叱られたくても叱られることもなくなる。もう叱らない、いいだろう。あなたたちは自分たちの毎日を、楽しく、気楽に過ごせばよい。来年は私が閉関に入るので、もう叱ることはない。あとは好きにすればよい。どこまでやれるか、好きなだけやってみなさい。もし私が、あなたたちがやはり成長していないと判断したなら、道場を閉鎖し、建物も売ってしまうかもしれない。もう意味がないからだ。これほど長く帰依していながら、仏壇の中に掃除道具を置いたり、花も咲かない植物をそのまま置いている。誰も何も感じないのか。これほど仏菩薩に対して無礼であるのに、私は何のために教えているのか。これほど苦労しているのは何のためか。史姓の弟子よ、月曜日に銀行へ「この口座は入金を受け付けない」と伝えなければ、あなたを追い出す。聞いたか。(答え:はい、聞きました。)今日は以上だ。
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2026 年 02 月 10 日 更新