尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年10月12日

リンポチェは出家衆に指示して会衆を導かせ、皈依発心・七支供養・『随念三宝経』・『仏子行三十七頌』・『八聖吉祥祈祷文』を念誦させた。その後、リンポチェが六字大明呪を持誦されると、御身および壇城より金色の光が放たれ、会場にはこれまで以上に妙なる香気が満ち、参会者一同の身は熱を帯び、煩悩は静まり、リンポチェの殊勝清浄なる仏法の教えを専心して受け取ることができた。 

続いて、リンポチェは尊い仏法の開示を賜ったものである:

経典曰く:「又復入解他心智力。而此有情行布施因。於未來世得布施果。又此有情行淨戒因。於未來世得淨戒果。又此有情行忍辱因。於未來世得忍辱果。又此有情行精進因。於未來世得精進果。又此有情行禅定因。於未來世得禅定果。又此有情行勝慧因。於未來世得勝慧果。又此有情行大乘因。於未來世得大乘果。」

この一節の意味は、過去世や今生において六波羅蜜を修してきたなら、未来世において必ずその果報を得て、修行の道を歩むことになる、というものである。したがって、皆は自らを省みて、六波羅蜜を修しているかどうかをよく観察すべきである。もし修していないのであれば、それは過去世において六波羅蜜を修してこなかったことを意味する。今、上師の開示を聞いたこの機会に、この一生のうちに直ちに修行を始めなければならない。もし法を求めず、ただ聞いただけで修行できると思うなら、それは決してあり得ないことである。

 「而此有情行布施因。於未來世得布施果。」——と経に説かれているが、皆さんは「お布施」と聞くと、供養金を包んだり、お寺に寄進したりすることだけが供養布施だ、しかもそれを上師と相談した上で行う必要がないと思っている。しかし、それを上師と相談もせずに行うならば、それは布施とは言えない。なぜなら、それは“自分が”布施をしているだけだということである。今、多くの人が陥っている過ちがある。それは「仏教の修行は上師が教えるのではなく、自分がするものだ」と思い込んでいる。「上師がこう言ったから、自分もそうやっている」と、だから上師とは関りがない。私は十一月に長時間の「上師供養法」を修する予定である。その法本には繰り返しこう記されている——「上師なくして修行は成り立たない」 と。かつてガムポパ大師も、末法時代には上師の恩を真に覚えている者はごくわずかであると説かれた。それゆえ法本の中でも繰り返し「上師の恩を忘れてはならない」と戒めているのに、皆さんはその恩を思い出すことができていないのである。

なぜ先週、あの三人の弟子を叱ったのか?それは、彼らが上師の恩を忘れていたからである。上師の恩を覚えていなければ、上師が伝える法を心に受け取ることもできず、実践することもできない。今、皆はこの道場をまるで「ビュッフェ」のように思っている。自分の好きな法だけを選び、都合のよいところだけを取っていく。昨日も何人かの若い弟子たちが法本を求めに来たが、いろいろな法本は求めても、「上師の長寿祈請文」だけは求めなかった。しかし、上師の長寿祈請文を唱えたからといって、上師が長生きするということではない。これもあなた方とは関係がない。『リンチェンドルジェ・リンポチェ長寿祈請文』は、私の根本上師であるチェツァン法王から賜ったものである。では、なぜそれを皆に唱えさせるのか?それは、皆が私の功徳大海の中に入るためである。上師が長寿であれば、弟子たちもまた長寿となる。

昨日、何人かの若い弟子たちが長寿祈請文を求めなかったのは、まさに師長を敬う心が欠けている証拠である。浄土宗において、最初に得られる福報は「師長への礼敬」である。これを怠れば、当然ながら修行も進まない。まるで、これらの男性が叱られるのを怖がり、師長をも敬わないようなことと同じである。学ぶということは必ず叱られ、時には打たれ、顔をつぶされる覚悟が必要である。このことから、私は今、これらの男性について次の世でこの果報を得ることは絶対にないと判断できる。なぜなら、今生で修していないからである。つまり、彼らの過去世もまた修行してこなかったのである。決して「聞いただけで修行できる」と思ってはいけない。そうなら、修め得ることができない。布施のように簡単なことですら、修め得ることができない。単にお金を出すだけでは布施が成り立つと思ったら、それは間違いだ!

最近、入浴中に突然亡くなった男性弟子がいる。彼は皆よりもずっと多く布施をしていたにもかかわらず、なぜそのような死を迎えたのか?それは、彼の果報が本来非常に厳しいものであったためである。しかし、布施を行ったおかげで、交通事故などの災難によって命を落とさずにすむのである。私が彼を知ってから往生するまでの間、彼は多くの上師への不敬な行為をしていた。これらの男性と同じく、「上師に従っているから、自分は毎日読経していればいい」と思い込み、法を求めに来なかったのである。私はスポーツカーを走らせているようなもので、皆はその尾灯すら見えない状態だ。だから、私の後を追うことなど到底できないのである。 

皆、驕り高ぶっている。たとえば、ある男性弟子たちは、リンポチェをとても怖がり、私に会いに来ようとしなかった。こうして、死の際に私に会えないという果を自ら作ってしまっているのである。「毎週日曜に法会に一度参加すれば、すべてを得られる」とでも思っているのか?もしそれほど簡単なら、私があんなに厳しい閉関をする必要はない。現在、法王も次の生のために閉関している。皆は何だと思っているのか。毎週日曜に少し話を聞くだけで、自分は修行していると思い込んでいるのか?今、皆がやっていることは、信徒より少しだけ進んだ「皈依弟子」の状態でしかない。皈依弟子は当然仏法を学ぶべきであるが、皆は学ぼうとせず、「毎週聞いただけで分かったつもり」になっている。布施一つにしても、皆は徹底的に、心の底からやり切っていない。私はかつて、食べるお金がなくても、仏や菩薩への花や果物は絶対に欠かさなかった。皆はそれができるのか?家賃を払うお金もなかったが、以前の最初の直貢噶舉センターの家賃を優先して支払ったこともある。皆はできるか?直貢梯寺の黄金の屋根を建てる資金がなくても、物を売って資金を工面した。皆はできるか?皆は何も出すことを惜しんでいる。だから、自分には布施をしていると思い込んではいけないのである。

今日の昼、私は大直で会社の会計士を非難した。本来、私の持呪が使われた着信音・発信音は協会に収入が入るはずだったのに、彼女は約1,000元程度の収入が少ないと不満を述べ、電信会社に取り下げさせた。協会が1,000元程度を受け取ると税金を払わなければならないという理由である。毎週、皆は私の開示を2時間聞くために1,000元を納めている。少し余裕のある人はもっと多く納めることもある。それなのに会計士は1,000元では少ないと思ったのだ。しかし、上師はそれほど苦労して法会を行い、修行を重ねて、ようやく一人当たり平均1,000元になるのである。これは皆とお金を争っているわけではない。ただ伝えたいのは、自分は修行していると思い込んではいけないということである。上師の言うことを聞かず、上師の教えた通りに行動しなければ、それは修行とは呼べない。単に法会に参加しただけでは、未来世の人天福報を得ることはできるかもしれないが、今生においてはまったく役立たないのである。 

私は常に、皆が懺悔の大切さを理解するよう強調してきた。数日前、ある女性弟子が癌で亡くなった。彼女は今年5月に子宮内膜癌と診断されていた。普段は誰にも会わず、発病して初めて私のもとに来たのである。これは彼女にお金がなかったからではない。普段から私に会いに来ていなかったのである。先ほど話した、浴槽で亡くなった男性弟子と同じように、彼はお金があったが、全く私に会いに来なかった。この女性弟子が発病して私に会いに来た時、私は率直にこう言った。「あなたは多くの悪行をしてきた。懺悔していないので、癌末期には非常に苦しむことになる。私はあなたを助けることはできない。」私はこれまで、このようなことを言ったことはなかった。そうだろう?(大衆:はい、そうです。)

ここに座っている多くの弟子の中で、癌になった者が私のもとに来たことがある。私はこれまで、「死ぬ前に痛みがなくなる」と保証したことがあるか?(大衆:はい。)しかし、現実は私の言った通りであった。彼女は死の前日、1日に3回、5回、6回もモルヒネ注射を打っても痛みは止まらなかった。ある弟子がそのことを私に伝えた。私は言った。「彼女は懺悔していないからだ。」その後、この弟子は私の言葉を伝えるため、彼女を見舞った別の弟子に伝言を頼んだ。その見舞った弟子が彼女にこう言った。「リンポチェが、あなたは懺悔していないと言っています。」すると彼女は口を開き、懺悔を始めた。懺悔の対象は私ではなかったが、私の言葉を通して行ったため、実質的には私に対しての懺悔となった。彼女は長く懺悔し、その日のうちに亡くなった。元々、病院はモルヒネを与える準備をしていたが、注射では効かず、もし経口でモルヒネを服用していたなら、この一生の終わりに三悪道に堕ちることが確実であった。

なぜ先週、皆に金剛薩埵灌頂を授けたのか?それは、皆が全く懺悔しておらず、「自分は悪いことをしていない」「特に問題は起きていない」と思い込んでいるからである。死の直前になって、これまでの行いの清算がやってくる。浴槽で亡くなった男性弟子は、この「清算」がやってきた者である。しかし、彼は生前に絶えず供養していたため、ポワ法を得ることができた。一方、癌で亡くなった女性弟子には、ポワ法を受ける機会はなかった。これは金銭の有無とは関係ない。彼女は生前、懺悔をせず、「自分は悪いことをしていない」「たいしたことではない、殺人もしていない、今はもう菜食している」と考えていたのである。

皆はこのような考え方を持っている。特にこれらの男性は修行していない。だから、自分の業の責任は自分で負わなければならず、私が代わりに負うことはできない。私はせいぜい、業の影響があまりにも厳しくならないようにし、業力が強すぎて私の声すら届かないうちに去ってしまうことのないよう努めるしかない。幸いにも、この女性弟子は死ぬ直前に一瞬の閃きが訪れた。痛みがあまりに酷かったため、ようやく懺悔したのである。モルヒネ注射でも痛みが止まらなかったことからも、どれほど苦しかったかが想像できる。病院は彼女に経口モルヒネを与えようとしたが、それは全身を麻痺させることになり、実質的には麻薬の使用と同じことになる。 

だから、皆は自分が六波羅蜜を修行していると思わないでください。これには出家者も含まれる。最も深刻なのは、30年出家している男性出家者である。彼は全く六波羅蜜を修行していない。なぜなら、彼の話はいつも同じ内容ばかりで、「六賊作父」「真假の区別がつかない」といったことだけを繰り返している。単に用語を話しているだけで、六波羅蜜そのものを実践していない。だから、未来世に六波羅蜜の果を得ることは絶対にできない。これは仏が説かれたことである。私がこの一生で六波羅蜜を修行できたのは、過去世に実践してきたからである。たとえ完璧でなかったとしても、必ず実践していたからこそ、この一生で良き上師や縁ある伝承に出会い、この世で多くの衆生を利益することができるのである。

皆はいつも、「少しお経を唱えたり、礼拝したり、道場から離れさえしなければそれでよい」と考えている。しかし、それは確かに良いことではあるが、死ぬ時になって初めて役立つのである。今回の女性弟子のように、最後に私に会いに来ることもなく、せめて一言残そうともしなかった。彼女が貧しかったわけではなく、すべての供養を後回しにし、死んでから初めて行ったのである。浴槽で亡くなった男性弟子の息子も、ずっと「御恩にお礼を申し上げたい」と言っていた。私は会わなかった。理由は二つある:まず、言うことを聞かず、菜食もしていない。次に、お礼を言えばすべてが解決すると勘違いしている。彼の父親は私の弟子なので、私は弟子のために手助けするのであり、息子とは関係がない。もし他の人なら会っていたかもしれないが、それは供養を増やす機会を見極めるためである。現在、私が担当の弟子に指示しているのは、もし彼が今後供養に来ても、たとえ「父親の金で供養する」と言っても受け取らないということである。(弟子:はい。)

だから、この一節はを読んでも、それは単なる経文ではなく、仏が皆に告げていることである。過去世で行ってこなかったことは、その果報を得ることは絶対にできない。しかし、今はまだこの一生のうちに、そうした行いを実践する時間がある。たとえうまくできなくても構わない。少しずつ行い、継続して積み重ねていけば、次の世で必ずその果報を得ることができる。阿弥陀仏のもとへ行かせていただきたいと願っても、思うようには行けない。なぜなら、『阿弥陀経』にも明確に書かれている通り、福徳因縁が欠かせないからである。では福徳はどこから生まれるか?それは修行から生まれるのである。表面的に修行しても意味はなく、心の内側からの修行こそが大切なのである。 

先ほどの、懺悔しなかったこのケース(事例)を見れば分かる通り、護法も本尊も非常に力があるということがよく分かる。もし私が担当の弟子に伝えなければ、彼女は死ぬ前に懺悔することはなかっただろう。私が伝えたことで、彼女の死を妨げる業力は瞬時に消え、下三悪道に落ちる業も消滅した。これは彼女をよく変えたわけではない。もし懺悔がもう少し遅ければ、モルヒネを服用することになり、この一生で麻薬を使用したことになり、経典にもある通り、地獄に落ちることが確定していた。時間はわずか1時間半の差だった。彼女はこれまで法会に参加しており、毎回500元や1000元の供養をしていたが、わずかでも福は積まれていた。そして最後の瞬間に、誰かが私に伝えるために動き、私の言葉が彼女に届いたのである。 

 「誰が伝えたのか?」(弟子の答え:報告します、リンポチェ、林姓の弟子です。)リンポチェの開示:林姓の弟子は少し福報を積んできている。はっきり見えるようになったのだろう。仏法において、少しでも積み重ねた行いは、救済が必要なときに現れるのである。これは「住宅ローンの返済を助ける」とか「悟りを開かせる」という意味ではなく、最も必要な瞬間に現れるということ。今回も、二人の弟子が彼女に話したことで、ちょうどその瞬間に彼女の心に届いた。彼女が私の前で跪いても、その時点では全く聞き入れられず、懺悔も出来なかった。しかし、伝えられたその時に懺悔したことで、その後は痛みを感じなくなった。

仏経では発露懺悔と説かれているが、皆のような男衆、特に出家男弟子がただ本尊や仏像に向かって懺悔しても意味はない。なぜ意味がないのか。仏経にははっきりと書かれている。住んでいる場所から半径500キロ以内に、生死の解脱を助ける行者が存在する場合、懺悔はその人に対して行うべきだと。もしそのような行者がいなければ、仏像に対して懺悔しても構わない。ただし、その場合は少なくとも1か月以上の閉関が必要である。だから、皆が毎日懺悔しても効果はない。それは上師がそばにいるからである。言われることを聞かない場合、どうして上師に懺悔するだけで即効性があるのか。なぜなら、上師は六波羅蜜を修しており、過去世から今世まで修行を積んで福報を持っているからだ。皆が懺悔すると、上師はすぐに本尊と相応し、その加持が即座に届く。まるでモルヒネの注射より速く苦しみを和らげることができる。ゆえに仏法は迷信ではなく、明確な系統に基づく修行である。しかし中国では、特に宋代以降、文人が仏法を語っても実際に修行せず、ただ言葉だけが流布されてきた。今でもその影響は続いている。特に男の出家弟子はこの傾向が強く、口先ばかりで修行をしていない。もし真に修行していれば、今日のような状態にはならなかった。

仏経が繰り返し説かれるのは、仏陀が常に夢物語を語るなと戒めているからである。過去世に行わなかったことは、この一生で起こらない。将来世にそれを実現したければ、今この一生で直ちに行動を起こさねばならず、一分一秒も遅らせてはならない。座禅の修行を教えてくれる上師がいなければ、どうして座禅を修行できるだろうか。今の段階で私が座禅の方法を教えていない。直貢噶舉には独自の修行法があるのに、それをあなた方に教えないのはなぜか。それは、あなた方が器ではなく、上師に対する敬意も欠けているからである。

昨日、私は非常に失望した。若い弟子たちが大勢、アキ護法の法本を求めに来たのだ。そこで私は彼らに問いかけた。「アキ護法は君たちの言うことを聞くのか。それとも私の言うことを聞くのか」上師を尊敬していなければ、アキ護法が本当に助けてくれるだろうか。毎日アキ護法を唱えれば助けてもらえると思ってはいけない。アキ護法法本にはっきり書かれている通り、直貢噶舉の弟子だけがアキ護法の加護を受けられる。では、直貢噶舉の弟子とは何か。それは、一つの伝承に従い、他の上師に心を向けず、二心なく、口伝で受け、上師に感謝の心を持つ者のことだ。あなた方はこれを実践していないので、何の効果もない。私自身、この方法で修行し成就を得た。

こんなに多くの法本や仏経があるなど、あなた方の福報は私よりもいい。法王が私に数言を告げるだけで、私は修行や閉関に向かう。法王は私がどのように修行するかには関与しない。当然、私の根器はあなた方とは違う。だから、ここでの話をはっきり理解すること。釈迦牟尼仏はただ物語を語っているのではない。なぜ今、あなた方がこれほど悲惨で、哀れで、憤るべき状態にあるのか、それを告げているのだ。理由は、過去世に修行しなかったからであり、だからこの一生で直ちに修行せよと告げている。六波羅蜜の各法門は、必ず上師が教え、指導してくれる必要がある。自分で我慢しているつもりになっても、いったい何を忍んでいるのか。 

ちょうどこの女弟子のように、モルヒネが毒であると分かっていながら、痛みを避けるために打ってしまった。しかし、打ってもなお痛みは消えなかった。これは、皈依弟子としてこうしたものに手を出してはいけないということを示している。痛みに耐えられないところを、ちょうど誰かが「リンポチェが、あなたは懺悔していないと言っている」と伝えたとき、彼女ははっとして懺悔を始めた。彼女のその問題は長い間心に隠れていた。彼女は「たいしたことではない、病気になっただけ」と思っていた。先週も話したように、心が善であれば、たとえ癌にかかっても、死ぬほどの痛みを味わうことはない。だから、この一節から分かることは、あなた方がこの一生で大乗仏法を修行するのは、過去世でその法を聞いたことがあり、未来世に必ず大乗の果報を得るためであるということだ。 

経典曰く︰「又此有情行縁覚因。於未來世得縁覚果。又此有情行声聞因。於未來世得声聞果。又此有情行世間因。於未來世得世間果。」

今生、声聞・縁覚の修行をする者は、来世でも同じく声聞・縁覚の修行をすることになる。また、この有情が世間的な因を行えば、来世でも世間的な果を受ける。だから皆に言いたいのは、人間的な仏法に執着してはならない。今生でずっと輪廻の因を積んでいるなら、来世もまた輪廻のままである、ということだ。

輪廻から解脱したいなら、自分に問いかけてみなさい。日常でどうしてもやらなければならないこと以外で、どういう心構えで、何を考え、何を求めているのか。たとえば、ある男性弟子たちはリンポチェに会うのを怖がり、叱られるのを避け、近づこうともしない。こうすると必ず輪廻になる。自分に悪業があるとわかっていて、叱られることで多くの悪業が消せるのに、それを拒み、叱られることさえ避け、ただ遠くからリンポチェを見るようにしているだけなのだ。この生で私たちは、はっきりと仏法を学ぶのは何のためか、理解しておく必要がある。もし世間のすべての欲求を満たすためなら、未来もまた輪廻に戻り、この世に生まれ変わる。しかし、仏法を学ぶ目的が、自分自身の生死の苦しみから解脱し、輪廻の海を離れ、さらにその後に衆生を利益するためであれば、これこそが真の修行であり、次の生ではもはや輪廻の海には戻らない。この前因後果を、私は皆に何度も明確に伝えている。 

皆は「因果を信じている」とよく言うが、実際にはほとんど信じていない。特にこれらの男性は、一人として信じていないように見える。皆、自分を英雄のように思っているのである。この生において、皆は修行を成就することができるだろうか。法王のそばには多くの在家男性弟子がいるが、修行を成し遂げた者は私一人であった。なぜなら、私は叱られるのを恐れなかったからである。法王がどれほど叱ろうとも、私は逃げることはなかった。法王こそ私の師であり、従うべき存在であったからである。皆は逃げることに慣れている。台湾ではドッジボールが流行しているようだ。今、皆はドッジボール大会に参加する準備をしているというのか。ならば、寶吉祥ドッジボールチームを結成し、男性らにも参加させる。誰かがボールを一発受ければ、10万元を支払うことにする。これほど臆病で、仏道修行に心を入れていない男性たちは見たことがないと感じる。

毎週法を求めに来るのはほとんど女性である。男性たちはどこに行っているのだろうか。お金を稼ぎに行っているのかもしれない。しかし、稼いでも特別に供養が増えるわけでもなく、ほかに行く必要があるのだろうか。すでに結婚していて、夫婦ともに私に帰依している場合、妻は土曜日に来て、夫は来ないということもある。そういう場合、妻の方が少し気をつける必要があるだろう(会衆笑)。来ない理由はないはずである。これほど図々しい男性は見たことがなかったが、今はやっと皆なぜ結婚できるのかも分かる。図々しく、必死で追いかけるからである。この生において仏道を学ぶとき、自分の心の在り方が本当に大切である。どうか注意してほしい。仏様の教えから離れて学ぶことがないように。そうでないと、世間の因をまき、次の生でもまた輪廻に生まれることになるからである。 

経典曰く︰「舍利子。若此因縁。若彼因縁。於未來世此諸有情得是根性如実了知。」

仏が説かれたように、これらの因縁によって、未来世でこの有情たちはその根性を得る。これは過去世と深く関わっており、はっきり理解できるはずである。だから私は今、あえて厳しく諭している。それは皆さんのこの生での行いに基づくものであり、根拠なく罵っているわけではない。もし皆さんが六波羅蜜をしっかり修めていれば、決してこのようなことにはならない。この生においても、毎日少し唱えるだけで修行していると思ったり、リンポチェのお話を聞くだけで修行していると思うのは、間違いである。仏経には多くの教えがあるが、皆さんはまだ仏の私たちへの慈悲を十分に味わってはいない。 

経典曰く︰「於彼有情而能成熟不生厭倦。乃至以智了解是心根本。若正法器説此正法。」

これらの根器の良い有情たちは、いずれ成熟する日が来る。必ずしも仏果や菩薩果を得るという意味ではなく、凡夫の心から離れ、聖人の心智へと変わることを意味している。そのため、飽きることがなく、自分自身にも衆生にも飽きることがない。衆生が訪ねてきても、話すことを嫌がることはない。例えば、懺悔しなかった弟子が私のもとに来たとき、私は無視することもできた。しかし上師としては慈悲深く接する。弟子が懺悔しない場合でも、話が届くかどうか、聞き入れる因縁があるかどうか、自分を変える福報があるかどうかを見守る。そして弟子が上師の言葉を信じ、自ら懺悔したその瞬間、すべての悪業の力は止まり、福報が生じるのである。 

これらの男性の弟子たちが私のもとに来ないのは、福報がないということ。懺悔をせず、悪業を自覚せずに積み重ねているから。なぜ懺悔をこれほど重視するかというと、仏法は他の宗教とは異なり、懺悔の法門があるから。懺悔を着実に実践もせず、単に念仏や仏菩薩の加持を願うだけで良くなると考えるのは、有り得ないことだ。先週も触れたように、私たちが無上瑜伽部に修行する場合でも、本尊を修する前に金剛薩埵を修し、最も細かい業も懺悔する。皆が私の面前で発露懺悔せず、家にこもってアキ護法に自分の過ちを告げても、実際にはアキ護法には届かない。
武のアキ護法の法本にはっきり書かれている。アキのほかに、周りに4人がいて、さらにその外に12人がいる。その12人の外側には、芝麻の実のように地母がアキを囲んでいる。皆は直貢噶舉の弟子として修行していない。すなわち、直貢噶舉が教える通りに仏法を学んでいない。その場合、地母があなたの声を封じ、アキに届かなくなる。直貢噶舉の弟子ではないからである。今、自分が私のもとに帰依したからといって、直貢噶舉派だと思ってはいけない。直貢噶舉派も他の教派と同じく、最終的には成仏を目指す。しかし直貢噶舉派は古く、非常に厳しい教えであり、仏経で説かれた方法に従って教えている。 

正直に言うと、私がこれほど厳しいのは、自分にとって得ではない。もし少し厳しさを減らせば、みんなは喜ぶ。しかしなぜこれほど厳しいかというと、私自身がこうして学んできたからであり、仏経もこのように教えている。もし私がこうして言わなければ、後で借りが大きくなり、また戻らなければならなくなる。私は戻りたくない。つまり、皆のリンポチェは世間法ではなく出世法を修行している。出世法を真剣に修行する人にとって、どんな問題があっても仏道修行の妨げとはならず、影響の力も徐々に消えていく。しかし、皆は世間法ばかり学び、守りを求め、健康や仕事の順調を求める。密法の法本にはこれらを求めるのもあるが、目的は享受のためではなく、多くの行いをする際のツールとして必要だからである。仏法のためでなければ、単に求めても得られず、すべて一概には言えないし、求めれば学べるわけでもない。

「乃至以智了解是心根本」。智慧によって根性がどうやって生じたかを理解するべきである。心の根本とは、過去に修したすべてのことが自分の心によって決定され、心が影響を及ぼしているということだ。学仏の根本は心であり、私たちが普段考える常識や教育、人倫道徳ではない。心が決めるのだ。心が出世法を修するなら出世法、世間法を修するなら世間法、声聞縁覚を修するならそれを修する。私はこの出家して三十年以上の弟子を非常に心配している。なぜなら、彼はこの生で声聞縁覚を修しており、表面上は大乗を修しているように見えるが、実際には自分の悟りのためだけに修行している自了漢だからだ。彼は自分の名声や面子を犠牲にすることをせず、話すことにもますます慎重になり、ほとんど話さなくなっている。なぜなら、私に叱られるのを恐れているからだ。彼の心の中では「自分が話すことは全部間違っている、なら話さない方がまし」と考えている。しかし、話さなければ自分がどこで間違っているかもわからない。だから彼は自了漢であり、大乗仏法を修しているわけではない。

心の根本とは何かというと、私たちの心は本来、すべての衆生の心と一致しており、仏の心とも同じである。違いがあるとすれば、生々世々の輪廻苦海の中で私たちが積み重ねてきた善悪の業によって、清浄な心と本性がすっかり覆われて見えなくなっている点である。だから、この一生で仏法を学うときも、自分の考えや感覚、意識、経験、学問、体験を通して学ぶことになる。しかし、心が決まっていない。私とあなたたちの違いはどこにあるかというと、私の心は「やる」と決めているのに対し、「こうしたらリンポチェは喜ぶだろうか」「こうしたらリンポチェに叱られるだろうか」「こうしたらどうなるだろうか」といった考えに左右されているのは、心が決まっていないということだ。 

林姓の弟子が、もうすぐ往生する女弟子に「リンポチェはあなたが懺悔していないと言っている」と伝えたように、普通の人情で考えれば、こんなことは言うべきではない。彼女は痛みに苦しんでいるのだから、「リンポチェが加持してくださるので、こんなに痛くならないようになる」と言うのが自然である。しかし林姓の弟子は、上師の言うことはすべて正しいと信じていたので、そのまま伝えた。あなたたちなら絶対こんなふうに言わない。なぜなら、私は「彼女が懺悔していない」以外、供養していないなど、何も言わなかったからだ。これこそ、心の態度だ。あなたたちの場合、きっと前後に少し加えたり、言い回しを柔らかくして受け入れやすくするはずだ。これが心の問題、つまり心の根本である。林姓の弟子はこの行為をしたことで、喜金剛法会で彼女に行かせることができた。彼女は長い間お願いしていたが、18日の法会は行かせる。 

「若正法器說此正法。」もし正法を受ける器であれば、この生でこの正法を学ぶべきだと、示される。逆の場合は、示さない。だから今、あなたたちを密殿に入れないのも、出家者であっても入れないのも、あなたたちがその器ではないからである。『宝積経』にも、「宝積経を学ぶ根器がない者には、経典の内容すら教えない」とある。リンポチェはすでにとても慈悲深く、これほど多く教えてくれているが、私は教えなくてもよい。なぜなら、あなたたちはその根器を持たず、正法の器ではないからである。正法とは何か?どの仏法を学ぶにしても、生死解脱のためである。昨日の若者たちが、なぜアキ護法の法本だけを求め、リンポチェの長寿祈願文を求めなかったか。それは彼らが正法の器ではなく、ただアキに守ってもらいたいだけで、上師なしではアキは現れないことを忘れているからだ。彼らには上師への感謝も尊敬もなく、私から少し何かをもらって自分をよくしたいだけである。だから伝授しない。多くの人には私は法を伝えていない。今わかっただろうか?法を伝えるのは、あなたたちをよくするためではなく、法の根本を理解させるためであり、自分が生死から解脱し、衆生の解脱を助けるためである。それこそが法の根本であり、この世の小さな利益のためではない。 

ある弟子の妻が体調を崩していて、その夫が何度も私のもとにお願いに来た。私は「もう頼むのはやめよ、自然に任せよ」と言ったことがある。以前も言ったように、「病気は私にとってよいなら、病気であれ」という意味だ。もし私が病気になり、この生で背負うべき借りを返すなら、地獄に落ちることはない。それなら病気になってもよい。一方で、患者が何度も私のもとに来ても治らない場合、それはその人が生病を通して自分の借りを返していることを意味する。その夫が何度も来るのは、愛しているからなのか、暇だからなのか、妻がいないと退屈だからなのか分からないが、結局のところ、上師を信じていないのである。私は「病気は私にとってよいなら、病気であれ」と言ったことがあるか?(大衆答:あります)ではなぜ聞き入れられないのか?「健康は私にとってよい、だから健康になる」と思うのは構わない。しかし、それであなたたちに衆生を救う資格があるだろうか?私はあなたたちにこういう願いを立てろと言っているわけではない。これは密法を修する者が立てる願いである。しかしあなたたちは、この精神を学ぶべきなのである。 

家の中で誰かが病気になったり、何か問題が起きたりするのは当然のことだ。釈迦牟尼仏もはっきりと説いている、生老病死は必ず経験するものだと。なぜ仏寺の観音堂には四つの門があるのか?それは生・老・病・死の門を示していて、誰にでもあるものだと教えている。あなたはこれをリンポチェに消してほしいと思うか?釈迦牟尼仏でさえできなかったことだ。仏果を成就しない限り無理なことだ。では、あなたには何の資格があるのか?何か問題が起きたり病気が治ったときにリンポチェに感謝しに来る。感謝に来た以上、そのときの自分の感謝の心を見てほしい。皆知っている通り、私はよく「お金はどこから来たのか」と尋ねる。お金がない人の場合は返す。だから、外でリンポチェに大供養をしたなどと言わないこと。大供養とは、心のすべてを完全に供養するという意味だからだ。

仏経にはこんな話がある。昔、ある女性が金銭がなく、釈迦牟尼仏が通るのを見て、彼女が最も大切にしていたズボンを投げ出し、仏が泥水を踏まないようにした。他の人々がみんな外に飛び出して釈迦牟尼仏を拝むとき、彼女はズボンがないため出られなかった。自分の持てるすべてを供養したため、後に妃となった。しかし、彼女が裕福になって再び仏に供養しようとしても、仏は受け取らなかった。なぜなら、そのときには「大いなる心」で供養していなかったからだ。大供養とは物質ではなく、心の問題である。こうした大供養の心がなければ、たとえ財産をすべて捧げても私は返すし、金がない人が来ても、私が受け取るのはせいぜい1,000元程度だ。この話は、リンポチェがなぜ厳格であるかを明確に示している。仏が言う通り、正法を受ける器でなければ正法は教えられない。正法は軽々しく口に出さず、無責任に口伝することはない。末法時代、多くの人が仏法を利用して外道的なことを行うため、本当に重要な精髄は簡単には語られない。リンポチェが仏寺でこれほど多くの教えを語っているのか。語らない。なぜなら、皈依していない多くの人々は法会に参加するだけで皈依しないが、仏寺に寄進したことはあるので、その場合は法を修するに留め、控えめに語ったりはするが、『宝積経』の教えまでは語らない。つまり、正法の器でない者には、法を伝えることすらしないのである。 

仏典曰く:「又於説法復何所得。為令不作餘法餘業。」

この段落はつまり、法を聞くときに、結局自分が何を得るか、ということを問うている。「為令不作餘法餘業。」重要なのは、仏法に関係のないことを行わないことである。我々は在家であるため、仏法に関係のないことをまったく行わないことは不可能である。この文の要点は心の態度にある。仏法に関係のないこととは、生死の解脱や福報の蓄積、功徳の蓄積のためでないことを指す。可能であれば、それらは行わない方がよい。我々が今日行うあらゆる行為は、衆生を助けるためであり、衆生がその中で仏菩薩を称賛し、この行者を讃嘆することで、未来世に仏を学ぶ功徳を得られるものである。これは行ってよいことである。では「餘業」とは何か。例えば、すでに帰依して仏門に入り、仏を学んでいるにもかかわらず、孫のために祖先の加護を求めて香を焚くこと、これが余業である。また、霊験があるとされる場所に行って見聞することも餘業である。さらに、仏法の説法で皆が楽しく聞くような所へ聞きに行くことも餘業である。以前の弟子の中には、ここで仏法を学びながら、別の場所で心霊のようなことを学ぶ者もいたが、これも仏法に関係のない余った行為である。

仏典曰く:「若諸有情現在世中於諸法行広大尋伺。然彼一切皆如実知。」

有情衆生は、今生において、一切の仏法の中で常に探し求め、捜し求め続ける意味である。「然彼一切皆如実知。」どういう意味か。あなたがその根器でない場合、あるいはそれに取り組んでこなかった場合、どうして探し求めることができるだろうか。出会っても無意味である。多くの者は、自分がどこかの法王に会った、どの大リンポチェに会った、どの場所に参拝した、と言う。これこそが探し求める行為である。自ら、多くの法会に参加したと思い込んでいても、結局は仏法をしっかり学んでいないのである。過去世に関係があり、過去世においてもあちこちに出向き、あちらこちらで聞き散らしていた者は、今生もそのようであり、未来世も同様である。たとえば、私のこの生において、密宗で帰依した上師はただ一人である。他は結縁上師であり、根本上師は一人のみである。この言葉の意味は、多くの者が今生においても仏法を求めてあちこち探し、縁のある上師を見つけ、好きな場所を見つけようとするが、見つけることができないということである。それは、過去世にこのことを十分に行わず、出会いもなく、発願もしてこなかったからである。仮に今生で出会ったとしても、留まることはできない。それは習慣の問題であり、過去世もそのようであり、今生も同様である。もしこの上師が自分の望むことを行っていないと感じれば、習慣的に離れてしまうのである。

仏典曰く:「又彼著貪心。即如實了知彼著貪心。彼離貪心。亦如實知彼離貪心。」

つまり、法を伝える者は衆生の貪欲をはっきりと理解していなければならないということだ。どの方面に貪りがあるのかを明確に把握し、その貪りから離れるよう助ける必要がある。そして、もし衆生が貪りから離れたなら、その離れた状態が本当に成り立っているかどうかもはっきりと見極めなければならない。

仏典曰く:「彼著瞋心。如実了知彼著瞋心。彼離瞋心。亦如実知彼離瞋心。彼著癡心。如実了知彼著癡心。彼離癡心。亦如実知彼離癡心。」

つまり、貪・瞋・癡の三つの心はすべての衆生に備わっており、法身菩薩を証得するまでは誰も例外ではない。上師の最も重要な役割は、縁ある帰依衆生を、その貪・瞋・癡の心を少しずつ減らし、最終的には出現しないように導くことにある。貪・瞋・癡の心がなくなって初めて、修行が可能になる。無上瑜伽部でもこの点は非常に重視されている。人は必ず貪・瞋・癡を持っており、仏道を学んでいる者でさえ例外ではない。むしろ、自分は多く修行したと思うほど、貪・瞋・癡を持っている。何故なら、法を貪る場合があるからである。要するに、この言葉の意味は、衆生の貪・瞋・癡の心がどのように生じるかを理解し、それから離れる手助けをすることの重要性を示している。 
仏典曰く:「若此若彼有情雑染及障礙心。一切皆能如実了知。」

つまり、一切の有情は雑染していて複雑であり、自ら複雑さを求めることで、清浄な本性を汚し、清浄な心を妨げる。「一切皆能如実了知。」たとえば、癌で亡くなった女弟子の場合、私は彼女が懺悔せずに自らを妨げていることを知っていたので、「懺悔しなさい」と伝え、彼女が懺悔することで解決の法門となった。言葉はわずか五文字、「懺悔していない」だけで十分であり、五百文字も必要ない。真の法門は、一文字でも十分であり、五文字を聞き、行えばすぐに問題は解決される。同様に、浴槽で亡くなった男性の弟子の場合、もし彼が供養を行う前に私に相談し、あるいは「リンポチェに任せます」と伝えて加持を受けるようにしていれば、この一度で難を逃れることが可能だった。私の加持力は、見えなくても直接その力が及ぶ。 

だから、私に会うのを避けている人たちは、自分のことをもう少し注意すべきだ。どれだけ隠れても、自分の業からは逃れられない。本当にあの男性たちが何をしているのか理解できない。土曜日は休みのはずなのに、沈姓の弟子、土曜は休みじゃないのか?どうして一度も見たことがないのか?お金がなくても来られる。タクシー代も出すから。忙しいのか?病気のときには「リンポチェ、助けて」と言うが、何度も助けたのに、なぜそう言うのか。理由は一つ、彼が少し太っていること、そして私は彼のことを覚えていること。考えれば、彼等が来ないのも当然、それで私は彼等のことが覚えられないからだ。

仏典曰く:「如実知已而為説法。」

自分の問題がどこにあるかを知っていれば、一針で的確に突き刺すように直接指摘できる。あの出家して三十年以上の弟子も、問題が分かれば迷わず指摘する。彼が喜ぶかどうかに関係なく、甘い言葉で「三十年以上も出家して精進してきたのだから、多くの仏法を学んで、仏法の用語も理解しているし、しっかり衆生を度すべきだ、成就を得るべきだ」とか言ったりしない。仏像を見ても適当なことを言って誤魔化すようなことをしてはいけない。上師として、ある程度の能力がなければ、道場を開くことは本当にできない。たとえ千人だけでも、一人ひとりが業を私に与え、ご両親も加えれば、一人につき最低三つの業、千人で三千もの業になる。私の体重はたった65キロ、どうやって背負えるのか?多くの人は「自分は衆生の業を背負っている」と言うが、菩提心を修していなければ、背負えないのではなく、そもそも背負いきれないのだ。 

私は何十年も生き延びてきたのは、一貫して行動してきたからで、誰にも阿諛を使わない。十二支のどの動物であろうと、絶対に迎合しない。龍でも蛇でも、区別せず平等に接する。あなたの問題に直接向き合い、話す。聞き入れるかどうかはあなたの福報次第で、聞き入れなくてもそれはあなたの福報になる。なぜか?次の生で同じ過ちを犯さないように、私はすでに阻止しているからだ。忠言逆耳、役に立つ言葉は決して耳触りの良いものではない。だから、あなたたちがリンポチェに心地よい言葉を期待しても、それはない。法王は、私がリンポチェになる前、私の修行がよくできているなど一度も言わなかった。2007年の閉関を終え、死ななかったことで、ようやく少し称賛されただけだ。あなたたちは何様のつもりか?リンポチェに「精進している」と言われたいのか?一万回六字大明咒を唱えたからって、何の偉いことがある?自分の貪・嗔・痴を全く消していないなら、その六字大明咒も結局は貪・嗔・痴の六字大明咒に過ぎない。さっき私が六字大明咒を唱えたとき、熱かったでしょう?(大衆:はい)香りも良かった、今日は特に香りが良かった(大衆:はい)なぜか?今日は私自身がとても「香しい」からだ!(大衆笑) 
「而為説法」のことをわきまえた上で、法を説くというのは、みなさんが想像するように法座に座って経典や法本を開くことではない。ある行者が特定の果位に達すると、その口から出る言葉はすべて仏法になる。なぜなら、もはや仏法に関係ないことを話さなくなるからだ。無駄な綺語や、修行や人生観の変化に関係ないことは一切話さず、直接あなたに必要なことを伝える。だから、本当に仏法を如実に学びたいなら、「阿諛奉承」という心構えは持たないこと。上師に褒められることを期待したり、上師に隠れて叱られないようにすることもいらない。今の私は、誰が誰だか分からなくても、一度叱れば全員に叱る。だから、互いに足を引っ張り合うことになる。男の弟子たち、もしこのまま続けるなら、今から全員を一度叱り終え、その後で再び叱ることとする。

法を説くというのは、法の定義がみなさんの想像するように必ず仏法の専門用語である必要はない。例えば、出家して三十年以上の弟子が、「真偽を見極めろ」とばかり言っている場合のように、言葉ばかり重ねても意味がない。重要なのは、問題がどこにあるのかを明確に見極め、一針で的確に衆生の問題を解決することだ。

仏典曰く:「欲令彼彼出離煩悩。若復往詣衆中如是観察。」

あなたに法を説くのは、その人が煩悩から離れるのを助けるためだ。煩悩から離れるという定義は、単に今たくさんの問題があってそればかり考えていることでも、今の思い通りにならないことを考えることでもない。煩悩の定義はこうだ――「私たちのその思考が修行のためでなければ、それは煩悩である」。よく聞いてほしい。昨日、法を求めに来た人たちは、煩悩で求めていた。なぜなら、アキ護法法本の加持を得たいという煩悩からだった。上師の恩徳を忘れ、上師がいなければ何もないことを理解していないので、法は伝えられない。あなた方が煩悩から離れるのを助けるためだ。私はあの男性たちをいつも叱っている。彼らは煩悩が多すぎるからだ。叱るのは、いつか自分自身で問題がどこにあるかに気づき、煩悩から離れるためである。そうして初めて、彼らの仏法が力を持ち始める。その力とは――修行力だ。 

「若復往詣衆中如是観察。」方法を使ってその人を煩悩から離れさせるとき、人々の中で、その人をよく観察することだ。たとえば、多くの場合、あなたたちが仏寺や協会のために働くとき、私に叱られることがある。それは、仕事をしているときに煩悩から離れていないからだ。なぜなら、自分の考えが正しいと思いたいからである。「自分はこうすべきだ」と考え、それに従って行動する。しかし、その心は謙虚に衆生を助けるためのものではない。なぜ間違いを犯すのか? それは、自分には功徳や功労があると思い、この事を自分で掌握できると考えるからだ。煩悩が働くと、清浄な本性が覆われ、間違いを犯す。前回の法会での座布団の配置もそうだ。大勢の人が置いたが、乱雑だった。私が一度行くとすべて直した。これは私が賢いからでも、何か学んだからでもない。煩悩が少なく、ただ参加する衆生が壇城を見て喜んで法会に参加できるように考えたからだ。一方、事をする人たちの心はこうだ:「間違えたくない。リンポチェが言ったことをそのままやろう」。途中で何が起きても自分は関与せず、リンポチェに任せる。煩悩が多く働いているから、絶対にうまくいかない。だから、群衆の中で観察すること。

仏典曰く:「一切衆生會若彼若此。於諸有情遍観察已而為説法。」

リンポチェはとても疲れている。一千人の中で、それぞれが何をしているか、教育の背景、性格、習慣、業の違いをすべて見なければならないからだ。一千人をまとめて、ちゃんと座らせて仏法を聞かせるのは簡単ではない。だから、自分はかなりすごいと思っている(大衆拍手)。でも、拍手するな。拍手しても、君たちはまだ変わっていない。拍手しても意味がない。私が望むのは、君たちが変わることだ。私がこの世を去る前に、全員がちゃんと聞き入れて、自分を改めることだ。 

「而為説法」というのは、彼が仏法を説くとき、千篇一律ではなく、毎回Special Case(特別な事例)が現れるということだ。たとえば、この往生した女性の弟子や男性の弟子のように、特別なCaseを通して、言うことを聞かないとどうなるか、仏法を使って自分を変えないとどうなるかを示してくれる。もう一度例を挙げると、二人のがん患者がいる。一人は完全に言うことを聞いたわけではないが、少なくとも半分は従ったので、亡くなる前にまったく痛みがなかった。供養は十分ではなかったが、従ったことで供養になった。もう一人は言うことを聞かず、まだ生きていて、多くの治療を受けている。彼には福報があるが、リンポチェはそのような福なら受け取りたくない。あまり深く触れないことにする。これは医者にしか伝えられないことである。治療が進むほど痛みは増すので、詳しく説明できるのは医者のみである。

謝姓の弟子に医師として意見を述べてもらおう。私は医者ではないのであまり詳しくは言えないが、がん治療は患者にどんな感じをもたらすのか。(謝姓の医師の弟子の報告:40年以上の医療経験で、化学療法の後、全身がボロボロになるのを見てきた。亡くなった後、全身がむくみ、生前より体重が5~7キロ増えることもある。死ぬ直前には皮膚から血や水がにじみ、関節は曲がらず、排尿も排便もできず、モルヒネを打っても痛みは止まらない。それだけでなく、腫瘍の増殖で体の他の部位が圧迫され、押され、ねじれる感覚が耐えられず、悪夢を見たり、言動が支離滅裂になったりして、人間としての尊厳は全く見えなくなる。さらに治療を続けると、苦しみはもっと増し、骨と皮だけのように痩せ、腹が大きく、目がくぼむこともある。これを「悪体質」と呼ぶ。がんは上師の助けがなければ、本当に苦しい。) 

自分の行った業は、必ず自分で責任を負わねばならず、他人が代わって負うことも、業の力を変えることもできないのである。この女弟子は往生の前に懺悔し、真心から懺悔したため、即座に自らの業力を変えたのである。しかし、あなた方はまだ真心から懺悔しておらず、懺悔とはただ自分が不運に陥らないためのものであると考えているに過ぎない。だが、いずれ生死の重大事に直面し、死ぬほどの苦しみに遭い、求生もできず、求死もかなわぬとき、初めて懺悔の心は強くなるのである。

 『地蔵経』に説かれるところによれば、真の懺悔とは、地蔵菩薩がかつて婆羅門の女性であったときのように、母親を代表して仏に礼拝し、涙を流し、血を流し、気絶するほどでなければならない。これこそが真の懺悔である。しかし、あなた方にはそのようなものはなく、ただ罰を恐れ、将来の不運を恐れて、今のうちに口に出してみて、果たして変えられるかどうかを試しているに過ぎないのである。

懺悔とは、自らの貪・瞋・痴・慢・疑によって自身の修行が妨げられ、多くの不必要に傷つけてはならない衆生を傷つけてしまったことを真に理解することである。たとえその衆生が報復しなくとも、彼らのすべての業力や恨みの心は必ず自分のもとに届くのである。懺悔とは、彼らに許しを請うことでも、自分を免罪してもらうことでも、自分を寛恕することでもない。我々はただ、仏菩薩に、自らの修法が十分でなかったことを許していただくよう求めるのである。懺悔とは、今日をもって一切の過ちを行わないと決意し、以後の身・口・意すべてを衆生利益のために用いることである。懺悔は、これらの悪や業の結果が、自身の修行や衆生利益の妨げとならないようにするためのものであり、これこそ懺悔が力を発揮する条件である。もしなお、自分の修行を少しでもよくしたい、あるいは言葉の過ちで上師に叱られたから懺悔する、などと考えるのであれば、それはすべて誤りである。 

一日でも成仏していない限り、懺悔を行わねばならない。なぜなら、心の中にはまだ欠けた部分があり、完全ではないからである。多くの仏号を唱え、多くの修行をしたとしても、懺悔が不要になると考えてはならない。『地蔵経』には「起心動念はすべて業であり、すべて罪である」と説かれている。八地以上の菩薩に到達し、起心動念はすべて衆生のためのものであることの場合を除く。したがって、その果位に至らない者は、懺悔によって自らを監督し、再び過ちを犯さぬよう心に留める必要があるのである。 

仏はかつて説かれた。過ちを犯した者が懺悔するなら、同様に成仏することができる。しかし、過ちを犯しても懺悔しない者は、絶対に、永遠に成仏できないのである。仏が説かれる懺悔とは、真心で行い、清浄であり、何も求めず、何も得ようとしない懺悔である。これこそが、懺悔の力を発揮させるのである。経典には、真に懺悔が力を持つ者は、時に目から血を流すことさえあると説かれている。私でさえ、それを成し得たことはない。あなた方の流す涙は、いわば「ワニの涙」である。ワニの涙とは何か。弟子の報告によれば、ネット上には「分泌物であり、真の涙ではない」と書かれているという。あなた方の涙もまたそれと同じく、偽物である。真の懺悔の涙ではないからである。 

懺悔の涙は、無理にまぶたを動かして搾り出すものではなく、鼻が酸っぱくなる感覚を伴うものでもない。考えずとも自然に流れ出るものである。私自身の経験から言えば、真に懺悔の心が湧き上がったときには、鼻水や涙が自動的に出て、鼻の酸っぱさや苦しさは全く感じないのである。しかし、あなた方にはまだ懺悔の心がないため、そうした現象は起きていないのである。単に口で懺悔の言葉を述べたからといって、懺悔が成り立つわけではない。清浄な心で懺悔が生じたとき、自然に修行の力もともに湧き出し、両者は並行して進むのである。

仏典曰く:「舍利子。此諸有情前際後際彼根性智一切了知。而菩薩摩訶薩自心無所住著。」

この菩薩(説法者)は、すべての有情の前世・今世・来世におけるあらゆる根性智を明確に知っている。菩薩の心には貪着があったり、特定のものに執着することを止めたりするなどがないからこそ、すべての衆生の根性を知ることができるのである。 

仏典曰く:「及彼他心亦無所住。」

他の衆生に対する心も、どこかに執着して止まることはない。たとえば、衆生が供養をしなかったとしても、私は平等な心でその衆生を助けるのである。 

仏典曰く:「何以故。此菩薩摩訶薩由智了故心無所住。由念了故心無所住。由慧了故心無所住。由趣向了故心無所住。由勝慧了故心無所住。由覚了故心無所住。由断習気及諸随眠生渋煩悩。離垢光潔無諸過失。於一切法分明了解。於一切有情心行差別極能入解心無所住。」

この一節は、菩薩の心が究竟に何を修するかを説いている。菩薩は衆生を度する心を持つが、執着する心は持たない。菩薩は縁に従って衆生を度するので、心はどこにも住まないのである。縁に従うとは、いい加減に振る舞うという意味ではない。衆生が縁をもって求めるとき、菩薩の心はそれに応じて助ける。しかし、衆生が縁を持たず求めない場合、菩薩は心を起こして助けようとはしないのである。菩薩は智慧を持つゆえに、心がどこにも住まないことを明確に理解しており、ある事柄や特定の衆生に執着して留まることはなく、常に縁に従うのである。 

「由念了故心無所住」ここでいう念とは、菩薩が起こす慈悲心や菩提心の念であり、空性のものであって、永遠に存在するものではない。ゆえに心はどこにも留まらないのである。たとえば私が済度を行った後、その行為はもはや存在せず、済度がうまくいったかどうかを考えることもなく、法会が終われば縁も終わり、心は留まらないのである。もし常に「うまく済度できただろうか」と思い悩むなら、私の磁場が済度した亡者の神識に影響を及ぼし、私がうまくいっていないと感じることで、結果的に彼らの済度も十分には達成されなくなるのである。簡単に言えば、私が済度を行うときには、自分の修行・功力、さらに上師や仏菩薩の加持をもって、必ず衆生を助けられることを明確に知っている。それだけで十分である。結果や、済度の量が多ければ、今後がよりよくなるかどうかを気にせず、これらの雑念を持たないことこそ、真の済度である。 
「由慧了故心無所住。」すなわち、智慧によってすべての縁を知るがゆえに、心はどこにも執着せず留まらないのである。

「由趣向了故心無所住」ここでいう趣向とは、六道がどのように生じるか、何が原因で衆生が六道の輪廻にあるかを理解することである。六道の生死の原因を明確に知るゆえに、心はどこにも執着せず留まらないのである。たとえば、釈迦牟尼仏は多くの世で動物界に生まれ、また天界や地獄界にも生まれたことがある。しかし、仏は菩薩道を修行していたため苦しみはなく、これらの道においても衆生を度したのである。

「由勝慧了故心無所住」勝慧とは、空性に基づく智慧である。 

「由覚了故心無所住」覚とは覚悟のことであり、生死の大事や来龍去脈を悟ることである。衆生が輪廻する因を知った後、心はどこにも留まらないのである。たとえば、私が衆生に供養の心がないと感じた場合、たとえ多額の供養を捧げても受け取らない。また、供養を受けることで衆生が地獄に落ちる影響があると感じれば、私は受け取らない。これが覚悟であり、一種の覚性によってその衆生を理解するのである。

「由断習気及諸随眠生渋煩悩」ここでいう習気とは生活習慣を指すのではなく、生々世々にわたって最も深刻な習気、すなわち輪廻の習気を意味する。習気は貪・嗔・痴・慢・疑から生じるものである。このような習気を断った後に、諸随眠生渋煩悩も断たれるのである。密教の経典には常に「不祥な夢を見ないように」と祈る文句がある。なぜなら、不祥な夢を頻繁に見ると煩悩が生じるからである。多くの人は夢と覚醒を別物と考えるが、実際にはそうではない。夢を見ている時も覚醒している時も、いずれも夢の中にあるのである。一方は意識的で能動的に行動できる場合、他方は無意識で感覚がない場合である。しかし、夜に見る夢も昼間の行為も、すべて意識が動いているのである。夜に悪夢を多く見る場合、次第に身体や運気に影響が出る。したがって、頻繁に悪夢を見る者は懺悔も供養も修行も足りていないのである。皆は、高く飛び上がり落下する夢を見たことがあるか?(多くの者が手を挙げる) ほぼ全員である。これは過去世において六道を輪廻し、三悪道に堕ちたことがあり、その習気がまだ残っているからである。故に、ある程度修行が進めば、夢でさえ吉祥となり、少なくとも悪夢を見ず、人に追われる夢も見なくなるのである。

「離垢光潔無諸過失」菩薩は一切の貪・嗔・痴・慢・疑の垢を離れ、心は光明清浄となり、いかなる過失もないのである。 

「於一切法分明了解」菩薩は一切の法を明確に理解し、すべての衆生を利益する方法を分別して知っているのである。 

「於一切有情心行差別極能入解心無所住。」 「有情心行差別」とは、菩薩が偏った心で衆生を助けるという意味ではない。衆生は皆平等であり、清浄な法性を有している。済度を行う際も、六道の有情に対して同じく済度を施すのである。ここでいう「差別」とは、衆生の業力の差に応じて適切に助けることである。例えば、懺悔心を持たない弟子には、ただ「あなたは懺悔をしていない」と伝えるだけで助けとなる場合もある。ある者の供養は私は受け取らない。たとえば、あの歯磨き粉を絞り出すように供養を差し出した弟子の供養は、今も受け取っていない。なぜなら、その心が正しくないからである。とはいえ、私は彼女を済度し、苦しまずに旅立てるよう助けた。私は金銭で行動するのではない。供養がなくても同じように済度するのである。ただし、違いがある。彼女にはその福報がないため、私はすぐに済度することができなかった。一方、入浴中に亡くなったあの男弟子については、すぐにポワ法をもって済度することができた。なぜなら、彼は多くの供養をしていたからである。ここで言う「多くの供養」とは金銭のことではない。誤解してはならない。金がなくても、絶えずリンポチェに頂礼しに来ることもまた供養である。しかし、金がないふりをする者がいれば、私はそれも見抜く。棺の費用として金を残し、銀行に預けて心の安らぎを得ようとしても、それは福報を生まない。私が伝えたいのは、金をすべて引き出して供養せよということではない。私はそれが要らない。ただ自身の心のあり方をよく知れ、ということである。

往生する際に分別が現れるのは、リンポチェが分別しているのではない。金銭の有無にかかわらず、私は皆を超済度する。しかし、分別は皆の業力と福報によって生じるのである。私に会うことを恐れ、叱られることを怖れる男衆は、自らの分別を強め続ける。そのため、私が済度しようと現れると、必ず逃げてしまうのである。業力が重い者に対しては、私の出現は忿怒の相を伴う。これは、あなたたちを往生させない衆生に引き止められているためであり、彼等を追い払うために、あえて厳しい姿で現れるのである。今日のこの話は非常に重要であり、仏を学ぼうとする者は、自分が真に修行を実践しているか否かを明確に知る必要がある。 

「極能入解心無所住」極めて心を理解することができ、かつ心に執着せず無所住であることができる。
仏典曰く:「舍利子。於如是行相入解有情心智。此說是名菩薩摩訶薩得他心通智業圓滿。」

仏がこれほど多く語ってくださるのは、私たちに伝えるためである。もし菩薩が修行の行為としての外見だけで、有情の心や智慧を理解できるなら、その心通は円満であること。前に述べた「於一切有情心行差別極能入解心無所住」というのは、菩薩が有情のあらゆる問題を解き明かすことができるが、その心に執着がないことを指す。「心無所住」の最も重要な定義は「縁生縁滅」である。衆生を助けたなら、その縁は消滅し、心に留まらない。それを言及するときも、自分の功徳のためではない。この例を示すのは、こうした修行の結果がどのようになるかを伝えるためである。これを聞いて、自分自身を改めるべきではないか。もしこれほど語られても一向に変わらず、沈姓の弟子のように恩を忘れ、何度も助けてもなお、自分の快適さや邪魔されない生活ばかり追うなら、非常に憂慮せざるを得ない。憂慮しているのは、彼の体のことではない。いつか何か問題が起きて、私を見つけられなくなるかもしれないことを憂えているのである。何の問題かご想像に任せる。もう一か月の猶予を与える。それでもなお改善されなければ、離れるほかない。

私はあまりにも多くを背負ってきた。もし皆が修行するなら、どれほど辛く、命を惜しまなくても、私は助けるつもりである。だが修行でない者がここに残って何をするのか。自分の青春と金銭を浪費するだけである。私は一人一人、ゆっくりと見極める。毎週法会に来ていればそれでよいと思うな。私は絶対に、皆が予想しないことを行うであろう。昨日も、出家者に命じて、天疱瘡にかかった弟子の家族に伝えさせた。あと二度チャンスを与える。もし出された答えが真に仏道を学びたい者のものではなければ、去るがよい。彼らは恩を忘れた者であるから。経典には四重の恩に報いるべきことが説かれている。第一の恩は仏菩薩の恩である。仏菩薩が命を救ってくださったのに、なぜ命をかけて仏道を学ぶ決心をしないのか。本来なら命はないのに、安逸な日々を過ごしたいのか。仏菩薩が命を留めてくださったのは、この生で生死の解脱の体力を得させ、修行させるためである。この生でしっかり修行すれば、次の生にこそ機会が訪れるのである。

私は病に伏し、脈も取れないほどであっても、修法を続ける。それなのに皆はどうだ。私は命を惜しまず修行する者である。皆に命を惜しむなとは言わないが、仏道を学ぶなら真剣に決心せねばならぬ。「明日やろう」「まだやることが多い」と思って、リンポチェに頼ればよいと思うな。今の私は、皆が予測できない状態であり、一日に何度も気が変わる。皆が行うことが仏法に関係ないと、私は突然耐えられなくなる。以前は我慢してきた。あの時は法王が私の得た果位をまだ確認していなかったからである。今や確認されており、私が過去に行ってきたことは間違いでなかったことが示されている。だからこそ、今日、この因縁と福徳によって、私は絶えず皆や皆の家族、友人を助けることができるのである。

話を元に戻す。仏寺の法会に参加した信者はわずか600人であった。皆は恥ずかしくないのか。弟子は900人おり、年寄りと子供を300人差し引けば、残りは600人である。600人がそれぞれ二人ずつ誘えば、1200人になる。それも皆、分別心である。皆は10月に何の法会を修するかも知らず、人を呼ばなかった。だが阿弥陀仏大済度法会には、多くの人が申し込むではないか。ただ自分の平安だけを望み、外の人々のことは考えないのか。台湾では毎日多くの人が事故で亡くなっている。一片の憐れみの心もないのか。自分だけがよければよい、他の衆生が苦しんでもあなたたちは救われないのである。私は仏寺の法会を必ず開かなければならないと思っているわけではない。私が全てのものを売っても、仏寺を維持できる。あなたたちは必要ないのである。

来年1月より、私は一部の弟子を連れて閉関する。皆さんはこれまで一度も閉関したことがないので、まず7日間の閉関を行う。既に「不共四加行」を修し終えた弟子は先に申し込むこと。締め切りは最遅で11月10日までとする。もし人数が不足した場合、その時点で他の弟子に閉関参加の資格があるかどうかを検討する。

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2025 年 10 月 15 日 更新