尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年10月19日
2025年10月19日、開山住持上師であられる尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺において「長寿仏灌頂法会」を主法された。リンポチェは衆生のために殊勝な長寿仏の灌頂を賜い、慈悲の修法をもって、一切衆生の寿命における障礙を除き、福徳を増長させ、仏法を学ぶために十分な時間を得、阿弥陀仏の浄土に往生する機縁を具えるよう加持を施された。
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが大殿に入られると、妙なる香気が殿内に満ち、清浄にして荘厳なる雰囲気が広がった。その瞬間、参会した大衆の身も心も静まり、安らぎと祥和に包まれた。リンポチェは大悲の心をもって修法を行われ、大衆を導きながら長寿仏の真言を唱えられた。そのとき、リンポチェの御身と壇城はともに金色の光を放ち、大地が震動した。リンポチェは長寿仏の宝瓶、トルマ、そして彩箭をもって、身・口・意の灌頂を授けられ、ご自身の地・風・水・火・空の五大元素の精華を余すところなく衆生に加持された。会場の人々は慈悲の温流に包まれ、身体の熱を覚える者、頭頂がゾクッとした者、全身の毛が逆立つ者など、それぞれにリンポチェの衆生を利益する大悲願力を深く体感した。
リンチェンドルジェ・リンポチェは、大衆に対し老婆心ながら繰り返し忠告した。すなわち、常に菜食を心がけて殺生を戒め、三宝に帰依し、常に供養と布施を行い、法会に参加して、五戒十善および『仏子行三十七頌』を実践すべきであると。これらを行ずることによってこそ、真の法益を受けるための福徳と因縁を積むことができる。リンポチェは広大なる菩提心をもって修法され、その加持力は比類なく、無辺の衆生を利益されたのである。
法会の前日、開山住持上師であられる尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、あらかじめ仏寺に赴かれ、前行法を修されていた。法会当日の午前九時二十五分、リンポチェは幡・幢・出家衆・八供女・宝傘・楽器・薫香の先導と迎請を受け、八吉祥の白き絨毯に色とりどりの花が撒かれた道を通られ、荘厳なる仏寺大殿へと進まれた。参会の大衆は、迎請の厳かな楽の音の中、合掌して恭しく立ち並び、リンポチェが法座に昇られるのを恭迎した。リンポチェは壇城に登られ、諸仏菩薩に頂礼し、灯明を供えたのち、法座に着かれ、大悲をもって尊い仏法の開示を賜った。
本日は皆に長寿仏の灌頂を修する。顕教には長寿仏という本尊の修法はなく、密教すなわち金剛乗においてのみ伝えられている。長寿仏は阿弥陀仏の報身仏である。すべての仏菩薩には「法身・報身・化身」の三身があり、そのうち「報」とは果報、阿弥陀仏において、その果報の身がすなわち長寿仏である。「長寿」という言葉には二つの意味がある。一つは永遠に死することのない長寿、ゆえに阿弥陀仏の寿命は無量寿、無量光と説かれる。実のところ、「阿弥陀」という三文字は真言であり、仏号ではない。阿弥陀仏の真の名号は「無量光仏」または「無量寿仏」である。したがって、阿弥陀仏の報身仏こそが長寿仏である。もしこの長寿仏の灌頂を受けたならば、未来世において浄土に往生する縁を得ることができる。
本日の法会には一千六百名を超える人々が参加したが、この中で浄土に往生できる者はごくわずかである。多くの人は「菜食をし、阿弥陀仏の名を唱えれば浄土に往生できる」と誤解している。しかし『阿弥陀経』にはこう説かれている。「不得少福德因緣的善男子、善女人(福徳因縁を欠かせてはいけない善男子・善女人)」と。ここで言う「不得少」とは、一生の間、絶えず供養し、布施を行じることを意味する。これを少なくしてはならないのである。「徳」とは、戒を守り、閉関して修行することによって生じるもの。私の皈依弟子は必ず五戒と十善を守り、さらに『仏子行三十七頌』を修めなければならない。これこそが福徳を積む道である。「因縁」とは、阿弥陀仏に関わる法会に繰り返し参加し、絶えず阿弥陀仏の聖号を念誦し、閉関し、そして発願することによって、初めて往生の縁を得ることができるということである。
「発願」とは何であろうか。多くの人は「自分は苦しいから、阿弥陀仏に早く迎えに来てほしい」と願う。しかし、これは発願ではなく、自らの因果からの逃避である。この一生で苦しみの果を受けるのは、過去世において自らが苦の因を蒔いたからである。阿弥陀仏の浄土には、輪廻する衆生も、三悪道の衆生も存在しない。ある人々は「阿弥陀仏の浄土には業を抱えたまま往生できる」と言うが、その「業」とは善業であって、悪業ではない。阿弥陀仏は『浄土五経』の中で明確に説かれている。浄土に往生するのは、諸々の大善人であると。ここで言う「善」とは、この一生のうちに十善法を修めた者を指す。十善法を修めなければ、いかなる者も浄土へ往生することはできないのである。
では、どのようにすれば浄土へ往生できるのか。その方法は二つある。一つは、生きているうちに自ら修行することである。もう一つは、密乗を修する金剛上師に出会い、その上師が密法によってあなたを助けることである。私が阿弥陀仏の法会を主催するのもそのためである。もし過去世において阿弥陀仏の名を念じ、阿弥陀仏と縁を結び、さらに長寿仏の法会に参加したことがあり、このような金剛上師に縁あって阿弥陀仏の密法に出会うならば、その者には浄土へ往生する機会が与えられる。そうでなければ、決してあり得ない。
多くの人は、阿弥陀仏の浄土へ往生することは簡単だと思っている。しかし、実際には少しも簡単ではない。では、どうすればよいのか。まず三宝に皈依し、次第に沿って修行を積むことである。そうすれば、必ず往生できる。『浄土五経』には明確に説かれている。阿弥陀仏の浄土に往生する者は、すでに「登録された未来の仏・未来の菩薩」であると。ゆえに、この生において仏門に皈依せず、仏法を学ばなかった者が浄土へ行くなどということはあり得ない。最も分かりやすい例を挙げるならば、他国へ移民する前に多くの準備が必要であるのと同じである。少なくとも生活のための「お金」を準備しなければならない。その「お金」とは、すなわちあなたの福である。更に、彼の地の生活習慣と言語を覚えて初めて赴くことができる。これをこそ、我々の言う「徳」とする。何も用意せず、ただ阿弥陀仏を念じればよいなど、それは不可能である。
「阿弥陀仏」の聖号を念ずることに意味はあるのか。もちろん、意味はある。しかし、それはこの一生においてではなく、未来世において効くものである。もしこの一生の間、絶えず阿弥陀仏の聖号を念じ続けるならば、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちることを免れる機会は得られるかもしれない。しかし、阿弥陀仏の浄土に往生するためには、『浄土五経』に説かれているすべての詳細な修行法に基づいて修めなければならない。ただ何となく念仏を唱え、数珠を持ち、カウンターで回数を数えるだけでは往生できない。そのようなやり方では、浄土へ行くことは決してできないのである。ゆえに、今日この長寿仏の灌頂を授けたのだ。
顕教には灌頂というものは存在しない。灌頂があるのは密教のみである。顕教では、因地(いんじ)──すなわち凡夫の段階から修行を始める。これに対して、密乗は果地(かじ)から修するのである。密乗の根本的な考え方は、すべての衆生がすでに成仏の条件を具えているということである。これはまさに仏が説かれた「一切衆生には仏性が有り」という教えそのものである。私たちは本来、成仏する条件を備えている。しかし、無数の生を重ねる中で多くの悪業を積み重ねてきたため、この生において善道に生まれ人身を得ても、その清浄なる仏性は覆い隠され、自らが成仏の条件を具えていることさえ分からなくなってしまっている。ゆえに、上師の導きのもとに顕教から修行を始め、もし金剛乗を修するのであれば、必ず灌頂を受けなければならないのである。
まだ生死を解脱しておらず、輪廻の中にある者を凡夫という。凡夫である以上、その身・口・意は清浄ではない。したがって、灌頂を通して本尊より身・口・意の灌頂を賜る。身・口・意が清浄になってはじめて、本来備わっている清浄なる自性と仏性が現れ、本尊の清浄なる法性と接し、結びつくことができる。それがなければ、どれほど修行を重ねても、何の効果も得られないのである。
灌頂は「授権」とも呼ばれ、上師が弟子に特定の本尊を修する権限を授けるものである。しかし、本尊を修する前には、必ず仏門に帰依しなければならない。そして灌頂を受けた後、上師が口伝によってその法門の修行方法を伝えるのである。多くの人は、法本を手に入れればすぐに修行できると思い込んでいるが、それでは決して修行の成果を得ることはできない。法本は文字にすぎず、その中には多くの深い意味が含まれている。しかも、その真意は文字として書かれていない。『宝積経』の中で釈迦牟尼仏はこう説かれている。「もし衆生が大乗仏法を修する根器を備えていないならば、『宝積経』の中のある内容は彼らに説くことができない」と。密乗も同じである。もしこの生で真に学仏し、仏門に帰依して菩薩道を修める決意を持たない者であれば、たとえ法本を読んでも、それは単なる文字の羅列にすぎない。そのような者に対して、上師はその深意を解説することはない。金剛乗上師とは、真に修行経験を積んだ行者であり、どのように修し、どのように閉関すれば衆生に利益をもたらすかを明確に理解している存在なのである。
今日この灌頂を授けたからといって、すぐに長寿になるという意味ではない。皆は今生、そして過去世においても、身・口・意によって多くの悪業を積んできた。おそらく皆は「自分はそんなに悪いことをしていない」と思うであろう。しかし『地蔵経』にはこのような一文がある。「凡夫の起心動念は、すべて業であり、すべて罪である」と。つまり、一つひとつの念頭や思考が善業・悪業を生み出し、一つひとつの行為が輪廻の罪を作り出しているのである。輪廻に堕ちることは実に容易であるが、その輪廻を離れるためには相当の努力が必要であり、ただ「そうしたい」と思っただけで成し遂げられるものではない。ゆえに、灌頂を受けることによって、今生においてこの法門を学ぶ資格がはじめて与えられるのである。
第二の「長寿」の定義とは、私たちは今生、母の胎内に宿って生まれ、成長し成人するまでの間、一日として身・口・意で悪を犯さない日はないということである。身・口・意によって悪を犯せば、そのたびに寿命は減少していく。たとえば本来七十歳まで生きるはずであっても、悪を重ねることによって寿命は次第に削られていくのである。その徴として現れるものの一つが「多病」である。多くの人は、病気になるのは当然のことだと考えているが、そうではない。私はすでに七十八歳になるが、身体に大きな問題はない。まだ仏法を学ぶ以前、私は占いが好きであった。香港の人々は占いを信じる傾向が強く、当時、どの占い師も私の寿命は四十五歳までだと言っていた。しかし、私は三十二歳のときに仏法を学び始め、そして今なお七十八歳まで生きている。この余得の幾十年は、決して安楽に過ごすための年月ではなく、仏法を修し続け、自らと衆生を利益するために与えられた時間である。そのように仏法を行じることによってこそ、寿命は延びていくのである。
もし延命を願う理由が、「子どもが大学を卒業するのを見たい」「博士課程を修了するのを見たい」「結婚して孫が生まれるのを見たい」といったものであるならば、そのような寿命は得られない。また、福報が十分でない者もいる。寿命を求めても、寿はあっても財がない──すなわち、寝たきりになって死ぬこともできず、しかし回復することもできず、自分と子どもの財産をすべて使い果たしてからようやく命が尽きる、このような状況である。なぜそのようになるのか。それは過去世において数え切れないほど多くの悪業を作ってきたからである。釈迦牟尼仏は経典の中で説かれている。人の生命は「寿命」と「財富」という二つの要素が結びついて成り立っていると。ここで言う「財富」とは、単に金銭を意味するのではない。それは今生で享受できるあらゆる資源・環境を指している。たとえ多くの金銭を持っていたとしても、もし砂漠のような場所に住んでいれば、それを用いることはできない。富饒で恵まれた環境に身を置き、はじめてその財を生かすことができる。これもまた「財富」の一つなのである。
中には財を持ちながらも使おうとせず、銀行に預けたり、家の中に隠しておいたりする者もいる。それもまた「金がない」のと同じである。釈迦牟尼仏は人が死に至る原因を四つに分けて説かれている。第一は「財を使い果たして死ぬ」。第二は「財を使い果たさぬうちに死ぬ」。これは今生において多くの悪業を造り、突然の事故や病によって命を落とす者のことである。第三は「寿はあっても財が尽きて死ぬ」。すなわち、命を維持するための資財がなくなり、寿命が残っていても生を続けられずに死ぬのである。第四は「財はあっても寿がなく死ぬ」。つまり、莫大な財を持ちながらも突然短命に終わる者のことである。たとえば、今皆が最もよく使っている携帯電話を発明した人物は、莫大な財を得たが、寿命は短く、死の直前には癌に苦しんだ。彼は確かに人類に便利さをもたらしたが、同時に人々に多くの悪業を生じさせる道具も作ったのである。いまでは多くの悪事が携帯電話を通して行われている。詐欺などもその一つである。現代の人々は皆、まるで「好奇心のかたまり」のようで、携帯を見ないと生きていけないように思っている。私はそうではない。携帯電話は電話をかけるか受けるためだけに使う。それ以外の用途には使わない。よほど大切な情報を調べる時以外は、携帯電話は不要であり、それ以外のことはすべて余計なものである。
今日は皆に「無量寿仏」の灌頂を授けた。この灌頂を受けることで、皆が無量寿仏と縁を結び、もし今生で無量寿仏の修行を円満に成就するならば、必ず阿弥陀仏の浄土に往生し、生々世々においても長寿であることは確実である。この法は、修行する人が少ない。なぜなら、灌頂を行う修法者自身が、十分な福報と功徳を具えていなければ修することができないからである。灌頂とは、上師が自らの修行によって積んだ福徳を衆生たちに分け与えることである。たとえるなら、あなたたちに金がない時、上師が自分の金を分け与えるようなものだ。同じ理である。もし上師自身の福徳が十分でないのに、長期にわたり灌頂を授け続けるならば、その上師の身体にも良くない影響を及ぼすことがある。
今日の修法の過程には、皆が聞いたこともなく、理解できないことが多くあったであろう。だが、それを理解しようとする必要はないし、理解すること自体が目的でもない。仏法は「理解するもの」ではなく、「悟るもの」である。もし理解したいのなら、本を読めばよい。だが、本を読んだからといって必ず理解できるわけではない。皆も試験でよく不合格になるであろう、ましてや仏法を理解することがどれほど難しいかは言うまでもない。文字を読めば仏法がわかると思ってはいけない。また、法を一度聞いたからといって理解したと思ってもいけない。仏法とは、凡夫の心を修行者の心に転じ、さらに修行者の心を菩薩の心、仏の心へと転化させる教えである。これは非常に大きな修行であり、普通の人が容易にできることではない。今日、皆が時間を割いて法会に参加したのだから、心を静め、「試しにやってみよう」「本当に効くかどうか見てみよう」――そのような疑いの心を持ってはならない。仏法は「試す」ものではない。
もともと私は、この仏寺を私の皈依弟子たちが修行できる場として建立した。しかし、多くの信者が寄付してくれたので、私はこの生涯の修行において一つの大切な法門を堅く守っている。それは――「衆生に借りを作らない」ということである。だからこそ、仏寺に寄付をしてくれた信者のために、私は毎月ここで法会を開き、仏法によってお返ししている。しかし、それを受け入れる人もいれば、受け取ろうとしない人もいる。そのため、法会のたびに、突然来なくなる者や、急に遅れてくる者が必ず現れる。これは申し訳ないが――そういう人は「福報が足りず、決意が足りない」のである。
修法の過程で、私が唱える祈請文の言葉は、皆には理解できないかもしれない。だが、それでよい。ただ心を静めていれば十分である。私の根本上師であるチェツァン法王もチベットの方で、法を伝えるときにはチベット語で読誦された。私はチベット語を理解できなかった。それでも、やがて悟りが生じた。なぜなら、伝法を受けるとき、心を静め、純粋に上師の法を受け入れていたからである。そのようにして、自然と上師の清浄な本性と触れ合うようになり、次第に法が体得できるようになったのである。
リンポチェは修法を開始された。しばらく修法を続けられたのち、参会の大衆に対して長寿仏の法本を開くよう指示され、導きながら法本の読誦と長寿仏の心咒の持誦を行われた。しばらくしてリンポチェは一同に読誦を止めるよう指示され、ご自身のみで長寿仏の心咒を持誦された。リンポチェは長く心咒を唱え続けられたのち、さらに修法を進め、次のように開示された。
先ほど皆さんが読誦した法本は「短軌」であり、これは「簡略な形式」という意味である。その法本の中で最も重要な一句は、「一切非時死亡盡摧毀(一切の非時の死を尽く摧滅す)」という言葉である。人は本来死ぬべき時ではない時に、しばしば命を落とすものである。たとえば――薬を誤って服用すること、医者を誤ること、食べ物を誤ること、交通事故、天災、殺害など、これらはいずれも「非時の死」にあたる。特に、まだ皈依していない者、肉を食べ続けている者は、非時の死に遭う確率が、菜食の者に比べてはるかに高い。ただし、菜食をすれば必ず免れるというわけではない。絶えず修行を続けなければならない。なかには仏法を学んでいても、法門を誤って修したために、非時の死を迎える者もいる。ゆえに、この法門を修する最も大切な目的は、「非時の死を摧滅すること」にある。「無依痛苦眾生之依處(無依の苦しむ衆生の依処)」とは、皈依をしていないならば、私たちのあらゆる苦しみを救ってくれる依りどころがないという意味である。だからこそ、私たちは確かな皈依の所を持たねばならないのである。
実際のところ、皆さんが真言を唱えているといっても、それはただ一つの言葉を口にしているだけであり、功徳は生じていない。しかし、皆さん自身は「自分は修行している」と感じる。それは皆さんの性格によるものである。私は皆さんに一緒に真言を唱えさせているのは、「自分も修行している」と感じさせるためであって、実際には修行にはなっていない。だから、この後は皆さんはもう唱えなくてよい。私が唱える。私が真言を持誦することは、皆さんにとって必ず大きな利益がある。これは傲慢から言うのではなく、単なる事実である。
修法の過程において、リンポチェと壇城からはまばゆい金色の光が放たれ、大地が震動した。その場には妙なる香気が満ちあふれ、多くの参会者が身体の内から熱を感じ、汗を流しながら、温かな光の流れが全身をめぐるのを体感した。
この一節は、上師が皆さんのために祈願を行うものである。すべての有情衆生が、非時の死に遭うことなく、八大災難および十六種の恐怖から解脱し、干ばつのない、戦争のない太平の世を享受できるように。また、非時の死をはじめ、あらゆる災厄が鎮まり、法事がすべて如願成就し、悪因や逆縁に遭うことなく、寿命・福報・財富のすべてが、順縁によって増長するように。上師はこのように皆さんのために祈願される。そして、その祈りの後は、各自が修行を続けなければならない。最終的には、阿弥陀仏と同じ果位を成就するまで修行を続けるのである。
リンポチェは修法を続けられ、その後、八供女による供養の歌が奉唱され、薈供および供茶の儀軌が執り行われた。リンポチェはさらに寿酒と寿丸を加持された。参会者は、リンポチェの加持を受けた供物を頂き、この法会において上師および諸仏菩薩と共に食すという、まことに稀有で殊勝な縁を得た。リンポチェは慈悲をもって参会者一人ひとりに、「供物を一つずつ取り出すように」と優しく諭された。
続いて曼荼羅供養の儀軌が行われた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはガムポパ法帽を戴かれ、出家衆および八供女が衆生を代表して、上師へ曼荼羅を奉り供養を捧げた。
リンポチェは修法を続けられた後、次のように開示された。
先ほどのこの儀式は、皆さんがこれから灌頂を受けるためのものである。そのため、上師が皆さんと共に真言を唱えた後、供養と薈供を行った。薈供とは、供物を加持したうえで、本尊および上師とともにその供物を享受することである。これは、皆さんが想像するように、仏菩薩と一緒に食事をするという意味ではない。今日この法会と灌頂に参加した皆さんは、未来の菩薩、未来の仏となる存在であり、その本質、すなわち仏性は、諸仏菩薩や上師と平等である。ゆえに、同じ供養を受け、同じ供物を分かち合うことができるのである。なぜ供物を少し取り分けるのかというと、法会の会場に入ることのできない虚空中の一切有情衆生へ布施するためである。残りの供物は家に持ち帰り、家族に分けてもよい。ただし、仏を信じず、なお肉を食べる者が食しても、功徳は生じない。これより、灌頂を受けるための前行修法を始める。
これから、この法の由来を簡単に紹介する。この法本の名は『マギュジュウベジェモ仏母の長寿仏灌頂儀軌』であり、その出処はミラレパ尊者にさかのぼる。ミラレパはカギュ派における極めて重要な伝承上師であり、その弟子の中で最も優れた者が、レチョン・ドルジェ・ドラクパ尊者である。レチョン・ドルジェ・ドラクパは四十歳のとき、インドへ赴き、マルパの息子であるダルマ・ドーダの涅槃後の殊勝な化身であるティプパ尊者に出会った。ティプパ尊者は彼に、無生空行母の法類に属する灌頂と口伝を直接授けられた。その後、レチョンパは一切の教授を円満に受け、チベットへ帰る前にティプパ尊者がこう言われた。「市場へ行って人々の賑わいを見てきなさい。」レチョンパが市場へ向かうと、青緑色の肌を持ち、さまざまな神変を示すヨーガ行者が空中に静かに坐し、彼を見つめて言った。「若者よ、お前の命はあと七日しかもたぬ。」
レチョンパはその言葉を聞いて恐れおののき、急いでティプパ尊者のもとに戻り、寿命を延ばす教法を懇請した。ティプパ尊者は言われた。「他の教法では助けになるのは難しい。『マギュジュウベジェモ成就女王』という法がある。彼女はかつて蓮華生大士を自らお会いし、自在に寿命を延ばす力を得て、五百年の寿命を保った。その方のもとへ行って求法しなさい。」レチョンパはその教えに従い、マギュジュウベジェモ尊のもとへ赴いた。そして三両の黄金を供養した。三両の黄金は当時としては非常に多くの財であった。「三両の黄金は今いくらぐらいだろう?今は一両いくらかな?」出家弟子が答える:「十六万です。」)古代では黄金を得ることは今のように容易ではなかった。そのため、レチョンパは三両の黄金を供え、さらに一両の黄金で曼荼羅供輪──先ほど行った曼荼羅供養の盤──を造り、その黄金の供輪をもって法を請うたのである。
今の話、聞こえたか?。薄い紅包(お布施の封筒)を一つ差し出しただけで、何らかの法を得られると思ってはいけない。今は末法の時代であり、リンポチェである私は、皆さんの環境に合わせて行動している。供養があれば法を伝えるし、たとえ供養がなくても、私の気分が良ければ法を伝える。──気分が悪くても、法は伝えるのである。(大衆、笑)では「気分が悪い」とはどういうことか?それは、皆さんが三悪道に堕ちそうになっているのを見た時を指す。そのような時、私は心が痛み、悲しみを感じる。だからこそ、法を伝えずにはいられないのである。
その女性のヨーガ行者は、怙主無量寿仏無上五方仏教法の灌頂を授けた後、さらに修行の方法を伝授した「延命の仰ぎ頼み」、「生起次第による延命」および「円満次第による延命」を教授された。これはつまり、灌頂を受けた後に修すべき法本があるという意味である。「生起次第」とは、本尊をどのように観想し、どのように真言を持誦するかを修する段階であり、「円満次第」とは、持誦を終えたのちに、いかにしてこの法を円成・成就させるかを修する段階である。さらにその後には「廻向の法本」も授けられた。また延命、さらに気を依止して無数の延命法を伝授された。気とは何であるか、密教においてはこの「気」の修行は容易に伝えられるものではなく続部を修する弟子にのみ口伝される極秘の法である。当初、レチョンパは四十歳で命を終えるはずであったが、この教法を受け、実践したことにより寿命が四十四年延び、最終的には百八歳まで生きたと伝えられている。
レチョンパは長寿仏の灌頂を受けた後、再びティプパ尊者のもとに戻り、この教法の由来と伝承の歴史を尋ねた。ティプパ尊者はこう仰った。「私はこの教法を知っているが、この法の導師は私ではなく、あの女性のヨーガ行者である。彼女は特別の勅命を受けており、そのため私はあなたを彼女のもとへ遣わしたのだ。」この言葉の意味は、ティプパ尊者自身もその法を理解しており、修したことがあったが、その伝授の主である導師は彼ではなく、女性のヨーガ行者であったということである。したがって、弟子であるレチョンパをその師のもとへ送り、法を受けさせたのである。ここで、学仏の者があちらこちらと師を変えて回るのは正しくないということであると分かった。新しい法を学びたいと思う時は、必ずまず皈依師に相談し、「行ってもよい」と許可を得たならば行き、「行かない方がよい」と言われたならば従って行かない。レチョンパの例では、まず上師に伺いを立て、上師が「行きなさい」と仰ったので赴き、法を受けたのちには、再び上師のもとへ戻って報告をした。しかし、今の時代の多くの人は、少し法を学んだだけで自分も上師になれると思い、もはや自分の皈依師を顧みない。これは明らかに間違いである。この逸話が私たちに教えているのは、学仏の心構えなのである。
その後、ティプパはレチョンパに対し、再び完全な形での長寿仏灌頂の法を授けた。したがって、ティプパはこの長寿仏灌頂の法をすでに有していたが、最初はあえてレチョンパには伝えなかったのである。その理由は、弟子が上師の言葉に従うかどうかを試すためであった。まず「彼を遣わせてみて」、果たして指示どおりに行き、そして戻ってくるかどうかを観たのである。もしレチョンパが戻ってこなかったなら、その後の教法の伝授は一切なかったであろう。なぜなら、最初に女性のヨーガ行者が授けたのは「自ら修行するための法」であり、「他に灌頂を授けるための法」ではなかったからである。灌頂を授けるための正統な法本は、ティプパの手の中にあった。ここからも分かるように、密教の学びは非常に複雑であり、皆さんが想像するような「法会に参加すれば何でも授かれる」というような単純なものではない。
今日、私が皆さんにこの灌頂を授けるのは、ここに集まった六百余名の方々が、私の建立した仏寺を護持してくれたからである。私は衆生に借りを残したくない。その思いから、今日この灌頂をお与えする。その後に皈依し、仏法を学ぶかどうかは、皆さん自身の決意に任せる。私は決して強制もしないし、甘言で誘うことも、欺くことも、脅かすこともない。すべては皆さん自身の選択である。法本の記述によれば、今日あなた方が行うのは、ただ長寿仏との結縁にすぎない。決して「これで長寿になれる」と思ってはならない。釈迦牟尼仏の教えによれば、現在の人類は「減寿」の時代に入っている。本来、人は八万歳まで生きられるはずであったが、百年ごとに一歳ずつ寿命が減少している。したがって、今の人間の平均寿命は七十歳であり、どれほど祈っても、それ以上に延ばすことは難しい。もちろん、中には七十歳を超えて生きる人もいるが、その多くは生活の質が良くない。病気に苦しむか、あるいは絶えず様々な問題を抱えている。
レチョンパがチベットへ戻り、初めてミラレパ尊者にお目にかかった時、ミラレパはこう仰った。「そなたがチベットで大いに名声を得ているその教法を、私へのお土産として捧げなさい。」この言葉の意味は、ミラレパ尊者がレチョンパの根本上師であるため、レチョンパはその法を「伝授」する立場にはなく、上師への供養として献上するのみであった、ということである。ミラレパ尊者はその後、この教法——「無上五方佛の中において、乳から搾り出された酥油のような精華」——を修し、主尊である無量寿佛によって、その寿命を大いに延ばされたと伝えられている。ミラレパ尊者はこの法をガムポパ大師に伝え、ガムポパは我々噶舉派の祖師である。ガムポパはさらにパグモドルパ尊者に伝え、パグモドルパはこの法を五百名の法傘のある大弟子に伝授した。その中には、我々直貢噶舉派の上師、ジッテン・サムゴン尊者も含まれている。このように、法脈は極めて明確であり、どの法本にも必ず来歴と正統な伝承がある。決して、誰かが勝手に「発明」したり、「新しく作った法」が存在するということはあり得ない。
続きは法を修め、これから灌頂の法本に入る。したがって、皆さんは身体をまっすぐにして座りなさい。傾いたり、だらけたりしてはいけない。足が痛くても、恐れずにそのまま正しく坐るように。
リンポチェは大衆に、ご自身に続いて法本を三回誦するよう指示された。その後、修法を続けながら次のように開示された。今、皆さんが誦したこの一段は、多くの場所で修したがらない法である。なぜなら、我々は受胎の瞬間から今日に至るまで、血・肉・体温(すなわち火)・気(すなわち風)・意識が、絶えず散じ、壊れ、歪み(真っ直ぐではない)、裂け、揺らぎ、崩れ、そして時に魔によって奪われてきたからである。
魔とは、どのようにして人の寿命を奪うのか。それは、陰気の強いところなどへ助けを求めに行く時、その存在があなたの寿命を少しずつ奪っていくのである。また、仏経の中にも明確に説かれている。ネギやニンニクなどを好んで食べる者は、夜、眠っている間に鬼が口のあたりで息を吸い、寿命を吸い取ってしまうと。菜食をするかどうかは皆さん自身の決めることであるが、ネギやニンニクは避けた方がよい。「吸血鬼はタマネギを恐れる」と映画で言うが、あれは人を騙すための話であり、実際には吸血鬼はタマネギを恐れない。それに、もし皆さんがネギやニンニク、タマネギを食べ、男女の間で口づけを交わそうとしたら——果たしてできるだろうか?男たちよ、もしタマネギを食べるなら、あなたの恋人はもう近づきたくなくなるだろう。
今日は五方仏に祈り、皆さんの地・風・水・火・意識を補い戻すために修法を行っている。しかし、もし肉を食べたり、人を欺いたり、悪口を言ったりするならば、そのすべてがあなたの寿命を損なうことになる。まず補充の修法を行うのは、皆さんの地・風・水・火・空が欠け、揺らいでいるためである。そのままでは灌頂を受け取ることができない。
リンポチェは、参会者に身体をできるだけまっすぐに保つようにと丁寧に諭され、その後、長寿仏の宝瓶を高く掲げ、衆生に身・口・意の灌頂を賜った。続いてリンポチェは長寿仏のトルマを手に再び灌頂を授け、一人ひとりの信衆を長く加持された。衆生を利益するために、リンポチェは御身の疲労をいとわず、再び彩箭を手に取り修法を続けられた。その際、ご自身の地・風・水・火・空の五大要素の精髄を惜しみなく大衆の身心へと注ぎ込まれた。その瞬間、会場にいたすべての人々は、暖かな光流が全身を貫くのを感じ、毛孔が開き、身体が熱くなり、汗がにじみ、法喜に満たされた。
修法と灌頂を終えられた後、リンポチェは慈悲をもって観想の教えをお示しになった。「長寿仏が光を放ち、皆さんの身体がつくり出した短命の業を除き去ると観想しなさい。人は自らの身体によって多くの悪業を積み、そのために寿命が短くなる。第一の悪業は——肉を食べることである。菜食をしようとしない人は、今日の法会に参加してもただの結縁にすぎない。なぜなら、一口の肉を食べるたびに寿命が減るからである。それが一分か、一時間か、一ヶ月か、一年かは、その人次第である。私は三十二歳から完全な菜食を続け、いま七十八歳になった。まだしばらくは生きて、皆さんを叱ることもできるだろう。私は今、皆さんを加持し、身体が作った悪業を清め、寿命がすぐに短くならないよう祈っている。しかし、もし悪から善へと転じようとしないならば、どれほど加持し、修法をしても、何の助けにもならない。」
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長寿仏が光を放ち、皆さんの口によって作られた短命の業を除くと観想しなさい。たとえば、悪口を言ったり、人を毒のある言葉で批判したり、罵ったりする——これらすべてが皆さんの寿命を短くする原因となる。では、自分の口が悪業を造っているかどうかをどうやって確かめるか?たとえば、口が臭うということ。多くの人は「肝臓が悪い」「歯ぐきが悪い」と言うが、実はそれは口業によるものであり、その結果、やがて歯も悪くなる。「口では言ったけれど心にはそんなつもりはない」と言い訳をしてはいけない。心に思っていなければ、言葉は出てこない。皆さんはAI(人工知能)ではないのだから。
灌頂の途中、ある年配の方が若い付き添いの方と共に立ち上がり、トイレに行こうとされた。リンポチェはそれをご覧になり、「加持が終わってから行きなさい」とお示しになった。しばらくして再びその方々をご覧になり、「今すぐ行って、もう戻らなくてよい」と指示された。お二人が退場された後、リンポチェは次のように開示された。「先ほどの方々を退場させたのは、戻ってきても灌頂には間に合わないと分かっていたからです。また、年配の方の心は往々にして急ぎがちです。もし年長の方が参加される場合は、ご家族があらかじめボランティアスタッフに伝え、後方の席に案内してもらうようにしてください。そうすれば、他の方々の法会への集中を妨げずに済みます。」
長寿仏が光を放ち、皆さんの意によって生じた短命の業を除くと観想しなさい。「思うだけなら大丈夫」と思ってはいけない。想うことにも必ず果報がある。仏法では、身・口・意について、言葉を発したり、行動を起こしたりするのは、すべて意識から始まる。たとえ声に出さなくても、心の中で人を呪ったり、悪い思いを抱き続けたりすれば、それだけで寿命は短くなる。現代医学でもすでに証明されているように、心に不満や悪意を抱くと、身体は病を生じる。この後、法会が終わったら、皆さんに長寿丸と果汁で作った長寿酒をお授けします。
リンポチェは、参会者に身体をまっすぐに保つように指示し、その後、修法を続けられた。
長寿仏の灌頂儀軌の修持が円満に終了した後、リンポチェは参会者に長寿仏の法本を取り出すよう指示され、大衆を導いてもう一巡、長寿仏の心咒と回向を唱えられた。その後、護法の儀軌を修し、出家衆が先導して《極楽浄土への往生を祈る祈請文》を一遍唱誦した。続いてリンポチェご自身が唱誦され、慈悲に満ちた法音が一語一句、参会者の心に深く響き渡り、会場は静寂に包まれ、誰もが自然恭しく耳を傾けた。唱誦が終わると、リンポチェはしばし入定された。
この時、会場の参加者たちは一斉に法本を片付け始め、その音が響いた。するとリンポチェは静かに安住し、大衆を見つめながら沈黙を保った。会場が再び静まり返った後、リンポチェは開示された。「そんなに急いで法本を片付けて、何をするつもりなのか?私が入定していたのが見えなかったのか?つまり、皆さんも少し定に入るようにという意味なのだ。学仏とは時間に追われて行うものではない。私は『法本を片付けなさい』とは一言も言っていない。言うことを聞かず、皆それぞれが勝手に判断して動いている!たとえば、誰かが講演をしている時に、突然荷物を片付け始めたら、それは講演者を見下しているということではないのか?皆さん、上師の指示に従うことを学びなさい。下に座っているからといって、自分は修行していて偉い、自由にできると思ってはいけない。上師が何をしているのかをよく見なさい。もしできないなら、少なくとも真似をしてみなさい。」
釈迦牟尼仏は末法の時代において、時が進むにつれて、本当に仏法を学び修行しようとする者がますます少なくなると述べられた。『地蔵経』にもあるように、法界の中で最も調伏しがたいのは地球の人類であり、剛強で自我が強く、調えがたく伏しがたい存在である。皆、損をすることを恐れ、急いで法本を片付けようとする。そのため、金剛乗や密乗を学ぶ者は次第に減っている。なぜなら、金剛乗や菩薩乗を修する者は、上師の一つの号令に一つの行動で応じ、完全に上師の言葉に従わねばならないからである。
仏法を学ぶには、清らかな心をもって行うことが大切である。法会に参加して多くのものを得ようとするためではない。今日は、皆さんの身・口・意の汚れを少しでも清めるための修法である。そして、まだ私の門下に帰依していない信衆にも、良き善因を植えるための機会となるよう願っている。将来、皆さんが仏門に帰依し、仏法を学ぶ機縁を得られることを心より望む。
私は他の修行者とは少し異なる。私は在家衆であり、三十二歳から修行を始めた。そして皆さんと同じように、かつては家庭もあった。しかし、皆さんと違うのは、私が仏門に帰依して以来、人生の中には仏法しか存在しなかったということだ。だからこそ、どんな困難に直面しても一つ一つ乗り越えてこられた。占いでは「早死にする」と言われたが、私は死ななかった。それは仏菩薩と争ったからではなく、仏菩薩や上師の教えに従い、一歩一歩確実に実践してきたからである。
この仏寺を建立したのは、皆が清らかな道場で法会に参加できるようにと願ったからである。ここで法会に参加する際には、外の悪い習慣をこの道場に持ち込まないようにしてほしい。先ほど皆さんがガチャガチャと法本を片付けていたが、もし交響楽団の演奏会に参加していたなら、指揮者が退場する前に動く者はいないだろう。教養ある人間として、礼儀を学ぶことは人としての基本である。せめて尊重をするように、好き嫌いに関わらず、どの場にもそれぞれの礼儀がある。法本にも明記されているように、法会に参加する時は、急ぐ心をもってはならない。この世界は、私たちがいなくても回っている。自分が特別に重要だと思い上がってはならない。
福報があり、このように清らかな法会に参加できる以上、しっかりチャンスを把握するべきである。この法会に参列できたのは、決して当たり前のことではなく、過去世で修行を積んだ縁があるということだ。しかし今生でそれを忘れ、迷ってしまっただけである。今日は皆さんに長寿仏の灌頂を授けた。願わくは、皆さんが非時の死に遭うことなく、この生において必ず仏門に帰依する因縁を得られますように。自宅にいて自分のやり方で修行できると思ってはならない。先ほど話したように、レチョンパは多くの修法を成し遂げた後でも、求法から帰ってきた際には必ず上師に報告をしていた。私たちはそこまでできないとしても、少なくとも古の修行者の心構えを学ぶべきである。自分勝手なやり方で仏法を学んではならない。過去二千年以上にわたって、多くの修行者が示した模範を手本にすべきである。
皆さんには、仏菩薩に対して、上師に対して、そして法に対して敬意をもってほしい。敬意をもてば、そこから福報が生まれる。それは毎日仏に礼拝するという形ではなく、心の中で仏法を尊重し、仏法の貴重さを深く理解することである。仏法は、決して簡単に得られるものではない。今日のこの法会も、開催までに多くの準備が必要だった。私は昨日から先に修法を行い、今日ようやく皆さんに灌頂を授けることができた。どうかこのご縁を大切にしてほしい。私はもう年を重ねており、いつまでもこのように続けることはできない。いつの日か、まだ仏門に帰依していない信者への恩をすべて返し終えたなら、法会は帰依弟子のみを対象に行うことになるかもしれない。法に定まった形はない。私は名誉や利益に執着することはなく、すべてを縁に任せている。清らかな仏寺を一つ建立することは決して容易ではない。難しさは、その清浄な立場を守り抜くことにあるのだ。
この法会に参加できたこと自体が、大きな福報の証である。どうかこのご縁を大切にしてほしい。人生は貴重であり、二度と同じ機会はない。
法会は殊勝に円満に終了した。
法会は殊勝円満!参会の大衆は、開山住持上師尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを恭しく法座よりお送りした。
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2025 年 11 月 05 日 更新