尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年10月17日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』巻第十八「無量寿如来会第五之二」を開示された。

経典:「かれ無量億那由他百千むりょうおくなゆたひゃくせんぶつみもとにおいて、もろもろの善根ぜんごん不退転ふたいてんじょうじ、まさにかのくにしょうずべし。いはんや菩薩ぼさつ少善根しょうぜんごんによりてかのくにしょうずるもの、称計しょうげするべからず。」

どんな行者が阿弥陀仏の身許へ行けるかについて、釈迦牟尼仏は再び解説された。現在、阿弥陀仏の身許に72億の菩薩がいると前回開示した。72億は確かに地球の人類より多いが、決して多いとは思ってはならない。阿弥陀仏の成仏されたタイミングからすれば、多いということは少しもない。私がちょっと計算したところ、年間0.02人の行者が阿弥陀仏の身許で菩薩に成られたと分かった。

地球の人類だけが、阿弥陀仏国土に生まれるとは限らない。この段落では、十方法界におけるあらゆる国土の衆生が、阿弥陀仏の法門を修行し、往生しようと発願すれば、全て阿弥陀仏国土へ往生するとされる。仏典の解説によれば、虚空・宇宙にある仏土は億万の単位で計算されるものだから、十方法界におけるあらゆる仏土の行者はみな阿弥陀仏の身許へ行かれる。仏典の内容によれば、六道の衆生はともかく、人道の衆生だけで充分多くいると分かる。こんなにも仏土がある中、実際に行かれるのは多くはいない。

もろもろの善根を種え不退転を成じ、まさにかの国に生ずべし。」決して今生に地球で毎日3,000遍の六字大明呪を唱えるだけで、阿弥陀仏国土へ行かれるのではない。それは、きっと生生世世に十方法界に於ける多くの仏土で修めたことがあるに違いない。ただ今生が地球に生まれ、地球で修行しているだけなのだ。自分自身に「もろもろの善根を種え」があるかと問うと良い。「種え」とは、適当にしたりするのではない。例えば、我らがある種を土の中に植えようとする場合、まず土を深く掘る必要があり、正しい種を選んでその中に入れてから、またきちんと土を戻し、水をやったり肥料を与えたりしてはじめて種が根っこを伸ばし芽が生えるようになるのだろう。自分が仏道修行しているから、毎日少しずつ修めれば、何もかも解決し得ると思ってはならない。そんな簡単なことはない。絶え間なくし続けるべきだ。

顕教は仏の説かれた一切の仏法の根拠・理論だ。そなたは揺るぎなく信じるべきで、自分自身の経験法則で仏の説かれた事が存在するかどうかを推敲してはならない。時下、多くの仏道修行者は、「我らに仏の説かれた境地が見えないから、実際にあるかどうかをどうやってわかるのか」、「あるかないかを知らないままでは、今私が実践したところで、どうやって成し遂げられるかがわかるのか。」という癖を持ちがちだが、これこそ「疑い」なのだ。また、もう一種の疑いに「私には多くの差し障りがあるから、為し得られない。」というのがある。つい二週間ほど前に言ったように、上師はそなたらが差し障りを乗り越えられるように助けるのだと。それでも又しても、法を請いに来た人に、差し障りを消去するよう法を請う者がいた。まったく話を聞かない。これ等の人々に伝法をしない。なぜかと言うと、彼らに上師の大切さを本気で知らないからだ。誰もが「自分が法を求めるだけ、応じてくれるべきだ」と思い込んでいる。こんなにも話を言ったが、聞き入れる人が一人もいない。こんなに仏典を説いてきたが、心を配って聞き入れる人が一人もいない。

最近、一部の帰依弟子の自宅にある壇城の置き方が自分好みでめちゃくちゃになっていると気づいた。よりにもよって、私の写真をど真ん中に飾ってしまった。これは私への危害になる。よく見てごらん。道場の壇城に、祖師ジッテンサムゴンの仏像は真ん中に安置されているのか。(弟子らは、真ん中にないと答えた)それなのに、お宅の壇城に、私の写真をど真ん中に飾れようがあるのか。観音菩薩のお写真があるくせに、それを真ん中に飾らないだけでなく、意地になってそれが私への恭敬を表すことになると思いきや、実は私への危害となり、私への恭敬でもなく、私への迷信となるのだ。真ん中に飾ると、きっとリンポチェは何でも解決してくれるだろうと狙っている。だから、私の写真をど真ん中に飾る皆、今日ご自宅へ帰ってからそれを菩薩の左手に直せ。

終日、仏を学びたいやら、修行したいやらと言うべきではない。この言い方自体、間違いはないが、そなた一人では修め得られず、必ず上師・伝承・仏菩薩から絶え間なく教えられ、ゆっくりとそなたの心を薫陶していく必要があるのだ。顕教の場合だと、成仏するには三大阿僧祇劫という時間がかかる。

かれ無量億那由他百千の仏の所において」。彼らは何れも非常に長い期間に渡って修行をしてきて、多くの善根を植え付けている。「不退転」とは懈怠や怠けという意味ではなく、菩提心が退転しないという意味なのだ。こうして彼の国に生まれようがある。

いはんや余の菩薩、少善根によりてかの国に生ずるもの、称計するべからず。」ほかに、善根がやや少なめな菩薩らも其の国に生まれるが、その数は数えきれないほどだ。

経典:「阿逸多あいった難忍如来なんにんにょらい仏国ぶっこくより、十八億じゅうはちおく不退ふたい菩薩ぼさつありて、まさに極楽世界ごくらくせかいしょうずべし。」

阿逸多」は弥勒菩薩だ。釈迦牟尼仏が弥勒菩薩を呼ぶときの名前だが、それは慈悲の至りという意味だ。釈迦牟尼仏はとにかく弥勒菩薩に阿弥陀仏の国土を開示させるようにした。おそらく、その時、釈迦牟尼仏は既に末法時代の衆生が己の見解で、誰が正しいやら誰が正しくないやら、どの宗を修めた者に限って阿弥陀仏国土へ行かれると思っているのかを見抜かれたのかもしれない。ここでは、釈迦牟尼仏はこうした観念を打破する。多くの者は弥勒菩薩を修めれば兜率天へ行くことになるから、阿弥陀仏を礼拝してはならないと思い込んでいる。それに対して、阿弥陀仏を修める者は、弥勒菩薩を礼拝してはならないと思われている。これは(仏教以外の)外道らしい言い方だ。(仏教以外の)外道では、他者を礼拝するのが禁忌だからだ。

仏法は拝むのではなく、あらゆる諸仏菩薩を尊重し、彼らからは我らに修行させるよう加被・加持してくださるものだから、身内とよそ者との区別をつける必要はない。そなたにはどの菩薩やどの仏とご縁があるにしろ、それは何れも過去世に植え付けたものだ。だが、諸法門のうち、阿弥陀仏の法門がより簡単なもので、そなたが腹を決めさえすれば、そして『阿弥陀経』、『無量寿経』の内容に則った上、決心し、心持を全て調整して、諸の善根や因縁などを植え付けたりするよう、如実に実践し、何一つも疑惑を持たずにいれば、発願するだけで浄土往生が得られるのだ。他の法門の場合には、多くの条件が付け加えられている。

密法を修める場合には、本尊を修める必要があるように、四つのタントラ(所作タントラ・行タントラ・瑜伽タントラ・無上瑜伽タントラ)を修めなければならない。四つのタントラを成就に修めてはじめて菩薩の力を行使して、衆生利益することができるようになるのだ。仏法を請いに来た者は、己と衆生を助けたいと願う人が多い。顕教はあらゆる仏法の基礎となるが、顕教では詳らかにどんな法門を使って衆生を助けようかについて教えていず、ひたすら自分の心を知り尽くし、如実に実行せよとしか教えていない。衆生を助けるには密法を用いるのが必須だ。密法とは、灌頂を授かるやら、持呪するやら、そして100万遍の真言を満たすように唱えるやらをすれば衆生利益できるわけではない。必ず、所作タントラ・行タントラ・瑜伽タントラと無上瑜伽タントラを修め切って、そして成就を得てから、更に息・懐・増・誅という四つの法も成就させてはじめて自利利他できるとされる。そう簡単なものではない。

阿弥陀仏の浄土は最も簡単なのだ。「ひたすら阿弥陀仏を称名すると、人の為になれるし、先方の人がよくなるよ」という人もいる。実は、そなたが阿弥陀仏をよく称名して人が助けられたのではなく、先方にも善根があることから、阿弥陀仏の名号を聞いて歓喜心を起すに連れて、業が動いたのだ。そなたによって助けられたのではない。そなたが所作タントラ・行タントラ・瑜伽タントラの何れも修めないのなら、無上瑜伽タントラは言うまでもなく、授けられないだろう。だったら、どう先方を助けようか。仏を学ぶ弟子として、上師に対して疑い・瞋恚の心を起すと、将来成仏する機会がほとんど皆無だ。私は成仏したくないから、平気だという人もいるが、ポイントはそなたが成仏するかどうかになく、仏道修行の道がそもそもこうなのだということにある。もし、そなたには成仏する心がなければ、自ずと人天福報を修めるに留まり、六道輪廻を修めるようになる。仏道修行することは、成仏し、広大なる法界衆生を利益するのと知っていれば、きっとそなたの心も自然に決定し、微塵たりとも疑惑を起さないようになるのだ。

難忍如来の仏国より、十八億の不退の菩薩ありて、」従難忍如来仏国には18億の不退転の菩薩がいる。登地菩薩に留まらず、不退転といえば、少なくとも八地に近い菩薩のことを指すのだ。「まさに極楽世界に生ずべし。」ここから、仏と仏の間に弟子や信者を奪い合ったり、別の仏土を批判したりすることがないことが分かる。この衆生がある仏土へ行きたいと思うだけ、あらゆる諸仏が彼にそれを成就させてあげる。『阿弥陀経』でもはっきりと説かれたように、十方法界諸仏が広長舌相を出して阿弥陀仏の功徳を褒め称えることが、まさにこうして出来たのだ。

経典:「東北方とうほっぽう宝蔵仏ほうぞうぶつ国中こくちゅうに、九十億くじゅうおく不退ふたい菩薩ぼさつありて、まさにかのしょうずべし。無量声如来むりょうしょうにょらい国中こくちゅうより、二十二億にじゅうにおく不退ふたい菩薩ぼさつありて、まさにかのしょうずべし。光明如来こうみょうにょらい国中こくちゅうより、三十二億さんじゅうにおく不退ふたい菩薩ぼさつありて、まさにかのしょうずべし。竜天如来りゅうてんにょらい国中こくちゅうより、十四億じゅうしおく不退ふたい菩薩ぼさつありて、まさにかのしょうずべし。勝天力如来しょうてんりきにょらい国中こくちゅうより、十二千じゅうにせん不退ふたい菩薩ぼさつありて、まさにかのしょうずべし。」

経典:「師子如来ししにょらい国中こくちゅうより、五百ごひゃく不退ふたい菩薩ぼさつありて、まさにかのしょうずべし。離塵如来りじんにょらい国中こくちゅうより、八十一億はちじゅういちおく不退ふたい菩薩ぼさつありて、まさにかのしょうずべし。世天如来せてんにょらい国中こくちゅうより、六十億ろくじゅうおく不退ふたい菩薩ぼさつありて、まさにかのしょうずべし。勝積如来しょうしゃくにょらい国中こくちゅうより、六十億ろくじゅうおく不退ふたい菩薩ぼさつありて、まさにかのしょうずべし。人王如来にんのうにょらい国中こくちゅうより、十倶胝じゅうくてい不退ふたい菩薩ぼさつありて、 まさにかのしょうずべし。勝花如来しょうけにょらい国中こくちゅうより、五百ごひゃく菩薩ぼさつありて、大精進だいしょうじん一乗いちじょう発趣ほっしゅして、七日しちにちのうちにおいて、よく衆生しゅじょうをして百千億那由他劫ひゃくせんおくなゆたこう生死しょうじ流転るてんはなれしめ、かれらもまたまさに極楽界ごくらくかいしょうずべし。」

ここでは、特に勝花如来国の500菩薩が七日間のうちに、衆生を輪廻苦海から離れさせ、彼らを極楽世界に生まれさせられることを強調している。彼らも阿弥陀仏国土に生まれることになる。

経典:「発起精進如来ほっきしょうじんにょらい国中こくちゅうより、六十九億ろくじゅうくおく不退ふたい菩薩ぼさつありて、まさにかのしょうずべし。かのくにいたりをはりて、無量寿如来むりょうじゅにょらいおよび菩薩衆ぼさつしゅ供養くよう礼拝らいはいしたてまつる。阿逸多あいった、われもしつぶさに諸方しょほう菩薩ぼさつ極楽界ごくらくかいしょうじ、もしはすでにいたり、いまいたり、まさにいたりて、ために無量寿仏等むりょうじゅぶつとう供養くよう礼拝らいはい瞻仰せんごうしたてまつるものをかんに、ただそののみをくも、こうきわむともきず。」

前述したのは僅か一部の話に過ぎず、本気で説くようなら、一劫の時間があっても足りないぐらいだ。一劫は即ち160万年だ。160万年をかけても、他にまだどれだけの菩薩が彼の仏国土に生まれるのか、言い切れないのだ。

経典:「阿逸多あいった、なんぢかのもろもろの菩薩摩訶薩ぼさつまかさつのよく利益りやくるをかんぜよ。もしかのぶつみなくことありて、よく一念喜愛いちねんきあいしんしょうぜば、まさにかみのごとき所説しょせつ功徳くどくこころ下劣げれつなくまた貢高くこうならず、善根ぜんごん成就じょうじゅしてことごとくみな増上ぞうじょうすべし。阿逸多あいった、このゆゑになんぢおよび天人てんにん世間せけん阿修羅等あしゅらとうげて、いまこの法門ほうもんをなんぢに付嘱ふぞくす。まさに愛楽あいぎょう修習しゅじゅうし、」

釈迦牟尼仏は明瞭に説かれたが、あらゆる一切の仏土にいる不退転の菩薩が発願し、阿弥陀仏国土が好きだという念頭さえ起し、そして上記の功徳を具備していれば、「心に下劣なくまた貢高ならず」者は、何れもそこへ往生できるとされる。仏は更に弥勒菩薩に、今この法門を修めるよう、あらゆる「天人・世間・阿修羅」に言うべきだ、そしてこの法門を好んで修習すべきだと言い付けられた。

経典:「すなはち一昼夜いっちゅうやるにいたれども受持じゅじ読誦どくじゅして希望けもうしんしょうじ、大衆だいしゅのなかにおいてのために開示かいじすべし。まさに経巻きょうかん書写しょしゃ執持しゅうじして、この経中きょうちゅうにおいて導師どうしそうしょうぜしむべし。」

仮に衆生を救済する場合、このお経を24時間唱えた上で、希望の心を生じ、大衆の中において開示し、更に書写やこの経巻をどう持するかを教えるべきだ。『無量寿経』を上師の想いとするのだ。

経典:「阿逸多あいった、このゆゑに菩薩摩訶薩ぼさつまかさつ無量むりょうのもろもろの衆生しゅじょうらをして、すみやかに阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいより退転たいてんせざることに安住あんじゅうせしめんとほっし、」

この簡単な法門を用いると、あらゆる菩薩は無量の衆生を助けられ、速やかに心不退転の勝義菩提心に安住させられるのだという。

経典:「およびかの広大こうだいなる荘厳しょうごん殊勝しゅしょうなる仏刹ぶっせつ円満えんまんせる功徳くどく摂受しょうじゅせんとほっせんもの、まさに精進力しょうじんりきおこすべし。この法門ほうもんくに、たとひ大千世界だいせんせかいのなかにてらん猛火みょうか経過きょうかすとも、ほうもとめんがためのゆゑに退屈たいくつ諂偽てんぎしんしょうぜず。経巻きょうかん読誦どくじゅ受持じゅじ書写しょしゃして、乃至須臾ないししゅゆのあひだにおいてなりとも、のために開示かいじし、つとめて聴聞ちょうもんして憂悩うのうしょうぜざらしめよ。たとひ大火だいかるも疑悔ぎけすべからず。」

この一節は明瞭だ。良くない出来事に見舞われている時、ひいては大火の中に居るとしても、我らの此の法を求める心は退転してはならない。ここでの大火とは本物の大火災を指すのではなく、『妙法蓮華経』で説かれた火宅(かたく)のことで、つまり輪廻苦海の中にいるということだ。輪廻するに際し、人は自分の善悪業の出現や成熟に対し、異なった心理的反応が生じる。善果の成熟に対し、福を享受できるから大変喜ぶとする。不善の業が成熟すると、頭を悩ませ、願いが遂行しない分、いたずらに瞋恚の心・煩悩の心・怨恨の心が起きることになる。

この一節は、我々は此の法門を修めるべく、たとえ輪廻苦海の中・煩悩の火の中においても、此の法を揺るぎなく信じ切って退転しないという意味だ。何節か六字大明呪を唱えれば、何もかも解決するやら、法会への参列を二・三年間続ければ、全てが良くなるやらと思ってはならない。よくなるよう助けてあげないと、すぐ学びたくない心を起す人なんてたくさんいる。仏は率直に仰せになったが、此の法門を学ぶに当たり、その間に発生した如何なる良い事や悪い事は全てそなたの業力によるのだという。此の法門は、即刻そなたの業力を変えるのではなく、即刻そなたの未来の業力、つまり後世の業力を変えさせるのだ。もし、こんな心持で浄土を修めれば、きっと余計な事が少なくなるのだろう。かりに、こんな心持を持たず、何もかもすぐ良くなって欲しいと思っているのであれば、自ずと懈怠し、ひいては諦めたり、仏や上師を誹謗したりするようになるのだ。

たとひ大火に入るも疑悔すべからず」。この段落は非常に説明しにくい。仏道修行する傍ら、何故か大火の中に入ってしまうことはありえないだろう。ここでは、間もなく修得する人に対し、いったん仏道修行を開始すると、多くの場合、これ等の人に直ぐ悪業が現前するようになるという意味なのだ。そなたの心への試練なのか。これは(仏教以外の)外道で言う「魔による試験」ではない。それは、そなたが仏道修行すると決心したその一刻から、累世の業が清浄にならない限り、善業にしろ悪業にしろ、何れも成熟が早まるようになるということだ。何故なら、累世の業・特に悪業を完済しなければ、きっと、絶対に行かれないからだ。

リンポチェに懺悔すれば行かれると思ってはならない。例えば、曹という弟子(詳しくは衆生済度事跡1101号を参考)は真心を込めて懺悔したが、依然に痛み、具合が良くなく、早く死にたくても死ねなかった。それは悪業を返済し切れておらず、まだ大火の中に居るからだ。「そんなに時間をかけて仏道修行しているのに、何の変化もないままでは、学んでどうするのか。望んだことが得られないままでは、学んでどうするのか。いっそのことで学ばないことにしよう。それか、適当に唱えればいいや」と、人は懐疑の心・後悔の心を起すのだ。99.9%と言っていいほどの人にはこんな心持がある。ここでそんなにも多くの菩薩が行かれたと書かれたのに、と言ってはならない。彼らは菩薩に成ってはじめて行かれたのだ。そなたら凡夫ではどう行けようというのか。そなたらにしては、化身していくだけでめでたいことだ。だから、早く決心しなければならないぞ。

たとひ大千世界のなかに満てらん猛火を経過すとも」。大千とは三千大千世界のことで、即ち輪廻の世界だ。我々は多くの世において経験している。猛火とは、即ち煩悩の火・業の火だ。それは燃え続けている。そなたが母胎に入ったその一秒から、燃え続けている。母親の子宮に入った瞬間から、苦を受け始めたのだ。知覚のあるそなたを水嚢の中に閉じ込め、管一本を与え、そなたを満腹させる以外、何も知らずに中に宿っていては、苦しいと思わないか。母胎に入った一秒から苦労している。人生というのは、苦多き楽少なきだ。楽は極めて少ないものだ。

どうして仏はここで解き明かさないのか。それは、ここまで説いていたら、聞き手が菩薩道を修める者ばかりであり、詳しく細かく解説する必要がなくなるからだ。そなたらは三悪道・貪瞋痴を修める者ばかりだ。自分は、仏に頂礼するし、大礼拝(五体投地)をしているし、と自惚れてはならない。まだ貪瞋痴のままだ。何故、大礼拝(五体投地)をするのかと自分自身に問うといい。

法を求めんがためのゆゑに退屈・諂偽の心を生ぜず」。「」とは、要するに、私が常々取り上げていた例だが、以前、私が食事に事欠くほど貧乏だった時でも、仏前の花・灯りとお香は途絶えたことがなかったようにだ。これはなかなか成し得ないことだが、誰かがそうすれば、きっと迷信やら魔に入ったやらと叱られるに違いない。幸いなことに、あの時、私は一人きりだったので、自分で決められた。もし家族が多ければ、自分で決められなくなったし、きっと怒られていただろう。「仏祖よりも、自分のお腹を先にお世話しなさい」という言い方も、きっと皆も耳にしたことがあるだろう。

あの時、私の所持金は僅か1,800元だった。1,500元を支払ったから、残り300元になった。此の法は15日間学ぶものだったので、300元で15日間を過ごしたのだ。しかも、講義の場所は私の住まいとだいぶ離れており、バスの乗り方を知らない私はいつも徒歩で往復していた。こうして15日間歩いていた。そなたらはこんなに苦労しているのか。そなたらだったら、きっと「家賃・水道光熱費・食事代を支払うお金が無くなるから、今回は学ぶのを見送ろう。また次回求めればいい。」と思うだろう。そなたら皆はこんな心持だ。それに、私も借金をしない。「」というのは、借金のことも含まれるのだ。これも私には升坐が出来るが、そなたらには出来ない理由だ。私は死を恐れない性格だ。仏法を学ぶのに使うお金を、疑いもなく私は出す。飢え死にになるようなことがあれば、それも私自身の問題だ。一般の人では、食事に事欠くほど貧乏になると、それはそれは煩悩の火が燃え滾るはずだ。家賃すら払えなかった私は一度も疑い・後悔をしたことがない。

諂偽の心」。苦しそうに仏道修行しているのを装ってはならない。多くの人は自分が苦しいと思い込んでいるから、上師・仏菩薩にお慈悲をくださいと求めにきている。それは不可能だ。何故かと言えば、そなたの苦しみはそなたの業なのだ。仏典では仏菩薩は貧困の苦から救うと説かれているとは言え、仏道修行を決定づけた人を対象に貧乏の苦から救うのだ。彼に金を儲けさせ、債務や家のローンを完済させ、子供の学費を払わせるのではなく、飢え死にならないようにさせるのだ。

マンタ供養を求めに来た多くの人は、学んだらきっと金儲けするし、給料が上がるし、金運に恵まれるだろうと思っている。実はそうではなく、マンタ供養を修めることは、そなたに仏道修行するに足る・上師と仏菩薩に供養するに足る資糧を持たせる為なのだ。そなたらはみな貧乏人だ――お金を持つ貧乏人だ。自分自身が過去世に餓鬼道の因を植えたことがあるかないかと知らないのだろう。どうして私は今生に食事に事欠くほど貧乏になったのか。それはきっとある世に布施・供養を出し惜しんだからだろう。出し惜しみとは、完全に出さないことではなく、出してから後悔したり、あちこち他の人がいくら出したかと聞いたり、夫や妻にバレるのを恐れたり、叱られるのを恐れたりすることだ。

昨日、ある帰依した母子が面会を求めに来たところ、その娘は家で幽霊を見たと言った。そう言うので、お宅は全員が菜食しているのではないだろうと私は言った。母親の方の弟子は、家族は家に帰ってくると菜食するが、外では生臭ものを食べていると言った!そなたらは仏道修行をバラエティ番組を見ているかのように扱い、どうせ平気だろう、いずれにせよ仏菩薩は守ってくれるだろうと思っている。幸いな事に、その娘はリンポチェに助けてもらおうと思い浮かべて、その幽霊が離れるようになった。こんな話を耳にすると、なんだか悲しい。話を聞けと教えたのに、どうして従わないのか。他人がそなたの話を聞かなくていいのに、何故、そなたは他人の言う通りにしなければならないのか。それはご自身の業が重く、福報がないからだ。福報のない者は更に注意深くしなければ、何度も多く言わなければならない。

」とは、即ち仏道修行を装うことだ。以前、聖地を巡る海外法会ツアーの参加したが、一部の弟子は装っていた。皆が行くのに、自分だけ行かなければ悪いと思ったからだ。これこそ偽装だ。本気で行きたいのではない。帰ってきたらすぐ後悔して、「知っていたら行かなかったのに。こんなにお金をかけて、どう説明しようというのか」という。私は皆を強いたことがなく、何れもご自身の決定だ。私は、聖地巡礼に行かないと運が悪くなるぞ、或いは海外法会に参列すると良くなるぞと言った事がない。ただこの因縁があって周知させるだけなのだ。参加するかどうかはご自身次第だ。

経典:「なにをもつてのゆゑに。かの無量億むりょうおくのもろもろの菩薩等ぼさつとう、みなことごとくこの微妙みみょう法門ほうもんもとめ、尊重そんじゅう聴聞ちょうもんして違背いはいしょうぜざればなり。このゆゑになんぢらこのほうもとむべし。」

尊重して、聴きに、聞きに来る。聴・聞は異なる。「聴」とは聴覚で、耳根(にこん)で聴くのだ。「聞」とは、そなたの清浄なる本性が受け入れ、完全に仏典で説かれた一切の事、ひいては一文字すら背くことがないことだ。どれぐらい背いたかと、よくよくご自身に問うと良い。

この法を求むべし」。多くの人は自分で阿弥陀仏を称名することが出来ることは、既に此の法を求め得られたことだと思い込んでいる。実は、法を求めることというのは、誰に向かって求めるものなのか。仏は喋らないし、仏典に向かって求めるものでもなく、取りも直さず上師に法を求めるのだ。どんな心持で求めるのか。ここでは、尊重という。というのは、上師の言ったことを聞き入れるべきだ。そなたらは完全に尊重せず、ひたすらご自身の考え方で法を求めては、当然のように伝授しないとする。リンポチェがそなたを弄るのではない。私のすることに裏付けがある。全て仏典に基づいているのだ。

経典:「阿逸多あいった、かのもろもろの衆生大善しゅじょうだいぜんなるん。」

ここまで説いてきたが、仏は法を求めたこれ等の人が、衆生を救済することが出来るとは言っていない。ただ法を求めた人は、自身に大なる善利が得られるという。自身の問題すら未解決のくせに、どう他人を助けようというのか。まるである貧乏人がご飯に事欠くほど貧乏だが、ある人が彼にお金を借りようとすると、彼は貧乏さと来たら私の方が増しているから、かえってお米一粒を貸してくれないかというようなものだ。そなたら自身がすで貧乏で仕方がない。ここでの貧乏は金を指すのではなく、仏法に於いてである。そなたらは何も持たないのに、自利利他・衆生救済をしようとしている。

もう一通りの言い方がある。これ等の衆生には大なる善利が得られ、これ等の衆生には大なる善の利を有することができ、生死解脱の方法を得られるよう彼を利益するとされる。

経典:「もし来世乃至正法滅らいせないししょうぼうめっせんときにおいて、まさに衆生しゅじょうありてもろもろの善本ぜんぽんうれば、すでにかつて無量むりょう諸仏しょぶつ供養くようし、かの如来にょらい加威力かいりきによるがゆゑに、よくかくのごときの広大こうだい法門ほうもん一切いっさい如来にょらい称讃しょうさん悦可えっかべし。」

仏の滅度500年後、正法は滅びた。まさに過去世に大きな善根を植えた衆生がいて、既にかつて無量の諸仏を供養したことがあるに違いない。仏が彼等を加被すると、広大なる法門が得られるべきだ。というのは、今生に阿弥陀仏の法門を求め得られたそなたは、間違いなく過去世に多くの善根を植え付けたという意味なのだ。

そなたが広大なる法門を得た後、一切の如来に称讃・歓喜・認可・同意される。浄土を修める者に対し、成就を得させるよう、諸仏菩薩が保護し加持するという意味なのだ。自分は世間の仏法を修めると言うのなら、残念ながら、仏典においては人間仏法や人間菩薩に言及されていない。ところが、地球の人類を助けるように、世間に生まれる菩薩はいるという。

経典:「もしかのほうにおいて摂取せっしゅ受持じゅじせば、まさに広大こうだいなる一切智智いっさいちちこころねがふところにしたがひてもろもろの善根ぜんごんうべし。」

如何なる智慧も得られる上、善事をしようと念頭を動かすと、すぐチャンスが訪れてくれる。善を行いたいという考えるだけで、行えると思ってはならない。かつて、ある人が面会を求めに来たが、その業の重さに鑑みて、私はお金を持たなくて医者に診てもらえない人に、お金をあげに病院へ行けと言ったところ、一か月待っても、こんな人が見つからなかったそうだ。寄附すればいいんだと思ってはならない。今や、むやみに寄附する人が多いが、結局、善根すら植え付けられずに終わるのだ。場所や方法を正しくしていなければ、善根の植え付けにならない。また、上師がやり方を教えていずに、そなたがし損なった場合にも、善根の植え付けにならず、ただ善事を少し為したに過ぎないのだ。

経典:「もし善男子ぜんなんし善女人等ぜんにょにんとう、かのほうのなかにおいて広大こうだいにこれを勝解しょうげすれば、まさによく聴聞ちょうもんして大歓喜だいかんぎ受持じゅじ読誦どくじゅしてひろのためにき、つねにたのしみて修行しゅぎょうすべし。」

仏の仰せになった善男子・善女人とは、即ち十善法を修める男女のことで、一般で言う善心の人・善人を指すのではない。

経典:「阿逸多あいった無量億数むりょうおくしゅのもろもろの菩薩等ぼさつとう、このほう求請ぐしょうしてかつて厭背えんはいせず。」

無量億数の諸菩薩等が此の法を求めるに際し、嫌気を差すことや違背するという考え方を起したことがない。

経典:「このゆゑになんぢらもろもろの善男子ぜんなんしおよび善女人ぜんにょにんこん来世らいせにおいてよくこのほうにおいて、もしはすでにもとめ、げんもとめ、まさにもとめんもの、みな善利ぜんり。」

多くの人は法を求め間違え、聞法(もんぽう)もちぐはぐであるから、まったくどこ吹く風と聞き流しているようなものだ。何か自身と無関係のようなことだと、気にならないし、覚えようとしない。私はすでに法王に長く従い、仏道修行しているが、数日前に法王にあるテキストを口伝していただくよう求めた。法王は説明せずに一回口伝され、しかもチベット語だった。どう修めようというのか。衆生の為に歓喜心を起して法を請っていなければ、また自ら衆生利益するのを決心しなければ、唱え終えたのは唱え終えたが、どのようにして法王が仰せになったのを知るのか。法を請う者の心が間違っていれば、得法はしない。たとえ、うっかり見間違えて口伝してしまったとしても、そなたも修め得られないのだ。

経典:「阿逸多あいった如来にょらいなすべきところは、みなすでにこれをなしたまへり。」

仏として為すべきことは既に為したから、今はそなたらが為すべきところだという。というのは、仏が浄土・修行する環境を整え、修行法門も用意し、どう修めるかについても教え、全てを完備し、加持も与えたのに、何故まだ修め得られないのかという意味だ。それは、そなたらは完全に為していないからだ。この一節は明瞭だ。リンポチェを頼りにするという人が多い。リンポチェが道場を完備し、法器やテキストなどを用意し、多くの仏法を説いたのに、そなたらは少しも為さないでいる。

経典:「なんぢらまさに無疑むぎ安住あんじゅうしてもろもろの善本ぜんぽんうべし。」

そなたらは為したか。少しでも多めに為してもらうと、すぐ疑心を起す。これをしたらダメだと注意すると、また疑心が始まる。

経典:「つねに修学しゅがくして疑滞ぎたいすることなからしむべし。」

疑ってはならない。立ち留まってはならない。

経典:「一切いっさい種類しゅるい珍宝ちんぽうをもつて成就じょうじゅせる牢獄ろうごくらざれ。」

仏道修行は珍宝や財物を得たり、人天福報を享受したりするのを目的とするのではない。そうだったら、そなたは輪廻という牢屋に入ることになる。多くの人が仏道修行する時に、「仏菩薩よ、どうか家のローンを先に完済させてください。これでやっと仏道修行に専念することができるようになる。ローンを完済してから、半分を供養にするから」と言いがちだ。これ等は全部でたらめ・脅し・恐喝だ。きっと多くの出家衆も、信者からこんな話を聞いたことがあるだろう。仏道修行はこれが目的ではないと仏は仰せになった。前にも述べたが、菩薩まで修めると、そなたは受用ができるが、摂取することができない。そなたが菩薩になるだけで、全て最も良いのを受用することができるとされる。摂取とは、与えてくださいと仏菩薩に求めるのではなく、それは福報が起きると自ずと存在し、身の周りに現れるものとし、求める必要が一切ないのだ。だが、誰も聞き入れていない。

経典:「阿逸多あいった、かくのごときらの大威徳だいいとくるいするもの、よく広大こうだいなる仏法ぶっぽう異門いもんしょうず。このほうによりて聴聞ちょうもんせざるがゆゑに、一億いちおく菩薩ぼさつありて、阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいより退転たいてんす。」

「一門深入」とは、一つの法門しか修めないということではなく、解脱門に入るということだ。あらゆる仏法は解脱を目的とし、解脱門に入らなければ、別の門に入ってしまうことになる。「異門」とは解脱門ではなく、別の門のことだ。例えば、密法の中に財神法があるが、ある人は財神法を修めて信者にお金を持たせることで、自分に供養が得られるということになると、「異門」になる。仏法はこんな事が目的ではなく、生死解脱・また菩薩や仏に成る為なのだ。仮に、そなたがこれを目的として修法するのでなければ、即ち「異門」だ。又は、他の別の目的で修法する人がいれば、これも「異門」だ。たとえ彼が大威徳力を持って、「異門」で修め得られたとしても役に立たないのだ。何故なら、彼は解脱の法を聴きたくないからだ。

一億という菩薩が阿耨多羅三藐三菩提を退転する。仮に、そなたが浄土法の代わりに、別の法を修め、別の事の為に修めるのであれば、たとえ菩薩に成ったとしても、一億という菩薩は菩提心を退転すると仏ははっきりと仰せになった。要するに、仏や菩薩に成ることができないのだ。上辺では、そなたに多くの慈善事業を教えてくれるし、仏像も安置され、念仏せよと勧めてくれるが、どう生死解脱するか教えていなければ、「異門」だ。『無量寿経』では、どう生死解脱するかと我々に教えている。つまり、この一節は、いくらそなたが真に仏道修行したとしても、そなたが解脱法を求めず、現世の利益・ひいては未来世の利益・安逸な暮らしを求める限り、決して菩薩に成ることはないという。菩薩に成ったとしても、菩提心を退くことがある。菩提心が退いたら、菩薩に成れるわけがない。

経典:「阿逸多あいったぶつづることかたし。八難はちなんはなるることもまたがたしとなす。諸仏如来しょぶつにょらい無上むじょうほう十力じゅうりき無畏むい無礙むげ無著むじゃく甚深じんじんほう、および波羅蜜等はらみつとう菩薩ぼさつほう、よくほうけるひともまた開示かいじしがたし。」

仏がこの世間に出現することは実に容易なことではない上、八難の身を離れるのも難しいことだ。「諸仏如来の無上の法」とは、あらゆる仏が我々に生死解脱と成仏の法を教えて下さるという意味なのだ。「無畏」とは、怖がらないのではなく、身にふりかかった様々な煩悩・苦痛・快楽の全てを恐れないという意味だ。「無礙」とは、如何なる出来事もそなたに差し障ることにならないという意味だ。「無著」とは、如何なる点についても執着しないことだ。「甚深の法」は奥深く理解できそうにない法ではなく、如来の真実義が神秘的だと定義される。何故なら、我らはまだ成仏していない故、仏の真実義が我らにとって奥深いものとし、どう体得するか、どう理解するか分からないからだ。よって、よく話を聞け、懐疑心を起さず、嫌気を差さず、違背してはならないと、仏は明白に仰せになった。

これ等の法は波羅蜜等の菩薩の法で、どれも智慧を持つ菩薩に成る方法だ。たとえ仏法を説き明かせる人に会ったとしても開示し難いというのは、講経(こうきょう)ができるとしても、必ずしも仏法の開示ができるとは限らないということだ。何故なら、実修や経験を持たなければ、仏の甚深なる意義を開示し難いからだ。

経典:「 阿逸多あいった、よくほうひとにはふべきことやすきにあらず、堅固けんごなる深信じんしんときにもまたひがたし。このゆゑにわれいまのごとく宣説せんぜつす。なんぢら修習しゅじゅうしておしへのごとくじゅうすべし。」

我々が善く説法する人に出会うのは困難なことだし、仏法を揺るぎなく信じる人に出会うのも難しい。第一に仏を出会うのは難しい、第二に仏法を開示することができる人に会うのは難しい、第三に揺るぎない信心深い人に会うのも難しいと、仏は我々に注意している。よって、仏はこの時点であらゆる道理を言い聞かせるようになさる。そなたらはこの方法で修習し、この教えを受け入れ、この説法に住するべきだ。仏の説かれたことすら聞かないのなら、仏法を学ばない方が良い!仏が明白に説かれた通り、そなたは仏を見かけることができない分、説法する人を頼りにするしかないし、また説法する人を見かけるのも難しいが、そなたが見かけた以上、信心深く疑いなく揺るぎない心を持つべきだ、という三つの条件が必要だ。

にもかかわらず、なお「私はリンポチェを信じない、私はリンポチェの言ったことが出来ない」、「リンポチェは私の気に入らないことをしているから、説法する人ではない」という心構えを持っていれば、学ばないことを勧めるしかない。こんな考え方を持っていれば、即ち「堅固なる深信」が不十分だということだ。自身に「堅固なる深信」が不十分な場合には、あの人は迷信を信じているとか、つい「どうしてあんなにリンポチェを信じるのか」と他の人に問うようになる。私個人を信じるのではなく、私の説いた仏法に裏付けがあるかどうかを信じ、私の宣説した仏法が仏典で説かれた内容かどうかを信じるのだ。故に、仏典では「われいま理のごとく宣説す」と書かれており、つまりこの理に基づいて説きあかしたもので、ちゃんと裏付けがあるというのだ。

前述したように、仏は為すべきことを全部してあげたのに、そなたが為さなくては何の効き目も発揮できないだろう。まさに寺院が竣工してからというもの、閉関用の場所が用意してあるが、そなたらが進んで閉関しなくては、何の役にも立たないようにだ。一部の弟子は「これからも私の閉関の番がくる」、「籤引きで当たるはずだ」と待っているが、それなら待とう!何故なら、私がどう采配するか見当が付かないからだ。私は間違いなく仏典を根拠に実行するのだ。こちらに来て、拝んだり、跪いたり、泣いたりすれば求め得られるやら、同じ弟子同士だから、人が閉関できるから自分もできると考えてはならない。法王にも弟子が多くいるのに、何故、私一人だけをネパールにある標高5,000メートルの雪山へ閉関しに連れて行ったのか。他にも、連れて行くよう、法王に求めている人が多くいる。

「どうして法を求め得られないのか」、「どうして自分が徐々に信じなくなってきたのか」と自分自身に問うと良い。「リンポチェは私が気に入らないことをやっている」。これもご自身によるもので、そなたに分別心があるからだ。もし、私の高座での説法が不如法であれば、人に批判されるどころか、いくら法王が私を可愛がっても、仏菩薩は決して私を可愛がらない。前にもはっきりと、菩薩すら阿耨多羅三藐三菩提を退転すると言っただろう。もし、私の菩提心が既に退転したら、きっとあの亡霊たちは他の人を通して済度を頼みに来ることはなかっただろう。何が鬼道の衆生に私が助けられると思わせたのか。菩提心だ!即ち、そなたらが言う慈悲心だ。私と面識のない鬼衆が本当にいる。私もその鬼衆に面識がない。だが、鬼衆に鬼通があって、誰が助けられるのか知っている。必要だと思う者は、様々な方法を通じて求めに来る。

この段落の経文は特別だ。他の経文には、釈迦牟尼仏がこう喋るのが滅多にない。ここでは明瞭に「仏が為すべきことは全てしてあげたし、菩薩が為すべきことも出来ている。」という。仏法で言う「仏法は聞き難く、師は遇い難い」ことは、仏典からの出典で、我らの発明ではない。仏の教えである以上、そなたらは「修習して教へのごとく住すべし」だし、教えられた方法に住した上、よく学び、よく修めるべきだ。それ以外の方法は効かない。

経典:「なんぢ阿逸多あいった、われこの法門ほうもんおよび諸仏しょぶつほうをもつてなんぢに嘱累そくるいす。なんぢまさに修行しゅぎょうして滅没めつもつせしむることなかるべし。かくのごときの広大微妙こうだいみみょう法門ほうもん一切いっさい諸仏しょぶつ称讃しょうさんしたまふところなり。仏教ぶっきょうしてこれを棄捨きしゃし、」

釈迦牟尼仏曰く、弥勒菩薩よ、私は今そなたにあらゆる仏法を任せるから、仏法が滅びないよう、そなたは修行すべきだと嘱託する。よって、我らは諦めて仏法を学ばないことはできるものか。

経典:「まさになんぢら不善ふぜんて、長夜じょうや淪没りんもつし、もろもろの危苦きくそなはらしむることなかれ。このゆゑにわれいまためにおおきに嘱累そくるいす。まさにこのほうをしてひさしくじゅうめっせざらしむべし。つとめて修行しゅぎょうしわがきょう随順ずいじゅんすべしと。その時世尊ときせそん、すなはちじゅきてのたまはく、」

これより前の部分で、弥勒菩薩は此の法を勤勉に修めるべきで、それを滅ぼしたり捨てたりすると、衆生が善の利益が得られなくなるという。「長夜」とは、一晩のことではなく、生生世世に八難と輪廻の苦があることを指す。従って、本日私は大衆の為にこれを再び説こう。私は此の法を長く滅びないようにするから、そなたらも此の法を勤勉に修め、釈迦牟尼仏の御教えに従うべきだ。だから、如何なる人も自分自身の考え方を持っていれば、即ち釈迦牟尼仏の御教えに逆らい、従わないことになるのだ。

「本当にそうなのか。そのはずがないだろう!他の仏典ではこう言っていないよ。」だが、今講じている『無量寿経』がこう言っているの。勝手に『阿含経』と比べてはならない。何故かと言えば、『阿含経』は小乗で、『無量寿経』は大乗だからだ。また、『雑阿含経』との比較もしないように。何故なら、法門と結果が違うからだ。『阿含経』と『雑阿含経』は阿羅漢に成る果報に対し、『無量寿経』は阿弥陀仏の身許で菩薩や仏に成る果報なのだ。現在、『無量寿経』を聞く以上、『無量寿経』での仏の御教えに基づき実行するべきだ。他のお経と比べたりする必要などない。

時下、多くの信者は他のお経を裏付けに、言い間違えている、こう言っていないよと指摘してくる。一言でいうと手前勝手だ。仏典でのお教えの聴聞に加え、上師が学んでからの自身の修行経験を踏まえて皆に言い聞かせるものだ。もし、皆がそれを聞かずに、なお自分自身の方法を用いようとすれば、永遠に修め得られないのだ。自利・利他したいと言う人が多い。しかし、そなたが菩薩としての行為・菩薩同然のことを成し得なくては、どう衆生利益しようというのか。多くの人は私が人を加持しているところを見て、リンポチェは加持を与えるよう本尊を勧請したのかなとよく思われるが、実は私が加持を与えているのだ。

また、そなたらはどうして本尊がするのではないのかと思うだろう。それは、そなたらは凡夫で、あらゆる本尊は既に法身菩薩以上の位ということから、そなたらには法身菩薩によるご加持を頂く資格がなく、たとえ真に加持されたとしても、その福報の大きさによって、そなたが耐えられないに違いないからで、誰かを介して加持する必要があるのだ。だが、この仲立人が本尊と相応しているかどうかは、そなたらに見えないしわからないことだ。この上師は間違いなく一連の修行を経験し、認証され、そして事実が存在するものだ。たとえ、そなたらには彼が本尊と相応するかどうかが見えなくとも、少なくとも彼は功徳を有する。

より簡単に言えば、上師は自身の功徳を以てそなたを助けるのだ。彼が本尊と相応すれば、本尊は彼を加持するとされる。まさに『地蔵経』で説かれた、地蔵菩薩は諸仏菩薩の威神力によるご加被(かび)を得てはじめて広大なる衆生を利益することができるというようにだ。少し前に、仏典の中でも、もしそなたが此の法門を学びたいのなら、学べるように諸仏は加被してくださると、書かれている。どうしていきなり『無量寿経』を開示し始めたのか。それは開けという仏からのご指示だ。私には毎日一字ずつ詳しく読む時間がない。出家衆だったら出来るものだが、私は出家衆ではない。

ある巻を説き終える度に、私は無造作に(仏典を)紐解いて、めくられた(ページの)その内容を皆に言い聞かせるようにしている。これが諸仏からのご加被(かび)によって、私を以て皆にこれ等を言い聞かせるということだ。というのは、そなたらが忘れただけで、きっと過去世にこれを学んだことがあるに違いない。もし、今生でもなお聞かないでいれば、もうこれ以上チャンスがない。簡単に言えば、過去世から今生にかけたなら、決して過言ではないが、今回こそラストチャンスだと言えよう。

前にも釈迦牟尼仏は明瞭に仰せになったが、これから仏法は滅びるが、最後、不滅なのは阿弥陀仏の名号だとされる。これは仏が仰せになったことだ。巷では、正法時代は戒を本にし、末法時代は仏典すら無くなるにつれ、仏法も無くなると言われている。最後、禅定すら無くなるから、残ったのは阿弥陀仏のみだ。いつか阿弥陀仏の名号すら無くなったら、静座しか残らない。静座すらないなら、地球も無くなるのだ。

充分に明白に言っているだろう。そなたらは今生がここにやってきて、なお阿弥陀仏の身許へ行けていなかったらが最後、もうチャンスはこれっきりだ。どれぐらいおきにまた輪廻するか見当が付かないからだ。どうでもいい、今生に帰依も菜食もするから、きっと無事だろうと思ってはならない。ひとくち地獄と言っても、複数のレベルに分かれる。地球にすら地獄が二つある。仏典によれば、一つは海辺にあり、もう一つは釈迦牟尼仏の法座の真下にあるそうだ。

今生に為した事が全て仏の教えに背くのなら、どこへ行くようになると思うのか。皆はよく考えると良い。仏道修行したいと皆が言った以上、仏道修行しよう。どうしてか、訳の分からないことや、自分自身の望みを身につけるようになったのか。そなたは上師が我々を助けようとする様々な方法や事すら、受け入れられず、なお自分自身の考え方を持っていては、如何しようと言うのか。

時間はあっという間に過ぎてしまう。『無量寿経』のこの段落では、釈迦牟尼仏ははっきりと仰せになり、全て仏として為すべきこと(阿弥陀仏浄土を作りだすこと)をし、最善を尽くし、そなたを二度と輪廻させないように、どんな方法を用いて良いかも教えてあげるが、最終的に残りはそなたとして為すか為さないかだけだ。仏も仰せになったが、そなたが進んで実行すべきだということだ。とある弟子が退院後、終日ベッドに横たわってばかりいるのを真似しないように。私が「動かなければ、老人ホームへ送ってやろ」と伝言を頼むと、彼はすぐベッドから起きるようになった。毎日、念仏せよと私は彼に命じた。彼が実行するべきだ!横たわって死を待ったり、リンポチェが済度してくれるのを待ったりしてはならない!

そなたらは皆こんな心構えだ。誰もが死を待っている。毎日、5分や10分をかけて唱えたりすることが、仏道修行と言えるのか。我らは丸24時間だ。毎秒間唱えているのではなく、心が24時間とも仏教徒だ。『仏子行三十七頌(三十七の菩薩の実践)』を実践しているのか。いや!だったら、何を裏付けに、自分が仏弟子と言えようか。今や、そなたらに『仏子行三十七頌(三十七の菩薩の実践)』を唱えさせるよう言うのすら億劫だ。何故なら、多くの弟子が実践していないと私は知っているからだ。誰もが自分のことで頭いっぱいだ。

そなたらが言う「人不為己天誅地滅(己の為を謀らない人に対し、天地は罰を下す)」のように、自分の為を思うのも強く非難すべきではない。だが、重要な事は、今生が終わると、そなたらはどこへ行こうと言うのか。その時になったら、リンポチェに求めようという人は当然いるが、リンポチェはいつか死ぬものだ。リンポチェが死んだとしても、私に帰依したことがある弟子らを加被するが、万が一の場合、私が阿弥陀仏の身許から遠く離れた反対側の仏土に行ってしまって、そなたらからのシグナルが届かなければ、如何しようと言うのか。

阿弥陀仏は既に我々から離れて十万億の仏土というところにいるが、それより遠いのもある。何故、前述したのを成し得て欲しいのか、それはそなたらからのシグナルが充分に強烈しなければ、阿弥陀仏に届かないからだ。仮に、そなたらのシグナルが充分に強烈でなければ、そなたらの上師への恭敬・尊重、上師の伝承への尊重を通じれば、このシグナルを転送させることもできるからだ。この原理を分かったか。

多くの人は最も偉い人が最も凄いと思っている。そうとは限らない!そなたは誰と縁があるのかによるのだ。最も偉い人が最も凄いとしても、どうしてそなたはそなたの最も偉いと思う方に帰依できないのか。仮に、そなたらは法王に触れ合えることを福報が大きく偉いことだとすれば、もちろん福報があるからこそ法王に触れ合えるのだが、法王からそなたらに伝法はされたか。

本日は『無量寿経』を説いたが、ご自宅に帰ったら自分は為し得たかと思惟すると良い。実行しようと決心はしたか。尊重して仏法を聞いているのか。この段落はそなたらの癖ばかり指摘している。釈迦牟尼仏は真にお見事だ。最後に、繰り返して言って、皆に注意を喚起させるが、釈迦牟尼仏は此の法を地球に「久しく住し滅せざらしむ」にするのに対して、そなたらも勤勉に修行し仏の教えに従うべきだ。そなたらの中に、仏の教えに従う者は居ろうか。どちらも自分自身の教え・自分自身の意思・自分自身の考えに従っているのだ。成し得なければ、良くないのか。それなら、もうそこまでだ!

経典:「もし福徳ふくとくにおいてはじめよりしゅせざるは、つひにこの微妙みみょうほうかず」

後ろの方で仏が説かれる偈頌(げじゅ)だが、皆は一節目の「若於福徳初未修」をよく聞くべきだ。この福報と功徳を、仏道修行をし始めたばかりの人は皆修めていない。自分が修めていると思ってはならず、そなたらは現段階では修めていない。ここで言う福徳とは、仏を学ぶにおける福・修行における功徳戒定慧のことを指すが、始めたばかりの人は皆修めていない。何故修めていないのか。それは最初の頃、誰もが自身の欲望で仏道修行をしているから、微妙の法を聴けないのだ。

経典:「勇猛ゆうみょうによくもろもろの善利ぜんりじょうぜるは、まさにかくのごときの甚深じんじんきょうくべし」

恐らく多くの人は『無量寿経』というのは専ら阿弥陀仏の身許へ行くことについて言うだろうと思われるが、実は、中には、あらゆる菩薩が持つべき心や、どのように修めれば行かれるかが含まれている。「勇猛によくもろもろの善利を成ぜる」とは、なりふり構わずに実行することではなく、いったん実行すると後悔せず、振り向かないで前へ邁進してはじめて一切の善の利益が得られるということだ。

かつて、法王が私に直貢梯寺の黄金屋根を修復せよと命じたように、あの時、私はお金を持たなかったにもかかわらず、約束して実行した。何を売るにしろ、実行する。このようにして今日の利益を成就した。皆にこうしろと勧めているわけではない。そなたらには出来ないし、そうする勇気もないからだ。だが、それでいいのだ。実行する勇気がなかったら、上師についてすればいい。上師が10をしたところ、そなたが0.1をしてもいい!0.1すらしないそなたには、毎日焼香したり、拝んだり、お茶を供えたりすれば福徳が積まれるのか。いや、それは人天の福報を少し得るだけなのだ。

最近、法王から伝法された時に聞いた話だが、法王自身が子供だった頃、毎朝3時に起きたらすぐ3時間唱え、日が昇るようになったら、ちょっと朝食を食べて暫く休んでからまた唱え、昼休みが終わったらまた唱えたものだそうだ。そなたらはよっぽど楽ではないか。だから、今後これらの出家弟子が私の寺院へやってきたら、こうしなければならない。もちろん行かない選択肢もある。私は皆を強いていない。もし、来るのであれば、私は直貢噶舉のスケジュール表を作成しておこう。明らかに、半端ではないぞ。

我が直貢噶舉は四大教派の中で実修派と呼ばれる所以はここにある。よって、直貢噶舉の寺院はみな山奥にある。大都市の中どころか、ひいては都市に近い立地すら滅多にない。以前、青海に行った際、直貢噶舉の寺院の一部は政府関係者すら知らないのもある。山奥過ぎるから、地元の数十人しかそこに直貢の寺院があるのを知らない場合もあるのだ。

直貢の弟子をするのは苦しいことだ。そなたらのリンポチェもこうして修め得られたのだ。私は山奥に身を潜めないが、あの時、毎年閉関しに行っていた。初めてインドへ行った時、車で走ること10時間して、やっと寺院に辿り着いた。そなたらは楽だろう!南部から北上するだけで遠いと文句を言うのだろう。以前、私は10時間の道程だった!最も記憶に残るのは、初めての閉関ではお湯すらなかったものだ。そなたらは楽だ。楽すぎるせいで、つい修め得られなくなっている。自分が苦行したとは言えないが、そなたらに比べると、そなたらは本当に楽すぎるのだ。誰もが快適な暮らしをする上、道場には冷房をはじめ何もかも完備している。ちゃんと用意してあげないと、来なくなるのを恐れるからだ。けど、今や、そなたらが来るのを考えるだけでぞっとするぐらいだ。


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2022 年 02 月 27 日 更新