尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年10月3日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』巻第十八「無量寿如来会第五之二」を解説された。
弟子らに幾つかの名相(みょうそう)を調べてもらった。一つ目が「毘鉢舎那(びばしゃな)」で、内観と翻訳され、内観は禅那(ぜんな)を修行するルートの一つだ。というのは、禅を修めるには幾つかの方法があるという意味で、ある方法を使えば必ず禅定まで修め得られるとは限らず、あくまでもそれぞれの衆生の機根によるものなのだ。仏は複数の方法を開示されたことがある。例えば、直貢噶舉の大手印や、また『阿弥陀経』に於いても禅修行の方法について説かれている。
大手印とは直接に菩薩の禅定を修めるものであって、一般信者や出家衆が修める禅ではない。大手印の禅定を修得するには、チベット仏教では不共四加行を修め切ることが必要だ。不共四加行を修め切れなければ、間違いなく資糧道の福報が不足しているのだ。福報が足りなければ、絶対に大手印の禅の境地まで修め得られない。不共四加行まで修めれば、福報が良く、何も発生せず、悟りを開くなどと多くの人が思っているようだが、実はまだまだ先だ!
リンポチェから不共四加行を授けられたからといって、多くの人は自分が凄いと自惚れている。時期尚早だ!ただ試しにやってもらい、そなたらの心を試そうとしているだけなのだ。特に、大手印の禅は菩薩の禅だから、一般の禅定の禅と異なっており、師からの相承がなければ、ひたすらそこいらに座り込めば定が得られるものか。この観念は正しくない。大手印の一つ目が専一瑜伽で、どうやったら専一になるのか。どんな方法を以てそなたの心を専一にさせられるのか。仏典では説かれていない。離戯瑜伽に至っては、どうやったらそなたの心を離戯にさせられるのか。仏典でも詳しく説明していない。それなら、その後の一昧瑜伽と無修瑜伽はなおさら言うどころではないだろう。
15分20分座り込めば、これが禅定だと多くの人は勘違いしているが、実はそれは静座というのだ。自分が考え方も持たずにそこいらに座っていれば、これが禅だと思ってはならない。正直言って、ただ木材のようなものに過ぎない。または、自分がそこいらに座ったら、何か感覚があったり、全身が通電したような感じがしたりすると思っている。実は、座って動かずにいるほうが皮膚が敏感に感じ、血が流れたり気が動いたりするに過ぎないのだ。
自分が座禅して光が見えたとそなたが言うのなら、それはきっと精神問題から生じた光だろう。何故なら、光が見えるのは、先ずは天眼まで修めた者かもしれないのだ。仏典に於いては天眼を修めることについて説かれているが、どうやって修めるかに関しては言及されていないが、密宗にはこのテキストがある。我ら人体にも光があり、目を長く閉じれば、光が見えるに決まっている。そなたらも試しにやってみると良い。だから自分が仏光や何かしらの光を見たと思ってはならない。長く座り込むと、誰かが話しかけてきたと思ったら、それは腎気虚(じんききょ)が始まった兆しで、耳が遠くなったということで、仏菩薩が話しかけてきたのではない。我ら人間には心にある念頭が絶えず現われるものだが、腎気が充分ある場合には、念頭が現われても、脳神経の中で反応してしまうという仕組みとなる。それに対して、腎気が不十分な場合には、この神経反応が次第に言葉になっていく。お年寄りには終日独り言するのもいるが、それは腎気が不十分になったことから、自分で自分の神経を制御することが出来なくなっているのだ。だから、そなたは自分が禅定を得た上、耳元で誰かが囁くのを感じたら、そろそろ腎気虚を診てもらうよう医者に駆けつけると良い。男女ともに腎気虚になり得る。自分がそこいらに座っていて気持ち良いやら、健康状態がますますよくなるやらと思うことを含め、これ等は全て間違いだ。その実、人間は少しでも雑念が少なくなるにつれて、健康状態も少し良くなるのだ。それは、エネルギーの消耗も同時に少なめになるからだ。
よって、釈迦牟尼仏がここで説かれた「毘鉢舎那(びばしゃな)」は内観を修めることを指し、また内観というのは禅那(ぜんな)を修行するルートの一つに当たるのだ。その理論は「四念住」に基づかれ、「身体」・「感受」・「心」と「法」との四つの面から、持続かつしっかりした覚知能力が育ち、実際の経験を通じて、「自我」は五蘊(ごうん)によって作られた現象ではないことを体得するとされる。
この種の修法はそなたらにはできっこないのだ。それは四つの面から解説できよう。一つは体で、自分自身の体をよく分かることだ。多くの人は自分自身の体をよく知っていると思われるが、一人として自分自身の体を真にわかっている人はいない。例えば、お腹が空いた時に、どの神経がそなたのお腹を空かせたか分からないよね。ここで言う体は、今生の体は業報身であることを弁えるべきで、過去の生生世世及び今生で為した善悪の業力によって出来た産物だから、この体は虚仮なのだという事を指す。
どこが虚仮なのか。それは固定不変な実体ではないことにある。それはそなたの所作の善悪因から生じた業力によって変化するものなのだ。この面から自身の体を会得していけば、次第に業力の怖さを知ると同時に、業力の大事さを段々と実感していくだろう。何故かと言えば、善の業がなければ、そなたを修行させる良い体もないからだ。体への視点についてだが、釈迦牟尼仏は以前、白骨観(はっこつかん)を伝授されたことはあるが、つまり全身を虚仮のように観ずることで、肉・髪の毛・目・鼻穴が全部腐敗し、蛆虫がそれを食べ、白骨になるまで腐敗するのを観想することだ。これは小乗の修め方に当たる。
釈迦牟尼仏の時代には、このような記載もある。白骨観を修める者の一部が、修めれば修めるほど自己制御が上手く出来なくなり、とうとう自殺に終わったのもいたから、後に釈迦牟尼仏はあまり白骨観を修めるのを勧めなくなったという。白骨観というのは一般人が修められるものではなく、今生、この身を捨てると決定を付けた者に限るのだ。現在は末法時代に当たり、五濁悪世に白骨観を修めるのは難しいことだ。一日に数時間もそこいらにじっと座って、体の生老病死・体の腐敗そして蛆虫が食べてしまう等々を見る余裕がないだろう。
為し得ない以上、体は業報身だという方向から修めるべきだ。自分自身の体は過去世に為した善悪業によって得られたのであって、この体はそなたに福を享受させたり、悪を為させたりする為ではなく、この業報身という法器を得て修行させるのだと弁えるべきだ。そなたはご自身の体を法器のように観ずれば、間違えて観ずることはない。一冊の仏典を観ずるのを例に取り上げよう。仏典は一枚ずつの紙で綴じられたものとはいえ、そなたはそれが紙だと思えばそれは紙だ、一冊の仏典だと思えば一つの法器だ、衆生に仏法を理解させられるものだから、そなたはそれを尊重すべきだという意味だ。
つまり、そなたはご自身の体を尊重すべきだという意味だ。だが、人にこの体を尊重させるのではなく、自身が業力によって齎された体を尊重するということだ。そなたの体がどんな苦痛を受けたとしても、そなたは尊重し受け止めるべきだ。というのは、他人から誹謗・中傷され、傷つけられ、踏みにじられたとしても、それは自分の業だと認識するべきであり、逃避できるよう、様々な法を修めたりするのを試みるものではない。我らが懺悔するのは、懺悔してから体が良くなるのを求めるのではない。懺悔とは、本来ならそなたの修行に差し障る体が、修行に差し障らない体になる為のことだ。
自分自身の体を愛しすぎることからトラブルが発生するようになった人もいる。法会が始まる前に、夫の経験を語った弟子(衆生済度事跡第1099号)のようにだ。あの日、私は彼を叱ったら、彼がその場で癇癪を起したのを私は知っている。彼は「そんな深刻なことなのか。冷房が少し効きすぎただけで、何が問題だ。」と腹が立った。もちろん、彼はその場でこれらを言わなかったわけだ。彼は帰依歴9年になる上、その家族にある女性の亡霊に付き纏われているのを、私は見たことがないのはどうしてか。彼が言わないのは一つだが、もう一つは、帰依した時に言った通り、帰依すれば非人に傷つけられることがないとするから、彼が帰依してから、この亡霊は彼を付き纏うことが出来なくなって自然に付いて来られないから、私にも見えないわけなのだ。
ところが、あの日、彼が過ちを犯したのに、過ちを認めない上そんなに深刻かと思ったから、帰依戒を破って鬼衆に入られるようになった。リンポチェが罰を与えたと思ってはならない。リンポチェは何一人として衆生を懲らしめることはなく、彼自身が手放したのだ。私が常々勧告しているように、仮に生生世世に作った我らの悪業が固体であれば、果てしない虚空でも入りきれないというが、誰もそれを信じようとしない!先祖がやった仕草なのに、彼と何の関わりがあろうかとそなたらは言うだろう。だが、もし、こうした共業(ぐうごう)がなければ、勝手にその子孫になってしまったこともないではないか。
今生に善を行えよと勧める道理はここにある。今後、そなたが結婚しようがするまいが、子孫がいようがいるまいが、これは大事だ。多くの人は体の大切さを知らず、自分の体を愛しすぎるから、上師に少し怒られると、どんな考え方や話でも敢えて畳みかけてしまう。前例があまりにも多すぎるのに、そなたらはまだ信じず、そんなに深刻なのかと思っている。ちっとも深刻ではないが、ただそなたの怨敵は、弱さに付け込んで入ってしまうようになるだけだ。それはご自身が保護という傘を動かして捨てたのだ。上師が取り戻したのではない。
上師に癇癪を起すのが、あんなに深刻なことを引き起こすのかと多くの人が思われる。『地蔵経』のご開示によれば、一般衆生に向かって癇癪を起すことさえ地獄に堕ちるのに、況や上師に対するをや。だから、尊重ということを分からなければ、仏道修行しに来ないで良い。今後、佛・上師を誹謗することにならないようにだ。この罪は実に重いのだ。たとえ、上師のことが好きではなくても、一句でも一偈でも仏法を教えてくれたことがあれば、それが上師だ。そなたは先方に大きな恩を借りているから、返さなければならないのだ。どうやって返すというのか。体をではなく、止まることなく修行することを通じて返すのだ。だが、誰も空嘯いて聞きもしないでいる。
また、ここでは「感受」を説くが、いわゆる感受とは、座禅し仏道修行を通して良い事を感受することを指すのではなく、仏が仰せになった人間の八苦を感受するのだ。つまり、生・老・病・死・愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・五陰盛苦(ごおんじょうく)・求不得苦(ぐふとくく)との八苦だ。どうしてこれらがあるのだろうか。この感覚はどうやって来たのだろうか。どうして我らはこんな苦を受けているのか。四念住の内観を通じて、ひたすら中へと自分自身を見るべきだ。
ここでの「心」は心臓を指すのではなく、我らの清浄なる本性を指すのが一つで、もう一つは我らの生存を支える意識を指すのだ。通常、我らは禅定を通じなければ、自分の意識と清浄なる本性を区別し切れず、見極めることもできない。持呪するに際して自分の心に特に雑念がなければ心と言えるだろうと多くの人は思っている。実は、そうではなく、それは意識による作用で、心の作用ではない。
「法」とは何かしらの方法があるわけではなく、一切の現象を指すのだ。持続かつしっかりした覚知能力を育てることは、そなたが禅定を通じ、絶えず四念住し続ければ、次第に恒久かつしっかりした覚知能力が育つようになるということだ。この能力は、自分が為した様々な事に対し、善と悪の取捨を覚知するのだ。
実際の経験という面で、「自我」というのは五蘊(ごうん)によってできた現象に過ぎないことを体得する。この種の禅定を通じれば、そなたはいわゆる「我」というものは五蘊(ごうん)によってできた現象、つまり色・受・想・行・識によってできたもので、全てが虚仮なのだと身をもって体得することになる。その共通の特徴に素早く変化し続けることがあり、要するに五蘊(ごうん)というものは素早く変化するものだということだ。もし、皆が経験したことがあれば、念頭というのは絶えず変化し続けるものだと分かるはずだ。
不満という状態と恒常的な身体が無い等の三相に関しては、第一に無常で、第二に不満だということだ。如何なる者も自分の現状について不満を抱えている。既に持っている者はもっとよくなりたい、まだ持っていない者は早く手に入れたい、苦労している者は早く楽になりたい、これ等の何れも不満足だ。それに、恒常的な身体が無い等の三相を加えると、要するに、内観とは無常・苦・無我との三つを観ずることだ。実相に対するこの了知を以て、「心」は次第に「貪・瞋・痴」(三毒)という習性反応の造作に歯止めをかけてくるようになる。三毒はあらゆる苦痛の元で、この苦痛から解脱する為の根本的な方法としては、内心の貪瞋痴を取り除くしかない。
ということは、我々は禅定を通じて貪・瞋・痴が何故起きるのか見極められるのだ。どこから起きるのか。どうやって停止させるのか。禅定を通じれば、習性は次第に減っていくのだ。密宗は、この面について異なる点があり、複数の本尊に助けられるのを通じ、すぐにそなたに貪・瞋・痴という造作する心を断ち切らせるのだ。
仏教修行の体系の中で、内観は三学(さんがく)の最後に当たる「慧」に属し、慧は音訳されて「般若」となるが、それは實相に対する正しい理解を持つということだ。実は、内観を修習する如何なる段階も、より甚深な智慧を得るためのマイルストーンとなる。より深い智慧を以てより微細な煩悩を滅ぼせることから、仏教修行とは、自我を清める過程と見なすといい、その最終目標としては完全に浄化させ、あらゆる苦痛や感覚器官の束縛から解脱させることであり、即ちいわゆる涅槃のことだ。要するに、我らは顕を修めるにしろ、密を修めるにしろ、全てこの目的の為にするもので、自分がもっと凄くなる為ではない。
また、「如来十力」は即ち、一、如来於一切因縁果報審実能知、如作善業、即知定得楽報、称為知是処。若作悪業、得受楽報無有是処、称為知非処。如是種種、皆悉遍知。二、業異熟智力。謂如来於一切衆生過去未来現在三世業縁果報生処、皆悉遍知。三、静慮解脱等持等至智力或知諸禅解脱三昧智力。謂如来於諸禅定自在無礙、其浅深次第如実遍知。
この一節では、禅定は複数の禅に分かれるとし、禅修行という方法に限らず、浅いのもあれば、深いのもあるとはっきり教えている。
四、根勝劣智力。謂如来於諸衆生根性勝劣、得果大小皆実遍知。五、種種勝解智力。謂如来於諸衆生種種欲楽善悪不同、如実遍知。六、種種界智力。謂如来於世間衆生種種界分不同、如実遍知。七、遍趣行智力。謂如来於六道有漏行所至処、涅槃無漏行所至処如実遍知。八、宿命通的力量。如来於種種宿命、一世乃至百千万世、一劫乃至百千万劫、死此生彼、死彼生此、姓名飲食、苦楽寿命、如実遍知。
ここでは、はっきり教えているだろう。そなたの前世はお姫様だったよと誰かに言われると、それはでたらめに違いない。どこに生まれたか、どこに死んだか、名字は何だったか、好きな食べ物は何だったか、何歳まで生きたかを全部知らなければならないからだ。
九、天眼力。謂如来藉天眼如実了知衆生死生之時與未来生之善悪趣、乃至美醜貧富等善悪業縁。
釈迦牟尼仏は天眼に基づき、衆生の死ぬ際・生まれる際そして未来世の善悪趣を知るということは、つまりどの道に生まれ変わるかを知ることだ。
十、漏尽力。謂如来於一切惑余習気分永断不生、如実遍知。
「四無所畏」の第一に「仏於大衆中明言我為一切智人而無畏心」で、第二に「仏於大衆中明言、我断尽一切煩悩而無畏心」で、第三に「仏於大衆中説惑業等諸障法而無畏心」で、第四に「仏於大衆中説戒定慧等諸尽苦之正道而無畏心」である。
これ等の名相(みょうそう)については、普段から解説しているが、ただこれらの名詞を使っていないだけなのだ。よって、これでまとめて解説するようにした。
(リンポチェは続いて『宝積経』を開示された)
経典:「弥勒まうしてまうさく、ややしかなり、ことごとく見たりと。」
弥勒菩薩は、自分には全部見えたと仰せになった。
経典:「仏また告げてのたまはく、なんぢ他化自在天と極楽の諸人と、受用する資具に差別あるを見るやいなやと。弥勒まうしてまうさく、われかしこに少しも差別あるを見ずと。」
仏から弥勒菩薩に「そなたが見た限り、他化自在天と極楽の諸人の受用する資具に差があるか」と聞いた。他化自在天とは、在世の時に修め得られた者に限って行かれる天で、仏典の記載によれば彼らに受用する福報は相当大きいものだそうだ。阿弥陀仏の浄土に関しては、たとえそなたは今生が水一杯・花一輪でしか仏に捧げられないほど貧乏であっても、『阿弥陀経』通りに修行すれば、無量寿仏国土へ往生してから、得られた受用は他化自在天と区別がないとする。そこに辿り着けば、そなたの福報は天人と同様になるわけだ。
経典:「仏、弥勒に告げたまはく、なんぢ極楽世界の人胎に住するを見たるやいなやと。弥勒まうしてまうさく、世尊、たとへば三十三天・夜摩天等の百由旬もしは五百由旬の宮殿の内に入りて遊戯歓楽するがごとし。われ極楽世界の人の胎に住するものを見るに、夜摩天の宮殿に処るがごとし。また衆生の蓮華の内において、結加趺坐して自然に化生するを見たると。」
仏は弥勒菩薩に「極楽世界の人は胎内に宿っているのを見たか」と聞いた。弥勒菩薩は仏に「例えば、三十三天・夜摩天等、この宮殿の範囲においては遊戯することができるとされる。」と答えた。我らが極楽世界に生まれるのは、蓮の胎内に宿るもので、それはまるで夜摩天の宮殿みたいに綺麗で立派な所だ。
化生とは、男女の行為に依らずに蓮の中に化生することを指すのだ。
経典:「時に弥勒菩薩、また仏にまうしてまうさく、世尊、なんの因縁のゆゑに、かの国の衆生に胎生のものと化生のものとあるやと。仏、弥勒に告げたまはく、もし衆生ありて疑悔に堕して、善根を積集し、仏智・普遍智・不思議智・無等智・威徳智・広大智を希求するも、みづからの善根において信を生ずることあたはず。」
私が常に言っている「疑心を起せば、五百歳の間、仏に会えない」ことこそ、胎生(たいしょう)そのものだ。仏法に対して疑うこととはどんな状況が当てはまるのか。「私には出来るのかな。こうなの。彼には出来るが、私には出来ないのは、もしかして教えられていないせいかもしれない。上師をする人が好き勝手に人を叱るなんて、本当に上師なのか」。とある出家弟子が終日「仏智・普遍智・不思議智・無等智」などを求めているが、彼は疑っている、上師を疑っているみたいだ。「どうして上師は私にすぐ悟りを開くことや悪念を無くす方法や、どうすれば彼に恭敬しないことをしなくなるのかを教えてくれないのか」。彼は善根を蓄積していないかと言えば、蓄積はしている。ただずっと疑いを持っていて、あらゆる問題を上師に押し付け、自ら実行しようとしない。上師が開示したこんなに多くの仏法について、彼は実行はしているが、心にはある念頭がずっと存在しているのが問題だ。
先ほど言ったあの往生した弟子の話だが、以前、彼は上師への侍従に不備があって怒られたことによって、良くない念頭を起してしまった。そんなに深刻なことなのか、一晩冷房に当たっても死ぬことにならないだろうと思った。彼が控室を後にした眼差しから、私は察した。そなたが疑いを起したら、仏法を否定することになるから、いくら善根蓄積し・発願し・称名したとしても、「みづからの善根において信を生ずることあたはず。」となる。自分が自身を信じず、自分自身が悪を断ち善を行い、「諸惡莫作、衆善奉行」を為し得る能力があると信じない。帰依した時も言ったが、どうしてそなたらには出来ないのか。それは「リンポチェに加持して欲しい、私の悪念を振り払え、リンポチェが何もかも私を助けるべきだ、どうせ私は無理だ」と思っているからだ。
経典:「この因縁をもつて、五百歳において宮殿のなかに住し、仏を見たてまつらず、法を聞かず、菩薩および声聞衆を見ず。」
そなたらがこのままやり続ければ、たとえよく阿弥陀仏のみもとへたどり着いたとしても、「五百歳において宮殿のなかに住し、仏を見たてまつらず、法を聞かず」となる。阿弥陀仏の所にとっての500歳は、500年ではない。極楽世界の一日は、地球の数年にもなる。その500歳を終え、地球に来ようとした時には、恐らく地球はもう存在していないかもしれない。
いわゆる「疑情」と「疑問」は異なるのだ。疑情とは、仏が説かれたこの境地をどうやって実現させられるかに対し、自分には能力が不足だと信じることだ。能力が不足すれば、どうすればよく実行できるのかと上師に指示を請へば良いのだが、もっぱら自分には出来ない、修め得られない、自分はこうなんだと、この法を疑ってはならない。廣欽老和尚は一句の阿弥陀仏のみで、よく修め得られたのは何故だろうか。それは信じるからだ。彼は何も考えずに、ひたすら阿弥陀仏を称名するのみだ。
法を請いに来た一部の人は、他所を真似して「自利利他」したいと言っている。自利利他は菩薩のことを指すものだから、まだ菩薩果位を証せず凡夫の身であるそなたは、生死解脱しか求められず、さらに生死解脱することさえ求めれば有るものではない。法と上師に対して何か疑いを起こせば、すぐ果報が変わる。阿弥陀仏のみもとへ行けたとしても、まるで他化自在天・夜摩天の天人みたいに、蓮の胎内に胎生するけれども、花は咲かず、宮殿の中に住んでいるかのようだが、500歳の間、仏を見ず、仏法を聞かず、菩薩と声聞を見当たらずにいるのだ。
経典:「もし衆生ありて疑悔を断除して、善根を積集し、」
「悔」というのは、つまり「もっと早く知っていたら学ばないでおいたのに。大変だし、終日怒られてばかりいるし、あれやこれやとさせられてもう手が回らない。」と思うことだ。これ等の念頭を起すだけで、充分にそなたを三悪道に堕ちさせ得る。三悪道では、そなたはペットになるチャンスがある。そなたは今生に善根を蓄積しているから、家族同然のペットになるのは、非常に容易なことだ。ご自身によくよく聞いてみると良い。仏法や上師に対して疑ったことがあるか。後悔したことがあるか。もしあれば、最高の果報としては500歳の間、仏を見ずに、蓮の中でごろつく。500歳を終えると、堕ちるようになるのだ。
出家衆は、いちばんこんな状況になり易い。何故かと言えば、修めているうちに傲慢の心が現れ、仏法に対して疑い始め、後悔し始めるようになるからだ。何を後悔するかというと、「そんなに苦労する必要があろうか。私は既に出家相を現しているからもう修める必要がないだろう。最低でも弥勒菩薩の身許へ行けるだろう」というようにだ。ところが、そう簡単に行けるものか。弥勒菩薩の身許へ行く条件は物凄く厳しいのだ。戒律を謹厳に守らない者は行かれない。
経典:「仏智乃至広大智を希求するに、おのが善根を信ず。この人蓮華の内において、結加趺坐し、忽然として化生し、」
化生と胎生は、どこが違うのか。「疑悔の心」を持つ所がだ。「疑ったことがあるかどうか。後悔したことがあるかどうか」とご自身に問いてみよう。もしあれば、行かれないに違いない。行ったとしても高々こんなものだ。
経典:「 瞬息に出づること、たとへば他国より人ありて来至するがごとし。すなはちこの菩薩もまたかくのごとし。」
『阿弥陀経』では、阿弥陀仏の身許へ化生すると、菩薩で一生補処(いっしょうふしょ)になると、詳らかに説かれている。生まれた途端、菩薩に上がるということは決して容易な事ではない。全てが阿弥陀仏の大願力・慈悲力によって助けられたお蔭だ。そなたが在世の時に証果を果たさないものの、菩薩道を修めていた故、そこに辿り着くといったん卒業してから精進するとされる。その反面、もし地球で念仏するやら、仏に頂礼するやら、菜食するやらはしたが、疑いの心を起した場合、たとえそこいらに辿り着いても、500歳仏を見ない結果となる。
経典:「余国にて発心し極楽に来生して、無量寿仏を見たてまつり、奉事し供養したてまつりて、もろもろの菩薩・声聞の衆に及ぶ。阿逸多、なんぢ殊勝の智者を観ぜよ。かれ広慧力によるがゆゑにかしこに化生するを受け、蓮華のうちにおいて結加趺坐す。なんぢ下劣の輩を観ぜよ。五百歳のうちにおいて、仏を見たてまつらず、法を聞かず、菩薩および声聞衆を見ず、」
上機根の者は化生、下機根の者は胎生になる。胎生してから、500歳の間仏を見ることができない。説法に当たる鳥のさえずりも、風に吹かれた浄土の木々によった音も聞けず、まるで仏が説法されているところも聞けないのと同様だ。
経典:「菩薩の威儀法則を知らず、」
口先だけ菩薩道を修めると言いながらも、菩薩としての「威儀法則」を知らない。菩薩の威儀は戒律・禅定によるのだ。法則とは、菩薩道が物事に対応する際の方法だ。戒本によっては小乗の戒・大乗の戒と金剛乗の戒に分かれるが、最高に当たるのは金剛乗の戒だ。金剛乗を修めるには、一部の戒を捨てても良いとされるが、そなたらには通用しない。例えば、そなたらからして、明らかにしたらダメなことのように見えるが、菩薩道を修める者の為した事は全て衆生の悪因を解決させ、たとえその悪果が成熟しても非常に大変な事態にならせないようにすることが目的だ。
菩薩としての対応法則は、既に五戒十善を超えたとする。五戒十善というのは初心者への規範で、これだけは為し得るべきだ。いつかそなたが菩薩道を修めるようになり、菩薩戒の中で為す事というのは、わざとそうするわけではないが、必ず人類のいわゆる倫理道徳を超えるに違いない。釈迦牟尼仏のご開示の通りに、時代・地域によって倫理道徳の基準も異なる。いったいどれに基づくべきか。菩薩の法則に基づくべきなのだ。菩薩の法則としては、衆生に生死解脱をさせ、悪を断ち切り仏法を受け止めるよう教えるものであって、ひたすら衆生を喜ばせるのではない。
この弟子が過ちを犯したから、彼を叱らなければ業が成熟しない。その上、怒られた彼は腹立ったことによって、業を早期に成熟させるようになった。この因縁のお蔭で、上師は同時に二人の衆生を助けたのだ。でなければ、あの女性亡霊は既に百・二百年ぐらいの亡霊で、いつまでも復讐を繰り返していては、実に苦しいことだ!この罪は重いのだ。
どうして上師はそなたらを叱るのか。叱らないと悪念が起こらなくて、悪業が成熟しないからだ。悪念が起きて、悪業が成熟してはじめて自分に間違いがあると分かる。そなたが過ちを犯したにもかかわらず、もしまだ少しでも福報が残っていれば、きっと助けてくれる衆生がいるし、又は、そなたは求めることをすれば、きっとそなたの問題まで解決してあげるだろう。菩薩道を修めることとは、終日ニコニコして愛想の良い顔で対応してあげることとは限らず、ひたすら喜ばせるわけにもいかない。逆にそなたを怒らせそうなことばかりして、そなたに瞋恚の心を起させるのだろう。こんなのは正しいのかと問うと、正しくも正しくなくもない。何故なら、如何なる者が上師に瞋恚の心を起しても、上師には覚受がなく、復讐しないものだからだ。
皆も何回も弟子らが如何に私を罵ったか、弄ったかを見たと思うが、彼らがいざという時に、私に駆け込んだら、私は依然助けてあげる。帰依歴の長い皆は知っていると思うが、どれだけ私を弄りたい弟子がいたか、それでも彼らが厄介事に見舞われ、助けを求めに戻ってきたら、私は可能な限り助けてあげるに違いない。だが、累世で貪瞋痴を以て日々を送るそれらの人に、自分がある欲望で、貪念・瞋恚を起し、悪を為したのに気づかないことを見極めさせられるのだ。
仏典によれば、一部の菩薩は反面教師を以て、仏道修行者に貪瞋痴の怖さを教えているそうだ。また提婆達多(だいばだった)を批判する人が多い中、提婆達多(だいばだった)の出現によって、たとえ成仏に至ったとしても、我らが累世に作った如何なる悪業から怨敵は齎されることを思い知らされた。この事も、我らに、今生に仏道修行した以上、新しい業を造らず、古い業を返すべきだと教えている。命を捨てても返すべきだし、完済すれば済むのだが、こうした言い方を受け止められない人が多い。
経典:「もろもろの功徳を修習することあたはず、ゆゑに無量寿仏に奉事せる因なし。」
蓮華の中に胎生されると、500歳の間、如何なる功徳を修習することができなく、無量寿仏に仕える因縁も何一つとしてない。いくらしたくても成し得ない。まるで私を敬わない人らが、私に仕えたくても、私は受け入れないようにだ。私は区別するわけではないが、そなたの心にすでに悪念がある以上、更に上師に仕えるとなると、福報がより一層上がるものだから、福報が上がると、またそなたが悪を為す力もより一層大きくなるわけなのだ。これが、私が一部の人に対し、供養を受け取らずに、離れろと命じた所以だ。
仕事が見つからない弟子の為に、やむを得ず私は商売してこれ等の弟子を養っている。だが、私は供養に値段を掲示しているのか。いや、していない。私の凄さはよく知られているもので、仮に私がこんなに慎み深くしなかったら、きっと少なくとも10万という弟子は入れていたはずだろう。菩薩道を修める者として、衆生に悪を為すようにはさせず、衆生に悪を断ち切らせるよう助けるべきだ。私が恨まれても、嫌われてもいいから、彼と縁が結ばれた以上、私が生生世世に菩薩道を修める限り、間違いなくある世に再び彼を救うようになる。
これこそ菩薩としての対応法則だ。菩薩は何が何でも衆生に好かれる必要がなく、様々な方式で衆生と縁を結ぶのだ。善縁であれ悪縁であれ、何れにしても無常で、縁さえあれば機会がある。菩薩が衆生と縁を結ばないと、菩薩道を行う機会がないではないか。そなたらを叱ったからこそ、しっかりと覚えさせ得るのだ。ある一世私に出くわしただけで、そなたを逃がさない。菩薩道を行うことと、良い人をすることとは異なることだ。菩薩をするのは、隅々まで行き届くやら、専ら気に入られた話を言ったり、そなたの全てを満足させたりするやらのことではない。ひょっとしたら、彼はそなたを弄ったり、律したり、そなたの顔に泥を塗ったり、更に恥をかかせたりする場合もある。それに対して、そなたは痛罵するだろう。釈迦牟尼仏は提婆達多(だいばだった)を助けなかったと思うのか。それは疑いもなく助けた。釈迦牟尼仏は提婆達多(だいばだった)を恨んだか。それは疑いなく恨まなかった。
「求めが有れば必ず応じてくれる」というのは、正信の仏法を求める際を指し、そなたの欲望を求める際ではない。そなたが正信の仏法を求める限り、如何なる仏法も修得できるとされる。欲望を求めれば、きっと応じてくれないに決まっている。大菩薩であればあるほど、そなたと相応しないのだ。それは、菩薩の法則としてそれが存在しないからだ。そなたに欲を断ち切らせ、欲望を減らせる役目なのに、そなたは意地になってこれだけは欲しがっていては、どう与えようというのか。最初の頃「欲を以て引き付ける」としても、それはそなたと縁を結ばせる為であって、永遠にそなたの欲望を満たすわけにはいかないのだ。
経典:「このもろもろの人らみな昔縁の疑悔をなして致すところなればなり。」
これ等の人々は何れも過去世に起した懐疑・後悔によって齎された結果となる。
経典:「たとへば刹帝利の王、その子法を犯さばこれを内宮に幽し、処するに花観・層楼・綺殿・妙飾・奇珍・宝帳・金床をもつてし、茵褥を重敷し、名花を地に布き、大宝香を焼き、服御の所資ことごとくみな豊備して、閻浮金の鎖をもつてその両足を繋がんがごとしと。仏、弥勒に告げたまはく、意においていかん。かの王子、心寧くこれを楽むやいなやと。答へてまうさく、いななり。」
例えば、刹帝利天王の王子が法を犯し、内宮に閉じ込められた場合とし、いくら環境が絢爛華麗で、あらゆる受用が天人と同様であっても、その両足が閻浮金(地球の黄金に当たる)で縛られた分、さすがにそのご機嫌も良くなさそうだろう。この比喩は、まるでそなたに最高級の品物を与えたが、そなたは仏法が身に付かず、仏法を聞いていず、最大かつ最も裕福な享受も、恒久な楽もないのと同様だ。
経典:「世尊、かれ幽縶の時、つねに解脱を思ひ、もろもろの親識・居士・宰官・長者・近臣を求む。王の太子出離を希ふといへどもつひに心に従はず。すなはち刹帝利の王の心に歓喜を生ずるに至らばまさに解脱を得んと。」
この王子は閉じ込められるのが嫌で、彼に近しい修行者・大臣の多くに出離を求めたが、いずれにせよ思うままにならなかった。刹帝利王が心より納得してはじめて彼が解脱できるようになる。
経典:「仏、弥勒に告げたまはく、かくのごとしかくのごとし。もし疑悔に堕して、もろもろの善根を種えて仏智乃至広大智を希求することあるも、みづからの善根において信を生ずることあたはず。仏の名を聞くによりて信心を起すがゆゑに、かの国に生ずといへども蓮華のなかにおいて出現することを得ず。かれら衆生花胎のなかに処すること、なほ園苑・宮殿の想のごとし。なにをもつてのゆゑに。」
仏は再び仰せになるが、如何なる者も仏法に対して疑い・後悔を起しただけで、いくら多くの善根を植え付け、智慧が開くよう希っても、効かないままに留まるのだ。特にこれ等の出家弟子は、求めたことのない者はいないだろう。法を授けた上師・授けられた仏法に対して、疑いや後悔を起しただけで、いくら求めようと、まるで王子が宮殿の中に閉じ込められたように、絢爛華麗な物を持ってばかりいても、解脱を遂げられないのだ。
経典:「かしこのなかは清浄にしてもろもろの穢悪なく、一切楽しむべからざるものあることなければなり。しかれどもかの衆生五百歳において、仏を見たてまつらず、法を聞かず、菩薩および声聞衆を見ず、諸仏を供養し奉事することを得ず、菩薩の法蔵を問ふことを得ず、一切の殊勝なる善根を遠離す。かれらはなかにおいて欣楽を生ぜず、出現して善法を修習することあたはず。往昔世のなかの過失尽きをはりて、しかる後にすなはち出づれども」
改めて言うが、如何なる仏法に対して疑いを起し後悔した者は、いくら多くの善根を植え付けようと、同じく500歳の間に「仏を見たてまつらず、法を聞かず、菩薩および声聞衆を見ず、諸仏を供養し奉事することを得ず、菩薩の法蔵を問ふことを得ず、一切の殊勝なる善根を遠離す。」になる。微塵たりとも、善の法を修習したり学んだりさせる機会を与えないとされる。
「往昔世のなかの過失尽きをはりて、しかる後にすなはち出づれども」。過去に犯した過ちの縁が全て尽きてはじめてそなたは離れられる。
経典:「かれ出づる時において、心上下四方の所に迷ふ。もし五百歳に疑惑なきもの、 すなはちまさに無量百千倶胝那由他の仏を供養し、ならびに無量無辺の善根を種う。なんぢ阿逸多、まさに知るべし、疑惑諸菩薩のために大損害たることをと。」
彼が出た際に、心は上下東西南北に迷う。仮に、そなたは中にいた500歳の間に改められ、迷わないようになれれば、出た後、そなたに無量百千俱胝那由他の仏を供養させる機会を与えられ、並びに無量無辺の善根を植え付けられるとされる。
経典:「その時弥勒菩薩仏にまうしてまうさく、世尊、この国界において不退の菩薩のまさに極楽国に生べきもの、その数いくばくぞやと。仏、弥勒に告げたまはく、この仏土中に七十二億の菩薩ありて、」
仏土には72億という菩薩がいて、それは地球上の人類より多い。仮にそなたが修め得られたとして、加わると72億に1名を足すことになる。これは2000数年前に説かれた当時に72億の菩薩がいたという話であって、その後また増えたのであろうか。もちろん増えた。
経典:「かれ無量億那由他百千の仏の所において、もろもろの善根を種え不退転を成じ、まさにかの国に生ずべし。いはんや余の菩薩、少善根によりてかの国に生ずるもの、称計するべからず。」
「不退転」とは、仏法が退転することではなく、その菩提心を修め、菩薩道を行う心が退転しないことを指す。どんなに良いことにあっても、どんなに困難なことにあっても、どんなに苦しいことがあっても、その菩提心・衆生利益の心は退転しない。これは極めて成し遂げにくいことだ。例えば、私は1997年に仏法弘通に着手してから、多くの人に弄られたことのように、これも諸仏菩薩から私への試練で、私が退転するかどうかを試しているのだ。私の手元にあるテキストや学んだ法などで、自分を修めるに充分だとして、私は退転してもいい。一か月前に言った話のように、遠く中国・東北地方にいる亡霊すら私の事を知っていることから、私は毎日施身法を修めれば充分だと分かるだろう。それなのに、そなたら1000人余りを担う必要があろうか。
そなたら出家弟子は口癖のようにひたすら菩薩道を学ぶと言ってはならない。菩薩道を学ぶどころか、自分の道すらよく分からないくせに。そなたらの誰一人として衆生利益する力を持っていない。最近、ある信者からメールが届いたが、彼は何回か「阿弥陀仏無遮大済度法会」に参列したことがあり、近頃は難題に直面しているからちょっと助けてもらえないかと言った。私が助けなかった場合、彼から仏への誹謗や、お慈悲ではないと言われる恐れがある。だが、どうやったら助けられるというのか。幸いなことに、毎年、私は大法会参列者からの賽銭を政府(現在では衛福部と呼ばれる部署)に預けており、この件について、該当部署にその状況などを把握し、またその専用口座から(お金が)必要な衆生を助けていただくようにした。参列者が2万人を超えたという大法会なのに、一銭たりともお金を徴収しない法会なんて見たことがないだろう!(出家してから長い弟子は、見たことがないと答えた)
菩薩道を学ぶというのは孤独で寂しい道のりなのだ。ご想像のような、威風堂々で凄そうな道のりではない。一見『無量寿経』は釈迦牟尼仏についての仏典のように見えるが、実は、仏はこの機会を借りて我々に菩薩道の修め方について教えられている。例えば、菩薩にはどんな心が要るかと前に触れたように、そなたらの中で成し遂げたのは何人いるのか。成し遂げられなければ、菩薩道を修めるなんて言うところではないだろう。これは仏が言い出されたことで、私の発明などではない。仏の仰せすら聞かないのなら、いっそのこと仏道修行をやめたほうがいい。
浄土を修めることは、阿弥陀仏の身許へ享楽しに行くことと勘違いする人がいる。いや、それは修行しに行くのだ。ある弟子は退院してから一日中ベッドに横たわって起きようとしなかった。私はもう一人の弟子に、「このまま続くと、リンポチェはお金を出して、そなたを老人ホームへ行かせるよ」と伝言を頼んだ。それを聞いた弟子はすぐ起きた。死を待つみたいにベッドに横たわれるものか。死んだら、上師が必ずポワ法を修めてあげると思って、自らは何も働かず、やらずにでは、福報がなくてどう行けようというのか。快適さを追求すればするほど、悲惨な最期を迎えるぞ。
弟子の皆、よく聞け:まだ一息でもあれば、ちゃんと座って唱えるべきだ。一節でもいいから、真言を一節多く唱えると、その分の福報があるからだ。私の代わりに、夫に唱えさせようとか、子供に唱えさせようとか、私は心の中で唱えようとかと考える必要などない。臨終誦経は、自ずから唱える必要があるとし、そなたの心が散ってしまうのを防ぐように周りの人が唱えてくれるのだと定義する。そなたを行かせるように彼らが唱えるのではなく、それを聞くとそなたの心が散らなくなるようになのだ。ここに菩薩が何人いるのか。一人もいないくせに、何を裏付けに彼らならそなたを済度させられると思えるのか。
菩薩道を学び、菩薩道を行いたいと自ら思っている皆、『無量寿経』で言及されたことに対し、自分自身はその方向に向かって実践しているのかと問うといい。その方向に向かって実践していない者なら、表だけの仏道修行でしかない。ちょっと前に言った疑い・後悔についてだが、念頭一つだけが底付きに間違える。例えば、仏を学んでいるのに、諸行無常を信じず、体も無常だと信じないのなら、そなたは加護されるように学ぶのだ。加護を学びたいのなら、良い事をするのに励み、人に要求されるだけ差し出すべきだ。
昨日、ある弟子が求めに来たところ、その目がぐるぐる回っていたことから、きっと他に意図があるだろうと分かった。出家衆に彼と相談をさせた結果、銀行の昇格試験を受けるから助けてもらいたかったそうだ。彼もこうして求めることは良くないと知りながら、どう諭しても聞き入れない。そなたらも皆そうだ。日ごろ努力しない者が、何とか昇進されたとしても、つい法を触れて刑務所に入ってしまうようになるだろう。仏法の真義は自分自身を浄化することにあり、仏法を通じて自分を更に汚くさせることではない。仏法を学んだからといって、別人のように様変わりして、ますます福報があり、ますます凄くなると思ってはならない。受用を得るには、大なる福報が要る。福報はどうやって現わるのか。止まることなく修行し、供養し、疑心・後悔の心を起さないべきだ。そなたが離れたら最後、後悔しても、今度仏道修行する能力が付くようになるのがどの年、どの世になるか分からない。一つでも念頭をよく掴めなく、道を逸れると、どんどん離れてしまい、ついどこにいるか分からなくなるぞ。慎重に行動するべきだ!
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2021 年 12 月 26 日 更新