尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年9月12日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』巻第十八「無量寿如来会第五之二」を説かれた。
経典:「智慧光によりて心に迷惑なく、衆の過失を遠ざけてまた損害なし。淳浄の心をもつて、もろもろの穢染を離れ」
この一節は菩薩道を修めることに関してとりわけ重要だ。我々は毎日様々な惑いに向き合っている。法会前に弟子が自分自身の経験を語った(詳しくは衆生済度事跡第1096号を参照)ように、その夫が私の修法をうまく利用して土地にいる衆生を済度させたが、その夫は供養をしなかった。実は、この事は私にとってどうでもいいことだ。私は覚え切れないほど見返りの無いことをしているからだ。
彼は土地の話を持ち掛けて私に近づいてきた。彼がした主な過ちは、信用が良い我が会社と一緒に土地売買をしようと、我が会社の名義で銀行に金を借りて、土地を買ってまた転売が出来たら、利益を分けようと言ったのだ。元金が要らない上利益があるし、我が会社の名義で土地を買うという商売を、そなたらから見れば理にかなっていることだと思われるだろう。だが、私は貪らないから承諾しなかった。この事の問題はどこにあるのだろうか。先方は名声がよく銀行との関係も良い会社を利用して銀行にオーバーローンをかけているのだ。例えば、コストが1元の商品で、銀行に2元をオーバーローンしたところ、皆でお金を分かち合おうということだ。結局、どうなるのだろう。普通は、借金をした会社がお金がもらえず、山際の価値のない土地のみもらうようになる。この土地をもらっても何の役にも立たない。
これはおよそ20年前の話だが、私は一度も言ったことがないほか、先ほどその妻が懺悔に来た時も言わなかった。彼は自身の利益に達するよう、私を利用し騙した。衆生の心は何れもこうだ。上師に自身の欲望を満たしてもらえなければ、上師を誹謗する。彼に土地にいる衆生を済度させたのは、その供養のためではなく、土地にいる衆生等を助けるためなのだ。だが、多くの衆生は「リンポチェは私を一回助け、私の為を考えていれば、きっと永遠に助け、私を満足させるだろう」と、惑っているだろう。それは有り得ないことだ!在家のリンポチェにしろ、出家のリンポチェにしろ、その生活は戒律に準じている。これは即ち釈迦牟尼仏が説かれた「戒を以て師と為すべし」ことだ。俗世間の様々な義理人情を修行の方向にするのではない。
とりあえず承諾して土地売買を一件でも契約しよう、良い商売になるならやり続けるし、ダメだったらちょっと損失になるぐらいだと、様子を見てみようというのもあるが、私はそうしない。何故なら、一線を超えると欺騙になり、銀行を騙し取るようになるからだ。銀行のお金は衆生のお金だから、騙し取ってはならない。銀行は衆生の預金でローンを申請した人に貸しているもので、ちっとも銀行の資本を使わない仕組だ。衆生のお金を騙し取っては、何を以て返すのか。ある一方に借りを作っても、生生世世で返すのに、況や衆生に借りを作ったをや。どう返すつもりなのか。心の中に貪瞋痴があれば惑わされやすいし、自分自身が傷つくのを心配することでさえ、そなたを破戒させ得る
親族間の仲の良さもそなたを惑わせ、そなたに戒律を放棄させる。どうして仏道修行する者には心の中で自分自身が出家しているという認識を持たないといけないのか。出家とは、坊主になって袈裟を纏う人こそ出家というのではなく、世間輪廻の家を出離することによって、これ以上惑い続けて輪廻の渦に堕ちることがなくなるということだ。世間の人は、ひたすら惑いの中にい続け、自分自身の惑いを満足させ、はっきりさせるには、悪を為しても気づかないままだ。
この人は、臨終の際に「もしリンポチェが私の病を完治させることができれば、私は彼を信じる」と言った。この話は「私が望んだのをあなたができれば、私はあなたを信じる」という言葉とまったく同じ意味だ。だとすると、こんなにも多くの人が観音菩薩に祈願するのに、どうして観音菩薩はそれらの願を満たさないのか。観音菩薩が彼らの願を満たさないことで、観音菩薩を信じなくなる人が多い。だが、人々は俗世間の事柄がすべて因縁・業力によって生み出されたのを忘れている。この一節は、我ら仏道修行する者にとっては重要だ。そなたが上師であろうと、上師であるまいと、自分自身が仏道修行する者だと認めれば、心には惑いがあるべきではない。
「衆の過失を遠ざけてまた損害なし」。そなたを輪廻させる全ての過失を近づけず、近寄らず、遠ざかるべきだ。仮に私がそうしなければ、仏道修行する者ではないと思われるだろうとまでも思ってはならない。こうした観念は不要だ。仏道修行は「戒律を以て師と為すべし」であって、ご自身で発明した戒ではなく、仏が定められた戒なのだ。在家には在家の戒、出家した男女衆にはそれぞれの戒律、菩薩戒を授かったのも菩薩戒の戒律、密乗にも密乗の戒律があるから、何れもはっきりしている。
戒律を犯したり破ったりする可能性があれば、それらの過失を遠ざけるべきだ。遠ざかったら、何の損害も受けない。上辺からみれば、陰口を言われたり少し損になったりするかもしれないが、仏法という観念から言えば、これ等の過失を遠離する限り、新しい過失を作らないし、損害も生じず、清浄なる智慧を損なうことも無くなるのだ。
「淳浄の心をもつて、もろもろの穢染を離れ」。純粋で清浄な心で、一切の汚穢(おえ)を離れる。人は物事を処理するに当たって、七情六欲に染まりやすい。私は常に弟子らに「遠離愛憎住平等捨」と教えているが、多くの人は為し得られなく、「憎」・嫌いな・好きじゃない物から遠ざかることはできるものの、「愛」から離れられない。遠離できず・捨てられなくては、どうやって清浄な本性を修め得られるのか。清浄なる本性がなければ、どう輪廻を断とうか。時には、上師はそなたが理不尽や正しくないと思うようなことをするのは何故だろうか。対比があったほうが、そなたに自分自身に過失や汚染があるかどうかを分からせることができるのだ。
世間で言う過失は、「私が傷ついた、あなたに傷つけられたから、あなたの間違いだ。欲しい物が入手できない場合、失ったのと同様だ」という。仏法で言う過失は、身口意の所作によって生み出された輪廻の業だということだ。本気で此の人を愛し、気に掛けるのも、輪廻の過失となる。何故なら、愛しすぎるからだ。法会が始まる前に自身の経験を語った女性弟子が、明らかに夫の過ちと知りながらも、怒られるのが怖いと言って、懺悔するよう夫に勧められなかったようにだ。本当に怒られるのが怖いのか。いや、さっき彼女の表情からして、すっかり夫を愛していることを表している。夫婦二人で切り盛りしてこの家を築き上げたことから、彼女は夫を愛しているし、夫がちょっと上師を批判してもいいから、死んでから考えよう、上師が慈悲深くきっと夫を済度させてくれるからと思っている。皆は漏れなくこんな心持ちなのだ。
こんな過失から遠ざかる決心を下さなければ、自分自身に危害を加えると共に、家族にも危害を与えるだろう。どうして息子は仏道修行しに来ないのか。それは、父親が上師を罵ったのを母親が聞いても阻止しない上、仲睦まじい姿を見せているから、息子も「大丈夫、父親には何も発生していないから」と考えるようになるからだ。彼がどう私を罵ろうと私には聞こえないが、ただ後に自ずと彼が厄介事に見舞われるようになるだけなのだ。
子女のみ父母の代わりに懺悔することできるが、妻や夫ならそれができない。この父親はこの息子を一番可愛がっているし、この息子もかつて破戒したことがあるから、大礼拝(五体投地)をさせた。その後、息子は父親に懺悔しようと言ったところ、父親がそれを聞き入れ懺悔心を起したから、私は彼を救えるようになったわけなのだ。一人が厄介事に見舞われると、何人度せることになるものやら!私がこんな辱めを受けたが、一度も言っていない。あの日、彼から電話がかかってきたのを知って、私に最初に浮かんだ思いは「以前私を騙して今は業曝しだ」ということだった。『地蔵経』で説かれたように、一般人を騙しても地獄に堕ちるのに、況や行者を騙すことをや。
この間、ある女性弟子が病気になるとすぐ往生された。彼女は人を唆して母親のお金を奪ったことがあるからだ。誰も因果を信じず、好き勝手にし、罵ってからまた考えようと思われている。この行者が高座に上がって説法できることなら、いくらその立ち振る舞いをそなたが受け入れられず、認められず、更にそなたが傷つくと思っても、高座に上がって一節でも言えば、その功徳はそなたよりずっと大きくなっているのだ。
高座に上がるのを簡単そうに思ってはならない。日本京都にある禅宗寺院の話だが、その本堂には約一階の高さの法座があり、それは初代開山祖師の法座で、如何なる者も上がることが禁止だ。一般顕教の法師の法座は高座にないが、それは軽蔑や伝統に関わるのではなく、顕教は仏典の内包を宣説するに当たるものだが、修行経験の段となると、修行で力を得るには、密宗を頼りにしなければ修め得られないのだ。もし、私はこんなにもたくさんの状況に遭わなければ、仏典で説かれた如何なる話の重要性も分かる余地がなかろう。
「智慧光によりて心に迷惑なく」。人に騙されず、(仏教以外の)外道さえ信じなければ、惑いがないと多くの人は思っている。そうではなく、実は我らはどの人も毎日人に惑わされている。昨日、ある出家弟子は、私にその姉を痛みがないよう救うことを求めたところ、私はその姉に子供がいないかと尋ねたら、いると答えた。子供がいるのに、何故求めに来ないのか。この出家衆は家族の感情に惑わされた。この出家衆が思うには、家族は先に度するべきだ、自分の家族すら度せないなら、どう人を度するのかと。よりによって、家族が最も度し難いのだ。釈迦族滅亡の話を忘れたのか。氏族まるごと滅ぼされた。釈迦牟尼仏には子供が多くいる中、一人だけ彼に付いて仏道修行した。仏のほうが凄いか、そなたらが凄いか。これこそ惑わされたということだ。その姉に子供がいるし、子供が責任を担うべきだが、子供らが責任を担わないで、仏菩薩に押し付けた。
さっきほど言ったあの弟子は私を20年近く騙したとしても、私は惑っていない。仮に私が根に持ったのなら、きっと彼の連絡を受けても知らんぷりをしていただろう。だが、その途端に、大礼拝(五体投地)せよ、息子から父親に懺悔しようと言えよと、私は言ったのは何故だろうか。リンポチェは貪瞋痴慢疑に惑わされないからだ。衆生にご縁があって求めに来ては、私は処方を出し、先方が進んでその薬を飲めば、きっと機会がある。それに対して、飲めない場合には仕方がなく、釈迦牟尼仏すら施す術がない。仮にその息子が拝まない場合やら、或いは拝んで息子が父親に言っても、その父親が聞き入れず懺悔しない場合でも、度すことが出来ない。
衆生は誰しも惑う。自分が申し出れば、仏菩薩が実現してくれるだろうと思っている。仏菩薩は医者と同じように処方は出すがそなたが薬を飲むのだ。進んで飲まないのなら、たとえ薬を目に前に置いたとして、薬の匂いだけでそなたを完治させるように燻すことはない。ここでの「智慧光」とは、即ち清浄なる本性のことだ。智慧の光があってはじめて世間での様々な事を弁えられ、世間法に惑わされないのだ。我らは此の世間に身を置き、まだ世間を離れられない。離れられるようになったら、とりもなおさず阿弥陀仏のみもとへ行けるのだ。この世間では、我々は惑わされないようにするべきだ。
先週、懺悔に来た出家弟子は、何だかんだ同じ問題を繰り返している。私は彼にこんなにも仏法の薬を出したのに、彼は飲もうとしない。何故なら、彼が何時までも同じことをめぐっているからだ――もっぱら信じない。自分が有識者だから、答えがない限り信じるつもりがないと彼自身が思い込んでいる。答えは何だろう。彼が分かるまで言い聞かせるのだ。また、分かることとは何だろう。分かることとは、彼に役立ち、利点があれば、聞くのだ。この弟子は皆を代表している。誰でもこうだ。仏法を分かりたいと考えている。仏法というものは、分かるのではなく「悟る」ものだ。法王からこれだけ伝法されたが、一度も私に「分かったか」と聞いたことがない。釈迦牟尼仏がこれだけ説法されたが、分かったかと聞いていず、ひたすら諦聴、諦聴と、心から聞けと仰せになっている。世間の人として分かることが好きで、「あなたの言っていることが分からない。どうしても分からない」という。しかし、仏法が清浄なのに、よりによってそなたは分からないとなお言い続けているのは何故だろうか。そなたの心が清浄でなく、それを受け入れられないからだ。
そなたの心が一杯の汚れた水と喩えると、綺麗な水を中に入れても汚れるだろう。仏道修行する際に、まず汚れた水を捨て、以前、学んだこと・知っていた全てを不要にするのだ。皆が学んだ学問は、給料をもらって生活を支えるために過ぎず、分かるためではない。だが、誰も聞き入れず、終日自分自身に惑わされ、人に騙され、しかも私を騙しにきている。
経典:「つねに恵施を行じて、ながく慳貪を捨つ。」
法会前に、自身の経験を語った女性弟子が言ったように、リンポチェは「恩を以て怨を報いる」のだ。私は20年間罵られても、いざ先方が困って私を訪ねてくることがあれば、私は布施し恩恵を与えている。実は、私は彼を相手にせず、電話の着信を知らんぷりし、彼の業障が重く度せないという言い方もあるが、私にはちょっとでも方法や機会があれば、諦めるなどとは言わない。全てこの衆生の縁次第だ。
「ながく慳貪を捨つ」。永遠に布施を惜しむ慳貪の心を捨てることだ。
経典:「性を稟くること温和にしてつねに慚恥を懐き」
性格が温和で、表面上の温和ではない。表面では温和そうだが、内面もそうだとは限らない人もいる。それは装っているのだ。私も、温和そうに見えるが怒ると誰よりも怖い人を見たことがある。「性を稟くること」はそなたの本質を指す。正真正銘の仏道修行者なら、根に持たず、何かを貪ってねだることがないことから、自ずと温和になるのだ。たとえ口にした言葉が叱っていそうに聞こえても、全てこの人の為なのだ。
「つねに慚恥を懐き」。常に懺悔・羞恥を懐くことだ。一日が経って、成仏しない限り、懺悔すべきだ。一日が経って、成仏しない限り、羞恥を懐くべきだ。そなたら皆は懺悔心・羞恥心を持っていない。
経典:「その心寂定にして智慧明察なり。」
俗世間の様々な事に対してすべきかどうかを智慧で明察する。その息子に懺悔せよと言わせるのは何故だろうか。それは、彼は上師の言うことを聞かず、その息子を大好きでいるから、息子から言うことだったら、彼は聞くからだろう。私は手柄を欲しくない。懺悔しないと、悲惨な最期を迎えるよと恐喝することもできるが、私はそうしない。これこそ智慧だ。
「その心寂定にして」は、即ちその心が常に寂静(じゃくじょう)の中にいる。簡単に言えば、その心は外在によって乱されて動じることがなく、ひたすら禅定という境地にある。ここでの定とは、一般で言う禅定とは限らない。菩薩には九種類の禅定が具わる。仏典には、菩薩の禅定は一切の禅定を遥か上回るとある。
経典:「世間の灯となりて衆生の闇を破し」
菩薩道を修めることから、まさに自身が世間で光り輝く灯りのように化し、衆生の闇を破るのだ。仏法に出会うまでは、間違いなく悪をなし、輪廻を繰り返すものだから、人生は黒暗なはずだ。よって、菩薩は、まるで一灯の光り輝く灯りのようだ。一党
経典:「利養を受くるに堪へたる殊勝の福田なり。」
彼は、利養やあらゆる福田(ふくでん)を受けられる。前述した全部を為し得た人だからこそ、他人からの供養を受けられ、殊勝な福田を蓄積できるのだ。出家相を現し、焼印を施して幾つかの戒疤(かいは)を残せば殊勝な福田があるというわけではない。また、多くお経を唱え、多く大礼拝(五体投地)をすれば、この一節を為し得るというわけでもない。「受くるに堪へたる」とは、受けられるという意味だ。以前、法王から私は供養を受けられると許されるまで、私は何一つとして供養を受けなかった。福報がなくては、供養を受ける資格がなかろう。滇津尼瑪リンポチェから私にお金を賜わるようになるまで、自分が供養を受けられると知らなかった。福田があるから人からの供養を受けられるのであって、福田があるからこのお金を儲けられるのではない。これについてのロジックを間違えないように。私に福田があってそなたからの供養に堪えられるから、返しようがあるわけなのだ。
先ほど自身の経験を語った弟子の話のように、往生したこの男の人は、自らは来なくて、その妻が余ったお金で供養をしたが、それでも供養はしている。彼に福田を植え付けさせるよう私はしてあげておき、これでその夫が往生する間際になって上師のことを思い出して、助けを求めにリンポチェの所に駆け込むのだ。リンポチェに供養すれば、何もかもよくなると思う人が多い。実はそうではなく、それは福田を植え付けさせるためなのだ。いざという時に、リンポチェがいるんだと閃いて思い出すのだ。でなければ、思い浮かばず、話しをすることさえ間違えたりするのだ。私は私の出家弟子に信者からの供養を受けさせないのは、この段階になるまで出来ていない限り、何を以て供養を受けられようというのか。勝手に供養を受けると、問題も生じてくる。
経典:「大導師となりてあまねく群物を済ひ、憎愛を遠離し心浄くして憂ひなし。」
釈迦牟尼仏は皆の導師のようにだ。「群物」とは、人間に限らず、六道における一切の衆生を助け、救済し、彼らを恨みや愛の心から離れさせるよう助けるのだ。心が清浄になれば、思い煩い・悩みがない。リンポチェはそんなに無情ではなく、勝手に親族との感情を捨てるよう要求することはない。だが、そなたらが思い煩っても、相手に役立たない上、ご自身の修行にも役に立たない。リンポチェがそなたの望んだことを満たさなければ、そなたはまたリンポチェを誹謗しだすのもそなたにとって良くない。加持するよと私は誤魔化すこともできるが、ただ効果が出なければ、そなたはまた私の所に駆け込むようになる。私の所に駆け込む以上、私のことをまだ信じていると言えよう。だが、心の中ではきっとどうしてダメだったのかと、ぶつぶつ呟くだろう。行者として、親族との感情を諦めるのではなく、ただ親族との感情はただの因縁法に過ぎないと分かるべきだ。怨敵こそ家族になるから、仏典で説かれたように彼らを獄卒(ごくそつ)と思うべきだ。もし、「憎愛を遠離し心浄くして憂ひなし」をしなければ、いったい何を修めようというのか。
経典:「勇進して怖れなく、大法将となり、地獄を了知して自他を調伏す。」
勇猛に精進し、何も恐れることない。たとえこの先支障・苦痛・脅威が多くあっても、修行においては将軍のようにひたすら邁進することだ。
菩薩道を修める行者として、地獄に堕ちる苦しみ・因をよく知り、己を調伏する以外に、他の人をも調伏する。自分で仏法を以て貪瞋痴慢疑を調伏するべきだ。菩薩道を修めているが、まだ法身菩薩を証していない者が、退転して、愛憎・貪婪・慳貪の心を起すと、なお地獄に堕ちる可能性がある。帰依していれば、間違いなく地獄に堕ちることはないと思ってはならない。上師に対して完全に信じ・恭敬する場合は別論だが、そなたを地獄に堕ちずにさせることは出来るが、依然、輪廻は繰り返されるのだ。
先ほど言った話に戻ろう。彼は私の会社を利用して土地を買いたかった。もし、私は己を調伏していなければ、彼について行ってしまうようになり、つまり騙すことになる。そうすると、地獄に堕ちるのだ。
経典:「有情を利益してもろもろの毒箭を抜き」
仏法は一切の有情衆を利益し、毒の矢を抜くよう助け、つまりその貪瞋痴慢疑を抜かせることだ。自分が矢に当たったのに、大丈夫だ、自分が正しいと思い込んでいる。矢を抜く際、痛いのか。だが、衆生はそれを抜きたくなくて、抜くと痛いし血を流すから、矢が刺さったままのほうが気持ちいいと思っている。上師が矢を抜くようにするのは、そうしなければそなたが中毒死するからだ。抜く際、そなたに痛い思いをさせるに違いない。こうして仏法を以てそなたの果報を早めに成熟させるのだ。例えば、叱責(しっせき)という方法だ。この為でなければ、私はそなたを叱る必要があろうか。そなたの意に従えば、きっと優しいと皆に言われるだろうが、こんなことをした私はそなたに危害を加えていることになる。もちろん、私は、そなたが出家した行者であると同時に家族との絆もあると、喜ばせるよう、芝居をしたりする方法を取ることもありうるが、こうするとただそなたを地獄に堕ちさせるしかない。毒の矢を抜くには、そなたに痛い思いをさせるに違いない。矢じりが反り、それを抜く際に肉が引っかかるものだが、抜かなければならない。仮に、昨日はちょっとでも人の機嫌を損ないたくないのなら、そなたの意向に従って喜ばせていただろう。だが、如法の上師は常にそなたに毒の入った矢を抜いたりしてあげる。それを抜く際には、そなたを苦労させるに違いない。この毒の矢は誰が与えてくれたのか。ご自身が自分自身に矢を射たのだ。貪瞋痴慢疑がなければ、この毒の矢が当たらない。
経典:「世間解となりて世間の師となり、群生を引導して、もろもろの愛著を捨てしめ、ながく三垢を離れ、神通に遊戯す。」
「ながく三垢を離れ」とは、貪瞋痴という三つを離れさせることだ。「神通に遊戯す」。離戯瑜伽と神通力を修め得るには、身口意の貪瞋痴から遠ざからないとならない。
経典:「因力・縁力・願力・発起力・世俗力・出生力・善根力・三摩地力・聞力・捨力・戒力・忍力・精進力・定力・慧力・奢摩他力・毘鉢舎那力・神通力・念力・覚力・摧伏一切大魔軍力、ならびに他論法力・能破一切煩悩怨力、および殊勝大力あり。威福具足し、相好端厳にして」
「因力」とは、因縁の因の力はどうやってきたかを知ることだ。私がこの弟子を度させたように、その因がどうやって現われたか、どうやって悪の因を善の因にさせたかをはっきりと知るべきだ。彼は息子の言うことしか聞かないのと、その息子は彼の代わりに懺悔し仏に礼拝して福報を積ませることを知っているからだ。彼には福報があってはじめて懺悔する。懺悔することすら福報が要る。福報がない人に対しては、いくら口説いても聞き入れられず、懺悔せず、ひたすら「私には間違いがない」と言ってばかりいる。「願力」とは、この菩薩が大願力を起したかどうかを指す。「発起力」とは、基金会などを発起するのではなく、衆生済度の力を発起することだ。
「世俗力」とは、菩薩は世間を離れていず、俗塵の事をどう解くかを分かるという意味だ。例えば、私は在家で、結婚をし、子供を持ち、病気になったこともあれば、商売で失敗した経験もあることから、俗塵の物事をよく分かり「世俗力」を持つようになったのだ。俗塵の事柄の千変万化を知り尽くさなければ、この出家弟子が自分の姉がどうのこうのと言ったのを聞いた際、仮に私に姉がいなかった場合、きっとその考え方も分からなかったのだろう。「出生力」には二通りの解説がある。一つは、菩薩はとある因縁によって、ある場所・ある世界に生まれるということだ。もう一つは、菩薩の出生によって仏法を新たに生まれ変わらせるということだ。仏法を広めさせる菩薩がいないと、仏法がダメなわけではないが、仏法が広がる力がそんなにあるわけではなくなるのだ。
「善根力」とは、菩薩は多くの善根を為すに違いないことだ。「三摩地力」は即ち定力。「聞力」とは、仏法を聴聞する力だ。「捨力」は捨てられる意味で、もし私が惜しまないのでなければ、とっくに2005年に彼に引っ張られ従っているし、これで彼が大きな悪業を植え付けているはずだった。私は惜しまず、金銭を糞や土のように見なしているからだ。「戒力」とは、戒律を守る力だ。「忍力」とは、誹謗やお世辞などの全ての力に耐えられることだ。「念力」とは、単に仏典や呪文を唱えたりするのではなく、菩薩としての念頭は力強いもので、念頭でも動かせば、物事はほぼ遂行するようになることだ。「覚力」とは、覚悟の力だ。「摧伏一切大魔軍力」とは、菩薩が多くの法門を学ぶのは、「摧伏一切大魔軍」する為なのだ。「ならびに他論法力」とは、共に修める眷属と一緒に修法の力について討論することだ。
「威福具足し、相好端厳」を得るには、前述した力を為し得る必要がある。ある人を端正・端厳と形容する場合に、決まった条件が含まれているはずだ。これについて、皆はちょっと確かめてみるといい。
経典:「智慧弁才の善根円満す。目浄く修広にして人に愛楽せられ、」
その目は清い。「広」というのは、その目は肉眼だけではなく、天眼・智慧眼・法眼を含め、その目に見えたのは広大なる六道における衆生だということだ。『普門品』で説かれる「慈眼視衆生」だが、もし肉眼・天眼・智慧眼・法眼がなければ、とても「慈眼視衆生」できないのだ。「慈眼視衆生」とは、目を慈悲そうに装ってそなたを見つめることではなく、肉眼を具備しているから俗塵の物が見えるということだ。天眼(天眼にも幾つかのレベルに分かれる)を具備し、三千大千世界における衆生の様々な苦の因が見える。智慧眼を持ち、取捨を弁えられる。法眼があり、どんな方法を使えば自利利他できるかと見極められるのだ。
この4種の目を具備してはじめて慈悲な眼が生まれるのだ。「慈眼」とは、母親が子供を見つめる眼差しのことではなく、この4種の目が結合した上、彼が慈悲を主とする菩薩道を修めるから、衆生を見た際に、自然に衆生の因縁因果しか見えず、衆生の善と悪が見えないようになる。その反面、もし衆生が上師を見る際に善と悪があれば、それはこの衆生の心にはまだ貪瞋痴慢疑があるということを示している。仏像や菩薩像を見ても、どうも気に入らないと感じる衆生らもいるのと、同じ観念だ。仮に目が清くないなら、広大なる慈眼を修め得られず、「慈眼視衆生」できず、「人に愛楽せられ」もせず、衆生がそなたを好んで見るということがない。
経典:「その身清潔にして貢高を遠離し、尊重の心をもつて諸仏に奉事し」
その身は非常に清潔だ。この菩薩は高慢を遠ざけ、尊崇の心を以て諸仏に仕えている。菩薩として何時までも謙虚で且つ尊崇の心を以て一切の仏に仕えており、私がそなたに供養したから、私のほうが凄いということはない。こんな心を持ってはならない。
経典:「諸仏の所においてもろもろの善本を植え、憍慢を抜除し、貪瞋痴を離れ、殊勝吉祥にして、応供のなかの最なり。」
仏のあらゆる所で、仏が仏法を宣説し説法すれば、全ての善の根本を広く植え付け、「憍慢を抜除し、貪瞋痴を離れ」となる。この話は重要で、行者が驕慢・傲慢の心を抜き取らず、取り除かないのなら、つまり口癖の「私には分からない」というように、高慢だ。何故そなたに分かるというのか。分かるという裏付けがあるのか。今は仏法についての話で、修めることすらしていないうちから「分かる」なんて言い、「私に分かるまで言い聞かせなければ、私はあなたを信じない」という。まるで彼が言った「私の病気を完治させたら、私は彼を信じる」のように、何れも傲慢で、こうした傲慢の心を取り除く必要がある。諸仏菩薩と上師には衆生を傷つける心がなく、もっぱら衆生に上師を傷つける心があるのだ。
もし、驕慢の心を抜き取らず、貪瞋痴を離れないのなら、永遠に良くならない上、「殊勝吉祥にして、応供のなかの最なり」を得ることも出来ない。仏典曰く、菩薩を供養する功徳は、仏を供養するのより大きい。何故なら、菩薩がたくさんの事をそなたらが気づかないようにし、黙ってし続けているからだ。
経典:「勝智境に住し、赫奕たる慧光をもつて心に歓喜を生じ、雄猛無畏にして」
その心は、殊勝な智慧という境地に留まって無量の智慧の光を生じる。この菩薩はよく歓喜心を起す。彼が菩薩だから歓喜するのではなく、勇猛・無畏に仏法を修行し、衆生利益し、自己を調伏することは歓喜の事だと思うからだ。
経典:「福智具足し、滞限あることなし」
菩薩は修行する過程の中で、福と智慧が途絶えることなく具足し、止まることがなく、差し支えがなければ、制限もされていない。仏典によれば、二地菩薩の福智は登地菩薩の何倍もあるそうだ。倍数で増加していくものだ。彼がひたすら上へ上へと修行する限り、その福と智には差し障りや制限などがなく、絶えず増加していくものだ。
経典:「ただ聞くところを説きて群物に開示し、聞くところの法に随ひてみなよく解了す。菩提分の法において、勇猛に勤修して」
自分自身が聴聞した仏法を一切の衆生に開示して衆生の疑惑を解くとする。
経典:「空無相願をつねに安住し」
菩薩は空性の中に住す。「無相願」というのは、菩薩は必ず発願をしているが、いつ満願するかに関しては執着せず、いつ・誰か決まった衆生を救済するかに執着しないで、毎日「無相願」に住しながら、ひたすら実践し続けるという意味だ。私が毎日法を修めてあらゆる帰依弟子に廻向することこそ、「無相願」そのものだ。心がそれに安住して、他の事を考えない。
経典:「および不生不滅のもろもろの三摩地の行、道場に遍して二乗の境を遠ざかる。」
修行の心は不生不滅だ。『心経』で説かれるように、不生不滅で全てが因縁法によるのだ。今日遭った何かしらの事によって、心が生まれたり滅したりすることはない。心は一度も動いたことがなく、因縁が来たり行ったりしているだけなのだ。
彼は仏陀・菩薩が説法される全ての道場に行って、声聞縁覚の境地から遠ざかる。
経典:「阿難、われいま略してかの極楽界に生ずるところの菩薩摩訶薩衆の真実功徳を説くこと、 ことごとくみなかくのごとし。」
私は今日ただ単に極楽世界で生まれた菩薩・大菩薩・法身菩薩の真実の功徳がまさにこうだったと、簡略に説くだけなのだ。
経典:「阿難、たとひわが身寿百千億那由他劫に住し、無礙の弁をもつてつぶさにかのもろもろの菩薩摩訶薩等の真実功徳を称揚せんと欲すとも、窮尽すべからず。阿難、かの菩薩摩訶薩等、その寿量を尽くすともまた知ることあたはずと。」
たとえ私の寿命が「百千億那由他劫」という非常に長い時間があったとして、これら大菩薩の実在する功徳をはっきり言い、褒め称えるには時間が足らない。それらの大菩薩が彼らご自身の寿命を尽くしても、自分自身の功徳がいったいどれほど大きいかは知れないものだ。
経典:「その時世尊阿難に告げてのたまはく、これはこれ無量寿仏の極楽世界なり。なんぢ坐より起ち、合掌し恭敬して、五体を地に投げ、仏のために礼をなすべし。かの仏の名称十方に遍満す。かの一々の方の恒沙の諸仏、みなともに称讃したまふこと礙なく断ゆることなしと。」
「合掌し恭敬して、五体を地に投げ」ということは、つまり大礼拝(五体投地)のことだ。
経典:「この時阿難、すなはち坐より起ち、ひとへに右の肩を袒ぎ、西に面かひ合掌し、五体を地に投げ、仏にまうしてまうさく、世尊、われいま極楽世界の無量寿如来を見たてまつり、ならびに無量百千億那由他の仏および菩薩衆を供養し奉事しもろもろの善根を種えんと欲すと。時に無量寿仏、すなはち掌中より大光明を放ち、あまねく百千倶胝那由他の刹を照らしたまふ。かのもろもろの仏刹のあらゆる大小の諸山、黒山・宝山・須弥盧山・迷盧山・大迷盧山・目真隣陀山・摩訶目真隣陀山・鉄囲山・大鉄囲山・叢薄園林およびもろもろの宮殿・天人等の物、仏の光明をもつてみなことごとく照見せり。たとへば人ありて浄天眼をもつて一尋の地を観ずるにもろもろの所有を見るがごとく、また日光出でて万物の現わるるがごとく、ここにかのもろもろの国中を覩るに、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、ことごとく無量寿如来の須弥山王のごとくなるを見たてまつる。もろもろの仏刹を照らす時、もろもろの仏国みな」
無量寿仏は手に於いて大光明を放ち、あらゆる山を漏れることなく綺麗に照らし、暗い場所は何一つとしてない。阿弥陀仏国土にいる比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷はみな、須弥山のように大きい無量寿仏を見ることができる。その光によって、あらゆる仏の国土に清浄なる光明が存在するようにし、まるで全部が小さな範囲に現われるようにだ。
経典:「ことごとくあきらかに現ずること一尋に処るがごとし。無量寿如来の殊勝の光明極めて清浄なるをもつてのゆゑに、かの高座およびもろもろの声聞・菩薩等の衆を見れり。たとへば大地に洪水の盈満して、樹林・山河みな没して現ぜず、ただ大水のみあるがごとし。」
無量寿仏の仏光は大きく光り輝く綺麗なもので、何もかも受け止められ、良くない物もちゃんと受け止められる。まるで、水が大地いっぱい満ちるように、木々が見えず、水だけしか見えないようにだ。
経典:「くのごとく阿難、かの仏刹中には他論および異の形類あることなし。ただ一切の大声聞衆の一尋の光明あると、およびかの菩薩摩訶薩の踰繕那等の百千の尋光あるとをば除く。 かの無量寿如来・応・正等覚の光明、一切の声聞および諸菩薩を映蔽し、もろもろの有情をしてことごとくみな見ることを得しむ。かの極楽界の菩薩・声聞・人天衆等も、一切みな娑婆世界の釈迦如来および比丘衆に囲繞せられ説法するを覩たてまつれり。」
仏菩薩以外何もなく、「大声聞」だけしかそこにいず、その光は短く僅か一尋だけしかない。菩薩の光は非常に強いものだが、無量寿仏の光明は一切の声聞と諸菩薩を遮り、あらゆる有情をはっきり見させることができる。
経典:「その時仏、弥勒菩薩に告げてのたまはく、なんぢすこぶる清浄威徳の荘厳を具足せる仏刹を見、および空中の樹林・園苑・湧泉・池沼を見たるやいなや。なんぢ大地乃至色究竟天を見、虚空中において樹林に散花してもつて荘厳となし、また衆鳥ありて虚空界に住し、種々の音を出すことなほ仏の声のごとくにしてあまねく世界に聞ゆ。このもろもろの衆鳥、みなこれ化作にして実の畜生にあらず。なんぢこれを見たるやと。弥勒、仏にまうしてまうさく、ややしかなり、すでに見たりと。」
この段落は重要だ。何故なら、弥勒菩薩を修める多くは阿弥陀仏を称名してはならない、逆に阿弥陀仏を修める多くは弥勒菩薩を修めてはならないと思っているからだ。だが、この一篇はあまねく釈迦牟尼仏が弥勒菩薩に浄土についてお話をしている内容になっている。仏典には誰が誰だと区分がなく、我ら人類がわざと銘柄を作って、自分が弥勒菩薩を修める派だと自称するから、阿弥陀仏を唱えないことにする。それに対し、阿弥陀仏を修める者は「私があそこに辿り着けば菩薩になるから、弥勒菩薩を修める必要がない」という。弥勒菩薩は、正真正銘の出家衆だけしか修められず、正真正銘の比丘・比丘尼だけしか行かれないのだ。
この段落の面白い所に釈迦牟尼仏はひたすら弥勒菩薩に「そなたは見たか」と聞いたところがある。それには、二通りの説明があるが、一つは弥勒菩薩が八大法身菩薩の一つでありながらも阿弥陀仏を褒め称えるのだということになる。もう一つは、大菩薩は自分の目で阿弥陀仏国土を見ることができるが、我々には見えず、釈迦牟尼仏が解説された文字を見ることしかできず、ご自身が見たのが本物だと思ってはならないと、衆生に言い聞かせていることになるのだ。
弥勒菩薩は真に見えたのだ。そなたらが登地菩薩ですらないのに、自分が極楽世界を見たと敢えて言えるのか。死んだ時にさえ、必ず見えるとは限らないのに、勝手に妄語(もうご)を言わないでくれ。仏はとりわけ我々のこの癖を破っている。浄土を修める多くは見えたと言いながらも、仏は地球では見えると仰せになっていない。仏は前にはっきりと仰せになったが、三種類の人だけしか見えず、しかも死ぬ前になってはじめて見えるものだから、普段は見えないとされると。ここでは弥勒菩薩ははっきりと見えたと言っている。お経を拝読する際、仏の言いたいことを見いだす必要がある。自分は阿弥陀仏を称名したことがあるし、四六時・念仏成片・一心不乱になるまで唱えれば浄土が見えると思ってはならないと、仏は我らの執着を破っている。
釈迦牟尼仏の叔母ですら、仏が自ら浄土十六観を授ける必要があった。仏典ではその叔母が生前に浄土が見えたと書かれていない。それは彼女はまだ修めているからだ。この十六観をどう観ずるのか。現在まで伝承されてはいないが、「一観日」・「二観月」と名詞のみ残っている。『観無量寿経』には名詞の記載があるが、どうやって観ずるかについて説いていない。密宗まで学ぶと、日って何を指すか、月って何を指すか分かるようになるが、そなたには言えない。
浄土には様々な鳥がいるが、これ等の鳥は畜生ではなく、阿弥陀仏を代表して説法する化身なのだと、仏は強調されている。
経典:「仏また弥勒菩薩に告げてのたまはく、なんぢこのもろもろの衆生踰繕那百千の宮殿に入りをはりて、虚空に遊行すること無著無礙にして、もろもろの刹土に遍して諸仏を供養するを見、およびかの有情昼夜分において、仏を念じ相続するを見たるやいなやと。弥勒まうしてまうさく、ややしかなり、ことごとく見たりと。」
皆が信じないだろうと仏は思われるから、力が強まるようもう一人加えたのだ。仏は弥勒菩薩に「見たか。中にいる菩薩が飛び交い、別の刹土へ仏を供養しに行ってはすぐ戻ってくる。念仏を途絶えることなくし続けているのを見たか。」と聞いた。弥勒菩薩は見たと答えた。何故、そなたらには見えないのか。そなたらがまだ死んでいず、まだ菩薩ではないから、見える資格がない。この後、更に素晴らしい内容が待っている。
前回、弟子に調べてもらった「奢摩他」は、中国語では止という。中で言及した専一瑜伽・離戯瑜伽・一味瑜伽・無修瑜伽は、即ち大手印の境地だ。チベット仏教で修める禅定というのは、直接に心の中で修めるもので、一般的にいう黙照禅(もくしょうぜん)と違って、直接に心の中から施すものだ。第一歩としては、ひたむきさを求め得、あるポイントに集中することだ。あるポイントに集中するのも容易なことではない。あらゆる心があるポイントに集中できるようになってから、次の離戯になるのだ。
世間の様々な全ての現象を離れ、まるでゲームのようだ。空という境地を離れ、有という境地を離れ、空に非ず、有に非ず…。これ等はそなたらにとっては、ただ聞くだけで、聞いても聞き取れないのだ。空という境地になれば、空即ち道だと思ってはならず、空というのは単なる喩えなのだ。離戯瑜伽の肝心な定義として、菩薩道を修める者はある境地に執着せず、世間の様々な全ての事柄を知り尽くすことにある。世界とは、単に地球を指すのではなく、宇宙全体六道において発生した全てのことだ。彼はあらゆる事物や人などは因縁性空だということをはっきりと知っているのだ。性空というのは、無いという意味ではなく、全ての事柄が常に変化することをよく知るから、自然にある事柄などに執着せず、思い詰めることがなくなるのだ。離戯瑜伽まで修めなければ、済度しようがない。
施身法を修める際に、離戯瑜伽まで修め得られるよう、上師からのご加護を求め続ける。離戯瑜伽まで修めないと済度できない理由は何だろうか。それはそなたがある相に執着するからだ。例えば、ある怖い霊を見て、そなたは怯えるとなると、済度させられなくなるのだ。例えば、突然自分は苦しそうなのを済度させたく、苦しくなさそうなのを暫くの間相手にしたくないというのも、ダメだ。離戯の真実の定義においては、「空」と「有」にあれこれ凝るのではなく、「空」が来たり「有」が来たりすることもない。ひたすら言うのではない。ポイントは、その心は様々な世間事に絡まることがない。彼にはあれをやったりこれをやったりとごく普通な生活ぶりがあるように見えるが、その心は動じない。何故なら、因縁法だ、睡眠をとることも、食事をとることも、歩くことも、何れも因縁法だとよく知っているからだ。
もし、離戯瑜伽を正しくしなければ、実有とは何だ、真空とは何だということをよく弁えられないから、修めた法も相応しないのだ。どうして、私は済度できるのか。それは私が凄いからではなく、私は既に離戯瑜伽という境地に入ったから、私にとって空間・時間というのがなく、既に四相(我相・人相・衆生相・壽者相)を破ったからだ。この四相は、慈悲喜捨より破るのだ。慈悲喜捨を修め得られ、この四つの相を破ってはじめて離戯瑜伽に入り、衆生を済度させられるようになるのだ。亡霊は凄いのよ。大陸の弟子に中国・東北地方に住んでいた叔父がいた。彼は一度も私に会ったこともないが、亡霊になると分かるようになり、その妻に、台湾にいるリンポチェなら助けてくれると、甥に言うよう告げたそうだ。
朱という弟子の話によると、私がある官僚の父親を済度させた二日間後に、その父親からこの官僚に「ある行者に助けられて、今はとても良い所に居るよ」と夢で告げられたそうだ。私はこの父親の名前すら知らない状態だし、生前に会ったこともなければ、縁を結んだこともないが、ただこの官僚はかつて道場を助けたことがあることから、縁が生じたのだ。
簡単だが遂行するのに難しい。何故なら、そなたの身に付けた・知った・分かったことを全て捨てなければならないからだ。全てを捨てて無我という境地に入ってはじめて衆生を済度させることができる。そなたが「私は凄い。私はよく修めた。」と思ってばかりいると、衆生はそっぽを向いてそなたを相手にしないことになる。例えば、ニュースでは今回の台風がどんなに猛烈かと報道はされていたが、現段階ではそこそこで、まだそう深刻な印象ではないのだ。実は、今回の台風は致命的なはずだったが、何故、現段階では大した台風ではなさそうに見えるのか。台風は進行方向が変わって逸れたと報道されている。今回、台風が来る前に、衆生に大きな損害が起こるだろうと、皆には恐怖心を起した。数日にわたって私が修法をし続けた結果、今はちょっとした風雨があるぐらいに留まった。
修行って、そのコツがなかなか言い出せないものだ。着実に実践し、求める所なく実践し、綿々と留まることなく実践し、自分の為ではなく実践する限り、きっといつか自分ができたと体得するようになる。そなたができたのではなく、そなたには衆生利益することができるようになるのだ。これは文字で形容しそうにないものだ。仏典でいう「不立文字」のように、文字で記載することができないのではなく、その境地を形容してそなたらに聞かせることができないのだ。仏典で説かれた、水を飲むようにその熱さや冷たさを自分だけしか知らないみたいにだ。私が飲んだ一口の水がどれぐらい熱いか冷たいか、私自分だけしか知らず、それを分からせるよう言うことができない。そなたらが私と同じように火傷しなければ分かることはない。修行はそうだ。熱さや冷たさは自分自身だけしか知らない。決心して実行しなければ、いつまでもただの素人にすぎない。どうして、チベット仏教では上師を信じろと率直に教えているのだろうか。それは皆にはできないからだ。出来ない理由として、気がかりが多すぎることがある。こんなにも気がかりがあっては、いっそのことで上師を信じよう。上師が正しいと思うと正しい。上師が正しくないと思うのならそなたの間違いだ。
一味瑜伽︰その心に変わることなく、外在的環境がどう干渉しようが、内面的感情がどう干渉しようが、その心が変わらず、清浄なる心に変わりないという意味だ。心は元より変わることはないが、我ら自分がそれが変わっていると思っている。何故なら、そなたの意識が動いているからだ。
最後に当たるのが無修瑜伽だ。無修は難しいもので、佛が大悟徹底される前にだけ、無修という境地に入ることこそ寂静だ。寂静とは、心に揺れる所が無く、定でない事が無く、定でない時が無く、定でない場所がないということだ。
菩薩には九種類の禅定があり、この九種類とも修め得なければ、衆生利益することができない。仏曰く、この九種類の禅定は一切の禅定に勝るという。
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2021 年 12 月 26 日 更新