尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年9月19日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて、自ら殊勝な薬師仏灌頂法会を主催された。リンポチェは燈を点し仏を供養した後、法座に上がられ、貴重な開示を賜われた。

本日修める薬師仏灌頂のテキストは特殊であり、直接に報身仏を修めるものであって、化身仏・菩薩を修めるものではない。法王は、薬師仏の法は普く広く授けないとすると仰せになった。どうしてそんなに厳しくするのか。それはまるで幼稚園程度の生徒が、大学・博士課程へ行かれるのかということのようだ。だから不可能だ。『宝積経』において、一部の大乗仏典は、相応しい機根でない弟子にはチラ見でも見させないと、釈迦牟尼仏は開示されている。自分は発心しているから、仏道修行を発願すれば与えてくれるだろうと思ってはならない。上師はそなたの機根に基づき伝法し、仏法は望むだけ修習できるわけではない。

本日この灌頂があるのは、ある医者弟子がかつて薬師仏を唱えたことがあると言ったことがきっかけだった。『薬師経』を唱えれば薬師仏を修めていることになると多くの人が勘違いしている。確かに、顕教では『薬師経』は唱えているが、お経の中に薬師仏の願力が紹介されていながらも、どう修めるかとは教えていない。出家して30数年の弟子は「以前、顕教の時に、確かに『薬師経』を唱えてはいたが、どう修めるかに関しては、教える人はいなかった」と述べた。リンポチェは引き続き開示され、多くの人には、自分が修めているという間違った考えがある。実は、自身を修めているに留まり、利他できるまで修めていない、と述べた。

菜食・焼香・礼拝・誦経をしていれば、この法門が修められると思ってはならない。時期尚早だ。密法すら四つの部に分かれ、「息・懐・増・誅」との四法がある。法ごとに二種類のテキストがある。一つは簡軌で、自分のために修める簡単な儀軌である。もう一つは長軌で、衆生の為に修める物である。仏道修行する者の多くは傲慢・軽慢になりやすい。『宝積経』において、釈迦牟尼仏は、菩薩道を修める者は少したりとも軽慢を持ってはならず、ちょっとした傲慢でもあれば、功徳が泡になり直ぐに消えてしまうと開示された。

どうしてこの法は広く、普く伝えられないのか。報身仏だからだ。『無量寿経』の中でもはっきりと説かれている:菩提心を修めず、菩提願も行わないと、報身仏は来迎引接してくださらない。つまり、そなたがこの一生で菩薩道を修めるよう発願しなければ、報身仏は助けに来ることはない。どんな人でも菩薩道を修められるのだろうか。話を聞く人だ。

私は今日ちょうど、ある報道を見たが、乳がんは女性が患うがんの中で最も確率が高い癌腫であって、比較的肥満で、よく夜更かしする人は乳がんに罹りやすいそうだ。どうしてだろうか。医学ではそれについての解説があるが、ここでは言わないようにしておこう。ある女性弟子は、かつて乳がんに罹っていたが、私はその乳がんが僅かしか残らないよう助け、そして夜更かしせず、むやみに食べないようにと言い付けていた。だが、彼女は話を聞かず、乳がんが再発した。彼女は、「そう深刻ではないだろう。夜更かしぐらいで、特に何もしないし、とりあえずお金を稼いでから、それをリンポチェに供養しよう」と心の中で考えている。

私は二千万元にすら見向きもしないのに、本当にそなたのお金が欲しいのであれば、「夜更かしでもしてお金を儲けてこい、そしてそのお金を供養してくれ」と言っているはずだ。彼女はどうしてこうなのか。体内時計にしてまったく間違っている。仏法で言えば、私が言い出したからには、全てがそなたの為だとし、彼女が話を聞かないのは善を外に突き出しているということだ。そなたらを一回しか救えなく、永遠に救うことは不可能だ、と私は屡々言うようにだ。かつてジッテン・サムゴンも開示されたことがあるが、あらゆるリンポチェはそなたの病気に役立つし、いったんそなたが助けられてから、ご自身で精進すべきだという。つまり、話を聞くことだ。だが、そなたらは話を聞かないことを必死に頑張っている。

今日は、五百名余りの弟子がオンライン法会に参列できない。しかも、その供養を受け取らない。私は既に方便の門を開き、此の法が聞けるように、八百名の弟子をオンライン法会に参列させている。資格を満たさないそなたへの伝法が、そなたからの謗仏に繋がるかもしれない。効かないなんて口にするだけで、謗仏に当たる。出来ないそなたが、どうして仏菩薩のせいにすることができようか。

私は法王に仕え、数十年仏道修行をしてきている。薬師仏が有られることは言わずと知れたが、法王はそれに一度も言及したことがなかったし、私も自分の目で法王が薬師仏の灌頂を授けたのを見たことがなかった。今回は、私から法王への希いあっての灌頂だ。何故なら、私は自身のためではなく、もっぱら衆生のために法を求めていると法王が知っているからだ。我らに言わせれば、病気を治療するには他にたくさんの法が使えるが、特別な法などでなければならないということはない。

灌頂とは、そなたに此の法を修めるのを授権することであって、英語で言えばAuthorizeだ。ここを離れた弟子の一人が「真言には特許があるのか」とかつて聞いたことがあるが、それは確かにある。灌頂とは授権・特許であって、まさに「寶吉祥」という名前を私の授権無しに使うと、違法になることのようにだ。もちろん、仏菩薩はそなたを訴えることはないが、このままではまだ効くのかと言えば、間違いなく効かないのだ。上師から灌頂・授権されてはじめて此の法を修めれば、役に立つのだ。上師からの授権がないままでは、修めても仕方がない。

そなたらがひたすら持呪していても効果が出ないのは何故だろうか。それは灌頂がないからだ。顕教には灌頂がなく、密法にだけしか灌頂がない。仏典において、灌頂は説かれているが、灌頂の儀軌については説かれていない(出家衆は『華厳経』には灌頂ということは言っているが、どう灌頂するかに至ってはわからないと答えた。)。以前、唐代密教(唐密:タンミィ)にはまだ灌頂があったが、のちに、唐代密教(唐密:タンミィ)は伝承が途絶えたから、チベット密教だけしか灌頂が残らなくなった。リンポチェまでの者でなければ、灌頂を授けることができない。灌頂も異なったレベルで分けられている。授権灌頂なしの持呪も、なお役に立つ。ただし、灌頂を通じず、仏菩薩による授権がなく、上師からの伝承を受けなければ、持呪というものははそなたの本性を清めさせ、そなたの慈悲心を蓄積させ、そして、いつか灌頂を授けるに足る福報があるようになるまで、そなたに本尊と深い縁を生じさせるに留まる。

灌頂を授かるということは、そなたは未来の菩薩だという意味だ。『阿弥陀経』に書かれた「授記(じゅき)された菩薩」みたいに、かつて灌頂されたことがあれば、阿弥陀仏の所には行き易くなるのだ。灌頂はやたらと授けるものではなく、灌頂のテキストには三昧耶戒を守るべきだと説かれている。というのは、上師に約束したことを果たさなければならない意味であって、さらにテキストに書かれた内容をそなたが果たさなければ三昧耶戒を破るということだ。それはそなたが地獄に堕ちるのではなく、そなたに成仏する機会がないことだ。それでは、上師に差し支えるところがあるのか。ある。何故なら、上師はあらゆる縁ある衆生を救済し、成仏させることを約束しているからだ。いったんそなたが三昧耶戒を破ったら、上師はそなたが話を聞くまで教えなければならないとされる。末法時代では、徳を具え、灌頂が修められるリンポチェは次第に少なくなっていく。それは、人類の福報が減っているため、灌頂を授かる機会も少なくなっているからだ。

疫病の関係で、ここ二年、多くのチベット仏教の道場では灌頂を滅多に行っていない。何故なら、彼らの上師は台湾に来られなく、チベットにある仏教寺院でさえ、コロナで集いが減少するにつれて、灌頂を授けることも少なくなっている。何れも、末法時代の衆生には福報が弥が上にも減少していることを表している。

本日この灌頂を授けたところで、そなたらが修められるということではない。そなたらが上師・仏菩薩への恭敬心に鑑み、恭敬心が無い者には伝承しない。灌頂して、上師によるテキストの口伝や、修め方の伝授を経てから、閉関をするという流れだ。此の法が伝授されるかどうかは私次第ではなく、そなたら次第だ。まだ漫然としていて、話を聞かないのなら、その女性弟子と同じく、話を聞かず、夜更かしした挙句、病気が再発したようになるのみだ。話を聞かないのなら、いくら灌頂を授けたとしても、修め得られないのだ。密法を修習する際の微妙な心は、そなたらに詳しく説き聞かせられることではない。

法王は此の法を修めるのに少なくとも一か月の閉関が必要だと言っている。閉じこもって唱えれば、これで閉関だと思ってはならない。いや!仏教以外の外道の閉関をチベット仏教の閉関と見なしてはならない。チベット仏教の閉関にはそれなりの儀軌がある。閉関の前に、まず上師はそなたが関に入るのを助ける。そなたの福報の足りなさによって障碍が生じることを防ぐため、閉関の差し障りを減らすよう加持し、障碍が取り払われてはじめて閉関を始める。チベット仏教では、全ての成就は上師によるお助けなのだ。

2007年、法王は私をラプキ雪山へ三か月にわたる無上瑜伽部喜金剛の閉関修行をしに連れて行った。そこはミラレパをめぐる聖地であって、非常に険しい環境だが、ミラレパは苦行を修めたから、よくそこに住み着けるようになった。繊細なそなたらは堪えられないに決まっている。堪えられなくて一週間でギブアップするだろう。法王の引率して私の差し障りを取り払わなければ、三か月に及ぶ閉関はそう容易なものと思うのか。本当にお安い御用ではない。小さな部屋で、何もできなくては、誰もいていられないだろう。密宗の関を閉めるのと、(仏教以外の)外道のとは、完全に性質が異なる。何故だろうか。外道のがいくら上手に閉関したとしても、(関を)出たら鬼神が助けてくれるに留まるが、それに対し、密宗の関では、出たら仏菩薩から助けられているから、桁が違うのだ。

当時、法王の関房は私の関房より約100メーター離れたところにあった。私はその年に死ぬかもしれないと、法王は知っているから、わざわざ傍にいて見守ってくださった。私が少しでも大きく持呪の声をあげると、聞こえるぐらいの所に法王がいらっしゃった。よって、私が毎朝四時に起きてから、夜十時、十一時に寝るまでずっと持呪していたことを法王は知っている。あの時、私が修めた呪文は150字という比較的長く、しかも取り分け唱えにくかった。私は死なないと、法王が確かめてはじめて、法王は関を出て歩き回るようになった。何故、法王は事前に伝えてくれないのかと問うかもしれないが、法には定法がないから、因縁は随時変わりつつ、何れもそなた次第だ。言うことを聞き、着実に修めれば、事は変わるに違いない。此の法を修めたら、今後はどうなるかと、法王に一切聞いたことはない。どういうメリットがあるのかについても聞いたことがない。持呪は持呪で、観想するなら観想する。

私は法王に率いられラプキ雪山で無上瑜伽部喜金剛の関を閉じた一人目の弟子だった。元々、2019年に再び私を連れて行く予定だったが、コロナによって行けなくなった。将来はまた行くのか。私と法王は二人とも年を取っているから、恐らくもう行くことはないだろう。

不共四加行の上師相応法を修め切れば、本日の灌頂法会に参列できるとは限らない。ある弟子は既に上師相応法を修め切ったにもかかわらず、本日の法会に参列することができない。それは、彼女は上師より息子のほうが好きだし、ずっと恭敬しているからだ。かつて、私が子供を法王に会いに連れて行った時に、何よりも先に子供を法王に頂礼させた。彼女がこうしたのは、まったくもって私がこれから言うことを待っていたのだ。もし、それが、彼女が望んだ通りの息子の為になることであれば、彼女は頂礼して上師にお礼を言うつもりだが、仮に、それが彼女の望んだことでは無ければ、頂礼しないようにするつもりだったのだろう。そなたらの99%はこうした心構えだ。永噶リンポチェは、密法は此の世間で僅か700年で消えてしまうと仰せになった。今どきの衆生はどんな心なのだろうか。師長を恭敬しない。ちっとも師と道を尊重しない。どの人も自分自身が凄くて考え方が他所のと違うと思い込んでいる。

昨日、三人の弟子が供養に来た。謙遜と恭敬の心で供養するのを知らず、もっぱら供養はただ一つのプロセスに過ぎず、SOPに則って進めればいいと思っている。何を急いでいるか分からない。もし、時間がなければ、そして私の前に跪くのが怖いのであれば、私に会いに来なくてよい。

最近往生した弟子だが、生前に自分を早く死なせるよう私に求めた。私は待とう!と言った。何故だろうか。それは、まだ完済もしていないし、まだ時間にもなっていないからだ。ある日、彼の為に法を修めようと念頭が起きたら、彼は翌日に往生した。時間になっていなければ、学びたくても学べないし、伝法してもそなたに与えようとしない。自分がリンポチェにこんなにも恭敬しているのに、伝法しないのかと思う人もいる。伝えないのは伝えない。これ以外の何物でもない。私と法王との関係は充分に密接しているだろう。それにしても、こい願う必要がある。況やそなたらをや。

マルパはかつて三回にも渡り、ヤックと馬で黄金を載せてインドへ法を求めに赴いた。私はマルパにならって黄金で法を求めるのだ。無上瑜伽部喜金剛の根本上師はマルパである。マルパが法を求めにインドに赴いた三回とも黄金を用いたことから、相当のお金持ちだったということが分かる。地元の貴族で、少なくともある分野の有力者だった。とある分野の有力者だと、気楽に過ごせばいいのに、彼はこうした気持ちをよく持って全財産を尽くして衆生の代わりに法を求めている。法王は公の場で私が教派を護持した金額はおよそ1,700万ドルと仰せになったことがある。仏法はお金で買えるものだと勘違いしないように。そうではなく、私は仏法は黄金より貴重だから、喜んで黄金を以て法を求めるのだ。ポイントは金銭にあるのではなく、私は話を聞く者であって私の気持ちそのものだ。一個の法を聴聞することができるのも、灌頂に参加できるのも福報の証しだが、今後はよく修め得られるのかは、そなたら次第だ。

私は今朝10時過ぎに修法をしに来た。そなたらはまだご自宅で楽しそうに過ごしていただろう。四加行を修め切ったからといって、このテキストを伝えるとは限らない。列席の面々の多くは、百パーセントのお手上げではない。密法は厳しいものだが、学び難き修め難いという意味ではない。『宝積経』においては絶えず菩薩はどんな心を持っているかと説いているが、そなたらは菩薩の心なのか。 いや。持っていなければ、何を理由にすぐさまにこうした自利利他の大法が修習出来ようか。報身仏とは、直接に与えるという意味だ。

前回、そなたらのために薬師仏を修めたのは、薬師仏と縁を結ばせるためであった。私にとって、これが初めて修めた法だが、法会に参列した人はみな薬草のいい匂いを嗅いだ。どうして出来たのか。それは心だ。私の心だ。一門に深く入り、一個の法でも成就まで修められれば、如何なる法も修め得られる。原理は全て同じであって、「菩提心・慈悲心」だ。此の法を広く普く伝えないのは、間違った人に伝えると、自身と衆生に危害を加えるからだ。此の法は、間違いなく直接に衆生利益することができるものだから、仮にこの法を金儲けや自分を有名にさせることに用いると、どうなると思うだろうか。 仏法への破壊に繋がるだろう。法王は台湾にこんなに大勢の弟子がいるし、多くの人は法王を敬っているが、何故私が続けざまに伝法を授かっているのか。それは、恭敬は条件の一つに過ぎず、その他に話を聞くべきなのだ。

例えば、煙草を止めろと言ったとして、そなたは空嘯いて明日にでも止めようかと思う。私は既にそなたの肺に問題があるとわかったのに、そなたは話を聞かない。煙草を吸う人は、亡くなったら地獄に堕ちる可能性がある。「何故地獄に堕ちるのか。私は悪事を働いていない!」と言う人がいるだろう。仏典曰く、魔王・魔女は釈迦牟尼仏と敵対することができなかったことより、魔女は大小便を地球に投げ、麻薬に化したという。煙草は慢性の麻薬と言える。煙草の匂いが臭くて、天龍八部はそれを好んでいない。天龍八部と護法は仏菩薩の先導であって、彼らが臭いと思うと守ってくれず離れてしまうことによって、仏菩薩も来なくなる。

仮に、仏道修行をしていない人が喫煙して、死後18層の地獄に堕ちたとすれば、仏道修行するそなたはより少ない層の地獄に堕ちるかもしれない。他の人が数千年かいるところを、そなたはより短く、数百年或いは千年で出てしまうかもしれない。私の父は生前に、真元出竅という境地まで道教を修めていたが、煙草を吸っていた。彼が臨終の際に、かつてたくさん善行をしたことによる善の力が彼を止めてくれたおかげで、すぐさま地獄に堕ちず、そのまま魂魄が二十数年昏睡していた。私が仏道修行するようになってから、彼を起した。仮に、私が仏道修行しなかったらどうなっていただろう。そなたらは仏道修行しているのに煙草を吸っている。事切れたら、魂魄が眠る、即ち迷ってしまって、目が覚めないということだ。そなたが起きた時、それはつまり堕ちるところだ。

本日修めるテキストは『薬師仏報身成就法の灌頂』であって、上師の教えに従い悉知(成就)の門を開くということだ。灌頂を授けるのは、成就の門を開くことであるから、この門を開いたら、ご自身で入って、入ってから修めるべきだ。開いた門があるのに入らないそなたは意味がないのだ。自由気ままに過ごし、そなたがやっていることが、私が言っていることと違っていても、リンポチェが見つけなければ、それでいいと思ってはならない。

灌頂を授かった者は本尊・上師に充分な恭敬心を起さなければならない。懐疑や傲慢の心が有ってはならない。懐疑や傲慢の心を持つ者には、灌頂による利益が得られないとされる。

(リンポチェは身語意の灌頂を授け、続いて薈供、供茶の儀軌が進行され、修法が円満に終わった)


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2021 年 10 月 24 日 更新