尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年11月7日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて自ら殊勝な大黒天とアキ護法法会をつかさどられた。リンポチェは燈を点して仏を供養してから法座に上がられ、並びに貴重な開示を賜われた:
本日は、大黒天とアキ護法を修めよう。通常、この種のテキストは寺院の出家衆が修めればいいし、そののち供養に当たる部分だけリンポチェが法座に上がって修法するとされるが、我が道場には3年間に渡る閉関を終了した出家衆がいないから、この法を修める力が足りないのだ。本日の修法は、伝承・伝承する上師・住職を任ずる上師を保護する為だ。現在、寺院建立中だし、そして寺院・道場及び法脈の下で如法に修行している弟子らを守る為にもなる。1997年、私が仏法を広め衆生利益することに取り組んで以来、もし如法に仏法を修習し、三宝上師を尊重する弟子がいれば、きっと本日修める此の法は彼らに役立つだろう。
チベット仏教四大教派とも大黒天を修めている。チベット語では、マハーカーラという。どうしてマハーカーラを修めるのか。『宝積経』で釈迦牟尼仏は、たとえ再来の菩薩として今生にやってきたとしても、過去世による事や、一部の業がまだ完済していない場合には、必ず今生の修行に差し障りが生じるから、この菩薩にはどの類の法を修めるといいやら、守ってもらえるようにどの護法を修めるといいやらと説かれている。釈迦牟尼仏のお傍にも護法がいる。護法とは、嫌いな人をやっつけてくれたり、欲望を満たしてくれたりすると定義されているのではない。例えば、アキ護法のテキストには、如法に仏法を修習し・仏道修行する場合には、アキ護法はそなたを非業の死から守ってくれるとはっきりと書かれているようにだ。
普段、道場ではこのテキストを修めず、専ら寺院だけしか修めないテキストなのだ。何故なら、一般的には、我が道場のように1,500人弱という規模のある所がないからだ。そなたら1,000人余りは、各地から駆けつけるし、そして業力もそれぞれ違う上、道場・上師・三宝に対する恭敬にもバラつきがある。一切の善悪業が集まると、道場・寺院・上師に対して、多かれ少なかれ影響を与えている。例えば、家族に病人がいれば、きっとそなたにも影響があるのではないか。確かにある。家族に、話を聞かない人がいれば、そなたにも影響があるのではないか。確かにある。自宅の中だったらまだましだが、それらの場合、殴ったり、叱ったり、追い払ったり、無視したりして対応する方法もある。
そなたら1,000人余りは、生生世世から齎した悪業が言い切れないほどある。何故、リンポチェがあんなに厳しく叱るだけでなく、追い払ったりもすることを、多くの人が疑問に思っている。それは、業力の怖さにご自身が気づいていないからだ。「どこも異常がない!くらしは快適だよ。」という人もいるだろう。そなたの福報がまだ上がっていず、リンポチェに注視される因縁がなく、ご自身の問題を指摘されることがない故、そなたの業力は道場に影響を及ぼすのだ。
ここ20数年、アキ護法はひたすら我が道場を守っている上、私が自分自身とそなたらを厳しく律することから、道場では小さな出来事は絶えないながらも、大きな事故は発生していない。そなたらは、誰もがそれぞれのお台本・物語そして方法を持っている。私は一人にして1000人余りに対応していては、疲れないことがあるのか。どちらも漏れなく、突飛で訳が分からない人ばかりで、その訳の分からなさをどうしても言葉で形容しようがない。
特に現在は寺院建立中だが、正直に言えば、今後は僅か一部の弟子だけが寺院建立の福報を享受できる以外、殆どの人には資格がない。どうしてか。心を込めずに、私を誤魔化しているだけだからだ。寺院建立の過程でそなたらは進度が速いとよく言うが、実際にはミーティングごと彼らがどれほど私に厳しく叱り責められるかが皆は分かっていない。ここから業の凄さがよく分かる。仮に、私にこの福報がなければ、法王は私に寺院を建てろと勧めない。これも私には寺院を有する福報があるのを示すが、有るは有るとして、建立の過程にも人に知られざる差し障りがある。例えば、嫉妬されたり、早く竣工しないよう願ったりする人もいる。私の弟子も含め、プレッシャーを感じる人もいる。皆で心を一つにしないことから、障碍を生み出すのだ。
本日此の法を修めるのは、私自身或いは道場が快適な日々を過ごす為ではなく、寺院建立が円満かつ順調になるよう、そしてそなたら皆がご健康で無事に過ごせるのを願っている。というか、そなたらはそもそもここ十数年・二十年はどちらも快適に過ごしている。自分で自身に聞こう:親友らと比べると、そなたらは非常に安定したくらしを過ごしているのではないか。だが、誰も感謝の気持ちを持っていない。誰もが自分で修めて得たのだと思っている。ご自身で修め得たのであれば、昔から、この種のテキストが受け継がれ、修められているわけがない。上師・護法なくしては、修めようがあるのか。信者としての資格すらないぐらいだ。本日の法会はそなたらの為だと思ってはならない。この社会・国家が良くなければ、そなたらは良くなるのかと、私が屡々言うようにだ。良くならないのだ。簡単に言えば、ご自宅はとても良いとして、近所さんがひたすら嫌がらせをすれば、そなたは穏やかな生活ができるのか。どうして厄介な近所さんがいるのか。つまり、そなたの福報が良くなく因縁が違っているから、自ずと厄介な人が近くに住むようになる。だが、誰もこの説を聞き入れようとしないのだ。
この度、感染症が比較的収まってきて、公の場で共同で修法することができるようになった。専ら自分の運がいいからと思ってはならない。何年も前に、法王から「パルナシャバリ」を授かっていなければ、そして、私が絶えず此の法を修めていなければ、感染症が徐々に無くなっていったとは思わない。感染症が始まった当時、もっと多くの親友が聞くと感染症が徐々に無くなるように、携帯電話の呼出音をリンポチェが持呪したパルナシャバリの音声にせよと命じた。ご家族やご友人どころか、一座の面々の多くは自分自身の携帯すら、この呼出音にしていない人もいると信じている。
前にもはっきりと言ったように、私が仏法を広めてきたここ二十数年間に、もし弟子が伝承・上師・三宝に対して尊重・恭敬していれば、本日私が修めた此の法は、必ずそなたを成仏するまでずっと護持するに違いない。そうしていない者は、待とう!自分が恭敬していないのは一回だけだなんて言うのではない。起心動念は一回で充分だ!現在、直貢噶舉の道場で公開で此の法を修めるのは、皆無とは言わないが滅多にないのだ。唱えることが多くて長いからだ。
そなたが今日持っている全ては、ご自身の運の良さからして得たのではなく、複数の伝承上師・護法・仏菩薩が絶えず我々を保護した結果だと弁えよう。「当たり前」なんてない。そなたらは確かに運がいい。過去世に私がそなたらに借りを作ったせいで、今生でよく見つけられたのかもしれない。
叱る時は叱るが、やはり皆が良くなるのを願っている。皆は慎重に行動するべきだ。この世界は、ご想像のように、いつまでも平和のままではない。出来事が弥が上にも多くなり、複雑になるから、うっかりすれば、巻き込まれてしまうことになる。台湾という土地は、我々が毎日修法するお蔭か、大した深刻な事態にはならないが、いざ他の国へ行くと厄介事に見舞われてしまうかもしれないから、決してご自身の運を賭けないように、慎重に扱うと良い。
(修法)
まさに前に述べたように、ひたすら道場・上師に対して恭敬し続け(供養がいくらあるかというのではなく、恭敬だ。これがとても重要だ)、恭敬心を持っていれば、本日修めた此の法の中には加持と祈祷文がたくさん含まれている故、此の一秒から、そなたらの未来と修行の面に対して、大いに助けとなる。だが、大いに助けとなることとは、早くにしてマスターすることと思ってはならない。差支えが減少し、特に心の差支えの事を指すのだ。この種のテキストは基本的には滅多に修めないものだ。
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2021 年 12 月 21 日 更新