尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年05月31日
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは法座にお上がり、『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十三「禅定波羅蜜多品第十之三」及び祖師ジッテン・サムゴン著『一意』のご開示
リンポチェは法座に着かれた後、長きにわたり六字大明呪を唱えられた。尊身と壇城はまばゆい黄金色の光を放ち、殊勝なる妙香が漂い、大地は震動した。参会者一同は脈輪の震動と全身に広がる熱感を覚え、一切の雑念が瞬時に静まり、リンポチェの殊勝にして清浄なる仏法の教えを拝受することができた。リンポチェが法を説かれる間、会場には終始妙香が満ちあふれ、参会者たちは心身の安らぎと清浄さを深く感じていた。法会が円満に終了した後も、壇城の周囲にはなお妙香が漂い続け、久久として消えることがなかった。参会者一同は法喜に満たされ、心より感恩と讃嘆の念を捧げるとともに、リンポチェの衆生利益のための慈悲深き願力に深く感謝したのである。
リンポチェは貴重なる仏法の開示を賜った:
仏典曰く:「至灌頂位得法自在。」
一般の経典には「灌頂」という言葉はほとんど見られず、『宝積経』において言及されている。「得灌頂位」とは、簡単に言えば、その境地に達していなければ灌頂を受ける資格がないということである。たとえ灌頂を受けたとしても、人天の福報を得るだけで、決して修行を成就することはできない。「至灌頂位得法自在」。修行者が灌頂を受けた後、法において仏法に関わるあらゆる事柄を自在に行うことができる。そして、仏法のために行おうとすることは必ず成し遂げられるのである。例えば、法王が私に仏寺を建立するようおっしゃったので、私は仏寺を建立した。これが法自在である。また、仏寺のための土地を探していた時のことである。不思議なことに、その土地の所有者は阿弥陀仏大法会に参加する前、夢の中で亡くなった両親が私の法会に参加しているのを見たという。その人はもともと、その土地を利用して大きな利益を得ようと考えていた。しかし最終的には、当初の価格のままその土地を譲ってくれた。これもまた法自在である。
もし灌頂を受ける目的が、自分も有情を助けられるようになるためではないのであれば、それはまるで、「今、多くの人が法を求めてやって来るが、話を聞いていると、自分はなぜ仏法を学ぶのかということを考えていない」ようなことである。ただ自分の苦しみや問題を解決したいだけなのである。もちろん、それでも構わない。輪廻を解決しようとすることは良いことである。しかし問題はそこにある。菩薩道は決して普通の凡夫が修められるものではない。多くの人は、菩薩道を学びたいと思えば学べると考えているが、そうではない。学ぶことはできないのである。経典には「至灌頂位」と説かれている。なぜチベット密教では十年間の顕教の基礎が必要だと言われるのか。顕教の基礎とは、多くの名相を知っていることでも、経典を読誦できることでもない。仏が説かれたあらゆる仏法の根本的な理論をすべて理解し、しかも実際に実践できてこそ、密法を学ぶことができるのである。密法の第一歩は灌頂を受けることであり、その後に初めて菩薩道を修する道が開かれる。だから私は不共四加行の伝授において非常に厳格であり、他の道場とは違うのである。たとえどれほど筋道立てて話したとしても、私は伝授しない。なぜなら、私が見ているのはあなたの心だからである。
菩薩道を修するということは、口先で「自分を犠牲にする」と言うことではない。犠牲にするのではなく、何も求めないということである。何も求めないとはどういうことか。例えば、少し前に私は市政府に多額の寄付をした。しかし、市政府から感謝会への出席を招かれても、私は行かなかった。昨日も社会局の職員が私に会いに来て、何度も感謝の言葉を述べていたが、私は「感謝する必要はありません。これは修行者として当然行うべきことです」と答えた。つまり、私たちは絶えず衆生を利益しなければならないのである。そして、良いことをしても功績を誇らず、自分はこれで良い暮らしをする資格ができたなどとは思わないのである。
チベット仏教には灌頂を授ける際、いくつかの種類がある。第一は結縁灌頂である。簡単に言えば、灌頂を受けたということである。第二は、本当に本尊の灌頂を授けることである。つまり、この一生においてこの本尊を修するためのものである。もう一つは大灌頂という。大灌頂を受ける資格があれば、この一生で変わることができる。私はそのとても明らかな例である。参加したいと言う人もいるが、あなたには参加する資格がない。例えば、今私が修しているこの本尊でも、灌頂を受ける人数には制限がある。法本にははっきりと、何人を超えてはならないと書かれている。仏法を学びたいからといって、私が灌頂を授けると思ってはならない。そんなことはない。『宝積経』にも「至灌頂位」と説かれている。厳格に言えば、この世で灌頂を受けることのできる位まで修行している人は、ほとんどいない。自分はとても敬虔で、上師の言うことは全部聞いているし、全部やっている。菜食もしているし、法会にも参加している、と言う人もいる。だが、それでは駄目なのである。あなたはまだできていない。なぜなら、灌頂を受けた後は、この一生だけでなく、生々世々すべてにおいて菩薩道を修する準備をするということだからである。
『宝積経』には、出家であっても在家であっても菩薩道を修することができると説かれている。しかし、在家で菩薩道を修するのは比較的困難である。なぜなら、悪業にまとわりつかれているからである。私たちに悪業がなければ、この一生で在家の相になることはない。「どこに悪業があるのか」と言う人もいるだろう。あるのである。貪・瞋・痴はすべてあるし、家族や眷属の問題もすべてある。私のように、今リンポチェとしてこれほど多くの法を修することができる者であっても、やはり眷属の問題はある。ただ、あなた方とは処理の仕方が違うだけなのである。
多くの人は灌頂を受けたいと思っている。昔、私には親しい友人がいたが、彼は一生のうちに五百回以上の灌頂を受けていた。四大教派の灌頂もすべて受けていた。しかし、最後はどうだったのか。彼は脳卒中で倒れ、半年近く寝たきりになってから亡くなった。理屈から言えば、灌頂を受けてきちんと修行していれば、脳卒中で亡くなるはずはない。それは修行していなかったということであり、ただ灌頂を貪っていただけなのである。ある人たちは仏法を聞きに来続けるが、帰依の申し込みをしようとしない。なぜかと言うと、私のところは厳しいからだと言う。もちろん私は厳しい。なぜなら、仏経に説かれているとおりにしているからである。私があなたを簡単に、気軽に信者にさせると思うのか。
もし今日、私がたくさんの信者の弟子を受け入れようと思えばできる。よく聞きなさい。弟子にもいろいろな種類がある。そのうちの一つが信者の弟子である。この弟子はただの信者であって、修行はしない。私もそのやり方を取ることはできる。もし今日、私が信者の弟子を受け入れるつもりであれば、ここほどの広さの場所が十か所あっても座りきれないだろう。なぜなら、私はとてもすごいからである。すごいという話になったので言うが、先週の日曜日、なぜ修法をしなかったのか。謝姓の弟子が出てきていろいろ話していたが、全部くだらない話である。長年私についてきたのに、まったく無駄であった。彼は「リンポチェの体力を無駄にしてはいけない」と言った。何十年も私の体力を無駄にしてきたのだから、今回一回くらい増えたところで何だというのか。昔、私と知り合ったばかりの頃は、一日中私を集中治療室へ連れて行って加持をさせていた。私が本当にすごいかどうか見たかったのである。しかも試験までした。リンポチェはすでに灌頂位を受け、法自在を得た者である。私がひとたび念を起こせば、やろうとすることは必ず成し遂げるのである。
皆も知っているように、私はポワ法を修する時、亡くなった人の前へ行く必要はない。何千キロ離れていても修することができ、必ず成功する。皆も知っているように、施身法に参加した亡者は、火葬されれば必ず頭頂の梵穴に穴が開く。(会場一同:ありがとうございます、リンポチェ。)感謝する必要はない。どうしてそうなるのか知っているのか。法自在である。私が明日施身法を修すると言った時点で、諸仏菩薩や護法はすでに動き始めている。皆が申し込みを始め、誰を済度したいかを記入した時には、その護法たちはすでに動き始めている。メッセージはすでに送られているのである。誰それが対象であるということが、すでに伝えられている。そして私が、この済度名簿が書かれた冊子を手に取り、開いた時には、亡者たちはほぼ到着しているのである。皆はただの冊子だと思っているだろう。もし本当にただの冊子であるならば、私の法座の上に置く必要はないのである。
あの日、もし私が少しでも表紙を確認していなかったら、二冊とも済度名簿だったのである。上に「済度」と書いてあれば、それは済度なのである。あなた方は因果の恐ろしさを知らない。私は観世音菩薩にお願いして、名簿に記されたすべての衆生を済度していただくようお頼みしている。だから、私がこの名簿を開いた時、その衆生たちはやって来るのである。この笛を吹くのは、ただ彼らに早く来るよう促しているだけなのである。あなた方はリンポチェのすごさを信じないから、「リンポチェの体力を無駄にしてはいけない」などと言うのである。あの日、なぜあなた方を外へ出したのか。たとえ表紙の名称を変えたとしても、それはやはり済度名簿なのである。もちろん、あなた方は皆いつか死ぬ。しかし、私はあなた方にそんなに早く死んでほしくない。私に十分供養してから死んでほしいのである。(会場一同笑。「ありがとうございます、リンポチェ。」)
だから、何事にも「うっかり」はないのである。もしあの日、私もあなた方と同じようにうっかりしていたなら、大勢の人が寿命を縮めることになり、これ以上修行を続ける時間がなくなっていただろう。あなた方はきっと、「そんなに深刻なのですか」と思うだろう。あなた方には神通がないのだから、当然深刻だとは思わない。ただ書き間違えただけだと思うのである。しかし、私には神通があるから、とても深刻なことだと感じる。なぜ私だけが見つけることができたのか。この二冊の冊子は、法座に置かれるまでに多くの人の手を経ている。私の手に渡る前だけでも、少なくとも十数人の手を通っている。それなのに、なぜ誰も気づかなかったのか。それは、皆が気にしていないからである。人が死んでも、自分には関係ないと思っているからである。しかし、私は気にする。あなた方はまだ十分に学んでいない。もし今死んだら、どこへ行くのか。そうなれば、私はとても大変なのである。
あの日、たとえ表紙の名称を変えて済度の冊子ではなくなったとしても、その因縁は残っている。だから、私はあなた方を全員帰らせたのである。もちろん、帰らせないこともできた。まず法会の供養を一回受け取ることもできたのである。多くはないとしても、少なくとも私は受け取ることができた。なぜ謝姓の弟子は、「リンポチェは一回の供養を犠牲にした」と言わないのか。弟子の中には、リンポチェのすごさがどこにあるのかを知っている者は一人もいない。なぜ私には見えたのか。私は八十歳である。なぜあなた方には見えなかったのか。それは、あなた方が菩薩道を修していないからである。慈悲の心がなく、人を気遣う心がなく、自分のことしか考えていない。法会に来て、自分に何か利益があるかどうかだけを気にしているのである。だから、これはあなた方の共業であり、弟子全員の共業なのである。この二人が悪いのだと思ってはならない。理事会が悪いのだと思ってもならない。あなた方全員が悪いのである。
何が悪いのか。あなた方はこれまで一度も他人を気にかけたことがない。隣に誰が座っているのかさえ知らない。同じ門下で修行し仏法を学ぶ者は、家族よりも親しい存在である。それなのに、あなた方は何も知らない。自分がうまく過ごせているかどうか、法会に来て利益があるかどうか、リンポチェが自分を助けてくれたかどうか、それしか考えていない。その結果、このようなおかしなことが起こり、私の目に留まったのである。この二人も今回が初めてではない。毎月ずっとこの仕事をしている。それなのに、なぜこんなことが起きたのか。それは、アキ護法が「もう叱る時が来た」と考えたからである。今叱らなければ、あなた方はもっと大変なことになる。あなた方はすでに麻痺し始めている。仏法を学ぶとはこういうものだと思い込んでいるのである。
法本の中には、儀軌が間違っていたり、手印の結び方が間違っていたり、真言の発音が間違っていたり、多く唱えたり少なく唱えたりした場合でさえ、本尊に懺悔しなければならないと書かれている。ましてや、この二冊の冊子の書き間違いである。あなた方はきっと、「うっかりしていた」と言うだろう。では、皆に一つ聞く。ここにいる人のほぼ九〇%は車を運転するだろう。子どもを除いてである。もし車を運転していて、不注意で人をはねたら罪になるか。(大衆答:はい。)過失傷害になるか。(大衆答:はい。)なぜ慎重でなかったために間違いを犯したのか。あなた方の言う懺悔とは、自分に過ちがあったことを認めるだけである。そうすれば刑は少し軽くなるかもしれない。しかし、それでも罪はある。朱姓の弟子はいるか。(朱姓の弁護士弟子答:はい。認めたとしても少し軽くなるだけで、やはり罪はあります。罪は残ります。)だから、過失傷害という罪は、運転していた時に故意であったかどうか、見えていたかどうかに関係なく、人をはねて怪我をさせれば過失傷害になる。そうではないか。(朱姓弟子答:はい、その通りです。)あなた方は二冊の冊子を書き間違え、前に出て懺悔し、それで懺悔したからもう終わりだと思っているのか。謝姓の弟子は長年帰依しているのに、それでも「リンポチェの体力を無駄にした」としか言わない。今になっても、自分が戒を犯したことをまだ分かっていないのである。
私たちは皆、間違いを犯しても、説明さえすれば責任を取る必要はないという習慣を持っている。だから、仏法を学ぶことにおいても同じなのである。ある弟子が仏寺で作業をしていた時、竹を切る際に二匹の蛇を殺してしまった。本人は、自分の不注意だったと言い、私に済度してほしいと頼んだ。私は済度しなかった。なぜか。リンポチェに慈悲がないからではない。彼の考え方は、リンポチェが済度してしまえば、自分はその二匹の蛇に対して何も負わなくてよくなるというものだった。私は彼に言った。やはり借りは残るのである。ただ果報が少し軽くなるだけである。彼は過失によって蛇を殺したのである。もっと慎重にすることもできたはずだ。仏寺にはたくさんの衆生がいることを知っていたのである。虎や獅子や象はいないが、それ以外の動物はほとんどいる。本来なら慎重であるべきだった。なぜ慎重でなかったのか。彼の上司である周姓の弟子でさえ、彼は不注意だったと言っている。すでに仏法を学んでいるのに、それでも不注意でいてよいのか。私たちは、自分が物事を行う動機がどこにあるのかを、はっきり見なければならないのである。
なぜ今日、この二冊の冊子に誤りが生じたのか。この二人は急いでいたのである。そして慣れてしまっていた。毎週ずっと正しくやっているのだから、今回は間違えるはずがないと思っていたのである。何かあれば懺悔し、リンポチェは自分たちを許してくれると思っている。私はあなた方に腹を立てているわけではない。また、私が許すかどうかとも関係がない。すべてはあなた方自身が行ったことであり、将来その果報に向き合わなければならないのである。今日、名簿の表題を故意であれ過失であれ書き間違えたのであれば、将来どのような果報を受けるのか。間違いなく書類に誤った署名をすることになるだろう。あるいは、誰かから間違った書類を渡されるかもしれない。なぜなら、あなた方は千人に関わることを間違えたからである。自分は故意ではなかったと言うだろう。もちろん故意ではなかった。私はあなた方の言うことを認める。理事たちの言うことも認める。それなら、なぜリンポチェはここに座っていて気づいたのか。私は最後の一秒で気づいたのである。なぜ私には見えたのか。それは、私は衆生のことをとても大切に思っているからである。私は法をとても尊重している。細かいこと一つひとつにまで注意を払っている。なぜ法務組がいつも私に叱られるのか。理由はまさにそこにある。彼らがうまくやったからといって、私の修行が良くなるわけではない。すべての細部、一つひとつのディテールが、すべて衆生に関わっているのである。私たちは疎かにしたり、不注意であったりしてよいのだろうか。
私のいくつかのレストランはどこもとても清潔である。厨房も公開して、皆が見ることができるようにしている。なぜなら、私はとても慎重だからである。今でも、そこへ食事に行こうとしない人がたくさんいる。高いと言うのである。信徒であろうと弟子であろうと、私は皆知っている。これほど清潔な場所で食事をしようとせず、安い店ばかり探している。厨房が清潔かどうかも分からず、どんな食材を使っているかも分からない場所で食事をしている。その結果、病気になる。そして病気になると、また私のところへ来るのである。私がわざわざレストランを開いているのは、本当はお金を儲けるためではない。これだけの資金を投入して、どうして儲かるだろうか。私は自分の手間を少しでも減らしたいだけなのである。なぜなら、あなた方が病気になれば、必ず私のところへ来るからである。少しは頭をはっきりさせることはできないのか。一日中お金のことばかり考えて、そんなにお金を重く見るのはやめなさい。いいだろうか。
最近、一人の女性の弟子が亡くなった。彼女は病気になってから、なかなか亡くなることができなかった。なぜなら、自分が残していくもののことを心配していたからである。子どもたちがそれを受け取れるのか、自分が死んだ後どうなるのか、そのようなことばかり考えていた。最後は私が引き受けた。私は彼女に「安心しなさい」と言った。すると、彼女は息を引き取ったのである。彼女は一生、とてもよく働き、とても倹約していた。しかし、節約して残したものも、自分では使うことができなかった。だから最後は苦しみ、亡くなるまでにほぼ一か月かかったのである。今日、リンポチェがあなた方にこの話をしているのは、決して自分が何かを多く得るためではない。もし私が何かを多く得たいのであれば、先週の日曜日にあなた方を帰らせたりはしなかった。名簿の表題を書き間違えたことは、私とは何の関係もない。私はそのまま修法を行い、そのまま一回分の供養を受け取ればよかっただけなのである。
なぜあなた方を帰らせたのか。あなた方の共業があまりにも恐ろしいからである。もし私のこの弟子たちが、上師を恭敬し、三宝を恭敬し、法を恭敬しているのであれば、絶対にこのような間違いは起こらない。あなた方は仕事に来ているのと同じように考えている。公務員のように、一か月に一度、決まった仕事として来ているだけである。特に施身法に参加する時には、自分に少し良いことがあるかどうかを見に来ている。私は何度もあなた方に言ってきた。施身法に参加するには、懺悔の心と慈悲の心が必要であると。あなた方にその心はあるのか。今は少しずつなくなってきている。何に対する慈悲なのか。まだ度されていない衆生がたくさんいるのである。何を懺悔するのか。自分が生々世々にわたってこれほど多くの悪業を作ってきたこと、そして今に至っても自分が何をしているのか分かっていないことを懺悔するのである。懺悔の心はあるのか。今のあなた方には、だんだんなくなってきている。「私は今とても順調なのだから、なぜ懺悔しなければならないのですか。」そう思っているのである。私のように無上瑜伽部を修する上師であっても、修法の前には毎回、まず金剛薩埵を念誦して懺悔を行う。ましてあなた方はなおさらである。
だから、自分が懺悔しなければならないことを分かっていなければ、自然と慎重さもなくなるのである。なぜなら、大したことではないと思っているからである。謝ればそれで済むと思っている。今日のように、皆の前で話してしまえば終わりだと思っているのである。もちろん終わりである。誰も彼らに腹を立てたりはしない。しかし、それはあなた方が、この問題の深刻さに気づいていないからである。私にどんな名前であっても読み上げさせれば、その人をどうするかということについて、私は必ずできるのである。信じないのか。(大衆答:信じます。)それなら、なぜ書き間違えたのか。それなら、なぜ謝姓の弟子は、皆を代表して懺悔する時、「リンポチェの体力を消耗させた」としか言わなかったのか。それは信じていないからである。あなた方は、自分の目に見えず、手で触れることのできないものは、存在しないものとして扱っているのである。
だから、仏法を学ぶかどうかに関係なく、人生におけるあらゆることに慎重でなければならない。今は末法の時代であり、業障が非常に重い時代である。少しでも不注意であれば、よくない共業に巻き込まれてしまう。そんな生き方では、とても緊張してしまうのではないか。神経質になって毎日を過ごすことになるのではないか。その通りである。今のニュースを見れば、どれだけ多くの薬物運転があることか。薬物を使った人があちこちに車をぶつけている。こちらが普通に運転していても、向こうからぶつかって来るのである。今の台湾では、薬物は流行しているが、仏法を学ぶことは流行していない。もし仏法を学ばず、純善を修めず、それでいてこれほど多くの考えや自我を持っているならば、その人の学ぶ仏法は純善ではない。その中には悪が混じっているのである。だから、その悪業が現れ、成熟した時には、自分が傷つくことになる。何が純善なのか。五戒、十善、『仏子行三十七頌』、皈依、そして戒を守ることである。帰依しなければ、たとえ百万回仏法を聞いたとしても何の役にも立たないのである。
だからこそ、仏経には「至灌頂位得法自在」と説かれているのである。この一句はすでにはっきりと説いている。法を得て、自ら生死から解脱しようとするならば、また法を得て、あらゆる衆生が生死から解脱できるよう助けようとするならば、必ず灌頂を受けることのできる位まで修行しなければならないのである。
仏典曰く:「舍利子。此不退轉神通菩薩摩訶薩。所作事業悉無我慢。其心清淨正善調伏光潔自在。」
仏は舎利子に対して、「不退転神通」は仏と菩薩だけが有するものであると説かれた。菩薩摩訶薩の法身菩薩は、「所作事業悉無我慢」である。つまり、仏法に関するいかなることを行う場合でも、自我や驕慢の心をまったく持たないということである。何かを成し遂げたからといって、自分はすごいと誇ることもない。何かを成し遂げたからといって、自分は人と違うと思うこともない。そのような心は持たないのである。「其心清淨正善調伏」。その心は清浄であり、何も求めない。「正善」とは、先ほど私が話した「純善」と同じ意味である。「調伏光潔自在」。正善によって調伏するのである。自らの心を調伏し、累世から残っている業力を調伏する。清浄なる善によってそれらを調伏し尽くすと、光を放ち、清らかとなり、自在となるのである。「潔」とは、汚れがないという意味である。「自在」とは、ひとたび念を起こせば衆生を助けることができるということである。特別に何かを作為する必要はなく、ただ一つの念を起こすだけで、その働きが及ぶのである。
仏典曰く:「離諸染欲及隨煩惱。」
「離諸染欲及隨煩惱」。その人はあらゆる欲望を離れ、あらゆる貪・瞋・痴・慢・疑の汚れから離れることができる。「及隨煩惱」。煩悩に従って、さらに煩悩を起こすことがないのである。例えば最近、ある人がずっと私のところへ来て、自分の義父を済度してほしいと頼んでいる。しかし、私はずっと引き受けていない。なぜか。その人はずっと頭を使い、お金で私を釣ろうとしているからである。昨日、私はその人のからくりを見破った。そして、すべてのことをはっきりと説明した。もし私に欲望があり、汚れがあるならば、その人のお金に引き寄せられていただろう。昨日、私はいくら返したのか。(出家衆答:リンポチェ、その人の分を除けば五十万元、その人の分を含めれば百万元です。)この人は義父から数千万元を受け取ることができる。それなのに、昨日持って来たのはたった五十万元であった。私はお金を問題にしているのではない。問題は、その人の心が正しくないことである。何が正しくないのか。その義父は生前、私に会ったことがある。そしてずっとその人に、「必ずリンポチェに頼んで済度してもらいなさい」と言っていた。ところが、その人はまず私を釣ろうとした。土地が売れたのでリンポチェに供養できると言ったが、結局そうではなかった。そして今、義父が亡くなると、またやって来たのである。その人は、お金が凍結されていると言った。私は、「あなたは私を騙している」と言った。人が亡くなったばかりの場合、一か月以上かけて税務当局が未納税金の有無を確認してからでなければ動かせない。どこが凍結されているというのか。もし私に欲望があるならば、お金を見たら、とりあえず受け取っていただろう。私はお金を稼ぐ必要がないわけではない。むしろ、とても必要である。なぜなら、多くの人の生活を支えなければならないからである。しかし、私はそのような貪りの心を持っていない。物事が正しくなければ、受け取らないのである。すると、私には慈悲がなく、人を済度しないと言う人もいる。しかし、因縁が具わっていないのに、どうして済度できるだろうか。因縁が具わって初めて済度できるのである。だから、この一句ははっきりと説いている。本当に菩薩道を修する上師は、「離諸染欲及隨煩惱」なのである。
仏典曰く:「微妙寂靜。所有善業而悉成就。於禪定解脫三摩地三摩鉢底起正思惟。於生死中都無繫縛。」
「微妙寂靜」「所有善業」とは、その心が微妙であり、寂静であるということである。そして、あらゆる善業を用いて、先ほど述べた「離諸染欲及隨煩惱」を対治するのである。ここでいう「寂静」とは、入定するという意味ではない。その心がとても静かであり、いかなる人や物事、言葉によっても影響を受けないということである。そして、あらゆる物事を善業によって見ているのである。もしその人の言葉や行いが善業と関係のないものであれば、その人を助けることはしない。なぜ助けないのかと言う人もいるだろう。たとえ悪人であっても、大魔王のような人であっても、ふと善なる念を起こすことはある。しかし、純粋に悪だけの人に出会った場合は、助けることができない。金剛部を修するのでなければ無理である。しかし、その人が将来仏法を学ぶつもりもなく、仏法を学ぶ因縁もないのであれば、その人のために金剛部を修することは、かえって害になる。だから、多くの人は仏法を学んで衆生を助けたいと思っているが、ある程度の神通の力がなければならないのである。むやみに人を助ければ、相手のためにならないばかりか、自分自身を害することにもなるのである。
「三摩地三摩鉢底」という言葉について少し調べてもらえないか。(字義の調査結果 の詳細は備考をご参照ください。)解脱とは、このような境界を離れるという意味である。「而悉成就」とは、この菩薩が如何なる衆生を成就させようとする時、また仏法におけるあらゆる事業を成就しようとする時、それらをことごとく成し遂げることができるという意味である。「於禪定」。いわゆる禅定とは、毎日ただ座って動かないことを指すのではない。禅定によって多くのことを行うことができるのである。しかも、その心のあり方や心境そのものが禅定の境地にある。これも前に述べた言葉と呼応している。すなわち、いかなる汚れや欲望、そして随煩悩によっても心を動かされることがないのである。
「起正思惟」とは、その思惟のあり方が私たち凡夫とは異なるということである。菩薩は、どのようなことを思惟するにしても、常にどのように仏法を用いて衆生を生死から解脱させるかを考えている。したがって、正思惟を具えているならば、生死の中で生じるいかなる苦しみや変化も、その人をまといつかせたり、縛りつけたりすることはない。なぜなら、菩薩は衆生を済度するために、絶えず生死の中に現れるからである。しかし、その生死は私たち凡夫が輪廻する生死とは異なる。それは願によって再びこの世に来るのである。多くの人は、自分も願をもって再来できると言う。しかし、それはできない。正思惟を具え、禅定と神通を備えて初めて、願によって再来することができるのである。そうでなければ、業に従って再び生まれてくるだけである。今生で願を立てたからといって、それだけで再来して衆生を度することができると思ってはならない。そのようなことはできない。仏経に説かれているように、必ず正思惟を具え、さらに寂静なる心を持ち、また法自在などを備えていなければならないのである。
密教において「法自在」とは、自らが再び生を受ける際、どの胎門が自分にとって清浄であり、また修行の助けとなるかを理解しているということである。その胎門が自分にとって清浄であり、将来の修行に役立つものであれば、その中に入る。しかし、その胎門が将来の修行に役立たないのであれば、そこには入らない。したがって、生きている間に多くの法門を修めておかなければならない。そうして初めて、未来に転生する時、自ら決定することができるのである。業力に引きずられることはない。たとえ八地菩薩にまで修行したとしても、なお業力は存在する。もしそのような果位に達していないにもかかわらず、自分は願を立てて再来すると言うのであれば、それは願によって再来するのではなく、勝手な思い込みで再来するようなものであり、実際には不可能である。「發願再來(願を立てて再来する)」というのは一つの言葉である。しかし、それをどのように実現するのか。それは長い修行を積み重ねてこそ可能になるのである。
仏典曰く:「所以者何。謂彼生業諸煩惱縛顛倒執著皆悉解脫。」
だから仏は説かれたのである。なぜその人はこのようなことから解脱できるのか。なぜ生死にまとわりつかれることがないのか。それは、自ら願を立てて再来しようとする場合を除いて、生じてくる業力やあらゆる煩悩、それに伴う「顛倒執著皆悉解脫顛倒」。すでに生によって生じる業に縛られることもなく、それに支配されることもない。自ら来ようと思わない限りはそうなのである。私は以前から、もう再来しないと願を立て続けている。だからこそ、その境地まで修行しなければならない。どのような境地か。それは、自分の意思で来ないことができる力を持つということである。単に「来ない」と言えば来なくて済むということではない。なぜなら、人はまだ仏果を証得していない限り、先ほども述べたように、八地菩薩以前は皆業力を持っているからである。私たちは本尊の加持と助けによって、その業力を発現させないようにすることができるだけである。だから、灌頂を受けず、上師からの口伝もなく、本尊をどのように修するかを教わらなければ、やはり輪廻することになる。仏経を読むだけでよいと思ってはならない。阿弥陀仏を念じるだけでよいと思ってもならない。仏経に説かれていることに基づけば、そうではないのである。多くの人は、それでも大丈夫だと言う。それならば、念仏を修している出家者たちに聞いてみなさい。浄土へ往生できた人を、これまで何人見たことがあるのかと。
リンポチェは出家衆に尋ねられた。「あなた、話してみなさい。見たことがありますか。」(出家衆答:ありません。)リンポチェは別の出家衆に尋ねられた。(答:ありません。)「では、あなた方出家の女性たちは見たことがありますか。」(答:ありません。)「見たことがないとはどういう意味ですか。話してみなさい。この愚かな人たちにも分かるように。」(出家して三十年以上になる弟子答:見たことがないというのは……。)「遠慮しないで話しなさい。難しい仏教用語を使おうとしないで、普通の言葉で話しなさい。」(答:凡夫の身で生死を解脱しようとして、仏に願をかけて極楽浄土への往生を求めても、自分の力だけではできないということです。仏に……。)「私は、『見たことがない』とはどういう意味かを聞いているのです。あなたがそう言う根拠は何ですか。」「その人たちに瑞相がなかったからでしょう。そうではありませんか。」(答:はい。そのとおりです。瑞相がありませんでした。臨終の相も良くありませんでした。)「どう良くなかったのですか。」(答:自在ではありませんでした。)「自在ではないというのは、苦しそうな顔をしていたということですか。」(答:はい。)「口は開いていましたか。」(答:はい。)「目は大きく見開いていましたか。」(答:はい。)「手足は硬くなっていましたか。」(答:はい。)「頭頂は熱くなっていませんでしたか。」(答:はい。)「これで、リンポチェがどれほどすごいか分かったでしょう。」(大衆答:分かりました。)「私が少し念誦すると、皆、手足が柔らかくなるでしょう。」(大衆答:はい。)「頭頂は熱くなるでしょう。」(大衆答:はい。)「穏やかな笑顔になるでしょう。」(大衆答:はい。)「若返るでしょう。」(大衆答:はい。)「それなら、若返りたい人は早く死になさい。私が手伝ってあげましょうか。」(大衆答:はい。)「何が『はい』ですか。誰があなたたちの言うことを聞くのですか。」「これらの瑞相は、あなた方が言ったのであって、私が言ったのではありません。そうでしょう。」「あなた方は皆、自分の母親が若返った、以前よりきれいになったと言う。」「どうして皆、母親のことばかり言うのでしょう。」「父親のことを言う人はいない。不思議なものです。」
リンポチェは別の出家衆に尋ねられた。「あなたも話してみなさい。なぜ見たことがないのですか。」(答:見たことがありません。少なくとも、臨終の時を前もって知ることができたという話も聞いたことがありません。予知時至さえできていません。)「私の弟子には、予知時至のできる者がたくさんいます。大勢いますよ。」「ほかにはありますか。」(答:それから、遺体から臭いがします。)「どうして臭うのですか。」(答:ほとんどの場合、臭いがあります。いわゆる死臭のような臭いです。)「もし私が済度した場合、臭いはありますか。」(大衆答:ありません。香りがします。)「ずいぶん大きな声で答えますね。」「私たち寶吉祥はとても控えめなのです。」「本来なら、こういうことは広く人に話して宣伝することもできる。」「そうしたら私は大変です。」「皆が列を作って、私に済度してもらおうと待つことになる。」「私はそんなことはしません。」「私はもう十分に疲れているのです。」「八十歳の老人を、あなた方はこんなふうに振り回して、一体どうするつもりですか。」
今日、特にこの出来事を取り上げたのは、あなた方に伝えるためである。仏法を学ぶのであれば、必ず具徳の上師にしっかりと依止し、従わなければならない。ここでいう「徳」とは道徳のことではない。功徳のことである。その上師が功徳を修めているかどうか。この数十年で、十分にあなた方に示してきたのではないか。私は実際に証明して見せてきたのではないか。(大衆答:はい。)それなのに、まだ迷いがあり、まだ二心を抱き、さらには「不注意でした」と言うことができるのである。だから、この名簿の表題を書き間違えたことについて、私は簡単には許さない。許さないというのは、私が怒っているという意味ではない。仏法を学んでいるのに、いつまでもそのように粗忽であってよいはずがないのである。仏法を学ぶ者は、粗忽であってはならない。粗忽であれば、自分の心境の中に生じる微細な変化を感じ取ることもできなくなる。だから、粗忽な習慣を身につけてはならない。よいのか。今日は私はずいぶん優しく話しているのである。
前回の金剛手菩薩法会の際にもお話ししたが、あの日、私は何気なくこの経典を開いたところ、ちょうど『仏説如来不思議秘密大乗経』巻第十四「金剛手菩薩大秘密主授記品」第十六の箇所であった。そこには、釈迦牟尼仏が金剛手菩薩について紹介されている。顕教には金剛手菩薩を修する法門はない。中には、金剛手菩薩は密教だけで修するものだと思っている人もいるかもしれない。しかし、もし本当に密教だけのものであるならば、釈迦牟尼仏が『宝積経』の中でこれほど明確に金剛手菩薩について説かれるはずがない。そこには必ず大きな因縁があるのである。どのような因縁か。それは、私たちが一生のうちに金剛部の本尊の助けを得なければ、輪廻から解脱することはもちろんのこと、浄土への往生さえも非常に難しいからである。私たちが作ってきた悪業がどれほどあるのか、自分自身では分かっていない。法会に参加しているから、あるいは仏を念じているからといって、すべてを返し終えたなどと思ってはならない。決して自分を過信してはならないのである。
私は以前、皆に一つの実話を話したことがある。仏法を学んだことのある人なら知っているだろうが、昔のインドに龍樹菩薩という大菩薩がおられた。龍樹菩薩は修行があまりにも優れており、生前すでに法身菩薩の果位を証得していた。そのため、多くの外道たちは龍樹菩薩に死んでほしいと思っていた。そうでなければ、外道は誤っていると説く人がいなくならないからである。しかし、どのような方法を用いても龍樹菩薩は死ななかった。なぜなら、彼を死に至らしめることのできるすべての果報は、すでに償い終えていたからである。最後には、多くの外道たちがひざまずいて、龍樹菩薩に死んでほしいと懇願した。龍樹菩薩が死ななければ、外道たちは生きていくのが苦しかったのである。龍樹菩薩は大菩薩であったため、その願いを受け入れた。そして、自分にはまだ一つだけ償い終えていない果報が残っていると告げた。過去世において、不注意から一枚の葉で一匹の蟻の首を切り落としてしまったのである。そこで龍樹菩薩は、「私を殺すことができるのは、この果報だけである」と言われた。そして一枚の葉を手に取り、自らの首を切り落として、この世を去られたのである。よく聞きなさい。「不注意」である。私の弟子も、不注意によって二匹の蛇を殺した。それなのに、その弟子の上司である周姓の弟子は、さらにその件について私に報告書を書いてきたのである。
この話をしたのは、あなた方を脅したり威嚇したりするためではない。あなた方に伝えたいのは、どんなに小さなことであっても必ず果報があり、果報のないことはないということである。「不注意であっても構わない」などということはない。私たちは皆、戒を守ることと戒を破ることを知っている。戒を破ることが重大であるのは当然である。しかし、私たちが言うところの「不注意」もまた戒を犯すことである。その戒を犯しているのは、まさにあなた方のように「不注意でした」と言う人たちなのである。一方で、「開戒」というものがある。開戒とは、戒を開くという意味である。例えば、釈迦牟尼仏はある世において、五百人の羅漢を救うために船頭を殺したことがあった。戒律から見れば、それは人を殺したことになる。しかし、それは開戒であった。なぜなら、その五百人の羅漢を救うためであったからである。さらに、その船頭自身を地獄に堕ちることから救うためでもあった。そのような場合は許されるのである。また、仏経には次のようにも説かれている。重い病気にかかった時、薬を調合するために動物を薬引きとして用いなければならない場合には、それを用いてもよい。しかし、それは食べるためではない。これを「開戒」というのである。
今のあなた方は皆、戒を犯しているのである。なぜなら、いつも「不注意でした」「うっかりしていました」「よく見ていませんでした」と言うからである。開戒はもちろん犯戒よりもよい。そして犯戒は、破戒よりはまだましである。破戒となれば、多くの修行をしなければならない。犯戒した場合は、懺悔するだけでは足りない。供養や布施をはじめとして、自らの福報を絶えず積み重ねていかなければならない。そうして初めて、犯した戒による影響を転じることができるのであり、将来あなた方に重大な果報が現れることを防ぐことができるのである。私もすでにリンポチェにまで修行しているが、それでも時には理由もなく皮膚が傷ついたり、少し血が出たりすることがある。なぜか。この一生で蟻を殺したことがあり、ゴキブリを叩き殺したことがあるからである。あなた方にもあるだろうか。(大衆答:あります。)返さなければならないだろうか。(大衆答:はい。)経を読んで回向してやれば、それで返し終えたと思っているのか。私は修行しているから、皮膚が傷つき、血が流れることで、その果報を返しているのである。しかし、あなた方は一日中、借りを返したくないと思っている。それは不可能である。必ず返さなければならない。ただし、仏法を学んでいれば、その返し方は軽くなる。いわゆる「重報軽受(転重軽受
)」なのである。
例えば、前回の三月の閉関の時のことである。まだ関房に入る前、私は手鼓を振っていたために手の皮が擦りむけ、血が出た。しかし、私はとても嬉しかった。なぜなら、閉関に入る前に大きな借りを一つ返すことができたからである。私はその果報を返し終えたのである。ところが、あなた方なら「なんて運が悪いのだろう。まだ閉関にも入っていないのに血が出た」と思うだろう。私が初めてインドで閉関した時のことを覚えている。法王が私のために用意してくださった関房は、寺院の上にある山の中腹にあった。最初の夜、関房の外にはたくさんの奇妙なインド人の亡霊が立っていた。中には鼻のない者もいれば、手のない者もいた。もしあなた方ならどうするだろうか。ここにいる出家者たちなら、おそらく経を唱えて回向するだろう。しかし、私はそうしなかった。私は彼らにこう言ったのである。「明日一日、修行して得た功徳をあなた方に回向するから、私の邪魔をしないでほしい。私は閉関しなければならない。」そして翌日、私は一日中修行し、その功徳をすべて彼らに回向した。すると、本当にその後は一度も現れなかったのである。閉関を終えた後、私はその場所が以前何であったのかを尋ねた。すると、英国統治時代には北部一帯のハンセン病療養所だったことが分かった。ハンセン病患者は皆そこに収容されていたのである。どれほど多くの人が亡くなったことだろう。だから、あれほど多くの亡霊が私の関房の前にいたのである。しかし、私は少しも恐れなかった。しかも、そこがかつてハンセン病療養所だったということは、事前には誰からも聞かされていなかったのである。
では、なぜリンポチェは修行による成就を得ることができたのか。それは、私が修行している時には何も恐れないからである。あれほど多くの亡霊が関房の前に立っていても、中へ入って来ることはできなかった。なぜなら、私には関房を守護する力があったからである。私はインドの言葉を話すことはできない。また、異なる民族はそれぞれ異なる言語を話している。それでも彼らには理解できた。なぜなら、本当の言葉というものは心から出るものだからである。もちろん私は広東訛りの中国語で彼らに話した。ただはっきりと、「明日一日修行して得た功徳は、すべてあなた方に与える。だから私を邪魔しないでほしい。」と伝えただけである。すると、その後は二度と現れなかった。もしあなた方だったら、きっと追い払おうとするだろう。しかし、追い払ってはならない。与えられるものは与えるのである。一日分の功徳で十分である。特に閉関中に修した功徳であれば、なおさらである。
だからこそ、私は絶えず閉関を行っているのである。なぜなら、閉関だけが修行の福報を非常に速く積み重ねることができるからである。また、閉関だけが自分自身や仏法に対する体験と理解を深めることができる。さらに、閉関によって上師は将来、より多くの仏法を教えてくださるようになるのである。法王が私にこれほど多くの教えを授けてくださったのは、私が言うことを聞き、閉関に行ったからである。法王は多くの人にも閉関へ行くよう勧められた。しかし、多くの人は忙しいと言い、「機会があればそのうち行きます」と答えた。その結果、今ではその人たちの姿を見ることができない。死んだという意味ではない。会うことができなくなったという意味である。だから、上師の言葉を信じるのであれば、必ず従わなければならない。自分の考えを挟んではならない。自分の考えに従えば、それで終わりである。法王が私に閉関へ行くよう言われた時、そこがかつてハンセン病療養所だったことは話されなかった。また、関房をどのように守るかについても教えられなかった。ただ「扉を閉めて鍵をかけなさい」と言われただけである。それ以外は何も言われなかった。今はどれほど恵まれていることか。私はあなた方のためにあらかじめ修法を行い、関房も守護している。私の時代と比べれば、今のあなた方の閉関はまるで六つ星ホテルのようなものである。あなた方の福報は、私よりも大きいのである。
金剛手菩薩についてのこの段落は、今は時間がないので詳しく話すことができない。しかも、その内容の多くは法身菩薩が証得した果位について説かれており、問われている内容も非常に鋭いものである。なぜなら、衆生に対して、いったい金剛手菩薩の成就とはどのようなものなのかを理解させるためだからである。
祖師ジッテン・サムゴン著『一意』
ちょうどこの段落を開いたので、少し触れておこう。前回、『一意』の中で説かれている菩提心と悲心の違いについて話しただろうか。(大衆答:はい。)「では、覚えているか。もう一度説明したほうがよいか。」(大衆答:お願いします。)「悲心是成就諸佛一切功德與本慧」(悲心とは、諸仏のあらゆる功徳と本慧を成就するものである。)本慧とは、本来具わっている自然の智慧のことである。また、「前行基礎。是學道期間以高尚行為,不覺勞苦地行持六波羅蜜多的依據。」(前行における基礎である。修道の期間において、高尚な行いをもって、苦労を苦労と思わず六波羅蜜多を実践するための拠り所でもある。)したがって、慈悲心がなければ、何を修しても役に立たない。さらに「是最終如來大悲,恆時不斷觀照有情,為所教化徒眾趣入廣如瀚海事業的根本推動者。」(最終の如来大悲である。如来の大悲が常に絶えることなく有情を観照し、教化すべき徒衆を広大無辺なる利生の事業へ導く根本的な推進者である。)つまり、もし上師が菩提の大悲心を証得していなければ、弟子を教え導くことはできないのである。だからこそ、「因此大乘因悲心而變得殊勝。若無悲心,則不存在觀修或不觀修空性。」(したがって、大乗は悲心によって殊勝なものとなるのである。もし悲心がなければ、空性を観修するかしないかという問題自体が成立しないのである。)すなわち、仏法を学び、法を修めようとしても、慈悲心がなければ、空性を観じながら修することも、あるいは観じることなく修することも成り立たないのである。だから、多くの人が法を求めて来ても、私は伝えないのである。なぜなら、その人に悲心がないことが分かっているからである。ただ自分自身が良くなりたいという理由だけで法を求めているのである。
「即使觀修密咒氣脈明點口訣,也是自受其害。」(たとえ密咒の観修や、気・脈・明点に関する口訣を修したとしても、結局は自ら害を受けることになる。)この一節は非常に重要である。たとえ上師が法本を授け、真言を教え、さらには瑜伽部や無上瑜伽部における気脈明点の口訣まで伝えたとしても、悲心がなければ、自分自身がその害を受けるのである。なぜなら、真言には自らを助ける力もあれば、自らを害する力もあるからである。真言を持誦すれば力が生じ、その力は衆生を利益することができる。それは、あらゆる仏菩薩の真言が、すべて慈悲を根本としているからである。しかし、自分に悲心がないままその真言を持誦すれば、その真言は自分自身に向かうことになる。つまり、自分自身を呪うことになるのである。分かったか。だからこそ、まず観音法門を修することを根本としているのである。観世音菩薩は慈悲の象徴だからである。では、「悲」とは何か。それは、自分の持つ良いものをすべて相手に与え、その代わりに相手の悪いものを引き受けることである。私が衆生を済度するのも同じであり、自分が修めた福報をその衆生に与えているのである。与えなければ、どうして助けることができるのか。例えば、ある人がアメリカへ行きたいが、お金がないとする。私がお金を出して航空券を買い、さらに宿泊費まで用意してあげて、初めてその人は行くことができる。それと同じことである。経を読めば済度できるなどと思ってはならない。あなた自身に慈悲心があるのか。相手に与えることのできる力があるのか。そして相手がそれを受け取って初めて、先へ進むことができるのである。私が施身法を修する時も同じである。私の持つ力、福報、功徳によって、彼らを上へと送り上げているのである。それらがなければ、どうして彼らを助けることができるのか。では、それらはどこから来るのか。それこそが、慈悲心を修めることによって生じるのである。
「因此饒益自他一切眾,廣大安樂之所源即是悲心。如此的悲心即是菩提心。譬如若見一具有悲心者,則謂是人乃菩薩,故在藏地此處,常把悲心當作菩提心。對於此,吉天頌恭說:菩提心與悲心有差別。」(したがって、自他一切の衆生を利益し、広大なる安楽をもたらす源は、まさに悲心である。このような悲心こそが菩提心なのである。例えば、もしある人に悲心が具わっているのを見れば、その人は菩薩であると言われる。そのため、チベットではしばしば悲心を菩提心と同じ意味で用いるのである。しかし、このことについて、ジッテン・サムゴンは次のように説かれている。「菩提心と悲心には違いがある。」)多くの人は悲心と菩提心を同じものとして語る。しかし、ジッテン・サムゴンは、それらには明確な違いがあると説かれているのである。
「悲心不僅是佛教與外道的共通法,甚至動物對自己遭遇苦難的子女親眷都能生起悲心,更何況他類有情。佛陀的聲聞獨覺弟子也具有悲心,佛經中也說:「對卑賤貧困者具有悲憫心」。雖然有究竟寂止的無量悲心,然而因為不具有菩提心,故為下乘。菩提心非依靠一因一緣,而是依賴無數因緣方能生起。能信佛陀與佛法,能信佛子之行持,若信無上之菩提,則生上士之發心。又說:「菩提功德思心之生起,並非無因非由劣心生,乃由能信諸佛與佛法,以及能信僧眾始生起。對於一切佛法僧,以及一切上師眾,生起信慕喜心已,供奉亦生菩提心」。(悲心は、仏教と外道に共通する法であるだけではない。動物でさえ、自分の子どもや親族が苦しみに遭った時には悲心を起こすことができる。まして他の有情に対してであれば、なおさらである。また、仏陀の声聞や独覚の弟子たちにも悲心は具わっている。仏経にも、「卑しく貧しい者に対して憐憫の心を持つ」と説かれている。たとえ究竟の寂止に至る無量の悲心を具えていたとしても、菩提心を具えていなければ、それはなお下乗である。菩提心は、一つの因や一つの縁によって生じるものではない。無数の因縁に依って初めて生じるのである。仏陀と仏法を信じることができ、仏子の行持を信じることができ、さらに無上菩提を信じることができるならば、上士の発心が生じる。また次のようにも説かれている。「菩提の功徳を求める心が生起するのは、無因によるものではなく、また劣った心から生じるものでもない。諸仏と仏法を信じ、さらに僧衆を信じることによって初めて生じるのである。」さらに、「一切の仏・法・僧、および一切の上師に対して、信慕と歓喜の心を生じたならば、供養を行うことによっても菩提心が生じる。」と説かれている。)なぜ私はいつもあなた方に供養を勧めるのか。それは、私が供養を受けたいからではない。あなた方が菩提心を生起できるようにするためなのである。
「如上所述,需要依靠悲心等等,不可思議之因而生起,故悲心先行。生起菩提心,有生起願菩提心與行菩提心二類。首先生起願菩提心之因有四:一、廣大累積福德資糧。二、行殊勝皈依。」(以上のように、悲心などの不可思議なる因に依って生じるものである。したがって、まず悲心が先行しなければならない。菩提心には、「願菩提心」と「行菩提心」の二種類がある。まず願菩提心を生起する因には四つある。第一に、広大に福徳資糧を積み重ねること。第二に、殊勝なる帰依を実践すること。)よく聞きなさい。帰依していなければ、菩提心を生じることは不可能である。「三、以四無量心修心。」(第三に、四無量心によって心を修めること。)私たちが毎日唱えている四無量心である。心を修めるとは、自らのあらゆる思惟を四無量心に基づいて行うということである。「四、主要之因是生起上師為佛想。」(第四に、最も重要な因は、上師を仏と見る心を生じることである。)私は以前からよく言っている。上師を凡夫だと思えば、その上師は凡夫である。上師を菩薩だと思えば、その上師は菩薩である。上師を仏だと思えば、その上師は仏である。「此乃阿底峽尊者所說,摘自直貢派。悲心是四因之一,從因果方面來說也不相同,菩提心需要俱全此四因,因此是因和果;從作用方面來說也不相同。」(これはアティーシャ尊者が説かれたものであり、直貢派より抜粋したものである。。悲心はこの四つの因のうちの一つである。また、因果の面から見ても両者は同じではない。菩提心には、この四つの因がすべて具わっていなければならない。したがって、因と果の関係にあるのである。さらに、その働きの面から見ても両者は異なっているのである。)
この四つの因は、皆よく覚えておきなさい。「廣大累積福德資糧,行殊勝皈依,以四無量心修心,主要之因是生起上師為佛想。」(第一に、広大に福徳資糧を積み重ねること。第二に、殊勝なる帰依を実践すること。第三に、四無量心によって心を修めること。第四に、最も重要な因として、上師を仏と見る心を生じることである。)私は以前にも話したことがある。上師が説く仏法について、あなたが正しいと思うならば、それは正しいのである。もし間違っていると思うならば、それは上師が間違っているのではなく、あなた自身が間違っているのである。なぜなら、あなたが上師を凡夫として見ているからである。仏が仏法を説かれる時、それは自在に説かれるものである。必ずこうでなければならないというものではない。もちろん、儀軌には儀軌としての定めがある。しかし、多くの場合、上師が「このように行うべきだ」と考えるのであれば、それが正しいのである。なぜなら、上師はあなたの因縁に応じて説いているのであって、仏経の定まった法本だけに基づいて話しているのではないからである。この四つの因を、あなた方は努力して実践しなければならない。そうして初めて、悲心からさらに菩提心を生じることができるのである。あらゆる大乗仏法は、悲心を根本とし、菩提心を果としている。もし根もなく、果もないのであれば、どれほど仏法を学んだとしても意味はない。たとえ多くの灌頂を受けたとしても、何の役にも立たないのである。
「悲心緣的是有情眾生,菩提心緣的是佛果位,因此悲心與菩提心二者並不相同。悲心能遠離痛苦,菩提心能得佛果,彌勒菩薩說:「發心為利他,希求正菩提」。為令所有一切有情度脫輪迴苦海,究竟證得佛果之故,我當證得無上菩提,如是思維即是菩提心。那麼所謂「具足空悲精華者」,所指為何?此乃與諸佛法身無別者,有饒利有情的事業,而把世俗菩提心喚以「悲心」之名,其中的空性就是指勝義菩提心。直貢巴·吉天頌恭說:「所有三時一切佛,皆以空悲者為名。二種菩提心合一,而於身語意行持,一切將做正做為,除此無他即瑜伽」。因此我等應當明辨悲心與菩提心二者的差別。」(悲心が縁とするのは有情衆生であり、菩提心が縁とするのは仏果である。したがって、悲心と菩提心は同じものではない。悲心は苦しみから離れさせるものであり、菩提心は仏果を得させるものである。弥勒菩薩は次のように説かれている。「発心は利他のためであり、正しい菩提を求めることである。」すべての有情を輪廻の苦海から救い出し、究竟において仏果を証得させるために、自ら無上菩提を証得しようと発心する。このように思惟することが、すなわち菩提心である。では、いわゆる「空悲の精華を具足する者」とは何を指すのであろうか。それは諸仏の法身と無二無別であり、有情を利益する事業を具えている者を指す。そして世俗菩提心を「悲心」という名で呼ぶのである。その中でいう「空性」とは、勝義菩提心を指している。直貢巴・ジッテン・サムゴンは次のように説かれている。「三世の一切の諸仏は、皆『空悲』をもってその名とする。二種の菩提心を一つにし、身・口・意の行持において、これから行うこと、今まさに行っていることの一切は、このほかに何もなく、これこそが瑜伽である。」したがって、私たちは悲心と菩提心、この二つの違いを明確に理解しなければならない。)「私の中国語はとても標準的でしょう。」(大衆笑)「香りがしているか。」(大衆答:はい。)「私が法を説き続けると、ずっと香りが出ている。」「それは、この教えが正法であり、ジッテン・サムゴンの心法の教えだからである。」「今日はその心法を説いたので、祖師も喜ばれている。」「だから香りが絶えず現れ、とても濃く漂っているのである。」「そうでしょう。」(大衆一同答:はい。)「後ろに座っている人たちも香りが分かるか。」(答:はい。)「それでは、護法を修する。」
「三摩地」および「三摩鉢底」は、いずれもサンスクリット語の音写です。「三摩地」は「三昧」とも訳され、心が散乱することなく、昏沈や掉挙を離れ、一境に集中した禅定の状態を指します。「三摩鉢底は「三摩地」からさらに進んだ境地を意味し、禅定に入った後、心身が平等で安らかな状態に達することを指します。
2026 年 06 月 05 日 更新