尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年04月19日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座に登壇された後、長時間にわたり六字大明呪を唱誦された。慈悲に満ちた法音は虚空に遍満し、壇城は明るく輝き、香りが立ちこめ、地はたびたび揺れ、参列者一同は全身が熱くなるのを感じた。続いて、リンポチェは施身法の儀軌を修された。
リンポチェが腿骨の法器を吹き鳴らされると、悲しげな召喚の音がこだまし、冷気が次々と押し寄せ、室温は急激に下がった。修法の過程で、リンポチェは一度手を止めて深く息を吸い、呼吸を整えた後、再び修法を続けられた。そのとき、かすかに動物の悲鳴や人々のざわめきが聞こえ、無数の衆生が我先にと法会の場へ押し寄せ、済度を受けようとしているかのようであった。リンポチェの法座の周囲は、まるで薄い霧に包まれているかのようであった。リンポチェは勝義菩提心をもって、自らの血肉や骨を甘露へと観想し、何一つ惜しむことなく、ことごとく苦しむ衆生に布施された。
修法の過程において、リンポチェが六字大明呪を唱誦される際、初めは声が金剛のごとく威猛で、「吽(オーム)」の一音は力強く響き渡り、人の心の奥底にまで直に届いた。やがてその調子は速くなり、あたかも天地がそれに伴って回転し、うねり動くかのようであった。その間、リンポチェは幾度も衆生を憐れむがゆえに涙を流された。修法がまもなく円満を迎えようとする頃、リンポチェは再び六字大明呪を唱誦され、その音声は慈悲に満ちて穏やかであり、衆生の苦しみを優しく慰めた。修法が円満した後、壇城には金色の光が現れ、室温は再び暖かさを取り戻し、参列者一同は全身が熱くなるのを感じた。リンポチェが衆生を輪廻から救い出そうとする切なる大悲心を深く実感し、思わず涙を流し、感謝の念に満たされた。
修法が円満した後、リンポチェは貴重な仏法の開示をお授けになった。
この法門で最も重要なのは供養と布施である。実際、金剛乗において最高の段階に至ると、どの法本にもこのような祈請の句がいくつか含まれている。例えばここでは、「我が身体および財産、福報、あらゆる善根等を供養し、無尽の供養の雲となす」と説かれている。すなわち、自分の身体、財、福、善根のすべてを尽きることなく仏菩薩に供養するということである。我が身体の「外」とは身体の外側を指し、「内」とは内臓を含む内側を指す。「それら曼荼羅」、供養の壇城とするのである。「断法伝承の本尊衆に供養し、加持を祈り二種の悉地を賜らんことを願う」。ここでいう「悉地」とは成就のことであり、福と智慧の両面の成就を意味する。成就とは衆生を利益するためのものであり、あなた方のように少し供養して多くを求めるためのものではない。凡夫である以上、それ自体は責められることではないが、それならばもはや菩薩道を修めるなどと言うべきではない。このような心構えがないのであれば、不共四加行を求めに来るべきではない。私は何も求めていない。しかし不思議なことに、何も求めなければ、かえってすべてが自然と備わるのである。
このように供養するのは、私たちが凡夫の身を持ち、その福があまりにも浅いからである。その浅さは、自分でも信じられないほどである。今、食べるものがあり、お金があり、家や車があるからといって、自分には福報があると思ってはならない。それは福報ではなく、ただ過去世に供養したことによって、この一生においていくらかの財が与えられているに過ぎない。しかし、修行のための福報は、あなた方の想像をはるかに超えるものである。例えば、2007年に私が閉関したとき、もし福報がなければ、三か月以上もどうして続けられただろうか。だからこそ、この法本は修めるのが難しく、この一節を実際に行じられる人は多くない。なぜなら、何も求めず、ただ二つのことだけを求めなければならないからである。すなわち、修行のための福報と、衆生を助けるための修行の智慧である。
あなた方は日々開悟を求めているが、まるでこの出家して三十年以上になる弟子のようなものである。多くの用語は知っていても、実際にはまったく理解しておらず、ましてや悟りに至ることなどなおさらである。なぜなら、彼は自分のための修行しかしておらず、大乗仏法とは少しも関わっていないからである。時には彼に信者や弟子たちと話をさせることがあるが、彼は身を守ることに終始し、私がこれまでに言ったことを繰り返すだけで、相手の問題を率直にはっきりと指摘しようとしない。
リンポチェはこの出家弟子を叱責された。「そんなに自分を守ることばかりうまくて、どうやって修行するのだ。以前から身を守る術ばかり身につけ、信者の機嫌を損ねないように話している。これは大きな悪業だ。私ははっきりと、仏法に関する知見や問題点を相手にきちんと伝えるようにと言っているのに、私はそんな基本的で当たり前のことまで一人一人に話す時間はない。お前は話せる立場にありながら、あえて話そうとしない。ああ、惜しいことだ。三十年も学んで、立派な“技”を身につけたな――何の技か?信者や弟子の機嫌を損ねず、自分の身だけを守る話し方だ。まず自分を守る、それではいけない。」
また、この法本の中では布施について説かれており、とりわけその布施の方法は、すべて自分の身体をもって施すものであり、あなたたちが想像するように、少しの金銭を与えたり、線香を供えたり、灯明をともしたりすることを布施と呼ぶのではない。例えば三悪道の衆生、すなわち鬼衆や龍衆などに布施する場合には、自らの血や肉、骨、内臓を山のように積み上げ、彼らを招いて受用させるのである。さらに別の方法として供物を与えることがある。肉を食べる鬼や夜叉などに対して、彼らが必要とするもの――肉、内臓、皮膚、脂肪、骨に至るまで――すべてを持っていかせ、どうぞ食べよ、飲め、好きなだけ取り、満足するまで取り続けよ、と勧めるのである。あなたたちは、ただ法本を読むだけでそのようなことが実際に起こるのかと思うであろう。しかし、本当に起こるのである。単に読んでも何も起こらないと思ってはならない。そうでなければ、私がただ法本を読んでいるだけで、どうして人を済度することができるのであろうか。
この力は慈悲と菩提心から生じるものであり、口先だけで語るものではなく、実際に行わなければならないものである。先ほど、皆はかなり寒さを感じたはずである。今日は特に冷えている。(大衆:はい。)非常に寒いのである。何か奇妙な音を聞いたであろうか。(大衆:はい。)どのような音を聞いたのか。(答え:動物の声。)さらに多くの者が話していて、騒がしかったであろう。(答え:はい。)安心せよ、彼らはあなたたちに危害を加えることはない。なぜなら、私が彼らに食べ物を与えているからである。彼らは私の肉の方が、あなたたちの肉よりもはるか香ばしく感じているのである。しかも私はより整った容貌をしているから、格好のよい人間を食べるのもよいであろう。『西遊記』にあるように、蜘蛛の精が唐三蔵の肉を食べようとしたのと同じ意味である(大衆笑)。ゆえに、この法は修めるのが非常に難しく、その難しさは捨の心を備えることにあるのである。
出家して三十数年の弟子であっても、なお自己防衛や人を怒らせまいとする心、あるいは戒を守ることに固執する心を捨てられないのである。私はすでに、戒には開戒・犯戒・破戒があると述べてきた。このうち開戒は、衆生を利益するためであれば許されるのである。かつて顕教の禅宗には多くの公案があるが、例えば蘇東坡はある法師に自分の仏法の文章を示したところ、その法師は四文字で「狗屁不通」と返した。蘇東坡は怒って彼のもとへ押しかけたが、法師は彼を罵り、「一屁打過江」、すなわち「一つの屁で川向こうまで打ち飛ばされた」と言ったのである。たった一言の「屁」で彼を動かしてしまったのである。この法師の言葉は確かに俗であるが、要点を明確に示しており、蘇東坡は自らの誤りに気づいたのである。「屁」と罵られた程度で耐えられないのに、自分は修行しているとか、多くの仏法を書いているなどと言えるであろうか。その出家の弟子もまさにこの欠点を犯しており、自己を中心にしているのであれば、それは菩薩道を修していることにはならない。菩薩道を修するならば、あらゆるものを捨てなければならないのである。
したがって、あなたたちはしばしば菩薩道を修したいとか、不共の四加行を求めたいとか、生死から解脱するためだと言うが、その必要はないのである。ある女性の弟子が長い間病床にあり、普段は本当に供養もしていなかったが、昨日になってその息子に来させて願い出た。私はその息子に、彼女が帰依戒を捨てず、離れることなく、なお私の帰依弟子である限り、必ず彼女を済度すると伝えた。そう言った後、昨夜六時過ぎに彼女は亡くなり、本日すでに済度を行ったのである。これは何を意味するのか。彼女には信があったということである。もはや、自分たちに生死を解脱する力があるなどと言ってはならない。生死から解脱したいのであれば、修行することはよいが、私は一式の法本を与えて修させることもできる。しかし、六字大明呪を唱えるだけで十分なのである。むさぼり求めて際限なく欲してはならない。
菩薩道を修するには、不共の四加行が第一の関門である。しかし、不共四加行を修め終えれば生死を解脱できると考えてはならない。法本には、不共四加行を修了すれば解脱できるとは記されていないのである。法本の中で繰り返し説かれているのは、上師を信じ、上師に供養し、上師を恭敬せよということであり、ほかのことは説かれていない。ただ上師のみがあなたを助けることができるのである。阿弥陀仏が助けてくれると思っているのか。確かに化身仏について語る者は多いが、阿弥陀仏の化身仏が来て助けるようになるための条件はきわめて厳しい。念仏が絶えず、あらゆる念がことごとく阿弥陀仏であるときに、はじめて化身仏が来て助けるのである。あなたたちにそれができるであろうか。経典によれば、「昼夜六時」とはすなわち二十四時間、あらゆる念が阿弥陀仏であることを意味する。なぜ多くの仏寺で阿弥陀仏が説かれるのか。それは、あらゆる念が阿弥陀仏であってこそ、はじめて阿弥陀仏のもとへ往生する機会が得られるという意味なのである。
一句唱えれば往生できるなどと誤解してはならない。顕教においてこの程度まで修めることさえ、すでに容易ではないのである。それにもかかわらず、不共四加行を求めさえすれば生死を解脱できるなどと大言壮語するのは、まだまだ先の話である。頼るべきはただ上師のみである。施身法の法本にも、上師がいかに重要であるかが繰り返し説かれている。ゆえに私は繰り返しあなたたちに注意しているのであって、私自身がどれほど重要だと言いたいのではない。修行の方向はまさにこのようなものであり、自分勝手な考えを持ってはならない。あなたたちの考えは、しょせん凡夫のものであるからである。
まさにこの出家弟子の考えは凡夫のそれである。たとえ仏法を用いて考えているつもりであっても、やはり凡夫にすぎない。彼は、私が人に話しに行かせるのは、自分に恥をかかせたり、問題を起こさせたり、他人に誤解させたりするためだと感じている。そのため毎回、要点を外した当たり障りのない話ばかりをして、相手にはただリンポチェのあの本を多く読むようにと勧めるだけなのである。リンポチェはこの出家弟子を叱責して言った――それならわざわざお前が話す必要はない、私が話せばよいではないか。自分のその心をきちんと反省するつもりはあるのか。これほど多くの用語を並べ立てても実際には修していないのに、自分は修行しているなどと思ってはならないのである。
本日、六字大明呪を唱えたが、皆はその唱え方が以前と違っていたのに気づいたであろうか。(大衆:はい。)それは来ている衆生が異なるからである。六字大明呪は常に同じように唱えるものだと思ってはならない。六字大明呪は、四つの力が現れるまで唱えることができるのである。どのようにして済度が可能となるのかは、法本の中にすべて教えがあり説かれている。しかし、その段階に達していない者には伝えられない。なぜなら、そのようには唱えられないからである。簡単に言えば、私は一息の中で終始六字大明呪のみであり、ほかの念は一切ないが、あなたたちにはそれができないのである。一息の中に六字大明呪しかなく、他の念が全く存在しないとき、はじめてその衆生たちは、あなたが彼らのために六字大明呪を唱えていることを聞き取ることができるのである。自分が大きな声で唱えれば相手に聞こえるなどと思ってはならない。声の大小は彼らとは無関係である。虚空の中において、その声はただ私のエネルギーを彼らに運ぶにすぎず、声が大きいから聞こえ、小さいから聞こえないというものではないのである。
本日は多くの衆生が済度を受けるために来ている。昨日の朝四時から五時にかけて、彼らはすでに私の家の窓の外で騒がしく、一晩中ざわめいていたのである。私は現在七十九歳まで生きてきたが、あえて言うなら、現時点でこのような済度の法門を修することができる者は多くはないのである。済度を容易なものと思ってはならない。名前を申し込み、黄色い紙に書いて仏菩薩に見せれば、それだけで自然に彼らが済度してくれるなどと考えてはならないのである。
第一の難関は、いかにしてこのような神識を勾召し、壇城の前に来させて済度するかである。すでに亡くなっていても、その魂魄はなお漂っており、漂う中でどこかに留まり、そこに寄りついて動かなくなることもある。あらゆるものに寄りつくことができるが、とりわけ木を好む。だからこそ、森林には必ず鬼がいると言われるのであり、その由来はここにある。仏経には、中陰身の存在はきわめて軽く、煙よりもさらに軽く、ほとんど見ることができないと説かれている。では、どのようにして彼らをこちらに呼び寄せるのか。それは単に真言を唱えるだけではない。自らの慈悲の力が本尊を感動させ、本尊のすべての眷属があなたのために全宇宙を巡ってこれらの衆生を探し出すのである。そうでなければ、私にどうしてこれほど多くの亡者を探し集める力があろうか。すべては本尊や護法の助けによるものである。私が名簿を開いて一度唱えれば、彼らは探しに行くのである。なぜそのように動くのか。それは、私がこの行為を完全に衆生を利益するために行っていることを知っているからである。
施身法の修行は、あなたたちが思っているように、法本を読み終えればそれで済むというものではない。この法本は命がけの法本であり、自分の肉体さえも不要とし、すべてを施し尽くすものである。ゆえに、これを実際に修しようとする者はほとんどいないのである。たとえば我々の道場では、子どもたちの中にはしばしば、リンポチェお爺ちゃんの体の上で多くのものが彼を食べているのが見えると言う者がいる。しかし、あなたたちのように成長した者はそれを見ることができない。なぜなら、すでに心が汚染され、複雑になってしまっているからであり、そのために見えなくなっているのである。
仏を学ぶには、自らに一つの方向を与え、大きなことを成し遂げようとして功を求めてはならない。確かに法本には、成仏を発願し、輪廻からの解脱を願うと説かれているが、まず自分にそれを成し遂げる力があるかどうかを問い直すべきである。十万回の大礼拝、十万回の百字明呪、十万回のマンダラ供養、十万回の上師相応法を修めれば、必ず生死を解脱できると思ってはならない。法本にはそのようには説かれていないのである。すべてを手放し、何も執着しない者であってこそ、生死を解脱することができるのである。『宝積経』には、菩薩がいかに捨てるかが繰り返し説かれている。帰って私が説いた仏法を見直し、自分の心の在り方と一致しているかどうかを確かめよ。もし一致していないのであれば、それは菩薩道を修していることにはならない。たとえすでに不共四加行を修め、さらには閉関修行を行ったとしても、なお菩薩道を修しているとは言えないのである。菩薩道を実践できていないのであれば、ただ一つの方法は、上師に依止し、すべてにおいて上師の教えに従うことである。
例えば、昨日亡くなったあの弟子である。彼女の唯一の願いは、リンポチェに済度してもらうことであった。リンポチェがそれを承諾すると、彼女はそのまま旅立ったのである。誰であったか。(弟子:報告いたします、リンポチェ、第六組の廖姓の弟子です。)帰依してどのくらいか。(答え:15年以上です。)私はその者に会った記憶があまりない。(答え:土曜日の面会の際、彼女はあまり来ていませんでした。)これは彼女のせいではない。おそらく経済的な状況が良くなかったのであろう。多くの人は、お金がないから土曜日に上師に会いに行かないと思っている。しかし、供養は非常に重要なことであり、軽視してはならない。彼女は運が良かったのである。もし昨日求めに来ていなければ、半月ほど延びていたかもしれない。というのも、来週の土曜日は面会を行わず、法会を執り行う予定だからである。だからこそ、常々言っているように、リンポチェがいつまでも生きていると思ってはならない。たとえ生きていたとしても、常にさまざまな用事があるのである。昨日のこの女性の弟子は、非常に分かりやすい例である。私は彼女に加持を施したわけでもなく、ただ済度することを承諾しただけであった。彼女の息子は三時過ぎに帰ってそれを伝え、彼女は六時過ぎに往生した。なぜなら、もう大丈夫だと分かり、恐れがなくなったからである。
生死を解脱したいというのであれば、それでもよい。私はいわゆる非常に重い修行方法を与えることもできるが、あなたたちには実行できないであろう。不共四加行とは何か。それは菩薩道を学び、修していくための最も基本的な準備であり、道具であって、生死を解脱させるためのものではない。菩薩道を修するならば、衆生を度するために、何度でも生まれ来ることになるのである。法王が閉関に入る前、私は法王と二度ほど話をした。私は「私はもう来ません。法王は来られますが、私は来ません」と言った。すると法王は「来なさい。来なければならない」と言われた。しかし、私自身の願力は、法王が私に書いてくださった長寿文にある通り、縁のあるところへ赴くというものである。おそらくこの一生で、地球との縁は終わるであろう。負っているものはすべて返し、なお少し残っているものを返し終えれば、私は去るのである。多くのものに執着して離れがたいと感じることはない。今なおここに留まっているのは、喜金剛のこの法門において、まだやり遂げていない部分があるからであり、これからしばらく時間をかけて修していくつもりである。
本日、皆のために施身法を修したのは、なぜ施身法を修するのかを伝えるためである。先祖はすでに済度されているのではないか、と思うかもしれない。しかし『地蔵経』には明確に説かれている。子として絶えず修行を続けるならば、そのあらゆる功徳は先祖や父母を助け、将来にわたって仏法の上で絶えず向上させるのである。『地蔵経』には、地蔵菩薩がある世において婆羅門の女性であったと説かれている。彼女が修行し仏を学び、大願を発した後、その母は仏から授記を受け、未来仏となることが定められ、さらには法号までも与えられたのである。したがって、一度や二度済度したからそれで十分だと考えてはならない。それは、亡者を三悪道から離れさせることにすぎず、将来仏となるまで導くには、一度や二度では足りないのである。私自身のことを言えば、父母を必ず済度していると確信している。それでもなお修行を続けているのは、彼らが仏法において絶えず向上していくことを願っているからである。
もし自分の生死の解脱ばかりを利己的に求め続けるのであれば、父母はどうなるのか。それでいて何が大乗仏法を学ぶというのか。だからこそ、求めに来ても私は全く与えない者がいるのである。心が正しくなく、金剛乗を学ぶ器ではないからである。器でないのであれば、素直に教えに従い、六字大明呪や『仏子行三十七頌』を誦し、五戒十善を守り、絶えず実践し続けるがよい。それによっても、生死を解脱する機縁を得ることはできるのである。
不共四加行は菩薩道を修するためのものであり、菩薩となる覚悟がないのであれば、自分が修行したからといって特別に変わるなどと思ってはならない。私が法を伝えないのではなく、あなたたちにその器があるかどうかを見ているのである。器がなければ、無理に伝えたとしても修し得ず、かえって障礙が生じ、さまざまな問題が起こるのである。私もこの数十年の修行の中で障礙はあったが、それらはすべて因縁法によるものであり、自分が受けて返すべきものは返せばよいと捉えている。あなたたちとは異なり、仏を学べばますます良くなるはずだと考え続けることはない。先ほどの出家者も、自分は修行を続けているからますます進歩していると思っている。しかし、衆生を利益するためでなければ、どれほど進歩したとしても意味はないのである。
では、衆生を利益するとは何か。それは自ら一切を放棄することである。放棄するといっても、今すぐすべての物を投げ捨てよという意味ではなく、心の中ではっきりと、いずれ手放すのだと理解していることである。いわゆる放棄とは、私たち一人ひとりが必ずいつか自分の死に直面するという事実に関わっている。生前に手放せない習慣があれば、臨終のときにもやはり手放せないのである。かつて私は、ある尼僧にポワ法を修して助けたことがある。彼女は寺院で第二の地位にある人物であったが、病に倒れて臨終が近づいたとき、毎晩眠ることを恐れていた。眠ってしまえば、阿弥陀仏が来ても気づけないのではないかと恐れていたのである。しかしそれは迷信である。私は彼女にそれを説き明かし、ポワ法を修してやると、彼女は安らかに旅立った。このように説く者はほとんどいない。他の者は、ただひたすら阿弥陀仏を念じればよいと言うであろう。この場にいる出家の弟子たちも、念仏を続けてきた多くの出家者を見てきたはずだが、結果として安らかに往生できた者は一人もいない。仏を学ぶには、必ず条件を備えた上師に導かれる必要がある。あなたは一歩一歩着実に、分を守って実践し続ければよい。そうすれば、必ずいつか状況は変わるのである。求法に来ること自体を拒んでいるのではない。しかし、求める際の心構えが正しくなければ、私は法を伝えることはしないのである。
昨日、ある男性の弟子が来た。昨年来て求めたとき、私は彼を六か月観察すると言った。ところが昨年十月で六か月が満了しているのに、今になってようやく再び求めに来たのである。これは彼に時間がなかったということを示している。本来であれば六か月が過ぎた時点ですぐに来るべきであり、そうでないのは言うことを聞かず、自分の考えがあるということである。彼は六か月といっても、リンポチェはもう少し様子を見るだろうと勝手に考えたのであろう。誰が彼を知っているのか、今となっては私にもはっきりしない。私はただその心を見るだけである。彼は自分の判断で数か月も遅らせて来た。自分の都合がつき、準備が整い、修行する時間ができたと思ったからである。しかし彼に時間ができたとき、今度は私に時間がないのである。来週の土曜と日曜は仏寺で修法を行う。日曜日の朝九時半からは、弟子が入って持呪することを開放する。自由参加であり、来なくても構わないし、来ないからといって追い出すこともない。来たくなければここで唱えればよい。よろしいか。(大衆:よろしいです。)それではここで唱えなさい。
リンポチェは大衆を率いてアキ護法の修法を行い、修法が円満に終わった後、引き続き大衆に貴重な仏法の開示を与えたのである。
先ほど、不共四加行を求めても得られなかった者について話したが、それはあなたが失敗者であるとか、根機がないという意味ではない。ただ現時点では、その法を学ぶ因縁がないというだけである。だからこそ、努力を続け、そして執着し続けなさい、よいか。(大衆笑)いつの日か、私が気まぐれを起こせば、伝えることもあるかもしれない。実のところ、仏を学ぶことにそれほど深遠で難解な学問があるわけではない。難しいのは、人の心があまりにも測りがたいという点にあるのである。
ある伝記を読んだことがある。かつて中国大陸に虚雲老和尚という非常に有名な高僧がおり、顕教に少しでも関わったことのある者なら皆知っている人物である。彼の寺には、将軍を退いて出家した弟子がいた。清末から民初にかけての将軍は、戦を指揮していたため殺業が非常に重かった。その人物は出家してからというもの、ただ一つ、厨房で食事を作ることだけをしていた。剃度して以降、決して口を開かず、誰かが話しかけても「阿弥陀仏」とだけ答え、他の言葉は一切口にしなかった。どれほどの年月その寺にいたのかは詳しく記されていないが、彼は料理を担当し、出家衆の中でも下位に見られ、修行していない者だと思われていた。住まいの僧房も他の者たちとは離されていた。ある夜、突然ほかの出家者たちが彼の僧房に赤い光が差しているのを見て、火事だと思い慌てて駆けつけた。すると彼は僧房の中で座禅のまま往生していたのである。彼らが虚雲老和尚を呼んできて、遺体を動かそうとすると、老和尚は決して動かしてはならず、数日待てと言った。やがて虚雲老和尚は顕教の引磬を持ってきて、その遺体の前で一打ちすると、遺体全体が粉となったのである。
この人は何も学ばず、ただ一句の「阿弥陀仏」だけであった。それで役に立つのか。役に立つのである。しかし、そのやり方はあなたたちにはできないし、私にもできない。どうして一切話さずにいられるだろうか。毎日これほど多くの人が私に用事を尋ねに来るのである。だが彼にはそのような因縁があり、料理をする以外は何もしなかった。人と接する機会も大幅に少なかったのである。人から何か言われれば、彼はすべて「阿弥陀仏」と答えた。それはすなわち「はい」という意味であり、頼まれたことを一度も断らなかったのである。先ほどの出家弟子のように、私の言うことを繰り返し拒み、きちんと相手に伝えよと言っても自分勝手な話をするのとは違う。そのような態度では、この料理をしていた人物にも及ばないのである。
この話をした意味は、ただ一つである。修行しようという心さえあれば、必ず成就はあるということである。もし心が十分に堅固でなく、精進も足りないのであれば、あなたたちに残された道はただ一つ、すべてにおいて上師に従うことである。昨日亡くなった女性の弟子のように、彼女は何も修しておらず、供養もほとんどしていなかった。それでも、なぜ上師が一言告げただけで、すぐに命を手放し、翌日には済度を受けることができたのか。理由は単純である。上師の言うことは理解できなくても、上師が自分を救い、助けてくれると信じていたからである。ゆえに、自分に学識があるから仏法をよりよく学べるなどと思ってはならない。身分や経験があるから他人より優れて学べるなどとも思ってはならない。仏法は平等であり、身分・地位・財産とは無関係である。それらはすべて各自の福報と因縁にすぎない。したがって、仏を学ぶにあたっては、自ら決断しなければならない。しかし、その決断とは、あれこれを理解しようとか、これこれを修しようと決めることではない。例えば、直貢噶挙には全部で五十二の灌頂法本、すなわち五十二の本尊がある。ではリンポチェがそのすべてを修しているのかといえば、そうではない。そんなに多くを修する時間はないのである。それでも五十二あるのは、それぞれの衆生がそれぞれ異なる本尊と縁を持っているからである。今日、あなたたちがここにいるのは、私が修している本尊が、あなたたちとも縁があるからにほかならない。ゆえに、あれこれと問うたり求めたりしてはならないのである。
もしあなたたちが私と縁がなく、私の本尊とも縁がないのであれば、この道場に来ることはないであろう。台湾にはこれほど多くの道場があるのに、なぜここに来るのか。私は宣伝もせず、テレビにも出ず、自分の不思議な話を繰り返し語ることもなく、ただ着実に一歩一歩進めているだけである。だからこそ、仏を学ぶ考え方を正しく改めなければならない。求法に来ること自体を拒んでいるのではない。ただ、自分に問いなさい――本当に準備ができているのか、と。ここでいう準備とは、毎日どれだけ唱えるかということではない。先日言ったあの弟子は準備ができていなかった。彼は最終的にどのように修するのか、自分の時間をどのように割くのかを整えていなかった。ただその場しのぎで、私が何か言えば「ああ、やります」と答えるだけであった。それでは、まだ準備ができているとは言えないのである。
例えば2007年、私が閉関して喜金剛の長呪――百五十字ほどある真言――を十万遍唱えたことがある。十万遍となれば相当な時間を要する。当時用いていた翻訳音は、今と比べると誤りがあった。しかし翻訳が誤っていたからといって、上師が誤っているわけでも、私が誤っているわけでもない。ただ翻訳した者が発音を十分に把握していなかっただけである。それでも修することはできたのである。今と照らし合わせれば、当時のものは現在のものと全く異なっているが、それでも私は同じように十万遍唱えた。それは本尊・上師・護法の加持があったからである。なぜ彼らは私を助けたのか。それは、私が学んだ後に衆生を利益するために用いると知っているからである。だからこそ必ず助けるのである。ではなぜ、上師や護法はあなたたちを助けないのか。それは、あなたたちが自分のために学ぼうとしているからであり、自分が理解したい、自分が分かりたい、自分が良くなりたいと思っているだけで、衆生を利益することとは関係がないからである。
もちろん仏法では「自利利他」と説くが、「自利」とは自分が良くなるという意味ではない。この仏法があなたにとって有益であるということであり、それは悪を止めさせ、善を積み重ねさせ、悪を行おうとするときに上師がそれを戒める助けとなるからである。ある弟子は十数年から二十年近く帰依しているが、ずっと懺悔に来ていた。私は彼に「それは懺悔ではない」と言ってきたが、昨日になってようやく自分の誤りに気づいたのである。口先で「肉を食べました」と言うことが懺悔だと思ってはならない。私は彼がどこを誤っているかをはっきり知っており、ただ気づくのを待っていたのである。昨日になって彼は、自分が上師の是非を他人から聞いていたことが誤りであると理解した。私は彼に尋ねた。「あなたは学問のある人間だが、『是非を語る者はすなわち是非の人である』と教わらなかったのか」と。ではなぜ人の話を聞いたのか。仏経には、上師の是非に限らず、一般の人の是非であっても、それを聞けばすでに悪に随うことになると説かれている。なぜそれを聞くのか。さらに仏経には、たとえ誰かが自分の父母を批判しており、それが事実であったとしても、子としてはその場を離れ、決して聞き続けてはならないと説かれている。それでもなぜ理解できないのか。ただ話しているだけ、聞いているだけで問題はないと思っているのか。しかし同様に因果は生じるのである。
先ほどの修法の際、一群の衆生が地獄から出てきた。その中に、手足の欠けた衆生ばかりの地獄があった。先ほど多くが現れたが、おそらく彼らの順番が来たのであろう。地獄には大きく二つ、寒氷地獄と火地獄があり、そのほかにも多くの小地獄が存在する。それぞれの小地獄は、衆生が生前に行った悪業に応じて生じるものであり、同じ過ちを犯した者たちがそこに集まるので、小地獄と呼ばれるのである。今回は彼らの番が巡ってきたため、この地獄の衆生が出てきたのであろう。なぜ皆、手足がないのか。仏経には、過去世において道の途中に穴を掘り、それを覆って人を落とした者や、他人の財を奪った者は、生々世々において脚や手に障害を受けると説かれている。したがって、高齢者が突然転倒して脚を折るような場合も、必ずしも今世だけの原因ではなく、過去世において他者を害したことと関係しているのである。
仏法における因果について、人々は深く理解しようとせず、自分勝手な考えで修行していると思い込んでいる。例えば、晩年になって意識がはっきりせず、入浴もせず、排泄を部屋の中でして散らかしてしまう高齢者を見たことがあるであろう。このような状態になってしまえば、それは糞便地獄に堕ちるに間違いない。なぜそのようになるのか。第一に、この一生での殺業が重すぎること。第二に、自ら酒を好むか、あるいは他人に酒を勧めることによるものである。往生の前にすでにその兆しが現れ、人間らしい生活の様相を失っていくのである。多くの人はこれを理解せず、ただ病気や老いのせいだと言うが、これは単に老いによるものではないのである。
例えば、ある法本には、修行者を狂わせる鬼や、記憶力を失わせる鬼について説かれている。他の法本には書かれていないが、その法本には明確に記されている。なぜそのような鬼が存在するのか。それは、かつて自分が彼らに害を与えた因縁があるからである。そのため臨終の前に記憶を失わせ、まったく修法も念仏もできない状態にし、輪廻へと引き戻すのである。また「発狂させる」とはどういうことか。狂ってしまえば道理を聞き入れることもできない。ではなぜ仏経では飲酒を戒めるのか。多くの人は単に酒の問題だと思っているが、そうではない。古代には現代のような多くの麻薬や、化学的に作られた薬は存在しなかった。現在の一部の薬は、性質としては麻薬に近いものもある。長期にわたってそれらに依存することは、毒を摂取するのと大差ないのである。
緑度母の法本には、「絶えず緑度母を修すれば、いかなる毒も害することができない。合成された毒であっても同様である」と説かれている。西洋薬は化学的に合成されたものであるため、なぜ副作用が比較的強いのかといえば、その中に毒性が含まれているからである。これは西洋薬を中傷しているのではなく、副作用が比較的強いという事実を述べているにすぎない。漢方薬にも副作用はあるが、毒性は比較的軽い。したがって、西洋薬を長期間服用している者、とりわけ睡眠薬や鎮静剤などは、いずれも毒性を持つものである。これらを多く摂取すれば、その人の性格や精神状態全体に影響が生じ、変化していくのである。
物心ついてから現在に至るまで、私は睡眠薬を半錠たりとも飲んだことがない。そうしたものに依存しないからである。かつて極めて貧しく、食事をする金も翌日の金もないような時でも、眠れないということはなかった。体が健やかであれば自然に眠れるのであり、睡眠薬に頼る必要はないのである。もし眠れないからといってそのような考えを持つならば、中医学で言うところの「心血両虚」であり、早く漢方で体を調えるべきである。それでも迷い続け、睡眠薬や鎮静剤を常用すれば、やがて精神に異常をきたすことになる。いわゆる鬱や抑うつ病はどのように生じるのか。簡単に言えば、「求めても得られない」ことにある。多くを求めながら得られず、執着して考え続けることによって生じるのである。それは物に限らず、ある考えや感覚を求めて得られない場合でも同様であり、執着が続くうちに次第に抑うつへと至る。したがって、仏を学ぶ者に抑うつがあるはずがない。もしなおその状態にあるならば、私は追い払うしかない。何故なら、仏法を学んでいないからである。
仏経には明確に、人には八苦があると説かれている。すなわち、生・老・病・死、求不得、愛別離、怨憎会である。最も嫌いな相手であっても、必ず目の前に現れ、しかも相手が自分によくしてくることで、逆に強く執着し、愛してしまい、ついには生きるも死ぬもその相手に左右されるようになる、これがまさに「怨憎会苦」である。さらに「五蘊熾苦」がある。五蘊とは眼・耳・鼻・舌・身であり、私たちは外界の感覚を追い求めることで、この五蘊が絶えず燃え盛り、自身を消耗させているのである。なぜスマートフォンをいじり続けるなと勧めるのか。スマートフォンは何を満たしているのか。ただの雑事や噂話にすぎない。長時間触れずにはいられず、特に就寝前に30分以上見続けなければ眠れないと者もいる。この類は、現代の科学でも依存とされている。遊びのように思ってはならない。毎晩寝る前にスマートフォンをいじる習慣は、その光が脳神経に影響し、休息を妨げる。休まらなければ、やがて精神に異常をきたすのである。もし私の弟子でありながら、なお就寝前にスマートフォンをいじる習慣があるならば、さもなくばここを離れるべきである。ここで精神に不調をきたせば、仏法のせいだと言われかねない。しかし、それは仏法の問題ではなく、自ら原因を作っているにすぎないのである。
私自身は、ほとんど携帯電話は通話のためにしか使わない。かつて会社を立ち上げたばかりの頃、周りがパソコンを用意してくれたが、一週間使っただけでやめてしまった。なぜか。怠けているわけでも、使えないわけでもない。ただ、それに執着し始めていると気づいたからである(大衆笑)。何かに執着すれば、それで終わりなので、使わないことにしたのである。基本的には自分の記憶力に頼っている。では、なぜ私の会社には多くの社員がいるのか。一人の人間ですべてを完全に記憶することはできないからである。それぞれに分担させ、一人ひとりが一部を記憶し、支えるようにしているのである。
科学が発達すればするほど、人類の文明はむしろ失われていく面もある。注意すべきことである。だからといって携帯電話を使うなと言っているのではない。ただ、それに執着してはならず、なければ生きていけないと思ってはならない。かつて携帯電話がなかった時代、人々は普通に生活していたのである。私自身、とても後悔している。以前は眼鏡をかける必要はなかったが、テレビを見るようになってから必要になった。これだけでも、科学が人体に与える影響の一端は理解できるであろう。末法の時代において仏を学ぶことは、確かに難しく、苦労も多い。さまざまな電波が脳波に干渉するからである。しかし、真言を持することによって、その干渉は減少し、さらにはほとんど影響が現れないこともできる。持呪が深まった時、それらの影響を受けることはなくなる。なぜなら、自身のエネルギーの方が強いからである。ただし、その境地に至るには相応の努力が必要であり、毎日千回、二千回、一万回と唱えれば足りるというような単純なものではないのである。
2026 年 04 月 23 日 更新