尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年04月12日

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法座に登り、『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十二「禅定波羅蜜多品第十の二」を解説された。
 
リンポチェは法座に上がり、六字大明呪を持誦された。尊身および壇城は金色の光を放ち、会場には妙なる香りが満ちあふれた。大衆は皆、全身に温かな熱を感じ、一切の雑念は瞬時に止み、ただ専心してリンポチェの殊勝にして清浄なる仏法の教えを受けることができたのである。

リンポチェは、貴重なる仏法の開示を賜った。

『宝積経』は『大蔵経』全体の中で全体の中でもかなりの分量を占めており、、上下二冊を持つ大部の経である。現在もなお、この巻の講解はまだ終わっていない。この『宝積経』において、釈迦牟尼仏は、仏法を学ぶ者が菩薩道を修する際の心構えや在り方について、何をなすべきか、何をなしてはならないか、さらにはどの程度まで準備すべきかを、極めて詳細に繰り返し説いている。しかし多くの人は、菩薩道とは、菩薩戒を受け、体に受戒の焼き印の痕を残っていればそれで足りると誤解している。だが、『宝積経』の教えに照らせば、そのような理解に当てはまるものは一つとして存在しないのである。では、なぜ菩薩道を学ぶのか。もし仏法を学ぶ目的が、現世における利益、例えば病を治すことや、自分自身の問題を解決することにあるとするならば、それは大乗仏法とは何の関わりもないのである。

大乗仏法においては、菩薩道を修することがその中心である。しかし、『宝積経』を聞いたからといって、それだけで修行を始めていると思ってはならない。聞くことはあくまで理を理解するにとどまり、実際に修するためには、さらに金剛乗を学ぶ必要がある。多くの人は、毎日経を読誦すること自体が修行であると考えているが、読経は確かに修行の一部ではあるものの、それだけで完成するものではない。法王およびリンポチェは、常にこの点を繰り返し説いている。すなわち、読経・懺悔・礼拝・持咒といった行為は、いずれも修行へと至るための善き因縁を積み重ねる働きにすぎないのである。 

真に修行するとは、輪廻の苦海に堕ちるあらゆる可能性を徹底的に直し、わずかな隙さえ自らに与えないことである。『宝積経』に説かれているすべての教えを、常に心に留め、学び、単にいくつかの大乗経典を読誦したり、菩薩を礼拝したりするだけでは、菩薩道を修していることにはならない。必ず教えに基づき、確かな拠り所をもって実践しなければならないのである。したがって、『宝積経』に説かれる境地に至っていないのであれば、それは決して菩薩とは言えないのである。

仏が『宝積経』において説かれている菩薩のあらゆる境地は、いずれも実際に現れ得るものであり、決して神話ではない。しかし、そのような境地は、仏法を学び始めて数年で到達できるものではない。簡単に言えば、特に高齢の方を除けば、多くの人は教育を受けてきたはずである。幼稚園から始まり、小学校、中学校、高等学校、大学、さらには大学院や博士課程に至るまで、すべてを修了するには二十年近い歳月を要する。仮に博士課程、大学院に進まなかったとしても、幼稚園から大学まででも、およそ二十年は必要であり、それでもなお、人としての基本を学んだに過ぎないのである。

仏法の修行が、一年や二年、あるいは七年、八年程度で成し遂げられると考えること自体が、そもそも現実的ではない。世間の学問でさえ、修得するには二十年近い歳月を要し、しかもそれは人生の最も貴重な青春の時間を費やして行われるものである。なぜそこまで学ぶのかといえば、全世界にはそのような制度があり、学ばなければ社会から必要とされないと見なされるからである。学歴や証明を得ることで、より多くの収入を得る機会が広がる。これは決して否定されるべきことではなく、多くの人がそのように生きている。もしその流れに従わなければ、周囲からは理解されず、時には怪物として見られることさえある。さらには、仏法を学ぶこと自体が迷信であると誤解されることもある。しかし、仏法は決して迷信ではない。

もし「学問が優れていなければ仏法を学ぶことができない」と考えるならば、近年一部で見られる、出家者を博士課程に進学させる風潮は、やや時間の使い方として再考の余地があると言える。仮に出家者が博士でなければ仏法を説く資格がないとするならば、六祖・慧能は文字を解さなかったが、どう説明するのであろうか。また、台湾で広く知られる廣欽老和尚も識字がなく、さらにミラレパ尊者もまた同様である。したがって、読書や学歴はあくまで世間法に属するものである。我々はこの世に生きている以上、社会の価値観に従い、それを必要とされる場面では応じざるを得ないこともある。しかし、そのような事に従事する際には、自らの時間の配分と心の在り方を正しく調整し、「自分は本当に修行しているのか」という点を常に見つめなければならない。『優婆塞戒経』に説かれている通り、在家・出家を問わず、誰もが菩薩道を学び、修することは可能である。ただし、在家の者は悪業に纏われているため、修行はより困難であるとされている。

もし悪業がなければ、この一生に生まれてくることもなく、恋愛をし、結婚し、子どもを持つこともない。これらはすべて悪業の現れである。私自身、あなたたちよりも悪業が重いと言えるかもしれない。何故なら、あなた方の一回の結婚に対し、僕は・・・(会場笑)それは、私の悪業が重いことと、そしてこの一生において自らの業を清算するためにここに来ているということを示しているのである。しかし、生々世々にわたって積み重ねてきた業を清め尽くすことは、単に経を読誦するだけで成し遂げられるものではない。読経とは、あくまで今後さらに修行を続けていくための因縁を積む働きにすぎない。真に重要なのは、それを実際の行いとして確実に実践していくことである。
 
私たちは外見こそ凡夫であるが、内面においては修行者でなければならない。ここでいう修行者とは、自らの輪廻をもたらす行為を改める者のことである。このように決意して実践し始めたとき、過去世において積み重ねてきた悪業の一部は、この一生のうちに、往生する前に清算することが可能となる。業をある程度まで清めることができれば、晩年において極端な苦しみに陥ることは少なくなる。年齢を重ねること自体は避けられないが、その衰えの進み方もまた異なってくるのである。私自身が一つの例である。現在七十九歳であり、まもなく八十歳を迎えるが、この年齢でこのような体力を保っている者は多くはない。少なくともこの道場においては、ほとんど見られないであろう。外と比較する必要はない、この場において見れば明らかである。なぜこのような差が生じるのか。それは修行の有無によるものである。

自らの力で十分に修行できないとしても、何ら問題はない。金剛乗においては、上師の教えに完全に従い、上師に対して百分の百の恭敬の心を持つこと、それ自体が修行であると明確に説かれている。ゆえに、自分の考えに頼ってはならない。なぜなら、我々は凡夫であり、その思考は仏経の本意とは大きく隔たっているからである。また、文字を理解し、その意味を知っているからといって、仏法を理解したと考えてはならない。それは大きな誤りである。仏は衆生を導くため、やむを得ず人間にとって最も扱いやすい手段である「言語」と「文字」を用いて仏法を説かれたのである。人間界を離れれば、畜生道には言語はなく、天界においても言語は用いられない。そこでは他心通によって互いに理解がなされるのである。さらに、仏や菩薩の境地においては、言葉による説明そのものが不要となる。それに対して、私のように二時間にわたって語っても、あなたたちはなお理解できないことがある。(会場笑)したがって、言語とはあくまで方便の一つにすぎない。仏はやむを得ず、これらの教えを文字として記録し、我々が心に留め、進むべき方向を理解できるようにされたのである。 

自ら仏法を学ぼうと決めたのであれば、必ず教えに従わなければならず、自己の考えを優先してはならない。自分の考えは、世間法の範囲において発揮すればよい。例えば仕事や学業、あるいは恋愛といった日常生活の中で用いる分には差し支えない。しかし、修行者として仏法を学ぶ場合には、そのような在り方では通用しない。自らの一歩一歩、また一つ一つの行いが、仏菩薩および上師の教えに背いていないかどうかを、常に明確に観察しなければならない。もしそれに反しているならば、その者は修行者ではなく、ただの信者にすぎないのである。信者であることは、信者ではない者よりは多少の福報を得るという意味では良い面もある。しかし、ただ時間を費やして聞くだけで実践せず、あるいは行っていたとしても願を伴わなければ、その修行は結局のところ無に帰するのである。

『宝積経』は、実際にはあまり多く説かれることのない経典である。なぜなら、その内容は、菩薩としてどのような心構えを持つべきかを極めて具体的に説いているからである。これは、大学を卒業して大学院に進む際に、必ず面接が行われるのと同じである。近年では、大学入試においても面接が重視されるようになっている。面接は形式的な制度でもあるが、最も重要なのは、教授がその人の内面を見て、「本当に学ぶ準備ができているかどうか」を判断する点にある。同様に、仏法を学ぼうとする者も、自分が本当にその準備ができているかどうかを見つめなければならない。もしなお自己の考えに固執しているのであれば、それは仏法を学ぶ準備が整っているとは言えない。なぜなら、そのような思考の多くは欲望に基づいており、上師や仏菩薩に対して、自らの願いや欲望を満たしてもらおうとするものだからである。

寶吉祥道場における仏法の弘揚は、決して世の流れに迎合するものではない。すべては経典に基づき、また私自身が学び実践してきた仏法に依拠しながら、一歩一歩着実にあなたたちを導いているのである。それを受け入れられるかどうか、また実際に学び得るかどうかは、最終的には各人自身にかかっている。在家の者にとって最大の矛盾は、世間生活と修行との間に生じる葛藤である。仕事があり、夫や妻、子どもがいる一方で、仏法を学び、上師を軽んじることもできない。その中で、どのように折り合いをつけるべきかと悩むのである。しかし、その問題は本来、仏法そのものとは関係がない。自ら理解し、自ら調整し、適切に処理すべきものである。にもかかわらず、多くの人は仏菩薩に対して、「配偶者が自分を責めないようにしてほしい」と願う。しかし、それではなぜ「離婚できるようにしてほしい」とは願わないのか。実際には、それを願うことはできないのである。では何を願うべきか。私自身は離婚を求めたことはない。ただ、自分の修行を妨げるあらゆる障碍が自然と遠ざかるようにと願ってきた。すると不思議なことに、それらは一つ一つ、自然に消えていったのである。 

あなたたちは手放すことをせず、しっかりと握りしめている。それは人として見れば決して悪いことではない。たとえリンポチェが現在このような修行の境地に至っていたとしても、我が子に何かあれば、やはり多少の心配は生じる。それはなお凡夫の身を有しているからである。しかし、あなたたちと異なるのは、私は「持ち上げることも、手放すこともできる」という点にある。必要であれば、いつでも執着を離れ、手放すことができるのである。私は2007年に三か月以上の閉関を行ったが、その際には命さえ顧みず、あらゆるものを手放し、ただ一室にこもって修行を続けた。それは、私が「何も求めない」という立場にあるからである。私ははっきりと見ている。自分の身の周りで起こるすべての出来事は、すべて因縁によって生起し、また消滅していくものであり、永遠に続くものではない。あるときには縁が尽きて消え、またあるときには新たな縁が生じる。そのすべては計り知ることはできない。しかし、常に変わらないのは、衆生のために善き縁を結び続けることであり、それこそが私にとって最も重要な務めなのである。

昨日、何人かの帰依弟子が家族のために済度を求めに来たが、私はすべて断った。なぜなら、私の弟子でありながら十数年も父母のために善き因縁を作り続けてこなかったのに、来て求めればリンポチェが頷いてくれると思っているからである。ここは済度で金を稼ぐ道場ではない。もしそれをやろうと思えば、あまりにも簡単である。阿弥陀仏大法会には一度に二万人以上が集まり、一人一人が多くの名前を書く。一人から千元取るまでもなく、五百元でも、一回の法会で十分に利益を得ることができる。それでも私は毎週日曜日にこれほど苦労して説法しているのである。これはつまり、済度があなたたちの想像するようなものではないということである。ひざまずいて涙を流し、供養を差し出せば、リンポチェが済度してくれるというものではない。『地蔵経』には何度も説かれている。どのような人が済度を受けることができるのかを、繰り返し説いているのに、なぜ理解しないのか。なぜ仏が説いた因縁法を壊そうとするのか。なぜこのように一人のリンポチェを踏みにじるのか。あなたたちには父母がいる。私にも父母がいる。年長の世代は皆知っている。かつて私の母は、毎週日曜日に後ろに座って私の話を聞いていたのである。

私の母は、私の広東訛りの国語を理解できなかった。しかし日曜日に私が連れて行かないと、怒ったのである。私の父は道教の出身であり、母も父がとても力のある人であることを知っていたから、簡単に仏法へ転じるとは思えなかった。ではなぜ転じたのか。それは、この息子が仏法を学んだことによって、明らかに変わったのを見たからである。あなたたちはどうか。皆、家に帰ると二言だけ言う。「お母さん、仏法を学びなさい。うちのリンポチェはすごいよ。」親が「いらない」と言えば、「ああ」と言って終わりである。あなたたちが小さいころ、父や母があなたに食事をさせるためにどれほどの力を費やしたか、考えてみなさい。あなたたちの孝順はどこにあるのか。何でもリンポチェに任せてしまう。仏経にはそのようには説かれていない。では私はどうするのか。あなたたちはきっと、「あるリンポチェは引き受けてくれる」と言うだろう。確かにいる。私と縁の深い者が跪いて求めれば、私はすぐに助けることもある。しかし、すでに十数年も帰依しているのだから、私をリンポチェとしてではなく、あなたの良き友人として考えなさい。そして母にこう言いなさい。「私はとても良い友人を知っていて、ずっと助けてもらっている。もっと会ってみないか。」なぜそう言わないのか。親は信じないと思い、リンポチェに叱られるのを恐れ、死んでからになって求めればよいと考えているのである。

このように修行者を踏みにじってはならない。もし金のためであれば、私はそのようにすることもできる。しかし私は金のためではなく、仏法を弘めるために行っているのであり、すべては仏経に基づいている。あなたの父母に得度の縁があるかどうかは、『地蔵経』に明確に説かれている。地蔵菩薩はどのようにしたのか。礼拝して血が出るほど行い、豪邸を売ったではないか。(大衆:はい。)売った後、それを仏に供養し、その後になって初めて母がどの道に生まれたかが告げられたではないか。(大衆:はい。)その後、地蔵菩薩は懸命に修行し、ついには母が仏果を得たではないか。(大衆:はい。)なぜ誰もそれを心に受け止めないのか。あなたたちは地蔵菩薩のように豪邸を売ることも、血が出るまで礼拝することも、倒れるまで行うこともできないのなら、それでもよい。せめて少しでも実行しなさい。

基本的ことすら行わず、毎日食べて、寝て、働いて、トイレに行くだけ、それが人生なのか。それは畜生である。畜生も同じように、毎日寝て、排泄して、食べ物を探しに行き、あなたたちが働くのと同じように、配偶を求める。あなたたちの生活は畜生の生活である。あなたたちは、私があなたたちを罵っていると言ってもよい。私は確かに罵っている。あなたたちは修行しているようには見えない。父母は、あなたが善を修する最も根本的な対象である。あなたを生み、これほど大きな恩を与えてくれたのに、それをこのまま軽く流してしまうのか。私はすでにあなたたちに話したことがある。私の父が亡くなったとき、私はまだ仏法を学んでいなかった。しかし仏法を学んだ後、最初にしたことは、毎日父のために二時間懺悔を行い、彼が天界に至るまで続けたことである。あなたたちはそれを行っているのか。何を泣いているのか。不孝であり、不忠である。

家に父母がいる者は、よく覚えておきなさい。私が「リンポチェに会ったことがあるか」と聞くと、「一度会ったことがあります」と答える。それで一度会っただけで、私があなたに大きな恩を負ったことになるのか。必ずその人の済度をしなければならないのか。私はよくあなたたちに問い返す。父母が病気になったとき、医者には一度しか行かないのか。少なくとも一か月に一度は行くであろう。一生のうちにリンポチェに一度しか会わず、しかも帰依して十九年で一度だけ、それでリンポチェを利用しているのではないか。それでもよいというなら、地蔵菩薩のように豪邸を売って供養しなさい。それでも私は受け取らないが、どうするのか。叱っても聞かず、言っても動かない。もし今日、私が本尊に誓願を立てていなければ、このリンポチェという存在はすぐにでもやめてしまってもよいほどである。皆が言うことを聞かないのだから。

昨日、ある弟子が面会を求めてきた。母親が亡くなり、亡くなる前は癌であった。私は彼を叩いた。なぜか。私がどれほどのことができるか分かっていながら、癌の患者が私に会いさえすれば、必ず晩年に苦しまずにいられることは、皆知っているではないか。(大衆:はい。)皆はよく分かっているのに、彼だけは分かっていなかった。母親を毎日病床に寝かせたまま亡くなるまで放置し、その後になって済度を求めに来たのである。このような人は孝順と言えるのか。医者や親戚に任せて、「親戚は看護師だから世話ができる」と言っていた。むしろ仏菩薩に祈って、自分の晩年が自分の父母のような死に方にならないように願うべきである。なぜなら、そのような因果を自ら作っているからである。

私にも父母がいるし、あなたたちにも父母がいる。私は17歳のときに父が亡くなった。その後、母を台湾に連れて来た。母はいかなる手術も受けず、メスを入れられることなく、とても安らかに亡くなった。実際には多くの病を抱えていた。胆嚢は摘出され、子宮に腫瘍があり、胃下垂で、心臓も良くなかった。若い頃に多くの殺生をしていたためであり、息子が修行することによってそれに応じたのである。あなたたちは自分で修行することができないのであれば、少なくとも父母のために絶えず善き因縁を作らなければならない。必ずしも私に会わせる必要はない。私は土曜日にここにいるのだから、私に礼をするだけでも意味がある。なぜそこまで怠けるのか。それは一つのことを示している。あなたは仏法を学んだ後も変わっていないということであり、家族は仏法があなたにとって役に立っているとは感じていない。そのため自然に、父母にとっても役に立たないと思われてしまう。仏法を学んで変わらないということは、学んでいないのと同じである。

家族こそが、あなたの欠点や、家の中で受け入れられない部分を最もよく知っている。そのため、私はそれらを改めたのである。何度言っても、あなたたちは言うことを聞かない。私はとても悲しい。しかし悲しいのは、あなたたちが言うことを聞かないからではない。あなたたちは本来、父母のために善き因縁を作り、晩年や往生の後に済度を受ける機会を与えることができるのに、それをしようとしないからである。どうしてこれほどまでに頑ななのか。不孝である。もしこれまでに一度も聞いたことがなかったのであれば、このような行いも理解できる。しかし私はすでにこれほどはっきりと話しているのである。

経典曰く「又於佛剎平等入解而使現前清淨。是為方便」

顕教ではよく「心清浄なれば仏土も清浄なり」と説かれる。あなたたちはこの言葉を好んで口にするが、実際にできているのか。出家弟子は何十年も帰依しているが、日々信衆に対して「心清浄なれば仏土も清浄なり」と語っているのではないか。そうではないか。(出家衆:そのように言っていますが、実際にはできていません。)なぜできないのか。仏が誤ったことを説くはずがない。この言葉はまさに「心清浄なれば仏土も清浄なり」という意味である。では、なぜできないのか。それは、これは理論であって、あなたたちにはその方法がないからである。

密教には方法がある。なぜ修法を学ぶたびに、生起次第と円満次第があるのか。なぜ修法の前に観空の真言を唱えるのか。それは清浄にするためである。そうすれば、自然に観想によって現れる仏土は清浄となり、自然に相応するのである。分かったか。(出家衆:分かりました。)本当に分かったのか、それとも分かっていないのか。(出家衆:分かりました。)本当に分かったのか、それとも表面的なのか。(出家衆:本当に分かりました。)では、どこが本当に分かったのか。(出家衆:本当に分かるというのは、リンポチェのように修証して空性に入ってこそ分かるということです。)はあ……これ以上は無理に問わないことにする。

例えば不共四加行を修する際には、まず帰依境を観想する必要がある。なぜなら、帰依境そのものが清浄であるからである。この帰依境を明確に観想したとき、その周囲のすべては自然に清浄な仏土として現れる。そこには雑念も妄念もなく、戒を破るような想いも生じない状態となる。ゆえに、修行の最初に帰依境を観想するのである。帰依境とは、すなわち仏土にほかならない。この観想が明瞭に確立された後に、大礼拝を行って初めて、その修行は真の効果を生じる。もし単にこの地球において大礼拝を行ったとしても、たとえ一億回、十億回行ったとしても、それだけでは十分な効果は得られない。なぜなら、この世界は五濁悪世であるからである。では、この五濁悪世をいかにして清浄な仏土へと転じるのか。それは、阿弥陀仏のもとへ移動することでもなければ、阿弥陀仏が仏祖を連れてきてこちらに現れることでもない。ただ、自らの心を清浄にすることである。いわゆる「清浄」とは、真言や祈願文によって、貪・瞋・痴・慢・疑といったものをただちに止息させることである。これらが止んだとき、そこに現れる観想は自然に清浄となり、そのとき仏土は現前するのである。

例えばリンポチェが人のためにポワを修する場合、私は阿弥陀仏の浄土をここに持って来たのか。持って来ていない。例えば私が施身法を修するとき、浄土を持って来たのか。持って来ていない。それは、私自身が完全に清浄な境地の中にあり、観想の力によって、すべての衆生に対して清浄な仏刹を見せているのであって、五濁悪世のこの地球にいるのではない。この清浄な仏刹に入ってきてはじめて、衆生は済度を受けることができるのである。つまり、もし今日あなたが仏法を学び、人を助けたいと思うのであれば、ただ数句の経を唱えるだけでできるものではない。灌頂や閉関、生起次第と円満次第の修行を経ていなければ、衆生を助ける能力を持つことは不可能である。

したがって、この一文は多くの人が説明できない。なぜなら密教の修行に至っていないからであり、密教を修すればその意味が分かるのである。いわゆる清浄とは、仏土は本来必ず清浄であるが、この五濁悪世において仏土をそのまま持って来ることは不可能である。ただし釈迦牟尼仏のような大いなる神通力があれば、その弟を天界に連れて行って見せたり、地獄を見せたりすることはできる。そのため密教では、生起次第と円満次第を用いることを教えているのである。また法本にもはっきりと説かれている。もし上師から伝えられた通りに、生起次第と円満次第によってこの本尊を修し、この一生において成就できなかったとすれば、それは金剛総持が虚言を述べたことになる、ということである。

なぜあなたたちに「言うことを聞かないな」と言うのか。なぜ尊重するよう教えるのか。それは私のためではない。私はそのような表面的な尊重を必要としていない。重要なのは、あなたが尊重することによって、心が清浄になり、上師の清浄な心と結び合わさるという点である。そうして観想も清浄となり、その後、仏刹が現前するのである。あなたには見えないが、衆生には見える。そのため、あなたが持する真言を、衆生は聞きに来るのである。『地蔵経』にもはっきりと説かれている。もし三年間続けて地蔵菩薩の聖号を念じ、毎日一万遍を続ければ、三年後には周囲のすべての善なる鬼神がその家を守るようになる。その道理は何か。それは、あなたが念じ続けることによって家が清浄となり、地蔵菩薩が絶えず加持しているからである。今これを簡単に言えば、あなたがリンポチェの門下に帰依し、言うことを聞き、戒を守り、三十七頌を実践し続け、リンポチェから灌頂を受け、さらに閉関の機会を得たならば、あなたの修行は清浄となる。そうなれば、自然にその家は善なる鬼神に守られるようになり、三年も念じ続ける必要はなくなるのである。

なぜ私たちは金剛乗を速成の道というのか。それは、その法門が顕教よりも速いからである。異なるものではなく、道理は同じであり、ただ方法がより速いだけである。したがって、金剛乗を学ぼうとする者は、もし菩薩道を学ぶ準備がなく、菩薩道の理論を受け入れておらず、またそれを実践する意思もないのであれば、おとなしく戒を守り、三十七頌を修し、アキ護法を修すればそれで十分である。不共四加行を修しようなどと妄想してはならない。例えば現在、不共四加行の上師相応法について、私は中間の一部分だけを伝えており、後ろにはまだ多くの部分が伝えられていない。それは、あなたたちにはまだその資格がないからである。多くの人はこれを厳しすぎると感じるが、厳しいのではない。釈迦牟尼仏は『宝積経』の中で、この根器がなければ、大乗の経典すら見せてはならず、その経典の名すら教えてはならないと説いている。そのため、多くの人は密教に対して好奇心を持ち、非常にすごいものだと思っている。確かにすごい。それは一人の人生を完全に変えることができるからである。しかし心は絶対に正しくなければならず、少しでも歪んではならない。したがって、今日のこの二つの句は非常に明確である。「又於佛剎平等入解而使現前清淨。是為方便。」これもまた方便法である。私たちが修法の前に行う観想の前行であれ、正行であれ、すべては方便法なのである。 

経典曰く「念彼剎土如虛空等。是為智慧。」

これが円満次第である。私たちが生起次第を修し終え、真言を唱え終わった後、必ず観空を行わなければならない。まさにこの一文である。虚空とは、すべての現象が固定不変ではなく、常に変化しているということである。すべての仏の刹土は、ただ仏がある衆生の願に応じて、その衆生のために観想して現したものである。この刹土は必ずしも永遠に存在するものではない。もしすべての衆生の願が満たされれば、その刹土は消えてしまうこともあり得る。したがって、私たちが密教を学ぶとき、最後には必ず観空を行わなければならない。観空とは「何もない」ということではない。十方法界におけるあらゆる人・事・物、すべての法の本来の姿が空であることを理解することである。とは無ではなく、因縁によって生じ、因縁によって滅するということである。因縁が整えば現れ、整わなければ消えていく。ゆえに、仏経に説かれていることは、決してあなたたちが考えているようなものではない。「念彼剎土如虛空等」とは、この意味である。いくら口が擦り切れるほどに唱えても、この一文の意味を理解できなければ、何も分かっていないのである。

したがって、顕教は体であり、密教は用である。体を学んでも、それをどのように用いるかを知らなければ、永遠に修行は成就しない。現在でもそのような弟子がいる。それでも構わない。あなたもいずれは仏になる。しかしそれには三大阿僧祇劫を要する。すなわち、この地球が成・住・壊・空を一巡するほどの時間が過ぎても、まだ仏にはなっていないのである。多くの人は怠惰であり、「待っていても構わない」と考える。仏経には、いつか必ず仏になると説かれているからである。しかしミラレパ尊者はこう言っている。輪廻の中にある限り、必ずどこかの生で地獄に堕ちると。彼は真の大成就者であり、大修行者である。

私は彼のところへ行って閉関したが、彼は本当にすごく、決して普通の修行者ではない。閉関を終えた後、法王は「明日、上へ行く」と言った。私が閉関していた場所は標高4600メートルで、その上にはさらに5000メートルを超える洞窟があった。私はもう歩けない状態だったが、法王は翌日「行こう、行こう」と言って、私を連れて上がっていった。その洞窟の中には小さな仏龕があり、ミラレパ尊者がその洞窟の上部に二つの足跡と二つの手形を残していた。その洞窟の高さはどれほどかというと、例えば私がこの法座の上に立っても、まだ届かないほどである。では、どうやってそこまで飛び上がって踏んだのか、私たちには分からない。しかし密教ではよく言われている。本当に空性を証悟した修行者は、岩の上に手形や足跡を残すことができると。また、タンカの中に二つの手形や二つの足跡が描かれていることがあるが、それはそのタンカがかつて空性を証悟した修行者によって触れられたことを意味しているのである。

したがって、「彼剎土如虛空等」とは、すべての仏土が虚空と同じであるという意味である。これを「是為智慧」という。このようであってこそ、真に智慧を備えた修行者なのである。 

経典曰く「又念於菩提道場平等入解而使現前莊嚴。是為方便。」

念を菩提道に置くとは、すなわち菩提の修行の道の上に心を置くことである。道場とは、この道場のことであり、小乗を修する場所ではなく、大乗・菩薩乗・菩提道を修する場所である。したがって、この道場は菩提道を主とする。「平等入解」とは、常に説いている通り、平等とは分別心がないことである。入解とは、輪廻を解き開く方法に入ることである。そして現前において荘厳が現れる。ゆえに、真に菩提道を修する道場や仏寺においては、荘厳は自然に現れるのである。例えば、多くの人が私の仏寺に参拝に来ると、入った瞬間にまず感じるのは荘厳さである。それは仏像が高いからでも、仏寺が大きいからでもない。リンポチェが菩提道を修しているからであり、そこが菩提道場であるために、荘厳が現れるのである。では、なぜ香りを感じるのか。それは私の修行によって、その場に香りが現れ、衆生がそれを嗅いだときに仏法を学ぶ状態へと入るためであり、身体を良くするためではない。

経典曰く「又念彼止息或諸染法。是為智慧。」

念の中において、「止息或諸染法。」である。ここでいう「染」とは、貪・瞋・痴・慢・疑が、私たちのあらゆる行為や思考、さらには仏法の学びにまで影響を与え、汚していることである。これを止めなければならない。「息」とは、それらを停止させ、そのような思いを二度と起こさせないという意味である。「或諸染法」とは、すなわち、あらゆる染法において、わずかな汚れすらあってはならない。例えば昨日、数人の弟子が済度を求めに来た。私はお金を受け取り、「済度をしてあげる」と言うこともできた。彼らは実際に済度されたかどうか分かるのか。しかし私にとっては、それは染法である。なぜか。亡者にはそもそも済度を受ける資格がなく、求めに来た者も本来の求め方をしていない。その状態で供養を受け取り、済度してあげる」と言えば、それは貪念が起こっているということである。先に受け取ってから考えることもできるが、私はそれをしない。仏がそう説いているからである。菩薩道を修する者は、そのようなことをしない。あなたは厳しくあってもよい。人に誤解され、嫌われてもよい。しかし金銭のために自らを汚してはならない。どれほど泣き崩れようとも、受け入れてはならない。昨日も私の前で多くの者が演技をしていた。本当に泣いているようであった。しかしいくら泣いても無意味である。リンポチェは如如として動じない。私はすでに79歳であり、人の涙を見たことがないわけがない。なぜ動じないのか。それは私は汚染されないからである。私は全体の状況を見て、その人を助けることができるかどうかを判断する。もし助けることができなければ、いくつかの因縁を作り、それを受け入れるかどうかを見る。受け入れれば当然機会はある。受け入れなければ、次の生に任せるしかない。

もし今日、私が済度のために安易に引き受けていたなら、私は簡単に大金を得ることができる。阿弥陀仏大法会だけで大きな利益を得ることができるのである。では、なぜ阿弥陀仏大法会には誰でも参加できるのか。第一に、それが無遮の大法会であるからである。第二に、それは阿弥陀仏の大いなる願力によるものである。第三に、大法会を修する前に、私は少なくとも三日間の閉関を行う必要がある。第四に、修法を開始する前の少なくとも一か月の間、多くの直貢の寺院が私のために護法の修法を行っている。なぜなら、衆生の業力があまりにも重く、私が無理に済度しようとすれば、一人の凡夫の身でそれをどうして担うことができるのかという問題があるからである。したがって、普段来ない者が済度を求めるのであれば、阿弥陀仏大法会が開催される機会を待たなければならない。もちろん、私はすでに年を重ねており、大法会を行うのは非常に疲れる。以前のようにはいかないのである。

つまり、あなたが済度を求めるのであれば、あらかじめ父母のために準備をしなければならず、同時に自分自身の準備もしなければならないということである。昨日亡くなって、今日リンポチェに求めるというようなものではない。それでは意味がない。私は汚染を受けないからである。昨日はどれほどの供養を返したのか。(出家衆:ご報告いたします、昨日は少なくとも150万を返しました。)なぜ供養を返したのか。それは私は汚染を受けないからである。受け取ってから考えることもできたし、「まだ足りない」と言うこともできた。しかしそれは仏経に背く行為である。菩薩道を修する者はそのようなことをしてはならない。私はむしろ人に罵られ、恨まれ、嫌われても構わない。それでも自分を汚すことはできない。なぜなら、彼らが私を恨み、嫌い、罵ることは問題ではなく、それは縁を結ぶことになるからであり、将来に繋がるからである。しかしもし汚染されてしまえば、将来において衆生を助ける能力や修行の力が減じてしまう。そのようなことは決してしないのである。

この一文は、私は今日になって初めて目にした。私はずっとこのようにやってきたのではないか。(大衆:はい。)だからこそ、あなたたちは本当に運が悪い、私の門下に帰依したのだから。私はあまりにも仏経に説かれている言葉を重視している。私はこの言葉を言わないこともできるし、隠すこともできるし、さらにはこのようにあなたたちに説明しないこともできる。だから、どれほど求められても、私は供養を受け取らないことがある。なぜなら、相手が正しくないのに供養を受け取れば、その人に対して多くの責任を負うことになるからである。私はまだ多くの衆生を度さなければならず、また多くの仏法の事業を行わなければならない。わずかな供養のために、自らの清浄な本性を汚すことは、まったく価値がない。したがって、よく心に留めなさい。リンポチェは慈悲であるから、何を言っても受け入れてくれるなどと思ってはならない。

経典曰く「若於轉法輪中平等入解而能普應機緣。是為方便。」

而能普應機緣」とは、先ほど私が述べたのと同じであり、衆生それぞれの(動機の機)と因縁に応じて、広く相応することができるという意味である。昨日も私はずっとこれを実践していた。そうではないか。(出家衆:はい。衆生の求めに応じ、それぞれ異なる因縁に応じて、あるいは助けを与え、あるいは拒み、あるいは叱責し、あるいは打ち、あるいは善意の微笑で受け入れていました。)これを「是為方便」という。したがって、今後はリンポチェがどうこうだと論じてはならない。すでに仏経に説かれていることである。

ちょうど法王の60歳の誕生日の時、私は500人の弟子を連れてインドへ行き、法王の誕生をお祝いした。そのとき私たちは上に座り、弟子たちがいくつかの出し物をして法王に供養しているのを見ていた。法王と噶千リンポチェは、現在、我々直貢噶舉の中で最も年長のリンポチェである。そのお二人が私の前に座り、私は後ろに座っていたが、なんとそのお二人が中国語で話し始めた。法王の中国語は私より少し標準的だが、使える語彙は多くない。噶千リンポチェの中国語はほとんど聞き取れないほどである。しかしその二人が中国語で何を話していたかというと、法王が私を指さして、「この私の弟子は、弟子を叩いたり、叱ったりする」と言った。すると噶千リンポチェは、「それは慈悲ではない」と言った。すると法王は続けて、「それこそが本当の慈悲だ。我々の伝統的な教え方だ」と言った。(参考:貴重な映像「直貢チェツァン法王が厳格な教えを肯定する」)だから私は弟子を叩く許可をもらったことになる(大衆笑)。法王が公の場で、私の前でそう言ったのである。普通の人なら、直接「許可がある」と言うだろうが、我々学仏する者はすべて機を観て教えを施すのであり、その場の状況に応じて語るのである。本来であればあのお二人はチベット語で話すべきであったが、私が聞き取れないのを恐れて、あえて自分たちがあまり得意でない言語で話したのである。あなたたちはいつも「リンポチェは厳しい」と言っているが、これは厳しいのではない。ここまで話してきて、根拠はあるか。(大衆:あります。)それは仏が教えたものか。(大衆:そうです。)

私はまだこの経典を講じる前から、このように行ってきた。これまで一度も、事前に開いて今日何を話すか準備したことはない。すべてその場で開いて話している。決してあなたたちに嘘をついているのではない。つまり、リンポチェはこの一生で学んだのではなく、過去世においてすでに修し、見てきたものがあるからこそ、この一生でそれができているのである。すでにできている以上、あなたたちは信じなければならない。「仏経には書かれていない」などと言ってはならない。今日すべて説かれた。そしてちょうど昨日、私が行ったことと一致しているではないか。そうではないか。(大衆:はい。)出家弟子はどうだ、そうか。(出家弟子:はい。)何が「はい」なのか。(出家弟子:衆生の因縁に応じて助けを与えることです。)なぜ「私は一切の汚染を受けない」と言わないのか。(出家弟子:リンポチェは自分の利益のために仏法に反することをしないからです。)

したがって、一人の修行者は、あなたたちが思っているように、いつも穏やかで優しい態度で接する存在では決してない。また、耳に心地よい言葉を語る存在でもないし、慈悲であるからといって、毎日笑顔であなたに向き合うようなものでもない。仏経に基づけば、すべてそうではないのである。なぜなら、あなたの根器がそのような方法に適していないからであり、そのため別の方法を用いて助けるのである。もし本当に仏法を学ぼうと決心したならば、これまで受け入れることのできなかった多くの事柄に向き合わなければならない。自分の驕りの心を試され、自我の観念を試され、いわゆる自分の知識ややり方(Know-how)も試される。修行者はそれらを絶えず揺さぶり、打ち破ろうとするのである。たとえ何十年も同じように生きてきて、自分ではそれでうまくいっていると思っていたとしても、それは凡夫としての「うまくいっている」に過ぎない。修行者の立場から見れば、それは汚染されている可能性があり、誤っている可能性があり、方法を間違えている可能性がある。だからこそ、それを打ち破るのである。

打ち破るというのは、その方法をそのまま続けていったらどうなるのかを理解させるためである。この方法は調整することができ、同じように使うことはできるが、心が変わればこそ使えるのである。では、どのように違うのか。例えば釈迦牟尼仏は、かつてある生において、五百人の羅漢を救うために、その船頭を殺したことがある。なぜなら、その船頭はその船を沈めて五百人の羅漢を殺し、その持ち物を奪おうとしていたからである。道理からすれば、修行者が菩薩道を修しているのに、なぜ人を殺すのか、あってはならないことのはずである。しかしその船頭を殺したのは、釈迦牟尼仏がその者を地獄に堕ちさせないためであり、同時に五百人の羅漢を救うためでもあった。心が正しければ、この行為は行うことができるのである。

例えば経典の中に、阿難尊者についての話がある。出家者は夜に在家の人の家に泊まってはならないという戒があるか。(出家弟子:あります。)リンポチェは出家衆に言う。あなたたちは今はすでに破っている。阿難尊者はある王妃に仏法を説き、夜はその場に留まった。本来であれば戒を破ったと言うこともできるが、彼は非常に清浄で、禅定に入りながら仏法を説いていたため、戒を破ったことにはならない。戒を破ったかどうかは、あなたたちが考えるようなものではなく、上師が見て判断するものである。なぜなら上師は戒を守っている者であり、何が破戒であり、何が開戒であり、何が犯戒であるかをはっきりと理解しているからである。ある場合には、あなたの心が正しいと見て、その行為を行うことが許されることもある。ここでいう「許される」とは、それが正しいという意味ではなく、方便のためにその行為を行うことができるという意味である。しかしそれは正しいことを意味するものではなく、決して確定的なものでもない。

例えば、私たちの仏寺には赤いアリがいる。あなたたちは火蟻に刺されると大変なことになるのを知っているだろう。だから私は彼らに、薄めた漂白剤を散布して、近づかせないようにと指示した。もし参拝に来た人や出家者、あるいは私が刺されたら、そのアリの罪は重くなるからである。散布すれば、アリは来なくなる。本来、殺生はしてはならないはずであるが、これは殺生には当たらない。なぜなら、それによって彼らが悪業を作ることを防いでいるからである。例えば、私たちの仏寺にはよく毒蛇が現れる。私は何度も繰り返し、打つな、追い払うな、そのままにしておけと指示している。毒蛇が来るのは、そこに多くのカエルがいて、食べに来るからである。もし打ったり殺したりすれば、それはその蛇を殺すことになる。蛇がカエルを食べるのは、彼らの間の因縁である。もしカエルに食べられる因縁がなければ、決して見つかることはない。最近、ひとつの新しい出来事があった。観音殿の近くで、多くのアマガエルが自然に死んでいたのである。蛇に食べられることなく、死んでしまった。現在、仏寺では昆虫や動物が死んでいるのを見つけた場合、すべて集めて北門の外の土地に埋めるよう指示している。そして私の真言を聞かせ、彼らを済度している。 

したがって、仏法は必ずしも一つの形に限定されるものではない。最も重要なのは、あなたの心、あなたの心の在り方、そして出発点である。英語でいうところのMotivation、すなわち中国語でいう動機がどこにあるかである。その動機が衆生を助けることであるならば、その方法は用いることができる。例えば飛行機の中で、外道を信じている人に対して、私は「あなたの主があなたを助けてくれる」と言った。道理からすれば、私はリンポチェであるのに、どうして他人の神について語るのかとなる。戒律の面から見れば適切ではない。しかし、私は彼女が苦しまないようにしたかったのである。観音菩薩のことを話しても、彼女には理解できず、「なぜ」「誰」「何なのか」と問い返してくるだろう。そこで私は「あなたの主」と言ったのである。そうすると彼女はそれ以上言えなくなり、すぐに静かになった。我々が仏法を学ぶ目的は、衆生の苦しみを取り除くことである。そのための方法は、心が相手のためである限り、時には強い手段を用いることもあり得る。例えば昨日、私は一人の男性の弟子を叩いた。それは彼が不孝であったからであり、その業を軽くするためである。もし叩かなければ、その業はますます重くなるからである。したがって、仏経の中には修行に関する多くの教えが説かれているのである。

経典曰く「又念彼轉無所轉。是為智慧。」

この一文の意味は、私たちが菩薩道を修する者として、他人の業力を直接転じることはできないが、その人に方法を教え、自分自身でそれを転じさせるよう導くことはできるということである。例えば、一日に何回か大礼拝を行うように教えることが、それに当たる。なぜなら、私はその人本人ではなく、その人の母親の子でもないので、代わりに行うことはできないからである。本人に行わせなければならない。では「無所転」とは何を意味するのか。それは、私はその人を助け、業力を転じる方法を教えることはできるが、実際に転じるのはその人自身であり、私が代わって転じることはないという意味である。釈迦牟尼仏でさえ、衆生の業を直接転じることはできない。衆生自身が転じなければならないのである。では、なぜ仏法を学ぶのか。それは、仏法を学ぶことによって、次第に思惟し、聞法を通して、自分自身のどこを調整し、改め、さらには転じるべきかを理解するためである。そしてそれを実際に行うのは、自分自身である。仏菩薩が因果を消し去ってくれることは決してない。すべては自ら行うべきものである。

私たちは外道ではない。香を持って拝み、加護を求めて良い生活を得ようとするものではない。もちろん、諸仏菩薩やいかなる上師も、あなたに良い因縁を作り、仏法を聞き続ける機会を与えてくれる。そのため、物事は次第に良い方向へと変わっていく。しかし「無所転」とは、実際には何も転じていないという意味である。なぜなら、あなたはただ本来してはならないことを止めただけであり、過去に行った良くない行為によって生じた力は、徐々に減少していくだけだからである。現在、善を行うことによって、その善の力が悪の力を止めることができる。さらに善の力が大きくなり、悪の力の十倍以上になれば、それを抑え込み、動かなくさせることができるのである。

経典曰く「乃至菩提分行平等入解而能現前捨離。是為方便。」
 
菩提分行を用い、菩提心と菩提道によって一切の修行の方法を分別していくとき、はじめて平等に入解し、輪廻を解き開くことができ、そして現前捨離することができる。そのとき、何を捨てるべきか、何を離れるべきかを知ることができるのである。この「捨離」には、在世のときにおいて、物事に対してどのように捨て、どのように離れるかという加減の問題も含まれる。また、往生のときにおいて、この一生の身体や、あらゆる眷属などからどのように離れるかということも含まれている。「現前捨離」とは、この一生において菩提を学び、菩提道と菩提心によって修行の行為を分別し、平等にこの解門(輪廻を解き開く門)に入るとき、ただちに何がであり、何がであるかを理解し、執着しなくなるという意味である。私たちにこれほど多くの煩悩や苦しみがあるのは、執着し、手放せず、離れようとしないからである。往生のときになると、それは大きな苦しみとなる。離れることができず、執着の心が起こると、あらゆる煩悩がそれに伴って生じ、非常に苦しくなるのである。

経典曰く「乃至念彼於一切法而非相應及諸隨惑。以如來智慧禪定妙樂無諸熱惱。」

つまり、正統な仏の教える禅定を修するならば、この妙楽は言葉では表現できないものである。私たちは禅を修することによって大いなる楽を得ることができ、この大楽はすべての煩悩を抑えることができる。先ほど述べたばかりであるが、今この一文によってそれが証明されている。妙楽がなければ、煩悩を抑えることはできず、煩悩を消すこともできない。この意味は、一切の法、すなわちあなたが考えていること、現前に現れているすべての事柄は、何かと相応しているから生じているのではないということである。「及諸隨惑」とは、あなたのに随って生じるあらゆる現象を指す。ここでいうとは、物事をはっきり理解できない状態から生じるものであり、それによって「自分が傷つけられている」「自分にとって良くない」「得られない」「求めても得られない」と思い込むのである。しかしこれらはすべてあなたの惑であり、すなわち貪・瞋・痴・慢・疑が起こった結果である。もし如来の智慧と禅定、そして妙楽に到達することができれば、一切の煩悩はなくなるのである。ここでいう「なくなる」とは消滅するという意味ではなく、禅定の智慧によって貪・瞋・痴・慢・疑が抑えられ、作用しなくなるため、結果として煩悩が存在しない状態になるということである。

なぜリンポチェは三か月以上の閉関ができるのか。人に会わず、言葉も発しない。それは禅定によるものである。禅定は、私の煩悩やあらゆる熱悩を消し去り、起こさせず、さらに清浄な境地、清浄な定力の中で絶えず修行を続けることを可能にする。これは決して一朝一夕でできるものでもなく、口先の標語で成し遂げられるものでもない。修行と上師の加持によってはじめて成し遂げられるのである。今回三十人を閉関に連れて行ったが、彼らが閉関できたのは、自分たちが優れているからではなく、上師の加持力によるものである。上師は彼らの煩悩を一時的に止めさせ、仏法を学ぶ過程において、自分が正しく行っているのか、誤った道を進んでいるのかを改めて見直させるのである。そして自分自身の本当の姿をはっきりと見ることができるようにするのである。

経典曰く「於相無相一切攀緣降伏悉皆了知。」
 
「於相」とは、あなたが「見えている」と思うことであり、「無相」とは、あなたが「もうない」と思うことである。一切の攀縁を降伏する。修行者はむやみに攀縁することはない。例えば、あなたたちは長年私についてきているが、なぜリンポチェはテレビに出ず、宣伝のためのウェブサイトも作らず、法会で話した内容を書くだけで、他には何もしないのか。それはこれらがすべて攀縁だからである。修行者は衆生のために善き因縁を作ることができるが、衆生の因縁に応じて助けを与えるべきであり、自らの因縁に応じて修行しなければならない。もし因縁が良くなければ、自ら努力して改め、善を行うのであって、そのような縁を求めて攀じることはしない。例えば、私は数十年修行してきたが、どこかに良いものがあると聞けば行ってみようとか、どこかで講演があるから参加して名を上げようなどとは考えない。そのようなことはすべて攀縁である。

攀縁しないことを実践するのは容易ではない。なぜなら、多くの人は自分に名声がないことを恐れ、弟子がいなければどうやって生きていくのかと考えるからである。そこで攀縁してしまう。何とか功徳会の会長だとか、今はさまざまな「長」があり、さらにいろいろな肩書の「人」がいるが、これらはすべて攀縁の法である。一人の修行者が、もし過去世からこの世に至るまで如法に修行していれば、自然に眷属は円満となり、弟子は現れてくる。そして追い払おうとしても、追い払うことはできない。あなたたちも、どれだけ追い払おうとしても去らない。私は何百人も追い払ったが、それでもなお千人ほどが残っている。本当に大変である。

攀縁というのは、人と知り合うなということでもなく、誰とも接触するなということでもない。その意味ではない。自分にとって都合の良い機会を無理に作り出そうとしないということである。世間法においてお金を稼ぐことはもちろん問題ない。しかし出世間法はそれとは異なる。では、電話をして人を法会に来させることは攀縁なのか。それは攀縁ではない。なぜなら、法会を行っているのはあなたではない。誰が行っているのか。私である。あなたはただ衆生に善き縁を結ばせ、その人にリンポチェと縁を結ぶ因縁があるかどうかを見る手助けをしているに過ぎない。これは攀縁ではない。リンポチェが攀縁するなと言ったからといって、電話もしない、人に話もしない、人をリンポチェの店に紹介もしないなどと言ってはならない。でたらめを言うな。それは「怠けの縁」である。(大衆笑)あなたたちは私の言葉をうまく利用して、いろいろな理由を作るのである。 

経典曰く「彼一切菩薩摩訶薩定非定位。以善出離。如是相應。是為智慧。」

この一文は、あなたたちに説明するのがとても難しい。すなわち、一切の大菩薩は「定非定位」という状態にある。常に定の中にあるが、どこか一つの場所に定まっているわけではない。「以善出離」とは、この世を離れることは、自らが修してきたあらゆる善法によって出離するという意味である。では、どこから出離するのか。一つは輪廻の世界から、もう一つは凡夫の身から、さらにもう一つは、あらゆる修した善法によって引き留められる在り方から離れるということである。したがって、そのすべては以善出離するのであり、今日どのような行為をしたとしても、その最終的な結論はすべて善に帰するのである。例えば、私がこの弟子を叩いたのは、その者のためであり、私自身のためではない。私は叩かずに、「あなたはこんなに孝順なのだから、母のために供養し、済度を求めなさい。もっと供養しなさい」と言うこともできた。そのようなやり方も聞いたことがあり、理解もしている。しかし、それを用いることはできない。これを「如是相應。是為智慧。」といい、すなわち、以善出離、それに相応することこそが、真の智慧なのである。

経典曰く「而諸菩薩摩訶薩獲得無盡禪定波羅蜜多。諸有魔事皆不得便。」
 
すなわち、あなたが禅定波羅蜜多を証したとき、あらゆる魔の働きは、いかなる方便をもってしてもあなたを傷つけることができなくなるということである。例えば今回の閉関において、本来であれば必ず魔が現れるはずである。ここでいう魔とは、彼らの累世にわたる冤親債主であり、また内なる心の魔や外からの魔である。しかし、なぜ彼らは傷つけられなかったのか。一人として風邪を引いた者もおらず、何か問題が起きた者もいなかった。それは禅定の智慧によって守られていたからである。あらゆる魔の働きは、もはやいかなる手段によっても、あなたを傷つけることができないのである。

経典曰く「得善安住諸佛法器。」

あなたは善なる安住を得る。それは禅定を通してである。ここで禅定についてもう一度説明するが、必ずしも毎日何時間も座禅を組まなければ禅定が生じるというものではない。禅定の最も簡単で要点を押さえた説明は、すでに空性を体得し、心に雑乱な思いがなく、毎分毎秒が定の境地の中にあり、行うすべての行為が定の中にある状態である。このとき禅定が生じているのである。もちろん、これは一日や二日で現れるものではなく、多くの修行を経てはじめて得られるものである。この禅定を得ることによって、あらゆる魔があなたを傷つけることができなくなり、その後に善法を得る。「安住諸佛法器」とは、「諸仏の法器として安住する」である。どういう意味か。、私たちが衆生を助けるために、仏を助け、その願を満たす存在となることであり、その結果として仏の法器の一つとなるということである。仏の法器となるためには、少なくとも菩薩でなければならない。そのため、私たちは法本の中で常に発願する。「為利眾生願成佛」と。なぜなら、私たちは仏の法器となるために、この願を必ず発さなければならないからである。

経典曰く「舍利子。如是所說智慧。方便。彼菩薩摩訶薩於禪定波羅蜜多而能出離。」
 
この輪廻の世界から出離しようとするならば、必ず禅定波羅蜜多を得なければならない。禅定波羅蜜多を得るために、必ずしも座禅をしなければならないわけではない。真言を持すること、仏を礼拝すること、上師に対して恭敬の心を持つことでもよい。例えば多くの高齢弟子は、リンポチェに対する恭敬によって、それが一種の禅定波羅蜜多となっている。そのため、多くの高齢弟子は臨終の前にその時を知り、死の時を予知することができる。亡くなる前も苦しみがなく、さらにその前にポワ法を求めることができる。他の修行はしていなくても、ただ二つのこと——上師を信じ、恭敬すること——それだけである。他に何の思いもなく、心が清浄であるために、それを得ることができるのである。仏法はそれほど複雑なものではない。複雑なのはあなたたちの心である。それをあまりにも複雑にしてはならない。しかしリンポチェは多くを語っているではないか。もちろん多く語らなければならない。なぜならあなたたちが複雑だからである。もしあなたたちが単純であれば、ちょうど大迦葉尊者のように、釈迦牟尼仏が一輪の花を手に取って示したとき、拈華微笑によって悟りを得ることができるのである。彼らは単純であったから、花一輪で悟ることができた。しかしあなたたちは、金の延べ棒を渡されても悟ることはできないのである。(大衆笑)ああ、どうしようもないことである。

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2026 年 04 月 17 日 更新