尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年12月21日
台北寶吉祥仏法センターの参会大衆は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのご指示に従い、2003年6月29日に仏法を開示された法話のテープを、恭敬の念をもって拝聴した。
供養を禁じる処分を受けた弟子が37名おり、現在までで45日が経過している。そのうち2名は、本日より供養を許可された。この37名の中には、道場に来たばかりの者もおり、なぜ処罰され、供養を許されないのか分からない者もいるであろう。なぜある者は供養が許され、他の者はまだ許されないのか、不思議に思っているはずである。その理由は、自身の心にある。私の指示を百分の百実行したかどうか、この45日の間に、自分が一体どこを誤ったのかを反省したかどうかである。帰依の際、悪友から離れるよう教えたにもかかわらず、今なお接近し、自分は影響を受けず、きちんと自制できると思い込んでいる。この期間中、7回から8回ほど法会があったが、供養を許さなかったのは、教えに従って実行しなければ、福報を積む機会すら与えられないということを示すためである。ましてや密法を学ぶことや、生死から解脱することなど、なおさら不可能である。仏法を学ぶことは、決して簡単なことではない。しかし、極端に複雑なことでもない。要は、素直に、着実に実行していくことである。
仏法を弘める者として、極めて重い責任を負っている。あなた方に仏法を真に理解させなければならない。もしあなた方の機嫌に合わせて伝法するなら、それは私自身を害し、同時にあなた方をも害することになる。今生において私が再びここに来たのは、過去世においてあなた方を十分に度することができなかったためであり、この一生ではあなた方に引き寄せられて来たのである。ゆえに今は、弟子が教えに従わぬなら、第一に処罰し、第二に追い出す。私は、あなた方がこの一生において仏法を聴聞する機会を得た以上、道を誤らず、誤った言葉を語らず、誤った行いをなさぬことを願っている。台湾の仏教界は病んでいる。どの道場も、信徒が来なくなること、供養がなくなることを恐れ、信徒に迎合している。しかし釈迦牟尼仏の時代においても、釈迦牟尼仏はしばしば人を追い返していた。これは私が編み出したやり方ではない。この方法はすでに釈迦牟尼仏の時代から存在していたのである。このときリンチェンドルジェ・リンポチェは、ある弟子に対し「何を笑っているのか」と厳しく叱責し、再び軽薄な態度を見せるなら外に追い出すと開示された。
この混乱した世界、災難の多い社会にあって、もし仏法を学ぶ心構えがなおも軽率で、「金があり、心があり、時間さえあれば、どこへ行っても仏法は聞ける」と考えるなら、その認識は誤りである。そもそも仏法は聞くこと自体が極めて難しく、たとえ聞けたとしても、それを日常生活の中で実践することはさらに難しい。絶えず監督し、鞭策する者がいてこそ、はじめて生活の中で仏法を用いることができる。とりわけ在家の修行者においてはなおさらである。修行とは何か。それは自らの行為を改めることである。真言を唱え、仏を礼拝すること自体が修行なのではない。行為や思想が正しく改められていなければ、依然として問題は生じ、さまざまな状況に翻弄されることになる。ゆえに、自らを訓練し、心を制御することを学ばねばならない。一念を起こすたびに、怨みや憎しみを決して生じさせてはならない。もし今日、上師に対してさえ怨みや憎しみを生じさせるなら、いかなる衆生に対しても同様に怨恨を抱くことになり、生死輪廻から解脱することは不可能である。
金剛乗の上師が用いる手段は比較的厳しい。それは、我々に残された時間が多くないからである。出家衆のように、日々多くの時間を仏法の中で過ごすことはできない。在家者の生活は、誘惑と障礙に満ちており、一念でも誤れば、たちまち引き込まれてしまう。一度引き込まれてしまえば、再び立ち返ることは極めて難しい。決して、自分はすでによく修行できているなどと思ってはならない。他人の欠点を見るのは容易であるが、自分自身を見ることは困難である。自分の尊厳が傷つけられたときには即座に反応するが、他人の尊厳が傷つけられても、何も感じないことが多い。そこで普賢菩薩は、修行の第一として「十方の仏菩薩を礼敬する」ことを教えられた。これは、一般に想像されるような十方仏、あらゆる諸仏のみを指すのではない。「一切の有情衆生は皆、仏」であるという意味である。なぜなら、一切の有情衆生は、成仏する条件を備えているからである。今日、あなたが見下しているその人も、未来においては仏となるかもしれない。自分は他人より高く、優れ、賢く、有能であると思えば、自然と他人を敬わなくなり、やがて口業を犯し、さらに瞋りの念を生じさせることになる。
なぜあなた方は仏法を学ぶことが難しいと感じるのか。それは、目標をあなた方が見ることのできない仏に置いているからである。末法の時代の衆生には、仏を見る福報がない。ゆえに、あなた方が定めた目標は見えず、見えないものを、ご自身の見解で理解したと思い込んでいるだけ。なぜ金剛乗では上師に非常に尊敬の念を持つ必要があるのか。それは、上師が歴代の祖師や諸仏菩薩を代表して仏法を教える者だからである。上師の一言一行はすべて、あなた方の利益のためである。「利益」とは、あなた方が未来に輪廻に堕ちぬようにするためのものである。輪廻に堕ちぬことは、真言を唱えたり、口先で説いたりするだけで達成できるものではなく、真実に実践してこそ可能である。ゆえに、上師が教える方法を受け入れず、従わないなら、それは不尊敬である。上師にさえ尊敬の念を持たない者が、他人を尊敬できるだろうか。他人を尊敬しなければ、他人があなたを尊敬することはありえない。あなた方は何でも受け入れるが、損をすることだけは受け入れない。損を受け入れない者は、他人を尊敬することを学べず、自然と身・口・意において悪業を犯すことになる。他人が間違った行いをしても、理解を示すことが大切である。「許す」という言葉を使う必要はないが、理解は示さねばならない。
ある男子弟子が皈依して二年余りになるが、これまで一度も私を尊敬せずにいたが、その父親が亡くなって初めて改めた。あなた方の性格からすれば、こうした弟子とはとっくに縁を切るべきである。しかし、仏門は決して一切の衆生を見捨てない。彼が私のもとに一日でも留まるなら、なお救われる機会がある。これはミラレパ尊者の例と同じである。学仏する前、母の仇を討つため、呪法で雹を降らせ、多くの人々を傷つけ、殺害した。しかし自らの悪業の深さを理解し、大菩提心を起こし、仏法を如実に学ぶことで、一代の宗師となり、即身成仏を果たした。仏はかつてこのように説かれた。人は必ず過ちを犯すが、過ちを知り、改めるならば、聖者の境地に至ることも可能である。最も恐ろしいのは、自らに過ちがないと思い込み、すべてを上師のせいにしていることである。上師が自分を理解せず、思いやらず、誤解していると思い込むことである。事実、我々はこの世で数十年しか生きず、他人を誤解し、思いやらないことが常にある。これらもすべて報い、因果の現れである。思い返してみよ。人に罵られたときのことではない。道で少しぶつかっただけでも、たとえ怒らなくても、少なくとも目は睨むであろう。それこそが、他者を思いやらず、自分の尊厳が傷つくことを容れない態度である。
寶吉祥仏法センターで用いる手段は比較的厳しい。それは、我々に残された時間が少ないからである。明日や来年に死ぬという話ではないが、皆は毎日働かねばならず、真に静かに修行できる時間はほとんどない。やむを得ず、仏法を強烈にあなた方の生活に注ぎ込む必要がある。仏を修するとは、日常生活の中で行うものであり、一挙手一投足、一言一行、すべての念頭に仏法を用いねばならない。もし今日、誰かに非難されたとき、すぐに「自分は間違っていない」という念を起こせば、それだけで誤りである。もし人があなたを批判し、帰宅して夫に八つ当たりすれば、誤りはさらに重なる。なぜか。あなた自身の苦しみだけで十分であり、他人にまで苦しみを与えてはならない。それで何を学ぶというのか、どこに慈悲心があるというのか。喜びは他者に与え、苦しみは与えてはならない。西洋人の「ストレスを吐き出せ」といった考えに惑わされてはならない。すべての苦しみは因果の現れであることを理解せよ。ゆえに私が説く『佛子行三十七頌』の録音テープは繰り返し聴く必要がある。今なお私は『佛子行三十七頌』を修行しているが、あなた方は何をもって修行しないのか。何をもって自分はよく修行できていると思うのか。ここにいる者の中で、『佛子行三十七頌』を百分の一でも修得している者はいない。さらに、一部の皈依弟子は「録音テープを聴く時間がない」と言う。しかし、時間がないのに、テレビを見たり、食事をしたり、金を稼いだり、家族と過ごしたりする時間はあるのか。学仏こそが、我々の真に、根本的な生命なのである。
この数十年の生活は、まさに夢に過ぎない。信じられぬ者は、十数年前の出来事を思い返してみよ。まるで昨日のことのように感じられ、夢のようではないか。もしなお執迷して、自惚れ、他人に怒り、上師を非難しているなら、永遠に慈悲を学ぶことはできない。尊勝なる直貢チェツァン法王も次のように説かれた。学仏する者が上師の言葉が間違っていると思うなら、その心こそが間違っているのであり、上師が間違っているのではない。なぜなら、あなた方は分別心を起こし、悪念を起こしている。欲望の心で仏法を聴いており、清浄な心、輪廻から解脱せんとする心で仏法を聴いていないのである。私が仏法を学び始めてから今日に至るまで、顕教の帰依師が間違っていると思ったことも、直貢チェツァン法王が間違っていると思ったことも一度もない。あなた方自身をよく見てみよ。どれだけの回数、上師が間違っていると思ったことがあるか。こうした悪念があって、どうして仏法を学べるというのか。できるはずがない。金剛乗では、上師を父や仏のように敬うことを定め、要求している。その道理は何か。私が仏だからではない。仏法を教え、生死から離れる手助けをしてくれる者に対して感謝の心を持たず、ほんの少し気でも食わぬことがあれば即座に瞋念を起こすようでは、どうして慈悲の心を学べるというのか。どの経典も同じことを教えている。慈悲の心なきところに、仏法は存在しない。
慈悲は、菩提心の最も基本的な条件である。もし、あなたに恩を施した者に対してさえ瞋念を起こすなら、どうして両親に孝行し、衆生に感謝の心を起こすことができるというのか。感謝の心がなければ、自然にその代わりとして瞋恨の心、貪欲の心、分別の心が生じる。これらはいずれも無明であり、煩悩である。もし我々がこの方向に向かって、自らの念を制御することを学ばなければ、たとえ『大蔵経』をくまなく読んだとしても、たとえ四大教派の法王から灌頂を受けたとしても、それだけで仏法を学んだことにはならない。我々は恩ある者に感謝すべきであるのみならず、敵に対してなお感謝すべきである。敵の存在によってこそ、自分にまだ未熟な点があることを知ることができるからである。なぜ敵や小人が現れるのか。それは、あなた自身が過去にそのような行為をし、衆生を傷つけ、他人の是非を論じたことがあるからである。すなわち、それは因果の報いであり、受け入れねばならない。
決して、仏法を学ぶために来たのは、健康のため、あるいは幸運を求めるためだと思ってはならない。これらの心構えはいずれも正しくない。健康は自らの因果であり、運の良し悪しもまた自らの因果である。仏法を学ぶことは、生死を解脱するという重大事である。寿命を延ばせるかどうか、長生きでいられるかどうかは重要ではない。最も重要なのは、自分に目指す方向があるかどうか、そしてこの一生で生死を離れることができるという確かな手応えを持っているかどうかである。その方向は仏が示してくださるものであり、その確信を得られるかどうかは自分自身にかかっている。ちょうど、直貢チェツァン法王が法をお授けくださった後であっても、私自身が修行しなければ、何の役にも立たないのと同じである。
修行の過程では、多くの試練や理不尽なことを経験することになる。家庭からの圧力や反対、師長からの圧力もあるが、すべて耐えねばならない。六波羅蜜の中に忍辱の法門があるが、ただ人に罵られて怒らないことを忍辱というのではない。修行の道、衆生を度する道の中で、あらゆる誘惑に耐え、すべての圧力に向き合い、すべての理不尽を受け入れること、それこそが真の忍である。台湾の仏教界は、大乗仏法を修し、菩薩道を修行すると自称する。しかし、菩薩道を修する者は必ず六波羅蜜を修めねばならない。布施、持戒、忍辱──この三つの法門、この三つの波羅蜜は福報を修するためのものである。この三つを修めなければ、六波羅蜜を修したとは言えない。もし上師からの圧力や叱責すら受け入れられない者が、衆生からの圧力を耐えられるであろうか。よく考えてみよ。本当に六波羅蜜を修めたかどうか。『阿弥陀経』や『浄土五経』にはっきりと説かれている。浄土に往生せんとする者は、必ず菩提心を発さねばならない。菩提心とは何か。それは六波羅蜜の中で修行する者である。しかしあなた方はそれを行おうとせず、ただ仏法を聴けば問題が解決すると考えている。仏法を聴くことは、解の門であり、最も重要なのは行の門である。修行とは、実際に行うことである。解があって行がなければ、遅かれ早かれ邪念、邪見、邪業が生じる。したがって、仏法を聴聞したならば、必ずそれを日常生活に用いねばならない。
私はしばしば、あなた方に毎晩寝る前に、自分の今日一日の起心動念を反省するように教えてきた。今日の心の働きは自分のためだけでなかったか。今日の身・口・意は、仏が与えてくださった教えに背くことはなかったか。もしあったなら、懺悔し、明日は二度と同じことをしないようにせねばならない。あなた方のうち、これを実行している者は何人いるか。毎日、テレビを見て疲れたら寝るだけで、今日自分が何をしたかを振り返ったことはあるか。今日の生活が、凡夫の生活だったのか、それとも学仏者としての生活だったのか、考えたことはあるか。もしこの方法で修行していなければ、修行は成立しない。あなた方は、あの出家衆のように時間があるわけではない。時間がない中で、家庭に帰って妻に怒り、上司や社長のことを非難するならば、今日の一日は貪・瞋・癡の三悪道の中で転げ回る日となる。しかし、家庭に帰ってこう考えられるならば――「今日、自分はこうすべきではなかった。明日はこう改めるべきだ」――その時、あなたは学仏の道を歩み始めたことになる。
大礼拝を始めたからといって、それが修行だと思ってはならない。法本を手にして、毎日六字大明咒を千遍、二千遍唱えることが修行だと思ってはならない。大礼拝や持咒は、我々の心を少しでも定させ、妄念を減らし、自分を反省する余地を作るためのものである。あなた方は毎日のように私のもとに来て懺悔すると言うが、実際には懺悔ではなく、単なる謝罪に過ぎない。懺悔とは何か。それは、自分の過ちを認め、二度と同じ過ちを犯さないことである。謝罪とは何か。それは、私が一度お前を叩き、謝ったとしても、また同じことを繰り返すことである。あなた方は今まさにその状態にある。謝罪のためにやって来ても、しばらくすると再び貪・瞋・癡・慢・疑が生じ、永遠に同じことを繰り返すのである。金剛乗では、良い上師に出会うことは非常に難しいと言われる。しかし、良い弟子に出会うことは、それ以上に難しい。なぜなら、衆生の心は不可思議だからである。「不可思議」とは何か。衆生の妄念があまりに多く、多くの考えがあり、恭敬の心も誠心もないことを指す。恭敬の心とは何か。それは誠心、一心である。仏がどのように説かれようと、上師がどのように教えようと、一心で誠心をもって受け入れることである。あなた方は、上師に多くの理不尽を受けさせられたと思うかもしれない。しかし、私が学仏の道を歩む中で、多くの理不尽、圧力、困難に直面した際、一つ一つ耐えてきた。耐えるとは、誰かの言葉を聞き流すことではなく、完全に受け入れ、すべてを自己の因果として受け止めることである。
1996年ごろ、直貢チェツァン法王が台湾で千手観音の灌頂法会を開催された。主催は直貢噶舉の別の道場であった。その日、私は百名余の弟子を連れて法会に参加したが、私はそのとき、壇下に座っていた。法会が始まる約20分前、主催側の誰かが私のところに来て言った。直貢チェツァン法王が、私に壇上に座るように言われたという。壇上に座るなら法衣を着なければならない。しかし私はそのことを知らなかったので、法衣を持っていなかった。そこで私は特に後方の貴賓控室に行き、法王に伺った。部屋に一歩入ると、法王は最初の一言を非常に厳しく言われた。「まだ法衣に着替えていないのか!」と。あなたが私である場合、必ず「知らなかった、さっき知ったばかりだ」と弁解するだろう。私は弁解せず、法王に向かって言った。「すぐに着替えます」これが、人としての在り方である。弁解は不要、知らなければ知らないと認めればよい。
誰が私を陥れようと、誰が私に知らせず、誰が私に分からないようにしようと、それはすべて私の因果である。必ず過去世に、私も同じ方法で他者を扱ったからである。それを認めればそれで終わりであり、何を弁解する必要があろうか。弁解しても、法王が私に対して別の見方をされるわけではない。もし私が法王に「誰々が知らせなかったから」と弁解すれば、きっとその人もそれで法王に叱られることになるであろう。その際、私がさらに悪業を作ることになってしまう。あなた方にできるか。今日、私が法座に座る資格を持つのは、まさにこれを実践したからである。すぐに法衣を着替え、すぐに戻って壇上に座り、何も言わずに座った。それができたからこそ、座る資格があるのである。
また、あるとき台湾で法会が行われた際、ケンポが私を前の席に座らせた。チベット仏教では、前に座ること、高位に座ることは果位が高いことを意味する。しかし、ある老ラマは非常に不快そうで、本来なら彼が衆を率いて唱誦すべきところ、マイクを私に押し付けて、私に読ませようとした。しかし、私はチベット語を読めない。法本はすべてチベット語である。もしあなた方が同じ立場なら、きっと怒ったであろう。私は言った。「そんなことはありませんよ!ケンポがあなたに読ませるように言ったのです。私が座席を間違えました。すぐに後ろに移ります」と。あなた方にできるか。法会のときだけの話ではない。日常で私が少しでも不快そうな顔を見せただけでも、あなた方は「上師に怒られた」と言う。この一言を言った瞬間、この考えを抱いた瞬間、それはすでに悪念である。心の中で既に瞋恨が生じているからである。私たちが忿怒相の本尊を見たとき、彼らが怒っている、美しくないと思うことはない。むしろ喜びの心が生じる。それは、彼らが忿怒相で私たちの業障を消してくれるからであり、感謝するのである。あなた方はどうか。上師に叱られただけで、すぐに瞋心を起こし、すぐに「上師は良くない」と言う。
先日、あるテレビ番組を見た。清朝の時代、ある従業員がいた。彼は雇い主のために良い仕事をするため、雇い主に気を散らさせないよう、自宅で何があっても話さず、家にも帰らなかったという。あなた方はきっと、「そんなの古人だけが愚かだ。用事があればすぐに休みを取って家に帰るだろう」と言うだろう。しかし彼の理論は非常にシンプルである。「雇い主がいなければ私は生きられない。家の問題は私の問題であり、雇い主には関係ない」と。あなた方にできるか。なぜ古人は私たちよりも仏法を学ぶのが容易だったのか。古人の貪欲は少なく、古人の道徳は高かったからである。ここにいる皆は、人のために働いている。これができているか。仏法を学び、仏法を聴くにしても、多くの言い訳をしているではないか。学仏の前に、人としての務めすら果たしていない。もし誰もが「自分の家が大事」と考えるなら、この社会はすべての責任を背負わなければならない。なぜ台湾の経済は悪化しているのか。それは、一部の人々が「自分に他の用事があること」「家に用事があること」「自分に不満があること」だけを重んじるからである。古人はなぜこれを成し得たのか。答えは簡単、二文字である――感恩(感謝)である。彼は「自分が雇い主を助けるから雇い主が儲かる」とは考えなかった。ただ一つの考えだけであった。「雇い主がいるから、今日私は食べることができる。だから恩返しをしよう」と。あなた方にできるか。
SARS流行の期間、香港では、始まりから今に至るまで、一人の看護師も医師も、「病院に入って患者を助けない」と言った者はいなかった。台湾はどうであったか。SARSを通して、香港の人々は台湾の人々より団結していることが分かる。香港の医療従事者は抗議したことがない。香港もまた民主的である。それに対して、台湾はどうであったか。このことからも分かるように、台湾では仏法が非常に盛んで、多くの道場、多くの法師、多くのリンポチェがいる。しかし、真に修行している者は、十本の指で数えられる程度である。なぜなら、あなた方はあまりに自我が強いからである。これほど自我の強い者が、どうして仏法を学ぶことができるというのか。
今日、壇上には直貢噶舉のケンポ――南珠ケンポがいる。雲南出身で、中甸で出家し、直貢梯寺で閉関し、さらにインドで仏法を学んだ。私は法王にお伺いを立てた上で、ケンポに台湾へ6か月間来てもらい、寶吉祥道場の多くの儀軌、壇城の設営、ドルマの作り方などを手伝ってもらうことにした。私は人を選んで訓練し、特に秋になり暑さが和らいだ頃には、火供や阿弥陀仏大済度法の修行を始める。寶吉祥の一員である者として、この機会を大切にせよ。私はチベット語を話せないが、チベット仏教直貢噶舉の縁は非常に深い。そのため、今日、直貢チェツァン法王から多くの密法を伝授され、衆生の利益のために受け取ることができた。あなた方は累世の因縁でこの門に入ったのだから、決して諦めてはならない。自分の考えやわずかな理不尽で、この一生の成仏の道を断ってはならない。学仏の機会を失うのは簡単だが、再び戻るのはいつになるか分からない。だから、帰依弟子は私の開示した録音テープをもっと聴くべきである。1、2回聴いたからといって「分かった」「聴いた」と思ってはいけない。「時間がない」と言うのも同様である。テレビを見る時間があるなら、録音テープを聴く時間も必ずある。一日30分テレビを見るのを減らせば、間違いなく時間は作れる。
このとき、ある女性の弟子が居眠りをしていた。リンポチェは彼女を叱り、開示された。「あなた方は運が悪い。目の良い上師に帰依してしまったのだ。前世で私に借りがあるから、この生で叱られるのだ。私が眼鏡をかけているからといって、あなた方の一挙手一投足を見ていないと思うな。見ているかどうかだけの違いである。もし老眼で目がかすんでいる上師に帰依していたら、下で寝ていても構わない。何をしても見えないだろう。では、なぜ眠らせないのか。それは仏経に睡魔のことが説かれているからである。決して「法会の場所に座っているだけで役に立つ」と思ってはいけない。法本や仏経には、耳で聞くだけで道種――成仏の道の種が永遠に存在すると説かれている。しかし、この「聞く」とは、居眠りしながら聞くことではない。集中して聞き、第八意識であるアラヤ識に深く蓄えられて初めて意味がある。居眠りしながら聞いても意味はない。せいぜい、後で元気になって食事したり、電話したりできるだけだ。もし今日、上師たる人が法会の中で居眠りをしていた場合、あなた方は同じようにしても構わないが。
皆、覚えておけ。2002年6月30日、直貢チェツァン法王の大法会のことだ。法会の前日、私は一睡もしていなかった。6月30日、朝から法会終了まで、テレビのスクリーンの上からも、法座に座っている私が居眠りしたところを誰も見ていない。なぜ私ができて、あなた方にはできないのか。理由は簡単だ。あなた方は尊敬の心がないからである。どんなに辛くても、どんなに疲れていても、法王が法座に上がれば、絶対に居眠りはしない。それが尊敬である。この尊敬は、自分のためではなく、すべての衆生のためである。なぜあなた方は仏法を聞きながら居眠りをするのか。それは「自分が仏法を聞いている」「自分のために仏法を聞いている」と思っているからである。もし「衆生の代わりに仏法を聞く」、自分の冤親債主のために聞くという観念があれば、眠らずに聞くことができる。しかし、自分の利益のためだけに仏法を聞こうとするなら、冤親債主が眠るようにさせ、解脱の機会を与えない。仏経にはっきりと説かれている。睡魔は、仏法を聞くときに聞けなくさせ、真言を唱えるときに眠くさせ、唱えている最中にあくびをさせるものである。「自分は仕事で疲れているからあくびをして唱えられない」と思うのも、すべて心が清浄でないからである。
果はどこから来るのか。因から来るのである。悪の因がなければ、悪の果は生じない。だからこそ、あなた方が帰依したとき、私はすぐに「悪を断ち、善を行え」と伝えたのである。どんな悪もしてはならない。小さな悪さえ許されない。決して「今日ぐらい、ちょっと悪いことをしても大丈夫」と思ってはいけない。銀行を襲う強盗も、小さな悪から始まる。最初は人の物を取っても問題なかった。しかし徐々に盗むようになり、盗んでも平気になり、やがて強盗に至る。すべてこのように始まるのである。だから、あなた方が私に謝罪したからといって、それで済んだと思うな。もし同じことを繰り返せば、必ず問題が生じる。
学仏において、顕教は因から修行を始める。あなた方の今の根器はまだ顕教の基礎の上にある。だから、因から修行しなければならない。すべての悪は断たねばならない。密法は果報から修行する。あなた方とは異なるのである。果報を理解したうえで、「転じる」のであって、変えるのではない。だから私たちはよく「五識を五智に転じる」と聞くが、変えるのではなく、転じるのである。では、どうやって転じるのか。もちろん、仏法を聞き、如実に修行してこそ転じることができる。仏が勝手に転じてくれるのではなく、自分で転じるのである。多くの者がどうやって転じるか分からないのは、まだ貪・瞋・癡・慢・疑の心で日々を過ごしているからであり、やがて転じることも、動かすこともできないのである。
ある人は、他人からかかってきた電話に出たとき、失礼な口調で話す。なぜ失礼になるのか。それは「自分には関係ない」「なぜ自分を煩わせるのか」と考えるからである。例えば私もよく朝、いくつか電話を受ける。銀行からのクレジットカード勧誘だったり、訳の分からない問い合わせだったりする。私は決して怒らない。ただ「申し訳ありません、番号を間違えているようです」と伝える。それだけで相手も謝ることが多い。多くの場合、相手が間違えてかけてきた電話であっても、すぐに切ってしまうと、相手は再度かけてくる。なぜなら、相手が得たい答えがなかったまま、ただの間違えと思い込み、それですぐにも再度かけてくるからである。あなた方は「自分に非はない、悪いのは相手だ」と考え、赤の他人だからどうでもいいと思い、相手のことを気にしない。しかし私の方法は少し違う。少し多く言葉をかけるだけで済む。相手が「この番号は○○ですか」と尋ねたら、私は「番号は間違っていませんが、実際にその人はいません。本当にいませんので信じてください」と答える。そうすれば、自然と再度かけてくることはなくなる。
私たちが少し時間を多く使い、他人に少し多く機会を与えることは、そのまま自分自身に機会を与えることでもある。他人に機会を与えないということは、すなわち自分に機会を与えないということである。だからこそ、日常生活の一分一秒すべてが仏法なのである。たった一本のかけ間違いの電話であっても、その対処の仕方に仏法を用いれば、自然と煩悩は生じない。あなた方も、真夜中にかかってきた間違い電話や、酔っぱらいの電話、朝6時過ぎにかかってきた電話を受けたことがあるだろう。昔の私の気性であれば、罵っていたであろう。しかし今は罵らない。落ち着いて、相手と少し言葉を交わせば、それで二度とかかってこなくなる。信じられなければ試してみよ。もし「ガチャン」と電話を切れば、相手はすぐにまたかけてくる。特に今の電話にはリダイヤル機能がある。番号を覚えていなくても、再発信のボタンを押せばよいだけだ。そうなれば、延々と悩まされることになる。
だから、学仏はこれほど簡単だと分かるだろう。お前の性格を転じることができるのだ。すなわち、凡夫から聖人の境地へ少しずつ、段階を踏んで変えていくのである。私たちは六道の中で絶えず輪廻するが、それも性格による。では、性格とは何か。誰かに「個性的だ」と言われる場合、仏法の言葉で解釈すれば、それは執着が強く、間違いを認めず、懺悔しないことを意味する。それこそが「個性」である。個性的な人が皆に好かれるか?必ずしもそうではない。個性とは、六根を使って日々を過ごしている人のことを指す。もし真心、誠意をもって日々を過ごすなら、それは仏法をもって生きることになる。たとえば先ほどの間違い電話の例のように、真心で相手に説明すれば、相手が常識ある人であれば、再度迷惑をかけることはない。相手は善意として受け取るのだから、わざわざ煩わす理由がない。しかし、相手に話す機会を与えず、説明もしなければ、相手は延々と電話をかけ続けることになる。それはあなたが怒るまで続くのである。
多くの人は、学仏とは毎日何回大礼拝をすることだとか、仏や菩薩の出現や感応を感じることだと思っている。しかし、実際はそうではない。学仏とは、あなたの生活の質が向上しているかどうかによって判断されるのである。物質的や精神的なレベルではなく、恨みを減らせているか、誰かと衝突する機会を減らせているかを見るのである。もし減らせていれば、あなたの生活の質は向上していることになる。あなたと衝突する相手は、見知らぬ人、知人、あるいは家族である場合もある。学仏した後も、衝突が減るどころかかえって増えてしまうなら、あなたはさらに悪化している。なぜなら、法を知りながら犯しているからであり、罪はさらに重くなるのである。
しかし、学仏した後、すぐに改め、すぐに転じることができれば、あなたの福報の増加は、他人が善行を行って得る福報の増加よりもはるかに大きくなる。なぜか。その理由は、教えに従って実践しているからである。あなたは仏の弟子だからだ。仏の弟子であるとは、ただ帰依しただけではなく、教えに従って実践し、仏が教えた条件を満たすことによって成り立つことである。そうすれば福報は自然に増える。仏の弟子であるあなたを、仏が見捨てたり、無関心でいるはずがないのである。
次に、阿修羅道の過ちについて開示する。阿修羅道は、福報のない者は行くことができない。この福報はどこから来るか。すなわち、その人が生前に修行していたことによる。阿修羅は「無酒」とも呼ばれる。阿修羅道に生まれる者は、必ず酒を飲まない。男性は醜く、女性は美しい。その享受する福報は天道に非常に近いが、唯一異なるのは阿修羅の嗔念が非常に強いことである。では、なぜ彼らは阿修羅道に生まれるのか。それは修行の過程で、常に他人と争わなければならないと思っていたからである。何と争うのか。自分は他人より修行が優れている、他人より念仏や咒をよく唱えている、他人より優れている、自分は他人より上だと考える心である。たとえば、ある弟子が「自分は六字大明咒を他人より上手に唱えられる」と考える場合、これこそ阿修羅の心である。我々学仏者は特にこのような念を起こしやすい。多くの在家居士、特に寺院で数年学んだ者は、入ってくる人のすべての行為を間違いだと感じ、自分だけが正しいと思う。そして、不遜な言葉で他人を正そうとしたり、人を批判したりする。以前も開示した通り、あなた方が果位を証していない限り、他人に仏法を説いたり、仏法の間違いを正したりしてはいけない。なぜなら、あなたは単に自分の意識で他人を見直しているにすぎず、真心からではないからである。争いの心で他人を批判しているのである。このような人は、この生が終わった後、必ず阿修羅道に生まれる。
阿修羅の苦しみは、輪廻を繰り返すことの他に、最も重要なのは、常に天道の者と争わなければならないことである。阿修羅は、天道の者が享受する福報が比較的に多いことを嫉妬するからである。実際、地球上でもカトリック教とイスラム教が争うことがある。これは、天道と阿修羅道が争う様子と同じである。中東の人々は富裕であり、男性は比較的醜く、女性は美しい。また酒を飲まない。まさに阿修羅道の人々の姿である。このような中東の人々は、復讐心が深く苦しいため、たとえ自分を犠牲までしても、敵を滅ぼそうとする。これこそ阿修羅の心である。
阿修羅の恨みの心は非常に深い。しかし、修行をして供養をしているため、福報もある。もし今、職場や修行の道場で、嫉妬心や恨みの心が強ければ、たとえ福報やある程度の智慧を得ていても、阿修羅道に堕ちる。阿修羅の多くは海辺に生まれる。中東の国々がほとんど海沿いにあるのも、そのためである。真の阿修羅の境地も、多くは海辺に住む。だから皆に常々言っている。海辺に遊びに行くときは注意すること。うっかり阿修羅を怒らせると、事態は収拾がつかなくなるであろう。
日常生活の中で、常に他人を嫉妬し、恨み、見下すなら、たとえ仏を学び、修行していても、阿修羅道に堕ちる。真言を唱えるとき、自分の声や調子が他人より優れていると思うなら、これが阿修羅の心である。他人が自分より多く供養しているとき、陰口を言う――「あの人は上師に好かれるために多く供養している」と言ったり、他人の供養を阻止する――「そんなにあげるべきではない、相場を壊す、恥をかく」と考えて阻止するなら、こういう人は修行が進んでいても阿修羅道に堕ち、修行が十分でなければ餓鬼道に堕ちる。ここにいる中で、かつて他人の供養を阻止した者もおり、この三十数人の心が供養を改めても、阿修羅道や餓鬼道には彼らの分がある。私は彼らの供養を受けない。それは、彼らがこの二つの道に堕ちるのを恐れるからである。
阿修羅道や餓鬼道に堕ちるのはとても簡単である。例えば、他の人が本来1000元供養しようと思っているのに、あなたが「100元でいい」と言ってしまうと、それはその人の供養を妨げることになる。だから、誰かに「どのくらい供養すればいいか」と聞かれても、意見を言ってはいけない。その人の心に最初に浮かんだ金額こそ正しい。特に寶吉祥道場では、法を修するのにいくら必要か、誰かのために済度をするのにいくら必要かといった決まりはなく、すべて自由である。他人に「100元でいい」「500元で十分」などと言う人は、他人の供養を妨げているため、阿修羅道や餓鬼道に堕ちやすくなる。
私は尊勝な直貢チェツァン法王に供養する時、供養したあと自分の生活費が足りるかどうか、あるいはお金があるかどうかは全く考えたことがない。ただはっきりしているのは、そのお金が法王の手に渡れば、法王は多くのことを行えるということである。皆が私に供養してくれると、私も多くのことを行える。皆は自分がたくさん供養していると思うかもしれないが、私にはまだ多くの仕事があり、その全てを皆に話すことはしない。それは、皆が私について学ぶことで負担を感じないようにするためである。中には「自分には住宅ローンがあるので、供養は4分の1以下でいい」と言う人もいる。しかし、この4分の1という割合は私が決めたものではなく、仏経典に書かれているものである。なぜ4分の1なのかというと、仏が私たちのために配慮してくれたからである。釈迦牟尼仏は慈悲深く、4分の3を私たちの生活に残してくれ、残りの4分の1を供養として捧げるようにしている。
ここにいる人の中で、この基準を満たしている者はごくわずかである。100元、200元程度で、それを供養していると思っているのか。私自身を例に挙げよう。今回、法王が閉関に入るにあたり、山へ荷物を運ぶ人手が必要となり、法王が無事に6か月の閉関に入れるようにしなければならなかった。法王はネパールへ行く際にお金を持って行くのを忘れ、香港にある法王名義の口座からお金を引き出して送金してほしいと、私に電話してこられた。だが私はすぐに、そんなに面倒なことはしなくてよい、私が直接送金します、と答えた。この一言で、1万ドルである。ここにいる皆の中で、1年かかってもこの金額を供養できない人がほとんどであろう。この1万ドルは、皆が毎回100元、200元と供養してきたものが積み重なったものであり、私が皆を代表して法王の閉関供養として捧げたのである。だから、供養をしたあとで後悔する人がいる。あんなに出さなければよかった、取っておいて自分で使えばよかった、と思う。これこそが阿修羅や餓鬼道の心だ。このような心で供養しても福報は得られない。この福とは、金持ちになる福ではなく、生死を解脱するための福である。
まるで南珠ケンポのようにお金がない場合、チベットのラマたちはお寺で給料をもらえず、誰も供養せず、人のために経を唱えて供養を受け取ることもない。出家にかかる費用はすべて家族が支払う。家にお金がなければ、ほんとうにお金がない。しかし、私が今年閉関している間、南珠ケンポは絶えず果物やお香を供養してくれた。これが本当の供養である。今回、私に財神香を供養してくれたのは、私が少しでもお金を持ち、教派のためにもっと尽くせるようにという意図である。よく理解してほしい。もし仏が仏経で説いた基準を満たしていなければ、あなたのすべての供養は供養とは言えない。計算してみよう。皆が法会で毎回100元供養し、月6回の法会に交通費を加えると、おおよそ1000元になる。しかし、外食に出れば、二人で500元から1500元かかることもある。私が金額を計っていると誤解しないでほしい。もし金額を計るだけなら、済度の値段を決めればいい。しかし私が伝えたいのは、供養をするなら正しくすることだ。正しくできなくても構わないが、「自分は供養している」と心に執着してはいけない。お金がなくても、仏法を学ぶ心を起こすなら、私は同じように喜ぶ。誠心誠意をもって供養するなら、私は同じく喜ぶ。例えばある弟子がいた。父が亡くなる前に、父のために殊勝なポワ法を求めて、自分の貯金を供養した。これが本当の供養だ。その弟子の父は、ちょうど私が食事を終えた後に亡くなり、ポワ法を得た。これが本当の福報である。お金の多さは問題ではない。心こそが最も重要である。
今後、他人が供養しているのを見ても、口を出すな、批判するな、阻止するな。たとえ他人が10元しか供養していなくても、それはその人の心である。「どうしてこんなに少ないんだ」と言ってはいけない。逆に他人が多く供養しても、相場を壊すとか、自分の面子が潰れるからといって阻止してはいけない。すべては縁に任せること、そうすれば阿修羅道や餓鬼道に堕ちることはない。供養があれば餓鬼道に堕ちないと考えるのも間違いである。心が正しくなければ、供養があっても堕ちる。違いは、餓鬼道に堕ちたとき、他の餓鬼より少し多く食べられるとか、鬼王になるとか、先に食べられるとか、他の餓鬼が糞を食べるときも自分は食べなくて済む、という程度の差しかない。だから今日、阿修羅について話したが、特に皆に注意してほしいのは、自分の心、思いをよく見て、他人を嫉妬しないことである。
チベット仏教の法本にある七支供養のうちのひとつに「随喜功徳」がある。随喜とは、他人がどれだけ供養したかに関係なく、好きな気持ちで喜ぶことではない。誰かがどんな功徳を行っても、その心の中で認め、称賛することを随喜という。他人が供養しているのを見て「随喜」と言うだけではない。誰かがどんな功徳を行っても、たとえ一杯の茶を供えたとしても、それを心から称賛することが随喜功徳である。もしこの心がなければ、阿修羅道や餓鬼道に堕ちやすくなる。そのため、供養して後悔したあの三十数人には、供養を禁じた。分別心で供養する者は、餓鬼道や阿修羅道に堕ちる恐れがあるからである。
多くの人はこうだ。明らかに2000元を金封に入れたのに、後で「やっぱり要らない」と思い、1000元だけ取り出す。布施・供養というのは、一度やったら心に留めておかないことである。私自身、たくさんのことをしてきたが、多くはすでに忘れている。「三輪体空」というのは、布施の対象がいない、布施するものがない、布施する念頭がない、という意味ではない。自分が身・口・意で行った布施や供養に執着せず、形にこだわらないことが三輪体空だ。簡単に言えば、一度やったら終わり、心の中でいつまでも思い返す必要はない。布施・供養は私たちの命綱のようなもので、呼吸と同じだ。布施せず供養せずにいると、臨終のときにたいへん苦しむことになる。
南珠ケンポは供養の意味をよく理解している。修行者が閉関中に行う供養は、小さな毛一本、ゴマ一粒でも、心を込めて供養すれば、その功徳はどんな大きな供養にも勝る。みんなはよく理解しておくことだ。うっかり阿修羅道に落ちないように。人の供養を妨げる人は、他人に嫉妬している人で、他人が自分よりうまくやることを恐れている。もしきちんと懺悔しなければ、阿修羅道に落ちる可能性は高い。阿修羅道に落ちると苦しい。毎日戦い、天道の者に殺されることを恐れたり、天道の者に軽蔑されることを恐れたりする。金持ちが貧しい人を見下すのも阿修羅の心である。だから、絶対に阿修羅道に落ちてはいけない。一度落ちると、そこから抜け出すのは非常に困難である。
最後に天道について話す。多くの人、特に中国人で、カトリック教やキリスト教を信じている人も含め、最終的には天道まで修することが多い。色界天、欲界天、無色界天で享受する福報のレベルや寿命は異なるが、どの天界に生まれても、結局は輪廻から逃れられず、生死を繰り返す。たとえ禅定を修して、非想非非想天という最高の境地に至ったとしても、やがては生死の大海に戻ることになる。禅定を修する人は、天界に生まれやすい。なぜなら、禅を修する者は外道でも仏法でも、禅を真剣に行えば定が生じる。定が生じると福報が得られ、その福報によって自然に天界に生まれるからである。
天界に生まれることと、生死から解脱する境界に入ることの違いは、とても微細である。多くの人は「座禅や定の功力が上手ければ、もう禅宗の修行をしている」と思いがちだが、それは正しい観念ではない。「定がある」と言うことは、必ずいつか「不定」の瞬間があるということである。では定とは何か?それは妄念が起きないことをいう。妄念を起こさないためにはどうすればいいか?懺法、礼拝、持咒、経典の読誦、仏号の唱和によって妄念を抑える。座禅によって妄念を一時的に伏せることができる。ただし、伏せるということは、妄念が完全に消えたわけではない。伏せた力が消えると、すぐに妄念はまた起きる。本当の仏法の禅定の意味は、禅定によって自分を観察し、自己を反省し、自分の本性を見極め、自分の本性、悟りを証し、更に不生不滅の境地に至ることこそ、法界に入ることになる。もし禅定を「心を定めること」だけを目的として行うなら、簡単に四禅天に行くだけで終わる。六祖慧能以降、禅宗には六祖のような大修行者は現れていない。それは、そうした根器を持つ人がもはや出てこなかったからである。
直貢噶舉派では、自分で悟りを開くための禅修の方法もある。私たちがいう「大手印」は、4つの段階に分かれていて、それぞれの段階はさらに3つの次第に分かれている。つまり全部で12の次第がある。各次第にはそれぞれ特別な証悟の現象があり、上師がその果位に本当に到達しているかどうかを監督する。大手印の4つの段階は、一に専一瑜伽、二に離戲瑜伽、三に一昧瑜伽、四に無修瑜伽であり、またそれぞれの段階はさらに3つの次第に分かれている。私たちはこの大手印の理と行による実修を通して、間違って天道に到達してしまうことを避ける。だから今まで皆に座禅を教えていないのだ。まだ時期ではないからだ。貪・嗔・痴・慢・疑が心の中に多く残っている状態で禅を修すれば、簡単に天道に落ちてしまうからである。
天道に生まれる人は少し傲慢なところがある。外で禅を修行している人を見ても、自分の修行がすごく進んでいると思い込み、話してみると少し驕りを感じることがある。宗教によっては、他の宗教を受け入れられない人もいる。これは天道を修すると傲慢さから他の宗教を軽んじてしまうから、自然と天界に生まれる傾向である。しかし、天界に生まれる禍害は何であろうか。それはまだ輪廻の痛みや苦しみを経験しなければならない。
天道に生まれた人も、寿命が尽きるときには「五衰」の相が現れる。これは非常に苦しい状態だ。第一に、自分がどの道に落ちるかをはっきり知っている。天道の寿命が尽きるとき、業が重い者は地獄道に、軽い者でも畜生道に堕ちる。「福なしに天道に生まれ変わろうか。天道に行った以上、どうして悪いところに落ちるのか」と思うかもしれない。理由は三つある。一に、登れば高く、落ちれば深い:世間でもそうだ。高く登った人ほど落ちるときの苦しみは大きい。二、天道に行ったからといって、過去世の悪業が消えたわけではない。福報が尽きると、残ったままの業が現れて悪道に堕ちる。三に、とりわけ禅宗を修めた人で、四禅天まで修行して「不生不死」と思っていた人が、自分の寿命が尽きて地獄に落ちると知ったとき、嗔念が生じる。この嗔念で、誤った修行や先生のせいにしたりすることで、地獄に落ちる。さらに、天界にいる人が畜生道に堕ちる理由は何であろうか。天道では毎日楽しい生活をしており、仏法を聞こうとしない。お金持ちが仏法を聞かないと同じように、苦しみがなければ人は学ばない。仏法を聞き入れないと痴、愚痴を犯すから、天界にいようと、如何なる界にいようと、全てが畜生道に堕ちるわけである。天道にいる人は神通力で、自分がどの道に堕ちるかを知ることができる。そのため、地獄に落ちることを知ると、人間よりも何倍も苦しむことになる。
第二に、天道の人は死ぬ前に天衣が破れ、臭くなり、髪の毛も乱れ、周りの友人や家族は遠くに離れてしまう。助けようとしても近づけず、恐れて距離を取るしかない。さらに天人は本来汗をかかないが、死期が近づくと腋の下から汗が出て臭うようになる。つまり、天道に生まれたとしても、福報が尽きると再び輪廻に戻らなければならない。天界の者は死ぬ直前の7日間、特に苦しい。天眼を用いて自身の生死の苦しみを見ることができるからだ。三十三天の場合、7日間は人間の700年に相当するので、最後の時を過ごす苦しみは非常に長く感じられる。その間、自分の過去の何百万年もの享受した楽や福を思い出して惜しむ心が強まり、天界を離れるときの苦しみはさらに倍増する。
ジッテン・サムゴンが言われたことがある。天人であっても生死の苦を目の当たりにすると、普段享受していた安楽は虚偽のものに過ぎない、ということである。輪廻の中に苦楽善有が存在することを信じるか、信じまいかは、よく思惟する必要がある。つまり、福報があって享楽する時は、それを享楽と見なすべきではなく、この種の楽自体は虚偽、一時的なものに過ぎないということ。ミラレパ尊者も強調しているように、六道輪廻、どこに生まれようと、苦は必ず存在する。
私たちは決して、心を八風に揺り動かされてはならない。生があるがゆえに、老・病・死の苦があり、生があるからこそ、あらゆる魔や邪が入り込む機会を得る。私たちは精と血によってこの色身に執着し、その執着から貪・瞋・痴の煩悩を生じさせる。煩悩があるために悪業を作り、悪業の力によって、あらゆる苦を受けることになる。さらに、煩悩によって悪しき習気が生じ、それが心を薫習して内に積み重なり、煩悩は次第に増え続ける。やがて尽きることのない輪廻の苦しみとなり、輪廻によって私たちは生まれや種姓の門に縛られる。このため噶舉派では、かつて「転執観修足」という教えが説かれた。これは、心の向きを正法へと転じるという意味である。歩くときに二本の足があれば楽に歩けるように、日常生活の中で執着しているすべてのものを仏法へと転じて生きることを指す。そのように転ずることができれば、両足で歩くように容易に目的地へ到達できる。簡単に言えば、苦しむか楽しむかといったことをあまり気にしないことだ。苦もよく、楽もよい。追い求めず、執着せず、無理をせず、あれこれ考えない。一切は因縁であり、因縁が具われば自然にやって来る。
私たちは、いかなる修行・実践であっても、すべて正法の中へと帰入させなければならない。もし本当に正しく輪廻から離れようとする出離心が生起してこそ、解脱することができる。そのため、いかなる法を修するにも、いかなる法を学ぶにも、その前に必ず前行・正行・結行を具えていなければならない。前行とは発願であり、正行とは実践であり、結行とは回向である。ゆえに観音法においては、最初に必ず発願があり、中ほどで観想と持呪を行い、最後に回向をする。台湾では多くの法師が観想を教えているが阿弥陀仏の像を見て観想するだけで観想だと考えてはならない。それは意識の働きによる想念にすぎない。実際には、チベット仏教で説かれるあらゆる観想の方法には、すべての仏法の意味がその中に含まれている。それを煩わしい、あるいは簡単だと感じて、法本に説かれる観想の次第を軽んじてはならない。これは極めて重要である。真の観想とは、必ず祖師大徳が教えた観想の法門に従い、前行・正行・結行を、段階を踏んで順序正しく修することであり、それではじめて意味を持ち、成果が生じる。なぜなら、前行・正行・結行の中には、仏法のすべての意味、仏法の精髄、仏法の要点がすべて含まれているからである。もし持呪だけを行い、前行もなく、観想もなく、結行もないのであれば、それはまだ円満とは言えない。
現在、顕教で唱えられている十小呪には効果があるのか。あるのは、口が余計なことを言わなくなるという作用だけであり、果位を証得することはできない。なぜなら、前行・正行・結行がないからである。かつて私は、毎日大悲呪を熱心に唱え、『普門品』も一日に少なくとも二巻は誦していた。しかし、どれだけ唱えても効果は現れなかった。それは前行・正行・結行がなかったからである。数取り器を持ち、阿弥陀仏を唱えながら数を数えているだけのものも、修行とは言えない。それはただ心の妄念を少し減らしているにすぎない。本当に福と慧を同時に修めたいのであれば、必ず私が説いている「観音法門」の録音テープで語っている前行・正行・結行を聴かなければならない。ただし、高齢者であったり、私の広東なまりの国語が理解できず、文字も読めない人であれば、六字大明咒を単純に唱えるだけでもよい。しかし、私の広東なまりの国語が理解でき、文字も読めるのであれば、必ずこのように実践しなければならず、怠ってはならない。今日は時間がないから六字大明咒を三千遍だけ唱える、などと言ってはならない。そのようなものは修行としては成り立たない。
ドゥルプワン・リンポチェ(竹旺仁波切)が来られる。ドゥルプワン・リンポチェは一生を通じて、六字大明呪を数十億遍も持誦してきた方である。顕教であれ、チベット仏教であれ、そのような福徳と因縁をもって、この尊者とともに二日間六字大明呪を唱えることは、一人で一千万遍唱えるよりもはるかに意味がある。なぜなら、ドゥルプワン・リンポチェはすでに正果を証得しているからである。今回が、おそらく台湾に来られる最後の機会になるかもしれない。それにもかかわらず、今のところ法会に参加する人はまだ千人余りしか集まっていない。これほど素晴らしいことを、なぜ人に伝えないのか。六字大明呪を軽く見てはならない。私が皆に授けている、命を救い病を治すこともできる甘露丸は、直貢梯寺の二百五十人のラマが、四十五日間絶え間なく六字大明呪を唱えて作り上げた法薬である。今回ドゥルプワン・リンポチェが台湾に来られるのは、三年前に私に約束してくださったことによるものだ。私はドゥルプワン・リンポチェに、どれくらいの人が法会に参加するのがよいかと尋ねたところ、「多ければ多いほどよい」と答えられた。この言葉は驕りでも、面子のためでも、供養を求めるためでもない。なぜなら、参加者が多ければ多いほど台湾にとって有益であり、より多くの台湾の人々が苦を離れ、楽を得る助けになることを知っているからである。この一生で、ドゥルプワン・リンポチェとともに二日間六字大明呪を唱える機会があれば、必ず三悪道に堕ちることはない。浄土に往生できるかどうかは、その後の因縁次第であるが、『阿弥陀経』に説かれている「少なからざる福徳因縁」は、すでに具えていることになる。私が長寿仏を修しているだけでも、皆はその力を感じているはずであり、ましてやドゥルプワン・リンポチェとなれば、なおさらである。
なぜ二日間なのか。一日ではないのか。これほど優れた大修行者が来られるのに、一日だけ親近するのでは、あまりにももったいないのではないか。親戚や友人にも伝え、ドゥルプワン・リンポチェとともに二日間六字大明呪を唱えるよう勧めなさい。なぜなら、ドゥルプワン・リンポチェは一生を通じて六字大明呪を弘めることに尽くしてきたからである。私の「観音法門」の録音テープで、六字大明呪の意味を解説しているのを聴けば、その深さと容易でなさが分かるだろう。その功徳は、経典を読むよりもはるかに大きい。というのも、すべての経典を完全に読誦することは不可能であり、一生でせいぜい一部を集中して読むのが関の山だからである。しかし六字大明呪の中には、すべての諸仏の智慧と、すべての諸仏の功徳が含まれている。仮に一人が一万遍唱えれば、二日で二万遍、二千人が参加すれば二千数百万遍となる。さらにリンポチェ、私、そして他のリンポチェやラマたちが唱える分を加えれば、その数は冗談ではない。この一生で、あなたたちはそのような数を唱えることができるだろうか。
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2025 年 12 月 26 日 更新