尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年9月22日
法会開始前、一人の皈依弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に上師を賞賛し、インドのラダックへ行った時の感想を述べる機会を与えて下さったことに感恩した。
今年7月、彼女は幸いにも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従い、北インドのラダック平陽寺へ行き、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王が自ら主法した「千手千眼観音灌頂法会」及びリンチェンドルジェ・リンポチェが護持した喜金剛寺開幕式典に参加した。彼女はこの機会は非常に得難いものであることを知っていたので、出発前、自分に対してインドでの一日を大切にすること心に誓っていた。
彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが各所で彼女に因縁福報を貯める機会を与えたことに感恩した。彼等は平陽寺に於いて幸いにも4日間の法会に参加した。更に、上師リンチェンドルジェ・リンポチェに着いていたので福報があり尊勝なる直貢チェ・ツァン法王に謁見できた。当地のチベット同胞が非常に苦労して恭しく法会に参加したのを見た。また彼等のような甘やかされた客は帽子をかぶり、傘をさしていて、彼女は非常に冷や汗をかいた。
一日目と二日目の法会の時、彼女は、壇城の尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが何度も弟子たちのいる方向を見ているのを見かけた。元来、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子が暑さでめまいを起こすのを心配していたからであった。法会の三日目、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちのために、強い日差しがなく、更にそよ風がある快適な天気を求めたため、弟子たちは気持ちよく法会に参加できた。法会が終わると、空には殊勝な瑞相である「日暈」が出現したので、皆はそれを見て非常に興奮し、途切れなく賞賛した。4日目の「ポア法」の修習では、彼女はチベット同胞が雨に濡れているか、地面に座るか、蹲って恭敬に仏法を聞いているのを見た。彼等一群の甘やかされた客は、屋根のある絨毯の上に座っていた。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが先回りをして彼等のために手配してくれたことを非常に感恩した。
彼女は、平陽寺の住職と経験あるラマの言葉を聞き、更に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが平陽寺に行ったすべてを賞賛した。彼女とその他弟子たちは、如何にして尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ門下に福報皈依すればよいか!いつでも尊勝なる直貢チェ・ツァン法王と尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの師弟はまるで親子のように相互に影響し合い、彼女は言い表せない温かな感動が沸き起こった。尊勝なる直貢チェ・ツァン法王はいつも心から笑っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも敬いながら傍に寄り添っている。
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいつでも弟子たちに、弟子は上師に如何に上師を敬うべきか、上師を供養すべきか身を持って見せているのを彼女は感恩した。彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが各所で弟子に供養の機会を与え、福報因縁を貯めさせることに感恩した。また尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいつでも弟子たちに仏法を生活の中で用いる重要性を促すことで、彼女は妄念を減らす事ができ、自己の貪、嗔、痴、慢、疑を途絶することを学び、いつでも自分の言行立ち振舞が仏を学ぶ者らしいように注意している。
彼女はすべての兄弟子がすでに今回のインド法会団が見たすべての瑞相を信じた。そして深く感動し、彼女は自分の目で見たので深く感動した。たとえインドでない場所でも、言い終わらない不思議な事蹟と瑞相があり、そこでは皆が上師リンチェンドルジェ・リンポチェと共に同じ場所にいることを喜んでいた。しかし、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、常に衆生を助け続け、一時も休まない。毎日、師兄たちが、上師がまたもどこかの衆生を済度した、またどんな瑞相が現れたかを賞賛しているのを彼女は聞くことができ、どこでも法喜で満ち溢れている。彼らがデヘラードゥーン空港で搭乗を待つ時、思いがけずにめずらしいアホウドリを見た。彼女は今までこの種の大鳥を見たことがなかった。羽が長く、大きく、速く飛ぶ。カメラでその姿を捉えるのは困難なほどに。それは元々、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが空港に到着したからであり、それはいわゆる大修行者のなせる技であり、必ず瑞相が出現する。
帰国後、彼女の家族と友人は、彼女にインド旅行の感想を聞いた。彼女は、もしも明日この世を去ることになっても今生に後悔はないと答えた。けれども今、彼女の考えは、できるだけ何度もリンチェンドルジェ・リンポチェに着いて出かけたいと望むようになった。なので、家族は彼女のこの度は「懺悔の旅」だと言う。確かに彼女のこの度は、いつでも懺悔がなかった。彼女は、自分は高山病にかからなかったし、何の不具合もなかったが、よく眠れず、寝返りばかりうっていた。しかしながら、昼間は気分もよかった。或る晩、夢うつつの時、耳元でひとつの声を聞いた。それは彼女に「起きて懺悔せよ!」と告げていた。それを聞いて彼女は眠気がなくなり、ベランダの椅子に座り、心の中にはたくさんの思いが生まれ来た。彼女が冒したたくさんの間違いはまるで映画フィルムが巻き戻るようにはっきりとした。彼女は自分の仏を学ぶ態度を懺悔した。妄念が多すぎたためにまじめに学べなかった。自分が若い時の無知が向上できず、そのまま歳をとってきた。それで資糧がなく福報がなく、「會跟(慧根)」もない。それなのに金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが出国して弘法するのに付き添うことができることを懺悔した。
彼女は、自分の不孝、不服を懺悔した。現在、父母は既に往生しているが、それでも自分の無知無能に悩む。彼女は自分が妻の責任を果たして来なかったことを懺悔した。自分の行為と態度を改めなかったために、夫が今まで仏を学びたがらないのだ。彼女は自分が今までして来た殺生を懺悔した。彼女は、自己の貪、嗔、痴を懺悔し、貪念が常に現れ、いつでも自分が仏を学ぶ者であることに注意を怠る。夜に再び悩み、懺悔した。まだまだたくさんある。彼女は今、思い出すことができない。ただ当時傷つけた衆生がひとつまたひとつと頭に現れたことを覚えている。生活の中の一つ一つの事は、どれにも懺悔した。彼女が最後に思ったことは、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにしっかりと着いて仏法を学び、徹底して悪習を改めることを決心した事を覚えている。そして彼女は再び床についた後は日が昇るまで眠った。
彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感恩した。インドから戻った後、彼女の心は以前より軽くなり、考え方も柔軟になった。彼女は寶吉祥漢方薬診療所へ病気を診てもらいに行った時、ちょうど一人の兄弟子に出会った。その兄弟子は彼女の体の具合を心配して尋ねたが、彼女は病気ではないようだと答えた。続いて彼女は西洋医に診てもらいに行き、エコー検査をした時、医師は彼女の乳房の腫瘍は最近の2.7㎝から今では1.2㎝になったと言った。彼女は手術をしなくても良いだけでなく、化学治療もしなくてよくなった。医師は薬物の使用だけでこれほどの効果が現れるのを見たことがないと言った。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感恩し、すべての「不可思議」はみな尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の加持、そして上師が開設した寶吉祥漢方薬診療所のお陰であり、更にはコストを顧みない上等の薬剤のお陰である。
彼女の家族はこのことを知った最初の反応は「感恩」だった。リンチェンドルジェ・リンポチェの継続的な教えに感恩した。仏を学ぶことは努力が必要である。経を念じること、持咒が仏を学ぶことであると思ってはいけない。それらはただ縁の助けにすぎない。彼女は皈依して何年にもなるのに、日課をするだけでその他のことは何もしてきていないことを懺悔した。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い加持と教えがなければ、彼女は生活の中での逆境と挫折にどう対処すればよいかわからず、どのように耐えれば良いのかわからなかった。今、彼女は、更に自身がリンチェンドルジェ・リンポチェの後ろに着いて努力して怠けずに仏を学ぶことを望んでいる。彼女は会場の兄弟子たちと共に務めることを呼びかけ、再び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感恩した。同時に、上師の法体が安康され、在世の長寿によって一切の有情衆生に利益することを祈願した!
続いて、2番目の弟子は、会場の大衆に対して、彼の父の病気危篤から往生、そして尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェから受けた加持と済度の経過を分かち合った。
今年(2013年)4月25日、彼の父は、前立腺癌によって敗血性ショックを起こし、集中治療室に入って插管治療がされた。病院に着いた時、彼の父は既に心臓が停止し、病院は危篤を知らせる他に、彼の家族に、彼の父は腫瘍が大きすぎて2個の腎臟の排尿機能が塞がれ、全身の浮腫がひどく、且つ尿毒指数が非常に高いことを知らせた。病院では緊急治療をしたが、医師は家族らに心の準備をするように言った。彼の家族らは話し合いによって一致して延命措置を放棄する同意書に署名した。日々は1日1日と過ぎていき、彼の父はその間ずっと意識不明の状態であった。彼の父は既に95歳の高齢であるため、病院は支持療法を行う他、彼の父が目覚めるかどうか、いつ目覚めるかは確認できない。
彼の目から見て、父は癌の併発症によって何本もの管が差し込まれていた。そして尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て開示した仏法を思い出していた。彼の内心は非常に焦っていた。父は意識不明であるが、きっと非常に苦しんでいる事がわかった。そして彼は、5人の姉を説得して一緒に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに父を助けてもらえるように祈って欲しかった。なぜなら、一人で父に代わって祈るには福報が非常に少なすぎることを知っていたからだ。けれども当てが外れて彼は非常に後悔した。家族たちは何の宗教も信仰してはいなかった。彼は既に仏を学んでいたが、家族に影響を与えられずにいたため、今日のような事態になり、父が苦しみを受けるのを見た。彼の心は熱い鍋の中の蟻のように非常に焦っていた。
彼の父は一生の間、宗教を信仰したことがなく、肉を断つことなく、更に仏を学ぶこともなかった。彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに珍貴なポア法を求めたかったが、叶うはずがないことを知っていた。けれどもそうではないと考えなおした!父はこの一生で因縁がなく仏法に触れなかった。かれの息子はきっと父に代わって上師及び諸仏菩薩に淨土へ往生する縁となることを祈り、その上、父親の身にはきっと多くの父と縁のある衆生たちが済度されることを願っている。もしも今回求めなければ、幾世を過ぎた後に、次の機会が巡ってくるかわからない。彼と妻は相談した後、覚悟を決めて道場で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会い、父に代わってポア法及び供養を求めた。慈悲深い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、その時、彼の父のために長い時間、持咒加持彼を行った後、彼に対して父に代わり大礼拝をして衆生及び諸仏菩薩に懺悔することを申し付け、父の福報を貯めさせた。
一二週間が過ぎた後、医師は彼の父は腎臓の一つの状況が悪いため、透析する必要があると言った。家族は相談した後、父親は既に意識不明になっているので透析せず、父の痛苦を増やさないことを決めた。父の状況が安定しないので、彼は6月1日に再び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会い、父親に代わって上師の助けを求め、上師を供養することにした。その前日の朝、彼は突然、家族から父が往生したことを聞いた。その日は、かれは珍貴な甘露丸を父の口の中に入れた他に、家族に頼んで父親の遺体を病院の霊安室内に安置させ、六字大明咒を持誦し、8時間後に遺体を冷凍室に納置した。
二日目、彼はすぐに尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見に行き、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに父を済度することを頼み、父が輪廻の苦海から解脱できるように祈願した。慈悲深い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、父親の干支と名前を尋ねた後、長時間持咒加持した。先ず父の神識を保護し、短い入定後に彼に開示した。「あなたは二日後の祖師の紀念大法会で、当日参加の法会すべての功徳を父親に迴向することで、彼は済度を得られるだろう。」彼はそれを聞いて涙がこぼれ出た。彼は月末の施身法法会でやっと父は済度されると思っていて、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなにも調度良い手配をするとは思わなかったが、父は往生して一日目ですぐに加持と保護がされ、その翌日には済度を得て、父の痛苦の時間が短縮された。彼は上師の慈悲の手配に感恩し、彼の父が祖師ジッテン・サムゴン紀念大法会で済度され、仏を学んでいない父が仏菩薩と深い縁を結ぶことができた。
祖師ジッテン・サムゴン紀念大法会で、彼は慈悲深い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の父を済度するのを求めた時、彼の心には特別に深い気持ちがあった。彼は、父が上師と諸仏菩薩の助けを得ることを求めるだけでなく、更に一切の縁ある衆生にも助けがあり、輪廻の痛苦から解脱することを願った。祖師ジッテン・サムゴン紀念大法会が終わった後の家庭会議で、彼の一番年上の姉が彼女の夢に父が出てきたことを話した。彼女は夢の中。で父に、しばらくしたら母の遺灰を取り出し、父の遺灰と共に家からそれほど遠くない国軍忠靈塔に置くことを報告した。父は姉に頷いて微笑んだところで、姉は目が覚めたという。
ここまで話して姉は笑いながら言った。「すごく不思議なのよ!父の顔色はとってもよくて若いのよ。とても若かったのですぐに誰かわからなかったほど!歩く姿も若者と同じなの!なぜ、夢では年寄りの父ではなかったのか?なぜ、若い時の父なのか?本当に不思議だ!」彼は家族に言った。「尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは以前開示したことがある。往生した者で善道へ往生すると、現れる時には若い時の姿になる。だから父は善道へ往生し、良いところへ行ったのだ!」それを聞いて、家族は非常に嬉しく、また感恩した。彼の父が往生した後、家族たちの心は僅かな感傷と懐かしさだけが残り、後処理は非常にスムーズでスピーディであり、全く確執はなかった。彼は家族たちに、祭祀の時に肉魚類を使用しようないように言った。家族らは、意見はなかった。父を荼毘に付した後、頭蓋骨には淡いピンクとオレンジ色の瑞相が現れた。
彼は、大慈大悲の金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲加持が彼の父と衆生を憐れみ、衆生が三悪道に堕ちないことに感恩した。彼は上師と諸仏菩薩の威神力は不可思議なものである!と賞賛した。同時に彼は自分が少しも教えに従って行わず、自分の意見を主張したことを懺悔した。そして彼は必ずすべての力で自己を改め、上師に従い、上師の恩に報い、父母の恩に報いることを誓った。彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが加持を行い、弟子を菩提になるまで叱ることができるよう求めた。最後に彼は再び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ、アキ仏母及び諸仏菩薩に感恩し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ法体を安康し、仏法事業が永遠に興隆することを祈願した。
続いて弟子と信衆は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2002年12月22日開示した法帶を清聴した。
リンチェンドルジェ・リンポチェは、先ず開示した。以後道場や仏寺のどちらでも、あなた方在家の者は、永遠に出家人の前にいては行けないし、先ほど数名の弟子が道場に入って頂礼する時、引率の出家衆に注意を払わずに座り、出家衆の前で頂礼した。尻は、出家衆の頭の前である。この規則を理解しない事を厳しく責める。在家衆は、出家衆に会った時、彼らの前にいてはいけない。引率とは何か?即ち、あなた方を導いて一切の儀軌を行う。彼らは出家相がいたなら、あなたは彼らの後ろに立ちなさい。リンチェンドルジェ・リンポチェの果位を修める時だけ、出家衆の前に立ってもよい。あなた方が場を離れる時、出家衆に先を譲りなさい。出家衆は何も特別ではないが、彼らは既に一切の世間の事を捨てる事を以って仏法を学んでいる。あなた方は彼らを尊重しなければならない。あなた方が道場に入る時、目は一箇所を見るだけで、他の場所を見てはいけない。少しの儀軌、礼儀、規則がわからず、ただ自分が気持ちよくできればいいと考えて頂礼が終わって座る場所を探すような心の有り様では、仏を学ぶことはできない。
どこでも、道場でも、私たちは先ず出家者を尊重しなければならない。次に年配者、そして子供を世話する者であり、これが人の道である。人としての礼節がわからなければ人になれず、仏を学ぶ資格もない。台湾は今、非常に乱れている。尊卑の区別がなく、長幼の序の決まりもない。学生は先生を殴り、息子は父母を殺す。本当に乱れている。あなた方が仏を学んでもやはり乱れている!子供がいる人は、ただ自分の子だけの世話をして、周りのことは気にかけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の女性信衆を叱責した。彼女に、以後パンを持ってきて子供に与えてはいけない。ここは清浄な道場であり、如何なる卵類の物でも持ち込んではいけない。
今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは子どもたちに仏法を聞かせる。母親は自分の子供だけを面倒見ることではダメで、周りの子供も世話をしなければならない。自分の子供だけを世話し、他の子供は構わない、それは自分勝手な行為ではないか。あなた方が仏を学ぶのは、自分さえよければよく、ただ自分のことだけ考え、人のことは構わない。あなたは自分の子供だけを見て、人の子供は見ない。人の子供はあなたの子供を弄び、あなたは不愉快になるので、子供の頃から自分の子供を人と戦ったり、争わせたりするように訓練する。仏を学ぶ人がもしも人間関係をそのように処理するのなら、たくさんの仏法を聞いても何の意味もない。我々は人の道で生きていて、人としての条件、基準がある。あなた個人が人なのではなく、すべての人が礼節、礼儀を理解しなければならないし、尊卑をはっきりさせなければならない。もしも、このような考えでないなら、それは人ではない。今日、あなた方は出家衆の前でした頂礼は、儀軌の事に合わず、以後再度発生してはいけない。これは彼ら二人だけでのことではなく、以後ラマ僧にもあるかもしれないし、別の出家衆にもあるかもしれないが、このように分別を無くしてはいけない。
今日、人の体を得ることができ、因縁福報によって仏を学ぶことができるのは、あなた方の累世の因縁である。今日、この機会を得て仏法を聞くことができたのをしっかりと掴み取り、真に多くの欠点を改めなければならない。あなた方はなぜ今生に生まれたのか?それは過去世でしっかりと学んでおらず、修めていないからである。けれども過去世で仏法を聞き、わずかでも修行をした。だから今生に因縁があった。しかし、もしも今生の因縁を大切に思わないのなら、来世はいつ来るのか誰も分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェのこの世と、前世の間は、四百余年の時間差がある。あなた方はこの世で死んだらすぐに戻ってくると思っているがそうではないし、戻ってくるとは限らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、この世で37歳の時に、仏法に接触した。もしも因縁がなければ、この世に生まれてきた意味が無い。仮に過去世のリンチェンドルジェ・リンポチェがよく修めていたなら、今生ではこれ等の善知識で導くことはなかったし、機会を与えても、リンチェンドルジェ・リンポチェの今生は浪費となっただろう。
仏を学ぶのは人生の大事であり、何よりも重要である。あなた方ははっきりと覚え、確実に記憶しなければならない。我々の今生でのいわゆる功名利禄、家庭、子供はすべて因果と因縁法であり、あなたが仏法を修めたか否かは全く関係がない。仏を学ぶことで、家庭や事情に対して良くない影響があると考えてはいけない。或る人々は、仏法を聞きに来るのは日曜日、行く場所がなく100元か200元を払うだけで仏法を聞くことができ、外でコーヒーを飲むより安いと考えているがそれは違う。仏法を聞くには完全に清浄、期待、希求が必要で、仏法を聞くことができるようになる。
今日、あなたは一人で仏法を聞きに来た。あなたが連れてきた衆生には今までの関わりのあった人々、冤親債主がいて数えきれない。もしも、あなたが心をこめて聞かないのなら、上師のあなたに対する導きを受け入れることはできず、あなたの累世の冤親債主と関わりのあった人々は皆失望する。だから一度の法会が簡単であると軽く見てはいけない。今、もしも300名の人がここにいるのなら、おそらくその100倍、1,000倍の衆生がここにいるし、もっと多いかもしれない。だからこそ、心を込め、懺悔心を持ち、希求、渴求法の心で仏法を聞くことである。あなたの事情はゆっくりと良くなっていく。なぜならあなたの冤親債主は利益を得るからである。もしも仏法を聞いて自分が得をする、あなたの子供がよく話を聞く、勉強ができるようになるということを望み、そのような気持ちであるならば、あなたにとって何もいいことはないだろう。なぜなら、あなたの冤親債主は得をしないからである。
もしも今日仏法を説く者、仏法を聞く者の心が同じで一切の有情衆生に利益することを望むなら、その法会の力は虚空にあまねく、小さな空間で簡単なことではない。いわゆる遍虚空はすべての六道一切の有情衆生を指し、特に十方法界のすべてを含む衆生は仏法を聞くことができるが、皆が同じ心を持たなければならない。なぜ釈迦牟尼仏は仏法を説く時、十方法界諸仏菩薩、そして六道衆生を含み、感化して仏法を聞くことができるのか?なぜなら説く者、聞く者どちらもひとつの心であり、衆生を利益して生死を解脱したいと思っている。
あなた方の心は、いつも自分のためである。たった今、リンチェンドルジェ・リンポチェは子供に上げるためのパンを持ってきた母親のことを話した時、彼女の目はすぐに大きくなり、自分は無実の罪を被せられたと思った。《仏子行三十七頌》の中で説いている。公の場で或る人があなたのことを間違っていると言った時、あなたは彼の菩薩になる。だから彼女の心では仏法を聞いても役に立たない。なぜなら、彼女は受け入れないから。なぜ《仏子行三十七頌》が説くことはこんなにも詳しいのか?もしも、あなたが毎日の生活で《仏子行三十七頌》に照らし合わせて学び、修めるなら、あなたは将来絶対に面倒が起こらないし、敵も作らないことを保証する。あなた方は、実を以って修めていない。ただ上師が何事かを言っただけで、すぐに態度を変える。表情さえも変える。このようでは、教えのとおりに実行することができない。
顯教または密法のどちらを修めるにかかわらず、《仏子行三十七頌》は基礎であり、最も重要であり、最も根本である。もしも《仏子行三十七頌》を人としての指標にできないのなら、必ず悪業を行う。あなたが皈依しても、至るところの道場へ行って、懺悔を捧げ、法を聞いても役に立たず、必ず悪となる。人を傷つけたから悪になるわけではなく、仏が言う悪とはあなたの思いが良くないだけで、人を利益しないのは悪である。この基準まで行うことは非常に難しいが、あなた方は少なくとも一つの基準までしなければならない。自分は正しいと思ってはいけない。自分は正しいと思っただけで、相手は間違いであることになる。相手の間違いは何処なのか?なぜなら彼はあなたの或る考えが満足できないからである。
なぜ、今回リンチェンドルジェ・リンポチェは四加行を伝える前、一切の理念を詳しくあなた方に話したのだろうか?あなた方は四加行を修めるのは何も問題がないとはっきり思っている。この過程において、リンチェンドルジェ・リンポチェはずっと話し続け、話はたぶん来年の三、四月までかかるだろう。あなた方の忍耐心が持つかどうか、継続して聞き続けられる因縁があるかどうかを見る。リンチェンドルジェ・リンポチェは以後どんどん煩くなり、どんどん厳しくなる。先週の金曜日、あなた方のうち15名が道場のベストを着ないで来た。この15名は以後施身法法会に参加申し込みする時、永遠に候補となるだろう。知らない、はっきりわからない、意味がわからないと言ってはいけない。なぜならあなたはこころを込めて聞いてないからだ!もしも道場に儀軌がなく、決まりがなく、人が多くなれば、非常に面倒である。
善知識は誰もあなた達にすべて生死を解脱できることを望んでいる。生死解脱は、仏号を念じ、禪七を行い、たくさんの法会に参加するだけで解脱できるのか?いいえ、違う。これらはすべてあなたの福報が貯まったからである。真に生死を解脱するには手放さなければならない。何を手放すのか?プライドを捨てるのである。もしもあなたが自分の考えが正しいと思うのなら、プライドを捨てることができないし、この生死の関は絶対に破れない。手放すことができてから、あなたは輪廻の痛苦がどこにあるのかをゆっくりと理解することができる。今日はたくさんの理論をあなた方に聞かせるが、あなた方の内面世界において真に理解できるわけではない。なぜなら、あなた方はまだ手放していないのだから。あなた方には累世の習慣に「我」の観念が重く、またこだわりがあるために、それを変えるのは容易ではない。だから、釈迦牟尼仏は法を49年間説き、やっとこんなにも多くの大菩薩になり、大德は数千年の中で、途切れることなく仏法を広め、衆生が聞くことができるようにした。
四加行は、チベット仏教を学んだ後、密乗について学ぶには非常に重要であり、四加行なしで、後の法は決してあなたに話せない。リンチェンドルジェ・リンポチェには親しい友人がいるが、昨日彼と話していて、リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの密法祕密の法門を持っていることを話したが、彼は信じなかった。結果、彼は大陸で一人に出会い尋ねた。そのチベット人は彼に言った。これらの法は漢人には教えない。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェ・ツァン法王と特殊な因縁があるので、多くのチベット人にでも伝えない法をリンチェンドルジェ・リンポチェは学ぶことができた。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分のために学んだのではなく、あなた方を助けるために学んだ。けれどもあなた方は助けを受けなければならないし、あなたが助けを受けないならば、処理することはできない。
だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは詰った後、引き続きあなた方に話す。我々はこの傷のない体を得たことは非常に得難いことなのである。もしも、過去世で父母に孝行しなかったり、十善法を修めなかったりすると、その一生は人の体を得ることができない。もし得ることができてもその体は問題がある。だから、仏は常に言う。人のからだは得難いものである。六道の中で、厳格に言うと、すべての有情衆生の中で、ただ地球の人類だけが仏を学び、仏を修めることができる。東、南、西、北の四部洲のうち、ただ南部洲だけの地球の人類が仏法を聞くことができる。その他、三つの洲もすべて人類であるが、仏はそこにいない。
だから、我々が人の体を得たということは、その体は我々の過去世と今生において、すべての業力を体現したものである。その体は宝であるが、その宝はあなたに享受させるものではなく、あなたに威張らせるものではなく、あなたにこの世で仏を学ぶ工具として与えたのである。だから龍樹菩薩は地獄、餓鬼、畜生、辺地、及び長壽天の者、邪見に生まれると、仏陀は世に出ないと説く。聾者、唖者どちらも正法を学ぶことができない。後に話すのは、いわゆる十円満は五個の自己円満及び五個の他円満を含む。龍樹菩薩が説く五個の自円満とは、一、人であること。二、中土に生まれること。三、諸根具足。四、極悪未行。五、信心具足である。
身体を得る時、辺地に生まれるのではなく、仏陀、四衆、弟子が安住できる地区、即ち「生地区域円満」に生まれる。例えば、アフリカ、ハワイ、南太平洋の小島では仏法を聞くことはできない。すべての根、即ち一切の器官は欠陥がないので、「諸根功德円満」という。「諸根功德円満」はすべて過去世で修めたものである。あなたがこの世で外見が良いかどうか、背が高いかどうか、背が低いか、太っているか、痩せているか、色白か、色黒か、これらはすべてあなたが過去世で行った布施供養に関係する。もしも、今生であなたの容貌が良いことを望むのなら、真に法に基づき修行しなければならない。経典で、顯部、密法のどちらでも、もしも教えに基づいて修行したのなら、彼の外も中も一緒に変化する。即ち心に従って変化するということであると説いている。もしも、あなたの現在の写真が数年前と比較して悪くなっているのなら、それはあなたが修行できていないことを表している。見たところ、人があなたを見て賢そうではあるが、少しの慈悲も感じられず、少しの睦まじさも感じられないのなら、それはあなたが修行できてないことを表す。人はあなたに近づくことができず、ただあなたと一度付き合っても再び付き合うことはない。それはあなたが未だ改めていないことを表している。
事実、真に修行をした人は、その人の外見が変わるだけでなく、内心も変化する。体臭すらなくなる。だから、ある人が未だに肉を食べていてリンチェンドルジェ・リンポチェの傍に座ったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず匂いを嗅ぎ当てる。業が重いことを嗅ぎ分け、心が恭敬でないことも嗅ぎ分ける。座っただけでわかる。なぜならば心が清浄ではないからである。心が清浄でないと、あなたの外見のすべての容貌に影響を与える。リンチェンドルジェ・リンポチェはよくあなた方は黒黒としていると言う。即ち粉を塗っても黒い。この黒いとは皮膚が黒いということではなく、心が黒いということであり、未だ変化することがない。だから、占い師があなたは福報があると言っても、それは過去世が持ってきたものであり、あなたはこの世で何も変わっていない。あなたが今生で受けた身体は過去世が持ってきたものある。もしも、あなたが未来に荘厳な相を望むのなら、今修行しなければならない。もしも、あなたが修行をしないのなら、あなたの未来生は、やはり今と同じく酷薄であり、醜い相であろう。あなたは諸仏菩薩の相は円満だと思う。その円満は餅のような円満ではない。道理はどこにある?諸仏菩薩の福徳は円満である。
諸仏菩薩の相は絶対に頬骨はつきだしていない。多くの座っている男や女は、頬骨が突き出している。これは他人をコントロールしたいと思っていて、その人は自分が最も優れていると考え、何でも手の中で掌握したいと思い、人が話を聞かないとなじる。あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェの叱り方を学んではいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェがなじるのは自分のためではなく、叱っている人が、リンチェンドルジェ・リンポチェは良いと望むためではなく、相手のためである。リンチェンドルジェ・リンポチェが人を叱っているのを学ぶが、それは何を根拠に他人を叱るのか?頬骨が高いのは、人をコントロールするのが好きなのである。それはあなたの過去世の心が持ってきたものである。我々の諸根が円満であり、少なくともあなたは過去世で良い事をした、少なくとも仏法に接触した、少なくとも供養に布施をした。
第二に、まだ悪業をしていない。即ち、あなたは今生で非常に悪いことをしていない。そして最も重要な事として、あなたは五無間罪ができない。父母を殺すこと、仏身を傷つけること、阿羅漢を殺すこと、僧の和合を破ることである。更にあなたは楽行善業を行っている。お金を寄付するのではなく楽行善業を行う。楽行善業は自分でしたことも含む。最も大切なのは隨喜功德である。隨喜功德は一般人が想像することではない。「いくら包めばよいだろうか?」「隨喜!」そういう意味ではなく、つまりすべての上師、一切修行人が修行する過程、衆生を利益する過程を見ることである。我々はいつも心のなかで、口で賞賛していることを隨喜と言っている。あなた方は今、これが欠けていて隨喜がない。なぜあなた方は他人をなじるのか?なぜあなた方は他人の子供を世話しないのか?なぜならあなた方は分別心がとても重いから。
楽行善業も過去世がもたらした習慣であり、リンチェンドルジェ・リンポチェは、この数年で多くの衆生を助けたが、一部はいう必要もなく自然に皈依したいと言ったが、或る者はどうやって見ても、彼は皈依したいと言わない。それは善業を行う考えがないのである。なぜならあなたが皈依したなら、悪業を断ち、善を行うところから始まる。だから或る者は先ず、小悪をしても構わないと思うが、それは善業を行っていない。それは「殊勝心識の円満」と言い、仏陀教法は一切の善業が生まれる調伏点である。だから、もしもしっかりとした心が生まれ、心が仏法に向いたのなら、それは即ち心識が円満であるということである。
今生が無傷で円満であるとは、過去世で持戒があり、戒律が清浄であったからである。円満であったのは、布施、供養等の一切善行を行ったからである。なぜ、仏を学ぶ人は必ず持戒があり、布施を行うのか?なぜなら、もしも今生で生死解脱ができなければ、少なくとも来世で無傷の身体を得なければならない。だから我々は持戒清淨し、布施供養等々をすることで、やっと無傷で円満な人身宝を得ることができるのだ。しかしながら、一般的に言って、身体を得た後は、戒を守る者は少ない。あなた方も含めて。あなた方は皈依し、仏を学んでいると言うが、仏法があなた方の日常生活で衝突が起こった時、あなた方は仏法を忘れ、破戒する。あなた方は、戒律はあなたに対する約束と考えていて、戒律を破ってからどうするか考えようと思っている。
だからなぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェが、あなた方は懺悔しないでただ謝るだけで、それは真に自分の間違いを認めたことにならない。更には間違っても何処が間違ったのかわからないといつも言うのか、更には「なぜ、上師は怒るのですか?なぜ上師は私を叱るのですか?私は何を間違えたのでしょうか?」と尋ねる。このように考える人、このように言う人は、自分のすべての行為は戒律を破っていないと思っている。事実、リンチェンドルジェ・リンポチェの見方、諸仏菩薩の見方を以ってすると、あなた方の身、口、意が少しでも戒律を破ると、すぐにあなたを糾さなければならず、待ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた方はここへリンチェンドルジェ・リンポチェと友人として交流するために来ているのではなく、自分の欲望を満たすために来ているのではなく、徹底的に仏法を学ぶために来ているのだと言ったことがある。もしも、上師が一日中あなたを見張っていなければ、あなた方は簡単に戒律を破るだろう。こっそりとやれば上師は知ることはないので構わないと考えてはいけない。仏菩薩は知っているし、護法も知っている!だからもしもあなたが戒律を破ったなら、自然とこの道場から離れるだろう。
戒律を守るが清浄であることは更に少ない。戒律を守って清浄であるとは何か?それは即ち、この戒律を守ることであり、望みがあるから戒律を守って何かを得るためではない。戒律を守ることを知った後、一に人天の導師とし、二に自分を円満に仏道の道を歩かせ、戒律を守ることで将来何か福報を得て人を驚かすことを望んではいけない。自分が菜食で偉いと考え、あらゆる所で人に自分は菜食であり、胎裡素(親が妊娠する時から肉を食べない、生まれた子供)であると言う多くの人をリンチェンドルジェ・リンポチェは見たことがある。おそらく、その人は一頭の牛か羊の生まれ変わりなのだろう。牛や羊は肉を食べない。だからたぶん胎裡素になるのだろう。どこがすばらしいところなのか?
戒律を守るのは、我々個人の行為であり、最も大切な戒律は我々の心の中にある。自分できっちりと、明らかにしなければならず、あなたの身、口、意が出た時、衆生を傷つけてはいないだろうか?自分利益のためになんらかの嗔念を起こしていないだろうか?もしもあるのなら、それは戒律を破っている。何を自分の利益というのか?人があなたを下に見ると感じる、あなたの言うことを聞かない、人があなたにメンツを与えないと感じる、すぐに怒って叱る。それらは戒律を守っていないのであり、戒律を守るのは清浄でなければならず非常に困難である。更に、我々は家族が、いわゆる利益に巡りあった時、外からの誘惑があった時、それでも戒律を持ち続けられるのは更に少ない。
以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に一つの話をしたことがある。それを今日再び皆に話して聞かせる。リンチェンドルジェ・リンポチェがまだ密法を学ぶ前、顕教を学んでいた時のことで、リンチェンドルジェ・リンポチェは皈依してすぐに酒を飲まなくなり、一滴の酒も受け付けなくなった。在る日、或る人と商談をした。その人はリンチェンドルジェ・リンポチェが酒を飲まないと知っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェが仏教徒であることも知っていた。それでリンチェンドルジェ・リンポチェを困らせようと、リンチェンドルジェ・リンポチェがこのビールを飲んだら契約しよう飲まなければ契約しないと言った。この商売の数字は非常に大きく、金額は八桁あった。もしも椅子に座っている諸氏ならば飲んでから考えようと思うだろう。帰ってから再びアキ護法に懺悔する。アキにあなたは寄付をすると言うだろう。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだアキを修めておらず、観音菩薩があるだけだった。観音菩薩は最も慈悲深い。リンチェンドルジェ・リンポチェは決まりを破ることもできるだろう。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは飲まないことを貫いた。そして、この人に言った。「今日あなたは私に酒を飲むことを迫り、飲んだらあなたと商売すると言った。以後、我々は敵同士になる。今日我々が商談しているのでないなら、以後私はきっとあなたと友人になる。」この人は「あなたは大した度胸の持ち主だ。あなたがこのように決めたことを曲げないというのは、あなたは以後提携したなら絶対に私を傷つけないということを示している。」と答えた。そしてすぐに契約が成立した。
だから、あなた方は外で働く時に小さな利益を得るために、あなたの良心を売り、あなたの人格を売り、更には人を騙してあなたが言う基準を達成する。更にはあなたの愛情の感じを吐き出すため、上師があなたに再度メディアに出てはいけない、そうでないとあなたの福報を傷つけるからと言いつけたことを聞かない。あなたはこれが正しいと思い、人はみなそうすると言うことを聞かない。それは戒律を守っていないし、それは清浄ではない。今日、もしもあなたが既に皈依しているのなら、広東人が言うように、あなたの髪の毛は既に濡れたのだから、洗わないままではいられない。だからなぜこれらの出家衆が剃髪するかは洗わないからである。あなた方は剃髪していないので、リンチェンドルジェ・リンポチェのように髪の毛が濡れたなら、せっけんは上にあり、洗わないわけにはいかない。仏を学ぶのもこれと同じであり、自然とあなたはこの仏門に踏み入れ、既に皈依した。それは上師との間に誓いがあるということで、あなたの生活が上師の教えに背く方法であるのなら、あなたは順調でいられるだろうか?絶対に順調にいかない。だから、戒律を守るのは非常に困難であり、清浄を守るのは更に困難である。
経典の中で言うように、あなたが博学であっても戒律を守らないのならば、あなたは同じく悪道に堕ち、多くの仏法を広く学んでも救われない。なぜ《仏子行三十七頌》はそんなにも重要なのか?あなた方はこんなにも多くの仏法を聞いているのに、嗔念が起きると、特に上師の話に反抗する。それでは以前に聞いた仏法のすべての功徳はすぐに消えてしまう。あなた方は「火燒功德林」とは、非常に怒り、人をなじり、人を叩いた時に言うものだと思っている。事実はそうではなく、あなたは上師があなたに話した仏法を忘れ、自分を思い出さず、自分が一人の仏子であると言わない。仏弟子とは何なのか?即ち、仏が我々に教えた方法で日々を過ごすことである。だから最近、病気になる人達がいる。病気になるのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが教えたことを忘れたからであり、修めた少しばかりの功徳もなくなってしまう。それは本当に早い。あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェが話したことを信じなければならない。
あなた方は生きとし生けるものの中で、こんなにも仏を拝み、こんなにもお布施をしているのに、なぜ事情は変わらないのか。道理に照らし仏経の言うところでは彼らが行う行為は自分のために業を変えようとしていて、なぜ変えることができないのかと思う。なぜなら彼らはこちらでしても、あちらで忘れ、また壊してしまう。彼らは間違った考えを持っている。私は拝んだ、私は寄付をした。私は功徳がある。福報がある。だからすこしばかりの悪をしても問題はないと思う。このような考えはいけない。なぜなら、我々は累世の中で多くの悪を行ってきている。最も重要な一点として、あなた方はちっとも理解しない。あなた方は皈依し、仏を学び始めると、あなた方の累世の冤親債主は一秒間だけあなたへの干渉を止める。なぜなら、彼らはあなたと共に仏になると考えるので、止めるのである。しかし、彼らはあなたの行為が自分を騙し、衆生を騙し、上師を騙し、仏菩薩を騙すことと見ると、彼はすぐにあなたに干渉を始める。なぜあなたに干渉するのか?あなたの行為が騙すことなのに、なぜあなたに良い日々を過ごさせる必要があろうか?と思う。
多くの人は、このことをわかっていない。彼らは自分は毎日冤親債主に念仏をとなえて迴向しているのに、なぜ離れないのか?なぜなら、あなたは教えに基づいて行っていないからであり、教えに基づいて行わない人は、永遠に凡夫地である。ここで簡単な方法であなた方に説明する。多く聞くことは多くの福報、功徳があることを意味しない。だから顕教でも言っていて、経典を読むことよりも経典を聞くことのほうがよい。経典を聞くことよりも経を行う事のほうが良い。即ちあなたが行動することであり、経典の内容に基づいて日々を過ごすことである。あなたが多く聞くことはあなたの生活方法が変わることを意味するわけではないが、あなたが徹底して聞けば、それを用いる事ができる。
今週金曜日、ベストを着なかった弟子は、なぜリンチェンドルジェ・リンポチェが彼らを次の金曜日の施身法に参加させなかったのか?なぜなら彼らは聞いたけれども忘れた。このことは簡単であるからなんでもない。仏法とは関係ないと考えた。けれども、このことは上師が言いつけたことである。もしも、上師が言ったことを聞かないのなら、仏法も聞く必要がない。なぜならたとえあなたが仏法を聞いてもリンチェンドルジェ・リンポチェはあなたが実行することができると思わないからである。だからリンチェンドルジェ・リンポチェは厳しい方法であなたを無理に管理する。なぜなら、あなた方は自分の日々に慣れている。習慣は自我の皇帝である。だから突然ある人があなたを管理すると、あなた方はそれに慣れることができないのである。
仏菩薩の前では、あなた方は子供と何も変わらない。いたずらっ子にすぎない。あなた方は皆、いたずらっ子であり、誰もが自分の考えをもっていて、誰もが内心世界に於いて、最終的には聞くか聞かないか、するかしないかと必死にもがいている。だからここで、あなたがこんなに多くを聞いても持戒を守らず、戒を守らなければ、仏法はあなたを救えないと言う。だから持戒律を持った後は傷を負わない。政教の法脈はますます興隆し、一切の魔軍を屈服させることができる。だから我々は必ず戒律を護持しなければならない。
この戒は、我々の家庭で最も簡単な五戒を含み、あなたと上師との間の宣誓を含み、あなたと各本尊の間の戒律を含む。出家した者には、当然比丘戒、比丘尼戒、菩薩戒、菩提心戒、三昧耶戒がある。これらの戒を我々はすべて護持しなければならない。もしも、あなたが戒律を護持しないのなら、その法脈は、小さな道場であっても徐々に衰退する。一道場の興隆は、上師が優秀であるかどうかではなく、最も重要なのはその上師自身の戒律が守られているかどうかである。更に彼は弟子にも同様に戒律を護持することを要求しなければならず、それでその道場が興隆する。
興隆は、財が多いかどうかを指すのではなく、真に心を込めて仏を学ぶ人が多くなっていくことを言う。我々はこのようにして定義し、どれだけの大功徳主があるか、どれだけの人が寄付したか、どれだけの人が寺を建立するのを助けたかということを言わない。いわゆる教派の興隆は、完全に修めた仏法に拠って衆生を利益する人がますます多くなる事を言う。もしもあるのならば、その教派の法脈は興隆するし、すべての内魔、外魔を我々は屈服させることができる。それが意味するところは、我々すべての人が仏法を聞き、仏法を学んで心を一つにした時、一切の魔はすべて災いではない。
少し前、或る弟子は、法会に参加した後、翌日、車を運転して兄を十八王公へ遊びに連れて行ったとリンチェンドルジェ・リンポチェに言う。今日は法会で彼に話したことを公開する。彼が皈依する時に言ったことを思い出させた。彼の兄は業が重いため、彼がリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子になっても兄が仏門に皈依することは薦めないし、彼の意に従ってその鬼を拝むことになる。彼らが拝んだ後、彼の妻以外、他はすべて拝んで、入って行った人は皆不快になった。不快になったわけは、それらの鬼は彼がやってきて法会に参加し、仏菩薩が彼を助けたことを知ったからで、彼はそれでも話を聞かず、これらの鬼を探して面倒をかけた。なぜならこれらの鬼は彼が走り去るのを見たから。
彼は皈依した時、リンチェンドルジェ・リンポチェは言ったことがある。便利を求めて外道に頼ってはいけない。彼は仏法の偉大さを兄によく説明していないし、今でも仏法として神明で拝んでいる。リンチェンドルジェ・リンポチェが今日叱ったのは、彼一人ではない。多くの人が彼と同じである。十八王公は台湾人だけが知っている拝み鬼であり、台湾人ならそれは水商売の人だけが拝む事を知っている。夜になると商売はよくなり、現在は余りよくない。なぜなら八大業種の商売がすべて悪いので、あちらも同じくよくないだろう。
だから、あなたはこの戒は破られたかと言ったのか?破られるとすぐに不快になり、彼は緊張し急いでリンチェンドルジェ・リンポチェを訪ねてきた。そして自分は高血圧であり、元々大丈夫だったのにと言う。これは即ち彼は兄が行くのを止めず、それどころか彼が車を運転し、自分が道を知らないと言えば、行かなくてもよかった。彼の兄の殺業は非常に重く、やっとのことで施身法に参加したのに、彼は翌日、兄を連れて遊びに行った。もしも、彼が兄を連れて仏寺へ行ったのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは何も言わない。この件を見ると、彼が仏を信じていないことを表している。もしも彼が仏を信じているのなら、あの日の行為は起こらなかったろうし、絶対に兄に薦めたりしなかったろう。彼は忠告しない、兄を止めない、更には兄に参拝に行かせる。仏を拝まず、犬を拝む。あなた方は本当に冗談のようなことをする。
今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが話した弟子をあなた方は笑ってはいけない。あなた方もこのようなことはしたことがある。だからなぜ、あなた方はあちらこちらで学んでも外では左右に揺れるのか?なぜなら、それは心が安定せず、信心が足りないからである。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは、今日この法座に座る資格があるのか?それは、この点に関し、あなた方と同じである。リンチェンドルジェ・リンポチェは、皈依した日から始めた。小さい頃から大きくなるまで学んだ道教というものはすべてしまい込んだ。多くの人は皈依する時、自分の神像はどうすればよいか?以前拝んだ三太爺はどうするか?陳仙姑はどうするか?彼女はあなたに恩があるか?とリンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねる。
リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた方のこのような話を聞くと、結構困っている。9歳からリンチェンドルジェ・リンポチェは父に着いて道教を学び、符を書いて病を治し、不死身となった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法がこんなにも良く、こんなにも殊勝であることを知ると、それらをリンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに必要としなくなった。あなた方はどうか?やはりあれこれと考え、できれば両方欲しいと思う。仏は遠すぎるし、神鬼を呼べばすぐにやってくる。仏はきっと少し遅れて来るだろう。当然のことながら、あなたが両方を信じると、両方来ない。前回、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に思い出させて知らせた。あなたが皈依した後、一切の非人、鬼道があなたを見て離れていくだろう。しかし、あなたの心が戒律に背いた時、あなたの護法神は離れていく。鬼も離れ、護法神も離れる。そうすると、あなたは空中で吊られたままあちらこちらへ行く。そしてあなたの冤親債主がすぐにやってくる。
リンチェンドルジェ・リンポチェは、何を話しても何を説いても、こんなにもはっきりと伝えているが、あなた方は聞き入れることができない。哀しいことだ!は、リンチェンドルジェ・リンポチェが哀しいのである。なぜなら前世であなた方のような人々に借りを作ったから。リンチェンドルジェ・リンポチェの友人は、よくリンチェンドルジェ・リンポチェに良い根器の弟子に出会えたかと尋ねる。リンチェンドルジェ・リンポチェはいないと答える。これらの弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェを煩わせないなら、ありがたい。なぜ根器が悪いのか?上根器の人が仏を学ぶことができると言ってはいない。あなた方が犯している最大の問題点は信じないということである。何を信じないのか?上師と仏が教えた方式を完全に生活面の過ごし方を聞かないことである!それが信じないことである,小事は即ちないことであると思ってはいけない。今日は、この十八王公が弟子を叱り、この放蕩息子を改心させたことに感謝する。さもなければ彼はまた行ったことだろう。機会があれば彼は彼の兄に何を因果というのか、よくよく言わないといけない。香をたけば鬼が彼を守ってくれる。それならばリンチェンドルジェ・リンポチェは修行しなくてもよくなる。こんなにも多くの仏法を聞きながら、あなた方はやはり愚かなままである。
だからここで再び強調すると、我々が解脱した戒はよくない。しかし、その他の戒律について、我々は我々の一切の力を以って精一杯護持する必要がある。我々が戒を破れば、すぐに法に基づき懺悔する。懺悔の意味は、以後決してしないということである。だから我々は戒を破った後、自分に後悔し、ひどく辛く思う。これらの人はあのように持戒して傲慢な人よりも良い。まるでリンチェンドルジェ・リンポチェが開示したとおり、或る人は菜食して傲慢であり、これは即ち持戒で傲慢ということで、これらの人は戒律を破ったけれども懺悔した人よりも更に問題であり、持戒で傲慢な人なので、絶対に魔道に入っていく。
もしも、今日あなた方が間違ったことで、上師に叱られて二度としないと懺悔したのなら、反対にそれらの持戒で傲慢な人よりも良く、あなたは間違いを知っているので、魔道に堕ちない。だから我々は持戒の人に対して常に隨喜を行い、自分も持戒できると感じる。我々はいつも懺悔と隨喜を繰り返し、仏になる前の毎日、我々は懺悔する。リンチェンドルジェ・リンポチェもやはり懺悔する。懺悔は自分が仏になっていない時の衆生への利益であり、だから間違いをする。どのようにして仏の恩に報いるのか?いくらかを供養してそれを恩に報いるというのではない。真の報恩とは、完全に仏が言うとおりの方法で、仏法を学び衆生を利益することで、衆生を利益するために仏になり、それこそが報恩の心である。
だから、懺悔は非常に重要である。もしもあなたが自分は間違っていないと思うのなら、懺悔はただ日々をよく過ごすためのものであり、その懺悔は間違いであるし、何の役にも立たない。あなた方の懺悔は、冤親債主があなた方に面倒をかけないためであり、冤親債主を迴向させて彼らからあなたを遠ざけるためである。リンチェンドルジェ・リンポチェは反対で彼らが離れない事を望み、衆生を済度したならば、なぜ自分の冤親債主を済度しなのか?こんなにも多くの冤親債主はあなたが済度するか否か、あなたが知らない人を済度するかは、あなたと因縁がなければ関係ないと思う。そうだろうか?
だから、他所で多くの人が懺悔について解釈しているが、その解釈が間違っている。多くの人は、業を消すとは冤親債主が逃げること、冤親債主を追い出すことで、懺悔の力で彼らを追い出すと言うが、それは違う!なぜならあなたの懺悔の力は、彼らがあなたを干渉するのを止めるが、冤親債主はやはり居残る。なぜならばあなたはまだ仏になっていないので、彼らもあなたと共に仏になれない。もしも、あなたが真に心を込めて仏を学び衆生を利益したなら、これらの冤親債主は反対にあなたの護法に変わる。懺悔をはっきりさせると、毎日、冤親債主よ、私の身体から離れて下さいとぼんやりと懺悔してはいけない。これは非常に怖いことであり、それは呪術である。金剛乘を学んだのなら、金剛乘は仏の心であり、衆生のために苦しみを受けても恨み言は言わないということを理解しなければならない。だから我々が病気をしたり、問題が起こったりすることは正常なのである。なぜならば我々はまだ仏になっていないからであり、これらの状況は、冤親債主があなたに少しばかりの刺激を与え、あなたに早く修めるようにそうでないと間に合わなくなることを伝えている。仏を学ぶと以後は何も起こらないと思ってはいけない。なぜならばあなたはまだ仏になっていないのだから、何もないことは不可能である。釈迦牟尼仏はこの世で仏になるのに、九つの難があると言う。頭痛、石を投げられる、人に誹謗される、馬の餌を食べる等。これは即ち、仏の果報が現れたからであり、だからあなた方が何もないことを望むが、それは可能だろうか?
仏を学ぶのは、我々から生死を離し、真の道理を理解した後、仏の学びが始まる。ある時、あなた方は病気をした時、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたに代わって病気を治したりするが、それはあなた方に楽をさせるためではなく、あなたに儲けさせたり子供の世話をしたりするためでもない。あなたの寿命を延ばすことに拠って、あなたの有限の命を用い、この一生の間に悟って、生死解脱をさせるためである。だから上師が、毎日自分の長寿を祈っているのは長く生きたいからではなく、仏果を悟り、衆生を利益したいと望み、そのため時間が必要だからである。人の命は非常に短く且つ無常であるため、仏菩薩の助けが必要であり、今生でできたなら、再びする必要はなく、時間を浪費しない。もしも再び来たのなら、絶対に菩薩の身体で来る必要があり、菩薩でなければ来ることができない。けれども菩薩の果位を修めたのなら、口で言う必要もない。
あなた方は隨喜し、懺悔しなければならない。誰かが少しばかりの衆生を利益する善事を見たのなら、その人に感謝し、少しでも彼を賞賛し、口で言わないのならば心の中で随喜することである。なぜ、我々は持戒の人に対して隨喜しなければならないのか?なぜならあなたが彼に対して隨喜することで、彼の持戒と共に同じ一功徳の大海で一つになるからである。なぜ在家衆は出家衆に礼を尽くすのか?なぜなら彼らは清淨戒を持ち、あなた方はできないことであり、それで隨喜するのである。これは出家身分があなたより高い、あなたより大きい、あなたより優れているということではない!なぜなら彼らの生活は戒律の中にあり、あなた方にはできない、だから隨喜するのである。隨喜は他者に礼を尽くすこと、他者に恭敬心を持つことを含む。なので、あなた方は今日、叱られたなら、それは何のためなのかわかるだろう!だから、我々は常に懺悔と隨喜を行わなければならない。
我々は、この一生で大きな福報を修め、天道へ行って生まれることができる。しかし、生死を解脱することができない。《華厳経》では、人の身を得たことは既に甚だ稀有なことであり、清淨円満な有暇身を得ることは更に稀有なことであると説く。我々が人の身を得るのは、ただ学問し、卒業し、結婚し、子供を産み、事業をするためだけではない。これらはただ人生の過程である。しかし、真の人の生命は、このように浪費するものでなく、これらはただ自分が生存するためにしなければならないことで、我々が追求するものではない。事実、親族が多いこと、事業が多いことは良い事とは限らず、人の体を得たのは、我々に修行させるためであり、修行は個人の縁に基づくもので、出家したからと言って真の修行とは限らない。
ここで言うところの中土は、インドのブッタガヤで、──釈迦牟尼仏が成仏になった地である。我々が、もしも五根揃わないなら、戒を受ける器になることはできず、聞思修の善縁もない。だから戒律の中の多くはすべて、因縁によって仏法を学習する。或る人々は出生した所が悪い。例えば狩猟、漁師、養殖業がある。多くの中南部の信徒は殺業が非常に重い。彼らはいつも仕方がないと言うが、そのように言うのは懺悔の心がないことを表していて、彼らは生まれがこのようであるのだから、懺悔心がなく、因果と因縁を受け入れることができないと考えている。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも彼らに言う。そのように生まれたから、このようなのではない。たぶん、あなたは過去世で多くの悪業をした。それであなたに今生で引き続き悪を行わせている。けれどもあなたは変わることができる。因縁は足りないか、善縁が不足しているので、自然と悪い地に生まれ、それは売春宿に生まれる子孫も含み、それらは淫売をする子供を作る。小さい時から外道を学び、身、口、意三門は仏法に背いている。だからこれらの人は仏法を聞き入れることが難しく、五無間罪を行いやすい。外道に多く触れると、殊勝な事が多く素晴らしくても、あなたが輪廻と悪道から解脱するのを助けることができない。だから我々は仏陀の教導に対して完全に信じなければならず、それを五個の自円満と呼ぶ。
その他、龍樹菩薩は五個の他円満を説いている。仏の出世と四教法であり、教法は隨行衆に安住し、彼のための慈愛である。これは我々が、仏がいる時代に生まれた事を説いている。我々は仏を見ることはできないが、仏法は残っていて、まだ多くの大徳があり、常に仏法が広められている。仏及びこれら広めた仏法の大徳は、すべて最大の慈愛心によって皆に教えている。我々はよく末法時代であると聞き、釈迦牟尼仏の教導は今から1萬2千年離れている。1萬2千年の後、五十数億年後を待ち、やっと,弥勒菩薩が表れて仏になる。もしも、五十数億年の間、あなたがずっと仏法を聞かないのなら、ただ輪廻し続けるだけである。そしてあなたも1萬2千年の間に、あなたが再び仏法を聞くことができるか保証できない。
現在あなたは、暗世に生まれてはいない。釈迦牟尼仏の教法の時間に生まれている。それを明劫と呼び、殊勝な導師によって円満な教えを得ることができる。例え仏が転生しても、もし仏法を開示しないと利他もできない。故に我々は法輪常転を祈り、多くの祈祷文には七支供養がある。そのうちの一つが、法輪常転を祈祷する。教法を開示したが、教法が住世するのは非常に困難であり、現在教法は変わらずに世間にあり、そのため「安住世間円満」と呼ぶ。教法は残っているが、だれも護持せず、誰も解説せず、誰も仏法を学習しないのは困難である。そのため、ある人が護持し、ある人が仏法を解釈し、「隨順法教円満」と呼ぶ。我々が仏を学び始めてから、家庭のすべての罣礙を捨てることができ、心を静めることで、聞、思、修という更に稀有なことを修め、それを「增上意樂円満」と呼ぶ。
すべてを断ち切るとは、在家衆にとって、この点を実行するのが困難である。しかし、これも良い修行になる。現出家相には良い所がある。出家衆はすべての家庭、事業への関心をすべて断ち切ることができる。在家衆は死ぬまで、これらの心配がある。しかしながら、我々も人身を備えるから、家庭、事業を捨てたからと言って煩悩がなくなることはなく、出家者には出家者の煩悩がある。例えば、自分の仏法を弘める道場があるかないか、説法を聞く信者がいるかどうか、正法を学んで生死解脱ができるかどうか、これらも皆煩悩である。
金剛乗にとって、煩悩とは毒薬ではなく、煩悩は我々に人生の痛苦を理解させ、そして我々に仏法を聞かせ修行する決心をさせる。だから、すべての眷属と事業は事実、我々の道場である。我々は家庭と事業の中で、途切れなく仏法を以って生活し、自己を薫陶し、他人にあなたと仏法を学習するように影響を与えることができる。これこそが、大道場である。家族の道場は毎日の生活であり、仏法を生活の中に取り入れてすべての煩悩や問題に向かい合うことができる。これこそが修行である。ある日、本当に此の世を去らなければならない時、あなたは、自分はすでに多くのことをしてきたので去らなければならないと思うだろう。そして残りたいやまだ懸念があると思わないだろう。
家族でもしも、あなたが仏を学ぶのを反対するのなら、その人を騙してはいけない。正直に話さなければならない。もしも家族があなたを来させないなら、来なくてもよい。家族があなたを来させないのはあなたが改めていないからである。あなたに仏を学ぶ障害となる家族がいるのなら、それはあなたが累世で他人を邪魔してきたからであり、今生ではあなたを邪魔している。もしも、あなたが仏法を以って自己を改め、仏法を生活の中に活かしたならば、あなたの家族はあなたが来ることを喜ぶだろうと信じる。或る人は両親に自分が仏を学んでいることを知らせる勇気がないと言う。なぜ、人は別の宗教ならば公にできるのに、仏教だと隠れなければならないのか?あなた方はどのような心を持っているのか?仏を学ぶのは田舎臭く、カッコが悪いのか?仏を学ぶのはどうして田舎臭いと言うのだろう?あなた方の上師は田舎臭くない!それはあなた方の心が正しくないから、隠れて仏を学ぶのである。
あなた方の心が正しくないというのは、どこが正しくないのだろうか?人に知られないようにこっそりと仏を学ぶ。仏を学ぶことは公明正大なことだし、仏は我々を良い方向に連れて行こうとしている。なぜ、あなたは両親に知られるのを恐れるのか?だからそこに座る若者が、仮に両親が仏を学ぶことに反対するというのなら、それはあなたがまだ孝行をしていないからであり、多くのことをあなたがしていないからであり、あなたが過去に多くのことで両親に不満を抱かせていたことを表し、だからあなたのすべての行為を受け入れることができないのである。現在、他所では多くの正しくない考えがある。例えば、子供に常に出家させて子供に勉強しなくても良いと言う。但し、リンチェンドルジェ・リンポチェはそうではない。あなたが出家できるかどうかはあなたの行為であり、リンチェンドルジェ・リンポチェとは関係がない。
あなた方が今日、仏を学びに来たのは、隠れて来たのであったり、人の知られるのを恐れたり、人に言うことを恐れたりするのなら、あなた方は来なくてもよい。仏を学んで盗人を学び、隠れてすることに何の意味があるだろうか?それは盗人の心である!あなたは何をしに来ているのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に尋ねる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた方に悪事を教えているのか?あなた方に毎日24時間拝むように教えているのか?あなた方に妻を娶ってはいけない、嫁に行ってはいけないと教えているのか?子供を生むことを許していないのか?あなたに仕事をしないで毎日来るように要求しているのか?あなたのすべての金銭をリンチェンドルジェ・リンポチェに差し出すように教えているのか?そうだろうか?すべて違う!それならば、なぜあなた方は仏を学ぶことを隠すのか?友人に言えない、兄弟姉妹に言えない、父母に言えない。もしもリンチェンドルジェ・リンポチェがたった今言ったそれらの問題は全くないのに、あなた方は仏教徒であることを人に知られたくない。それならばたったひとつの問題は、あなたが改めないことであり、あなたは問題児である。
リンチェンドルジェ・リンポチェに問題があるのではない!仮にあなた方が言えないのなら、それはまさかリンチェンドルジェ・リンポチェに問題があるとでも言うのか?リンチェンドルジェ・リンポチェがさきほど尋ねたそれらの問題に対して、あなた方はないと返事した。それでも人にあなたが仏教徒であることを知らせる勇気がない。それでは余りに哀しいことではないだろうか!人は盗人であると、私は盗人です!と言うことができない。あなたは仏を学んでいる。それなのに、人に私は仏を学んでいます!と言えない。これはどういう心境なのだろうか?華西街へ行き抗議することができる。自分のことを話し説明する。そしてあなた方はというと人に仏を学んでいると言えない。真に奇怪である!仏を学ぶことは盗人になる事を学ぶことなのか!
だからあなた方は仏を学ぶ心を改めなければならない。仏を学ぶことであなたが笑われるのを恐れてはいけない。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが仏を学び始めて菜食に改めた時、友人は、「何が菜食か!君は悪いことをたくさんして来たから菜食にしたのだろう!」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェすぐに、「そうだ!私は真に今まで悪事をしてきた。だから菜食にしたのだ。」と答えた。そうだ、リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、たくさんの海鮮を食べたが今はもう食べることはできない!あなた方はこのように言うことはできないだろう。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは言うことができる。自分が悪いと認めることができる。その後、再びリンチェンドルジェ・リンポチェにいう人はいなくなった。けれども、あなた方は自分が悪いと認めることができず、誰もが自分は良いと言うが、仏を学んだので良くなったとは言わない。だから人はあなたが仏を学んで何をしているのか理解することができない。今日あなたはなぜ、仏を学ぶのか?仏を学ぶことで自分が悪い、自分が間違っていることを知り、その悪事と向かい合うことで、人々は自然とあなたが仏を学ぶことを受け入れるのだ。
或る人は菜食にしてから、母親が私を殴り、私を詰った。妻は私に離婚を要求した。なぜなら私が菜食だから。それならば何をすれば男としてよいのか!男になる資格がない!自分が菜食なのは、肉が好きでないから。それで良いのではないか?或る人は魚を食べるのが好きだし、或る人は肉を食べるのが好きである。それも同じ意味であり、なぜ問題があるのか?問題は何処にあるのか?私は間違っている、私は悪い、だから良い物を学んで自分を改め、家庭を変えたいと家族にはっきりと伝えたことがあるのだろうか?あなた方は言う勇気がなく、いつも自分を肯定している。だから人は自然とあなたが仏を学ぶことを受け入れないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が多くの悪事をしたこと、自分が間違っていたことを認めたことで、それからは誰もリンチェンドルジェ・リンポチェに菜食するのは馬鹿者だと言わなくなった。裁判官の前で罪を認めれば刑が軽くなるのに等しい。あなた方は間違いを認めない。だから懺悔がなく、いつも謝るだけである。相手に向かって、ごめんなさい!私は平手であなたを叩いたと言う。つまりこのようである。だからあなた方が仏を学ぶとこんなにも問題がある。
徹底的に他人にあなたがなぜ仏を学ぶのかを理解させなければならない。人があなたに仏を学ばせないのは、あなたが人に高尚だと思わせたいからである。あなたは仏を学ぶので人よりも高尚だと思っている。あなたは人に、あなたは多くの間違った行為があるので学仏があなたの間違った行為を正してくれていると言わなければならない。未来の為に。家庭のために。あなたはただそのように言えばいいのである。家族はきっと、あなたに仏を学ばせるだろう。しかし、あなた方は言う勇気がない。或る人は、姑が彼女を来させないと言う。あなたは姑に、仏が私に良い嫁になるにはどうするかを教えてくれる。だから私は学びに行くと言えば良い。リンチェンドルジェ・リンポチェが私に姑に孝行しなければならないと叱り、私は現在孝行が足りない、だから孝行を学ばなければならないと言うのだ。しかし、あなた方は言わない。だから家族はあなたが仏を学ぶのを止める。これはあなた方の自分の間違いである。仏教を学んでこの様である。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたがたを破門する。外部では、人があなたに、あなたは何処で皈依したのか?と尋ねる。あなたは寶吉祥と答える。人はあなたの徳性を見て、リンチェンドルジェ・リンポチェはなんとひどい人なのだろうと判断するだろう。だから、皆は徹底的に改革しなければならないのだ。
《普賢上師言教経》の中で、もしも、我々が順縁なし善知識の摂受を得ることができず、法性をはっきりと理解できないなら、皈依しても意味はない。だから我々は、必ず善知識の摂受を受け入れなければならない。この五項は我々が他力によって足ることができるもので、拠って五他円満と説いている。
一つの器世界、星体,地球に於いて、成、住、壞、空の過程をたどり、それを一劫と呼ぶ。仏が世に出る劫は明劫と呼び、仏が世に出ない時を暗劫と呼ぶ。仏経の中ではずっと以前の劫は「現喜劫」と呼び、その明劫から現在まですでに4個の明劫と1,400個の暗劫が経過していて、こんなにも長い時間ではあるが、たったの4個の劫に仏がいて、1400個の劫には仏がいない。一劫の時間は非常に長い。成、住、壞、空を経過する。現在の地球は住の末期であり、壞の始まりのところである。どの星もすべてこの過程を経過する。地球の歴史は現在までで五十数億年が経過しているが、一劫は非常に長い。一個の劫の中には仏がいないので、衆生は非常に苦しむ!たったの4個の劫の時に仏が住世し、仏法を説いて衆生を利益した。但し、その中の仏法を聞いた衆生も限られていた。だから、あなた方の一生に於いて、仏法に触れ、一人の上師に出会い、ひとつの道場に出会え、一切如法で仏法を説くと言うのは非常に稀有なことであり、得難い機会なのである。
人口2千1百萬人の台湾において、仏を学ぶ人は非常に多い。但し、道場で一日中叱っていられる上師は、いない!世間では弟子が逃げてしまうのを恐れて叱ることができないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子が多すぎるほどいる。今日、あなた方は因縁によってここへ来た。そして上師に追い払われたりしない。それは過去世において、リンチェンドルジェ・リンポチェは輪廻の中であなた方に借りがあったことを意味している。けれども以降はもう借りはない。なぜなら今生で、リンチェンドルジェ・リンポチェはすでにはっきりと話している。あなた方は機会があったら仏法を聞くが、先ず聞いてみて暇があったらやってみるではたぶん、間に合わないだろう!仏の智慧、神通、見た歴史、あなた方はちょっと考えてご覧なさい。今日あなたがリンチェンドルジェ・リンポチェのこの道場に入るのに、困難だったか?帰ってから仔細に考えてみなさい。真に困難、容易ではなかったはずである!特に、リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に特別である。広告もしなければ、仏教情報も出さない。テレビにも出ないし、人に知られないようにしている。しかし、あなた方は入門したのである。これは過去世で借りがあったということである。今生において、それでもあなたはこの機会を利用しない。そしてリンチェンドルジェ・リンポチェは今生であなた方に借りを返す。未來世ではあなた方は絶対にリンチェンドルジェ・リンポチェを探すことはできない!リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方にこの事をはっきりと告げる。妄言ではない。直貢チェ・ツァン法王が戻ってくる以外において。先ず、伏線を引いておく。なぜなら、直貢チェ・ツァン法王が帰ってくるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェも必ず帰ってくる。もしも、直貢チェ・ツァン法王が帰ってこないならば、リンチェンドルジェ・リンポチェも出て行く。後半部は即ち強調であり、仏法が聞けるというのは、ロトやその他の宝くじで当たる確率よりも更に少ないのだ。非常に難しい!そして容易では無いのだ!
リンチェンドルジェ・リンポチェは、自身を例とする。当初、リンチェンドルジェ・リンポチェは、仮に因縁に拠って台湾に来てなければ、この一生はおそらくなかったろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは二十数歳の時、オーストラリアで宝石を売りお金を稼ぐのに成功していたなら、おそらく台湾には来なかったろう。仏菩薩はリンチェンドルジェ・リンポチェを苦しめ、当時大金をなくした。そしてやむなくリンチェンドルジェ・リンポチェは台湾に来るしかなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは少し変わっていて、過去世で直貢噶舉と非常に深い淵源がある。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが自分で言ったのではなく、直貢チョンツアン法王がドラブ・ワン・リンポチェと共に認めたことであり、だからこのパワーがまっすぐにリンチェンドルジェ・リンポチェを後世に引き連れてきた。しかし、あなた方にはこのような深刻な因縁はない。今生で、あなた方は直貢噶舉教派に因縁が生まれ、寶吉祥仏法センターへ辿り着き、リンチェンドルジェ・リンポチェのような厳格な上師に出会った。皆はこの因縁をしっかりと掴み、軽々しく手放してはならないし、もう学びたくないなどと軽々しく言ってはならない。それは即ち一生の浪費である。仏が言うとおりであるならば、本当に恐ろしいことである。幾兆分の一の機会によって、あなたが仏を学ぶことができるのだから。
我々がいるこの劫には千仏が世に出ている。だから顯教では年越しに千仏を拝む。あなた方の中にも嘗て拝んだ人がいると思う。この劫は賢劫と言い、賢劫が終わると、続いて60個の暗劫があり、一方には明劫がある。現在、釈迦牟尼仏は弥勒菩薩まで教えた後で、その後は60個の劫を待ってやっと仏が現れる。それはずっとずっと先のことであり、真に恐ろしいことである!あなた方は自分のことを、貧乏くじを引いたと考えてはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の過去世でしっかりと修めてきたと言えないが、リンチェンドルジェ・リンポチェの過去世は出家の修行者であり、400年を隔ててやっと再来したがそれは非常に困難なことである。リンチェンドルジェ・リンポチェは、現在多くのことを知り、そして更に恐れる。そして時間が足りないことを恐れる。あなた方が理解しないのは関係ないと思う。関係ないと認識する!更に待ち続けなさい!おそらく60劫待ち、やっと1個の明劫に当たるだろう。それは非常に凄惨なことである。
その時のその明劫は「功德荘厳劫」と言う。その劫が終わると、更に1萬個の暗劫を経てやっと一明劫が巡り来る。それを「美音劫」と呼ぶ。これらのことを知ると、明劫と暗劫は交代で入れ替わる。14,060個の暗劫の中で、仏が世間で説法する明劫は7個を超えない。確率で言うと非常に小さい。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも皆に今すぐに悪を断ち、善を行うことを勧める。しかし、あなた方は聞かない。関係ないと思う。少しばかりの福報を行えば無事に過ごせると思うが、それは不可能である。すぐに悪を絶たなければならないのだ!リンチェンドルジェ・リンポチェは、皈依してからすぐに断酒した。けれども以前はXOブランデーを一本開けるほどで、肝斑が現れたほどだったが皈依してすぐに断った!リンチェンドルジェ・リンポチェは顕教を学んでいた時にはわからなかった。密法を学んでやっと一切の悪は今すぐに絶たなければならないことがわかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは幸いな事に修めることができた。さもなければ間に合わなかったろう!経典で我々に教えている。14,060個の暗劫の中でたったの7個の劫に仏が現れる。けれども仏は現れるが、あなたが仏法を聞けるかどうかは保証されない。なぜならあなたの業力がどのように転じるのか、仏でも知ることができない。なぜならそれはあなたのことだからである。あなたが来世は何なのか誰も知ることができない。今生で何をするかに依る。
だから釈迦牟尼仏が成道した時、衆生には教化が難しいので、仏は仏法を説きたくなかった。仏は元々来たくなかったし、説きたくなかった。なぜなら、全宇宙十方法界中で最も教えるのが困難なのは、地球の人類であるからだ──彼らは頑固で独りよがりであり、調伏は困難である。釈迦牟尼仏は仏眼で見渡し、これらの物には教えないのが良いと考えた。勝手に仏事をしていれば良いし、別の世界へ行ってそれらの比較的過ごしやすい所で過ごせば良い。別の世界はあなた方が考えるように良い世界とは限らない。仏はおそらく最も苦しい世界へ行ったのだろう。だから衆生は最も苦しい時こそ、反対に過ごしやすい。それはちょうどパドマサンバヴァ(蓮花生大師)のようであり、現在享受せずに、羅刹国で国王になった。羅刹は専ら人を喰う鬼であり、或る人が突然この奇怪な病気に罹り、羅刹鬼が彼を食う。蓮師はこれらの衆生にこれ以上悪事をさせないため、人道を助けるため、そこへ行き国王になり、これらの羅刹鬼を管理した。古代の歴史の中で、多くの人がわけも分からず亡くなることがある。それはすべてこれら羅刹鬼がしたことである。だから蓮師はこれらの羅刹鬼を管理する。
釈迦牟尼仏は、元々人類の衆生を教化したいと思わなかった。けれども帝釋天及び大梵天が祈請し、釈迦牟尼仏が法輪を転じ、その時の歴史が残った。このことから、あなた方が仏法を聞く時、必ず祈請する。多くの人がリンチェンドルジェ・リンポチェに会う時よく「私がどんな問題を抱えているのかリンポチェに見てもらいたい」と乞うがリンチェンドルジェ・リンポチェはいつも彼を相手にしない。なぜなら人であるならば、必ず問題はあるものだからである。仏法が特別なのは、必ずあなたが自分で言わなければ始まらない点である。第一に、あなたが言わなければ縁はない。第二に仏菩薩を含むすべての上師は、三昧耶戒に背いてはならない。あなたが口を開いて祈請するのなら、上師、仏菩薩は必ず答え、あなたを助けるだろう。
だから以後、あなた方が人を連れてきて、その人が口を開かず、上師を占い師として扱い、連れてきた友人が再度この問題を尋ねるのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは紹介者を叱るだろう。問題があるのなら直接尋ねなければならない。或る人は恥ずかしがり、リンチェンドルジェ・リンポチェを見て上師に見えないと思い、言いにくいと思う。霊感があるかどうかわからないので試してみる。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつでも霊感がないが、霊感が必要な時には誰よりも霊感が現れるが、霊感が不要な時は誰よりも霊感がない。
仏法を祈請した遺教は、現在まで続いてきた。そして将来に至るまで。リンチェンドルジェ・リンポチェは法会を開いて直貢チェ・ツァン法王に祈請する。今年の法会のように、去年から祈請する。もしも請われないのなら、例え直貢チェ・ツァン法王にこのような考えがあってもできないだろう。なぜならそれは縁がないから。リンチェンドルジェ・リンポチェが祈請し、直貢チェ・ツァン法王の許しを得てリンチェンドルジェ・リンポチェはやっとやり切ることができる。だから必ず祈請しなければならず、もしもあなた方が請わないのなら仏法はない。
諸仏が教える方法の中で、密教の教法は非常に希有である。顯教は比較的易しく文字を追っていけば、あなたも少しは意味を推測することができる。けれども密法は上師の解釈、教えがなければ全く理解することができない。だから、密法は残ることができたわけで、非常に稀有である。また顕教、密教が同時にこの世にあることも稀有である。もしかすると過去仏の教えはすでに失われ、未來仏は未だ来臨してないので教法がないかもしれない。もしかすると、教法は世間から離れたけれども習得した人は非常に少ない。もしかすると、外道教派は非常に多く、正法者衆から離れてしまってかもしれない。以前釈迦牟尼仏が世に出る前、全世界はどこも外道であった。たくさんの異なる種類があり、中国では五千年余り前から鬼を祭ってきた。なぜ今日まで中国人は鬼を祭るのか?それは中国人の民族性であり、商朝から始まり今日までずっと鬼を祭っている。それは外道である。以前、インドも多くの外道があった。
正法であるというのは、即ち聞くことができる、正法を学習することである。しかし、大部分はただ現世の安楽果報を求めているだけである。あなた方は現世の快楽、平安だけを求めていて、生死の解脱という果報を求めない。これは正法とは異なり外道の思想である。リンチェンドルジェ・リンポチェは度々あなた方に思い出せているが、あなた方がもしも絶対に肯定に出世法を修めるなら、世間法には障害もない。あなた方は一途に現世の報い、現世が良いことを祈るが、それでは出世法は修められず、世間法も無理である。簡単に言うと、なぜ仏を学ぶのか?生死を解脱するためである。如何なる良いこと、悪いことが起こっても、心に留めることなく、ただ生死の解脱を肯定し、衆生利益を肯定する。それら冤親債主はあなたの助けるのに間に合わずあなたをそれでも懲らしめるのだろうか?自然と世間法はゆっくりスムーズになる。
しかしながら、もしもあなたが出世法を学ぶのに世間法の心で学ぶのなら、冤親債主は良い所を得ることができず、彼に順番は回らないことを知り、あなたに代わって出世法を修めることはできず、自然あなたの世間法も多くの障害が現れる。あなた方はよく聞きなさい。あなたがお金を持っていても持っていなくても、学歴が高くても高くなくてもそれは仏を学ぶことについて関係なく、また学ばないこととも関係がなく、それは過去世においてあなたが持ってきた事情である。仏を学んだからと言ってもっと良くなるわけではない。リンチェンドルジェ・リンポチェのように修めなくても良いだけである。なぜならすでに如何なるものにも執着しなくなり、縁に従って物事をする。反してあなた方は執着がある。結婚することでも問題は山のようにある。次々と尋ねるが決めることができない、それは即ち執着である。
今日は仏法を聞くことができるが、多くの人は心の持ち方が正しくない。ましてや多くの人は仏が説く仏法の意義を捨て、真の法理を理解することができず偏った教導及びロジック弁論に耽る。この状況に堕ちる人は非常に多い。これはつまり重名相であり、非常に多くの名詞を説き、それはまるで一部の禅を学ぶ人がいつでも多くの理論を説いているかのようだ。けれどもそれらには実修がない。実修とは何か?それは真に仏法を生活のかなで活かし、自己を一切の執着のする心を改める人である。或る教授がテレビで仏法を説き、内容は筋が通っている。けれども境界が目の前に現れると彼はすぐにだめになる。これは即ち彼がただ理論で仏法を推敲していて文字で文字を解釈しているにすぎず、生活の中で仏法を用いて修行していないからである。また仏が説く仏法の意義を体現しておらず、修行の経験を通じて実地のようにあなた方に話す。
多くの人は、名相を聞くのが好きだ。名相とは何か?即ち仏法が学問になる。もしも仏法が一種の学問であるならば、《大蔵経》をあなたは毎日8時間読み、6年経ってもまだ読み終わらない。例え読み終わっても、真の意味を理解することができない。ただページをめくった。ずっと目を通したというだけである。仏法は学問ではない。それは我々の未来を完全に変えるもの、我々の生活方式を教える法門である。あなたは名詞を知ることができる。しかし名相の中で入って出ることを必要としない。多くの人は奥深い仏法名詞を語るのが好きである。仏學辞典は非常に分厚く、中はすべて名相であり、わかるまでにどれだけの時間が必要なのか?非常に難しい。なぜなら数千年間、これらの名詞は仏が語ったものではなく、後代の大徳者が語ったものであり、各宗にはまた異なる名詞がある。多くの人は文章を作るのが好きで、工夫をするが、これは時間の浪費である。
真に仏法を理解するには、あなたの生活の中で徹底して用い、自己の執着心、分別心、妄念を徐々に減らすことで、やっと実修ができる。もしもあなたの執着心、分別心、妄念が重いのなら、《大蔵経》を背負うことができたとしても、それはあなたが仏法を学んだことにならない。現在まで、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経を背負うことができない。或る人は仏経典を背負うことができるのはすごいことである。一セットすべてを背負うことができる。リンチェンドルジェ・リンポチェは背負うことはできないが、仏経典の意義を理解している。
以前の廣欽老和尚、六祖慧能は、どちらも文盲であった。現在。多くの台湾信衆は出家師父が博士であることを望み、博士になってやっと仏法がわかると思っている。これは正しくない。直貢噶舉祖師のティローパ、ナローパ、ミラレパは皆文盲だった。ただマルパは字を知っていた。それではどうするのか?文字はやむをえない時に用いる道具である。真の仏法は心から啓発されて発するものであり、言語はやむを得ない状況の時に用いる道具である。現在台湾の多くは、出家師父は必ず博士まで学んだ人でないと仏法が理解できない、仏学院を学んだ人が、仏法がわかると誤って信じている。この種の考えは間違っているとは言えないが、迷信し、執着してはいけない。彼が言った仏法を見て、生活の中で用いることができると感じられるのか。もしも話した仏法があなたに生活の中で使えないと思うのなら、それは仏法ではない。
仏ははっきりと話している。仏法は世間法から離れていない。釈迦牟尼仏は人であり、仏が言ったことは絶対に人ができることである。人ができないなら、仏は言ったりしない。釈迦牟尼仏は天道の仏経に話したが、世間ではないし、見えてない。なぜなら人はできないからである。だから仏が話したことの全ては法門であり、人は必ず成し遂げることができる。もしもあなたが聞いた後、自分にはただのロジックや弁論に聞こえ、自分にはできないと感じたのなら、それは仏法ではない。いけないというのは、あなたはできないということを言っているのではなく、生活の中で用いることができないという意味である。
それはまるでリンチェンドルジェ・リンポチェが言うところの《仏子行三十七頌》のようである。あなた方は絶対に生活の中で用いることができ、絶対に使うことができる。あなたがもしも、《仏子行三十七頌》を生活中で運用したなら、きっと徐々に良くなるだろう。皆に尋ねる。リンチェンドルジェ・リンポチェが言うところの《仏子行三十七頌》を、あなた方は帰宅してから何回聞いたか?用いることを始めたのは幾つか?《仏子行三十七頌》を用いて修行した人は何人いるか?どのように行うのか?《仏子行三十七頌》が言うところの範囲は、実はそれほど難しくないし、絶対に成し遂げることができる。あなた方ができないのは、しようとしないからである。あなた方はあなた方が理解できない仏法を学びたがっている。その実、仏法は真に簡単である。あなたがはっきりとさせれば、真に簡単なのだ。複雜なのはどの点か?それはあなたの心が複雑なので、問題が途切れることなく起こるのである。
今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが話すのは、ここまでにしておく。仏を学ぶのに、最も大切なのは上師であり、決して道を誤ってはいけない。仏を学ぶ意義を忘れ、名相によって他人に自分が良く修めていると人に見せたがるが、それは間違っている。皆は様々な理由を作って法会に来ないことをしてはならない。今日、或る老人を、リンチェンドルジェ・リンポチェは中に入れなかった。先週、彼は、リンチェンドルジェ・リンポチェに契約に行かなければならないので、仏法を聞きに行くことができないといったのである。
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2013 年 10 月 01 日 更新